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八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月30日(木)13時50分52秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.490[元記事へ]

749 天平宝字元 はたせるかな、陸奥で金が発見されたのである。

大仏拝礼のため八幡大神入京、憑坐(よりまし)の大神杜女が紫の輿に乗って上京し大仏を拝んだ。文武百官を率いた孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后の行幸いしているさなかのことである。

 八幡大神一品 比売神二品 神階を受けた最初の神。一品が与えられているのは、ばくぜんと天皇霊と思われていた。皇祖扱である。

752 天平宝勝4 大仏開眼供養。

754 天平宝勝6 薬師寺の行信と八幡神宮の主神大神多麻呂、禰宜大神杜女が厭魅(呪詛)をなしたとして配流される。反聖武の光明皇太后・藤原仲朝呂に怨念。

755 天平宝勝7 八幡大神は託宣して封戸と田を朝廷に返上す。

 『託宣集』八幡神は宇佐を去り、四国宇和嶺に去り、十数年帰らず。
 比売神は残っていた。

764 天平宝字8 孝謙太上天皇、八幡大神に戸二五烟が与えられた。復権である。

765 天平神護元 称徳天皇天重祚(出家天皇の登場)。
 仏法を守護し尊崇するのは諸神である。神仏習合政治形態の開始

769 神護景雲3 道鏡騒動 太宰府から宇佐八幡宮の神託として、道鏡を皇位に即しめよ。

 和気清麻呂、宇佐八幡宮に赴く。禰宜の辛嶋与曾女が託宣。「君臣定まりぬ。無道の人は掃い除くべし。」 称徳・道鏡の逆鱗にふれ、和気清麻呂は大隅に流された。

770 宝亀元 称徳天皇他界。神仏習合政治消滅。
 光仁即位。井上内親王立后(聖武の娘)。

772 宝亀3 天皇を呪詛したとして井上皇后と他戸皇太子を廃し、幽閉。

777 宝亀8 八幡神出家する。また765年の聖武が埋葬された年月日と同じとの説。
 八幡神は太上天皇御霊とされた。聖武霊のこと。

779 宝亀10 新羅使を最後に途絶える。関係険悪化。

781 天応元 光仁退位。桓武即位。聖武ゆかりに嫌悪感を持つ。八幡神も抹殺を恐れた。しかし、抹殺すれば怨霊神として現れるのを恐れた。
 八幡新社殿を造営、大自在王大菩薩を称した。

783 延暦2 護国霊験威力神通大自在天大菩 と称した。八幡大菩薩の誕生である。

810 弘仁元 新羅船二十艘以上が対馬を窺う。この頃から新羅から渡来・漂着・帰化が激増。新羅国内、飢饉など大いに乱れていた。

815 弘仁6 太宰府解 八幡大菩薩是亦太上天皇御霊也(聖武のこと)聖武の娘の井皇后と他戸皇太子の怨念に悩まされる。これを八幡の祟りとも受け取られた。

820 弘仁11 駿河遠江の新羅人八百人が蜂起、これを契機に受け入れない方針に転換。宇佐宮に大帯姫を祀れとの託宣があった。宗像三女神を比売神として取り込んだ。

823 弘仁14 宇佐八幡境内に大帯姫細殿一宇を新造。この頃には大帯姫は神功皇后のことと理解されていた。

八幡神を護国の神としての位置が確固たるものになった。しかし未だ応神霊ではない。

836 承和3 遣唐使を派遣、神功皇后山陵に国家護持の宣命使が派遣されている。

844 承和11 『弥勒寺建立縁起』に引用された大神朝臣清朝呂解には「右大菩薩御神者、是品太天皇御霊也。磯城島金刺宮御宇天国排開広庭天皇・欽明天皇の御世 於豊前宇佐郡馬城嶺始顕坐」とある。

八幡大菩薩は応神天皇御霊であると記している。このようにこの頃一般化していった。

859 貞観元 八幡神を石清水八幡宮に勧請した。

879 元慶3 頃成立の『住吉大社神代記』には、八幡大神は応神天皇霊とある。

1063 康平6 京都の石清水八幡宮から鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)として勧請。
 
 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊4 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月29日(水)19時54分29秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.489[元記事へ]

724 神亀3 聖武天皇~749 菩薩国家、即ち誰もが仏の道を目指す国造りを目指した。した。八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を守り、放生と云う仏教的手段によって。殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった。

725 神亀4 『承和縁起』小倉山に社殿を建立。宇佐八幡登場。弥勒寺は既にあった。

731 天平3 八幡神は中央政府の神祇官より幣帛を賜ることになった。官幣社となる。

宇佐八幡の誇り高き伝統である「宇佐使」の始まりである。途中で途絶えたこともあったが、今日まで続いている行事である。

御許山の地主神の比売神が、「大菩薩に副い奉りて化道を助け奉らん。(八幡が大菩薩となるのは8世紀末)と託宣した。また新羅との緊張関係の中で、対新羅神として出現したとも考えられる。

736 天平8 比売社殿造営。

737 天平9 対新羅神として奉幣を受ける。八幡神、史書に初出。

740 天平12 藤原広嗣が九州で反乱を起こす。鎮圧のため八幡神に祈祷。

741 天平13 日本最初の神宮寺としての弥勒寺が宇佐八幡の境内に建立された。

743 天平15 聖武天皇、廬舎那仏(大日如来:大仏)発願の詔を発す。

747 天平19 東大寺大仏造営開始。朝廷は八幡神に大仏造律祈願をさせた。八幡神は、「神吾、天神地祇を率しいざないて、成し奉つて事立て有らず。銅の湯を水となすがごとくならん。我が身を草木土に交えて、障へる事無く成さん。」と云う有名な託宣を発した。

日本の神々のトップに躍り出た。香春岳から採れる銅と精錬技術を背景に支援できるとの読みがあった。仏教に帰依の先頭を切っているとの自負、仏法擁護に大きく踏み出した。

748 天平20 大仏途金の金が途絶え、使者を唐に派遣して入手しようとした。使者は出発し宇佐八幡宮に立ち寄り、往還の平安を祈っていた時、託宣があった。「求むる所の黄金は、将にこの国土から出づべし。使いを唐に遣わすなかれ。」と言うものであった。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊3 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月28日(火)08時15分34秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.488[元記事へ]

702 大宝2 薩摩の隼人の反乱

703 大宝3 『続日本紀』宇佐国造家の出身の僧法蓮が医術によって賞された。一族を宇佐君に。宇佐の復活。

708 和銅元 大隅宮に社殿が建立され、祭神は石体宮から遷った

712 和銅5 『託宣集』 鷹居社の造立。大神比義と辛島乙目による。新しい神の創造と思われる。辛島氏の祖神は五十猛神。大神氏の祖神は大物主神。この二神の融合。後に小山田社に遷座した。

713 和銅6 日向国からわけて大隅国できる

714 和銅7 隼人の教導のため、豊前国から200戸、5000人を移住させる。豊国郷や大分郷を設置している。移住の主体は辛島氏配下の在地性が薄い渡来人でだった。韓国宇豆峰神社「五十猛神」を建立している。神体山は霧島山の北の韓国岳と推定している。当然の事ながら隼人の土地を奪って移住したので隼人の反発は大きかった。

716 霊亀2 鷹居社から小山田社に遷座。

719 養老3 大隅隼人の大がかりな反乱が始まる。

720 養老4 「日本紀」完成。隼人、大隅国守を殺害。大伴旅人を大将軍として鎮圧、大がかりな反乱としては最後になった。

 反乱は豊前から移住者が行って六年後のこと、当然宇佐からも救援のために兵士が出た。かれらは小山田社の神を奉じて参戦した。連隊旗をはためかして進軍する姿を見た歌人でもある大伴旅人はこの神をヤハタと呼んだのであろう。八幡大神の降臨である。また、福永光司氏によれば、唐の軍隊の制度の「八幡・四鉾」に由来すると云う。鎮圧軍は韓国宇豆峰神社に集結し、気勢を上げた。

『託宣集』の「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。」神の移動は、宇豆高島=辛国城=霧島峰 からとなっている。大隅に降臨し、霧島山(高千穂峰)を神体山とした神である。『託宣集』は別の所で、辛国の城を日州辛国城・隅州辛国城と記している。

『今昔物語』平安末期 「八幡大菩薩は最初は大隅国に現れ、次ぎに宇佐宮に遷り、ついに石清水八幡宮に跡を垂れた。」とある。

大隅宮は元々は隼人の祖神を祀る高さ四尺の磐座であった。戦いが済んだ後、社殿に八幡大神を遷し祀ったのであろう。従って大隅正八幡と呼ばれた。

『託宣集』の「大隅宮縁起」に、年号はないが以下の説話が採録されている。

陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。

九州での八幡大神は蛮夷の鎮圧の神として権威は高まった。

征討が終わると宇佐八幡神は託宣を下し、多くの殺生を行ったので、罪障に苦しんでいる、、放生会を修して罪障を消滅してほしいと云った。

もともと、香春で鋳造した銅鏡を宇佐八幡に奉上するのが放生会の本来であった。途中に和間浜によるようになり、生物を解き放ったので放生会と呼ばれるようになった。

大隅では西に辛國息長大姫大目命、採銅所があり、東に宇佐八幡宮が鎮座。

豊前げは東に韓国宇豆峰神社と銅田地名、西に正八幡が鎮座となった。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月26日(日)11時03分37秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  527 継体21 九州の豪族磐井が反乱、鎮圧された。宇佐氏も荷担したので衰退。

562 欽明23 韓半島の大加羅が滅亡。多くの亡命者が宇佐地方にも移住して来た。

6世紀後半 宇佐氏の後に大和から大神氏が入植。辛嶋氏を服属させた。

571 欽明32 『承和縁起』840年頃 神が宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国胆吹嶺(宇陀郡伊福 大神地名)、紀伊国名草海島(名草郡)、吉備宮神島に遷り、宇佐郡馬城嶺に顕現。その後比志方荒城磯辺に遷り、さらに泉社、郡瀬社、鷹居社と遷った。ここで大神はあらぶる神となり、鷹と化し、5人行けば3人殺す。治まってから小山田社に遷った。

571 欽明32 『宇佐託宣集』1313年古記録・託宣を選修。  天童と現れ言わまく。「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。釈迦菩提の化身なり。」と。神の移動経路 宇豆高島=辛国城=霧島山 大和国胆吹嶺 紀伊国名草浜 吉備宮神嶋 云々。

『託宣集』の「大隅宮(正八幡、鹿児島神宮)縁起」年不明 以下の伝承がある。陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。

587 用明2 用明天皇の病気を治すために、豊国法師を内裏に入れた。

608 推古16 随の裴世清、筑紫の東に秦王国ありと報告。新羅系渡来集団が居住。

620 推古28 「天皇記」「国記」編纂。

645 皇極4 乙巳の変 大化の改新。

661 斉明7 斉明天皇、百済救援のため、北九州へ遠征。斉明死去。

662 天智2 白村江の戦いで大敗。
唐・新羅連合軍との戦いであるが、宇佐の地名も神名も記載がない。香椎宮や神功皇后の名も出てこない。天皇紀国記は既に編纂されていたが、記載がなかったのだろうか。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月25日(土)20時29分33秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   宇佐神宮の神体山である御許山(大元山)に東面する三個の石体と泉がある。

原初の宇佐の神は水分神であり農業神であったと思われる。

紀神代一書 三女神の市杵嶋姫命、湍津姫命、田霧姫命を宇佐嶋に降臨。

神武東征途中宇佐に寄る。そこには菟狹國造祖の菟狹津彦と娘の菟狹津媛がおり、媛を中臣氏之遠祖天種子命に娶した。

垂仁二年 大加羅国から来た童女を国東半島の東の姫島の比売語曽神として祀った。

豊前風土記 昔、新羅の国の神が自分で海を渡って来着いて、この河原に住んだ。名づけて香春の神という。郷の北に山がある。第一の嶺には黄楊樹(つげ)がある。第二の峰には銅と黄楊、第三の峰には龍骨がある。(実際は第三の峰に銅が多かった。採銅所があり、国内の半分の生産量であった。) 香春神社の祭神は辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命である。

古墳時代 宇佐の地は古墳の密集地。前期は宇佐氏の古墳と思われる。

4世紀末前半 赤塚古墳 5個の三角縁神獣鏡出土 畿内と同氾鏡。ヤマト王権と関連がある。

5世紀末後半 姓氏録、雄略天皇不予により、豊国奇巫(きふ)を召上げた。仏教関係か不明。

5世紀末 辛島氏、筑紫から東へ進出し、宇佐に入り、留まる。
 

孝坪神社

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月21日(火)13時05分34秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   和歌山市和田に孝坪神社が鎮座しています。

 鎮座のいきさつや祭神のことなど、ご存じの方がおられましたら、教えて下さい。

 ご参考までに
http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/111039593a77d45b02be25a3c92ad078
 

隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月12日(日)16時09分49秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。

 小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
 隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。
 

全国遺跡報告総覧

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月11日(土)17時01分1秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  全国遺跡報告総覧
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?detail=true&include_file=exclude
 

桓武の焚書

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月 9日(木)13時32分20秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  北畠親房『神皇正統記』「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開(ひらけ)て後、すさのをの尊 韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。」
 

Re: 出雲弁は古代インド語

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月 9日(木)13時31分29秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.481[元記事へ]

鳩摩羅童子さんへのお返事です。

 投稿ありがとうございます。言語音痴なので、よくわかりません。
 

出雲弁は古代インド語

 投稿者:鳩摩羅童子  投稿日:2017年 3月 7日(火)16時40分45秒 KD118158045231.ppp-bb.dion.ne.jp
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  「東北弁、島根弁は、100% 古代インド弁です。」
これは、平成の常識として良いと思います。

cf. シュメール系メガネで日本語を見た。 痕跡例 --- URL 参照
(古代インド弁 とは = サンスクリット語 + タミル語。 約 2000 単語検証済。)

この常識を広めて欲しい。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html#Izumo

 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月19日(日)21時00分32秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  G 七支刀

 「考古学は記紀を裏切らない」と云われる。巻向遺跡の発掘などが典型的な例である。七支刀は出土品ではなく、古来より石上神宮に伝世されてきた神宝である。ものは刀と云うよりは槍である。『日本書紀』神功五十二年九月(372)に、百済王から七枝刀・七子鏡などが贈られたとの記事がある。七子鏡はボストンの美術館にあると云う。


H 宇佐宮の大帯姫廟神社

  弘仁十四年(823)大帯姫の細殿が建立された。平安初期に八幡大神を応神天皇としたので、大帯姫を神功皇后とした。おそれく香椎廟からの勧請と思われる。


3. 神功皇后の実在について

朝鮮出兵や河内での応神天皇の擁立にの裏には、神功皇后のような女傑がいて、多くの伝承や多くの伝承地を残してきたと思えてならない。


参考文献 塚口義信『神功皇后伝説の研究』、『ヤマト王権の謎をとく』
     前田晴人『卑弥呼と古代天皇』
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月17日(金)09時34分38秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  F 『住吉大社神代記』蜜事

 是(ここに)神、天皇に謂(の)りて曰はく、「汝王(いましみこと)、かくの如く信(う)けたまはずは、必ず其の国を得じ。唯今、皇后懐姙(はらま)せる子(みこ)。盖し得ることあらんか。」 この夜に天皇忽に病發(やみおこ)りて以て崩(かむ)さりましぬ。ここに皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。)
 秘め事は天皇が死んだ後のことだから不倫ではなく、御子を懐妊した後なので、御子は仲哀天皇の皇子ということである。
 しかし、世間の口には戸は立てらぬもの。香椎宮のお隣の筥崎宮の神託に次のようなものがある。延喜二十一年 誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。
 神と神妻(巫女)の聖婚の物語と解すべきであり、誉田別命は神の子と思われていた。
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月16日(木)09時56分16秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  E 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。『古事記』には以下の通り。

皇后は皇太子を禊のために角鹿の伊奢沙和気大神(イザサワケノオホカミ)の命(ミコト)のもとにやった。大神が皇子と名を交換したいとの申し入れがあった。翌朝、浜にでると入鹿魚(イルカ)が打ち上げられていた。そこで大神を御食津大神と命名した。ケの神である。今、気比大神と云う。
皇子が禊ぎをする必要があったのは、麑坂忍熊両王を殺したゆえと考えられている。しかし、それならば皇后も禊ぎをすべきである。何故、皇子だけに命じたのか。皇子は仲哀九年(神功ゼロ年)の誕生、敦賀行きは神功十三年、皇子は十三才、元服の年齢である。成人儀礼と考えるべきだろう。
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月15日(水)20時14分52秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  D 麑坂忍熊両王の反逆

 両皇子の母親は大中比売命、この人は景行天皇の孫とされる。一方の応神天皇の母は神功皇后で、父親は開化天皇の五世孫、母方は天日矛命の系統。出自は大中比売命が良い。
ただし、大中比売命は景行天皇とその玄孫(伽具漏比売命)との間の子の子とされている。玄孫(四世孫)を一八才でつないでも適齢期には九十才の年の差があり、ウソっぽい系図にはなるが、麑坂・忍熊両皇子は誉田別皇子よりは仲哀天皇率いる政権の正当な後継者との認識が残っており、>誉田別皇子を神に指名された後継者との立場を強調する説話となっている。
Uga近江宇宙有名地(平二四年七月)参照。
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月14日(火)14時43分19秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  C 皇后の御子出産伝承

 海の母神と御子神の伝承は世界各地にあり、日本では豊玉姫と鵜芽葺不合命の異常出産譚が有名である。住吉神社の最古とされる対馬の祭神はまさにこの母子神である。海藻のように若々しく生命に満ちている神である。
 神功皇后も懐妊中に渡韓、石による出産の引き延ばしなど、異常な出産の物語がある。
 大帯姫(オオタラシヒメ)と息長氏の娘(オキナガヒメ)が習合して、オキナガタラシヒメとなった。これは舒明天皇(オキナガタラシヒヒロヌカのすめらみこと)以降天武天皇の頃までが息長氏の全盛期で、この頃に息長氏が伝承を膨らませてきたものと思われる。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:初心者  投稿日:2017年 2月13日(月)11時24分44秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.474[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。神様の話は奥が深く、勉強になります。

>  多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。
そうですね。ヤマトタケルや桃太郎が実在かと言われたら悩みます。

>  万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。

タラシヒメ関連の万葉集歌番号と中西進講談社文庫による原文表記と現代語訳を書いておきます。
813序文は息長足日女命(現代語訳表記同じ)、本文は多良志比咩可尾能弥許等「足日女 神の命」
869本文多良志比賣可尾能美許等「帯日売神の命」
3685本文多良思比賣「足姫」
中西氏が、すべての現代語訳の表記を異なるものにした理由と、他の研究者の訳については、調べる余裕がありません。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月12日(日)11時03分20秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.472[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

> 神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。

 神社伝承ではなく、景行天皇は大足彦忍代別ですから、彦姫の名前からです。

 オオタラシヒメは神様ですから、現在でも神様です。時代を越えていると思います。

 半島にクスノキはあるのですが、日本のように大きくはならないようです。スサノヲさんの船を造るのは云々の神話も日本製のお話かもしれません。

 多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。

 万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。



B 皇后、新羅を征伐し、三韓を服従させる。

 高句麗好太王(391-412)の碑(414)の前文に「倭が渡海して新羅を破り、百済と共に臣民とした。」とある。倭の半島進出は史実と思われる。
 『宋書 倭王武の上表文』(478) 昔より祖禰先自ら甲冑を着て山川を渡り、休むこともなく、東は毛人五十五国を征す。西は州夷六十六国を服し、渡って海北九十五国を平定した。とある。この海北は朝鮮半島の事で、やはり倭の半島進出は歴史的事実である。
 史実として、遠い昔、倭国が大和を中心として国内平定を行い、さらに半島へ兵を出し、一時は支配していた王権の記憶があった。四道将軍・ヤマトタケル・神功皇后らの伝承であろうか。

 

甲冑の推移

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月11日(土)20時26分4秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   豊中歴史同好会での講義は山口大学の田中晋作先生でした。
 関心を呼んだの時代別の甲冑の分布図のお話でした。
 古墳時代前期後半の分布
    〃  中期        古市百舌鳥古墳時代
    〃  後期前半     継体朝時代

 甲冑の特徴としては、前期後半は方形板革綴単甲。
 中期のは着ると動きがぎこちなくなる固いもの、金帯式
 後期前半のものはがさがさとなっており、動きやすくなっているようです。挂甲。

 時代によって、中央を支持する勢力に変動が見えるが、中には継続している勢力がある。例えば、奈良県の高取町など。

図は前期後半、中期、後期前半 の分布図です。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:初心者  投稿日:2017年 2月10日(金)10時02分46秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.471[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

> 香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。
初心者丸出しで申し訳ありません。
記紀や香椎宮では夫とされているタラシナカツヒコの祖父の時代がオオタラシヒメの時代なのでしょうか?

神社伝承で思い当たることは、神功皇后のクスノキの話です。
神功皇后は、三韓征伐時にクスノキを持ちかえったとありますが、朝鮮半島にクスノキはありません。
どこか南に行って持ち帰った(熊襲?)か、神功皇后とは全く関係ないクスノキであるかです。
 

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