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継体天皇7

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月14日(水)15時24分33秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  7.継体天皇の外交
朝鮮半島は、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅、半島南部に伽耶と呼ばれる小国群があった。高句麗は強大で南へ領土を拡大しようとし、この動きに圧迫された百済と新羅もまた南下しようとし、当然に伽耶と衝突することになる。倭国は四世『紀』末頃から百済や伽耶と友好関係を維持していた。これらの国々から倭国は援軍を出してくれる同盟国と期待されており、見返りに王族を人質として預かったり、貴重な財や文化在や五教博士を受け入れていた。
百済が隣接していた伽耶の4県の割譲を希望し、継体朝の実力者である大伴金村大連はそれを認めた。匂大兄皇子は反対したが、勅が出されてしまっており、止めることはできなかった。これは匂大兄皇子が綴喜宮におり、大和の宮にいた継体天皇が大連などと相談して決定したということだろう。要するに宮を淀川沿いに転々とするのは『紀』が宮と呼ぶ前線基地だったと思われる。急ぎの用事は前線で処理し、重要案件は天皇に届ける仕組みだったと思われる。天皇は即位後、直ちに大和入りし、皇子の匂大兄皇子か檜隈高田皇子を基地に駐在させていたということ。
継体十二年に基地を綴喜宮に置いたのは、半島や九州より日本海側の様子が緊迫してきたことによる可能性がある。
百済と伽耶との間に領土争いがあり、百済よりの判断が続いたようだ。穂積臣押山は尾治連の娘の子である。継体天皇の妃の目子媛も尾張連の出であり、親戚にあたり、即位以前からの知り合いだったのだろう。穂積臣押山の判断と答申が半島での混乱と伽耶諸国の離反を招いたと思われる。
伽耶諸県は倭王朝が頼りにならないと新羅に走る県が出たりしてきた。
半島の国々は互いに接しており、お互い油断も隙ももてない緊張状態の中で暮らしており、海に囲まれた倭国とは感覚が違うようだ。彼らは生き馬の目を抜く気持ちで外交をしており、隙があれば裏切ることも多い。現在も同じであり、半島の国にへたな妥協をするとますますつけあがってくる。
新羅の侵略を防ぐため近江毛野臣を安羅に派遣したが、任務を果たせず、帰国の際、対馬で病没した。近江の豪族であり、継体天皇とは知己だったのだろう。
継体天皇は外交関係者にお友達を起用して失敗したのである。所詮、田舎豪族出身か。

 
 
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