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継体天皇8

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月16日(金)14時00分57秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  8.磐井の乱
継体の即位への抵抗勢力が大和国内にもあったとされている。古代には普通天皇候補が複数おり、なかなか満場一致ということはなかっただろうし、不思議なことではない。それがゆえに大和入りが遅れた云々はなかろう。必要があり、慣れ親しんだ淀川流域に軍事拠点を構えたのである。それは朝鮮と西国政策の実行に便利であったと言うことである。
大和での抵抗勢力は葛城氏と言われる。大和川は利用しにくい。葛城氏は未だ亡びていなかったのである。ここに登場してきたのが蘇我稲目。計数に明るいとされた蘇我氏は政権内部で官僚的豪族として頭角を現してきており、落ち目ではあるが名門の葛城氏の娘を娶り、大いに箔を付けた。稲目は葛城氏の力を吸い取ってしまったのであろう。大和内の抵抗勢力の一角が崩れたことになる。
西国の抵抗勢力の雄が筑紫君磐井である。兵員動員の件なども非協力的であり、半島政策の遂行にも障害になってきていた。継体天皇は晩年にさしかかり、また気心のわかっている物部麁鹿火大連と大伴金村大連も元気な内に次の時代への憂いを取り除いておこうと決意し、磐井討伐の命令を出した。
『筑後国風土記』(逸文)俄にして官軍動発し、襲はんと欲するの間、勢、勝たざるを知り とある。奇襲攻撃を仕掛けたようである。
『紀』では、天皇は物部麁鹿火大連に 「筑紫より西はお前が統治し賞罰も思いのままに行え、いちいち報告することはない。」と言ったとある。しかし、磐井が亡びた後、息子の葛子が糟屋の屯倉を差し出しだており、これを物部氏が手に入れたとは書かれていない。安閑天皇の時代にも九州に多くのの屯倉を設置している。皇室直轄である。
『紀』の物部にまかせると言う文章は『紀』編纂局の作文かも知れない。
森田克行氏は、「磐井が亡びた後、朝鮮半島に築かれてきた前方後円墳の造営が止まったとされる。これは磐井サイドも半島と外交関係を持っており、滅亡によって朝廷に一元化されたと見ることができる。」とされる。*3
半島政策は失敗し、息子の欽明天皇の時代に任那の利権を失うことになる。

 
 
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