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蘇我氏5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 8月23日(水)11時46分36秒 ah227158.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  593 敏達天皇と炊屋姫の皇子の嫡流である竹田皇子はまだ幼く、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)を推す反蘇我派の声を押しつぶし、馬子は蘇我腹の豊御食炊屋姫を推古天皇として擁立した。
600 遣隋使の最大の目的は任那地域の倭の統治権を隋に認めさせること。
601 聖徳太子は飛鳥では蘇我の力が強すぎる また 皇族が一網打尽にされる恐れがあると考え、別処にもう一つの皇族の拠点が必要と考えた。それが斑鳩である。蘇我氏としては目障りな存在であったろう。
 飛鳥と斑鳩を直線で結ぶ太子用の道が斜めに施設された。太子の権勢がよくわかる。
(余談)
斑鳩は東に20度傾いた都市計画になっており、若草伽藍も傾いている。
20度という角度は正月を迎える真夜中にシリウス星が真南から東に傾いた向きと一致している。シリウス星は古代ペルシャの「ミトラ教」という宗教が信仰の対象にした星です。
聖徳太子をモデルとした法隆寺(夢殿)の救世観音菩薩立像の身長が180cmで、日本人離れをしており、遠く、砂漠と海を越えて渡来した人物とする説もある。また寺院建立でまねかれたペルシャ人と穴穂部間人皇女との間に何かあったのかも知れない。(余終)
604 十七条の憲法をつくる。
605 聖徳太子、斑鳩宮に移る。
612 馬子と推古、お互いを称える歌を詠む。蘇我、馬なら日向、太刀なら呉の真刀に例えられるほど優れている。蘇我氏はいつの間にか馬と鉄の利権をつかんでいた。
618 隋滅亡、唐興る。
620 蘇我馬子と協議して「天皇記」、「国記」などを選録する。
622 聖徳太子没する。譲位の習慣がない時代、推古天皇は長生きをしすぎて、皇位を譲るべき欽明の孫の世代がいなくなった。聖徳太子には王子8人、王女6人がおり、将来は大勢力になる
624 馬子、推古天皇に葛城県をねだったが拒否された。
626 馬子、死去。桃原墓を墓所とする。これを石舞台古墳とする説がある。前述。
628 推古、病臥する。田村皇子、山背大兄皇子をよび、遺訓を与える。

嗣位(ひつぎのくらい)をめぐって、推古天臭の遺詔を群臣が協議。推古は山背大兄皇子に自重を求めている。
 田村皇子(舒明天皇) 父親は敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子、母親は敏達天皇の皇女の糠手姫皇女、嫡流である。
 山背大兄皇子の父親は聖徳太子で用明天皇の皇子、しかし蘇我腹であり、傍流である。
 画期の継体朝以降は、天皇の皇子で母は皇女である皇子が皇位につくのが慣例となりつつあった。嫡流という。一方、母が皇女でない皇子は傍流という。嫡流に適材がいない場合に皇位につくことがある。

 皇位をめぐって、推古天臭の遺詔を群臣が蝦夷の私邸で協議。遺詔は田村皇子。蝦夷、山背大兄皇子を推す蘇我氏の長老の境部臣摩理勢を殺し、田村皇子を擁立する。蘇我氏内部の談合で決められた。一族の結束を乱した者を許さない姿勢である。

629 舒明天皇、飛鳥寺の南側の継続的な王宮として飛鳥岡本宮を造営した。飛鳥の都市空間創造は蘇我氏の願いであった。
632 山背兄大王は唐の使節・高表仁といさかいを起こす。これがもとで舒明後にも皇位につけなかった。
636 飛鳥岡本宮、火災により全焼。
 舒明天皇、百済川のほとりに 西に百済大宮 東に百済大寺の建立開始。蘇我の勢力圏から離れたい。
641 舒明死去でこの構想はつぶれた。
642 舒明の大后であった宝皇女が皇極天皇として皇位につく。入鹿、国政の権をにきり、父以上の勢いをもつ。山背兄大王の次の世代は未だ成人していなかったので、宝皇女がリリーフにたった。飛鳥岡本宮の跡地に飛鳥板葺宮を造営した。
 
 
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