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戌の話2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 7日(日)13時56分36秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  2.丹生都比売神社と空海
『丹生祝氏本系帳』から。
応神天皇のときに、丹生明神と高野明神に、紀伊国の黒犬一伴、阿波遅国三原郡の白犬一伴が献上された。美濃国より蔵吉人と別牟毛津と云う人の児犬黒比と云う人を犬飼として差遣わした。その子孫は代々天野に住み狩猟を職としていた。
 応神天皇のときに、二柱の神に寄進された山地四至は、東は丹生川上を限り、南は阿帝川の南横峯を限り、西は応神山(紀の川市穴伏)及び星川神勾を限り、北は吉野川を限る地域であった。

応神天皇の時、天野祝が出てくるが、おそらく丹生神一柱が祭神だったと思う。

 丹生都比売神社があまねく知られるようになったのは、高野山金剛峯寺との関係が出来た以降のこと。高野山と丹生神との関係を物語る最古の文献は平安前期の『金剛峯寺建立修行縁起』である。
弘仁7(816)年春、弘法大師空海が霊場を求めて大和国宇智郡まで来たとき、一人の猟師に出会った。それは弓箭を持った大男で、南山の犬飼と称し、霊場の建設に協力することを述べ、大小二匹の黒犬に案内させた。そして紀伊と大和の国境のあたりの川辺で宿泊すると、一人の山民があらわれ、大師は山へ導かれた。その山民こそ山の王、丹生明神で、天野の宮の神であった。大師はこの宮で一宿し、巫祝に託宣をしてもらったところ、丹生明神は自らの神領喜んで献ずると約束したので、大師は6月中旬に朝廷に願い出て許され、さっそく草庵を建てた。以来、丹生明神は高野山の地主神として篤く信仰されるようになったという。縁起は以上。

 弘仁7(816)年、空海は嵯峨天皇に、高野山の地を賜りたい、と上表文を提出した。そこでは「紀伊の国の平原の幽地、高野山こそ、もっとも修禅の道場にかなった地である。」ということを述べ、そして「若かりし時、山林修行の折りに、この高野の地に足を踏み入れたことがある」と述懐している。

高野・熊野の紀伊山地、「異界」であり、里の農耕民とは、異質な人々つまり、修験者や鉱山師、狩人。木地師、鍛冶師など「山の民」と呼ばれる人々の領域であった。
 彼らの中では、大和朝廷に追われて山に入った、まつろわぬ民の血を引く人々もいたようである。空海自身佐伯氏出であり、かつての佐伯はまつろわぬ氏であった。空海はそういった人々と自然に仲間に入って行けた。山の民との緊密なつながりを裏付ける、根拠のひとつに、彼の豊富で正確な地質学的知識が挙げられる。金属資源の豊富な高野山に目をつけていた。

 
 
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