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古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月18日(木)12時55分27秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  6.国譲り

 『出雲国風土記
』意宇郡母理の郷に、「私がお造りして領有して治める國は、皇御孫命が無事に世々お治めになる所としてお譲りしよう。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍を置き賜うてお守りしよう。だから文理という。」とある。国を譲っても、出雲だけは譲らなかったということである。

 『古事記』では、「先ず葦原中国は我が御子の知らすべき国だが、道速振(ちはやふ)る荒振る国つ神等の多なりと以為(おも)ほす。」と大国主神以下を悪神としている。
 『古事記』の国譲りでは、建御雷之男神と天鳥船神の二柱の神が、出雲国の伊那佐の小浜で剱をつきたてて、大国主神に国譲りを迫る所から始まる。
『日本書記』では、経津主神に武甕槌神を副えて国譲りを迫っている。

 御子神の事代主神と建御名方神も最終的に同意して、国譲りが行われるが、大国主神は自分の住みかとして壮大な神殿を造営することと引き替えに国を譲ることに同意する。

 8世紀から朝廷で出雲国造が就任の際に神賀詞を奏上することになるが、その中で。「高御魂の命の、皇御孫の命に天下大八嶋国を事避(さ)しまつりし時に、出雲臣らが遠つ祖天穂日命を国軆見(くにがたみ)に遣はしし時」とあり、『記・紀』とは違う伝承が語られている。

 国譲りが出雲で行われたのに、天孫降臨の地が日向になっているのはおかしいとの意見があるが、神代の昔に出雲の国譲りが行われた訳ではなく、古墳時代初期の出来事だからそれでいいのである。

 『日本神話のなりたち』吉田敦彦著 フランスの比較神話学者デュメジルは、古代ローマやゲルマンの伝説、インド神話などに、三段階の構成を持った重要な神話が含まれていると指摘している。
 1.天の神族と地の神族との間に争いが起こり、地の神々が持ち前の富や性の魅力などで天の神の一部を腐敗させて、天の神々にダメージを与えた。
 2.天の神の指導者が、敵の力を麻痺させる無敵の武器を投げて、形勢を逆転した。
 3.そのあとで両者は和解をし、地の神々は天の神々の主権を認め、また天の神々は地の神々を同格とし仲間の神として認める。

 大國主に媚びた天穂日や、下照姫を娶った天若日子、高皇産霊神が天若日子を矢を投げて殺し、次に二柱の武神を地の神の下に送り、国を譲らせて、そのかわりに大國主神のために立派な神殿を建造すると言う物語は、上記の三段階の構成と完全に一致する。これは創作の物語であることの証明と言える。

 『日本書記』崇神六十年、出雲振根が管理していた天日照命(天穂日命の御子)が天上から持ってきた神宝を、弟の飯入根が留守中に朝廷に献上してしまったので、振根が成敗した所、朝廷から吉備津彦と武渟河命が派遣され、振根を殺したという話が載っている。これが出雲が王権に屈服した最初の記事である。河内国石川郡の美具ク留御玉神社の創建譚に見えるが、『崇神紀』の六十年丹波の氷香戸辺の歌に「出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡」とあるように神宝は鏡であった。
 大國主の神宝ではなく、飯入根は祖先の天穂日の宝を差し出して、大国主の神宝を守ったのである。

 作家の井沢元彦氏は銅鐸を古代には振根(振れば音がする)と称していたのではないかとの仮説を述べておられるが、それなら飯入根は入れ子になっている銅鐸のことかもしれない。

 出雲振根の誅殺という事件が起こり、王権に忠実な出雲臣の指導者に替わったので、神門臣らが大国主神の神宝を隠しておこうと言うことになり、加茂岩倉や神庭荒神谷に埋納したのであろう。これが伝承として、『風土記』に、「大原郡神原の郷 天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給う場所である。」と記載されたのだろう。

 
 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月18日(木)12時50分15秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.305[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

> 出雲ついでに
> 建御名方の科野への敗走の背景は何なのでしょうか?

出雲国風土記には建御名方の気配がありません。
また、式内社では、出雲郡の鳥屋神社[トリヤ]の祭神が建御名方とされています。
また、出雲神社の後裔社として、諏訪神社の可能性がありそうです。
杵築神社(出雲大社)の関連の式内社に建御名方の気配はなさそうです。

母神とされる奴奈川媛命は出雲には見えず、越後ですから、建御名方は越後で育ってから品のに乗り込んでいったというのが、本来の物語ではないでしょうか。
 

神武東征の謎

 投稿者:とみた  投稿日:2016年 8月18日(木)11時52分12秒 124-144-223-141.rev.home.ne.jp
返信・引用 編集済
  2010年九州大学の岩永省三教授が発表された論文を
引用します。
弥生時代における首長墓の成長と墳丘墓の発達と称する論文の中から抜粋します。



弥生時代後期後葉から終末期における鏡・鉄製武器・玉類などの入手元とその副葬習俗の発信地を北部九州と見る説(寺沢
2000)が根強いが、この時期の副葬実態から見れば、近畿北部・北陸を主と考えた方が良い。

ほかにも、古墳時代におけ
る碧玉製腕飾類、遡っては芝ケ原12号墳の銅釧の祖形たる南海産巻貝製腕輪類(ゴホウラ・イモガイ・オオツタノハ)の系譜
は、中期の北部九州製品でなく、この時期の南部九州→東部九州経由の製品に求めるべきであり、日向における終末期
の円形墳丘墓の盛行は、東瀬戸内集団と日向灘沿岸部集団との密接な関係の物証である。


私は、神武東征を暗示しているような気がしています。

神武が日向からでて、東瀬戸内を経由して畿内に入る.
神武天皇を瀬戸内海の道案内するのは、椎根津彦(日本書紀、古事記では珍彦=渦彦=宇豆彦)。
難所の豊予海峡や明石海峡を通過するときのガイド役をする。各地の海の民は海上運送で中継したり交易したりする。



京都府城陽市・芝ヶ原12号墳は、弥生時代の後期後半ー終末期に、実に1350余の玉を副葬している玉の流通拠点です。水上運送で稼いだ首長の墓のようです。玉には、翡翠の勾玉、カリガラスなどです。

日向(薩摩と大隅を含む)から瀬戸内を経由し淀川支流の芝ヶ原に達し、北陸からは翡翠や碧玉の玉を芝ヶ原に入れて、交易する訳です。芝ヶ原は東西の玉流通の交点と言えそうです。


淀川の支流である木津川の流域の芝ヶ原近くに下主水遺跡があり、これは弥生終末期の水運の船着場でした。
玉類はここで止まっており、ヤマト盆地までは流通していませんでした。
芝ヶ原や北陸には近江系土器があり、古の近江商人?が交易の仲介をしていたのかもしれません。近江は銅鐸が多いので青銅器の工人がいたのでしょうか。

玉類の流通網はこの段階ではヤマト政権は掌握していませんでした。ですから終末期のホケノ山以降古墳時代の前方後円墳には玉類が入りません。

桜井茶臼山の段階になって翡翠性勾玉や石製腕輪類が副葬されます。
この段階は、加賀の片山津あたりで石製腕輪類づくりをさせ、出雲で玉のブランドを作らせてヤマト王権は輸入して威信財として配ります。


 

建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月17日(水)20時12分34秒 202-226-245-210.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  出雲ついでに
建御名方の科野への敗走の背景は何なのでしょうか?

諏訪大社の鎮座地の諏訪は
島津藩の祖・忠久の
最初の知行地でした。
その関係で
薩摩藩には多数の諏訪神社が鎮座しています。

☆国分市郊外に鎮座する諏訪神社

http://yorihime3.net/

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月17日(水)15時45分11秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  5.大国主神
 大国主は、古代人が思い描いた地域の指導者の理想像であろう。大国主の子孫と称する人が世襲的に神門郡におり、神門氏を名乗っていた。(富氏とも言うか。)
 大国主を権威付ける要素はいくつかある。
根の国からの権威付け 根の国に坐す須佐能男の娘を娶り、かつ激励を受けた。
常世国から、少名毘古那神が国作りに協力するため来訪した。
八千矛神と称される武力で八十神を追い払い、高志の国を制圧した。
素兎を助けた大穴牟遅神はその後に伯耆の手間山で八十神に殺されるが、御祖神の働きで生き返る。これは成人儀礼である。
(注)少名毘古那神は産霊神の御子神で産霊神の手のすきまから落ちたということで、手間天神とも呼ばれる。

 スクナヒコナは蛾もしくは小鳥の衣服をまとって登場したが、飛び上がってオオナムチの頬をかむなど、飛ぶ小動物のイメージである。
 スクナヒコナが去った後に来たのが大物主、オオナムチの幸魂・奇魂であり、遊離魂であった。この事からスクナヒコナもオオナムチの遊離魂であった可能性がある。遊離婚が小鳥や兎の姿をとっていたのであろう。助けられた素兎が遊離魂となって恩返しに現れたのかも知れない。


メキシコ アステカの兎・の神 第二の自我 (遊離魂)

 

Re: 古代出雲

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月16日(火)23時05分13秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.302[元記事へ]

あれ間違ってボタン押したみたい。
参考図です。
 

Re: 古代出雲

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月16日(火)23時01分25秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.300[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

参考図1 松江市佐太神社周辺 縄文海進4m
古浦砂丘遺跡コウラ、島根半島の最古の稲作の可能性あり。
人骨に青銅のヘアバンド?をしていた可能性あり。
堀部第一遺跡はその人々の農耕のできる内陸部へ移動と推定。
佐多講武貝塚は縄文BC4000あたりの貝塚。

持論
初期開拓者の漂着が端緒の遺跡とみます。BC500頃以降かな(半島経由の戦争避難民、環境避難民)。
もし、青銅ヘアバンドなら中国の戦乱からの貴族級かもしれない。
いまのところ山陰沿岸では最も東での漂着、これ以上流されたら助からないと思います(^^;
(類似漂着者とみる土井ヶ浜は山口県下関市ではるか西)

佐多神社の創始はこれらの人々の農耕開始によると考えています(狭田とみる)。島根最古の社ではないか。
縄文貝塚が隣接、縄文系との接触(抗争?)もあったかもしれない。
宍道湖を渡って南に出雲熊野大社、おそらくは・・佐多神社方面から少し遅れて進出した人々の関連じゃないか。

参考図2 サヒメ伝承
やはり大田市付近への初期開拓者の漂着が起源とみます。

こちらに遺跡はありませんが、1775年の神職が役所に差し出した文書が残っています。
「往古に天より三つの瓶降れり。その一は一宮の神秘佐比賣山の神なり。二の瓶は三瓶山の麓の浮沼池に沈み納まり、
三瓶は三瓶谷八面大明神社脇の東の土中に埋もれり・・」
なんか隕石落下のような雰囲気も(^^;

ま、佐比賣山神社の現在は銀山一辺倒のようですが、これとは違う縁起をもっていたとみえます。
地形的に大田市沿岸に漂着した半島(経由?)の人々が三瓶山周辺で畑作をはじめた様子がみえます。
沿岸部に迩弊姫神社があり、三瓶山麓に迩弊姫の祠がある。
現在の祭神は?埴夜須毘賣神のようですが、土にからみそう。
原型は三瓶に対して二瓶であったのかも、瓶とは穀物の種を入れた壺か?

no

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月16日(火)08時47分46秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4.荒神谷遺跡から出土した銅剣。

下が西、上が東の方角。西から①34本、②111本、③120本、④93本と並んでいた。計358本。この数が『出雲国風土記』に記載の神社数に近い所からいろいろな組み合わせが提案されている。
①  34本は神門郡 37社に対応。
② 111本は出雲郡 122社に対応。
③ 120本は、大原29 飯石21 仁多10 意宇67本 計127本に対応。
④  93本は 楯縫28 秋鹿26 島根59 計113本に対応。
 銅剣の埋納が300年、風土記700年として400年間での神社の数は微増となる。人口があまり変わっていないと思われるので、神社数も変わらないと思われる。
この提案は、銅剣の並び順と郡の並び順とが対応しており、決定的な案だと思っている。

 荒神谷から3.5km離れた加茂岩倉遺跡から銅鐸が39基出土。銅鐸は墳墓や古墳からは出土していないことは、個人の所有物ではなく、集団の持ち物の証であるが、この39基の数は何だろうか。集団から考えると、「郡」の持ち物ではなかったか。
 出雲国には9郡があり、出雲郡は素尊水道の南側に飛び地がある。郡に4基、飛び地に3基、合わせて39基となる。
出土物の数にはそれなりの意味があるのだろう。

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月15日(月)16時49分52秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3. 神庭荒神谷遺跡
 『出雲国風土記』大原郡神原の郷
 天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給う場所である。
 この遺跡からは古墳時代の須恵器が出ており、早くても古墳時代の書記の時期、即ち出雲が大和王権に服従した時に当たる頃に神宝を隠匿したものと思われる。

 元諏訪神社の東南側に加茂岩倉遺跡があり、その間に大黒山があり、兵主神社が鎮座している。日矛集団も神財をねらっている構図である。これは、大和の大神神社(三輪明神)と大和神社の間に穴師座兵主神社が鎮座しており、国津神の集団の間に楔が打ち込まれたように見える。
 荒神谷を取り囲むように建御名方神を祭神とする神社が鎮座しているが、全てが古代からのものではなかろう。平安・鎌倉時代の建立のものもあろうが、出雲の人々は大神の神財を意識的にもまた無意識にもそのような行動がとられたものと思われる。

佐支多神社「健御名方命、八坂戸賣命」斐川町大字荘原 風土記記載社 南に御射山あり
波迦神社「神倭健尊、健部臣古禰尊 合 健御名方神」 斐川町大字三絡 風土記記載社
波知神社 「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 建御名方命」斐川町大字三絡 式社 風土記記載
諏訪神社 斐川町学頭  諏訪神社 斐川町神庭  諏訪神社 宍道町佐佐布
地元の福島一夫氏の「女首長に後事を託す」を参考にした。

 

Re: 縄文犬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月15日(月)13時12分52秒 116-94-26-32.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.298[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> >以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。
>
> おっと、失礼しました。犬を見落としています(^^;

どういたしまして。
多方面でご教示頂いて恐縮しております。

>
> 遺跡と神社などをカシミール3Dという地図アプリにプロットしています。
> 詳細情報があれば別途に記録。とてもとても全国には至っていません。

以前は全国各地の山々を彷徨っていましたから
これには即、、お世話になっています。


> 地形図をなーんとなくながめると、なにかが見えてくること少なからずです。

>
> 普通の地図ではなにもみえませんが、地形図のみで縄文海進の頃の水面を表示すると・・

追いかけている「天智天皇伝承」がまさにそれ。
現在は、海岸線から数キロの内陸に鎮座する神社のご祭神が、、
海神やお船に関連しています。
古代は、その辺りが海岸線、もしくは入り江。。
船を利用した形跡が。。

> 串間の福島川は近世?に大規模治水してますね。南の微高地側(沖積地)に川が這い上がってる。

そうですね。油津辺りは、灌漑時、古墳を調査したようですよ。
寅さんの撮影もあったそうで。。
吾平津姫神社。


> 余談
> プロットに手間がかかる原因のひとつが、緯度経度情報を書いていないものが多いからです。
> (古い情報ですと地名が変わっていて探せないこともあります)
> グーグル地図にでもプロットして位置表示してくれればよいだけなのに。

田舎の方はなかなかです。
神社や史跡の大半は未掲載。
ミレニアムの頃から、旧バージョンで、数種作成しています。

http://yorihime3.net/

 

Re: 縄文犬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月15日(月)11時10分50秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  >以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。

おっと、失礼しました。犬を見落としています(^^;

遺跡と神社などをカシミール3Dという地図アプリにプロットしています。
詳細情報があれば別途に記録。とてもとても全国には至っていません。
柊原貝塚遺跡は位置プロットすらしておらず、今井よりさんのご紹介で位置だけプロットしたところです。
種子島の丸木船も南九州関係の投稿がなければ知らないままだったはず(^^;

地形図をなーんとなくながめると、なにかが見えてくること少なからずです。
例えば
参考図1 串間市 国土地理院1/4万
参考図2 串間市 国土地理院10mメッシュ地形図
薄い青は縄文海進時代に海であっただろう標高部分です(オリジナル設定)
(穀璧出土地は仮プロット)

普通の地図ではなにもみえませんが、地形図のみで縄文海進の頃の水面を表示すると・・
串間の福島川は近世?に大規模治水してますね。南の微高地側(沖積地)に川が這い上がってる。
南の微高地一帯に灌漑用水を供給するための治水によるものと思います。

太古?の串間には大きな入江があり、周囲の火山灰の流出あるいは福島川の運ぶ土砂で入江が閉塞されて内陸部に沼沢が形成されていた状況が見えます。
水鳥の楽園かなあ、弥生あたりではそこは水田の適地になったはず。
早々に陸化していた微高地部分には弥生集落? 掘ればなにか出るか?(^^;

余談
プロットに手間がかかる原因のひとつが、緯度経度情報を書いていないものが多いからです。
(古い情報ですと地名が変わっていて探せないこともあります)
グーグル地図にでもプロットして位置表示してくれればよいだけなのに。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月14日(日)13時01分2秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   50 弥生後期
    荒神谷遺跡の青銅器が作られる。
 57 奴国が後漢に通交。
    吉野ケ里遺跡栄える。
    広島県北部で、四隅突出型墳墓が発生。
106 倭国王帥升、後漢に朝貢す。
178-184 倭国大乱
    出雲では意宇郡の出雲臣が出雲西部を統一、神門臣が東部を統一。
    銅生産で富を得る。(自然銅が露出多い。)
    出雲に四隅突出型墳墓が広まる。
    卑弥呼 倭女王に共立される。
    全国で四隅突出型墳墓がつくられる 福井県石川県に四隅突出型墳墓。
    福井県石川県から玉造り技術が伝わる。

200 弥生後期
239 卑弥呼、魏に遣使
    出雲に高地性集落が造られる。
    山陰に畿内系土器が流入する。
    山陰の土器が全国各地に広がる。出雲が出雲臣に統一される。
    最古の古墳 纏向石塚古墳出現。
    大型古墳 箸墓古墳。
   国譲り
    出雲に大和の勢力が侵入、出雲臣が服従する。
    加茂岩倉遺跡・神庭荒神谷遺跡の青銅器が埋められる。須恵器が発見されている。

300 古墳時代前期
    古墳が出雲に出現する 加茂町神原神社古墳。
    出雲東部に全国最大級の大型方墳が営まれる。
    意宇郡(安来市)の造山一号墳三号墳 大成古墳。
    山間部に前方後方墳。
    四隅突出型墳墓がつくられなくなる
    前方後方墳 出雲全部で三十三基 日本一。

400 古墳時代中期
    出雲に前方後円墳が造られる 出雲市大寺古墳。

500 古墳時代後期
    出雲最大級の古墳が東西に造られる。

600 飛鳥時代
659 出雲国造 命により 厳神之宮を造る。
    斉明天皇が物言わぬ孫の建皇子を偲んで出雲大社の修厳を命じた。

712 奈良時代
    『古事記』
716 出雲国造 果安、朝廷で 神賀詞を奏上する。
720 『日本書記』
733 『出雲国風土記』成る
 

Re: 縄文犬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月14日(日)03時48分48秒 202-226-243-160.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。


> ならば、南九州での縄文犬の骨はでているのだろうか。
> アカホヤで壊滅であるならば沖縄からか北九州からの再入国か。

以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。


鹿児島県下では御承知のように
噴火時の火砕流らで消滅しているのが
大半ですが、垂水市の柊原貝塚遺跡では
人骨と犬の骨が
発掘されています。


○柊原貝塚遺跡

> No.273[元記事へ]


目下ページは作成準備中のようですが

一応次にPDFがあります。

http://www.city.tarumizu.lg.jp/kunugibaru/kurashi/kosodate/gakko/kunugibaru/koku/documents/h24_05kouhou_tarumizu.pdf


○柊原遺跡(埋蔵文化財報告書)

http://www.jomon-no-mori.jp/sensikodai/401.pdf


○鹿児島県・埋蔵文化財センター 検索システム

http://www.jomon-no-mori.jp/kmai_public/


○垂水市文化財からのご回答


 柊原貝塚からは6体の人骨が出土しています。
①頭蓋骨・下顎骨の一部・歯のみの出土。歯の状態から壮年で、
 男性と思われるも詳細は不明。
②ほぼ全身が出土。推定身長160cmの熟年男性。
 上下顎の4本の犬歯が抜歯。
③ほぼ全身が出土。推定身長149.5cmの壮年女性。
 上顎左右の犬歯が抜歯。
④ほぼ全身が出土。推定身長161.0cmの青年男性。
 抜歯はされていない。
⑤かろうじて人骨と判明できる程度の状態で、詳細不明。
⑥頭骨のみ出土。壮年女性。抜歯はされていない。

 いずれも縄文時代の人骨であることから、渡来人の可能性は
低いと考えられます。

 これらの人骨につきましては、本市に収蔵する施設が無い
ことから、現在は県の埋蔵文化財センターへ収蔵していただいて
おります。

 また、いずれも副葬品は伴っておりません。



> 弥生において犬を使うのに優れた人々がいた国、すなわち狗奴国・・大隅隼人か。
>

平家物語にも登場する、宮崎県高原町に鎮座する
霧島東神社(霧島六所権現の東御在所、西御在所は霧島神宮)
の本殿の両側に社殿があります。
詳細は、

神社探訪==>>宮崎県・高原町==>>霧島東神社


尚、人骨らに関しては、諸機関で検証され
データーが公開されてますが、私には難しくて。。
ネットでもPDFが幾つかヒットしました。

お役に立てば幸いです。

http://yorihime3.net/

 

縄文犬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月13日(土)21時13分44秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  倭人伝の鳥奴国、海鵜(鵜飼いの使う鵜)がたくさんいる一帯とみましたが、狗奴国は・・
狗は犬でよいと思います。
WEBからの情報だけですけれど、発掘されている縄文犬は東南アジア系の犬種のようです。
沖縄と北海道に残り、弥生犬は中国系で本州などそれ以外の地域。

北海道に東南アジア系の犬・・南方系縄文文化の北上で広まったとしか考えられません。
礼文島の船泊遺跡登場の過程での伝播か。
ただし、北海道では縄文犬は大事にされていたようですが、続縄文時代になると食糧にされていた痕跡(^^;

沖縄ではイノシシ猟や鳥猟に使っていたらしい。
弓で鳥を射て犬が持ってくるのかな。
佐賀県東名貝塚からは縄文早期の犬の骨、BC5000頃。アカホヤ火山灰におおよそ同じ年代。
火山灰から生き延びた人々の犬の骨か。

ならば、南九州での縄文犬の骨はでているのだろうか。
アカホヤで壊滅であるならば沖縄からか北九州からの再入国か。

犬養部の登場は安閑531-534あたりの説があるようですが、遅くとも雄略あたりに遡るのではなかろうか。
狩猟の影が薄れたとき、犬を扱うのに優れた人々が「警護」の仕事につくのは自然だと思います。
弥生において犬を使うのに優れた人々がいた国、すなわち狗奴国・・大隅隼人か。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 伊和神社と銅と鉄

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月13日(土)20時32分26秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  とみたさんへのお返事です。

>6月に姫路から鳥取に特急で行って、この地が理解できた。

播磨の日本海側と瀬戸内側を結ぶ弥生回廊があった・・のではないか。
瀬戸内側で加古川、日本海側で円山川と由良川、中国山地を縦断し、低山の分水嶺で接続する。
この川沿いに兵主神社が並んでいます。
参考図1 播磨の兵主神社と銅鐸

現在の兵主神社はみな穏健な出雲系祭神ですが、本来は瑯邪八主(戦国~秦、山東半島、斉)の兵主を出雲が祀ったと考えています。
(伝説の黄帝と戦って敗れたという軍神蚩尤シユウ)
兵主の名も消してその痕跡がみえなくなった社も少なくないだろうと思っています。
(銅鐸出土はそこに祭祀場があったのではなく、「銅鐸を隠蔽した場所」がほとんどだと考えています)


以下ちょいとおつきあいくださいませ(^^;
弥生回廊は卑弥呼の侵攻に対する出雲の防衛線でもあり、「戦勝祈願の社」として兵主神社がおかれた。
青谷上寺地遺跡は紀元前後頃に大発達し、古墳時代に入って消滅する遺跡です。
持論に重ねれば(^^; 大国主命の子の鳥鳴海神後裔たちの集落、卑弥呼軍の攻撃で壊滅した。
(大量の人骨と大量の殺傷痕跡)
だが、卑弥呼軍は播磨回廊の防衛線は突破できなかった。

若狭の彦坐王系譜の集落は無傷となり、後の日本海系氏族の主力となる。
(卑弥呼海軍も明石-淡路ー和歌山の防衛線で撃退され、そこで開化が紀州熊野から決死の奈良突入・・)

葦原色許男、播磨国風土記で天日槍(天日矛)と戦ったとされる(むろん大国主の別名ではない)。
天日槍は崇神時代(248-273)に亡命渡来した新羅の王族とみています。
参考図2 新羅王統図(AD250頃、13代、14代で王位継承に混乱が見える)

天日槍は脱解の系譜でしょう。脱解は神武の兄弟とされる稲氷命とみています(新撰姓氏録)。
崇神はそれを宝物で確認し、抵抗する出雲の残存勢力の制圧に送り出した。
崇神は奈良周辺で手一杯、猫の手も借りたいといったところですね(^^;

弥生~古墳の過渡期での播磨、そんな状況を考えています。
なんかでないかなあ、面白そうな出土品が・・

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月13日(土)11時08分55秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2. 年表
ー300 弥生前期  弥生文化が北九州から日本海づたいに伝わる
     日本海沿いに渡来系人のムラが形成される。
ー100 弥生中期 瀬戸内海方面との交流が進む
     Ⅱ式銅鐸(外縁付紐式)が製作される 荒神谷・加茂岩倉遺跡。
     出雲型銅剣が製作される 荒神谷遺跡。


 50 弥生後期
    荒神谷遺跡の青銅器が作られる。
 57 奴国が後漢に通交。
    吉野ケ里遺跡栄える。
    広島県北部で、四隅突出型墳墓が発生。
106 倭国王帥升、後漢に朝貢す。
178-184 倭国大乱
    出雲では意宇郡の出雲臣が出雲西部を統一、神門臣が東部を統一。
    銅生産で富を得る。(自然銅が露出多い。)
    出雲に四隅突出型墳墓が広まる。
    卑弥呼 倭女王に共立される。
    全国で四隅突出型墳墓がつくられる 福井県石川県に四隅突出型墳墓。
    福井県石川県から玉造り技術が伝わる。



古代出雲の文化 -銅剣・銅鐸と巨大建造物-

上田 正昭 編
 

Re: 隼人の神話

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月13日(土)05時10分40秒 110-54-107-44.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.288[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

古代ロマンの話題
ありがとうございます。
参考になります。

目下のフィールドは地元探訪です。
「貝の道」や「遺物・土器の伝播」で
繋がりを埋蔵文化財報告書に求めて
閲覧する位が関の山です。


地元の神社のご祭神に「天智天皇」関連が
多いので謎解きの探訪を続けています。。。
天智天皇伝承などは、「続日本紀」にも記載されてますので
その辺りを史実との整合性を。。
平安時代の日記類を読んでいます。
貴重品は現在とは格段の差があるようで興味深いところです。
中右記、小右記、関白記 等。。

それ以前ですとさっぱりです。

☆神武や日本武尊伝承のある「若尊神社」
縄文時代の噴火口の縁に鎮座


☆日本武尊と熊襲の酒宴の地「拍子橋」
ここで退治したとありますが、、、

http://yorihime3.net/

 

1.古墳時代以前の地形

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月12日(金)17時10分42秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  画像  

1.古墳時代以前の地形

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月12日(金)17時08分42秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   宍道湖が素尊水道の状態で、斐伊川の土砂が積もって湖となったのは、平安時代以降のことと思われる。

『日本神話の考古学』森浩一
 

Re: 隼人の神話

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月11日(木)20時53分53秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.286[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>辛島の末裔太神の杜女は

流罪、宮崎がその時代に僻地となっていることを示していますね。
藤原氏の台頭と平行して「闇の世界」が登場か(^^; そこにうごめく欲望と権力抗争。
続日本紀でようやく史書の成立といったところか。
ロマンがなくなって、私的にはあまり興味がなくなる時代ですけど。


さて、神武、掘れないです(^^;
情報が記紀程度しかない。社伝も記紀に準ずる場合がほとんどだと思います。
血縁、文化、地理などの状況から可能性を探ってみるほかなし。
以下敬称略。血縁中心で毎度長文失礼。

瓊々杵と天火明は天之忍穂耳と栲幡千千姫の子とされ、栲幡千千姫は高木神の娘という。
高木神を高皇産霊尊とみるなら栲幡千千姫は九州の人物ではなく、呉楚七国の乱(BC154)からの脱出組のひとりとみる。
瓊々杵と天火明はまだ「生粋の渡来者」。

天火明は大山祇神の娘(ほぼ縄文、おそらく阿蘇)の木花開耶姫を妃とする、
素戔鳴の子の八島士奴美はその姉の木花知流姫を妃に、やはり阿蘇でしょう。どちらもBC130頃か。

北九州から大量の戦死者の骨がでる時代です。
天之忍穂耳系+アマテラス(縄文+初期開拓者)と素戔鳴系の戦いとみています。
平野部では素戔鳴勝利、阿蘇山麓で戦闘中。
阿蘇は出雲と天孫の接点、木花開耶姫と木花知流姫が姉妹ともされるわけです。
八岐大蛇や岩戸隠れ神話の場所と考えています。

瓊々杵の妃は吾田鹿葦津姫、おそらくは西海岸の海人に近い娘。熊本までは素戔鳴も進出していない。
ここで書紀は瓊々杵と天火明の一本化。
したがってその子らの状況は記紀からはちとやっかい。

古事記で火照、火須勢理、火遠理(天津日高日子穗穗手見)が誕生。
書紀では火闌降、彦火火出見、火明などが誕生。
記述に混乱がみえますが、隼人との関連がでてきそうです。
ここに海幸山幸神話の源があるとして、持論では、呉楚七国の乱から1~2世代下るとしてBC130頃としています。
(2000~2300年前の津波痕跡に一致する)

産屋の風習は各地にあって、しばらくは周囲とは接触せず、出産すれば小屋は壊してしまう。
破棄するときに燃やすこともあるでしょうけど、出産中に燃やすなんてありえない(^^;
「火」の文字は桜島の噴火の意ではないかとみています。
燃える小屋から飛び出す、なんてのはそれを含めたお話としての粉飾だと思います。

彦穂々出見は天火明の系譜、とみています(穂の文字を使う)。山幸でもあります。
宮崎県椎葉村の焼畑は列島最後の焼畑文化だと思いますが、少なくとも狩猟が焼畑はやらない。
火照、火須勢理たちが隼人と関係あるかもしれない、
ただし血縁は隼人族に天孫が流れ込むのであって、その逆とはいいにくい。

彦穂々出見の妃が豊玉姫。
ここで東岸の陸と西岸の海が結合、だが文化風習の違いから離婚。
産屋が完成しないうちに出産、あるかなあ(^^;
文化風習の違いによるなんらかのトラブルがあったのだろうとみておきます。

生まれた鵜草葺不合は豊玉姫の妹の玉依姫に育てられて後に玉依姫を妃とする。
年齢的にちと疑問のあるところですが、海人との関係が濃厚になった、とみておくだけでよいと思います。
鵜の文字をそのまま受け取るなら、神武紀の「此れ即ち阿太の養鵜部の始祖」の鵜だと思います。
むろん神武紀では畿内のごとくに書いてますが、阿太=瓊々杵の妃の吾田あるいは神武の妃の妹の阿多でしょう。
(これをヒントに倭人伝の鳥奴国は薩摩半島付近と推定)

そして神武誕生。
海人の血が半分であって隼人の血はほとんど流れていません。
しかし育った環境はほとんど隼人、神武の持つ文化や風習、加えて言語もほとんど隼人だと思います。

その妃は吾平津姫、阿多小椅君の妹とあるので位置的にも隼人でしょう。
その子は手研耳と岐須耳。神武が北九州へ向かうときの隼人部隊の隊長かな。

神武には「我は天之忍穂耳の子孫なり」の強い意識があったとみています。
子につけた「耳」の名です。
五島列島や後の倭人伝にも登場するミミ。

話が飛びまして、伎楽面の呉公や呉女の耳。
http://www.emuseum.jp/detail/100769/000/000%3Fmode%3Ddetail%26d_lang%3Dja%26s_lang%3Dja%26class%3D12%26title%3D%26c_e%3D%26region%3D%26era%3D%26century%3D%26cptype%3D2%26owner%3D1%26pos%3D65%26num%3D7

飛鳥奈良あたりでの「呉」の人物の特徴を表しているとみています。
耳のでかいのはお釈迦様もおなじく、そういう氏族がいたのだと思います。
耳たぶの大きいことを福耳といいますが、高貴(お金持ち)につながる同様の意識だと思います。
天之忍穂耳から数世代を経た神武の耳が大きかったかどうかはなんともいえませんけど。

そして北九州へやってきた神武はカルチャーショックを受ける。
敵とだけ考えていた出雲に接触して、あららのらっ(^^;
媛踏鞴五十鈴媛を妃として生まれるのが渟名川耳(綏靖)と八井耳。
やっぱり耳ですね。

しかし綏靖以降では神武朝と隼人族との関係は悪化したはず。
渟名川耳による手研耳の殺害。文化風習の違いに因ありとみますが、継承者争いもあるでしょう。
卑弥呼時代となって狗奴国との関係は最悪に。

さて、倭人伝に書かれる倭国に「なになに奴国」が多数登場します。
これは神武が鹿児島から北上する際に制圧あるいは属国とした九州西岸地域の国名だと考えています。
参考図(ちと古いので修正を要しますけど)

魏志倭人伝に登場する奴国はふたつあります。ひとつは地理的に北九州。
もうひとつは位置不明、それが鹿児島だとみています。
後漢書に書かれる「倭国の極南界」です。
倭人伝は、この国を以て女王国の境界、と書く。
神武の後漢への使者はこちらを本国として後漢に伝えたのだと考えています。


神武(佐野、狭野、若三毛沼)の兄弟とされるのが三毛野(三毛沼)、五瀬、稲氷(稲飯)。
名の類似から神武と三毛野は兄弟だろうと考えています、三毛野が兄。
三毛野は御・ケ・野(沼)とみてます。ケは食の意、野と合わせて田畑ですね。
(沼なら水田か、種子島の浦田神社の伝承、鵜草葺不合が白米を播いたにつながるところ、記紀にはない話)
その弟の神武にはもっと狭い田畑で狭野、負けるもんかやったるで-(^^;

稲氷、神武東征説話では海に入って鋤持の神となる。少なくとも戦死ではないのでしょう。
こちらは海人の母を強調していますから神武の兄弟ではなく、瓊々杵系の後裔の海人と考えています。
新撰姓氏録では新羅の脱解とする。
神武東征説話であるなら、その戦闘海域は紀ノ川の沿岸か河内沿岸でしょう。
この位置から新羅へ渡航は考えにくく、新撰姓氏録の記事は信じがたしとなる。

だが、持論では(^^; 稲氷の戦ったのは北九州の海であって稲氷が脱解である可能性はきわめて高いとみています。
神武の戦った出雲は北九州だけではなく、半島南岸の伽耶諸国も含むはずだからです。
稲氷は半島南岸を攻撃し、新羅沿岸に達した。脱解登場時の描写は三国遺事にあります。
脱解即位AD57、倭国と国交樹立AD59/新羅本紀。持論神武時代と一致。
ロマンかなあ(^^;

神武朝(神武 36- 66-懿徳 92-105)以降では倭国争乱となって、南九州の情報は倭人伝の狗奴国以外わからなくなる。
北九州でも語り部の継承すらできなくなっていたと考えています。吉野ヶ里など大集落の伝承も消えてゆくわけです。
(寒冷化による飢饉などでの倭国の崩壊、AD250以降)。
古墳時代で南九州は僻地化していったと考えていますが、これは太平洋岸全般にいえると思います。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

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