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Re: 10年前のログ

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月22日(月)20時29分12秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.317[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

出の山の神社 でしょうか。お父上とご一緒の。
 
 

10年前のログ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)15時36分31秒 202-226-242-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  ちょっとマイページを見直していたら
06年10月30日に「霧島六所権現巡拝」の時の「泉長媛」がヒットして
ここのログが出てきました。
懐かしい。。
あの頃は、史資料も揃ってなくて図書館通いでした。
あれから精査も余り捗っていないのは残念ですが、、

また、のんびり巡拝したいものです。

http://yorihime3.net/

 

Re: 奄美の「あいのこ」

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)13時02分6秒 202-226-242-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.315[元記事へ]

琉球松さんへのお返事です。

>  奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
>  これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。

> 画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」

船の写真ありがとうございます。
小学校の登校路には川(新川・天降川)があって渡し舟でした。
当時渡し銭は5円でした。橋を渡ると3倍以上の周り道なのです。
往路は、良く遅刻しそうになるので重宝してました。
川船ですから、底も平だったように記憶してます。

http://yorihime3.net/

 

奄美の「あいのこ」

 投稿者:琉球松  投稿日:2016年 8月22日(月)09時28分40秒 ai126184025183.15.access-internet.ne.jp
返信・引用 編集済
   奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
 これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。
 見た目にはサバニとよく似ていますが、和船の安定性とサバニの直進走行性能がうまく合体されています。

 ちなみに、近隣の喜界島や沖永良部&与論は沖縄糸満や久高島漁師の影響が強いと言われ、サバニが利用されてきました。名称についてはジャワ島などの「サンバニャン(船の意味)」や、「鯖船」など諸説あります。

画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」
 

和船 復活へ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月21日(日)07時11分0秒 114-142-123-114.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  先日、隼人の船で話題沸騰でしたが、、
今朝、「播磨船」の復活のドキュメントを見ました。

初夏、種子島や奄美の和船の船大工特集を。

あちこちで継承が進んでいるのは嬉しい限りです。

月が欠けてきました。

http://yorihime3.net/

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月19日(金)16時14分57秒 110-54-24-250.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。

早速のご教示ありがとうございます。

>
> >此伊勢津彦と云は建御名方神の亦名にて
> >即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
> >事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
> >傳への誤なるべし。
>
> 本居宣長さんの見当違いと(^^; ほぼ正しい、の複合だと思います。
> いつ、どこで、だれが、なにをしたか、これを混濁して記紀(付随して風土記)を解釈していることに原因ありと思います。

もう少し解釈を読んでみます。


>
> 南九州に建御名方あるいは諏訪社がある不思議、私もなぜ?の疑問を持っていました。
> 韓国宇豆峯神社にからむ可能性はありますが、南九州でのその登場はずっと近世の事象とみております。
> 島津氏の登場にからむ、荘園時代~鎌倉時代。
> 島津氏には信濃島津氏があります。

吾妻鏡 巻七

文治3年 丁未(1187)
8月8日 丙子


に記載があります。

神代と異なり、この時代なら史資料があるから
助かります。


また、当地の「島津家文書」にも
尚、私の頁をご参照ください。

http://yorihime3.net/mado/shimazu_suwa.html




>
> 持論
> 建御名方はいつの時代の人物か・・大国主の子であると仮定すればAD30頃。
> なにゆえ諏訪へいったのか、ほぼ追放(^^;
> 大国主の穏健政策(神武への国譲り)に反対して徹底抗戦しようとしたから。
>
> 出雲の神在月に建御名方はやってこない。諏訪をでることを禁じられていたから、追放者だから。
> 建御名方はどこにいたのか。周防と推定しています。
> スハ、州波が原型であり、諏訪の地名はここからきていると考えています。

追放者でしょうね。

其の後、隼人や蝦夷も朝廷と抗戦し
多数配流されていますが
激しく抗戦した首領は、見せしめの公開処刑を。

その点、建御名方は救われてますね。

ご多忙の処ありがとうございます。

http://yorihime3.net/

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月19日(金)16時09分23秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。


 、『播磨国風土記』揖保郡条によの伊勢野の話 山麓に神社を建て、「山上の峰にいる伊和大神の御子である伊勢都比古の命と伊勢都比売とを祀った。」との記事があります。伊和大神とは伊和神社の神で、延喜式では、伊和坐大名持御魂神社と言う名の神社で、これは伊和狼と大名持御魂神とは同じ神と言っていることになり。伊勢都比古と出雲建子神が同じ神ということで、建御名方神と等しいように取れます。
 ただ、伊勢国の伊勢津彦は「大風四起,扇舉波瀾.光曜如日,」の状態で伊勢を去っており、この姿には、日神・風神の姿が浮かびます。
 信濃の建御名方神に、日神のイメージよりは蛇神のイメージに思えます。

 いつも思うのですが、名前の大きく違う神々を同じ神だと見なすのは、野次馬的には面白いのですが、信仰されておられる方々には迷惑な話かもしれません。

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月19日(金)15時46分38秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>薩摩藩には多数の諏訪神社が鎮座しています

>此伊勢津彦と云は建御名方神の亦名にて
>即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
>事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
>傳への誤なるべし。

本居宣長さんの見当違いと(^^; ほぼ正しい、の複合だと思います。
いつ、どこで、だれが、なにをしたか、これを混濁して記紀(付随して風土記)を解釈していることに原因ありと思います。

南九州に建御名方あるいは諏訪社がある不思議、私もなぜ?の疑問を持っていました。
韓国宇豆峯神社にからむ可能性はありますが、南九州でのその登場はずっと近世の事象とみております。
島津氏の登場にからむ、荘園時代~鎌倉時代。
島津氏には信濃島津氏があります。

持論
建御名方はいつの時代の人物か・・大国主の子であると仮定すればAD30頃。
なにゆえ諏訪へいったのか、ほぼ追放(^^;
大国主の穏健政策(神武への国譲り)に反対して徹底抗戦しようとしたから。

出雲の神在月に建御名方はやってこない。諏訪をでることを禁じられていたから、追放者だから。
建御名方はどこにいたのか。周防と推定しています。
スハ、州波が原型であり、諏訪の地名はここからきていると考えています。

淳名河比賣(奴奈川媛)は大国主の妃とされますが、その場所は?
糸魚川周辺に淳名河比賣があるようですが、後世での大己貴の別名表記による錯綜とみています(このあたりは後日)。
大己貴の子である可能性もなくはないけれど、この時代(BC170頃)では諏訪へ移動する理由がない。

綏靖/淳名川耳、淳名はどこにでもある汎用の地名でしょう。
年代的に位置的に、神武の子の綏靖は北九州の淳名川の生まれかもしれない。
大国主の妃の淳名河比賣の出自と同郷かもしれない(神武と大国主はほぼ同時代)。

いつ、どこで、だれが、なにをしたか、記紀の記述をどこまで信じるか、ですね。
古事記の書く武甕槌に敗れて諏訪へ逃げた、という「事象」には源があるけれど、というわけです。
(武甕槌は書紀の創作とみています、天孫系譜の本来の武神は手力雄だとみています)

myHPの別図に近津社と日本武の図をおいておきます(暫定)。
諏訪の建御名方は関東において重要な役割をしていると考えています。
建御名方の子とされる千鹿頭の行動です。建御名方と諏訪縄文の子。
洩矢神=諏訪縄文≒ミシャグチ神。
当初はやってきた建御名方と抗争したのが洩矢神、後に和睦(諏訪の神官の守屋氏へ)。

糸魚川河口の縄文の寺地遺跡に環状木柱列があります。諏訪の御柱に直結する縄文の森林信仰と考えています。
(おそらく三内丸山の巨木柱も同じでしょう)
諏訪の北東に和田峠遺跡があります。黒曜石の大産地です。
縄文ではこれを中心に各地と交易していたと思います(伊豆七島の神津島も黒曜石の大産地)。
糸魚川の翡翠もむろんです。

弥生では黒姫山の褐鉄鉱。海人の安曇氏の資源探査で発見と推定(BC100以降か)。
これが穂高や安曇の地名由来となる(穂高神社にお船祭りあり)。
建御名方が諏訪に「追放」となったのは、鉄資源を含めてのことであり、単なる追放じゃないとみています。
(諏訪氏の起源にも注目)
蛇/ものと人間の文化史32で吉野裕子さんがミシャグチは黒姫山の褐鉄鉱の赤い川を意味するとされてます。


さて伊勢津彦が諏訪へ脱出したのはいつか。
可能性は天火明の尾張への到着時BC130頃か、「開化東征」での奈良出雲制圧時AD239でしょう。
天火明時代では諏訪は縄文の人ばかりでちと無理がある(逃げるなら東海あたりのほうがずっと良いでしょう)。

鎌倉時代、頼朝が関東で挙兵する。
このとき、関東一円に存在する近津社(千鹿頭)の信仰に注目しないはずはない(氷川社含む)。
近津社の起源の地、諏訪を味方につければ関東一円を味方にするのに同じ。
信濃島津氏の源流はここにありとみています。
ひょっとすると薩摩の島津氏より古い起源を持つ。
南九州に建御名方や諏訪社が少なからずあるのはこれにあると、今は考えています。

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月19日(金)09時24分26秒 202-226-242-80.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.307[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。


伊勢國風土記逸文 に

次のような記述があります。

======

伊勢國風土記逸文

伊勢國號 [其一]
 [伊勢國風土記云]
 夫伊勢國者,天御中主尊之十二世孫-天日別命之所平.
 始,天日別命,神倭磐余?天皇,自彼西宮,征此東州之時,
相隨天皇到紀伊國熊野村.于時,隨金烏之導,入中州而到於菟田下縣.天皇敕大部日臣命:
「逆黨膽駒長髓,宜早征罰.」亦敕天日別命曰:「國有天津之方.宜平其國.」即賜標釼.
 天日別命,奉敕,東入數百里,其邑有神,名曰-伊勢津?.天日別命問曰:
「汝國獻於天孫哉?」答曰:「吾覓此國,居住日久.不敢聞命矣.」
天日別命,發兵欲戮其神.于時,畏伏?云:「吾國悉獻於天孫,吾不敢居矣.」
天日別命令問云:「汝之去時,何以為驗?」?云:
「吾以今夜,起八風吹海水,乘波浪將東入.此則吾之卻由也.」
天日別命,令整兵窺之.比及中夜,大風四起,扇舉波瀾.光曜如日,
陸國海共朗.遂乘波而東焉.古語云:「神風伊勢國,常世浪寄國.」者,蓋此謂之也.


伊勢津?神,逃令來往信濃國.


 天日別命,懷柔此國,復命天皇.天皇大歡詔曰:
「國宜取國神之名,號-伊勢.」即為天日別命之封地國,
賜宅地于大倭耳梨之村焉.
 或本云,天日別命,奉詔,自熊野村直入伊勢國,殺戮荒神,
罰平不遵,堺山川定地邑.然後,復命橿原宮焉.
 譯註:標釼者,象?天皇之劍也.天皇雖不與天日別命同往,
而賜標釼,示以統帥之職委其命也.



底本?冷泉家本『万葉集註釋』卷第一,八一番歌條
參本?前田家本『釋日本紀』卷二十三「神風伊勢海事」條
神宮文庫本『日本書紀私見聞』「神風伊勢卜云事」道祥本三丁裏
北畠親房『元元集』卷第六「伊勢國桑名野代宮」條

======

これについて

本居宣長は古事記伝十四巻で

・・・・・・

今思ふに
此伊勢津彦と云は
建御名方神の亦名にて

右の故事は
即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
傳への誤なるべし。

・・・・・・

又、今伊勢外宮のわたり
かの高倉山のつずきなる高神山と云に
客神社とてあるは
建御名方神を祭れりと、神宮の書にあり。


=====

としていますが、、、

http://yorihime3.net/

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月18日(木)13時03分27秒 116-94-236-203.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.307[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。


>
> 母神とされる奴奈川媛命は出雲には見えず、越後ですから、建御名方は越後で育ってから品のに乗り込んでいったというのが、本来の物語ではないでしょうか。

な~るほど、、
そのような観点なら判らないでも。。

信州には鉱物資源とか当時の貴重品の類は
あるんでしょうか?

「みじゃくじ信仰」関連は少々かじりましたが、
ちょっと平安時代以降の史資料を読んでみます。

どうもありがとうございます。

http://yorihime3.net/

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月18日(木)12時55分27秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  6.国譲り

 『出雲国風土記
』意宇郡母理の郷に、「私がお造りして領有して治める國は、皇御孫命が無事に世々お治めになる所としてお譲りしよう。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍を置き賜うてお守りしよう。だから文理という。」とある。国を譲っても、出雲だけは譲らなかったということである。

 『古事記』では、「先ず葦原中国は我が御子の知らすべき国だが、道速振(ちはやふ)る荒振る国つ神等の多なりと以為(おも)ほす。」と大国主神以下を悪神としている。
 『古事記』の国譲りでは、建御雷之男神と天鳥船神の二柱の神が、出雲国の伊那佐の小浜で剱をつきたてて、大国主神に国譲りを迫る所から始まる。
『日本書記』では、経津主神に武甕槌神を副えて国譲りを迫っている。

 御子神の事代主神と建御名方神も最終的に同意して、国譲りが行われるが、大国主神は自分の住みかとして壮大な神殿を造営することと引き替えに国を譲ることに同意する。

 8世紀から朝廷で出雲国造が就任の際に神賀詞を奏上することになるが、その中で。「高御魂の命の、皇御孫の命に天下大八嶋国を事避(さ)しまつりし時に、出雲臣らが遠つ祖天穂日命を国軆見(くにがたみ)に遣はしし時」とあり、『記・紀』とは違う伝承が語られている。

 国譲りが出雲で行われたのに、天孫降臨の地が日向になっているのはおかしいとの意見があるが、神代の昔に出雲の国譲りが行われた訳ではなく、古墳時代初期の出来事だからそれでいいのである。

 『日本神話のなりたち』吉田敦彦著 フランスの比較神話学者デュメジルは、古代ローマやゲルマンの伝説、インド神話などに、三段階の構成を持った重要な神話が含まれていると指摘している。
 1.天の神族と地の神族との間に争いが起こり、地の神々が持ち前の富や性の魅力などで天の神の一部を腐敗させて、天の神々にダメージを与えた。
 2.天の神の指導者が、敵の力を麻痺させる無敵の武器を投げて、形勢を逆転した。
 3.そのあとで両者は和解をし、地の神々は天の神々の主権を認め、また天の神々は地の神々を同格とし仲間の神として認める。

 大國主に媚びた天穂日や、下照姫を娶った天若日子、高皇産霊神が天若日子を矢を投げて殺し、次に二柱の武神を地の神の下に送り、国を譲らせて、そのかわりに大國主神のために立派な神殿を建造すると言う物語は、上記の三段階の構成と完全に一致する。これは創作の物語であることの証明と言える。

 『日本書記』崇神六十年、出雲振根が管理していた天日照命(天穂日命の御子)が天上から持ってきた神宝を、弟の飯入根が留守中に朝廷に献上してしまったので、振根が成敗した所、朝廷から吉備津彦と武渟河命が派遣され、振根を殺したという話が載っている。これが出雲が王権に屈服した最初の記事である。河内国石川郡の美具ク留御玉神社の創建譚に見えるが、『崇神紀』の六十年丹波の氷香戸辺の歌に「出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡」とあるように神宝は鏡であった。
 大國主の神宝ではなく、飯入根は祖先の天穂日の宝を差し出して、大国主の神宝を守ったのである。

 作家の井沢元彦氏は銅鐸を古代には振根(振れば音がする)と称していたのではないかとの仮説を述べておられるが、それなら飯入根は入れ子になっている銅鐸のことかもしれない。

 出雲振根の誅殺という事件が起こり、王権に忠実な出雲臣の指導者に替わったので、神門臣らが大国主神の神宝を隠しておこうと言うことになり、加茂岩倉や神庭荒神谷に埋納したのであろう。これが伝承として、『風土記』に、「大原郡神原の郷 天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給う場所である。」と記載されたのだろう。

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月18日(木)12時50分15秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.305[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

> 出雲ついでに
> 建御名方の科野への敗走の背景は何なのでしょうか?

出雲国風土記には建御名方の気配がありません。
また、式内社では、出雲郡の鳥屋神社[トリヤ]の祭神が建御名方とされています。
また、出雲神社の後裔社として、諏訪神社の可能性がありそうです。
杵築神社(出雲大社)の関連の式内社に建御名方の気配はなさそうです。

母神とされる奴奈川媛命は出雲には見えず、越後ですから、建御名方は越後で育ってから品のに乗り込んでいったというのが、本来の物語ではないでしょうか。
 

神武東征の謎

 投稿者:とみた  投稿日:2016年 8月18日(木)11時52分12秒 124-144-223-141.rev.home.ne.jp
返信・引用 編集済
  2010年九州大学の岩永省三教授が発表された論文を
引用します。
弥生時代における首長墓の成長と墳丘墓の発達と称する論文の中から抜粋します。



弥生時代後期後葉から終末期における鏡・鉄製武器・玉類などの入手元とその副葬習俗の発信地を北部九州と見る説(寺沢
2000)が根強いが、この時期の副葬実態から見れば、近畿北部・北陸を主と考えた方が良い。

ほかにも、古墳時代におけ
る碧玉製腕飾類、遡っては芝ケ原12号墳の銅釧の祖形たる南海産巻貝製腕輪類(ゴホウラ・イモガイ・オオツタノハ)の系譜
は、中期の北部九州製品でなく、この時期の南部九州→東部九州経由の製品に求めるべきであり、日向における終末期
の円形墳丘墓の盛行は、東瀬戸内集団と日向灘沿岸部集団との密接な関係の物証である。


私は、神武東征を暗示しているような気がしています。

神武が日向からでて、東瀬戸内を経由して畿内に入る.
神武天皇を瀬戸内海の道案内するのは、椎根津彦(日本書紀、古事記では珍彦=渦彦=宇豆彦)。
難所の豊予海峡や明石海峡を通過するときのガイド役をする。各地の海の民は海上運送で中継したり交易したりする。



京都府城陽市・芝ヶ原12号墳は、弥生時代の後期後半ー終末期に、実に1350余の玉を副葬している玉の流通拠点です。水上運送で稼いだ首長の墓のようです。玉には、翡翠の勾玉、カリガラスなどです。

日向(薩摩と大隅を含む)から瀬戸内を経由し淀川支流の芝ヶ原に達し、北陸からは翡翠や碧玉の玉を芝ヶ原に入れて、交易する訳です。芝ヶ原は東西の玉流通の交点と言えそうです。


淀川の支流である木津川の流域の芝ヶ原近くに下主水遺跡があり、これは弥生終末期の水運の船着場でした。
玉類はここで止まっており、ヤマト盆地までは流通していませんでした。
芝ヶ原や北陸には近江系土器があり、古の近江商人?が交易の仲介をしていたのかもしれません。近江は銅鐸が多いので青銅器の工人がいたのでしょうか。

玉類の流通網はこの段階ではヤマト政権は掌握していませんでした。ですから終末期のホケノ山以降古墳時代の前方後円墳には玉類が入りません。

桜井茶臼山の段階になって翡翠性勾玉や石製腕輪類が副葬されます。
この段階は、加賀の片山津あたりで石製腕輪類づくりをさせ、出雲で玉のブランドを作らせてヤマト王権は輸入して威信財として配ります。


 

建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月17日(水)20時12分34秒 202-226-245-210.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  出雲ついでに
建御名方の科野への敗走の背景は何なのでしょうか?

諏訪大社の鎮座地の諏訪は
島津藩の祖・忠久の
最初の知行地でした。
その関係で
薩摩藩には多数の諏訪神社が鎮座しています。

☆国分市郊外に鎮座する諏訪神社

http://yorihime3.net/

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月17日(水)15時45分11秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  5.大国主神
 大国主は、古代人が思い描いた地域の指導者の理想像であろう。大国主の子孫と称する人が世襲的に神門郡におり、神門氏を名乗っていた。(富氏とも言うか。)
 大国主を権威付ける要素はいくつかある。
根の国からの権威付け 根の国に坐す須佐能男の娘を娶り、かつ激励を受けた。
常世国から、少名毘古那神が国作りに協力するため来訪した。
八千矛神と称される武力で八十神を追い払い、高志の国を制圧した。
素兎を助けた大穴牟遅神はその後に伯耆の手間山で八十神に殺されるが、御祖神の働きで生き返る。これは成人儀礼である。
(注)少名毘古那神は産霊神の御子神で産霊神の手のすきまから落ちたということで、手間天神とも呼ばれる。

 スクナヒコナは蛾もしくは小鳥の衣服をまとって登場したが、飛び上がってオオナムチの頬をかむなど、飛ぶ小動物のイメージである。
 スクナヒコナが去った後に来たのが大物主、オオナムチの幸魂・奇魂であり、遊離魂であった。この事からスクナヒコナもオオナムチの遊離魂であった可能性がある。遊離婚が小鳥や兎の姿をとっていたのであろう。助けられた素兎が遊離魂となって恩返しに現れたのかも知れない。


メキシコ アステカの兎・の神 第二の自我 (遊離魂)

 

Re: 古代出雲

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月16日(火)23時05分13秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.302[元記事へ]

あれ間違ってボタン押したみたい。
参考図です。
 

Re: 古代出雲

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月16日(火)23時01分25秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.300[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

参考図1 松江市佐太神社周辺 縄文海進4m
古浦砂丘遺跡コウラ、島根半島の最古の稲作の可能性あり。
人骨に青銅のヘアバンド?をしていた可能性あり。
堀部第一遺跡はその人々の農耕のできる内陸部へ移動と推定。
佐多講武貝塚は縄文BC4000あたりの貝塚。

持論
初期開拓者の漂着が端緒の遺跡とみます。BC500頃以降かな(半島経由の戦争避難民、環境避難民)。
もし、青銅ヘアバンドなら中国の戦乱からの貴族級かもしれない。
いまのところ山陰沿岸では最も東での漂着、これ以上流されたら助からないと思います(^^;
(類似漂着者とみる土井ヶ浜は山口県下関市ではるか西)

佐多神社の創始はこれらの人々の農耕開始によると考えています(狭田とみる)。島根最古の社ではないか。
縄文貝塚が隣接、縄文系との接触(抗争?)もあったかもしれない。
宍道湖を渡って南に出雲熊野大社、おそらくは・・佐多神社方面から少し遅れて進出した人々の関連じゃないか。

参考図2 サヒメ伝承
やはり大田市付近への初期開拓者の漂着が起源とみます。

こちらに遺跡はありませんが、1775年の神職が役所に差し出した文書が残っています。
「往古に天より三つの瓶降れり。その一は一宮の神秘佐比賣山の神なり。二の瓶は三瓶山の麓の浮沼池に沈み納まり、
三瓶は三瓶谷八面大明神社脇の東の土中に埋もれり・・」
なんか隕石落下のような雰囲気も(^^;

ま、佐比賣山神社の現在は銀山一辺倒のようですが、これとは違う縁起をもっていたとみえます。
地形的に大田市沿岸に漂着した半島(経由?)の人々が三瓶山周辺で畑作をはじめた様子がみえます。
沿岸部に迩弊姫神社があり、三瓶山麓に迩弊姫の祠がある。
現在の祭神は?埴夜須毘賣神のようですが、土にからみそう。
原型は三瓶に対して二瓶であったのかも、瓶とは穀物の種を入れた壺か?

no

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月16日(火)08時47分46秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4.荒神谷遺跡から出土した銅剣。

下が西、上が東の方角。西から①34本、②111本、③120本、④93本と並んでいた。計358本。この数が『出雲国風土記』に記載の神社数に近い所からいろいろな組み合わせが提案されている。
①  34本は神門郡 37社に対応。
② 111本は出雲郡 122社に対応。
③ 120本は、大原29 飯石21 仁多10 意宇67本 計127本に対応。
④  93本は 楯縫28 秋鹿26 島根59 計113本に対応。
 銅剣の埋納が300年、風土記700年として400年間での神社の数は微増となる。人口があまり変わっていないと思われるので、神社数も変わらないと思われる。
この提案は、銅剣の並び順と郡の並び順とが対応しており、決定的な案だと思っている。

 荒神谷から3.5km離れた加茂岩倉遺跡から銅鐸が39基出土。銅鐸は墳墓や古墳からは出土していないことは、個人の所有物ではなく、集団の持ち物の証であるが、この39基の数は何だろうか。集団から考えると、「郡」の持ち物ではなかったか。
 出雲国には9郡があり、出雲郡は素尊水道の南側に飛び地がある。郡に4基、飛び地に3基、合わせて39基となる。
出土物の数にはそれなりの意味があるのだろう。

 

古代出雲

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月15日(月)16時49分52秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3. 神庭荒神谷遺跡
 『出雲国風土記』大原郡神原の郷
 天の下をお造りなされた大神の神御財を積んで置き給う場所である。
 この遺跡からは古墳時代の須恵器が出ており、早くても古墳時代の書記の時期、即ち出雲が大和王権に服従した時に当たる頃に神宝を隠匿したものと思われる。

 元諏訪神社の東南側に加茂岩倉遺跡があり、その間に大黒山があり、兵主神社が鎮座している。日矛集団も神財をねらっている構図である。これは、大和の大神神社(三輪明神)と大和神社の間に穴師座兵主神社が鎮座しており、国津神の集団の間に楔が打ち込まれたように見える。
 荒神谷を取り囲むように建御名方神を祭神とする神社が鎮座しているが、全てが古代からのものではなかろう。平安・鎌倉時代の建立のものもあろうが、出雲の人々は大神の神財を意識的にもまた無意識にもそのような行動がとられたものと思われる。

佐支多神社「健御名方命、八坂戸賣命」斐川町大字荘原 風土記記載社 南に御射山あり
波迦神社「神倭健尊、健部臣古禰尊 合 健御名方神」 斐川町大字三絡 風土記記載社
波知神社 「天津彦彦火瓊瓊杵尊 配 建御名方命」斐川町大字三絡 式社 風土記記載
諏訪神社 斐川町学頭  諏訪神社 斐川町神庭  諏訪神社 宍道町佐佐布
地元の福島一夫氏の「女首長に後事を託す」を参考にした。

 

Re: 縄文犬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月15日(月)13時12分52秒 116-94-26-32.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.298[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> >以前、このNo273 辺りにポストしましたが再度。
>
> おっと、失礼しました。犬を見落としています(^^;

どういたしまして。
多方面でご教示頂いて恐縮しております。

>
> 遺跡と神社などをカシミール3Dという地図アプリにプロットしています。
> 詳細情報があれば別途に記録。とてもとても全国には至っていません。

以前は全国各地の山々を彷徨っていましたから
これには即、、お世話になっています。


> 地形図をなーんとなくながめると、なにかが見えてくること少なからずです。

>
> 普通の地図ではなにもみえませんが、地形図のみで縄文海進の頃の水面を表示すると・・

追いかけている「天智天皇伝承」がまさにそれ。
現在は、海岸線から数キロの内陸に鎮座する神社のご祭神が、、
海神やお船に関連しています。
古代は、その辺りが海岸線、もしくは入り江。。
船を利用した形跡が。。

> 串間の福島川は近世?に大規模治水してますね。南の微高地側(沖積地)に川が這い上がってる。

そうですね。油津辺りは、灌漑時、古墳を調査したようですよ。
寅さんの撮影もあったそうで。。
吾平津姫神社。


> 余談
> プロットに手間がかかる原因のひとつが、緯度経度情報を書いていないものが多いからです。
> (古い情報ですと地名が変わっていて探せないこともあります)
> グーグル地図にでもプロットして位置表示してくれればよいだけなのに。

田舎の方はなかなかです。
神社や史跡の大半は未掲載。
ミレニアムの頃から、旧バージョンで、数種作成しています。

http://yorihime3.net/

 

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