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「○○タラシ」

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2016年 9月 5日(月)07時50分44秒 p1067-ipad109fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  横レス、失礼します。何時も興味深く拝読しています。

※この「○○タラシ」の初出は「天照大神」ではないかと、愚考します。

*「天照大神」=「天」は前述。(他のレジメ抜粋の為、後述)
・「照」=古代倭語“???”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。
・因みに高良大社の主祭神「高良・玉垂尊」=“?-?-?-??”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。
・「阿毎多利思比孤」=同伝で「大神」が「比弧(日子)」に置き換わっているだけ。
   即ち、「阿毎」=「天(あま・あめ)」、「多利思」=「照」の事である。

*「天(あま・あめ)」は⇒「高天原」=神々が居るところ、天上界を思わせる記述であるが…。「タカマガハラ」と読んでいては地上の場所は見つからない。「たか・あま ン ばル」と読むべきである。
 ・「高」は高低の意ではなく、寄って「集(たか)って」の当て字、古代倭語で、“??-”(taka-)=[傍へ寄り付く、寄り添う、近付く、詰め寄る(民衆書林・韓日辞典)]と、語幹を同じくする語彙である。
・「天(あ・ま)」は、前章の東の意と「ま・め」=膨れている、山の意の古語との合成。「(国の)東の聖なる山」(水源のある山)となる。
・「原=ばル」とは、“?”(beol)[原;野原(民衆書林・韓日辞典)]で、筆者註としては、「耕作地=邑」である。従って、「東の山(聖地)に寄って集(たか)っている原」と成る。
水縄連山(耳納山地)の東の端のうきは市(旧・浮羽町)の狭い谷間に、百箇所近くの「○○原」の字地名が犇いている。此地に「日向」の地名が現存している。「浮羽」も“???”(u-kil-beol)[旭日原]の語尾子音欠落清音化であり、「高天原=阿斯達」とも同義。

※「天照大神」=「天(あま・あめ)出自の大神」。

∴「○○タラシ」とは「○○出自」を謳っているのでは?

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

 
 

Re: 生駒について

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 4日(日)21時42分20秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.328[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

>「帯」については、私の聞いたお話は、字ではなく「タラシという音」に注目されている印象でした。

名からの推測・・
崇神248-273の御間入彦五十瓊植、垂仁273-311の活目入彦五十狭茅、垂仁の兄弟の豊城入彦、豊鋤入姫など今度は「入」が続々と登場。
これは新しい土地に「入城」の意味だと考えています。すなわち出雲の勢力地だった奈良への入城。

孝昭105-137の子の孝安137-175はタラシですが、続く孝霊175-204、孝元204-225、開化225-248では日本根子に尊称に変わります。
(書紀は日本ヤマトと書き古事記は倭ヤマトと書く)
倭根子とは「倭を祖先とする子」の意とみています(出雲とは無関係を強調する)。
孝霊175-204で倭国争乱の本格化、卑弥呼の登場(新羅本紀173に、倭の女王卑弥呼の使者来訪、の記述あり)

開化では稚日本根子になっています。稚とは稚児、幼いの意でしょう。
幼いとは孝霊-孝元と続いた倭根子(倭国)とは異なる「新しい倭国」の誕生を意味すると考えています。
新しい土地に新しい倭国を作った人物の意、ゆえに「開化」でもあるわけです。

書紀が書いていない(隠蔽)した部分にも(意図的に)痕跡は残している。
(古事記では単なる当て字少なからず、逆に発音を類推できる)
彦坐王など王の呼称、大国主の主の呼称、このあたりにも意味があるはず。

タラシの場合も人脈を調べるといろいろでてきますね(たぶん皇極と斉明の天豐財重日足姫が最後)。
ま、書紀には用意周到と不注意が混在しているとみてますので落とし穴には東注意ではあります(^^;

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒について

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 4日(日)21時09分55秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.331[元記事へ]

大三元さんへのお返事です。

>多良斯」がタラシであろうからこれが初出ではないかと注目しています

遠津山岬多良斯神をいつ頃の人物とみるか、ですね。
大国主命の子の鳥鳴海神系譜の最後(8世孫)。
持論年代では大国主(国譲りAD30頃)から8世代でAD200~250頃の人物とみるところです。
すなわち孝安137-175(日本足彦国押人)より100年近く新しい人物。


山陰の弥生の状況を考慮中ですが先行しまして・・
参考図1 弥生の土笛分布
土笛は弥生前期頃の出土です、おそらくは半島経由の春秋戦国からの避難民が運んだ(作った)と考えています。
いかにも漂着しそうな場所、しかし小規模遺跡だけです。

大国主が国譲りにて島根に引っ越し、AD30頃(弥生中期)。
弥生中期以前では山陰にはこれといった遺跡がない、土笛の漂着者であろう痕跡のみ(土井ヶ浜は有名ですけど)。

ところが、弥生中期以降に田和山、妻木晩田、青谷上寺地、大風呂南、の有力遺跡が登場します。
(田和山からは硯の破片出土、楽浪郡系とみられている。大風呂南ではガラス釧、これも楽浪郡とみられる)
これらの遺跡はなにか・・大国主の子等、特に鳥鳴海神系譜による開発だと考えています。
(神武朝、出雲との混合王朝時代では出雲も樂浪系文物の入手可能)

参考図2 妻木晩田遺跡の位置
これは異様ともいえます。集落全体が山の上にある高地性集落。
「なにか」から防御する、あるいは恐れる、だと思います。
北九州で経験した素戔鳴~神武の戦闘、これを恐れた集落だと考えています。
参考図3 弥生北九州の戦死者(ただし残るは甕棺葬のみ、それ以外の戦死者ははるかに多いはず)
おそらくは黒どくろが素戔鳴時代、白どくろが神武時代の戦闘。

その東の青谷上寺地からは多数の殺傷痕の骨がでています。
この遺跡は平地でいまのところ環濠もみあたらない。
ゆえに女子供まで惨殺された。
妻木晩田では高地性集落が功を奏して避難できたのだろうと考えています。
どちらも消滅は古墳時代初期とされます。

大風呂南では戦闘痕跡はありません。
攻撃者は西から・・卑弥呼の侵略軍・・孝霊175-204以降かな(倭国争乱でもあります)。
出雲は防衛ラインを敷いた。
それが丹後半島から明石方面ライン(播磨の弥生街道)で、周辺に散在する兵主神社がその痕跡だと考えています。

鳥鳴海神系の最後の遠津山岬多良斯神は若狭。
ここで尾張からの天火明系末裔と結合した結果が「出雲の多良斯」だと考えています(AD200~250頃か)。
その後は奈良が開化に制圧(AD239)されて以降の系譜は不明となる(おそらく彦坐王系譜にバトンタッチ)。
遠津山岬多良斯神のタラシは大国主(の末裔)と天火明(の末裔)が混じり合った痕跡だと考えています。


ただし、尾張連のタラシが孝昭105-137頃とすると、朝日遺跡が大発達している時代。
すなわち尾張は出雲文化圏に吸収されているはずで、尾張での天火明系譜と出雲系譜の結合からタラシが登場している可能性があります。
しかしそうなると、孝昭(九州)が尾張から妃を取る理由がみえてこないのです。
(ちなみに倭国争乱≒邪馬壹国近畿論は私的に論外に近いです(^^; )
記紀での人名がどこまで正確に伝承されているかがありますが、孝安137-175日本足彦国押人にタラシを用いる理由もみえてこないのです。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 9月 4日(日)19時36分9秒 p1471029-ipngn200602fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.331[元記事へ]

大三元さんへのお返事です。

> 初心者さん
>
> > 世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。
>
> 古事記の出雲系図の最後に現れる
>  遠津山岬多良斯神
> の「多良斯」がタラシであろうからこれが初出ではないかと注目しています。
>
> この神が第6代孝安天皇「倭帯日子國押人」に当たるのではないか、と考えています。
>
> 詳しくは:http://www.dai3gen.net/izm_kssi.htm
> をご覧下さい。
>
ありがとうございます。タラシについては、いつかきちんと調べたいと思っておりました。
しかし、私の能力では、出雲系図には絶対に気付かなかったと思います。
勉強させて頂きます。
大三元さまのHPとは気付いておりませんでしたが、「鳥と船」の頁をお気に入りに登録していました。
古文献中の生物(動植物)と船に特に惹かれております。
 

Re: 生駒について

 投稿者:大三元  投稿日:2016年 9月 4日(日)15時17分1秒 170.103.232.153.ap.dti.ne.jp
返信・引用
  > No.328[元記事へ]

初心者さん

> 世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。

古事記の出雲系図の最後に現れる
 遠津山岬多良斯神
の「多良斯」がタラシであろうからこれが初出ではないかと注目しています。

この神が第6代孝安天皇「倭帯日子國押人」に当たるのではないか、と考えています。

詳しくは:http://www.dai3gen.net/izm_kssi.htm
をご覧下さい。


 

生駒と住吉 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月 4日(日)11時21分51秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2.『神代記』から「膽駒・神南備山の本記」の紹介。前半


四至 東を限る。膽駒川・龍田公田。(生駒川、竜田大社の神田)
   南を限る。賀志支利坂・山門川・白木坂・江比墓。(不詳 大和川 不詳 不詳)
 西を限る。母木里公田・鳥坂に至る。(枚岡神社付近 高井田)
 北を限る。饒速日山。(生駒山の北にそばだっている山)

生駒山系

右、山の本記とは、昔、大神の本誓(みうけひ)に依り、寄(よ)さし奉る所、巻向の玉木の宮に御宇(あめのしたしろしめ)す天皐(垂仁)・橿日宮に御宇しし天皇(仲哀)なり。熊襲國・新羅國・辛嶋(宇佐八幡の鎮座地か)を服(まつろ)はしめ賜ひ、長柄泊より膽駒嶺に登り賜ひて宣(の)り賜はく。「我が山の木實・土毛土産(くにつもの)等をもて齋祀らば、天皇が天の下を平けく守り奉らむ。若し荒振る梟者(ものども)あらば、刃に血・ぬらずして挙足(けころし)てむ。」と宣り賜ふ。

大八嶋國の天の下に日神を出し奉るは船木の遠祖(とほつみおや 猿田彦神の後裔か)大田田神なり。この神の造作(つく)れる竺船二艘(一艘は木作り。一艘は石作り。)を以て、 後代の驗(しるし)の為に、膽駒山の長屋墓に石船を、白木坂の三枝(さきくさの)墓に木船を納め置く。
唐國に大神の通ひ渡り賜ふ時、乎理波足尼(をりはのすくね)命この山の坂木を以て迹驚岡(とどろきのをか)の神を岡に降ろし坐(まさ)して齋祀る。時に恩智(おむちの)神、参り坐(ましま)す。仍(かれ)毎年の春秋に墨江(すみのゑ)に通ひ参ります。これに因り、猿の往來絶えざるは、此れ其の驗なり。母木里と高安國との堺に諍石(いさめいし)在置り。大神、此の山に久(かた)く誓ひ賜ひて、「草焼く火あり、木は朽ちるとも、石は久遠(とは)に期(ちぎ)らむ。」とのたまひき。

 

豊玉姫と対馬

 投稿者:とみた  投稿日:2016年 9月 3日(土)14時45分49秒 124-144-223-141.rev.home.ne.jp
返信・引用 編集済
  対馬は津島でたくさんの入江=津があります。港が開けています。
対馬は、北西部の三根湾、南島と北島の間の浅茅湾、東北部の比田勝、南島東側の厳原が時代によって栄えます。


西側の津は勒島や巨済島へ向かうルートでしょう。東北側の津は慶州や金海に向かうルートでしょう。

福岡大の武末純一先生によれば、弁辰の鉄は金官伽耶の茶戸里や慶州の隍城洞から出て対馬三根湾・山辺地区や壱岐のカラカミ(唐神)遺跡に入ったのではないかとのことです。

北部九州の奴国は中広形銅矛や広形銅矛を対馬にたくさん贈っています。
鉄がほしかったのでしょう。海上運搬には海神(綿津見神)族を使います。

対馬には海神を祀る豊玉姫縁のワタツミ神社がありここが安曇族の本拠なのでしょう。和多都見神社 - 長崎県対馬市豊玉鎮座
和多津美神社 (壱岐市) - 長崎県壱岐市郷ノ浦鎮座
和多津美神社 (豊玉町) - 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮鎮座

玄界灘の入り口=奴国の玄関口の志賀島にも豊玉神をまつる志賀島神社がある。


朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
播磨の大平遺跡にこの鉄斧が伝わります。播磨一ノ宮のある揖保川流域です。ここが竜野です。
ここは伊和神社があり、出雲系鉄神と伽耶・新羅系鉄族の天日矛が争います。

かたばみさんによれば兵主神社が多いところだそうです。

出雲街道が米子から新見ー津山を経て佐用を通り、竜野を経由しますし、鳥取市因幡の千代川を遡れば竜野にもこれます。

銅鐸の兵庫県宍粟市一ノ宮の閏(ウルウ)賀銅鐸が発見されたところです。

この銅鐸は神戸市桜ヶ丘8号銅鐸が祖先です。

竜野の名前の由来はどうでしょうか。

豊玉姫は龍伝説を持っています。

竜野は東出雲の祖である野見宿禰が亡くなった地であり、宿禰神社があります。


 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 9月 3日(土)09時40分47秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.325[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

先日も船についてレスをいただいたのですが、私がかたばみさまに釣り合う知識もなく
お返事できずにすみませんでした。

> 初心者さんへのお返事です。
>
> >「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説
>
> もう少し掘り下げてみたいところです。
> タラシを遡れば孝昭105-137の子の、天足彦国押人と孝安137-175の日本足彦国押人があります。
> (数字は持論による即位年代)
> 二人は天と日本が異なるだけで同じ、なにかあると思ってますが、思ってるだけ(^^;
>
> 二人の母は尾張連の祖の娘(妹)の世襲足姫(たぶんタラシの初出)。
> 尾張連の祖は天火明命。旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
> 「足タラシ」の本来は「帯」だと考えています。帯の結び方などに特徴ある氏族じゃないか。

世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。
個人的に「襲」の字のつく人物に興味があるので、「襲」とタラシのコラボはワクワクします。

「帯」については、私の聞いたお話は、字ではなく「タラシという音」に注目されている印象でした。
「垂」表記についてもいわれていましたが、なにしろ、雑談でしたので。
でも、帯の結び方と言えば、影姫とシビの悲恋の記紀歌謡を思い出します。
「大君の 御帯の倭文幡 結び垂れ 誰やし人も相思わなくに」
武烈天皇は残念ながらタラシはつきませんし、全く関係のないレスですみません。
これからも、色々とご教示下さいませ。

 

生駒と住吉

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月 3日(土)08時50分50秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  住吉大社の鎮座と生駒山について少し考えたいと思います。

1.住吉の神の足跡


『日本書紀 斉明紀』元年夏五月の記事。
空中で竜に乗る唐人に似た者がいて、青い油の笠を着て、葛城嶺より馳せて肝駒山に隠れ、午の時に、住吉の松嶺の上から西に向かって飛び去って行った。

 住吉大社の鎮座地は長岡の前とあり、微高地であり、松嶺と呼ばれていたのだろう。

 これに似た話が、『住吉大社神代記』(以下、『神代記』と略す。)に、住吉大神が昔鎮座していた山を巡る話として記載されている。
 以前。大神、所顕坐(あれまし)処、并(なら)びに御名を注顕(しる)すこと右の如し。
右、大神、飛鳥の板盖(いたぶきの)宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし天皇の御世の始に、夏五月庚午、宣り賜はく。「吾が山を巡検(めぐりみ)賜む。」と宣り賜ひて、即ち御馬に乗り賜ひ、油笠を着賜ひて、兄乃山より葛城嶺・膽駒山に馳せ到り賜ひて、午時を以て住吉に馳せ還り御坐(いま)して、御飯酒を聞食(きこしめ)す。(以下略)

 住吉の神は先ず、紀伊国伊都郡の背の山(畿内の南限)に現れ、葛城・生駒を経由して現在地に鎮座したようである。神功皇后の大和への足跡を示しているのかも知れない。
ここでは、生駒から直に住吉へ駈けていることに注意。

 

Re: 生駒について

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 2日(金)20時42分55秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  続きの持論:

天孫降臨は二人で2ヶ所。瓊々杵は九州西海岸、天火明は東海岸。
天火明は尾張(濃尾)へ進出(旧事本紀)。
そのとき随伴した複数の人々が物部氏の祖。
多くが海運者、その他は手工業者と武人。物部氏の祖は単一の人物ではないと考えています。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命・・
饒速日と称する場合は後の大豪族となった物部氏が「祖を高貴なる人」とするために天火明と重ねたものとみています。
天火明(彦火明)とする場合は天孫の天火明を意味する、と解しています。

書紀が神武東征説話で天磐船と神宝を書きながらもも「饒速日という謎の人物」としているのは、神武以前に東国に天孫が存在していては神武東征説話が成立しなくなるからに他ならず。
ウエツフミ36綴7章でも饒速日を火明命であり天之忍穂耳の子と明示、臼杵の河内山に天降としています。
(臼杵ウスキが大分県の臼杵かどうかは? 河内山は熊本など各地にあり)

さて、天火明の降臨はBC130頃とみています(素戔鳴と天之忍穂耳の渡来理由からの逆算)。
孝昭105-137(九州東岸と推定)とはおおよそ250年ほどの差、この間に神武と出雲のありようの問題がありますが、略。

天火明の子孫の尾張の世襲足姫が孝昭に嫁いで、天足彦国押人と日本足彦国押人を生む。
神武 36- 66~懿徳 92-105は出雲との混合王朝であり、孝昭105-137に天孫降臨時代の天火明の系譜に戻す意図があったと考えています。
(その後の孝霊175-204、孝元、開化は「倭根子」(倭の祖先と解す)の尊称に変わります)
倭国争乱の始まり(北九州)でもあり、卑弥呼登場でもあります(日向宮崎)。

さて、ここまでの流れに世襲足姫に海人の意味があるとすれば、物部氏でしょう。
すなわち「足」とは天火明の子孫尾張連に発するもので、それが若狭に継承されたと考えています。
(尾張では奈良の出雲勢力下で消えたと見る、朝日遺跡などの変化)

若狭の日本海系氏族(大風呂南遺跡など)、記紀にみえてくる人物では彦坐王(ヒコイマス、母は意祁都比賣)。
(天足彦国押人-彦姥津命-姥津姫(意祁津姫、彦坐王の母とされる)

ここで書紀は彦坐王を開化225-248の子としてますけど・・大嘘とみてます(^^;
意祁津姫あたりで開化に彦坐王をはめこんだだけ。
「意祁」が海人系譜を示すと考えています。
すなわち若狭で「足」「帯」天火明系と「意祁」日本海系海人が結合した・・

下って継体507-530の妃に尾張連の娘の目子媛があり、安閑宣化の母とされる(持論では敏達も同じくとみる)。
これも尾張と若狭の結合あるゆえの嫁取りだと考えています。

彦坐王の孫の日葉酢姫と垂仁273-311の子が景行311-333で「足」。
足(帯)タラシだけの場合は天火明の末裔(尾張-若狭)の流れを意識した用法だろうと考えています。
「意祁≒気長≒息長」の場合が海人系を意味する(隠岐、壱岐も意祁からの変化とみる)。

神功皇后説話の息長帯比売はおそらくは実在で若狭だとみています(彦坐王のひ孫)。
すなわち息長(海人)と帯(天火明)の結合氏族の子孫。
ただし、神功皇后説話は記紀の創作であって、女帝まがいの皇后(神功360-386)は存在しないと考えています。
応神は仲哀の子とされますが・・これも嘘とみてます。七支刀369の銘文の倭王旨と「若狭のだれか」の子・・倭王五代へ。

神功皇后説話で浮上するのが住吉三神。
伊弉諾尊の禊ぎで、海面、海中、海底からうまれたとされますが・・
弥生初期以降での日本海(底)、瀬戸内(中)、太平洋(表)の海人を意味すると考えています(底と表は逆かもしれない)。
(縄文にまで遡れば大綿津見神、ここからの分化でもあります)

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒について

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 2日(金)20時35分34秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.324[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

>「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説

もう少し掘り下げてみたいところです。
タラシを遡れば孝昭105-137の子の、天足彦国押人と孝安137-175の日本足彦国押人があります。
(数字は持論による即位年代)
二人は天と日本が異なるだけで同じ、なにかあると思ってますが、思ってるだけ(^^;

二人の母は尾張連の祖の娘(妹)の世襲足姫(たぶんタラシの初出)。
尾張連の祖は天火明命。旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
「足タラシ」の本来は「帯」だと考えています。帯の結び方などに特徴ある氏族じゃないか。

確定できるような物証はありませんから、いろいろな方面からの複合になるので、以下毎度長文になります。

籠神社(真名井神社/豊受大神、若狭湾)による海部氏系図では始祖を彦火明命とする。
勘注系図参照
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
(天火明と饒速日の解釈が私とはちょっと違いますけれど)

籠神社の縁起は天火明の子孫が尾張から関ヶ原、琵琶湖を経て若狭に進出したことによるとみています。
物部氏の奉斎を受けてなにがしかの変化をしたのが現在の籠神社だと考えています。
(物部のうちの海人を濃くする、すなわち海部でもある)

応神386-402の名前の交換の気比神宮(気比大神/御食津神)も若狭湾にある。
日本武命ヤマトタケル-息長田別王-杙俣長日子王-息長真若中比売と弟媛(どちらも応神の妃となる)、
景行311-333の子は「無数」にいます。婚姻による各地の豪族と融和するのが目的と考えています。
ヤマトタケルもそれを継承、ひ孫の息長真若中比売の「息長」はその結果だと考えています、日本海系氏族(海人)との結合です。

気比神宮も籠神社に同じく物部氏の奉斎の流れにあると考えています(気比大神/古事記、笥飯大神/書紀)。
気比は書紀の表記の「笥飯」が本来を示すと推定、食糧をいれる竹製の器(四角?)ですね。
籠神社の籠と同じ、こちらは円形で魚介類メインか、神紋はカゴメ紋)。
どちらも手工業製品です、すなわち「物の部」が関与していた社とみています(加えて海人としての物部→海部)。
ただし、こちらは記紀の神功皇后説話(息長帯比売)によって有名となり、記紀内容に準じた変化が大きいとみています。

気比神宮の北に剣神社があります(素戔鳴尊、気比大神)。
おそらく籠神社や気比神宮と同列の社。
下って織田信長の祖先は剣神社の神官という論がありますが妥当とみています(尾張と若狭のつながりを示す)。

剣の呼称がいつからかわかりませんが武人にからみそう。
旧事本紀/天神本紀に降臨に随伴する人物が多数書かれますが、「兵杖を帯びる者」は武人でしょう。
稲荷山鉄剣の「杖刀人」も同じと思います(雄略456-489時代での表現か)。
天火明の随伴者の物部(海人、手工業者、武人)のうちの武人の奉斎を受けたのが剣神社の由来かもしれない。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 8月30日(火)20時20分57秒 p795074-ipngn200903fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.323[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 初心者さんへのお返事です。
>
> 異名同神はいろいろあり、興味深いところもありますが、これは風聞とあえてことわっている所から、あまり真剣に考える問題ではないかもしれませんね。紹介しておいて、無責任なことで、申し訳ない。

とんでもありません。興味深いです。


> 前田晴人さんは、住吉三神として、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇をあげていました。ともに、「足」 と「彦」が共通の連続した天皇達で、第四殿が仲哀の皇后である神功皇后であることも傍証になっているのかも。
>
>  これも、お話しとしては、面白いのですが、果たして・・・どう思います。

神功皇后もタラシヒメですから、全員「足」がつくというわけですね。
ヒメはヒコと対の言葉ですし。
「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説を聞いたことがあるので、
それを思い出しました。
 

Re: 生駒について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月30日(火)20時08分0秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.322[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

異名同神はいろいろあり、興味深いところもありますが、これは風聞とあえてことわっている所から、あまり真剣に考える問題ではないかもしれませんね。紹介しておいて、無責任なことで、申し訳ない。

前田晴人さんは、住吉三神として、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇をあげていました。ともに、「足」 と「彦」が共通の連続した天皇達で、第四殿が仲哀の皇后である神功皇后であることも傍証になっているのかも。

 これも、お話しとしては、面白いのですが、果たして・・・どう思います。
 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 8月29日(月)11時36分32秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
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  > No.320[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>  河内の平石に磐船大神社と言う磐座が点在する神社があります。近くに高貴寺があり、神仏習合時は寺の鎮守であったようです。この高貴寺に伝わる『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。住吉三神の一柱である底筒男命とは物部の遠祖である饒速日尊であると言う内容です。


天磐船に乗り降ったニギハヤヒが、底筒男命という海と航海の神と同じであるという伝承は興味深いです。
初めて聞きましたが、どこかほかにも同様の伝承はあるのでしょうか。

天磐船、天鳥船、鳥磐楠船、天鴿船などが、同様(類似)の船であったとしたら
「楠」の産する地域で造られた船だろうかと考えたりしています。
(ニギハヤヒの故郷もまた、楠が生えていた暖地だったのだろうかとも)

 

生駒について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月25日(木)19時32分57秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   河内の平石に磐船大神社と言う磐座が点在する神社があります。近くに高貴寺があり、神仏習合時は寺の鎮守であったようです。この高貴寺に伝わる『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。住吉三神の一柱である底筒男命とは物部の遠祖である饒速日尊であると言う内容です。  

Re: 10年前のログ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)22時34分1秒 116-94-118-166.ppp.bbiq.jp
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  > No.318[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
>
> 出の山の神社 でしょうか。お父上とご一緒の。


どうも有難うございます。
父同伴でした。
懐かしさの余りアップしました。

神武、応神、仁徳、、、

日向から嫁がれた妃

もう、一昔前。

早いもので、、
 

Re: 10年前のログ

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月22日(月)20時29分12秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.317[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

出の山の神社 でしょうか。お父上とご一緒の。
 

10年前のログ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)15時36分31秒 202-226-242-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  ちょっとマイページを見直していたら
06年10月30日に「霧島六所権現巡拝」の時の「泉長媛」がヒットして
ここのログが出てきました。
懐かしい。。
あの頃は、史資料も揃ってなくて図書館通いでした。
あれから精査も余り捗っていないのは残念ですが、、

また、のんびり巡拝したいものです。

http://yorihime3.net/

 

Re: 奄美の「あいのこ」

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)13時02分6秒 202-226-242-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.315[元記事へ]

琉球松さんへのお返事です。

>  奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
>  これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。

> 画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」

船の写真ありがとうございます。
小学校の登校路には川(新川・天降川)があって渡し舟でした。
当時渡し銭は5円でした。橋を渡ると3倍以上の周り道なのです。
往路は、良く遅刻しそうになるので重宝してました。
川船ですから、底も平だったように記憶してます。

http://yorihime3.net/

 

奄美の「あいのこ」

 投稿者:琉球松  投稿日:2016年 8月22日(月)09時28分40秒 ai126184025183.15.access-internet.ne.jp
返信・引用 編集済
   奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
 これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。
 見た目にはサバニとよく似ていますが、和船の安定性とサバニの直進走行性能がうまく合体されています。

 ちなみに、近隣の喜界島や沖永良部&与論は沖縄糸満や久高島漁師の影響が強いと言われ、サバニが利用されてきました。名称についてはジャワ島などの「サンバニャン(船の意味)」や、「鯖船」など諸説あります。

画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」
 

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