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Re: 神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月 8日(水)18時19分16秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.467[元記事へ]

 『日本書記』神功皇后の記事
仲哀二年正月 気長足姫尊を皇后とする。
仲哀八年正月 筑紫の灘県に至り橿日宮に滞在する。皇后、橿日浦で髪を解いて禊をし、海に臨んで神占の儀礼を行った。巫女の行為。
仲哀八年九月 天皇が熊襲を討とうとすると皇后に神がかりし、新羅征討を指示するが神の言を信用しない天皇は熊襲と戦い敗北する。「皇后の御腹にいる御子が国を得られるだろう。」との託宣を行った。住吉大神の託宣とおもわれる。
仲哀九年二月 天皇が橿日宮にて突然没し、遺体を穴門に移し豊浦宮で密かに無火残警行う。
仲哀九年九月 師船を集め西海を望み神の託宣を得る。石で腰を挟み開胎をおさえる。
仲哀九年十月 対馬を発ち新羅に至り国王を服属させる。
仲哀九年十二月 新羅より帰還して筑紫の字瀰で誉田天皇を産む。
神功元年二月 穴門豊浦宮に移り、京へ帰還する。麑坂忍熊両王が反逆の兵を挙げるが、麑坂王は死ぬ。
神功元年三月 武内宿祢は忍熊王の軍勢を近江に撃滅する。
神功元年十月 皇后を尊び皇太后と称す。
神功三年正月 誉田別皇子を皇太子とし、都を磐余に造る。
神功十三年二月 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。
神功三十九年(239 卑弥呼) 「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遺して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守都夏、吏を遺して将て送りて、京都に詣らしむ」。
神功四十年(240 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遺して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」。
神功四十三年(243 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遺して上献す」。
神功四十六年(364) 斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に派遣。百済王と倭使との交渉を記す。百済国は日本の場所も通交手段も知らない。(矛盾)
神功五十一年三月 百済使久弖ら来朝、千熊長彦を百済へ派遣する。
神功五十二年九月(372) 百済使久弖ら来朝し七枝刀など種々重宝を献上する。
神功六十二年(382)新羅が朝貢しないので葛城襲津彦を派遣して討たせる。
神功六十六年(266 台与)「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」。
神功六十九年四月 皇太后崩ず。
神功六十九年十月 狭城盾列陵に葬る。
 
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:はやぶさ  投稿日:2017年 2月 8日(水)11時02分43秒 FL1-118-111-180-18.kyt.mesh.ad.jp
返信・引用
  この書き込みで内容を初めて知った口なのですが

なんか日本側の使者が裴世清に道を覚えられないように上手いこと隠してたんかなぁ、と感じた
わざわざ身の危険を冒して日本へ来ている人間が記録をさぼるとは考え難いような
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月 6日(月)21時02分21秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
 高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

 岩波新書の『ヤマト王権』に、次のような文章が載っていました。


 七支刀の銘文で問題になるのは、後半の「為圏王旨造博示歴世」の解釈である。「倭王の旨」と読んで、四世紀に倭王である「旨」が存在したとする説もある。しかしながら、この箇所は「倭王の為に旨造し後世に伝示す」というように読む方がいいと思われる。「旨造」の読みが難しいが、村山正雄は「旨(美。うま)く造り」と読み、中国史研究者の宮崎市定は「旨(嘗。はじ)めて造り」とする(『謎の七支刀』)。いずれにせよ「旨造」の言葉であり、倭国王の名前にはならない。したがって、「倭王の旨」 の解釈は無理だろう。

 とあり、もっともだと感じています。このあたりのことはやっかいと言うか難しいですね。
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月16日(月)20時30分24秒 p4048-ipad102fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.465[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。
遅くなりました。あちこちのレジメからの転載で読みにくいかと存じますが、ご賢察ください。

> 解釈の問題のようですね。
> AD600、倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌。
> 倭王の姓名を明示。この段階では阿輩雞彌(おそらくオホキミ)など音を聞き取っての、隋側による文字化とみえます。

*「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」(13頁)の異字表記である。
・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
・「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」である。

*「天照大神」=「天」は前述。
・「照」=古代倭語“???”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。
・因みに高良大社の主祭神「高良・玉垂尊」=“?-?-?-??”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。

*「天(あま・あめ)」は、前章の東の意と「ま・め」=膨れている、山の意の古語との合成。「(国の)東の聖なる山」(水源のある山)となる。

・「天(あま・あめ)」の語源
*“?・?”(a・ad)=平面では「端・東の端」、立体的には「上・上方」と。
根拠は、筑後弁の 礼拝詞「アッ」から閃いたが…。朝日、月の出を拝む時、敬服する方と遭遇したとき、最敬礼して「アッ」という。
*「朝」は漢字音で「ちょう」であるが…。「あ(東)さ(処)」=夜が明ける所。
 朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
*檀君の古朝鮮建国神話の「阿斯(あさ)達(だル)」の「阿斯(あさ)」も「倭語」の「朝」が疑われる。
・「達(たル)」=「嶽(たけ)」の意とする説(故・金達寿、他)があるが、「倭訓」であろう。
・「嶽」=漢字音「ガク」、朝鮮語=“?”(ak)であるから、「倭語」である。
“?-??”(tal-gu-da)=「(火で)熱する、焼く」=倭語の「焚く」の語源とする「李寧熙」説もあるが、逆で、「炊く」が語源で“?-??”がある、と。
    ∴「阿斯達」=「東の山」で「朝焼けの山」でもあり「高天原」と同義語か、と。
“??”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
    ・安心院(大分県宇佐市)は、九州島の朝がくる方位でもある。
・阿波(四国の東端)・阿漕が浦(紀伊半島の東)・安房(房総半島の東端)。
・「上野」=(あヶの)⇒東の野、又は上(お偉い方の所有地の)野、の意か。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号 10~11頁。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ、と。≪一部抜粋≫
*「天(あま・あめ)」の「ま・め」は、“?”(me)=山の古語・雅語『民衆書林・韓日辞典』。子音は“m”で母音は“a+e”の中間音である。「ま=め」と両方に訛る。
・「ま」行は、膨れている物、出っ張っているものを表している。
・「眼」=“?”な(の)“?”(got)(処)。実=丸い。六つ=家屋に象る。
・「目」=眼球は膨れている。「も」=“?”(mo)=角、物のとがって突き出した部分。

> ところが、都斯麻國、竹斯國など九州方面の地名は万葉仮名使いとみえます(文字で情報伝達)。
> (魏志倭人伝の対馬には「シ」の音が含まれていない)
> (北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)

*倭人側の発音の変化を映していると観ます。
・「「對海(馬)國」」の「海・馬」=山の意の古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)“?”(mæ)を音写していて、双山國の意。
・「都斯麻國」の「斯麻」=「島」の「倭語」音写で、二島の意。
・語頭の「ツ」は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の“?”(tu)=「二つ」の意の音写です。

>(北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)
*竹林の拡張には北九州に限らず殆どの山間地で困っています。

> 書紀では
> 「大唐の客裴世清等を召さしめ、唐の客の爲に新しき館を難波の高麗の上に造らしむ・・客等、難波津に泊つ・・」
> 「小野妹子が百済を通る際に国書を奪われた」
> 「唐の客を海石榴市の衢に迎え・・」
> 「時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拜みて使の旨を言し上げて立つ。その書に曰く・・」
> 「時に阿倍臣、庭に出でてその書を受けて進み行き、大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の机の上に置きて奏し・・」
> ごちゃ混ぜ記事だとみています。
> 書紀には事象は書くが、時代と人物をすり替えて合成する作為少なからず。
> これが私の書紀解釈の原則です。
> どれもまるっきりの嘘ではないとみえるのがいやらしいところ(^^;

* ここが、『日本書紀』が馬脚を現している所です。隋の煬帝の使者裴世清を「大唐」と間違っています。九州の故事を簒奪した証拠です。

> 裴世清だけが九州に留まったとするなら、その理由は如何に。
> 隋と倭国、総合的な観点からの分析が必要だと思います。

*裴世清だけが九州に留まったのではなく、誰も畿内へは行っていない、と観ます。小野妹子が国書を奪われたというのも、九州皇統から出された使者が帰国してみたら、畿内に取って代わられていたので別の皇統へ国書を渡さない為の方便だと観ます。小野妹子も蘇因高が彼の地の認識ですし…。

> 余談
> 私の歴史観では、欽明(九州在)死して用明(九州在から近畿在)が継承、用明死して子の多利思比狐(近畿在)が継承。
> その政治混乱期を書紀は推古と聖徳太子の偽装によってリカバーしている、が基本です。
> 蘇我氏が台頭する時代(蘇我氏は用明に随伴して近畿に入り、物部氏を滅ぼしたとみています)。

*私も、朧気にはその様に感じていますが、確たる論考にまでは至っていません。詳しく、ご教示賜りたくよろしくお願い致します。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月12日(木)20時06分6秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.463[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

>かたばみさん、誤読があるようです。

解釈の問題のようですね。

AD600、倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌。
倭王の姓名を明示。この段階では阿輩雞彌(おそらくオホキミ)など音を聞き取っての、隋側による文字化とみえます。
ところが、都斯麻國、竹斯國など九州方面の地名は万葉仮名使いとみえます(文字で情報伝達)。
(魏志倭人伝の対馬には「シ」の音が含まれていない)
(北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)

冠位十二階は書紀では604制定、文字も隋側の記録とほぼ一致。
この時代は倭国と漢字利用と万葉仮名の変革期とみえます。

隋書帝紀煬帝四年(608)では「倭が貢ぎ物」、六年(610)にも「倭国が貢ぎ物」とあります。
で、「俀」の文字ではなく「倭」を使っています。
異なる書記官が記録したものが後世に伝わったと思われますが、このあたり隋側にもいささか危なっかしいところがある。

書紀では
「大唐の客裴世清等を召さしめ、唐の客の爲に新しき館を難波の高麗の上に造らしむ・・客等、難波津に泊つ・・」
「小野妹子が百済を通る際に国書を奪われた」
「唐の客を海石榴市の衢に迎え・・」
「時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拜みて使の旨を言し上げて立つ。その書に曰く・・」
「時に阿倍臣、庭に出でてその書を受けて進み行き、大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の机の上に置きて奏し・・」

ごちゃ混ぜ記事だとみています。
書紀には事象は書くが、時代と人物をすり替えて合成する作為少なからず。
これが私の書紀解釈の原則です。
どれもまるっきりの嘘ではないとみえるのがいやらしいところ(^^;

裴世清だけが九州に留まったとするなら、その理由は如何に。
隋と倭国、総合的な観点からの分析が必要だと思います。

余談
私の歴史観では、欽明(九州在)死して用明(九州在から近畿在)が継承、用明死して子の多利思比狐(近畿在)が継承。
その政治混乱期を書紀は推古と聖徳太子の偽装によってリカバーしている、が基本です。
蘇我氏が台頭する時代(蘇我氏は用明に随伴して近畿に入り、物部氏を滅ぼしたとみています)。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

『隋書』の解読

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月10日(火)23時03分55秒 p4246-ipad103fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  これは、或る講演会のレジメ転載です。

3.『隋書』の記述から…
1).「俀(倭)國在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」=列島のみとするのではナイ!
  *「前史の記述を踏襲、百済の東と新羅の南と水陸三千里の大海之中に在る」と。
 朝鮮半島の西海岸は百済領に旧・狗邪韓國の北限も南下、と。金海辺りに縮小化。
2).「其國境東西五月行南北三月行各至海」=裴世清は倭地に居て、列島の範囲の聴き取り調査を記録した、かと。朝鮮半島の南東の隅に縮小の倭地(伽耶)は無視、か。
3).「其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」=裴世清は現地踏査して現認。
  *「魏志に所謂「邪馬臺」とは、(「臺」とは女王の宮殿の意かと)来て見たら、東が高く西に下がる地勢の「邪靡堆」(黒髪靡く堆い小山)だった」と合点している。
   「東高西下」とは一望できる範囲の表現=水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を指している。この地は伊都國の南千五百里に在る。
4).「明年上遣文林郎裴(世)清使於俀國」=「明年(無礼な國書の翌年=大業四年)上(煬帝)は裴世清を遣わして俀(倭)國に使いさせた」。その行程記述は…。
  「度百済行至竹島南望[身冉]羅國経都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國」とは、全てが海上航路ではナイ!
*「(黄海を横断して)百済に渡って(陸路)竹島に至り、南に[身冉]羅國(済州島)を望み(再出航して)「迥か」大海之中の都斯麻國を経て(寄港せずに)東して一支國に至り又竹斯國(博多湾)に至る」である。半島南西の難所の航行を避けた記述である。
5).裴世清は竹斯國から一歩も出ていナイ!
  「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀(倭)」
 *「(竹斯國に居て)又東すれば秦王國(京筑)に至れる、其の人は華夏(中華)に同じで夷洲と為すも疑わしく明らかにする能わざるなり。又(竹斯國の東に)十餘國経ると海岸(別府湾)に達する。竹斯國より東は皆(秦王國と十餘國は)倭に附庸する」=伝聞記述で、裴世清は行っていない。
※前項と「竹斯國」が二回登場するのは、最終目的地に居る事を意味している。
※「竹斯國」とは前史の国名の「末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺(壹)國、(彌奴國)」を包括しているというか、それらが国情説明文言の一部であって国名ではなかった、と看破しての表記である。
※「秦王國」とは、「「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖(秦)ン(の)國」=神崎郡が発展的に京筑地区へ展開。
※俀(倭)國には、都斯麻國、一支國、竹斯國、秦王國、十餘國とあるが、倭王「阿毎多利思比孤」の國邑的存在で各国に王は居ないのである。あるのは官職名だけ。
6).「俀(倭)王遣小徳阿軰臺從数百人設儀仗鳴鼓角來迎…」とは…。
*「倭王は(博多湾に)小徳阿軰臺を遣わし、数百人の儀仗を従えて鼓と角笛を鳴らして迎えさせた(大宰府に逗留)…」。小徳(阿軰臺)とは倭王の官僚名か。
7).「後十日又遣大禮哥多[田比]從二百餘騎郊勞既至彼都」とは…。
 *「十日の後(待たせて)大禮哥多[田比]を遣わし二百騎を従えて郊勞、都に至った」
  =「(大宰府に)十日待たされて、倭王の都に着いた」=待たせた理由は…
  「稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使」=「境内(大宰府)に待たせて即逢わなかったのは、道路を清め館を飾って大使を待つ故です」。
※大宰府から十日で道路が清められる処に「阿毎多利思比孤」の館は在る。それは、水縄連山(耳納山地)北麓の高良山である。大禮哥多[田比]とは倭王の官僚名か。
8).「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」(13頁)の異字表記である。
・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
・「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」である。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月10日(火)22時57分14秒 p4246-ipad103fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.461[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

かたばみさん、誤読があるようです。

> 「竹斯国に至り、また東に秦王国」、ここまでは既知の情報だと思います(倭国の使者による情報)。
> (背景にある倭国情勢については後ほど別項にて)
>
> しかし、その後がいけない。すなわち裴世清がもたらしたであろう情報。
> 「十余国を経て、海岸に達した」・・十余国の名も日数もなにも書かれていない。
> なんじゃこれは(^^;
> 裴世清は船に乗ってボケーっとしていただけじゃないのか(^^;

*裴世清は竹斯國からは一歩も外に出ていません。
竹斯國が二度登場するのは、最終目的地に居るからです。
「東へ行けば秦王國が在る。十餘國を経れば海岸(別府湾)に達する」と述べています。

> 倭王が役人(阿輩臺)に出迎えさせて歓迎してくれた。10日後にその都に至った。

*博多湾に小徳阿輩臺が迎えに来て迎賓館(大宰府あたり)に十日待たされた。大禮哥多[田比]が迎えに来て彼の都に至った。十日待たせたのは、道を清め(犬の糞など清掃)館を飾る為です、と言い訳している。
>
> 「海岸」から都までの様子も書かれていない。
> 河内から大和川を遡航したのか、堺あたりから金剛山地越え(竹内街道)で奈良へはいったのか。
> 斑鳩宮なのか、他の宮殿なのか。
> 魏志倭人伝に比肩する情報になったはずなのに・・

*↑の様な道中ではないから書かないのです。
 

Re: 中国正史

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月10日(火)09時34分38秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.459[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

『魏志倭人伝』から。伊都国の近くに奴国と不弥国があり、そこの副官を卑奴母離と言うとあります。これは夷守(ひなもり)と考えるのは実に素直で自然ことだと思います。また伊都国はイトと読むのでしょう。
対馬、一大?一支(いき)にも卑奴母離がいます。遠い国の役職に夷守があるようで、女王の都は北九州をヒナと呼ぶような位置にあったものと考えています。
 倭人伝の漢字発音は呉音が混ざっているようですね。後漢時代には、呉音の人の多く長安あたりに居たのかもしれませんね。
 

裴世清は子供の使い

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月 9日(月)16時10分30秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  隋書(AD650頃成立)の記事のほとんどは裴世清の倭国来訪AD608以前の情報と考えています。
隋書によれば、倭国から隋への使者はAD600とAD607です。
新唐書(AD1060)に「用明以て曰く目多利思比狐が隋と通じる」とあります。
(書紀系譜で用明585-586、持論では欽明539-571を継承して571-586頃、短命ではない)
この記事が偽でない限り、隋書に書かれる使者の前にも倭国の使者が存在したとみえます。

隋書AD600で倭国の使者に倭国の風俗を尋ねています(衣服、賞罰など詳細です)。
AD607に再び倭国の使者(日出ずる處の天子うんぬん)。さらに詳細情報を得たでしょう。
そしてAD608に裴世清を倭国に送って国書を届けた。

「竹斯国に至り、また東に秦王国」、ここまでは既知の情報だと思います(倭国の使者による情報)。
(背景にある倭国情勢については後ほど別項にて)

しかし、その後がいけない。すなわち裴世清がもたらしたであろう情報。
「十余国を経て、海岸に達した」・・十余国の名も日数もなにも書かれていない。
なんじゃこれは(^^;
裴世清は船に乗ってボケーっとしていただけじゃないのか(^^;

倭王が役人(阿輩臺)に出迎えさせて歓迎してくれた。10日後にその都に至った。

「海岸」から都までの様子も書かれていない。
河内から大和川を遡航したのか、堺あたりから金剛山地越え(竹内街道)で奈良へはいったのか。
斑鳩宮なのか、他の宮殿なのか。
魏志倭人伝に比肩する情報になったはずなのに・・

後漢書すら読んではいないのではないかな。
隋がこれまでに知る情報と最新の倭国情報の突き合わせなど、むろんやっていないでしょう。
問える倭国の知識人はいくらでもいたはずです。

その王は(裴世)清と相まみえて尋ねた。儀礼的答えをして裴世清は館に帰る。
私の役目は終わったので帰国させてくれ。
倭王は宴を催し貢ぎ物を持って裴世清に同行させた。その後(通交は)絶えた。
なんじゃこれは(^^;

我が身(裴世清)に関わることしか書いてない。
国書を届けよと命じられたことだけしか頭になかったのだと思っています。
裴世清はできの悪い小間使いにすぎない。

倭国をその程度で十分とみなしていた、でもあるのでしょう。
帰国した裴世清からはなんの情報も得られず、なにやってんだアホボケ(^^; だったと思うです。
10年後に隋は滅亡する。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 中国正史

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月 9日(月)16時03分54秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.459[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

>倭人が何の意味を何と発音したら、あの文字撰びをするか、です

中国人が聞き取った「倭語」を文字に変換して記録するのは中国人。
中国人の発音には「方言がある(文字の意味は共通だが、黄河の人が長江の人と話をしても通じない)。
どういう方言(発音)による変換で書かれた文字か、を知らねば「倭語での原音」も推測できません。

魏の方言(魏音)にいたってはなにもわかっていない。
漢字からの倭語の(発音)推定は不確実要素が大きすぎて危ないとみています。
福島さんもおそらく同様で、それがおっしゃる「読んではならない」だと思います。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

中国正史

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 5日(木)22時08分13秒 p4124-ipad104fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  先ず、読んでは駄目です。「倭語」音写の部分は…。

倭人が何の意味を何と発音したら、あの文字撰びをするか、です。

近似音ですから、正確な原音は却って邪魔になる、です。

「紐育」の漢字音を正確に発音しても“NEWYORK”のネイティブの再現にはなりません。

『隋書』は前史の記述を踏襲しなかった事が評価されるべきです。

『後漢書』も『三国志(魏志倭人伝)』も現地を知らずに記述しています。

『隋書』は裴世清が現地踏査して「古の魏志に謂う所の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは、来て観たら「邪靡堆」だった」と。
百聞は一見に如かず、です。国名ではなかった、と看破しています。
 

Re: 年賀状です

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月 5日(木)20時36分56秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  みなさん、新年あけましておめでとうございます。

神奈備さんへのお返事です。

>邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります

隋書の倭国伝はWEBでは以下
http://grnba.com/iiyama/html/zuisho-wakokuden.htm
ただし、隋書原文では俀国とあるのを上記WEBでは倭国と書き換えています(これをやってはならない)。

古事記や風土記だと電子書籍でよいのがある(検索ができるので時間の節約になって猛烈にありがたい)。
書紀では原文と対訳のよいのがないなあ。


隋書は、魏志倭人伝や後漢書などによる既知の「倭国」とは違う倭国であることを知って「俀国」と書いたのだとみています。
ただし、後漢書の「倭奴国」まで俀奴国と書き換えています。
これはいけません、後漢書の倭奴国とは時代が600年も違うのだし。

隋書の邪馬堆も同様で、後漢書などの邪馬臺を邪馬堆に書き換えたものと考えています。
やってはならないことをやっている(^^;


言語は苦手、教えていただきたいのは辞書によくある漢音と呉音とはなにか、です。
中国の中古音の発音には漢音と呉音があり唐音はその中間的であり方言の一種と理解しています。
同じ文字で発音が同じになったりならなかったり。

いつの時代のどこの国ではどのような発音であったのか、発音をベースに考えるのであれば非常に重要と思います。
魏呉蜀の三国時代、遠方の未知の国の国名を文字化するとき、敵対国の発音で文字化(記録)するはずはありません。
魏志倭人伝なら(魏の人物の情報収集)なら、魏の発音をベースにして文字化(記録)するはずです。
では、魏の発音とはいかなるものか。

呉音は長江付近、漢音は黄河付近とみなすなら、少なくとも魏志倭人伝を呉音で読んではならない、だと思います。
手持ちの辞書に従うなら、倭人伝の邪馬をヤマと読むのは呉音です。
漢音なら邪馬臺はシャバタイ、邪馬壹ならシャバイツ、それに近い発音への当て字となります。
(卑弥呼も同様でヒミコではない、ヒビコ。日・日子であり「彦」の原型で官職名とみる)
いったん文字化されて記録されたら、その文字が改変されることはまずない、やってはならないはずです。
(隋書はそれをやっている)

邪馬臺国あるいは邪馬壹国を「魏音」で発音したらどうなるのか。
この論をみたことがありません。おそらく魏音が伝わっていないために推測にしかならないからだと思ってます。
発音はその場限りで消える、表意文字の弱点かな(文字なら通じるけれど発音では通じない)。

中国史書での「発音を文字化した記録」には不確実要素が大きく、これをベースにするのは危険だと考えています。
ゆえに私にとっては重要度が低い(^^;


さて、万葉集。表意文字と表音文字の複合要素をもつ貴重な文献と思います。
0001 山跡乃國 雄略時代とされるが?
3248 山跡之土丹 年代不明
3236 倭國 年代不明
3326 日本國 年代不明
3608s 夜麻等思麻見由/柿本人麻呂
やまと島みゆ、AD736の遣新羅使関連の歌だそうです。
この「やまと」は北九州ないし列島全体を意味すると思われます。少なくとも奈良盆地ではないでしょう。

すなわち「やまと」が奈良地域を示すようになるのはうんと新しい、少なくとも万葉以降。
裴世清より100年以上新しい、魏志倭人伝(の記録)より1000年近く新しい。
魏志倭人伝の邪馬壹国の発音を「奈良」に繋ぐのは無理である、そう考えています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 年賀状です

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月 5日(木)11時46分9秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.455[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。
>

 ありがとyございます。
 言語については、全くの素人ですので、下記のサイトなどを参考にしています。

http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106a.htm
大和と邪摩堆と邪馬台国


 魏の発音は中古音のようです。この音でも。お説は成り立つと思います。

 畿内の大和地名は、この音が九州から持ち込まれたものでないとすると、邪馬台と大和の音の一致は、50音三つの一致ですから 1/50**3 となり、あまりにも小さい。
持ち込まれていないとすれば、邪馬台国は畿内だったと考える他はありません。

 

新年

 投稿者:琉球松  投稿日:2017年 1月 4日(水)12時07分36秒 ai126249046025.22.access-internet.ne.jp
返信・引用
   明けましておめでとうございます。

 今年も南島からこの掲示板を応援してますよ。

画像は、正月に琉球国王が北方を拝む儀式の再現イベント(首里城内にて)
 

Re: 年賀状です

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 3日(火)22時50分2秒 p3022-ipad31fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

>  古代史の謎ですが、
>
>  邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。
>
>  また、卑弥呼の発音も、気にかかります。

愚説は以下の通りです。

≪「邪馬臺國」とは、古今東西の叡智の塊のような先哲が探究してもその所在が確定していません。
本居宣長、新井白石らから約三百年・白鳥庫吉VS内藤虎次郎から約百年論争が続いています。
これは「邪馬臺國」の本質が解っていないからである。(福島雅彦の結論)
「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」が既に解答を与えている、と。
*「邪馬臺國」とは、「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。
・倭人の使者に「卑彌呼」は何処に坐すか、と問う。
 答えて曰く「天(あま・あめ)たィ!」と「高天原」の意で述べた。「…たィ」は強調の語尾。
 九州弁は「蟻」を「やり・ィあり」と訛る。「天(あま・あめ)」は「邪馬」と聴き取られる。
*「邪馬壹國」とは、後世の倭人の使者に「今でも「卑彌呼」は邪馬臺國に坐すか」と問う。
・倭人の使者は「邪馬臺國」が解らない。その様な国名の地は存在しないから…。
・「卑彌呼」の居所を問われたのは判ったので答えて「天(あま・あめ)ン(の)うヰ(上)」と、一本指を立てて上方を指した。
・「上(うヰ)“wi”」は一本指から「壹」“yi”の訛りと採られた」。中国側の書記官が前史が臺と壹を書き間違った、と判断した、かと。
*「邪靡堆」とは、現地踏査した裴世清が「邪馬臺國」の実態を観ての文字撰びである。
・曰く「古の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは来て観たら、国名ではなく(髪が)靡く様な堆(うずたか)いだけの小山だった」と
・「伊都國」の南千五百里に在る「水縄連山(耳納山地)」のことである。
・此の山は東西≒25kmの一重の単山。
・山頂はノコギリノ歯状(高千穂)を呈し、山腹は下り尾根と谷沢に刻まれ櫛で梳いた様(櫛触る嶽)を呈している。
*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触る嶽」そのものである。
・「筑紫の日向の」=この山の東端に地名「日向」が現存。「〇〇日向」は十三か所。
・「襲の」=“?”(seo)西の。
・「高千穂の」=“??-”千穂=千の穂(山頂)が寄って集(たか)って。
・「櫛触る嶽」=山腹の下り尾根と谷沢の様。“?”(hul)=扱(しご)く=梳る。

∴「卑彌呼」の居所=「高天原」=「天(あま・あめ)」と答えた「倭語」の音写である≫

以上が、愚説の骨子のダイジェスト版です。
・「邪馬臺國」は此処だ!と、国名として述べたら全て間違いである。
・*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

≪「卑彌呼」≫は
3).「卑彌呼」は固有名詞(個人名)ではナイ!
*“?”(him)尊(みこと)=最高位の尊の意の職掌名。(天照大神も同義=後述)何人も何代も襲名出来る。「尊(みこと)」とは稲作を仕切る「水事(みこと)・米事(みこと)」であろう。
 ①「ひン投げる」=(相撲などで圧倒的力量差で相手を)投げ飛ばす、事。
 ②「ひ(ン)の叫(おら)び」=この上もない大音声で叫ぶ、こと。
 ③「ひンだれた」=この上もなく疲労困憊した。以上は九州弁の“?”(him)。
・朝鮮語の“?”(him)=「力(ちから、りき)、筋肉の働き、体力、物理上の力、働き、力量、能力、知るか覚ることのできる才能、勢力や権力、精力、元気、etc」『民衆書林・韓日辞典』、とたった一音節の語彙にこれだけの意味がある。「倭語」借用だからか、と。

以上は、或る講演会でのレジメの転載です。
全て、言語・語源からのアプローチです。独創説です。
 
 

Re: 年賀状です

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月 3日(火)17時40分56秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.453[元記事へ]

福島雅彦さん、皆さん。

 あけましておめでとうございます。

 皆様のご投稿のおかげで、この掲示板も18年目を迎えました。ありがとうございます。


 古代史の謎ですが、

 邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。

 また、卑弥呼の発音も、木にかかります。

 
 

年賀状です

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 1日(日)00時05分31秒 p6226-ipad112fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  此処に集われる方々へ
≪恭賀新年≫ 年頭に当たり皆々様のご健康とご清祥をお祈り申し上げます。
        昨年は色々と学ばせて頂きました。
今年もよろしくお願いいたします。

【所謂「邪馬臺國」とは、国名ではなく卑弥呼の居所説明文言の一部である、と看破して二十年。その間、久留米大学経済学部教授に見いだされ「久留米学」のゼミで十二年連続、公開講座にも八回講義。九州国立博物館開館四周年記念シンポ「邪馬台国はここにあった」でも登壇と活動を重ねるも未だ世に容れられるに至らず長嘆息。「邪馬臺國」とは来て観たら「邪靡堆」だった、と裴世清が『隋書』でその誤謬を正しているが誰も気付かない。コペルニクスの地動説は世に容れられるのに約百五十年を要したとか。情報伝達速度は当時と比ぶべくもない程の速さであるから、自説もソロソロかと今年あたり期待しています。】
平成29年丁酉元旦 福島雅彦
 

Re: 丹塗りの矢

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月31日(土)10時04分30秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.451[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 皆さん、今年も色々教えていただき、また触発をいただき、ありがとうございました。

 丹塗矢は、妊娠・誕生へ繋がる説話となっていますので、日光を物体的に表現したものではないでしょうか。
 こう考えますと、百襲姫の場合には、朝の出来事で、日光を思わせるのですが、姫を死に至らしめているので、日光ではなく、やはり箸と考え、大物主と百襲姫をつなぐ絆が切れたことの象徴のような気がします。

 皆さん、よいお年をお迎えください。
 

丹塗りの矢

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月30日(金)01時39分32秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  山城国風土記逸文にある玉依日賣と「丹塗り矢」伝承(賀茂建角身命-玉依姫命-賀茂別雷命)。
古事記では三輪山の大物主と丹塗り矢。
古事記の神武天皇(比売多多良伊須気余理比売)でも丹塗り矢。
箸墓の「倭迹々日百襲姫」のホトを箸で突いて、はいささか不自然に過ぎる(^^;
これも大物主とのからみでの丹塗り矢の変形じゃないかな。

丹塗り矢の説話は北九州の婚姻儀礼を始発とするのではないか。
海人系譜(南西諸島系-豊玉姫-玉依姫-安曇海人)や味耜高彦根の子孫などによって畿内に運ばれ、その痕跡が丹塗り矢説話ではないかと思っています。

東京では破魔矢に白と赤があります。どっちにするか悩むところ。
来年もまたよろしくお願いいたします。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 麦の害鳥になる鴨

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月29日(木)21時22分50秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.448[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

渡り鳥のカモは マガモ、カルガモ、コガモ
定着のカモは ヒドリガモ

渡り鳥のカモは湿地を好むようですが、ヒドリガモは乾燥地を好むようで、植物の種子や麦の若奈を好むようです。

アジガモ現在ではは巴鴨と言い、マガモに属します。麦の害鳥にはならないようです。

このカモの名を持つのが阿遅鋤高日子根命で迦毛の大御神と称されています。、
 

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