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蘇我氏

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 8月14日(月)11時13分46秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1. 500年代前半までの古墳は百舌鳥・古市などの平野部に営まれていた。後半になって大阪府の東南部、太子町と河南町の谷合が王陵の谷とよばれる墓域になる。磯長谷(しながたに)古墳群である。またその南山麓には、蘇我一族の墓域と考えられている一須賀古墳群が営まれる。一須賀古墳群は100基を越える大型の群集墳で、500年代前半から600年代にかけて造営された。

 この山麓の南側に平石谷がある。谷の北斜面には、ツカマリ古墳、アカハゲ古墳など、終末期の切石造の古墳が点在している。

 シシヨツカ古墳が造営された平石谷には、この古墳以外にも終末期古墳としてツカマリ古墳、アカハゲ古墳が存在し、それらも最近の調査によっていずれも墳丘規模が数十メートルあるのが明らかにされているが高度な技術で鏡面加工した石槨をそなえ、サイズは推古陵や用明陵と同等である。磯長谷の王陵の被葬者と同じ時期に活躍した勢力の墓域と考えざるを得ない。
 
 

物部守屋8

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 8月13日(日)09時17分36秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.522[元記事へ]

http://kamnavi.jp/uga/ugamoriya.htm

に、まとめました、


継体天皇は

http://kamnavi.jp/uga/ugakeitai.htm

にまとめてあります。
 

物部守屋7

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月29日(土)14時31分33秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   四天王寺の守屋祠は現在は朱塗りの美しい祠であり、元禄七年の石燈篭が建っている。江戸時代、守屋祠を見た参詣者は石礫を祠に投げつけたと言われる。一時、熊野権現と名を偽ったという。毎月21日に絵堂への扉が開くので、参拝できる。守屋祠を願成就宮と呼んでいるのは、聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀ったと伝えられている。祟り神への褒め殺し策である。

 『紀』崇峻即位前期 時の人、相語りて曰く。「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄りに妻の計を用いて大連を殺せり。」という。谷川健一氏は*3で、馬子が守屋を殺す必然性がなかったことを暗示していると書く。

 『紀』時げ経て皇極二年 643 蘇我大臣蝦夷、病によりてつかまつらず。私(ひそか)に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位を擬(なずら)ふ。復(また)その弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて威(いきおい)を世にとれり。
 守屋の妹の思惑通りにことが運んだようだ。これでは守屋は怨霊になるしかない。四天王寺は守屋の財産の半分と家人半分で建造されたという。残り半分が妹の手に入った。

 ここから見えてくるのは四天王寺の建立の目的である。即ち、守屋鎮魂である。守屋を鎮魂せねばならないのは聖徳太子ではない。馬子である。四天王寺の建立は馬子によるものである。

 四天王寺は崇峻即位前の587に難波の玉造に作られ、推古元年593に現在地に移転したと考えられている。守屋鎮魂は急がれたであろうから、守屋の死後すぐに守屋の館を接収して霊魂を慰める社と原四天王寺にしたのであろう。現在の玉造稲荷神社の場所と思われる。若干高台になっていること、白竜が住むとされる亀池があること、西向きの鳥居があること、などが四天王寺と共通している。
 四天王寺は荒陵の地すなわち古墳の上に建立されたようである。この時代は古墳や神社の杜を寺院の建立場所と見なしていたのだろう。
 

物部守屋6

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月27日(木)20時18分42秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  5.物部守屋の殺害 -1
 二皇子を殺した馬子としては、守屋を殺すことに躊躇はなかった。幸いなことに皇族には奉仏派であり、皇位の安定継承・仏教の守護をキャッチフレーズに、物部守屋討伐の挙兵をすることになった。

 即位前の崇峻天皇(泊瀬部皇子)・厩戸皇子(聖徳太子)など殆どの皇子達と紀氏・葛城氏・巨勢氏らが軍勢を整え、賊軍とされた物部守屋軍の構える河内の渋川(八尾市)へ攻め込んだ。軍事氏族である物部氏は稲城(いなき)を積み上げて奮戦し流石に強かった。稲城は稲魂をもって守護する神道の呪術である。稲束に矢を射かけるのは兵士と雖も抵抗があったようだ。*2

 藤井四段より一つ若い14歳の聖徳太子は白膠木(ぬるで うるしの木、カチノキとも言う。)を切り取り四天王の像を彫り、勝たせてくれたら四天王のために寺塔を建てようと誓った。太子も呪術で対抗したのである。馬子も同様の誓いを行った。呪詛返しである。守屋は討たれた。守屋の神道呪術に対する聖徳太子の仏教呪術の勝利である。

 物部守屋は殺されなければならないほどの罪をおこしたのであろうか。別の天皇候補を推薦したことか、仏教に反対したことか、馬子に逆らったことか、そうではない。財産を狙われて冤罪をかぶせられた死であった。これは恨み骨髄である。怨霊となる死である。

 谷川健一氏は*3で難波の四天王寺に奇怪な伝承があると書く。「四天王寺の寺塔は、合戦で戦死した物部守屋の怨霊が悪禽となって来襲し、多大な損傷を受ける被害に悩まされた。そこで聖徳太子は白い鷹となって悪禽を追い払うことになった。」という話である。
 守屋が怨霊になったことは世間の常識であったと思われる。即ち、冤罪である。

 四天王寺に願成就宮と言う物部守屋を祀る守屋祠が鎮座している。この宮の確認に四天王寺寺務所に行ったところ、宝塚の中山観音にも守屋が祀られているヨと教えてくれた。
 安産祈願で有名な中山寺から約40分程山道を登ると奥院である。奥院前の掲示によれば、「聖徳太子は大仲姫のお告げによりこの山をお開きになりまして悲運の忍熊皇子の鎮魂供養の為、逆臣物部守屋の障りを除く為に当寺を建立されたのであります。」とあった。大仲媛は仲哀天皇の妃で忍熊皇子の母である。ここでも守屋は障りをもたらす厄神とされている。
 

物部守屋5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月21日(金)08時40分40秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  4.崇峻天皇の時代
 用明天皇は二年に病死した。物部守屋は穴穂部王を立てて即位させようと淡路島で挙兵しようと企てたが、その計画が洩れたとされる。なぜ淡路島なのか疑問。蘇我が流した噂に過ぎないかも知れない。
 蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、穴穂部王と宅部皇子(宣化天皇の皇子とか穴穂部の同母弟などの説がある。)を殺害させた。蘇我氏は皇族を殺すことに躊躇がなかったようだ。
 殺された穴穂部王は皇位を狙っていた存在ではあるが、大人の皇子であれば皇位を望むのはあたりまえであり、いちいち殺されていてはかなわない。おそらくは恨みを残した死であったろうが、皇子としては日々暗殺の覚悟はあったのではなかろうか。怨霊にはならなったと思う。

 用明天皇は蘇我稲目の娘の堅塩媛と欽明天皇の間の皇子であり、所謂蘇我腹の天皇であった。蘇我氏は外戚として力を増し、物部大連を上回る力を持ってきた。仏教の受け入れについても、用明天皇の意思に見るように、奉仏派が優勢であり、物部大連の反仏の旗色が悪いことは明らかであった。ここに蘇我腹の崇峻天皇が即位するにあたって物部守屋は慣例通り大連になるだろうが、蘇我馬子大臣との力の差は大きかったと思われる。政治的には既に問題外の存在であったものと思われる。

 『紀』蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、名前は伝わっていないが、『紀氏家牒』には、太媛とある。大媛の生活費は実家である物部本家(当主は守屋)が工面していたが、蘇我氏との対立激化、大和物部等の離反などがあり、本家は力を失いつつあった。それでも太媛が生活費に窮することはなかったと思いたい。しかし、夫の馬子の朝廷での力が増す従って、豊御食炊屋姫などの皇女との交際機会が多くなり、贅沢な交際に費用に窮することもあったろう。

 太媛は兄の守屋に支援の増額を求めたのであろうが、戦いの準備も必要と考えていた守屋には聞き入れられなかった。そこで、太媛が目を付けたのが物部本家の膨大な資産である。守屋を罪人として滅ぼせば、一族の者には相続ができず、朝廷が没収、また一部は妹である自分(太媛)のものになると考えても不思議ではない。

 川に落ちた犬はたたけ。この際、物部本家を滅ぼしてしまえ、後世の禍根を断て。守屋の実の妹である太媛が国家と蘇我家の将来を慮るふりをして夫の馬子をそそのかしたのであろう。



 

物部守屋4

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月16日(日)14時42分9秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  3.用明天皇の時代
 『紀』用明元年 586 敏達天皇の死後、妃の豊御食炊屋姫(のちの推古天皇)が殯の宮に侍している所へ天皇の異母弟で物部守屋が皇位につけようとしている穴穂部王が炊屋姫を姦そうとして宮に入ろうとした。前の皇后を娶ることは皇位への近道であった。だが、敏達天皇の忠臣であった三輪逆に拒まれた。すると穴穂部王は物部守屋に命じて三輪逆を殺さした。守屋は反仏の仲間をみすみす失ったことになる。背景に三輪大物主信仰と石上布都御魂信仰との競合があったのかもしれない。
 豊御食炊屋姫と蘇我馬子が手を結ぶ条件が整った。

 用明天皇は病を得て、仏教に帰依したいと表明し、群臣に協議させた。天皇個人の望みであるが、天皇の信仰問題は、国政レベルの問題であった。反仏の守屋と奉仏の馬子は折り合えなかった。そのような中、穴穂部王が豊国法師を内裏に迎え入れた。豊国には渡来人が多く住んでおり、渡来系の神に加えて、民間に仏教が普及していたものと思われる。 豊国法師には病を治す、除去する強い力があると信じられていたのだろう。


 

物部守屋3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月12日(水)11時54分25秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  2. 敏達天皇の時代
 敏達六年 577 「私部(きさいべ)」が設置された。従来は后紀(きさき)それぞれのための名代である部(例えば安閑皇后の春日山田皇女の部は「春日部」である。)が設置され、生活を支えていた。「私部」は后妃全般を資養する部として設定された大がかりなものである。これは豊御食炊屋姫(後の推古天皇)の権力基盤として機能した。
 豪族の奥方達から見ると実家からの仕送りに頼らざるをえない立場とは大きく違うもので、垂涎の的だったのだろうと思われる。

 敏達天皇は仏法を信(う)けたまわずして、文史を愛(めぐ)みたまふ、と『紀』に見えるよに、仏教受容には否定的であった。

 『元興寺縁起』敏達十二年 583 災いを得た蘇我馬子が筮卜で占ったところ、父の祀った神(仏)の祟りであることが判明した。驚愕した馬子は仏法を広め、仏の心を和らぐように出家する人を探した。渡来系の氏族の少女三人を見つけ、桜井道場に住まわせた。『紀』では、仏殿の石川精舎(橿原市)を作ったとある。「仏法の初め、慈(ここ)より作(おこ)れり。」とある。大臣が祀ったものだが、これは「和宅仏教」である。個人としての仏信仰は、もっと早い時期に九州などで行われていたと考えられている。

 『元興寺縁起』敏達十四年 585 豊浦碕に塔の心柱を建てて、舎利を柱頭に納める仏事法会が行われた。破仏の機会を待ち構えていた敏達天皇は命を下し、造立されたばかりの塔の心柱を伐り、仏像と安置している建物を焼いた。『紀』では、物部守屋・三輪逆・中臣磐余の三人が破仏に働いた。出家三尼は法衣を脱がされ、尻や肩の鞭打ちの刑を受けた。

 『紀』敏達十四年、天皇崩御。殯宮で、蘇我馬子は刀をさして誄をおこなった。守屋は大きい矢で射られた雀のようだとあざけた。守屋は物部流で足をふるえさせて誄を行ったのを見て、馬子は鈴を取り付けたらいいと笑った。大連と大臣とは互いに恨みを持った。
 

物部守屋2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月 9日(日)12時58分26秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   一方、仏教は私的にはすでに入って来ていた。卑弥呼の頃の銅鏡のなかに数面の三角縁仏獣鏡が入っており、また九州の寺院の創建年度が仏教公伝の時より古いものが見られる。雄略朝の豊国奇巫が登場しているが、仏教がらみかも知れない。

羽曳野市出土画文帯仏獣鏡

 各豪族は概ね仏教の概要を承知しており、自らの立場を決めていたと思われる。物部尾輿は反仏であり、蘇我稲目は奉仏であった。

 欽明天皇は聖明王から送られた仏像等を稲目に与え、彼は小墾田の家に安置した。渡来人の多くは仏教を奉じていたので、稲目は渡来人の支持を受けることになった。

 蘇我氏が仏事を行って一年後、疫病が広がり、多くの病死者が出た。反仏派は奉仏派が他国神を祀るから国神が祟ったと主張し、奉仏派は祀らないからと主張した。ここでは他国神も国神と同じく祟り神との理解である。

 国神とは地域の神であり、豪族の祭祀によって領有地の豊穣・安寧をもたらす神である。一方、他国神は国や地域を越えた普遍性があり、国神と他国神(仏)は基本的に対立するものではない。これは疫病によって被害を蒙った地域の反仏派と奉仏派の豪族間の反目と見ることができよう。

 欽明天皇は蘇我稲目に他国神を礼するは罪であり、奉仏を許すべきではないと告げた。これに対して稲目は表向きは反仏派のようにふるまうが、内心では他国神を捨てないと決意を述べ、欽明天皇も自分も同じ考えであると告げた。
 とにもかくにも反仏派が力を増し、物部尾輿らは蘇我氏の建立した堂舎を焼き、仏族・仏具を難波の堀江に流し百済に放逐した。

 欽明三十一年に蘇我稲目が死に、息子の馬子が大臣になった。

 

物部守屋1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 7月 5日(水)20時46分5秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   1.欽明天皇の時代から
『紀』 元年 540 物部尾輿大連、大伴金村大連を失脚させる。任那割譲問題とするが安閑宣化を即位させたことを巡っての政争と思われる。
『上宮聖徳王帝説』等 前538 百済の聖明王(『三国遺事;百済王暦』聖明即位26年)によって、仏教が王権へ伝達された。仏の顔相貌瑞厳(カホキラギラ)し。磐座や神籬に比べると実に文化的なインパクトがあった。天皇は内心圧倒されたのではないか。
『紀』十三年 552 百済の聖明王(『三国遺事』聖明即位26年)によって仏教公伝。
百済武寧王の慕誌から、武寧王の没年・聖明王の即位は523年となる。聖明王26年は548年となる。*1 上田正昭氏
朝鮮三国は冊封体制に入ってからの仏教を受容であり、中国王朝に反対の意思を示すことができなかった。

『元興寺縁起』欽明天皇は諸臣に、「他国より送り度せし仏教を用いるべきか否かについて良く計り返答するように。」と命じた。仏教の受容は、天皇の統治権にかかわる問題であり、天皇自らが決定すべき問題であったが、これは優柔不断な姿勢とであった。倭の天皇は稲作の為の産霊神の祭祀王としての役割があり、決めかねていたのであろう。

 

継体天皇 9/end

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月19日(月)09時20分52秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  9.継体天皇の崩御
507 『紀』継体元年
527 『記』継体死 43歳
531 『紀』継体死 82歳 『安閑紀』継体は安閑を即位させ、その日に死んだ。
『百済本記』継体の死 伝聞 天皇・皇太子・皇子が皆死んだ。
534 『紀』安閑元年 『紀ある書』継体死
535 『紀』安閑死
536 『紀』宣化元年
539 『紀』宣化死
540 『紀』欽明元年
 『紀』は、継体天皇は、継体25年春(西暦531)、安閑天皇を即位させ、その日の内に82歳で崩御したとある。後継指名に継体の執念を感じる。ところが、継体崩御後、2年間の空白期間をおいて安閑天皇が69歳で即位したと記している。82歳に66歳の子供、すなわち数えで17歳の時に生まれたことになる。少し早いように思うが、成り立たないことはない。
 『百済本記』には、継体28年に崩御したとある。更に、天皇および皇太子・皇子が皆死んだとある。『本朝皇胤紹運録』に安閑天皇の皇子に豊彦王の名をあげている。継体陵とされる高槻市の今城塚古墳から3体の石棺がでており、符合する話である。
 『紀』本文の空白の2年間は何か。安閑天皇は継体天皇から次期天皇と指名されたが、この時代、群臣の衆議で天皇が決められることが多く、天皇といえども後継指名は異例である。しかし、皇族の最年長の安閑天皇、彼が実質後継として行動しており、後に群臣が追認したものと考えることができる。堺市文化財課の十河良和氏は安閑陵(高屋築山古墳)は未完成の古墳と指摘されているのは興味あることである。

*1 『継体大王と朝鮮半島の謎』水谷千秋
*2 『福井県の歴史』
*3 『継体大王と筑紫君磐井』今城塚古代歴史館5周年記念特別展

 

継体天皇8

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月16日(金)14時00分57秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  8.磐井の乱
継体の即位への抵抗勢力が大和国内にもあったとされている。古代には普通天皇候補が複数おり、なかなか満場一致ということはなかっただろうし、不思議なことではない。それがゆえに大和入りが遅れた云々はなかろう。必要があり、慣れ親しんだ淀川流域に軍事拠点を構えたのである。それは朝鮮と西国政策の実行に便利であったと言うことである。
大和での抵抗勢力は葛城氏と言われる。大和川は利用しにくい。葛城氏は未だ亡びていなかったのである。ここに登場してきたのが蘇我稲目。計数に明るいとされた蘇我氏は政権内部で官僚的豪族として頭角を現してきており、落ち目ではあるが名門の葛城氏の娘を娶り、大いに箔を付けた。稲目は葛城氏の力を吸い取ってしまったのであろう。大和内の抵抗勢力の一角が崩れたことになる。
西国の抵抗勢力の雄が筑紫君磐井である。兵員動員の件なども非協力的であり、半島政策の遂行にも障害になってきていた。継体天皇は晩年にさしかかり、また気心のわかっている物部麁鹿火大連と大伴金村大連も元気な内に次の時代への憂いを取り除いておこうと決意し、磐井討伐の命令を出した。
『筑後国風土記』(逸文)俄にして官軍動発し、襲はんと欲するの間、勢、勝たざるを知り とある。奇襲攻撃を仕掛けたようである。
『紀』では、天皇は物部麁鹿火大連に 「筑紫より西はお前が統治し賞罰も思いのままに行え、いちいち報告することはない。」と言ったとある。しかし、磐井が亡びた後、息子の葛子が糟屋の屯倉を差し出しだており、これを物部氏が手に入れたとは書かれていない。安閑天皇の時代にも九州に多くのの屯倉を設置している。皇室直轄である。
『紀』の物部にまかせると言う文章は『紀』編纂局の作文かも知れない。
森田克行氏は、「磐井が亡びた後、朝鮮半島に築かれてきた前方後円墳の造営が止まったとされる。これは磐井サイドも半島と外交関係を持っており、滅亡によって朝廷に一元化されたと見ることができる。」とされる。*3
半島政策は失敗し、息子の欽明天皇の時代に任那の利権を失うことになる。

 

継体天皇7

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月14日(水)15時24分33秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  7.継体天皇の外交
朝鮮半島は、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅、半島南部に伽耶と呼ばれる小国群があった。高句麗は強大で南へ領土を拡大しようとし、この動きに圧迫された百済と新羅もまた南下しようとし、当然に伽耶と衝突することになる。倭国は四世『紀』末頃から百済や伽耶と友好関係を維持していた。これらの国々から倭国は援軍を出してくれる同盟国と期待されており、見返りに王族を人質として預かったり、貴重な財や文化在や五教博士を受け入れていた。
百済が隣接していた伽耶の4県の割譲を希望し、継体朝の実力者である大伴金村大連はそれを認めた。匂大兄皇子は反対したが、勅が出されてしまっており、止めることはできなかった。これは匂大兄皇子が綴喜宮におり、大和の宮にいた継体天皇が大連などと相談して決定したということだろう。要するに宮を淀川沿いに転々とするのは『紀』が宮と呼ぶ前線基地だったと思われる。急ぎの用事は前線で処理し、重要案件は天皇に届ける仕組みだったと思われる。天皇は即位後、直ちに大和入りし、皇子の匂大兄皇子か檜隈高田皇子を基地に駐在させていたということ。
継体十二年に基地を綴喜宮に置いたのは、半島や九州より日本海側の様子が緊迫してきたことによる可能性がある。
百済と伽耶との間に領土争いがあり、百済よりの判断が続いたようだ。穂積臣押山は尾治連の娘の子である。継体天皇の妃の目子媛も尾張連の出であり、親戚にあたり、即位以前からの知り合いだったのだろう。穂積臣押山の判断と答申が半島での混乱と伽耶諸国の離反を招いたと思われる。
伽耶諸県は倭王朝が頼りにならないと新羅に走る県が出たりしてきた。
半島の国々は互いに接しており、お互い油断も隙ももてない緊張状態の中で暮らしており、海に囲まれた倭国とは感覚が違うようだ。彼らは生き馬の目を抜く気持ちで外交をしており、隙があれば裏切ることも多い。現在も同じであり、半島の国にへたな妥協をするとますますつけあがってくる。
新羅の侵略を防ぐため近江毛野臣を安羅に派遣したが、任務を果たせず、帰国の際、対馬で病没した。近江の豪族であり、継体天皇とは知己だったのだろう。
継体天皇は外交関係者にお友達を起用して失敗したのである。所詮、田舎豪族出身か。

 

継体天皇6

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月12日(月)08時58分6秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  6.男大迹王をと越前
 越前の継体伝説に「治水」「米」がある。九頭竜川流域の灌漑を行ったと言う。6世紀頃の越前は米の生産量はトップクラスであった。
「塩」 大伴金村に滅ぼされた平群真鳥はあらゆる塩に呪いをかけたが、角鹿の塩だけは呪い忘れたと言う。越前の塩は重要物産であった。古墳時代には土器製塩が盛ん。男大迹王は塩輸送を押さえていたと思われる。
「馬」と「鉄」 河内馬飼首荒籠と男大迹王は親しかったようだ。荒籠は馬を通して軍事氏族である大伴氏や物部氏と取引があり、朝廷の情報を得る事が出来る立場にあった。その情報を男大迹王に届けたことで、決断を促したと『紀』にある。
福井市天神山七号墳からは五十本以上の鉄の刀剣出土している。あわら市金津新町の地名は鉄を積み出す港のいう意味でありる。古くから越前は鉄の生産地であり、また近江からの鉄生産の遺跡が多く出土している。ヲホド王のホドは火処であり、金属を溶解する設備を言う。
馬と鉄は権力の源泉である。
海外交流 5世紀央の直径50mの円墳である天神山七号墳からは朝鮮半島南部の金の耳飾りが出土している。
敦賀の気比神宮には都怒我阿羅斯等命を祭る摂社があり、越前の敦賀と三国の両港は半島との交易の港であった。延喜式内社の中には新羅との関係を思わす敦賀郡白城神社や信露貴彦神社の名が見える。

 

継体天皇5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月11日(日)15時21分3秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  5.男大迹王の妃と皇子
皇位を継ぐに当たって、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を皇后として娶り、欽明天皇が生まれている。天皇家への入り婿が万民を納得させる条件だったのだろう。
尾張連草香女目子媛は次の安閑・宣化両天皇の母である。男大迹王の提携先の大豪族の娘であり、継体天皇の有力な後援者だったものと思われる。当時の尾張は越前や近江をしのぐ古墳が造営されていたようであう。*1
男大迹王は皇位を継承するに当たって、この二人の皇子も40歳を越えた実業家になっていたのだろう。この皇子等を皇嗣とするように求め、大伴金村大連の内諾を得ていたのであろう。欽明天皇の時代、大伴金村が失脚させられる要因の一つになったかも知れない。
三尾角折君の妹稚子媛は、大郎皇子と出雲皇女を生んでいる。長男と思われる大郎皇子については『記・紀』は何も述べていない。早世したのだろう。出雲皇女の名は男大迹王が日本海側で活躍していたことを思わせる。妃の三尾角折君は二重地名姓であり、角折は福井市角折町として現存する。越前の娘であり、男大迹王の初婚の相手だったと思われる。
坂田大跨王の娘広媛 三人の皇女。
息長真手王の娘麻績娘子 荳角皇女 伊勢斎宮を勤めた。
茨田連小望の娘関媛 三人の皇女。
三尾君堅ヒ(木成)の娘倭媛 二男二女  椀子皇子は三国公の先祖、越前国坂井郡の式内社の国神神社の祭神として祭られている。三国真人は越前出身の豪族でありながら「真人」という高いカバネを与えられた。耳皇子は不明。
和珥臣河内の娘 厚皇子 二女。
根王の娘広媛 二男 兎皇子 酒人公の祖、中皇子 坂田公の祖。共に近江の豪族。
 

継体天皇4

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月10日(土)09時44分33秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  4,男大迹王の父と母
 父の彦主人王は近江国高嶋郡三尾の別業(別宅)で、越前国三国坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、男大迹王が生まれたが、早くに死んだ。この為、母親は実家のある越前三国の高向に幼子を連れて戻った。男大迹王は越前で育ち、ここから飛躍していったのだろう。
『上宮記』では、振媛は垂仁天皇の七世孫となっている。垂仁天皇の皇子の磐衝別は『紀』では羽咋君・三尾君の祖とあり、羽咋は能登国(養老二年(718)越前国から分離)の豪族であり、羽咋神社には磐衝別の古墳とされる前方後円墳がある。また三尾地名は近江と越前にあり、近江の水尾神社に磐衝別が祭られている。三尾君は近江から越前・加賀(平安初期に越前から分離)・能登にかけての支配的豪族の祖だったのだろう。近江の三尾にいた彦主人王が美人だからと言うだけで越前の振媛を妃に乞い、たとえ金持ちのお坊ちゃんであっても遠く近江まで嫁に来るだろうか。振媛はやはり三尾君の一族だったこと、彦主人王の一族は近江・琵琶湖の水運、継体が宮を置いた淀川沿いから瀬戸内海の水運、敦賀や三国湊を持つ越前の豪族として日本海の海運などを手広く展開する一族の人物だったゆえだろう。男大迹王は成人すると、祖父から家業を引き継いだと思われる。
 

継体天皇3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 9日(金)16時48分8秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  3.男大迹王は大きい存在
 大伴金村が「男大迹王(をほどのおおきみ)は慈悲深く親孝行で、皇位を継ぐのにふさわしい。」と述べ、物部麁鹿火大連や許勢男人大臣ら群臣は、「王族の多くを詳しく見たが、賢者は唯男大迹王のみだろう。」と言い、賛同した。
 これは、多くの群臣等が男大迹王の人となりを知っていたと言うことを示す。武烈天皇の時代、武烈には皇子が生まれず、皇統を継ぐべき血脈の濃い皇子もいないことは群臣にとっては周知のことであり、男大迹王は有力な日継と見られていたと思われる。

傍証になるのかどうか、和歌山県橋本市の隅田八幡神社に所蔵されていた人物画像鏡に、「癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意紫沙加宮時 斯麻念長寿 遣 開中費直 穢人今州利 二人等取白上同二百旱作此竟」とあり、503年(武烈)、忍坂にいる男弟王(ヲオト)=男大迹王? の長寿を、百済の武寧王から献じられた鏡とされる。金石文の解釈が当を得ていれば、男大迹王は日継として半島にまで知れ渡っていたことになる。
男大迹王は渡海し、武寧王と面識があったものと思われる。
銘文の日十はジツジュウ、武烈は若鵲でジャクジャク、似ていると言えば似ている。
男大迹王は即位四年前には忍坂にいたことになる。

 何故、忍坂に男大迹王がいたのか。以下は応神天皇から継体天皇に至る系譜である・
『上宮記』一云
 凡牟都和希王ー若野毛二俣王ー大郎子(意富富等王)-乎非王-汗斯王(彦主人王)-乎富等大公王(継体)
曾祖父にあたる大郎子(意富富等王)は允恭天皇の皇后の忍坂大中姫命(木梨、安康、雄略の母)の兄であり、この家系は忍坂に拠点があった。『紀』によれば、皇后の妹の弟姫、容姿絶妙ゆえ衣通郎姫と呼ばれていた。彼女は母と近江の坂田にいたとある。息長氏の近江の拠点である。継体天皇の曾祖父の母は近江の息長氏の娘と思われる。

 

Re: 継体天皇2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 9日(金)16時47分6秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.507[元記事へ]

 近江の神社でついでに

 天智天皇を祀る神社は、明治時代に創建された近江神宮をいれて4社。

 天武天皇を祀る神社はありません。

 

継体天皇2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 8日(木)09時31分29秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.506[元記事へ]

2. 継体天皇を祭っている神社 神社本庁に祭神を通知した神社から

埼玉県  2社    石川県  1社    福井県 28社    熊本県  1社

『記・紀』ともに継体天皇の誕生の地を近江としており、『紀』は越前高向に居を構えていた継体を天皇として迎えたと書いている。近江に継体を祭る神社がないと言うことは、おらが国から出た天皇であるとの認識も意識もなかったと言うことである。逆に越前には多くの神社に祭られており、伝承も残っている。我が町から出た天皇であるとの思いが伝わる。

坂井市 高向神社 丸岡町女形谷の「天皇堂」と言われる場所がある。大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人らが男大迹王を迎えに来て会談を行った場所との伝承がある。

坂井市 三国神社 当地は沼地や湿地帯であり、これを水田ができるように開拓したのが男大迹王であって、その実力と繁栄をもって武烈以降の皇位についたとの伝承がある。

 

継体天皇1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 7日(水)17時10分42秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  1. 年表
450 允恭 この頃、男大迹王 誕生。
503 武烈 隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡が贈られる。
507  元 樟葉宮に至る 即位
511  五 都を山背の筒城に遷す。
512  六 穂積臣押山を百済に派遣、ために筑紫馬四十匹を賜う。
       百済からの請願により、押山は任那の百済隣接の四県を割譲する。
       匂大兄皇子(後の安閑天皇)は反対をしたが、勅は発せられた後だった。
513  七 五経博士段楊爾来日。を貢り、己蝦の返還を乞う。
515  九 百済の使者文貴将軍を送るために、物部(至至)連を派遣。
倭国、半島に出兵するも、帯沙江で敗退する。
518 十二 弟国に都す。
523 十七 百済、斯麻王(武寧王)死去。
524 十八 百済、太子の明(聖明王)即位。将来、仏教を伝える。
526 二十 磐余の玉穂に都す。
527 二一 近江毛野臣、六万の兵を率いて新羅に破られた南加羅の一部を任那に併せんとするも、筑紫国造磐井が渡海を阻止される。
       磐井討伐のために物部麁鹿火大連を派遣。
528 二二 筑紫の御井郡で物部麁鹿火が磐井と交戦し、斬殺。
       磐井の子・筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上。
529 二三 百済王が穂積臣押山に加羅の多沙津を朝貢路に乞う。
       百済王に多沙津を賜う。これに反対する加羅は新羅と結ぶ。
       新羅の侵略を防ぐため近江毛野臣を安羅に派遣する。
529 二三 毛野臣が新羅、百済の王を任那に召喚、詔を伝えんとするも、新羅に洛東江口の四村をかすめとられる、
       毛野臣が進駐して二年になるも、成果があがらずにいたところ、新羅、百済の軍に囲まれる。
調吉士が毛野の失政を進言、日頬子が遣わされ、帰還命令がくだる。
530 二四 毛野臣が帰還中に対馬で病没。亡骸は瀬戸内から淀川を遡り、枚方を経て近江に移送。
531 二五 継体天皇崩御。藍野陵に埋葬。
534    安閑天皇即位。

 

Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 3日(土)17時50分3秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.504[元記事へ]

ペギラさんへのお返事です。

 こんばんは。投稿ありがとうございます。
>
> 鐸型土製品も調べたらもっと面白いことがわかるかもしれませんね。


 朝霞市博物館で行われた「小さな銅鐸を追って」と言う展示会の資料です。(豊歴資料)
 小さい黒丸は小銅鐸、小さい白丸は銅鐸型土製品。
 

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