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継体天皇5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月11日(日)15時21分3秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  5.男大迹王の妃と皇子
皇位を継ぐに当たって、仁賢天皇の皇女の手白香皇女を皇后として娶り、欽明天皇が生まれている。天皇家への入り婿が万民を納得させる条件だったのだろう。
尾張連草香女目子媛は次の安閑・宣化両天皇の母である。男大迹王の提携先の大豪族の娘であり、継体天皇の有力な後援者だったものと思われる。当時の尾張は越前や近江をしのぐ古墳が造営されていたようであう。*1
男大迹王は皇位を継承するに当たって、この二人の皇子も40歳を越えた実業家になっていたのだろう。この皇子等を皇嗣とするように求め、大伴金村大連の内諾を得ていたのであろう。欽明天皇の時代、大伴金村が失脚させられる要因の一つになったかも知れない。
三尾角折君の妹稚子媛は、大郎皇子と出雲皇女を生んでいる。長男と思われる大郎皇子については『記・紀』は何も述べていない。早世したのだろう。出雲皇女の名は男大迹王が日本海側で活躍していたことを思わせる。妃の三尾角折君は二重地名姓であり、角折は福井市角折町として現存する。越前の娘であり、男大迹王の初婚の相手だったと思われる。
坂田大跨王の娘広媛 三人の皇女。
息長真手王の娘麻績娘子 荳角皇女 伊勢斎宮を勤めた。
茨田連小望の娘関媛 三人の皇女。
三尾君堅ヒ(木成)の娘倭媛 二男二女  椀子皇子は三国公の先祖、越前国坂井郡の式内社の国神神社の祭神として祭られている。三国真人は越前出身の豪族でありながら「真人」という高いカバネを与えられた。耳皇子は不明。
和珥臣河内の娘 厚皇子 二女。
根王の娘広媛 二男 兎皇子 酒人公の祖、中皇子 坂田公の祖。共に近江の豪族。
 
 

継体天皇4

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月10日(土)09時44分33秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4,男大迹王の父と母
 父の彦主人王は近江国高嶋郡三尾の別業(別宅)で、越前国三国坂中井の振媛の美貌を聞き、呼び寄せて妃とし、男大迹王が生まれたが、早くに死んだ。この為、母親は実家のある越前三国の高向に幼子を連れて戻った。男大迹王は越前で育ち、ここから飛躍していったのだろう。
『上宮記』では、振媛は垂仁天皇の七世孫となっている。垂仁天皇の皇子の磐衝別は『紀』では羽咋君・三尾君の祖とあり、羽咋は能登国(養老二年(718)越前国から分離)の豪族であり、羽咋神社には磐衝別の古墳とされる前方後円墳がある。また三尾地名は近江と越前にあり、近江の水尾神社に磐衝別が祭られている。三尾君は近江から越前・加賀(平安初期に越前から分離)・能登にかけての支配的豪族の祖だったのだろう。近江の三尾にいた彦主人王が美人だからと言うだけで越前の振媛を妃に乞い、たとえ金持ちのお坊ちゃんであっても遠く近江まで嫁に来るだろうか。振媛はやはり三尾君の一族だったこと、彦主人王の一族は近江・琵琶湖の水運、継体が宮を置いた淀川沿いから瀬戸内海の水運、敦賀や三国湊を持つ越前の豪族として日本海の海運などを手広く展開する一族の人物だったゆえだろう。男大迹王は成人すると、祖父から家業を引き継いだと思われる。
 

継体天皇3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 9日(金)16時48分8秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3.男大迹王は大きい存在
 大伴金村が「男大迹王(をほどのおおきみ)は慈悲深く親孝行で、皇位を継ぐのにふさわしい。」と述べ、物部麁鹿火大連や許勢男人大臣ら群臣は、「王族の多くを詳しく見たが、賢者は唯男大迹王のみだろう。」と言い、賛同した。
 これは、多くの群臣等が男大迹王の人となりを知っていたと言うことを示す。武烈天皇の時代、武烈には皇子が生まれず、皇統を継ぐべき血脈の濃い皇子もいないことは群臣にとっては周知のことであり、男大迹王は有力な日継と見られていたと思われる。

傍証になるのかどうか、和歌山県橋本市の隅田八幡神社に所蔵されていた人物画像鏡に、「癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意紫沙加宮時 斯麻念長寿 遣 開中費直 穢人今州利 二人等取白上同二百旱作此竟」とあり、503年(武烈)、忍坂にいる男弟王(ヲオト)=男大迹王? の長寿を、百済の武寧王から献じられた鏡とされる。金石文の解釈が当を得ていれば、男大迹王は日継として半島にまで知れ渡っていたことになる。
男大迹王は渡海し、武寧王と面識があったものと思われる。
銘文の日十はジツジュウ、武烈は若鵲でジャクジャク、似ていると言えば似ている。
男大迹王は即位四年前には忍坂にいたことになる。

 何故、忍坂に男大迹王がいたのか。以下は応神天皇から継体天皇に至る系譜である・
『上宮記』一云
 凡牟都和希王ー若野毛二俣王ー大郎子(意富富等王)-乎非王-汗斯王(彦主人王)-乎富等大公王(継体)
曾祖父にあたる大郎子(意富富等王)は允恭天皇の皇后の忍坂大中姫命(木梨、安康、雄略の母)の兄であり、この家系は忍坂に拠点があった。『紀』によれば、皇后の妹の弟姫、容姿絶妙ゆえ衣通郎姫と呼ばれていた。彼女は母と近江の坂田にいたとある。息長氏の近江の拠点である。継体天皇の曾祖父の母は近江の息長氏の娘と思われる。

 

Re: 継体天皇2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 9日(金)16時47分6秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.507[元記事へ]

 近江の神社でついでに

 天智天皇を祀る神社は、明治時代に創建された近江神宮をいれて4社。

 天武天皇を祀る神社はありません。

 

継体天皇2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 8日(木)09時31分29秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.506[元記事へ]

2. 継体天皇を祭っている神社 神社本庁に祭神を通知した神社から

埼玉県  2社    石川県  1社    福井県 28社    熊本県  1社

『記・紀』ともに継体天皇の誕生の地を近江としており、『紀』は越前高向に居を構えていた継体を天皇として迎えたと書いている。近江に継体を祭る神社がないと言うことは、おらが国から出た天皇であるとの認識も意識もなかったと言うことである。逆に越前には多くの神社に祭られており、伝承も残っている。我が町から出た天皇であるとの思いが伝わる。

坂井市 高向神社 丸岡町女形谷の「天皇堂」と言われる場所がある。大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人らが男大迹王を迎えに来て会談を行った場所との伝承がある。

坂井市 三国神社 当地は沼地や湿地帯であり、これを水田ができるように開拓したのが男大迹王であって、その実力と繁栄をもって武烈以降の皇位についたとの伝承がある。

 

継体天皇1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 7日(水)17時10分42秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1. 年表
450 允恭 この頃、男大迹王 誕生。
503 武烈 隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡が贈られる。
507  元 樟葉宮に至る 即位
511  五 都を山背の筒城に遷す。
512  六 穂積臣押山を百済に派遣、ために筑紫馬四十匹を賜う。
       百済からの請願により、押山は任那の百済隣接の四県を割譲する。
       匂大兄皇子(後の安閑天皇)は反対をしたが、勅は発せられた後だった。
513  七 五経博士段楊爾来日。を貢り、己蝦の返還を乞う。
515  九 百済の使者文貴将軍を送るために、物部(至至)連を派遣。
倭国、半島に出兵するも、帯沙江で敗退する。
518 十二 弟国に都す。
523 十七 百済、斯麻王(武寧王)死去。
524 十八 百済、太子の明(聖明王)即位。将来、仏教を伝える。
526 二十 磐余の玉穂に都す。
527 二一 近江毛野臣、六万の兵を率いて新羅に破られた南加羅の一部を任那に併せんとするも、筑紫国造磐井が渡海を阻止される。
       磐井討伐のために物部麁鹿火大連を派遣。
528 二二 筑紫の御井郡で物部麁鹿火が磐井と交戦し、斬殺。
       磐井の子・筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上。
529 二三 百済王が穂積臣押山に加羅の多沙津を朝貢路に乞う。
       百済王に多沙津を賜う。これに反対する加羅は新羅と結ぶ。
       新羅の侵略を防ぐため近江毛野臣を安羅に派遣する。
529 二三 毛野臣が新羅、百済の王を任那に召喚、詔を伝えんとするも、新羅に洛東江口の四村をかすめとられる、
       毛野臣が進駐して二年になるも、成果があがらずにいたところ、新羅、百済の軍に囲まれる。
調吉士が毛野の失政を進言、日頬子が遣わされ、帰還命令がくだる。
530 二四 毛野臣が帰還中に対馬で病没。亡骸は瀬戸内から淀川を遡り、枚方を経て近江に移送。
531 二五 継体天皇崩御。藍野陵に埋葬。
534    安閑天皇即位。

 

Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 6月 3日(土)17時50分3秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.504[元記事へ]

ペギラさんへのお返事です。

 こんばんは。投稿ありがとうございます。
>
> 鐸型土製品も調べたらもっと面白いことがわかるかもしれませんね。


 朝霞市博物館で行われた「小さな銅鐸を追って」と言う展示会の資料です。(豊歴資料)
 小さい黒丸は小銅鐸、小さい白丸は銅鐸型土製品。
 

Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:ペギラ  投稿日:2017年 6月 3日(土)12時03分20秒 kc220-208-231-173.ccnw.ne.jp
返信・引用
  > No.485[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。
>
>  小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
>  隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。
>

この間、お話されていたのが、これなんですね。

ここでは、おひさしぶりです。ペギラです。

竪穴住居跡からの小銅鐸の出土は思ったより多かったです。
どんたくさんの資料から

2 群馬 中溝Ⅱ 太田市新田小金井町(新田郡新田町 小金井字中溝)
3 千葉 天神台 市原市村上(大字村上字天神台)
4 千葉 川焼台 市原市草刈(字川焼台1692-2)
8 千葉 草刈I区 市原市草刈<草刈遺跡I区>
10 千葉 中越 木更津市大久保(字中越他)
12 東京 高田馬場3丁目 新宿区高田馬場3丁目
13 東京 中郷 八王子市長房町
14 神奈川 (海老名)  本郷 海老名市本郷(高座郡海老名町本郷字本宿)
18 福井 瓜生助 越前市瓜生町 (武生市瓜生町)
31 大阪 寛弘寺 南河内郡河南町 寛弘寺/神山
33 大阪 上フジ 岸和田市三田町
38 鳥取 長瀬高浜 東伯郡湯梨浜町はわい長瀬(東伯郡羽合町大字長瀬小字高浜)
40 岡山 足守川矢部南向  倉敷市矢部南向
41 岡山 横寺 総社市新本
50 福岡 井尻B 福岡市南区井尻
58 大分 別府 宇佐市別府(字桜)

小銅鐸は、ほぼ弥生後期・古墳時代が始まるぞという頃のようです。

お墓からも出ていますが、個人的に目につくのが井戸からの出土。
26 三重 草山 松阪市下村町(字草山)
39 岡山 下市瀬 真庭市下市瀬(真庭郡落合町大字下市瀬池尻)
54 福岡 比恵遺跡群 福岡市博多区博多駅南 5丁目

鐸型土製品も調べたらもっと面白いことがわかるかもしれませんね。
 

Re: 古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月18日(木)15時23分16秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.502[元記事へ]

古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

 古墳名   全長    直径 前方長   個数

備前
浦間茶臼山  131  81   50   4.9
網浜茶臼山   92  56.5 35.5 5.0
湊茶臼山   125  72   53   5.9
神宮寺山   155  70   85   9.7
金蔵山    165 100   65   5.2
雨宮山    174  99   75   6.1 大仙の2/5


備中
中山茶臼山  105 68-64  37-41      4.3-5,1
車山     135  80  55    5.5
小盛山    108  95  13  円墳
造山     360 190 170    7.1
作山     282 175 107    4.9


 

Re: 古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月18日(木)09時49分20秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.501[元記事へ]

古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

 古墳名   全長  直径 前方長  個数

佐紀古墳群
宝来山   227 123 104  6.8
五社神   267 190  77  3.2
陵山    207 131  76  4.6
市庭    253 147 106  5.8
ヒシャゲ  219 130  94  5.8
コナベ   204 125  79  5.1
ウワナベ  205 128  77  4.4

柳本古墳群
黒塚    130  72  59  6.6
柳本大塚   94  54  40  5.9
東殿塚   139  65  74  9.1 後円部は楕円
行燈山   242 158  84  4.3
渋谷向山  300 168 132  6.3
シウロウ塚 120  66  54  6.5
櫛山    152  90  62  5.5

(箸墓)  276 156 120  6.2

大和古墳群
中山大塚  130  67  63  7.5
西殿塚   230 140  90  5.1
波多子塚  140      90     前方後方墳
燈篭塚   110  55  55  8.0

 

古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月17日(水)13時38分45秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。
 古市古墳群

古墳名   全長  直径 前方長  個数
津堂城山 208 128  80  5.0
古室   150  96  54  4.5
仲津山  290 170 120  5.6
宮山   154 100  54  4.3
墓山   225 135  90  5.8
誉田御廟山425 250 175  5.6
市野山  230 140  90  5,1
前の山  200 106  94  7.0
岡ミサン 245 150  95  5.0
ボケ山  122  65  57  7.0
白髭山  115  63  52  6.5
 

古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月17日(水)11時47分53秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

古い順に
古墳名   全長  直径 前方長  個数
乳の岡  155  94  61 5.2
大塚山  168  96  62 5.2
上石津  365 205 160 6.2
大仙陵  436 248 188 6.0
御廟山  203 112  91 6.5
イタスケ 144  90  56 5.0
土師   290 156 134 6.9
田出井山 148  76  72 7.6

上石津は上石津ミサンザイ。
土師は土師ニサンザイ。

今日に残っている古墳の形状が設計時造営時からどの程度変化しているのかわかりませんが、かっては整数倍だったのかも。
イタスケを別にしますと、古いほど個数が小さいようです。この年代順は白石太一郎著『古墳とヤマト政権』を参照しました。

 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 6/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月21日(金)15時16分7秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  葛城氏の遺跡
 宮山古墳 道鏡十一面、滑石製勾玉二十九個などが出土していた。竪穴式石室は紀ノ川の緑泥片岩を積み上げたものと加古川流域の龍山石製が埋納されている。四世紀末から五世紀初めの朝鮮半島南部の伽耶地方の船形土器などが出土し、被葬者と半島の結びつきを示している。この古墳の中心的被葬者は葛城曾津彦と見られています。

 極楽寺ヒビキ遺跡 金剛山東麓の扇状地にある高台の遺跡です。楼閣を思わせる高層建築物があり、柱間は五間x五間、面積220平方メートルの巨大な掘っ建て柱建物で、どうやら火災の跡があるようです。葛城円大臣が焼き殺されたと伝えられており、彼の居館と見ることができます。安康天皇暗殺の眉輪王をかくまったことで雄略天皇に眉輪王ともども攻め滅ぼされました。

 南郷大東遺跡 全長12mの貯水池に貯めた水を3本の木樋を通して一辺4mの覆屋と一辺5mの垣根があり、中を窺えないようにしていると思われます。実用的ではないこの装置は祭祀に利用されたと推測されています。夜間に覆屋の中で水を汲み上げるような儀式が行われていたと推測されています。

                                                  以上

参考文献  『謎の豪族葛城氏』平林章仁 『古代葛城とヤマト政権』御所市教育委員会
 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月20日(木)12時56分53秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   仁徳天皇が生まれた日に産屋にミミズクが飛び込んできました。同じ日に武内宿禰の家でも子が生まれ、産屋にミソサザイが飛び込みました。これは瑞兆として、鳥の名を交換して子の名前にしました。仁徳天皇はオホササキが正式名ですが、通称ミソサザイだったのでしょう。亡くなる20年前(実際は 5年前)に石津原に出かけて陵地をきめました。造営が始まった際、ミソサザイの陵と呼んでいたのでしょう。これが、現在の上石津ミサンザイ陵とよばれている古墳となりました。初代のミサンザイ陵です。履中陵とされていますが、5世紀前半の古墳です。仁徳陵とされている大仙陵よは五世紀前半から半ばの古墳ですからこれが本当の履中陵でしょう。
 ミサンザイ・ニサンザイの名を持つ古墳では最も古いのが上石津ミサンザイ古墳です。これ以降、いくつかの古墳がその名を持つようになり、ミササギからの語韻の変化と理解されています。


その他のミサンザイ・ニサンザイの名を持つ古墳  延喜式の被埋葬者

淡輪ニサンザイ古墳  5世紀後半の造営 大阪府泉南郡 五十瓊敷入彦
岡ミサンザイ古墳 5世紀後半の造営 大阪府藤井寺市 仲哀天皇
土師ニサンザイ古墳  5世紀後半の造営 大阪府堺市 全国八位 反正天皇陵
鳥屋ミサンザイ古墳 5世紀半から6世紀初頭の造営 奈良県橿原市 宣化天皇

 上石津ミサンザイ古墳と吉備の造山古墳とは、同時代に作られ、全く同じ形で、当時では最大の墳墓です。祭られている人は仁徳天皇と義兄弟のような関係にあったのでしょう。仁徳天皇は吉備の海部直の娘である黒日売に惚れて吉備まで追いかけて行きました。おそらく、この時に吉備国の王者(御友別は応神天皇と合っています。御友別の子かも)と契りを結んだのでしょう。この頃には大王家以外に葛城氏や吉備の王族も同等な力を持っを持っていたのでしょう。
 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月19日(水)17時50分36秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.495[元記事へ]

 履中天皇の就任前に葛城の葦田宿禰の娘の黒姫を娶ろうとして、使いに弟である住吉中皇子を差し向けましたが、皇子は偽って兄になりすまして黒姫を犯したのです。葛城の姫の争奪戦でということでしょう。皇位につこうとすれば、葛城の姫を娶るのは近道であったようです。住吉中皇子は履中を殺そうとして、結局は逆に殺されてしまいます。

 雄略天皇も葛城の円大臣の娘の韓姫を娶って、清寧天皇を生ませています。このように、葛城の姫を娶ることは、皇位への有力な力になっていたのでしょう。
 天皇家の姻族としての葛城氏の力を見せるエピソードがあります。河内王権の天皇では、安康天皇と武烈天皇の二人は、母と妃は葛城氏の女性ではありません。葛城氏と無関係の天皇です。安康天皇は暗殺されます。武烈天皇は皇統をつなぐことができませんでした。

 葛城氏の権力基盤は娘を入内させることではなく、このことは後からそうなったのであって、先ず、半島での葛城曾都彦の活躍があったのです。水運・海運の力です。軍事力―兵士の動員力―は天皇家の仕事だったのでしょう。水運・海運と云えば、紀氏の得意分野であり、吉野川紀ノ川を共に利用する関係にあったのです。葛城の地は奈良盆地の一角であり、水運・海運については紀氏などの親しい豪族の力を利用していたのでしょう。和歌山県御坊市に塩屋地名があます。塩屋連は葛城曾都彦の後であり、紀州と葛城氏の繋がりがかいま見えます。

 大和川の水運は、河内に出る手前に流れが急で岩礁も多い亀の瀬渓谷は舟での航行は難しいので陸路を理容師、それ以外の流れを水運で利用していたのでしょう。摂河泉に葛城曾都彦の後裔とする布忍首や布帥臣など多くが分布していたようです。 水越峠を越えての往来も含めて河内繋がりがあったのです。
 淀川・木津川は、磐之媛の航路に見るように活用されていました。葛城氏の滅亡後三百年後に出来た『新撰姓氏録』には山城国皇別に、与等連を葛城曾都彦の後裔として記載しています。名前からも淀川の水運を押さえていたのでしょう。

 『紀』仁徳天皇十一年十月に、「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰う。」とあります。上町台地の北麓を切って人工水路を造り、河内湖の水を大阪湾にスムースに流してやり、水害を防ぎ、水運の便を図ったのです。
 この水路沿いに難波津と呼ばれる港が出来、九州・朝鮮へ直結することになりました。難波津沿
いに巨大倉庫軍が建てられるようになり、王権の力は大いに増しました。倉庫は約90平方メートル
で十六棟が東西に配置されていました。
 また、この倉庫造営より前に紀ノ川下流の鳴滝遺跡から七棟の倉庫群が発掘されています。王権と紀氏とが結びついて対外折衝用に活用されたものでしょう。おそらく葛城氏も絡んでいることでしょう。
 

Re: 仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月16日(日)19時25分47秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.495[元記事へ]

> 『宋書』 同時代資料
>
> ┏倭王讃                           ┗倭王珍  ┏ 倭王興                     倭王済 ━┫
>       ┗ 倭王武

『宋書』 同時代資料

┏履中(讃)
┗反正(珍) ┏安康(興)
 允恭(済)━┫
       ┗雄略(武)
 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月16日(日)16時03分30秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   襲津彦の娘であり、仁徳天皇の皇后である磐之姫は嫉妬深い女で有名になりました。姫の留守中に仁徳はかねてから想いを寄せていた八田皇女を宮中に入れたのを怒って、高津宮に帰らず、そのまま淀川を遡って、山背の百済系渡来人の奴理能美の家を筒城宮として留まりました、ある日、那羅山から故郷を望んで歌いました。
 つぎねふ 山背河を 宮泝(みやのぼ)り 吾が泝(のぼ)れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家(わがへ)のあたり
 山また山の山背川を 上っていけば 青土の美しい 奈良もすぎ 大和もすぎて 私が見たいと思うのは 葛城の高宮の 生まれた家のあるあたりです

磐之姫は仁徳天皇を許すことなく、筒城宮で亡くなりました。那羅山に葬られたとあります。、『延喜式』には、佐紀楯列のヒシャゲ古墳とされています。

奴理能美は、三色に変化する不思議な虫・蚕を飼育していたとあり、絹の高級織物を織る集団でした。葛城氏はこの集団と関係が深かったのでしょう。『新撰姓氏録』には、奴理能美の後裔氏族として、調連、民首、水海運、調曰佐の名を記しています。調曰佐は紀朝臣と同祖であり、対外交渉での通訳の仕事をしていたとされています。

五世紀初頭の出来事であった高句麗好太王の碑に記されている倭軍との戦いには、葛城曾都彦の働きがあったのでしょう。この事が葛城氏が天皇家を支える重要な氏族に押し上げたものと思われます。曾都彦の妹を応神天皇の妃に入れたのもこの頃でしょう。

磐之姫の話に戻しますが、筒城宮は息長氏の拠点でもあり、ここでも葛城氏と息長氏との親密さが窺えます。

磐之姫が生んだ皇子は、履中天皇、住吉中皇子・反正天皇・允恭天皇とされていますが、允恭天皇については疑問があります。それは倭の五王が南宋へ遣いを出しますが、その名と繋がりが南宋の資料と記紀では違うのです。

『宋書』 同時代資料

┏倭王讃                           ┗倭王珍  ┏ 倭王興                     倭王済 ━┫
      ┗ 倭王武
『記紀』 150年後の資料から

┏履中(讃)
┃反正(珍) ┏安康(興)
┗允恭(済)━┫
       ┗雄略(武)

 となって、允恭(倭王済)が履中・反正と兄弟ではない表示になっています。『宋書』では、「珍の場合は讃死して弟珍立つ。」「倭王済使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。」とあり、済の場合のみ先代との繋がりが書かれていません。

 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月15日(土)17時55分48秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  仁徳帝の祖母は神功皇后です。皇后の母は葛城高額比賣命といい、高額は香芝市畑の旧名です。葛城の娘です。

葛城曽津彦は武内宿禰の子の一人です。

 『古事記』によると、応神天皇は妃に葛城曾津彦の妹の野伊呂売りを娶っていますが、位置づけは末席のようです。応神の皇后は誉田真中王の娘の仲姫、入り婿だったようで、誉田家が大王家となったのでしょう。仲姫は大雀命(仁徳帝)の母です。

 仁徳天皇は葛城曾津彦の娘の磐之姫を皇后としました。葛城氏が王権を支える重要な氏族に成長してきのです。

葛城曾津彦の働きを見ながら、葛城氏を見ていきます。白村江の戦いの頃、亡びた百済の亡命者が記したとされる『百済記』に、沙至比跪と云う人物が出てきます。曾津彦同一人物のようです。

   『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曾津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのき)を攻め落として捕虜を連れ帰りました。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。 場所は、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。
 この渡来人達のハイテク技術を掌中に収めた葛城氏は勢いを増していったと思われます。

『日本書紀』神功六二年 新羅が朝貢しなかったので葛城曾津彦を派遣して討たせたとあります。
『百済記』は、倭国は沙至比跪を派遣したが、新羅は美女二人を港に迎えて欺いた。沙至比跪は命令に反して加羅国(高霊)を討ったとあります。後に、許されないと知って、岩穴に入り死んだとあります。これが曾津彦と同一人物とすると、どこかで伝承に食い違いがあるのでしょう。

『紀』応神十四年 弓月君の来日を新羅が妨害していたので、葛城曾津彦を救援に派遣し、弓月君らを加羅国に入れることが出来ました。
『紀』応神十六年 更に平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し襲津彦等を帰国させました。
『紀』仁徳四十一年 百済王族酒君が無礼だったので、襲津彦に預けました。

『紀』の年代を当てはめると、襲津彦は八十年以上も活躍していることになり、さすが長寿を誇る武内宿禰の子息と言いたい所ですが、神功皇后など、長寿すぎますので、年代がおかしいのでしょう。『紀』仁徳天皇の治世について、仁徳天皇は在任八十七年に亡くなりますが、善政を敷いたので治世二十余年無事であったと書かれています。計算すると暦は一年で四年経つようです。

 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月14日(金)19時26分18秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  大化時代、ヤマト国中には倭国造と葛城国造がいました。葛城国造の支配範囲は、曽我川以西で二上山・葛城山・金剛山の麓までと推定できます。国中の南西部です。葛城氏が力を持ったのは、河内王権の成立と期を一にしていました。元々、この地域を支配していたのは鴨氏でした。
一方、倭国造の支配地域は国中東部でした。
葛城地域を代表する神は事代主神です。倭を代表する神は大物主神と言えましょう。 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二(国譲り)に、 「大物主神と事代主神は、八十萬神を天高市に集めて、この神々を率いて天に昇って、その誠の心を披瀝された。」とあります。塚口義信先生は、これを河内王権がヤマト王権を屈服させた歴史を神話として記述したものと説明しています。

 葛城地域では鴨氏の勢力が衰え、地域の南部で、高鴨神社を中心―とした地域に逼塞したのでしょう。替わってこの地域を押さえたのが葛城氏です。政権交代によるこのような現象は各地でおこり、紀伊では紀氏など武内宿禰の後裔氏族とされる氏族が勝ち組になりました。

 さて、応神天皇と仁徳天皇が同一人物であるとか、成務・仲哀天皇はいなかったとか、怪説奇説が横行しているようですが、考古学は。「記紀を裏切らない。」ことを示しましょう。
 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌された文字に上祖意富比肩から乎獲居臣までの八代の系譜が刻まれており、代々、杖刀人として仕えたとありました。乎獲居臣は獲加多支鹵(ワカタケル:雄略)大王に仕えてから埼玉へ帰って太刀を作ったのでしょう。上祖意富比肩とは第八代孝元天皇の皇子の大彦に当たります。この家族で八世代に渡りf記録されています。天皇は十五人になりますが、雄略天皇まで八代としますと、仲哀―応神―仁徳―履中―反正―允恭―安康―雄略となります。世代数では五世代になります。地方豪族ですら八代の祖先名を記録しています。ましてや大王家ではどうでしょう。きちっと伝えられており、『天皇紀(帝紀)』に記されたものと思われます。応神と仁徳とは明確にかき分けられています。おそらく成務天皇も十分記録の中に存在していたのでしょう。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊6

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月31日(金)15時14分4秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.491[元記事へ]

 応神信仰は 、対新羅にかかかわる神功皇后信仰から一歩進んでの胎中天皇信仰になる。更に八幡神は軍神としても再認識された。


 八幡信仰には、御許山の磐座から下がった所に泉があり、神が菱形池の側に出現したりと水に関係が深い。即ち、元々は農業神であった。『日本霊異記』には、矢羽田大神宮寺の言葉ある。和銅六年713年に好字二字令が出ており、ヤハタは八幡と書かれるようになったのだろう。ヤハタは田を褒め称える言葉である。そうすれば誉田(ホムタ)も同じ言葉であり、ここから応神天皇が出てきたのかも知れない。

 大菩薩とは、仏になるための修行のある程度の段階に進んだ者を大菩薩と云う。八幡大菩薩は地蔵大菩薩と同じ形をしている。即ち僧形沙門形・比丘形である。この大菩薩は衆生が悉く成仏しない限りは仏にならないのである。成仏しない仏である。地獄に居て、衆生を極楽に送り続けるありがたい神である。元々、日本の神々は蛇の形などのあさましい姿をしているものもある。成仏できないと覚悟をして仏教に帰依したのである。

参考文献 『日本の神々1』白水社、『八幡神とはなにか』飯沼賢司 角川選書、『八幡神と神仏習合』逵日出典 講談社現代新書  『神々の原像』西田長男・三橋健 平河出版社

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