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Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:ペギラ  投稿日:2017年 6月 3日(土)12時03分20秒 kc220-208-231-173.ccnw.ne.jp
返信・引用
  > No.485[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。
>
>  小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
>  隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。
>

この間、お話されていたのが、これなんですね。

ここでは、おひさしぶりです。ペギラです。

竪穴住居跡からの小銅鐸の出土は思ったより多かったです。
どんたくさんの資料から

2 群馬 中溝Ⅱ 太田市新田小金井町(新田郡新田町 小金井字中溝)
3 千葉 天神台 市原市村上(大字村上字天神台)
4 千葉 川焼台 市原市草刈(字川焼台1692-2)
8 千葉 草刈I区 市原市草刈<草刈遺跡I区>
10 千葉 中越 木更津市大久保(字中越他)
12 東京 高田馬場3丁目 新宿区高田馬場3丁目
13 東京 中郷 八王子市長房町
14 神奈川 (海老名)  本郷 海老名市本郷(高座郡海老名町本郷字本宿)
18 福井 瓜生助 越前市瓜生町 (武生市瓜生町)
31 大阪 寛弘寺 南河内郡河南町 寛弘寺/神山
33 大阪 上フジ 岸和田市三田町
38 鳥取 長瀬高浜 東伯郡湯梨浜町はわい長瀬(東伯郡羽合町大字長瀬小字高浜)
40 岡山 足守川矢部南向  倉敷市矢部南向
41 岡山 横寺 総社市新本
50 福岡 井尻B 福岡市南区井尻
58 大分 別府 宇佐市別府(字桜)

小銅鐸は、ほぼ弥生後期・古墳時代が始まるぞという頃のようです。

お墓からも出ていますが、個人的に目につくのが井戸からの出土。
26 三重 草山 松阪市下村町(字草山)
39 岡山 下市瀬 真庭市下市瀬(真庭郡落合町大字下市瀬池尻)
54 福岡 比恵遺跡群 福岡市博多区博多駅南 5丁目

鐸型土製品も調べたらもっと面白いことがわかるかもしれませんね。
 
 

Re: 古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月18日(木)15時23分16秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.502[元記事へ]

古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

 古墳名   全長    直径 前方長   個数

備前
浦間茶臼山  131  81   50   4.9
網浜茶臼山   92  56.5 35.5 5.0
湊茶臼山   125  72   53   5.9
神宮寺山   155  70   85   9.7
金蔵山    165 100   65   5.2
雨宮山    174  99   75   6.1 大仙の2/5


備中
中山茶臼山  105 68-64  37-41      4.3-5,1
車山     135  80  55    5.5
小盛山    108  95  13  円墳
造山     360 190 170    7.1
作山     282 175 107    4.9


 

Re: 古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月18日(木)09時49分20秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.501[元記事へ]

古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

 古墳名   全長  直径 前方長  個数

佐紀古墳群
宝来山   227 123 104  6.8
五社神   267 190  77  3.2
陵山    207 131  76  4.6
市庭    253 147 106  5.8
ヒシャゲ  219 130  94  5.8
コナベ   204 125  79  5.1
ウワナベ  205 128  77  4.4

柳本古墳群
黒塚    130  72  59  6.6
柳本大塚   94  54  40  5.9
東殿塚   139  65  74  9.1 後円部は楕円
行燈山   242 158  84  4.3
渋谷向山  300 168 132  6.3
シウロウ塚 120  66  54  6.5
櫛山    152  90  62  5.5

(箸墓)  276 156 120  6.2

大和古墳群
中山大塚  130  67  63  7.5
西殿塚   230 140  90  5.1
波多子塚  140      90     前方後方墳
燈篭塚   110  55  55  8.0

 

古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月17日(水)13時38分45秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。
 古市古墳群

古墳名   全長  直径 前方長  個数
津堂城山 208 128  80  5.0
古室   150  96  54  4.5
仲津山  290 170 120  5.6
宮山   154 100  54  4.3
墓山   225 135  90  5.8
誉田御廟山425 250 175  5.6
市野山  230 140  90  5,1
前の山  200 106  94  7.0
岡ミサン 245 150  95  5.0
ボケ山  122  65  57  7.0
白髭山  115  63  52  6.5
 

古墳の分類法

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 5月17日(水)11時47分53秒 ag089165.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   古墳の分類法を
 後円部の直径を8等分し、前方部の長さ(全長ー直径)がそのいくつに当たるのかで分類してみます。

古い順に
古墳名   全長  直径 前方長  個数
乳の岡  155  94  61 5.2
大塚山  168  96  62 5.2
上石津  365 205 160 6.2
大仙陵  436 248 188 6.0
御廟山  203 112  91 6.5
イタスケ 144  90  56 5.0
土師   290 156 134 6.9
田出井山 148  76  72 7.6

上石津は上石津ミサンザイ。
土師は土師ニサンザイ。

今日に残っている古墳の形状が設計時造営時からどの程度変化しているのかわかりませんが、かっては整数倍だったのかも。
イタスケを別にしますと、古いほど個数が小さいようです。この年代順は白石太一郎著『古墳とヤマト政権』を参照しました。

 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 6/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月21日(金)15時16分7秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  葛城氏の遺跡
 宮山古墳 道鏡十一面、滑石製勾玉二十九個などが出土していた。竪穴式石室は紀ノ川の緑泥片岩を積み上げたものと加古川流域の龍山石製が埋納されている。四世紀末から五世紀初めの朝鮮半島南部の伽耶地方の船形土器などが出土し、被葬者と半島の結びつきを示している。この古墳の中心的被葬者は葛城曾津彦と見られています。

 極楽寺ヒビキ遺跡 金剛山東麓の扇状地にある高台の遺跡です。楼閣を思わせる高層建築物があり、柱間は五間x五間、面積220平方メートルの巨大な掘っ建て柱建物で、どうやら火災の跡があるようです。葛城円大臣が焼き殺されたと伝えられており、彼の居館と見ることができます。安康天皇暗殺の眉輪王をかくまったことで雄略天皇に眉輪王ともども攻め滅ぼされました。

 南郷大東遺跡 全長12mの貯水池に貯めた水を3本の木樋を通して一辺4mの覆屋と一辺5mの垣根があり、中を窺えないようにしていると思われます。実用的ではないこの装置は祭祀に利用されたと推測されています。夜間に覆屋の中で水を汲み上げるような儀式が行われていたと推測されています。

                                                  以上

参考文献  『謎の豪族葛城氏』平林章仁 『古代葛城とヤマト政権』御所市教育委員会
 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月20日(木)12時56分53秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   仁徳天皇が生まれた日に産屋にミミズクが飛び込んできました。同じ日に武内宿禰の家でも子が生まれ、産屋にミソサザイが飛び込みました。これは瑞兆として、鳥の名を交換して子の名前にしました。仁徳天皇はオホササキが正式名ですが、通称ミソサザイだったのでしょう。亡くなる20年前(実際は 5年前)に石津原に出かけて陵地をきめました。造営が始まった際、ミソサザイの陵と呼んでいたのでしょう。これが、現在の上石津ミサンザイ陵とよばれている古墳となりました。初代のミサンザイ陵です。履中陵とされていますが、5世紀前半の古墳です。仁徳陵とされている大仙陵よは五世紀前半から半ばの古墳ですからこれが本当の履中陵でしょう。
 ミサンザイ・ニサンザイの名を持つ古墳では最も古いのが上石津ミサンザイ古墳です。これ以降、いくつかの古墳がその名を持つようになり、ミササギからの語韻の変化と理解されています。


その他のミサンザイ・ニサンザイの名を持つ古墳  延喜式の被埋葬者

淡輪ニサンザイ古墳  5世紀後半の造営 大阪府泉南郡 五十瓊敷入彦
岡ミサンザイ古墳 5世紀後半の造営 大阪府藤井寺市 仲哀天皇
土師ニサンザイ古墳  5世紀後半の造営 大阪府堺市 全国八位 反正天皇陵
鳥屋ミサンザイ古墳 5世紀半から6世紀初頭の造営 奈良県橿原市 宣化天皇

 上石津ミサンザイ古墳と吉備の造山古墳とは、同時代に作られ、全く同じ形で、当時では最大の墳墓です。祭られている人は仁徳天皇と義兄弟のような関係にあったのでしょう。仁徳天皇は吉備の海部直の娘である黒日売に惚れて吉備まで追いかけて行きました。おそらく、この時に吉備国の王者(御友別は応神天皇と合っています。御友別の子かも)と契りを結んだのでしょう。この頃には大王家以外に葛城氏や吉備の王族も同等な力を持っを持っていたのでしょう。
 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月19日(水)17時50分36秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.495[元記事へ]

 履中天皇の就任前に葛城の葦田宿禰の娘の黒姫を娶ろうとして、使いに弟である住吉中皇子を差し向けましたが、皇子は偽って兄になりすまして黒姫を犯したのです。葛城の姫の争奪戦でということでしょう。皇位につこうとすれば、葛城の姫を娶るのは近道であったようです。住吉中皇子は履中を殺そうとして、結局は逆に殺されてしまいます。

 雄略天皇も葛城の円大臣の娘の韓姫を娶って、清寧天皇を生ませています。このように、葛城の姫を娶ることは、皇位への有力な力になっていたのでしょう。
 天皇家の姻族としての葛城氏の力を見せるエピソードがあります。河内王権の天皇では、安康天皇と武烈天皇の二人は、母と妃は葛城氏の女性ではありません。葛城氏と無関係の天皇です。安康天皇は暗殺されます。武烈天皇は皇統をつなぐことができませんでした。

 葛城氏の権力基盤は娘を入内させることではなく、このことは後からそうなったのであって、先ず、半島での葛城曾都彦の活躍があったのです。水運・海運の力です。軍事力―兵士の動員力―は天皇家の仕事だったのでしょう。水運・海運と云えば、紀氏の得意分野であり、吉野川紀ノ川を共に利用する関係にあったのです。葛城の地は奈良盆地の一角であり、水運・海運については紀氏などの親しい豪族の力を利用していたのでしょう。和歌山県御坊市に塩屋地名があます。塩屋連は葛城曾都彦の後であり、紀州と葛城氏の繋がりがかいま見えます。

 大和川の水運は、河内に出る手前に流れが急で岩礁も多い亀の瀬渓谷は舟での航行は難しいので陸路を理容師、それ以外の流れを水運で利用していたのでしょう。摂河泉に葛城曾都彦の後裔とする布忍首や布帥臣など多くが分布していたようです。 水越峠を越えての往来も含めて河内繋がりがあったのです。
 淀川・木津川は、磐之媛の航路に見るように活用されていました。葛城氏の滅亡後三百年後に出来た『新撰姓氏録』には山城国皇別に、与等連を葛城曾都彦の後裔として記載しています。名前からも淀川の水運を押さえていたのでしょう。

 『紀』仁徳天皇十一年十月に、「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰う。」とあります。上町台地の北麓を切って人工水路を造り、河内湖の水を大阪湾にスムースに流してやり、水害を防ぎ、水運の便を図ったのです。
 この水路沿いに難波津と呼ばれる港が出来、九州・朝鮮へ直結することになりました。難波津沿
いに巨大倉庫軍が建てられるようになり、王権の力は大いに増しました。倉庫は約90平方メートル
で十六棟が東西に配置されていました。
 また、この倉庫造営より前に紀ノ川下流の鳴滝遺跡から七棟の倉庫群が発掘されています。王権と紀氏とが結びついて対外折衝用に活用されたものでしょう。おそらく葛城氏も絡んでいることでしょう。
 

Re: 仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月16日(日)19時25分47秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.495[元記事へ]

> 『宋書』 同時代資料
>
> ┏倭王讃                           ┗倭王珍  ┏ 倭王興                     倭王済 ━┫
>       ┗ 倭王武

『宋書』 同時代資料

┏履中(讃)
┗反正(珍) ┏安康(興)
 允恭(済)━┫
       ┗雄略(武)
 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月16日(日)16時03分30秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   襲津彦の娘であり、仁徳天皇の皇后である磐之姫は嫉妬深い女で有名になりました。姫の留守中に仁徳はかねてから想いを寄せていた八田皇女を宮中に入れたのを怒って、高津宮に帰らず、そのまま淀川を遡って、山背の百済系渡来人の奴理能美の家を筒城宮として留まりました、ある日、那羅山から故郷を望んで歌いました。
 つぎねふ 山背河を 宮泝(みやのぼ)り 吾が泝(のぼ)れば 青丹よし 那羅を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我家(わがへ)のあたり
 山また山の山背川を 上っていけば 青土の美しい 奈良もすぎ 大和もすぎて 私が見たいと思うのは 葛城の高宮の 生まれた家のあるあたりです

磐之姫は仁徳天皇を許すことなく、筒城宮で亡くなりました。那羅山に葬られたとあります。、『延喜式』には、佐紀楯列のヒシャゲ古墳とされています。

奴理能美は、三色に変化する不思議な虫・蚕を飼育していたとあり、絹の高級織物を織る集団でした。葛城氏はこの集団と関係が深かったのでしょう。『新撰姓氏録』には、奴理能美の後裔氏族として、調連、民首、水海運、調曰佐の名を記しています。調曰佐は紀朝臣と同祖であり、対外交渉での通訳の仕事をしていたとされています。

五世紀初頭の出来事であった高句麗好太王の碑に記されている倭軍との戦いには、葛城曾都彦の働きがあったのでしょう。この事が葛城氏が天皇家を支える重要な氏族に押し上げたものと思われます。曾都彦の妹を応神天皇の妃に入れたのもこの頃でしょう。

磐之姫の話に戻しますが、筒城宮は息長氏の拠点でもあり、ここでも葛城氏と息長氏との親密さが窺えます。

磐之姫が生んだ皇子は、履中天皇、住吉中皇子・反正天皇・允恭天皇とされていますが、允恭天皇については疑問があります。それは倭の五王が南宋へ遣いを出しますが、その名と繋がりが南宋の資料と記紀では違うのです。

『宋書』 同時代資料

┏倭王讃                           ┗倭王珍  ┏ 倭王興                     倭王済 ━┫
      ┗ 倭王武
『記紀』 150年後の資料から

┏履中(讃)
┃反正(珍) ┏安康(興)
┗允恭(済)━┫
       ┗雄略(武)

 となって、允恭(倭王済)が履中・反正と兄弟ではない表示になっています。『宋書』では、「珍の場合は讃死して弟珍立つ。」「倭王済使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。」とあり、済の場合のみ先代との繋がりが書かれていません。

 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月15日(土)17時55分48秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  仁徳帝の祖母は神功皇后です。皇后の母は葛城高額比賣命といい、高額は香芝市畑の旧名です。葛城の娘です。

葛城曽津彦は武内宿禰の子の一人です。

 『古事記』によると、応神天皇は妃に葛城曾津彦の妹の野伊呂売りを娶っていますが、位置づけは末席のようです。応神の皇后は誉田真中王の娘の仲姫、入り婿だったようで、誉田家が大王家となったのでしょう。仲姫は大雀命(仁徳帝)の母です。

 仁徳天皇は葛城曾津彦の娘の磐之姫を皇后としました。葛城氏が王権を支える重要な氏族に成長してきのです。

葛城曾津彦の働きを見ながら、葛城氏を見ていきます。白村江の戦いの頃、亡びた百済の亡命者が記したとされる『百済記』に、沙至比跪と云う人物が出てきます。曾津彦同一人物のようです。

   『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曾津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのき)を攻め落として捕虜を連れ帰りました。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。 場所は、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。
 この渡来人達のハイテク技術を掌中に収めた葛城氏は勢いを増していったと思われます。

『日本書紀』神功六二年 新羅が朝貢しなかったので葛城曾津彦を派遣して討たせたとあります。
『百済記』は、倭国は沙至比跪を派遣したが、新羅は美女二人を港に迎えて欺いた。沙至比跪は命令に反して加羅国(高霊)を討ったとあります。後に、許されないと知って、岩穴に入り死んだとあります。これが曾津彦と同一人物とすると、どこかで伝承に食い違いがあるのでしょう。

『紀』応神十四年 弓月君の来日を新羅が妨害していたので、葛城曾津彦を救援に派遣し、弓月君らを加羅国に入れることが出来ました。
『紀』応神十六年 更に平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し襲津彦等を帰国させました。
『紀』仁徳四十一年 百済王族酒君が無礼だったので、襲津彦に預けました。

『紀』の年代を当てはめると、襲津彦は八十年以上も活躍していることになり、さすが長寿を誇る武内宿禰の子息と言いたい所ですが、神功皇后など、長寿すぎますので、年代がおかしいのでしょう。『紀』仁徳天皇の治世について、仁徳天皇は在任八十七年に亡くなりますが、善政を敷いたので治世二十余年無事であったと書かれています。計算すると暦は一年で四年経つようです。

 

仁徳天皇と彼を支えた葛城氏 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 4月14日(金)19時26分18秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  大化時代、ヤマト国中には倭国造と葛城国造がいました。葛城国造の支配範囲は、曽我川以西で二上山・葛城山・金剛山の麓までと推定できます。国中の南西部です。葛城氏が力を持ったのは、河内王権の成立と期を一にしていました。元々、この地域を支配していたのは鴨氏でした。
一方、倭国造の支配地域は国中東部でした。
葛城地域を代表する神は事代主神です。倭を代表する神は大物主神と言えましょう。 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二(国譲り)に、 「大物主神と事代主神は、八十萬神を天高市に集めて、この神々を率いて天に昇って、その誠の心を披瀝された。」とあります。塚口義信先生は、これを河内王権がヤマト王権を屈服させた歴史を神話として記述したものと説明しています。

 葛城地域では鴨氏の勢力が衰え、地域の南部で、高鴨神社を中心―とした地域に逼塞したのでしょう。替わってこの地域を押さえたのが葛城氏です。政権交代によるこのような現象は各地でおこり、紀伊では紀氏など武内宿禰の後裔氏族とされる氏族が勝ち組になりました。

 さて、応神天皇と仁徳天皇が同一人物であるとか、成務・仲哀天皇はいなかったとか、怪説奇説が横行しているようですが、考古学は。「記紀を裏切らない。」ことを示しましょう。
 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象嵌された文字に上祖意富比肩から乎獲居臣までの八代の系譜が刻まれており、代々、杖刀人として仕えたとありました。乎獲居臣は獲加多支鹵(ワカタケル:雄略)大王に仕えてから埼玉へ帰って太刀を作ったのでしょう。上祖意富比肩とは第八代孝元天皇の皇子の大彦に当たります。この家族で八世代に渡りf記録されています。天皇は十五人になりますが、雄略天皇まで八代としますと、仲哀―応神―仁徳―履中―反正―允恭―安康―雄略となります。世代数では五世代になります。地方豪族ですら八代の祖先名を記録しています。ましてや大王家ではどうでしょう。きちっと伝えられており、『天皇紀(帝紀)』に記されたものと思われます。応神と仁徳とは明確にかき分けられています。おそらく成務天皇も十分記録の中に存在していたのでしょう。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊6

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月31日(金)15時14分4秒 ag094055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.491[元記事へ]

 応神信仰は 、対新羅にかかかわる神功皇后信仰から一歩進んでの胎中天皇信仰になる。更に八幡神は軍神としても再認識された。


 八幡信仰には、御許山の磐座から下がった所に泉があり、神が菱形池の側に出現したりと水に関係が深い。即ち、元々は農業神であった。『日本霊異記』には、矢羽田大神宮寺の言葉ある。和銅六年713年に好字二字令が出ており、ヤハタは八幡と書かれるようになったのだろう。ヤハタは田を褒め称える言葉である。そうすれば誉田(ホムタ)も同じ言葉であり、ここから応神天皇が出てきたのかも知れない。

 大菩薩とは、仏になるための修行のある程度の段階に進んだ者を大菩薩と云う。八幡大菩薩は地蔵大菩薩と同じ形をしている。即ち僧形沙門形・比丘形である。この大菩薩は衆生が悉く成仏しない限りは仏にならないのである。成仏しない仏である。地獄に居て、衆生を極楽に送り続けるありがたい神である。元々、日本の神々は蛇の形などのあさましい姿をしているものもある。成仏できないと覚悟をして仏教に帰依したのである。

参考文献 『日本の神々1』白水社、『八幡神とはなにか』飯沼賢司 角川選書、『八幡神と神仏習合』逵日出典 講談社現代新書  『神々の原像』西田長男・三橋健 平河出版社

end
 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月30日(木)13時50分52秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.490[元記事へ]

749 天平宝字元 はたせるかな、陸奥で金が発見されたのである。

大仏拝礼のため八幡大神入京、憑坐(よりまし)の大神杜女が紫の輿に乗って上京し大仏を拝んだ。文武百官を率いた孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后の行幸いしているさなかのことである。

 八幡大神一品 比売神二品 神階を受けた最初の神。一品が与えられているのは、ばくぜんと天皇霊と思われていた。皇祖扱である。

752 天平宝勝4 大仏開眼供養。

754 天平宝勝6 薬師寺の行信と八幡神宮の主神大神多麻呂、禰宜大神杜女が厭魅(呪詛)をなしたとして配流される。反聖武の光明皇太后・藤原仲朝呂に怨念。

755 天平宝勝7 八幡大神は託宣して封戸と田を朝廷に返上す。

 『託宣集』八幡神は宇佐を去り、四国宇和嶺に去り、十数年帰らず。
 比売神は残っていた。

764 天平宝字8 孝謙太上天皇、八幡大神に戸二五烟が与えられた。復権である。

765 天平神護元 称徳天皇天重祚(出家天皇の登場)。
 仏法を守護し尊崇するのは諸神である。神仏習合政治形態の開始

769 神護景雲3 道鏡騒動 太宰府から宇佐八幡宮の神託として、道鏡を皇位に即しめよ。

 和気清麻呂、宇佐八幡宮に赴く。禰宜の辛嶋与曾女が託宣。「君臣定まりぬ。無道の人は掃い除くべし。」 称徳・道鏡の逆鱗にふれ、和気清麻呂は大隅に流された。

770 宝亀元 称徳天皇他界。神仏習合政治消滅。
 光仁即位。井上内親王立后(聖武の娘)。

772 宝亀3 天皇を呪詛したとして井上皇后と他戸皇太子を廃し、幽閉。

777 宝亀8 八幡神出家する。また765年の聖武が埋葬された年月日と同じとの説。
 八幡神は太上天皇御霊とされた。聖武霊のこと。

779 宝亀10 新羅使を最後に途絶える。関係険悪化。

781 天応元 光仁退位。桓武即位。聖武ゆかりに嫌悪感を持つ。八幡神も抹殺を恐れた。しかし、抹殺すれば怨霊神として現れるのを恐れた。
 八幡新社殿を造営、大自在王大菩薩を称した。

783 延暦2 護国霊験威力神通大自在天大菩 と称した。八幡大菩薩の誕生である。

810 弘仁元 新羅船二十艘以上が対馬を窺う。この頃から新羅から渡来・漂着・帰化が激増。新羅国内、飢饉など大いに乱れていた。

815 弘仁6 太宰府解 八幡大菩薩是亦太上天皇御霊也(聖武のこと)聖武の娘の井皇后と他戸皇太子の怨念に悩まされる。これを八幡の祟りとも受け取られた。

820 弘仁11 駿河遠江の新羅人八百人が蜂起、これを契機に受け入れない方針に転換。宇佐宮に大帯姫を祀れとの託宣があった。宗像三女神を比売神として取り込んだ。

823 弘仁14 宇佐八幡境内に大帯姫細殿一宇を新造。この頃には大帯姫は神功皇后のことと理解されていた。

八幡神を護国の神としての位置が確固たるものになった。しかし未だ応神霊ではない。

836 承和3 遣唐使を派遣、神功皇后山陵に国家護持の宣命使が派遣されている。

844 承和11 『弥勒寺建立縁起』に引用された大神朝臣清朝呂解には「右大菩薩御神者、是品太天皇御霊也。磯城島金刺宮御宇天国排開広庭天皇・欽明天皇の御世 於豊前宇佐郡馬城嶺始顕坐」とある。

八幡大菩薩は応神天皇御霊であると記している。このようにこの頃一般化していった。

859 貞観元 八幡神を石清水八幡宮に勧請した。

879 元慶3 頃成立の『住吉大社神代記』には、八幡大神は応神天皇霊とある。

1063 康平6 京都の石清水八幡宮から鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)として勧請。
 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊4 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月29日(水)19時54分29秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.489[元記事へ]

724 神亀3 聖武天皇~749 菩薩国家、即ち誰もが仏の道を目指す国造りを目指した。した。八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を守り、放生と云う仏教的手段によって。殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった。

725 神亀4 『承和縁起』小倉山に社殿を建立。宇佐八幡登場。弥勒寺は既にあった。

731 天平3 八幡神は中央政府の神祇官より幣帛を賜ることになった。官幣社となる。

宇佐八幡の誇り高き伝統である「宇佐使」の始まりである。途中で途絶えたこともあったが、今日まで続いている行事である。

御許山の地主神の比売神が、「大菩薩に副い奉りて化道を助け奉らん。(八幡が大菩薩となるのは8世紀末)と託宣した。また新羅との緊張関係の中で、対新羅神として出現したとも考えられる。

736 天平8 比売社殿造営。

737 天平9 対新羅神として奉幣を受ける。八幡神、史書に初出。

740 天平12 藤原広嗣が九州で反乱を起こす。鎮圧のため八幡神に祈祷。

741 天平13 日本最初の神宮寺としての弥勒寺が宇佐八幡の境内に建立された。

743 天平15 聖武天皇、廬舎那仏(大日如来:大仏)発願の詔を発す。

747 天平19 東大寺大仏造営開始。朝廷は八幡神に大仏造律祈願をさせた。八幡神は、「神吾、天神地祇を率しいざないて、成し奉つて事立て有らず。銅の湯を水となすがごとくならん。我が身を草木土に交えて、障へる事無く成さん。」と云う有名な託宣を発した。

日本の神々のトップに躍り出た。香春岳から採れる銅と精錬技術を背景に支援できるとの読みがあった。仏教に帰依の先頭を切っているとの自負、仏法擁護に大きく踏み出した。

748 天平20 大仏途金の金が途絶え、使者を唐に派遣して入手しようとした。使者は出発し宇佐八幡宮に立ち寄り、往還の平安を祈っていた時、託宣があった。「求むる所の黄金は、将にこの国土から出づべし。使いを唐に遣わすなかれ。」と言うものであった。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊3 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月28日(火)08時15分34秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.488[元記事へ]

702 大宝2 薩摩の隼人の反乱

703 大宝3 『続日本紀』宇佐国造家の出身の僧法蓮が医術によって賞された。一族を宇佐君に。宇佐の復活。

708 和銅元 大隅宮に社殿が建立され、祭神は石体宮から遷った

712 和銅5 『託宣集』 鷹居社の造立。大神比義と辛島乙目による。新しい神の創造と思われる。辛島氏の祖神は五十猛神。大神氏の祖神は大物主神。この二神の融合。後に小山田社に遷座した。

713 和銅6 日向国からわけて大隅国できる

714 和銅7 隼人の教導のため、豊前国から200戸、5000人を移住させる。豊国郷や大分郷を設置している。移住の主体は辛島氏配下の在地性が薄い渡来人でだった。韓国宇豆峰神社「五十猛神」を建立している。神体山は霧島山の北の韓国岳と推定している。当然の事ながら隼人の土地を奪って移住したので隼人の反発は大きかった。

716 霊亀2 鷹居社から小山田社に遷座。

719 養老3 大隅隼人の大がかりな反乱が始まる。

720 養老4 「日本紀」完成。隼人、大隅国守を殺害。大伴旅人を大将軍として鎮圧、大がかりな反乱としては最後になった。

 反乱は豊前から移住者が行って六年後のこと、当然宇佐からも救援のために兵士が出た。かれらは小山田社の神を奉じて参戦した。連隊旗をはためかして進軍する姿を見た歌人でもある大伴旅人はこの神をヤハタと呼んだのであろう。八幡大神の降臨である。また、福永光司氏によれば、唐の軍隊の制度の「八幡・四鉾」に由来すると云う。鎮圧軍は韓国宇豆峰神社に集結し、気勢を上げた。

『託宣集』の「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。」神の移動は、宇豆高島=辛国城=霧島峰 からとなっている。大隅に降臨し、霧島山(高千穂峰)を神体山とした神である。『託宣集』は別の所で、辛国の城を日州辛国城・隅州辛国城と記している。

『今昔物語』平安末期 「八幡大菩薩は最初は大隅国に現れ、次ぎに宇佐宮に遷り、ついに石清水八幡宮に跡を垂れた。」とある。

大隅宮は元々は隼人の祖神を祀る高さ四尺の磐座であった。戦いが済んだ後、社殿に八幡大神を遷し祀ったのであろう。従って大隅正八幡と呼ばれた。

『託宣集』の「大隅宮縁起」に、年号はないが以下の説話が採録されている。

陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。

九州での八幡大神は蛮夷の鎮圧の神として権威は高まった。

征討が終わると宇佐八幡神は託宣を下し、多くの殺生を行ったので、罪障に苦しんでいる、、放生会を修して罪障を消滅してほしいと云った。

もともと、香春で鋳造した銅鏡を宇佐八幡に奉上するのが放生会の本来であった。途中に和間浜によるようになり、生物を解き放ったので放生会と呼ばれるようになった。

大隅では西に辛國息長大姫大目命、採銅所があり、東に宇佐八幡宮が鎮座。

豊前げは東に韓国宇豆峰神社と銅田地名、西に正八幡が鎮座となった。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月26日(日)11時03分37秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  527 継体21 九州の豪族磐井が反乱、鎮圧された。宇佐氏も荷担したので衰退。

562 欽明23 韓半島の大加羅が滅亡。多くの亡命者が宇佐地方にも移住して来た。

6世紀後半 宇佐氏の後に大和から大神氏が入植。辛嶋氏を服属させた。

571 欽明32 『承和縁起』840年頃 神が宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国胆吹嶺(宇陀郡伊福 大神地名)、紀伊国名草海島(名草郡)、吉備宮神島に遷り、宇佐郡馬城嶺に顕現。その後比志方荒城磯辺に遷り、さらに泉社、郡瀬社、鷹居社と遷った。ここで大神はあらぶる神となり、鷹と化し、5人行けば3人殺す。治まってから小山田社に遷った。

571 欽明32 『宇佐託宣集』1313年古記録・託宣を選修。  天童と現れ言わまく。「辛国の城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神となれり。釈迦菩提の化身なり。」と。神の移動経路 宇豆高島=辛国城=霧島山 大和国胆吹嶺 紀伊国名草浜 吉備宮神嶋 云々。

『託宣集』の「大隅宮(正八幡、鹿児島神宮)縁起」年不明 以下の伝承がある。陳大王の娘大比留女は、七歳にして懐妊す。略。只朝日の光、胸の間にあり。しかる後懐妊して子を生む。三歳の時、問ひて云く。君は誰人ぞ。答えて云く。「我が名は八幡」と云う。

587 用明2 用明天皇の病気を治すために、豊国法師を内裏に入れた。

608 推古16 随の裴世清、筑紫の東に秦王国ありと報告。新羅系渡来集団が居住。

620 推古28 「天皇記」「国記」編纂。

645 皇極4 乙巳の変 大化の改新。

661 斉明7 斉明天皇、百済救援のため、北九州へ遠征。斉明死去。

662 天智2 白村江の戦いで大敗。
唐・新羅連合軍との戦いであるが、宇佐の地名も神名も記載がない。香椎宮や神功皇后の名も出てこない。天皇紀国記は既に編纂されていたが、記載がなかったのだろうか。

 

八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月25日(土)20時29分33秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   宇佐神宮の神体山である御許山(大元山)に東面する三個の石体と泉がある。

原初の宇佐の神は水分神であり農業神であったと思われる。

紀神代一書 三女神の市杵嶋姫命、湍津姫命、田霧姫命を宇佐嶋に降臨。

神武東征途中宇佐に寄る。そこには菟狹國造祖の菟狹津彦と娘の菟狹津媛がおり、媛を中臣氏之遠祖天種子命に娶した。

垂仁二年 大加羅国から来た童女を国東半島の東の姫島の比売語曽神として祀った。

豊前風土記 昔、新羅の国の神が自分で海を渡って来着いて、この河原に住んだ。名づけて香春の神という。郷の北に山がある。第一の嶺には黄楊樹(つげ)がある。第二の峰には銅と黄楊、第三の峰には龍骨がある。(実際は第三の峰に銅が多かった。採銅所があり、国内の半分の生産量であった。) 香春神社の祭神は辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比賣命である。

古墳時代 宇佐の地は古墳の密集地。前期は宇佐氏の古墳と思われる。

4世紀末前半 赤塚古墳 5個の三角縁神獣鏡出土 畿内と同氾鏡。ヤマト王権と関連がある。

5世紀末後半 姓氏録、雄略天皇不予により、豊国奇巫(きふ)を召上げた。仏教関係か不明。

5世紀末 辛島氏、筑紫から東へ進出し、宇佐に入り、留まる。
 

孝坪神社

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月21日(火)13時05分34秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   和歌山市和田に孝坪神社が鎮座しています。

 鎮座のいきさつや祭神のことなど、ご存じの方がおられましたら、教えて下さい。

 ご参考までに
http://blog.goo.ne.jp/picarin2005/e/111039593a77d45b02be25a3c92ad078
 

隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月12日(日)16時09分49秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。

 小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
 隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。
 

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