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Re: 年賀状です

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 3日(火)22時50分2秒 p3022-ipad31fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

>  古代史の謎ですが、
>
>  邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。
>
>  また、卑弥呼の発音も、気にかかります。

愚説は以下の通りです。

≪「邪馬臺國」とは、古今東西の叡智の塊のような先哲が探究してもその所在が確定していません。
本居宣長、新井白石らから約三百年・白鳥庫吉VS内藤虎次郎から約百年論争が続いています。
これは「邪馬臺國」の本質が解っていないからである。(福島雅彦の結論)
「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」が既に解答を与えている、と。
*「邪馬臺國」とは、「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。
・倭人の使者に「卑彌呼」は何処に坐すか、と問う。
 答えて曰く「天(あま・あめ)たィ!」と「高天原」の意で述べた。「…たィ」は強調の語尾。
 九州弁は「蟻」を「やり・ィあり」と訛る。「天(あま・あめ)」は「邪馬」と聴き取られる。
*「邪馬壹國」とは、後世の倭人の使者に「今でも「卑彌呼」は邪馬臺國に坐すか」と問う。
・倭人の使者は「邪馬臺國」が解らない。その様な国名の地は存在しないから…。
・「卑彌呼」の居所を問われたのは判ったので答えて「天(あま・あめ)ン(の)うヰ(上)」と、一本指を立てて上方を指した。
・「上(うヰ)“wi”」は一本指から「壹」“yi”の訛りと採られた」。中国側の書記官が前史が臺と壹を書き間違った、と判断した、かと。
*「邪靡堆」とは、現地踏査した裴世清が「邪馬臺國」の実態を観ての文字撰びである。
・曰く「古の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは来て観たら、国名ではなく(髪が)靡く様な堆(うずたか)いだけの小山だった」と
・「伊都國」の南千五百里に在る「水縄連山(耳納山地)」のことである。
・此の山は東西≒25kmの一重の単山。
・山頂はノコギリノ歯状(高千穂)を呈し、山腹は下り尾根と谷沢に刻まれ櫛で梳いた様(櫛触る嶽)を呈している。
*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触る嶽」そのものである。
・「筑紫の日向の」=この山の東端に地名「日向」が現存。「〇〇日向」は十三か所。
・「襲の」=“?”(seo)西の。
・「高千穂の」=“??-”千穂=千の穂(山頂)が寄って集(たか)って。
・「櫛触る嶽」=山腹の下り尾根と谷沢の様。“?”(hul)=扱(しご)く=梳る。

∴「卑彌呼」の居所=「高天原」=「天(あま・あめ)」と答えた「倭語」の音写である≫

以上が、愚説の骨子のダイジェスト版です。
・「邪馬臺國」は此処だ!と、国名として述べたら全て間違いである。
・*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

≪「卑彌呼」≫は
3).「卑彌呼」は固有名詞(個人名)ではナイ!
*“?”(him)尊(みこと)=最高位の尊の意の職掌名。(天照大神も同義=後述)何人も何代も襲名出来る。「尊(みこと)」とは稲作を仕切る「水事(みこと)・米事(みこと)」であろう。
 ①「ひン投げる」=(相撲などで圧倒的力量差で相手を)投げ飛ばす、事。
 ②「ひ(ン)の叫(おら)び」=この上もない大音声で叫ぶ、こと。
 ③「ひンだれた」=この上もなく疲労困憊した。以上は九州弁の“?”(him)。
・朝鮮語の“?”(him)=「力(ちから、りき)、筋肉の働き、体力、物理上の力、働き、力量、能力、知るか覚ることのできる才能、勢力や権力、精力、元気、etc」『民衆書林・韓日辞典』、とたった一音節の語彙にこれだけの意味がある。「倭語」借用だからか、と。

以上は、或る講演会でのレジメの転載です。
全て、言語・語源からのアプローチです。独創説です。
 
 
 

Re: 年賀状です

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月 3日(火)17時40分56秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.453[元記事へ]

福島雅彦さん、皆さん。

 あけましておめでとうございます。

 皆様のご投稿のおかげで、この掲示板も18年目を迎えました。ありがとうございます。


 古代史の謎ですが、

 邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。

 また、卑弥呼の発音も、木にかかります。

 
 

年賀状です

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 1日(日)00時05分31秒 p6226-ipad112fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  此処に集われる方々へ
≪恭賀新年≫ 年頭に当たり皆々様のご健康とご清祥をお祈り申し上げます。
        昨年は色々と学ばせて頂きました。
今年もよろしくお願いいたします。

【所謂「邪馬臺國」とは、国名ではなく卑弥呼の居所説明文言の一部である、と看破して二十年。その間、久留米大学経済学部教授に見いだされ「久留米学」のゼミで十二年連続、公開講座にも八回講義。九州国立博物館開館四周年記念シンポ「邪馬台国はここにあった」でも登壇と活動を重ねるも未だ世に容れられるに至らず長嘆息。「邪馬臺國」とは来て観たら「邪靡堆」だった、と裴世清が『隋書』でその誤謬を正しているが誰も気付かない。コペルニクスの地動説は世に容れられるのに約百五十年を要したとか。情報伝達速度は当時と比ぶべくもない程の速さであるから、自説もソロソロかと今年あたり期待しています。】
平成29年丁酉元旦 福島雅彦
 

Re: 丹塗りの矢

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月31日(土)10時04分30秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.451[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 皆さん、今年も色々教えていただき、また触発をいただき、ありがとうございました。

 丹塗矢は、妊娠・誕生へ繋がる説話となっていますので、日光を物体的に表現したものではないでしょうか。
 こう考えますと、百襲姫の場合には、朝の出来事で、日光を思わせるのですが、姫を死に至らしめているので、日光ではなく、やはり箸と考え、大物主と百襲姫をつなぐ絆が切れたことの象徴のような気がします。

 皆さん、よいお年をお迎えください。
 

丹塗りの矢

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月30日(金)01時39分32秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  山城国風土記逸文にある玉依日賣と「丹塗り矢」伝承(賀茂建角身命-玉依姫命-賀茂別雷命)。
古事記では三輪山の大物主と丹塗り矢。
古事記の神武天皇(比売多多良伊須気余理比売)でも丹塗り矢。
箸墓の「倭迹々日百襲姫」のホトを箸で突いて、はいささか不自然に過ぎる(^^;
これも大物主とのからみでの丹塗り矢の変形じゃないかな。

丹塗り矢の説話は北九州の婚姻儀礼を始発とするのではないか。
海人系譜(南西諸島系-豊玉姫-玉依姫-安曇海人)や味耜高彦根の子孫などによって畿内に運ばれ、その痕跡が丹塗り矢説話ではないかと思っています。

東京では破魔矢に白と赤があります。どっちにするか悩むところ。
来年もまたよろしくお願いいたします。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 麦の害鳥になる鴨

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月29日(木)21時22分50秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.448[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

渡り鳥のカモは マガモ、カルガモ、コガモ
定着のカモは ヒドリガモ

渡り鳥のカモは湿地を好むようですが、ヒドリガモは乾燥地を好むようで、植物の種子や麦の若奈を好むようです。

アジガモ現在ではは巴鴨と言い、マガモに属します。麦の害鳥にはならないようです。

このカモの名を持つのが阿遅鋤高日子根命で迦毛の大御神と称されています。、
 

ヤブ ヤボ

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月28日(水)14時44分1秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  宮本常一 日本文化の生成 下 文庫
 焼畑nことを静岡・奈良・九州の山地では、ヤブ ヤボ と言う。
 

麦の害鳥になる鴨

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月28日(水)14時39分58秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  大三元さんに以下のHPの存在を教えてもらいました。
http://keishintei.exblog.jp/i0/
当農場が有る河北潟干拓地周辺は、シギ・サギの数では、ラムサール条約の規程を満たすほど、水鳥が多い地域である。冬場は、鴨やコハクチョウ等の渡り鳥も多く、にぎやかだ。愛鳥家にとっては素晴らしいことだが、農家の事情は異なる。河北潟干拓地の農家にとって、鴨は害鳥で有り「レンコン」「大麦」「牧草」などへの被害が深刻なのだ。レンコン畑に潜り収穫前のレンコンを食べ、1千羽以上の鴨の群れが畑に降り立ち、緑のじゅうたんの様に美しかった大麦畑を、一夜で「まるはげ」にしてしまう。大麦農家はたまったものではない。農家の防衛策は、肥料の袋でこしらえた「脅しの旗」や「脅しの為のテグス」を畑に立てること。
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月26日(月)15時28分4秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.446[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です

古事記の八俣の大蛇の段の系譜では
速湏佐之男命+櫛名田比売の子が八嶋士奴美神、以下妃は略して
布波能母遅久奴湏奴神、深渕之水夜礼花神、淤美豆奴神、天之冬衣神、大国主神
(ここで古事記がやらかしてくる(^^; )
大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り。

しかし、大穴牟遅は「同じ古事記」で速湏佐之男の娘の湏勢理?売に婿入りしています。
これだけでも「古事記の別名」が信用できないのは明らか。
葦原色許男は播磨風土記で天日槍と戦っており、天日矛は崇神紀で亡命者として書かれています。
古事記の系譜を偽とみるなら話は別ですが、それでは古事記全体が信用できなくなる。
大国主とは出雲の領主を意味して個人名ではないという論がありますが、系譜の書き方から見て無理でしょう。

書紀と古事記の書く事象が一致するものがいくつかあります。
古事記の少彦名が帰郷した後に現れる「是の時に海を光らし依り来る神有り」
「吾は倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」とのりたまひき。此は御諸の山の上に坐す神なり。
書紀にあって古事記にないのが「こは大三輪神なり、この神の子はすなわち甘茂君・大三輪君等・・」

もうひとつが素盞鳴が出雲の簸の川上に降りてオロチ退治の項での書紀1書の記述。
稻田姫を見そめなはして子を生む。清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、あるいは清之名坂輕彦八嶋手命
この五世孫が大国主神なり。
素盞鳴と大国主の関係が古事記の系譜と一致します。
書紀に大国主の名がでてくるのはここだけ。
大己貴で国譲りですから大己貴時代以降は書けないはずですが、口が滑ったのでしょう(^^;

もうひとつが、天之忍穂耳と天之稚彦と味耜高彦根の説話の部分、略。

古事記の書く大国主だという事象の多くは大穴牟遅あるいは大己貴とすれば混乱はなくなる。
ただし、(真の)国譲りがいつの誰なのかが問題。


ちょいと余談
出雲国風土記の仁多郡三津郷にて
「大神大穴持命御子阿遅湏伎日子命、御須髪八握于生晝夜哭之辞不通」
御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき

「辞通はざりき」、現代語訳では言葉を話せなかったと解するようです。
(声を発せなかったではないでしょう、泣いているのですから)
辞が通じなかった、とは、言葉の意味が通じなかった、だと思います。
ヒゲが伸びる年齢まで理解できない言語を使っていたということ、すなわち外国語(^^;
その後の話は灌漑と水田開発に尾ひれ付きといったところか。

出雲国風土記での「大穴持命」のほとんどは大穴牟遅または大己貴を示す。
山陰における本来の大穴持伝承は縄文系譜の先住者イメージだと考えています。
サヒメ伝承では大穴持神を避けて種まきする、大穴持神には農耕文化を持つイメージがない。

大穴持の文字を表意とみるならば、洞窟に住む人物でしょう。
縄文の洞窟追跡は多数あります。WEBの「日本における洞穴遺跡の研究」PDF参照。
弥生時代に入っても洞窟が使われた痕跡があるようで、これを以て「大穴持」の登場じゃないか。

出雲国風土記での大穴持命の説話の多くは北九州から転送された大己貴の説話で、文字に大穴持が仮借されたと考えています。
(造天下大神だけで神名を書かない場合も多数あって要注意、誘導目的ありとみる)
(播磨国風土記には大汝命と小比古尼命の奇妙な説話がありますが、播磨あたりでは大汝と聞き取ったのでしょう)


それぞれの年代の特定(起点は素盞鳴とはなにか、天孫降臨とはなにか)。
書紀の書く国譲りの意味(できるだけ早い年代で出雲の存在を抹消する)。
考古学での事象(遺跡年代、北九州での大量の戦死者、銅剣や鏡、銅鐸、などなど)。
これらを複合させて試行錯誤した結果がmyHPの弥生~古墳初期 出雲と天孫シミュレートです。

味耜高彦根は大己貴時代の人物、BC150頃。
九州における出雲と天孫の抗争時代(大量の戦死者遺骨)であって、書紀の書く大己貴時代での国譲りは偽。
当然ながら書紀に建御名方は登場しない。

事代主は登場する、事代主は個人名ではなく祭祀者を意味するからだとみています。
(皇室の八神殿に事代主神が祀られますね)
ひょっとすると、ですけれど味耜高彦根も祭祀者(事代主)であった可能性をみるところ。
(辞通はざりき、の後に「良い場所」に至る伝承です)

建御名方は大国主時代の人物、AD30頃。
古事記の書く大国主の国譲りは正しい(子の建御名方が登場)。
ただし、神武に九州を譲るであって、神武朝(委奴国≒倭国)が成立する時代。

味耜高彦根は「国譲り」とは無関係、ということになります。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月22日(木)16時33分5秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.444[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 国譲り神話に出てくる大國主の御子は事代主命と建御名方命とで、二柱の御子神は国譲りに同意しています。
 『古事記』では、伊邪那岐大御神、天照大御神と並んで、迦毛大御神と呼ばれる大御神の三柱の一です。また後世になりますが、出雲国造の『神賀詞』に登場する大穴持命とその男子神としては事代主命と共に阿遅須伎高孫根の命です。
 この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です。

 天津甕星として征服されていれば、国譲りのお話に出てこなくても不自然ではありません。

 天津甕星を倭文神(織物の神)の建葉槌が退治するのも不思議ですが、建甕槌が織物の神を兼ねていても不自然ではなさそうですね。

 金星が太陽を横切るのが見えたとしても、その黒点のような物が金星であると認識できたのかどうか、いささか疑問を感じます。それよりも、夜が明ける前に東の空に明るく輝き、太陽が沈んだ後にも西空に鋭く輝く姿に太陽と並ぼうとする星を目ざわりとしたのかなと考えています。

 迦毛大御神と称されるのは太陽に並ぶその姿にか、米を収穫した後の寒くなりかかる頃に麦が撒かれますが、そのころに渡って来る鴨が麦の守り神とされたのかもと想像しています。
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月13日(火)19時53分2秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.444[元記事へ]

>(物部系は田畑と農産物にタッチしない)

「物部海運商社」が扱うのは手工業品。加えて金属資源など。武器も含みます。
先代舊事本紀の天火明の随伴者に「笠縫」なんてのもあります。
若狭の籠神社の籠、手工業品。

すでに消えているであろう「サンカ」。
飛鳥奈良時代の物部支配下の手工業品生産の人々が祖だと考えています。
物部氏の消滅で支配者を失い、新たな支配者には属さなかった人々。
農地は持たない、だが農民のすぐ近くにいた。蓑や笠など農耕用品を作っていたから。

虚偽を含むらしいけど三角寛氏のサンカの研究で「私たちの祖先は神武さんより古い」といった話が事実なら、そのあたりからきていると思っています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月13日(火)17時23分44秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.443[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

神奈備さんの「迦毛の大御神と下照比賣考」を拝読。
私の場合はマーカーを素戔鳴渡来と天之忍穂耳渡来の年代特定を基準にしていますが、似た結果になるところ少なからずですね。

カモの語源は?ですが、カモとカモ・メで同じという論があるようです。
スズ・メやツバ・メという用法らしい。
九州の鴨の渡りが伽耶経由なら出雲とつながりそうですが、カモ・メなれば海人ともつながる。

奈良盆地の南に、紀ノ川方面から北へ高鴨神社、葛木御歳神社、鴨都波神社と並ぶ。
なんとなく時代の流れに沿って北上しているようにみえます。
高鴨神社がまずありき、迦毛之大御神は大いなる祖先といったところか。

葛木御歳神社では大歳神と高照姫命。海人から離れて農耕へ。
高照姫命は下照比売命と同義で味耜高彦根の流れの痕跡か。
淡路島で大歳神を祀る社が多いのと関係あるんじゃなかろうか。

鴨都波神社は事代主命と下照比売命。
ここでは漁労の痕跡が残る。
これも淡路島で事代主命が多いのとつながるのではないか。

鴨都波遺跡は弥生中期の高床建物と竪穴住居。和歌山の紀伊型甕(弥生中期、突帯文土器)が出土しています。
もっと北東の榛原の四分遺跡では紀伊型甕と大和型甕の折衷型が出土しています。
奈良の開拓は紀ノ川遡上から始まって、伊勢湾の津とつながる(まずは海人の弥生街道で)。
海人の仲人で尾張の天火明系の天甕津媛さんと赤衾さんが結婚・・

奈良湖の干拓開始(^^; myHPの書庫2 参考図と仮説に奈良湖推定図をアップしてあります(弥生街道を修正)。
干拓地に唐古・鍵遺跡などが登場。
後に廣瀬大社の砂かけ祭、祭神に櫛玉命がありますが、櫛玉命は物部に非ず、天火明だとみます。
(物部系は田畑と農産物にタッチしない)


出雲国風土記に佐太大神の母は支佐加比賣命キサガイヒメとあります(大己貴を治療かな)。
支佐加比賣命は神魂尊の子とされ、出雲国風土記には神魂尊の子が他にも登場しています(名のみ)。
神魂尊(神皇産霊尊カミムスビ)は東シナ海系の(高度な)文化を意味する神と考えています。
少彦名も神魂尊の手からこぼれ落ちた子、薬と酒の神様。
東シナ海系の海人の活動が活発になる年代と考えています(弥生が発達する頃の渡来と交易、BC300頃~か)。
(高魂尊、高木神、は高皇産霊尊タカミムスビは内陸系文化を示すと考えています)

このあたりの伝承はウエツフミ(上紀)にいろいろあります。
解読 上紀
http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/
おそらくは海人系譜に伝わった資料がベース。
ただし、上紀は書紀の記述に準じて資料を再配列しているだけで、年代観はゼロどころかマイナス(^^;
無理な配列や挿入によって「疑わしい書」になってしまった。
しかし、「なにがあったか」の事象としての資料価値は高いとみています。

書紀にて少彦名が帰郷した後に、大己貴の眼前に幸魂奇魂がおぼろに現れて大和の三諸山(三輪山)に住みたい、という。
幸魂奇魂とはカノープス星だとみています。
大己貴が今後をどうしようかと自問自答した答えが「三輪山に住む=近畿方面を開拓する」だと考えています。
書紀編纂者が「本当の出雲」を臭わせているわけです。

その流れにあるのが味耜高彦根とその子孫、神魂尊系の親父譲りの長江系の文化を持つ。
最新の水稲や灌漑技術、おそらくは絹も(ただし奈良から弥生絹はでていない)。
祭祀は不明なれどやはり呉越楚など長江系だと思います。
神武朝AD36~AD100頃では楽浪郡経由の文化に変化かもしれない。

甕棺葬もあったはずですが、海人としてはでっかい甕は運びにくい、あるいは寄港地にでかい焼き釜が必要。
九州以東では使われなかった(今後特例的に出る可能性はあり)。

出雲系文化は八島士奴美系(後に大国主)で、素戔鳴から4世代目が赤衾伊農意保須美比古佐和気能命。
山東半島の畑作文化をメインとし、祭祀も山東半島の斉の瑯邪八主だと考えています。
この文化圏のマーカーのひとつが銅鐸(紀元前後頃以降)、もうひとつが方形周溝墓だと考えていますが、まだ調査中。


さて、天甕津媛、天津甕星、甕ミカ(カメ)と壺の違いってなーに(^^;
口が広くてでっかいのが甕だと思ってますけど・・
辞書ではミカは酒造りの大きなカメともあります、御食ミケに同義ともあります。

津の用法には「なになに・の」の用法と、そのまま「港」を意味する場合あり。
天甕津媛は、天孫系の造り酒屋の普通の港の娘。
天津甕星は天空・の・大きな星(明るい星)、金星だろうと思います。

天御梶日女、天孫系で、御は尊称、梶はそのままカジノキでいいんじゃないかな。
梶は神聖な木、製紙用の繊維を採る木、諏訪大社の神紋。
こちらは北九州か、ちと高貴で味耜高彦根の妻となった。
天甕津媛と天御梶日女はまったくの別人。

星神(香香背男命)を祀る社はけっこうありますね(祭CDによる)。
岡山にも多いので海人御用達じゃないかと思います。岐阜にもあるけど愛知県境(加茂郡)でこれも海人か。
(富山との県境近くの山中にもあるけど、伊弉諾伊弉冉尊と菊理毘賣、彌都波能賣神があって相当に古い可能性あり)
書紀で星神が悪役扱いされたために消えた社が他にたくさんあるんじゃないかな。
(ウエツフミにも星神が少なからず登場)

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月11日(日)16時00分54秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.440[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

 天甕津媛命は『出雲国風土記』楯縫郡の条に、『阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多久の村までおいでになっり、多伎都比古命を産み給うた。』という記事があり、この天御梶日女命も天甕津媛命のことと考えています。だからと言って后が同じなら夫も同じとすることはできないでしょう。多夫多妻の時代でしょうから。この后は出雲国内で二人の夫を持っており、美濃や尾張によく現れたものと感心しています。

 この天甕津媛命と天津甕星がよく似た名前で、赤衾さん、阿遅須枳さん、天津甕星さんの関連が何かあるのかなと気にかかります。また、尾張国には星神社が数社鎮座しているのも、面白いことです。
 

Re: 味耜高彦根

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月11日(日)12時40分57秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.441[元記事へ]

画像を忘れました。
鴨の渡りのコース(無断転載ご容赦(^^; )
伽耶を経由していますね、ただし長崎県の鴨の場合は。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

味耜高彦根

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月11日(日)11時52分4秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  味耜高彦根は大己貴の子。古事記の系譜では大国主の子にはなりえない。
味耜高彦根の妃は天御梶日女でいいんじゃないかなあ。
母は宗像三女神の多岐都比賣とされますが・・

宗像の海人は弥生初期では普通の漁労者でしょう。安曇といっしょに半島経由の避難民の救出にあたったと思います。
その初期開拓者と縄文の結合で遠賀川に「弥生」が登場BC500以降(持論でアマテラスグループ)、遠賀川土器。
古墳時代に入って沖ノ島に祭祀遺跡が登場する。
そういう流れから書紀は「天照大神から宗像三女神誕生」を創作したのだと考えています。

勘注系図では神屋多底姫=多岐津姫としていますが、妥当と思います。
神屋楯比賣は宗像の女性(巫女?)なのでしょう。
大己貴と神屋楯比賣の子が味耜高彦根。

大己貴の女性には因幡の八上比売もいる・・須勢理姫の嫉妬(^^;
因幡の白兎の治療、島根のキサガイヒメの治療、少彦名(大己貴)に通じます。
(佐太神社の佐太大神の母がキサガイヒメ/松江市の加賀神社)
このあたり、大穴牟遅や大己貴などが大国主の別名であるなんてことで混乱の極みとなる。

素戔鳴(BC190頃渡来)から10~20年後あたりで味耜高彦根が誕生といったところか。
味耜高彦根には素戔鳴系譜の血はまったく流れていないということです。
東シナ海系海人の父と宗像海人の母の子。
成年になるのはBC150あたり。やっぱり海人で安曇海人と行動を共にしたと思います。
その年代は天之忍穂耳渡来BC150頃と一致します、すなわち天之稚彦説話。

赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と天甕津媛は2世代50年ほど後になります。
味耜高彦根系譜が近畿にやってくるとすれば、安曇海人と共に出雲系譜を輸送するとき、本格的な開墾が始まるとき。
子か孫の時代だと思います(すなわち赤衾神と同時代、BC80頃)。

妃とされる天御梶日女は何者か。
天を冠することに注目して天之稚彦の縁者の可能性が高いとみておきます。


カモ氏の祖はいろいろの論がありますが、本質は「鴨」であって味耜高彦根に収束するだろうと考えています。
奈良の高鴨神社の迦毛之大御神ですね。
大己貴(東シナ海系海人≒長江系の稲と鳥)、最新の灌漑技術。瀬戸内展開から畿内へはいった。
奈良湖の干拓開始(^^; 廣瀬大社・・稲、櫛玉命→天火明(物部に非ず)、なんかつながってくる。
ここでも各地の出雲伝承が出雲国風土記に転送されているとみて要注意(書紀では天火明系譜のあいまい化)。

大阪府高槻市の安満遺跡アマから近畿最古とされる水田痕跡が発見されています(弥生初期、おそらく持論の初期開拓者)。
この水田は洪水とみられる砂礫におおわれていて人が歩いた足跡が残ってるそうです。
(遠賀川流域も同時代に洪水で壊滅したとみています)
現在調査中のようですが長期間継続する遺跡なので時代による変化が見えてくる期待があります(マーカーになりうる)。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月10日(土)00時05分31秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

>阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが

阿豆良神社の天甕津媛、興味深いですね。なんでここに・・

祭CDによると
「今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り」
阿豆良神社の祀る天甕津媛命は出雲国風土記では赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(「赤衾神」と略します)の妃とされますね。
出雲の瀬戸内から近畿方面開拓の(本格化の)人物は「赤衾神」だと考えています。

天甕津媛はその状況証拠のひとつです。
赤衾神は素戔鳴から4世代目(櫛名田姫命-八島士奴美の系譜)。
素戔鳴渡来BC150頃とすれば、おおよそBC80前後となります。

池上曽根の発達年代がAD50あたりであること(旧年輪年代のBC50は誤り)。
朝日遺跡の弥生初期~中期~後期での変化のありよう。
総合して天甕津媛は天火明系譜の尾張の女性ではないか。
(政略結婚に近いかもしれないけれど)

北九州では「アマテラスグループ」と素戔鳴系譜、そこへ天之忍穂耳系譜が参入して抗争が激化。大量の戦死者遺骨が出る時代。
それでも、和平を求める動きがあったと考えています、政略結婚。
神名の「天」に注目しています。
赤衾神の母は天之都度閇泥、「天」を関しています(大国主の父も天之冬衣で天を冠する)。
この「天」は天之忍穂耳の系譜であることを臭わしている、と考えています。
(myHPの「弥生~古墳初期 出雲と天孫シミュレート」参照)

九州以東では土地はたくさんあってまだ平穏、開拓に猫の手もほしい時代。
生めよ増やせよ・・そこで登場するのが安産と子育ての神。
赤衾神より妃の天甕津媛命のほうが旦那様より有名となって伝承が残った・・
(出雲国風土記は各地の出雲伝承を島根に転送して記述しているとみています)

天甕津媛は天火明系譜の尾張のお姫様の可能性あり。
天火明系譜なれば、垂仁に「私を祀りなさい」の伝承となるのも妥当、と考えています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月 8日(木)20時26分16秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.438[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。

 出雲の影響ですが、次のような考えはいかがでしょうか。

 阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが、阿遅須枳高日子命の由緒を借りたのではないかと思っています。この女神が祀られていることは、出雲の影響かなと考えてることができます。



 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月 8日(木)00時40分25秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.437[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。
>中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。

確実な物証はない時代ですから、考古学的な出土物と記紀や先代舊事本紀の記述などからの「シミュレート」にならざるを得ないです。
天火明については先代舊事本紀の他には、ないといってもいいですね。
天火明の年代は天之忍穂耳の子とされますから、天之忍穂耳渡来BC150頃から1世代あたりで、BC130頃と考えています。
すべからく真偽の問題がからみますが、持論では「何があったか」についてはその源となる事象が存在した、をベースにしています。

出雲系譜が尾張までやってくるには少し時間がかかる。
瀬戸内開拓と奈良開拓が一段落してからだとみています。
銅鐸形式の分布から紀元前後から接触、AD100頃には天火明系譜は出雲文化圏に吸収されたと考えています。
朝日遺跡の大環壕はおそらくは、中国地方で倭国の侵攻が始まる頃、すなわちAD150頃とみています。

天火明(饒速日ではない)、神社としては、尾張一宮の真清田神社くらいかなあ。
国常立尊なども登場で曰く因縁がたっぷりありそうです。
尾張二宮は大縣神社、大縣大神という不明の神様を祀る。
これもなにかありそう、ひょっとすると山がご神体、奈良の大神神社に連なるものがあるか。
熱田神宮は尾張の三宮ですね。縁起は明確ですがこちらは古墳時代に下る。

社殿形式で尾張造りという独特の形式があります。
上記の真清田神社、津島神社、尾張大国霊神社(国府所在地)、高座結御子神社、氷上姉子神社。
明治26年までは熱田神宮も尾張造りだったようです(ウィキペディアによる)。
http://tsushimajinja.or.jp/map.html
津島神社参照

考古学的な代表として、朝日遺跡インターネット博物館→朝日遺跡の変遷、参照
参考図1:その中のイメージ画、厳重に防御された区画とそうでもない区画が書かれていてわかりやすい。
弥生中期後半から竪穴住居が円形から方形へ変化する、といったこともあります。AD150頃か。
尾張は二つの異文化が接触して、特有の文化を作っている、と考えています。

尾張には円窓付土器なんて奇妙な土器もあります。
参考図2 近畿から出土の円窓付土器
この土器は尾張だけじゃない、奈良にもある。
ということは、天火明系譜と出雲系譜は弥生中期頃(紀元前後頃)に接触混合(交易)している可能性あり。

海部氏系図と勘注系図(桂川光和氏)があります。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
なんで若狭湾に伊勢の元宮と称する社があるのか(籠神社)

なぜ書紀には天火明の系譜がまったく書かれていないのか・・
神武よりはるか以前に天孫が近畿にあって出雲と接触していてはまずいからだと推定。
瓊々杵尊の妃の別名とはなにか、天火明命の妃との混合処理と推定。
崇神248-273はなぜ奈良から遠く離れた伊勢にみずからの社を置いたのか・・天火明系海人国で安心だったからじゃないか。
などなど・・
これらを説明できる状況とは・・ですね、
確たる証拠があるなら話は早いのでありますけれど。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月 5日(月)11時39分30秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.436[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
> 小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。


 興味深い分布図になっています。

 尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。

 中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月 2日(金)17時15分10秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.435[元記事へ]

myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。

小銅鐸と一般銅鐸の違い(分類)とはなんだろう・・どーも理解できない(^^;
単純には銅鐸の側面にヒレ状のでっぱりがあるかないか、じゃないかと思っていますけれど。
小銅鐸は一般銅鐸に先行し、平行もしているようにみえます。

小銅鐸は海人の先遣隊(探査部隊)の実用品ではなかろうか、
使う場所は限定されず、埋めて隠蔽されることもなかった(単に破棄はある)。
持ち運びするので大型化はしなかった。

「一般銅鐸」は農耕民の祭祀用で、使う場所は集落(その土地)に限定される。
「その文化圏」が崩壊したとき「埋めて隠蔽」した、じゃないのか。
持ち運びはしない、後に大型化しても問題はない。

形態で分類、ではなく使う人々と使い方が問題になる、と考えています。
参考図 千葉県木更津付近出土の「小銅鐸」
右と中央の銅鐸は明らかにヒレがある、形態からは普通の銅鐸(農耕祭祀用)とみえる。
だとすれば「一般銅鐸」の東限は千葉となります。
芝野遺跡や菅生遺跡の弥生水田がありますから、移動しない農耕祭祀、で不思議はないはずです。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

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