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全国遺跡報告総覧

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月11日(土)17時01分1秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  全国遺跡報告総覧
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?detail=true&include_file=exclude
 
 

桓武の焚書

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月 9日(木)13時32分20秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  北畠親房『神皇正統記』「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開(ひらけ)て後、すさのをの尊 韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。」
 

Re: 出雲弁は古代インド語

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 3月 9日(木)13時31分29秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.481[元記事へ]

鳩摩羅童子さんへのお返事です。

 投稿ありがとうございます。言語音痴なので、よくわかりません。
 

出雲弁は古代インド語

 投稿者:鳩摩羅童子  投稿日:2017年 3月 7日(火)16時40分45秒 KD118158045231.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  「東北弁、島根弁は、100% 古代インド弁です。」
これは、平成の常識として良いと思います。

cf. シュメール系メガネで日本語を見た。 痕跡例 --- URL 参照
(古代インド弁 とは = サンスクリット語 + タミル語。 約 2000 単語検証済。)

この常識を広めて欲しい。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html#Izumo

 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月19日(日)21時00分32秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  G 七支刀

 「考古学は記紀を裏切らない」と云われる。巻向遺跡の発掘などが典型的な例である。七支刀は出土品ではなく、古来より石上神宮に伝世されてきた神宝である。ものは刀と云うよりは槍である。『日本書紀』神功五十二年九月(372)に、百済王から七枝刀・七子鏡などが贈られたとの記事がある。七子鏡はボストンの美術館にあると云う。


H 宇佐宮の大帯姫廟神社

  弘仁十四年(823)大帯姫の細殿が建立された。平安初期に八幡大神を応神天皇としたので、大帯姫を神功皇后とした。おそれく香椎廟からの勧請と思われる。


3. 神功皇后の実在について

朝鮮出兵や河内での応神天皇の擁立にの裏には、神功皇后のような女傑がいて、多くの伝承や多くの伝承地を残してきたと思えてならない。


参考文献 塚口義信『神功皇后伝説の研究』、『ヤマト王権の謎をとく』
     前田晴人『卑弥呼と古代天皇』
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月17日(金)09時34分38秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  F 『住吉大社神代記』蜜事

 是(ここに)神、天皇に謂(の)りて曰はく、「汝王(いましみこと)、かくの如く信(う)けたまはずは、必ず其の国を得じ。唯今、皇后懐姙(はらま)せる子(みこ)。盖し得ることあらんか。」 この夜に天皇忽に病發(やみおこ)りて以て崩(かむ)さりましぬ。ここに皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。)
 秘め事は天皇が死んだ後のことだから不倫ではなく、御子を懐妊した後なので、御子は仲哀天皇の皇子ということである。
 しかし、世間の口には戸は立てらぬもの。香椎宮のお隣の筥崎宮の神託に次のようなものがある。延喜二十一年 誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。
 神と神妻(巫女)の聖婚の物語と解すべきであり、誉田別命は神の子と思われていた。
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月16日(木)09時56分16秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  E 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。『古事記』には以下の通り。

皇后は皇太子を禊のために角鹿の伊奢沙和気大神(イザサワケノオホカミ)の命(ミコト)のもとにやった。大神が皇子と名を交換したいとの申し入れがあった。翌朝、浜にでると入鹿魚(イルカ)が打ち上げられていた。そこで大神を御食津大神と命名した。ケの神である。今、気比大神と云う。
皇子が禊ぎをする必要があったのは、麑坂忍熊両王を殺したゆえと考えられている。しかし、それならば皇后も禊ぎをすべきである。何故、皇子だけに命じたのか。皇子は仲哀九年(神功ゼロ年)の誕生、敦賀行きは神功十三年、皇子は十三才、元服の年齢である。成人儀礼と考えるべきだろう。
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月15日(水)20時14分52秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  D 麑坂忍熊両王の反逆

 両皇子の母親は大中比売命、この人は景行天皇の孫とされる。一方の応神天皇の母は神功皇后で、父親は開化天皇の五世孫、母方は天日矛命の系統。出自は大中比売命が良い。
ただし、大中比売命は景行天皇とその玄孫(伽具漏比売命)との間の子の子とされている。玄孫(四世孫)を一八才でつないでも適齢期には九十才の年の差があり、ウソっぽい系図にはなるが、麑坂・忍熊両皇子は誉田別皇子よりは仲哀天皇率いる政権の正当な後継者との認識が残っており、>誉田別皇子を神に指名された後継者との立場を強調する説話となっている。
Uga近江宇宙有名地(平二四年七月)参照。
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月14日(火)14時43分19秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  C 皇后の御子出産伝承

 海の母神と御子神の伝承は世界各地にあり、日本では豊玉姫と鵜芽葺不合命の異常出産譚が有名である。住吉神社の最古とされる対馬の祭神はまさにこの母子神である。海藻のように若々しく生命に満ちている神である。
 神功皇后も懐妊中に渡韓、石による出産の引き延ばしなど、異常な出産の物語がある。
 大帯姫(オオタラシヒメ)と息長氏の娘(オキナガヒメ)が習合して、オキナガタラシヒメとなった。これは舒明天皇(オキナガタラシヒヒロヌカのすめらみこと)以降天武天皇の頃までが息長氏の全盛期で、この頃に息長氏が伝承を膨らませてきたものと思われる。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:初心者  投稿日:2017年 2月13日(月)11時24分44秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.474[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。神様の話は奥が深く、勉強になります。

>  多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。
そうですね。ヤマトタケルや桃太郎が実在かと言われたら悩みます。

>  万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。

タラシヒメ関連の万葉集歌番号と中西進講談社文庫による原文表記と現代語訳を書いておきます。
813序文は息長足日女命(現代語訳表記同じ)、本文は多良志比咩可尾能弥許等「足日女 神の命」
869本文多良志比賣可尾能美許等「帯日売神の命」
3685本文多良思比賣「足姫」
中西氏が、すべての現代語訳の表記を異なるものにした理由と、他の研究者の訳については、調べる余裕がありません。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月12日(日)11時03分20秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.472[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

> 神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。

 神社伝承ではなく、景行天皇は大足彦忍代別ですから、彦姫の名前からです。

 オオタラシヒメは神様ですから、現在でも神様です。時代を越えていると思います。

 半島にクスノキはあるのですが、日本のように大きくはならないようです。スサノヲさんの船を造るのは云々の神話も日本製のお話かもしれません。

 多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。

 万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。



B 皇后、新羅を征伐し、三韓を服従させる。

 高句麗好太王(391-412)の碑(414)の前文に「倭が渡海して新羅を破り、百済と共に臣民とした。」とある。倭の半島進出は史実と思われる。
 『宋書 倭王武の上表文』(478) 昔より祖禰先自ら甲冑を着て山川を渡り、休むこともなく、東は毛人五十五国を征す。西は州夷六十六国を服し、渡って海北九十五国を平定した。とある。この海北は朝鮮半島の事で、やはり倭の半島進出は歴史的事実である。
 史実として、遠い昔、倭国が大和を中心として国内平定を行い、さらに半島へ兵を出し、一時は支配していた王権の記憶があった。四道将軍・ヤマトタケル・神功皇后らの伝承であろうか。

 

甲冑の推移

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月11日(土)20時26分4秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   豊中歴史同好会での講義は山口大学の田中晋作先生でした。
 関心を呼んだの時代別の甲冑の分布図のお話でした。
 古墳時代前期後半の分布
    〃  中期        古市百舌鳥古墳時代
    〃  後期前半     継体朝時代

 甲冑の特徴としては、前期後半は方形板革綴単甲。
 中期のは着ると動きがぎこちなくなる固いもの、金帯式
 後期前半のものはがさがさとなっており、動きやすくなっているようです。挂甲。

 時代によって、中央を支持する勢力に変動が見えるが、中には継続している勢力がある。例えば、奈良県の高取町など。

図は前期後半、中期、後期前半 の分布図です。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:初心者  投稿日:2017年 2月10日(金)10時02分46秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.471[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

> 香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。
初心者丸出しで申し訳ありません。
記紀や香椎宮では夫とされているタラシナカツヒコの祖父の時代がオオタラシヒメの時代なのでしょうか?

神社伝承で思い当たることは、神功皇后のクスノキの話です。
神功皇后は、三韓征伐時にクスノキを持ちかえったとありますが、朝鮮半島にクスノキはありません。
どこか南に行って持ち帰った(熊襲?)か、神功皇后とは全く関係ないクスノキであるかです。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月10日(金)08時05分29秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.470[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

>神功皇后の存在の否定とは、「朝鮮半島へ出兵した女性権力者」の存在の否定という意味でしょうか?

 良長帯姫と言う人物は存在せず、伝承だけの人、架空の人と言う意味です。

>具体的な伝承の多さからは、非実在の人物と考えるには、無理があると思います。

 鋭いポイントです。ボチボチと考えていきましょう。


 A 仲哀天皇は橿日宮を行宮として、住吉大神の託宣を聞いた。

    筑紫国糟屋郡香椎郷の地には4世紀後半の古墳や製鉄遺跡が出土しており、古代では港に面した軍事拠点であり、韓半島への出兵の拠点であった。ここが巫女女王の大帯姫の伝承地となっていた。
 大帯姫の神威は海人を通して朝鮮半島にまで及んでいたものと思われる。この大帯姫が『播磨国風土記』に見るように、息長帯姫に結びつき、神功皇后の三韓征伐の物語に発展していったものと思われる。
 また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

『播磨国風土記』から
播磨国印南郡 仲哀天皇が皇后と一緒に筑紫の熊襲の国を征伐のため下っておいでになったとき御舟が印南の浦にお泊まりになった。(『紀』とは違う九州行きである。)

飾磨国飾磨郡 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太代の神がこの処においでになる。だから神名によって里の名とした。(射楯の神である、五十猛神である。水軍の祀った神)

播磨国揖保郡 宇須伎と名付けるわけは、大帯日売命が韓の国を帰順させようとして海を渡ろうとされた時、御舟が宇頭川の泊に宿られた。

 なお、息長帯比売命の新羅平定の話は、常陸、摂津 肥前 筑紫 の各国の風土記にも記載され、広く民間伝承として語り継がれていたようだ。

 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:初心者  投稿日:2017年 2月 9日(木)09時43分45秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.467[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>  神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
>  高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神功皇后の存在の否定とは、「朝鮮半島へ出兵した女性権力者」の存在の否定という意味でしょうか?
九州北部が多いと思いますが、日本には「神功皇后」を祀った神社が多数あり、ローカルな「神功皇后伝説」も豊富です。
具体的な伝承の多さからは、非実在の人物と考えるには、無理があると思います。
まちろん、明らかに怪しい伝説も多いですが、伝説になるほどの重要人物だったのは疑えません。
また、『万葉集』」869番歌に、筑紫にいた山上憶良が
帯日売神の命の魚釣らすと御立たしせりし石を誰見き と詠んでいます。(『日本書紀』成立から約10年後)
憶良の時代に「神の命(可尾能美許等)」という異例な呼び名で呼ばれる女性の伝説があったのでしょう。
魚釣りしただけでは、数百年(憶良の時代まで)語り継がれるとも思えません。
朝鮮半島に出兵したかはともかく、単なるタラシナカツヒコの二番目の妻ではなく、実在したかなりの権力者(重要人物)と考えなければ理解できません。
 

Re: 神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月 8日(水)18時19分16秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.467[元記事へ]

 『日本書記』神功皇后の記事
仲哀二年正月 気長足姫尊を皇后とする。
仲哀八年正月 筑紫の灘県に至り橿日宮に滞在する。皇后、橿日浦で髪を解いて禊をし、海に臨んで神占の儀礼を行った。巫女の行為。
仲哀八年九月 天皇が熊襲を討とうとすると皇后に神がかりし、新羅征討を指示するが神の言を信用しない天皇は熊襲と戦い敗北する。「皇后の御腹にいる御子が国を得られるだろう。」との託宣を行った。住吉大神の託宣とおもわれる。
仲哀九年二月 天皇が橿日宮にて突然没し、遺体を穴門に移し豊浦宮で密かに無火残警行う。
仲哀九年九月 師船を集め西海を望み神の託宣を得る。石で腰を挟み開胎をおさえる。
仲哀九年十月 対馬を発ち新羅に至り国王を服属させる。
仲哀九年十二月 新羅より帰還して筑紫の字瀰で誉田天皇を産む。
神功元年二月 穴門豊浦宮に移り、京へ帰還する。麑坂忍熊両王が反逆の兵を挙げるが、麑坂王は死ぬ。
神功元年三月 武内宿祢は忍熊王の軍勢を近江に撃滅する。
神功元年十月 皇后を尊び皇太后と称す。
神功三年正月 誉田別皇子を皇太子とし、都を磐余に造る。
神功十三年二月 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。
神功三十九年(239 卑弥呼) 「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遺して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守都夏、吏を遺して将て送りて、京都に詣らしむ」。
神功四十年(240 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遺して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」。
神功四十三年(243 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遺して上献す」。
神功四十六年(364) 斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に派遣。百済王と倭使との交渉を記す。百済国は日本の場所も通交手段も知らない。(矛盾)
神功五十一年三月 百済使久弖ら来朝、千熊長彦を百済へ派遣する。
神功五十二年九月(372) 百済使久弖ら来朝し七枝刀など種々重宝を献上する。
神功六十二年(382)新羅が朝貢しないので葛城襲津彦を派遣して討たせる。
神功六十六年(266 台与)「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」。
神功六十九年四月 皇太后崩ず。
神功六十九年十月 狭城盾列陵に葬る。
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:はやぶさ  投稿日:2017年 2月 8日(水)11時02分43秒 FL1-118-111-180-18.kyt.mesh.ad.jp
返信・引用
  この書き込みで内容を初めて知った口なのですが

なんか日本側の使者が裴世清に道を覚えられないように上手いこと隠してたんかなぁ、と感じた
わざわざ身の危険を冒して日本へ来ている人間が記録をさぼるとは考え難いような
 

神功皇后の存在

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 2月 6日(月)21時02分21秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
 高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

 岩波新書の『ヤマト王権』に、次のような文章が載っていました。


 七支刀の銘文で問題になるのは、後半の「為圏王旨造博示歴世」の解釈である。「倭王の旨」と読んで、四世紀に倭王である「旨」が存在したとする説もある。しかしながら、この箇所は「倭王の為に旨造し後世に伝示す」というように読む方がいいと思われる。「旨造」の読みが難しいが、村山正雄は「旨(美。うま)く造り」と読み、中国史研究者の宮崎市定は「旨(嘗。はじ)めて造り」とする(『謎の七支刀』)。いずれにせよ「旨造」の言葉であり、倭国王の名前にはならない。したがって、「倭王の旨」 の解釈は無理だろう。

 とあり、もっともだと感じています。このあたりのことはやっかいと言うか難しいですね。
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月16日(月)20時30分24秒 p4048-ipad102fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.465[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。
遅くなりました。あちこちのレジメからの転載で読みにくいかと存じますが、ご賢察ください。

> 解釈の問題のようですね。
> AD600、倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌。
> 倭王の姓名を明示。この段階では阿輩雞彌(おそらくオホキミ)など音を聞き取っての、隋側による文字化とみえます。

*「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」(13頁)の異字表記である。
・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
・「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」である。

*「天照大神」=「天」は前述。
・「照」=古代倭語“???”(ddal-li-da)[付く、属する、付いている]の語幹の当て字である。即ち、「高天原所属(出自)の大神」であり棚田での稲作農耕神。固有名詞ではないので、何代も何人(神)でも襲名できるし、性別は問わなくて良い。
・因みに高良大社の主祭神「高良・玉垂尊」=“?-?-?-??”(ta-ama-ddal-li)尊=「全・天照大神」=歴代「天照大神」。左右に「八幡神と住吉神」を従える神格。

*「天(あま・あめ)」は、前章の東の意と「ま・め」=膨れている、山の意の古語との合成。「(国の)東の聖なる山」(水源のある山)となる。

・「天(あま・あめ)」の語源
*“?・?”(a・ad)=平面では「端・東の端」、立体的には「上・上方」と。
根拠は、筑後弁の 礼拝詞「アッ」から閃いたが…。朝日、月の出を拝む時、敬服する方と遭遇したとき、最敬礼して「アッ」という。
*「朝」は漢字音で「ちょう」であるが…。「あ(東)さ(処)」=夜が明ける所。
 朝(あした)、明日(あした)、(夜が)明ける、皆「あ」が付くのでもいえる。
*檀君の古朝鮮建国神話の「阿斯(あさ)達(だル)」の「阿斯(あさ)」も「倭語」の「朝」が疑われる。
・「達(たル)」=「嶽(たけ)」の意とする説(故・金達寿、他)があるが、「倭訓」であろう。
・「嶽」=漢字音「ガク」、朝鮮語=“?”(ak)であるから、「倭語」である。
“?-??”(tal-gu-da)=「(火で)熱する、焼く」=倭語の「焚く」の語源とする「李寧熙」説もあるが、逆で、「炊く」が語源で“?-??”がある、と。
    ∴「阿斯達」=「東の山」で「朝焼けの山」でもあり「高天原」と同義語か、と。
“??”(a-chim)=朝、あした<雅>(『民衆書林・韓日辞典』)。
    ・安心院(大分県宇佐市)は、九州島の朝がくる方位でもある。
・阿波(四国の東端)・阿漕が浦(紀伊半島の東)・安房(房総半島の東端)。
・「上野」=(あヶの)⇒東の野、又は上(お偉い方の所有地の)野、の意か。
NHKハングル講座(ラジオ) 講師イ・ユニ先生 2007年4月号 10~11頁。
[ハングル物語―母音字はどうつくられたか]
母音字は「陰と陽の調和」という自然の法則を基に作られています。
母音[a]=「天(太陽)が人の東」→朝の明るいイメージ、と。≪一部抜粋≫
*「天(あま・あめ)」の「ま・め」は、“?”(me)=山の古語・雅語『民衆書林・韓日辞典』。子音は“m”で母音は“a+e”の中間音である。「ま=め」と両方に訛る。
・「ま」行は、膨れている物、出っ張っているものを表している。
・「眼」=“?”な(の)“?”(got)(処)。実=丸い。六つ=家屋に象る。
・「目」=眼球は膨れている。「も」=“?”(mo)=角、物のとがって突き出した部分。

> ところが、都斯麻國、竹斯國など九州方面の地名は万葉仮名使いとみえます(文字で情報伝達)。
> (魏志倭人伝の対馬には「シ」の音が含まれていない)
> (北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)

*倭人側の発音の変化を映していると観ます。
・「「對海(馬)國」」の「海・馬」=山の意の古代倭語(九州弁と朝鮮語に臍の緒を留める)“?”(mæ)を音写していて、双山國の意。
・「都斯麻國」の「斯麻」=「島」の「倭語」音写で、二島の意。
・語頭の「ツ」は「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」の“?”(tu)=「二つ」の意の音写です。

>(北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)
*竹林の拡張には北九州に限らず殆どの山間地で困っています。

> 書紀では
> 「大唐の客裴世清等を召さしめ、唐の客の爲に新しき館を難波の高麗の上に造らしむ・・客等、難波津に泊つ・・」
> 「小野妹子が百済を通る際に国書を奪われた」
> 「唐の客を海石榴市の衢に迎え・・」
> 「時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拜みて使の旨を言し上げて立つ。その書に曰く・・」
> 「時に阿倍臣、庭に出でてその書を受けて進み行き、大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の机の上に置きて奏し・・」
> ごちゃ混ぜ記事だとみています。
> 書紀には事象は書くが、時代と人物をすり替えて合成する作為少なからず。
> これが私の書紀解釈の原則です。
> どれもまるっきりの嘘ではないとみえるのがいやらしいところ(^^;

* ここが、『日本書紀』が馬脚を現している所です。隋の煬帝の使者裴世清を「大唐」と間違っています。九州の故事を簒奪した証拠です。

> 裴世清だけが九州に留まったとするなら、その理由は如何に。
> 隋と倭国、総合的な観点からの分析が必要だと思います。

*裴世清だけが九州に留まったのではなく、誰も畿内へは行っていない、と観ます。小野妹子が国書を奪われたというのも、九州皇統から出された使者が帰国してみたら、畿内に取って代わられていたので別の皇統へ国書を渡さない為の方便だと観ます。小野妹子も蘇因高が彼の地の認識ですし…。

> 余談
> 私の歴史観では、欽明(九州在)死して用明(九州在から近畿在)が継承、用明死して子の多利思比狐(近畿在)が継承。
> その政治混乱期を書紀は推古と聖徳太子の偽装によってリカバーしている、が基本です。
> 蘇我氏が台頭する時代(蘇我氏は用明に随伴して近畿に入り、物部氏を滅ぼしたとみています)。

*私も、朧気にはその様に感じていますが、確たる論考にまでは至っていません。詳しく、ご教示賜りたくよろしくお願い致します。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月12日(木)20時06分6秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.463[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

>かたばみさん、誤読があるようです。

解釈の問題のようですね。

AD600、倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌。
倭王の姓名を明示。この段階では阿輩雞彌(おそらくオホキミ)など音を聞き取っての、隋側による文字化とみえます。
ところが、都斯麻國、竹斯國など九州方面の地名は万葉仮名使いとみえます(文字で情報伝達)。
(魏志倭人伝の対馬には「シ」の音が含まれていない)
(北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)

冠位十二階は書紀では604制定、文字も隋側の記録とほぼ一致。
この時代は倭国と漢字利用と万葉仮名の変革期とみえます。

隋書帝紀煬帝四年(608)では「倭が貢ぎ物」、六年(610)にも「倭国が貢ぎ物」とあります。
で、「俀」の文字ではなく「倭」を使っています。
異なる書記官が記録したものが後世に伝わったと思われますが、このあたり隋側にもいささか危なっかしいところがある。

書紀では
「大唐の客裴世清等を召さしめ、唐の客の爲に新しき館を難波の高麗の上に造らしむ・・客等、難波津に泊つ・・」
「小野妹子が百済を通る際に国書を奪われた」
「唐の客を海石榴市の衢に迎え・・」
「時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拜みて使の旨を言し上げて立つ。その書に曰く・・」
「時に阿倍臣、庭に出でてその書を受けて進み行き、大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の机の上に置きて奏し・・」

ごちゃ混ぜ記事だとみています。
書紀には事象は書くが、時代と人物をすり替えて合成する作為少なからず。
これが私の書紀解釈の原則です。
どれもまるっきりの嘘ではないとみえるのがいやらしいところ(^^;

裴世清だけが九州に留まったとするなら、その理由は如何に。
隋と倭国、総合的な観点からの分析が必要だと思います。

余談
私の歴史観では、欽明(九州在)死して用明(九州在から近畿在)が継承、用明死して子の多利思比狐(近畿在)が継承。
その政治混乱期を書紀は推古と聖徳太子の偽装によってリカバーしている、が基本です。
蘇我氏が台頭する時代(蘇我氏は用明に随伴して近畿に入り、物部氏を滅ぼしたとみています)。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

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