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『隋書』の解読

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月10日(火)23時03分55秒 p4246-ipad103fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  これは、或る講演会のレジメ転載です。

3.『隋書』の記述から…
1).「俀(倭)國在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」=列島のみとするのではナイ!
  *「前史の記述を踏襲、百済の東と新羅の南と水陸三千里の大海之中に在る」と。
 朝鮮半島の西海岸は百済領に旧・狗邪韓國の北限も南下、と。金海辺りに縮小化。
2).「其國境東西五月行南北三月行各至海」=裴世清は倭地に居て、列島の範囲の聴き取り調査を記録した、かと。朝鮮半島の南東の隅に縮小の倭地(伽耶)は無視、か。
3).「其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」=裴世清は現地踏査して現認。
  *「魏志に所謂「邪馬臺」とは、(「臺」とは女王の宮殿の意かと)来て見たら、東が高く西に下がる地勢の「邪靡堆」(黒髪靡く堆い小山)だった」と合点している。
   「東高西下」とは一望できる範囲の表現=水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を指している。この地は伊都國の南千五百里に在る。
4).「明年上遣文林郎裴(世)清使於俀國」=「明年(無礼な國書の翌年=大業四年)上(煬帝)は裴世清を遣わして俀(倭)國に使いさせた」。その行程記述は…。
  「度百済行至竹島南望[身冉]羅國経都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國」とは、全てが海上航路ではナイ!
*「(黄海を横断して)百済に渡って(陸路)竹島に至り、南に[身冉]羅國(済州島)を望み(再出航して)「迥か」大海之中の都斯麻國を経て(寄港せずに)東して一支國に至り又竹斯國(博多湾)に至る」である。半島南西の難所の航行を避けた記述である。
5).裴世清は竹斯國から一歩も出ていナイ!
  「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀(倭)」
 *「(竹斯國に居て)又東すれば秦王國(京筑)に至れる、其の人は華夏(中華)に同じで夷洲と為すも疑わしく明らかにする能わざるなり。又(竹斯國の東に)十餘國経ると海岸(別府湾)に達する。竹斯國より東は皆(秦王國と十餘國は)倭に附庸する」=伝聞記述で、裴世清は行っていない。
※前項と「竹斯國」が二回登場するのは、最終目的地に居る事を意味している。
※「竹斯國」とは前史の国名の「末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺(壹)國、(彌奴國)」を包括しているというか、それらが国情説明文言の一部であって国名ではなかった、と看破しての表記である。
※「秦王國」とは、「「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖(秦)ン(の)國」=神崎郡が発展的に京筑地区へ展開。
※俀(倭)國には、都斯麻國、一支國、竹斯國、秦王國、十餘國とあるが、倭王「阿毎多利思比孤」の國邑的存在で各国に王は居ないのである。あるのは官職名だけ。
6).「俀(倭)王遣小徳阿軰臺從数百人設儀仗鳴鼓角來迎…」とは…。
*「倭王は(博多湾に)小徳阿軰臺を遣わし、数百人の儀仗を従えて鼓と角笛を鳴らして迎えさせた(大宰府に逗留)…」。小徳(阿軰臺)とは倭王の官僚名か。
7).「後十日又遣大禮哥多[田比]從二百餘騎郊勞既至彼都」とは…。
 *「十日の後(待たせて)大禮哥多[田比]を遣わし二百騎を従えて郊勞、都に至った」
  =「(大宰府に)十日待たされて、倭王の都に着いた」=待たせた理由は…
  「稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使」=「境内(大宰府)に待たせて即逢わなかったのは、道路を清め館を飾って大使を待つ故です」。
※大宰府から十日で道路が清められる処に「阿毎多利思比孤」の館は在る。それは、水縄連山(耳納山地)北麓の高良山である。大禮哥多[田比]とは倭王の官僚名か。
8).「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩雞彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」(13頁)の異字表記である。
・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
・「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」である。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
 
 

Re: 裴世清は子供の使い

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月10日(火)22時57分14秒 p4246-ipad103fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.461[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

かたばみさん、誤読があるようです。

> 「竹斯国に至り、また東に秦王国」、ここまでは既知の情報だと思います(倭国の使者による情報)。
> (背景にある倭国情勢については後ほど別項にて)
>
> しかし、その後がいけない。すなわち裴世清がもたらしたであろう情報。
> 「十余国を経て、海岸に達した」・・十余国の名も日数もなにも書かれていない。
> なんじゃこれは(^^;
> 裴世清は船に乗ってボケーっとしていただけじゃないのか(^^;

*裴世清は竹斯國からは一歩も外に出ていません。
竹斯國が二度登場するのは、最終目的地に居るからです。
「東へ行けば秦王國が在る。十餘國を経れば海岸(別府湾)に達する」と述べています。

> 倭王が役人(阿輩臺)に出迎えさせて歓迎してくれた。10日後にその都に至った。

*博多湾に小徳阿輩臺が迎えに来て迎賓館(大宰府あたり)に十日待たされた。大禮哥多[田比]が迎えに来て彼の都に至った。十日待たせたのは、道を清め(犬の糞など清掃)館を飾る為です、と言い訳している。
>
> 「海岸」から都までの様子も書かれていない。
> 河内から大和川を遡航したのか、堺あたりから金剛山地越え(竹内街道)で奈良へはいったのか。
> 斑鳩宮なのか、他の宮殿なのか。
> 魏志倭人伝に比肩する情報になったはずなのに・・

*↑の様な道中ではないから書かないのです。
 

Re: 中国正史

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月10日(火)09時34分38秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.459[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

『魏志倭人伝』から。伊都国の近くに奴国と不弥国があり、そこの副官を卑奴母離と言うとあります。これは夷守(ひなもり)と考えるのは実に素直で自然ことだと思います。また伊都国はイトと読むのでしょう。
対馬、一大?一支(いき)にも卑奴母離がいます。遠い国の役職に夷守があるようで、女王の都は北九州をヒナと呼ぶような位置にあったものと考えています。
 倭人伝の漢字発音は呉音が混ざっているようですね。後漢時代には、呉音の人の多く長安あたりに居たのかもしれませんね。
 

裴世清は子供の使い

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月 9日(月)16時10分30秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  隋書(AD650頃成立)の記事のほとんどは裴世清の倭国来訪AD608以前の情報と考えています。
隋書によれば、倭国から隋への使者はAD600とAD607です。
新唐書(AD1060)に「用明以て曰く目多利思比狐が隋と通じる」とあります。
(書紀系譜で用明585-586、持論では欽明539-571を継承して571-586頃、短命ではない)
この記事が偽でない限り、隋書に書かれる使者の前にも倭国の使者が存在したとみえます。

隋書AD600で倭国の使者に倭国の風俗を尋ねています(衣服、賞罰など詳細です)。
AD607に再び倭国の使者(日出ずる處の天子うんぬん)。さらに詳細情報を得たでしょう。
そしてAD608に裴世清を倭国に送って国書を届けた。

「竹斯国に至り、また東に秦王国」、ここまでは既知の情報だと思います(倭国の使者による情報)。
(背景にある倭国情勢については後ほど別項にて)

しかし、その後がいけない。すなわち裴世清がもたらしたであろう情報。
「十余国を経て、海岸に達した」・・十余国の名も日数もなにも書かれていない。
なんじゃこれは(^^;
裴世清は船に乗ってボケーっとしていただけじゃないのか(^^;

倭王が役人(阿輩臺)に出迎えさせて歓迎してくれた。10日後にその都に至った。

「海岸」から都までの様子も書かれていない。
河内から大和川を遡航したのか、堺あたりから金剛山地越え(竹内街道)で奈良へはいったのか。
斑鳩宮なのか、他の宮殿なのか。
魏志倭人伝に比肩する情報になったはずなのに・・

後漢書すら読んではいないのではないかな。
隋がこれまでに知る情報と最新の倭国情報の突き合わせなど、むろんやっていないでしょう。
問える倭国の知識人はいくらでもいたはずです。

その王は(裴世)清と相まみえて尋ねた。儀礼的答えをして裴世清は館に帰る。
私の役目は終わったので帰国させてくれ。
倭王は宴を催し貢ぎ物を持って裴世清に同行させた。その後(通交は)絶えた。
なんじゃこれは(^^;

我が身(裴世清)に関わることしか書いてない。
国書を届けよと命じられたことだけしか頭になかったのだと思っています。
裴世清はできの悪い小間使いにすぎない。

倭国をその程度で十分とみなしていた、でもあるのでしょう。
帰国した裴世清からはなんの情報も得られず、なにやってんだアホボケ(^^; だったと思うです。
10年後に隋は滅亡する。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 中国正史

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月 9日(月)16時03分54秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.459[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

>倭人が何の意味を何と発音したら、あの文字撰びをするか、です

中国人が聞き取った「倭語」を文字に変換して記録するのは中国人。
中国人の発音には「方言がある(文字の意味は共通だが、黄河の人が長江の人と話をしても通じない)。
どういう方言(発音)による変換で書かれた文字か、を知らねば「倭語での原音」も推測できません。

魏の方言(魏音)にいたってはなにもわかっていない。
漢字からの倭語の(発音)推定は不確実要素が大きすぎて危ないとみています。
福島さんもおそらく同様で、それがおっしゃる「読んではならない」だと思います。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

中国正史

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 5日(木)22時08分13秒 p4124-ipad104fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  先ず、読んでは駄目です。「倭語」音写の部分は…。

倭人が何の意味を何と発音したら、あの文字撰びをするか、です。

近似音ですから、正確な原音は却って邪魔になる、です。

「紐育」の漢字音を正確に発音しても“NEWYORK”のネイティブの再現にはなりません。

『隋書』は前史の記述を踏襲しなかった事が評価されるべきです。

『後漢書』も『三国志(魏志倭人伝)』も現地を知らずに記述しています。

『隋書』は裴世清が現地踏査して「古の魏志に謂う所の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは、来て観たら「邪靡堆」だった」と。
百聞は一見に如かず、です。国名ではなかった、と看破しています。
 

Re: 年賀状です

 投稿者:かたばみ  投稿日:2017年 1月 5日(木)20時36分56秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  みなさん、新年あけましておめでとうございます。

神奈備さんへのお返事です。

>邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります

隋書の倭国伝はWEBでは以下
http://grnba.com/iiyama/html/zuisho-wakokuden.htm
ただし、隋書原文では俀国とあるのを上記WEBでは倭国と書き換えています(これをやってはならない)。

古事記や風土記だと電子書籍でよいのがある(検索ができるので時間の節約になって猛烈にありがたい)。
書紀では原文と対訳のよいのがないなあ。


隋書は、魏志倭人伝や後漢書などによる既知の「倭国」とは違う倭国であることを知って「俀国」と書いたのだとみています。
ただし、後漢書の「倭奴国」まで俀奴国と書き換えています。
これはいけません、後漢書の倭奴国とは時代が600年も違うのだし。

隋書の邪馬堆も同様で、後漢書などの邪馬臺を邪馬堆に書き換えたものと考えています。
やってはならないことをやっている(^^;


言語は苦手、教えていただきたいのは辞書によくある漢音と呉音とはなにか、です。
中国の中古音の発音には漢音と呉音があり唐音はその中間的であり方言の一種と理解しています。
同じ文字で発音が同じになったりならなかったり。

いつの時代のどこの国ではどのような発音であったのか、発音をベースに考えるのであれば非常に重要と思います。
魏呉蜀の三国時代、遠方の未知の国の国名を文字化するとき、敵対国の発音で文字化(記録)するはずはありません。
魏志倭人伝なら(魏の人物の情報収集)なら、魏の発音をベースにして文字化(記録)するはずです。
では、魏の発音とはいかなるものか。

呉音は長江付近、漢音は黄河付近とみなすなら、少なくとも魏志倭人伝を呉音で読んではならない、だと思います。
手持ちの辞書に従うなら、倭人伝の邪馬をヤマと読むのは呉音です。
漢音なら邪馬臺はシャバタイ、邪馬壹ならシャバイツ、それに近い発音への当て字となります。
(卑弥呼も同様でヒミコではない、ヒビコ。日・日子であり「彦」の原型で官職名とみる)
いったん文字化されて記録されたら、その文字が改変されることはまずない、やってはならないはずです。
(隋書はそれをやっている)

邪馬臺国あるいは邪馬壹国を「魏音」で発音したらどうなるのか。
この論をみたことがありません。おそらく魏音が伝わっていないために推測にしかならないからだと思ってます。
発音はその場限りで消える、表意文字の弱点かな(文字なら通じるけれど発音では通じない)。

中国史書での「発音を文字化した記録」には不確実要素が大きく、これをベースにするのは危険だと考えています。
ゆえに私にとっては重要度が低い(^^;


さて、万葉集。表意文字と表音文字の複合要素をもつ貴重な文献と思います。
0001 山跡乃國 雄略時代とされるが?
3248 山跡之土丹 年代不明
3236 倭國 年代不明
3326 日本國 年代不明
3608s 夜麻等思麻見由/柿本人麻呂
やまと島みゆ、AD736の遣新羅使関連の歌だそうです。
この「やまと」は北九州ないし列島全体を意味すると思われます。少なくとも奈良盆地ではないでしょう。

すなわち「やまと」が奈良地域を示すようになるのはうんと新しい、少なくとも万葉以降。
裴世清より100年以上新しい、魏志倭人伝(の記録)より1000年近く新しい。
魏志倭人伝の邪馬壹国の発音を「奈良」に繋ぐのは無理である、そう考えています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 年賀状です

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月 5日(木)11時46分9秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.455[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。
>

 ありがとyございます。
 言語については、全くの素人ですので、下記のサイトなどを参考にしています。

http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106a.htm
大和と邪摩堆と邪馬台国


 魏の発音は中古音のようです。この音でも。お説は成り立つと思います。

 畿内の大和地名は、この音が九州から持ち込まれたものでないとすると、邪馬台と大和の音の一致は、50音三つの一致ですから 1/50**3 となり、あまりにも小さい。
持ち込まれていないとすれば、邪馬台国は畿内だったと考える他はありません。

 

新年

 投稿者:琉球松  投稿日:2017年 1月 4日(水)12時07分36秒 ai126249046025.22.access-internet.ne.jp
返信・引用
   明けましておめでとうございます。

 今年も南島からこの掲示板を応援してますよ。

画像は、正月に琉球国王が北方を拝む儀式の再現イベント(首里城内にて)
 

Re: 年賀状です

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 3日(火)22時50分2秒 p3022-ipad31fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

>  古代史の謎ですが、
>
>  邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。
>
>  また、卑弥呼の発音も、気にかかります。

愚説は以下の通りです。

≪「邪馬臺國」とは、古今東西の叡智の塊のような先哲が探究してもその所在が確定していません。
本居宣長、新井白石らから約三百年・白鳥庫吉VS内藤虎次郎から約百年論争が続いています。
これは「邪馬臺國」の本質が解っていないからである。(福島雅彦の結論)
「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」が既に解答を与えている、と。
*「邪馬臺國」とは、「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。
・倭人の使者に「卑彌呼」は何処に坐すか、と問う。
 答えて曰く「天(あま・あめ)たィ!」と「高天原」の意で述べた。「…たィ」は強調の語尾。
 九州弁は「蟻」を「やり・ィあり」と訛る。「天(あま・あめ)」は「邪馬」と聴き取られる。
*「邪馬壹國」とは、後世の倭人の使者に「今でも「卑彌呼」は邪馬臺國に坐すか」と問う。
・倭人の使者は「邪馬臺國」が解らない。その様な国名の地は存在しないから…。
・「卑彌呼」の居所を問われたのは判ったので答えて「天(あま・あめ)ン(の)うヰ(上)」と、一本指を立てて上方を指した。
・「上(うヰ)“wi”」は一本指から「壹」“yi”の訛りと採られた」。中国側の書記官が前史が臺と壹を書き間違った、と判断した、かと。
*「邪靡堆」とは、現地踏査した裴世清が「邪馬臺國」の実態を観ての文字撰びである。
・曰く「古の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは来て観たら、国名ではなく(髪が)靡く様な堆(うずたか)いだけの小山だった」と
・「伊都國」の南千五百里に在る「水縄連山(耳納山地)」のことである。
・此の山は東西≒25kmの一重の単山。
・山頂はノコギリノ歯状(高千穂)を呈し、山腹は下り尾根と谷沢に刻まれ櫛で梳いた様(櫛触る嶽)を呈している。
*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触る嶽」そのものである。
・「筑紫の日向の」=この山の東端に地名「日向」が現存。「〇〇日向」は十三か所。
・「襲の」=“?”(seo)西の。
・「高千穂の」=“??-”千穂=千の穂(山頂)が寄って集(たか)って。
・「櫛触る嶽」=山腹の下り尾根と谷沢の様。“?”(hul)=扱(しご)く=梳る。

∴「卑彌呼」の居所=「高天原」=「天(あま・あめ)」と答えた「倭語」の音写である≫

以上が、愚説の骨子のダイジェスト版です。
・「邪馬臺國」は此処だ!と、国名として述べたら全て間違いである。
・*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

≪「卑彌呼」≫は
3).「卑彌呼」は固有名詞(個人名)ではナイ!
*“?”(him)尊(みこと)=最高位の尊の意の職掌名。(天照大神も同義=後述)何人も何代も襲名出来る。「尊(みこと)」とは稲作を仕切る「水事(みこと)・米事(みこと)」であろう。
 ①「ひン投げる」=(相撲などで圧倒的力量差で相手を)投げ飛ばす、事。
 ②「ひ(ン)の叫(おら)び」=この上もない大音声で叫ぶ、こと。
 ③「ひンだれた」=この上もなく疲労困憊した。以上は九州弁の“?”(him)。
・朝鮮語の“?”(him)=「力(ちから、りき)、筋肉の働き、体力、物理上の力、働き、力量、能力、知るか覚ることのできる才能、勢力や権力、精力、元気、etc」『民衆書林・韓日辞典』、とたった一音節の語彙にこれだけの意味がある。「倭語」借用だからか、と。

以上は、或る講演会でのレジメの転載です。
全て、言語・語源からのアプローチです。独創説です。
 
 

Re: 年賀状です

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年 1月 3日(火)17時40分56秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.453[元記事へ]

福島雅彦さん、皆さん。

 あけましておめでとうございます。

 皆様のご投稿のおかげで、この掲示板も18年目を迎えました。ありがとうございます。


 古代史の謎ですが、

 邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。

 また、卑弥呼の発音も、木にかかります。

 
 

年賀状です

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年 1月 1日(日)00時05分31秒 p6226-ipad112fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  此処に集われる方々へ
≪恭賀新年≫ 年頭に当たり皆々様のご健康とご清祥をお祈り申し上げます。
        昨年は色々と学ばせて頂きました。
今年もよろしくお願いいたします。

【所謂「邪馬臺國」とは、国名ではなく卑弥呼の居所説明文言の一部である、と看破して二十年。その間、久留米大学経済学部教授に見いだされ「久留米学」のゼミで十二年連続、公開講座にも八回講義。九州国立博物館開館四周年記念シンポ「邪馬台国はここにあった」でも登壇と活動を重ねるも未だ世に容れられるに至らず長嘆息。「邪馬臺國」とは来て観たら「邪靡堆」だった、と裴世清が『隋書』でその誤謬を正しているが誰も気付かない。コペルニクスの地動説は世に容れられるのに約百五十年を要したとか。情報伝達速度は当時と比ぶべくもない程の速さであるから、自説もソロソロかと今年あたり期待しています。】
平成29年丁酉元旦 福島雅彦
 

Re: 丹塗りの矢

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月31日(土)10時04分30秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.451[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 皆さん、今年も色々教えていただき、また触発をいただき、ありがとうございました。

 丹塗矢は、妊娠・誕生へ繋がる説話となっていますので、日光を物体的に表現したものではないでしょうか。
 こう考えますと、百襲姫の場合には、朝の出来事で、日光を思わせるのですが、姫を死に至らしめているので、日光ではなく、やはり箸と考え、大物主と百襲姫をつなぐ絆が切れたことの象徴のような気がします。

 皆さん、よいお年をお迎えください。
 

丹塗りの矢

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月30日(金)01時39分32秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  山城国風土記逸文にある玉依日賣と「丹塗り矢」伝承(賀茂建角身命-玉依姫命-賀茂別雷命)。
古事記では三輪山の大物主と丹塗り矢。
古事記の神武天皇(比売多多良伊須気余理比売)でも丹塗り矢。
箸墓の「倭迹々日百襲姫」のホトを箸で突いて、はいささか不自然に過ぎる(^^;
これも大物主とのからみでの丹塗り矢の変形じゃないかな。

丹塗り矢の説話は北九州の婚姻儀礼を始発とするのではないか。
海人系譜(南西諸島系-豊玉姫-玉依姫-安曇海人)や味耜高彦根の子孫などによって畿内に運ばれ、その痕跡が丹塗り矢説話ではないかと思っています。

東京では破魔矢に白と赤があります。どっちにするか悩むところ。
来年もまたよろしくお願いいたします。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 麦の害鳥になる鴨

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月29日(木)21時22分50秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.448[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

渡り鳥のカモは マガモ、カルガモ、コガモ
定着のカモは ヒドリガモ

渡り鳥のカモは湿地を好むようですが、ヒドリガモは乾燥地を好むようで、植物の種子や麦の若奈を好むようです。

アジガモ現在ではは巴鴨と言い、マガモに属します。麦の害鳥にはならないようです。

このカモの名を持つのが阿遅鋤高日子根命で迦毛の大御神と称されています。、
 

ヤブ ヤボ

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月28日(水)14時44分1秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  宮本常一 日本文化の生成 下 文庫
 焼畑nことを静岡・奈良・九州の山地では、ヤブ ヤボ と言う。
 

麦の害鳥になる鴨

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月28日(水)14時39分58秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  大三元さんに以下のHPの存在を教えてもらいました。
http://keishintei.exblog.jp/i0/
当農場が有る河北潟干拓地周辺は、シギ・サギの数では、ラムサール条約の規程を満たすほど、水鳥が多い地域である。冬場は、鴨やコハクチョウ等の渡り鳥も多く、にぎやかだ。愛鳥家にとっては素晴らしいことだが、農家の事情は異なる。河北潟干拓地の農家にとって、鴨は害鳥で有り「レンコン」「大麦」「牧草」などへの被害が深刻なのだ。レンコン畑に潜り収穫前のレンコンを食べ、1千羽以上の鴨の群れが畑に降り立ち、緑のじゅうたんの様に美しかった大麦畑を、一夜で「まるはげ」にしてしまう。大麦農家はたまったものではない。農家の防衛策は、肥料の袋でこしらえた「脅しの旗」や「脅しの為のテグス」を畑に立てること。
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月26日(月)15時28分4秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.446[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です

古事記の八俣の大蛇の段の系譜では
速湏佐之男命+櫛名田比売の子が八嶋士奴美神、以下妃は略して
布波能母遅久奴湏奴神、深渕之水夜礼花神、淤美豆奴神、天之冬衣神、大国主神
(ここで古事記がやらかしてくる(^^; )
大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り。

しかし、大穴牟遅は「同じ古事記」で速湏佐之男の娘の湏勢理?売に婿入りしています。
これだけでも「古事記の別名」が信用できないのは明らか。
葦原色許男は播磨風土記で天日槍と戦っており、天日矛は崇神紀で亡命者として書かれています。
古事記の系譜を偽とみるなら話は別ですが、それでは古事記全体が信用できなくなる。
大国主とは出雲の領主を意味して個人名ではないという論がありますが、系譜の書き方から見て無理でしょう。

書紀と古事記の書く事象が一致するものがいくつかあります。
古事記の少彦名が帰郷した後に現れる「是の時に海を光らし依り来る神有り」
「吾は倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」とのりたまひき。此は御諸の山の上に坐す神なり。
書紀にあって古事記にないのが「こは大三輪神なり、この神の子はすなわち甘茂君・大三輪君等・・」

もうひとつが素盞鳴が出雲の簸の川上に降りてオロチ退治の項での書紀1書の記述。
稻田姫を見そめなはして子を生む。清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、あるいは清之名坂輕彦八嶋手命
この五世孫が大国主神なり。
素盞鳴と大国主の関係が古事記の系譜と一致します。
書紀に大国主の名がでてくるのはここだけ。
大己貴で国譲りですから大己貴時代以降は書けないはずですが、口が滑ったのでしょう(^^;

もうひとつが、天之忍穂耳と天之稚彦と味耜高彦根の説話の部分、略。

古事記の書く大国主だという事象の多くは大穴牟遅あるいは大己貴とすれば混乱はなくなる。
ただし、(真の)国譲りがいつの誰なのかが問題。


ちょいと余談
出雲国風土記の仁多郡三津郷にて
「大神大穴持命御子阿遅湏伎日子命、御須髪八握于生晝夜哭之辞不通」
御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき

「辞通はざりき」、現代語訳では言葉を話せなかったと解するようです。
(声を発せなかったではないでしょう、泣いているのですから)
辞が通じなかった、とは、言葉の意味が通じなかった、だと思います。
ヒゲが伸びる年齢まで理解できない言語を使っていたということ、すなわち外国語(^^;
その後の話は灌漑と水田開発に尾ひれ付きといったところか。

出雲国風土記での「大穴持命」のほとんどは大穴牟遅または大己貴を示す。
山陰における本来の大穴持伝承は縄文系譜の先住者イメージだと考えています。
サヒメ伝承では大穴持神を避けて種まきする、大穴持神には農耕文化を持つイメージがない。

大穴持の文字を表意とみるならば、洞窟に住む人物でしょう。
縄文の洞窟追跡は多数あります。WEBの「日本における洞穴遺跡の研究」PDF参照。
弥生時代に入っても洞窟が使われた痕跡があるようで、これを以て「大穴持」の登場じゃないか。

出雲国風土記での大穴持命の説話の多くは北九州から転送された大己貴の説話で、文字に大穴持が仮借されたと考えています。
(造天下大神だけで神名を書かない場合も多数あって要注意、誘導目的ありとみる)
(播磨国風土記には大汝命と小比古尼命の奇妙な説話がありますが、播磨あたりでは大汝と聞き取ったのでしょう)


それぞれの年代の特定(起点は素盞鳴とはなにか、天孫降臨とはなにか)。
書紀の書く国譲りの意味(できるだけ早い年代で出雲の存在を抹消する)。
考古学での事象(遺跡年代、北九州での大量の戦死者、銅剣や鏡、銅鐸、などなど)。
これらを複合させて試行錯誤した結果がmyHPの弥生~古墳初期 出雲と天孫シミュレートです。

味耜高彦根は大己貴時代の人物、BC150頃。
九州における出雲と天孫の抗争時代(大量の戦死者遺骨)であって、書紀の書く大己貴時代での国譲りは偽。
当然ながら書紀に建御名方は登場しない。

事代主は登場する、事代主は個人名ではなく祭祀者を意味するからだとみています。
(皇室の八神殿に事代主神が祀られますね)
ひょっとすると、ですけれど味耜高彦根も祭祀者(事代主)であった可能性をみるところ。
(辞通はざりき、の後に「良い場所」に至る伝承です)

建御名方は大国主時代の人物、AD30頃。
古事記の書く大国主の国譲りは正しい(子の建御名方が登場)。
ただし、神武に九州を譲るであって、神武朝(委奴国≒倭国)が成立する時代。

味耜高彦根は「国譲り」とは無関係、ということになります。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月22日(木)16時33分5秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.444[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 国譲り神話に出てくる大國主の御子は事代主命と建御名方命とで、二柱の御子神は国譲りに同意しています。
 『古事記』では、伊邪那岐大御神、天照大御神と並んで、迦毛大御神と呼ばれる大御神の三柱の一です。また後世になりますが、出雲国造の『神賀詞』に登場する大穴持命とその男子神としては事代主命と共に阿遅須伎高孫根の命です。
 この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です。

 天津甕星として征服されていれば、国譲りのお話に出てこなくても不自然ではありません。

 天津甕星を倭文神(織物の神)の建葉槌が退治するのも不思議ですが、建甕槌が織物の神を兼ねていても不自然ではなさそうですね。

 金星が太陽を横切るのが見えたとしても、その黒点のような物が金星であると認識できたのかどうか、いささか疑問を感じます。それよりも、夜が明ける前に東の空に明るく輝き、太陽が沈んだ後にも西空に鋭く輝く姿に太陽と並ぼうとする星を目ざわりとしたのかなと考えています。

 迦毛大御神と称されるのは太陽に並ぶその姿にか、米を収穫した後の寒くなりかかる頃に麦が撒かれますが、そのころに渡って来る鴨が麦の守り神とされたのかもと想像しています。
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月13日(火)19時53分2秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.444[元記事へ]

>(物部系は田畑と農産物にタッチしない)

「物部海運商社」が扱うのは手工業品。加えて金属資源など。武器も含みます。
先代舊事本紀の天火明の随伴者に「笠縫」なんてのもあります。
若狭の籠神社の籠、手工業品。

すでに消えているであろう「サンカ」。
飛鳥奈良時代の物部支配下の手工業品生産の人々が祖だと考えています。
物部氏の消滅で支配者を失い、新たな支配者には属さなかった人々。
農地は持たない、だが農民のすぐ近くにいた。蓑や笠など農耕用品を作っていたから。

虚偽を含むらしいけど三角寛氏のサンカの研究で「私たちの祖先は神武さんより古い」といった話が事実なら、そのあたりからきていると思っています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

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