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Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月13日(火)17時23分44秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.443[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

神奈備さんの「迦毛の大御神と下照比賣考」を拝読。
私の場合はマーカーを素戔鳴渡来と天之忍穂耳渡来の年代特定を基準にしていますが、似た結果になるところ少なからずですね。

カモの語源は?ですが、カモとカモ・メで同じという論があるようです。
スズ・メやツバ・メという用法らしい。
九州の鴨の渡りが伽耶経由なら出雲とつながりそうですが、カモ・メなれば海人ともつながる。

奈良盆地の南に、紀ノ川方面から北へ高鴨神社、葛木御歳神社、鴨都波神社と並ぶ。
なんとなく時代の流れに沿って北上しているようにみえます。
高鴨神社がまずありき、迦毛之大御神は大いなる祖先といったところか。

葛木御歳神社では大歳神と高照姫命。海人から離れて農耕へ。
高照姫命は下照比売命と同義で味耜高彦根の流れの痕跡か。
淡路島で大歳神を祀る社が多いのと関係あるんじゃなかろうか。

鴨都波神社は事代主命と下照比売命。
ここでは漁労の痕跡が残る。
これも淡路島で事代主命が多いのとつながるのではないか。

鴨都波遺跡は弥生中期の高床建物と竪穴住居。和歌山の紀伊型甕(弥生中期、突帯文土器)が出土しています。
もっと北東の榛原の四分遺跡では紀伊型甕と大和型甕の折衷型が出土しています。
奈良の開拓は紀ノ川遡上から始まって、伊勢湾の津とつながる(まずは海人の弥生街道で)。
海人の仲人で尾張の天火明系の天甕津媛さんと赤衾さんが結婚・・

奈良湖の干拓開始(^^; myHPの書庫2 参考図と仮説に奈良湖推定図をアップしてあります(弥生街道を修正)。
干拓地に唐古・鍵遺跡などが登場。
後に廣瀬大社の砂かけ祭、祭神に櫛玉命がありますが、櫛玉命は物部に非ず、天火明だとみます。
(物部系は田畑と農産物にタッチしない)


出雲国風土記に佐太大神の母は支佐加比賣命キサガイヒメとあります(大己貴を治療かな)。
支佐加比賣命は神魂尊の子とされ、出雲国風土記には神魂尊の子が他にも登場しています(名のみ)。
神魂尊(神皇産霊尊カミムスビ)は東シナ海系の(高度な)文化を意味する神と考えています。
少彦名も神魂尊の手からこぼれ落ちた子、薬と酒の神様。
東シナ海系の海人の活動が活発になる年代と考えています(弥生が発達する頃の渡来と交易、BC300頃~か)。
(高魂尊、高木神、は高皇産霊尊タカミムスビは内陸系文化を示すと考えています)

このあたりの伝承はウエツフミ(上紀)にいろいろあります。
解読 上紀
http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/
おそらくは海人系譜に伝わった資料がベース。
ただし、上紀は書紀の記述に準じて資料を再配列しているだけで、年代観はゼロどころかマイナス(^^;
無理な配列や挿入によって「疑わしい書」になってしまった。
しかし、「なにがあったか」の事象としての資料価値は高いとみています。

書紀にて少彦名が帰郷した後に、大己貴の眼前に幸魂奇魂がおぼろに現れて大和の三諸山(三輪山)に住みたい、という。
幸魂奇魂とはカノープス星だとみています。
大己貴が今後をどうしようかと自問自答した答えが「三輪山に住む=近畿方面を開拓する」だと考えています。
書紀編纂者が「本当の出雲」を臭わせているわけです。

その流れにあるのが味耜高彦根とその子孫、神魂尊系の親父譲りの長江系の文化を持つ。
最新の水稲や灌漑技術、おそらくは絹も(ただし奈良から弥生絹はでていない)。
祭祀は不明なれどやはり呉越楚など長江系だと思います。
神武朝AD36~AD100頃では楽浪郡経由の文化に変化かもしれない。

甕棺葬もあったはずですが、海人としてはでっかい甕は運びにくい、あるいは寄港地にでかい焼き釜が必要。
九州以東では使われなかった(今後特例的に出る可能性はあり)。

出雲系文化は八島士奴美系(後に大国主)で、素戔鳴から4世代目が赤衾伊農意保須美比古佐和気能命。
山東半島の畑作文化をメインとし、祭祀も山東半島の斉の瑯邪八主だと考えています。
この文化圏のマーカーのひとつが銅鐸(紀元前後頃以降)、もうひとつが方形周溝墓だと考えていますが、まだ調査中。


さて、天甕津媛、天津甕星、甕ミカ(カメ)と壺の違いってなーに(^^;
口が広くてでっかいのが甕だと思ってますけど・・
辞書ではミカは酒造りの大きなカメともあります、御食ミケに同義ともあります。

津の用法には「なになに・の」の用法と、そのまま「港」を意味する場合あり。
天甕津媛は、天孫系の造り酒屋の普通の港の娘。
天津甕星は天空・の・大きな星(明るい星)、金星だろうと思います。

天御梶日女、天孫系で、御は尊称、梶はそのままカジノキでいいんじゃないかな。
梶は神聖な木、製紙用の繊維を採る木、諏訪大社の神紋。
こちらは北九州か、ちと高貴で味耜高彦根の妻となった。
天甕津媛と天御梶日女はまったくの別人。

星神(香香背男命)を祀る社はけっこうありますね(祭CDによる)。
岡山にも多いので海人御用達じゃないかと思います。岐阜にもあるけど愛知県境(加茂郡)でこれも海人か。
(富山との県境近くの山中にもあるけど、伊弉諾伊弉冉尊と菊理毘賣、彌都波能賣神があって相当に古い可能性あり)
書紀で星神が悪役扱いされたために消えた社が他にたくさんあるんじゃないかな。
(ウエツフミにも星神が少なからず登場)

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月11日(日)16時00分54秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.440[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

 天甕津媛命は『出雲国風土記』楯縫郡の条に、『阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多久の村までおいでになっり、多伎都比古命を産み給うた。』という記事があり、この天御梶日女命も天甕津媛命のことと考えています。だからと言って后が同じなら夫も同じとすることはできないでしょう。多夫多妻の時代でしょうから。この后は出雲国内で二人の夫を持っており、美濃や尾張によく現れたものと感心しています。

 この天甕津媛命と天津甕星がよく似た名前で、赤衾さん、阿遅須枳さん、天津甕星さんの関連が何かあるのかなと気にかかります。また、尾張国には星神社が数社鎮座しているのも、面白いことです。
 

Re: 味耜高彦根

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月11日(日)12時40分57秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.441[元記事へ]

画像を忘れました。
鴨の渡りのコース(無断転載ご容赦(^^; )
伽耶を経由していますね、ただし長崎県の鴨の場合は。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

味耜高彦根

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月11日(日)11時52分4秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  味耜高彦根は大己貴の子。古事記の系譜では大国主の子にはなりえない。
味耜高彦根の妃は天御梶日女でいいんじゃないかなあ。
母は宗像三女神の多岐都比賣とされますが・・

宗像の海人は弥生初期では普通の漁労者でしょう。安曇といっしょに半島経由の避難民の救出にあたったと思います。
その初期開拓者と縄文の結合で遠賀川に「弥生」が登場BC500以降(持論でアマテラスグループ)、遠賀川土器。
古墳時代に入って沖ノ島に祭祀遺跡が登場する。
そういう流れから書紀は「天照大神から宗像三女神誕生」を創作したのだと考えています。

勘注系図では神屋多底姫=多岐津姫としていますが、妥当と思います。
神屋楯比賣は宗像の女性(巫女?)なのでしょう。
大己貴と神屋楯比賣の子が味耜高彦根。

大己貴の女性には因幡の八上比売もいる・・須勢理姫の嫉妬(^^;
因幡の白兎の治療、島根のキサガイヒメの治療、少彦名(大己貴)に通じます。
(佐太神社の佐太大神の母がキサガイヒメ/松江市の加賀神社)
このあたり、大穴牟遅や大己貴などが大国主の別名であるなんてことで混乱の極みとなる。

素戔鳴(BC190頃渡来)から10~20年後あたりで味耜高彦根が誕生といったところか。
味耜高彦根には素戔鳴系譜の血はまったく流れていないということです。
東シナ海系海人の父と宗像海人の母の子。
成年になるのはBC150あたり。やっぱり海人で安曇海人と行動を共にしたと思います。
その年代は天之忍穂耳渡来BC150頃と一致します、すなわち天之稚彦説話。

赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と天甕津媛は2世代50年ほど後になります。
味耜高彦根系譜が近畿にやってくるとすれば、安曇海人と共に出雲系譜を輸送するとき、本格的な開墾が始まるとき。
子か孫の時代だと思います(すなわち赤衾神と同時代、BC80頃)。

妃とされる天御梶日女は何者か。
天を冠することに注目して天之稚彦の縁者の可能性が高いとみておきます。


カモ氏の祖はいろいろの論がありますが、本質は「鴨」であって味耜高彦根に収束するだろうと考えています。
奈良の高鴨神社の迦毛之大御神ですね。
大己貴(東シナ海系海人≒長江系の稲と鳥)、最新の灌漑技術。瀬戸内展開から畿内へはいった。
奈良湖の干拓開始(^^; 廣瀬大社・・稲、櫛玉命→天火明(物部に非ず)、なんかつながってくる。
ここでも各地の出雲伝承が出雲国風土記に転送されているとみて要注意(書紀では天火明系譜のあいまい化)。

大阪府高槻市の安満遺跡アマから近畿最古とされる水田痕跡が発見されています(弥生初期、おそらく持論の初期開拓者)。
この水田は洪水とみられる砂礫におおわれていて人が歩いた足跡が残ってるそうです。
(遠賀川流域も同時代に洪水で壊滅したとみています)
現在調査中のようですが長期間継続する遺跡なので時代による変化が見えてくる期待があります(マーカーになりうる)。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月10日(土)00時05分31秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

>阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが

阿豆良神社の天甕津媛、興味深いですね。なんでここに・・

祭CDによると
「今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り」
阿豆良神社の祀る天甕津媛命は出雲国風土記では赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(「赤衾神」と略します)の妃とされますね。
出雲の瀬戸内から近畿方面開拓の(本格化の)人物は「赤衾神」だと考えています。

天甕津媛はその状況証拠のひとつです。
赤衾神は素戔鳴から4世代目(櫛名田姫命-八島士奴美の系譜)。
素戔鳴渡来BC150頃とすれば、おおよそBC80前後となります。

池上曽根の発達年代がAD50あたりであること(旧年輪年代のBC50は誤り)。
朝日遺跡の弥生初期~中期~後期での変化のありよう。
総合して天甕津媛は天火明系譜の尾張の女性ではないか。
(政略結婚に近いかもしれないけれど)

北九州では「アマテラスグループ」と素戔鳴系譜、そこへ天之忍穂耳系譜が参入して抗争が激化。大量の戦死者遺骨が出る時代。
それでも、和平を求める動きがあったと考えています、政略結婚。
神名の「天」に注目しています。
赤衾神の母は天之都度閇泥、「天」を関しています(大国主の父も天之冬衣で天を冠する)。
この「天」は天之忍穂耳の系譜であることを臭わしている、と考えています。
(myHPの「弥生~古墳初期 出雲と天孫シミュレート」参照)

九州以東では土地はたくさんあってまだ平穏、開拓に猫の手もほしい時代。
生めよ増やせよ・・そこで登場するのが安産と子育ての神。
赤衾神より妃の天甕津媛命のほうが旦那様より有名となって伝承が残った・・
(出雲国風土記は各地の出雲伝承を島根に転送して記述しているとみています)

天甕津媛は天火明系譜の尾張のお姫様の可能性あり。
天火明系譜なれば、垂仁に「私を祀りなさい」の伝承となるのも妥当、と考えています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月 8日(木)20時26分16秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.438[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。

 出雲の影響ですが、次のような考えはいかがでしょうか。

 阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが、阿遅須枳高日子命の由緒を借りたのではないかと思っています。この女神が祀られていることは、出雲の影響かなと考えてることができます。



 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月 8日(木)00時40分25秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.437[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。
>中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。

確実な物証はない時代ですから、考古学的な出土物と記紀や先代舊事本紀の記述などからの「シミュレート」にならざるを得ないです。
天火明については先代舊事本紀の他には、ないといってもいいですね。
天火明の年代は天之忍穂耳の子とされますから、天之忍穂耳渡来BC150頃から1世代あたりで、BC130頃と考えています。
すべからく真偽の問題がからみますが、持論では「何があったか」についてはその源となる事象が存在した、をベースにしています。

出雲系譜が尾張までやってくるには少し時間がかかる。
瀬戸内開拓と奈良開拓が一段落してからだとみています。
銅鐸形式の分布から紀元前後から接触、AD100頃には天火明系譜は出雲文化圏に吸収されたと考えています。
朝日遺跡の大環壕はおそらくは、中国地方で倭国の侵攻が始まる頃、すなわちAD150頃とみています。

天火明(饒速日ではない)、神社としては、尾張一宮の真清田神社くらいかなあ。
国常立尊なども登場で曰く因縁がたっぷりありそうです。
尾張二宮は大縣神社、大縣大神という不明の神様を祀る。
これもなにかありそう、ひょっとすると山がご神体、奈良の大神神社に連なるものがあるか。
熱田神宮は尾張の三宮ですね。縁起は明確ですがこちらは古墳時代に下る。

社殿形式で尾張造りという独特の形式があります。
上記の真清田神社、津島神社、尾張大国霊神社(国府所在地)、高座結御子神社、氷上姉子神社。
明治26年までは熱田神宮も尾張造りだったようです(ウィキペディアによる)。
http://tsushimajinja.or.jp/map.html
津島神社参照

考古学的な代表として、朝日遺跡インターネット博物館→朝日遺跡の変遷、参照
参考図1:その中のイメージ画、厳重に防御された区画とそうでもない区画が書かれていてわかりやすい。
弥生中期後半から竪穴住居が円形から方形へ変化する、といったこともあります。AD150頃か。
尾張は二つの異文化が接触して、特有の文化を作っている、と考えています。

尾張には円窓付土器なんて奇妙な土器もあります。
参考図2 近畿から出土の円窓付土器
この土器は尾張だけじゃない、奈良にもある。
ということは、天火明系譜と出雲系譜は弥生中期頃(紀元前後頃)に接触混合(交易)している可能性あり。

海部氏系図と勘注系図(桂川光和氏)があります。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
なんで若狭湾に伊勢の元宮と称する社があるのか(籠神社)

なぜ書紀には天火明の系譜がまったく書かれていないのか・・
神武よりはるか以前に天孫が近畿にあって出雲と接触していてはまずいからだと推定。
瓊々杵尊の妃の別名とはなにか、天火明命の妃との混合処理と推定。
崇神248-273はなぜ奈良から遠く離れた伊勢にみずからの社を置いたのか・・天火明系海人国で安心だったからじゃないか。
などなど・・
これらを説明できる状況とは・・ですね、
確たる証拠があるなら話は早いのでありますけれど。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月 5日(月)11時39分30秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.436[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
> 小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。


 興味深い分布図になっています。

 尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。

 中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月 2日(金)17時15分10秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.435[元記事へ]

myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。

小銅鐸と一般銅鐸の違い(分類)とはなんだろう・・どーも理解できない(^^;
単純には銅鐸の側面にヒレ状のでっぱりがあるかないか、じゃないかと思っていますけれど。
小銅鐸は一般銅鐸に先行し、平行もしているようにみえます。

小銅鐸は海人の先遣隊(探査部隊)の実用品ではなかろうか、
使う場所は限定されず、埋めて隠蔽されることもなかった(単に破棄はある)。
持ち運びするので大型化はしなかった。

「一般銅鐸」は農耕民の祭祀用で、使う場所は集落(その土地)に限定される。
「その文化圏」が崩壊したとき「埋めて隠蔽」した、じゃないのか。
持ち運びはしない、後に大型化しても問題はない。

形態で分類、ではなく使う人々と使い方が問題になる、と考えています。
参考図 千葉県木更津付近出土の「小銅鐸」
右と中央の銅鐸は明らかにヒレがある、形態からは普通の銅鐸(農耕祭祀用)とみえる。
だとすれば「一般銅鐸」の東限は千葉となります。
芝野遺跡や菅生遺跡の弥生水田がありますから、移動しない農耕祭祀、で不思議はないはずです。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年12月 2日(金)16時59分12秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.433[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

神社の場合は、平安中頃以降に記紀や先代舊事本紀の影響を受けたものが多いと思います。
単一事象だけでは神社と弥生をリンクさせるのはたいへん難しいと考えています。
複数の事象がなにかをみせてくれるかどうか。

淡路島の神社をCDでざっとながめてみました。
なんか神社の数がずいぶん多いように感じます。
大歳神、事代主命を祀る社が多いですね。

住吉あるいは応神を祀る社も多いですが、これは記紀の神功説話によるところかな。
中筒之男神と表筒之男神を祀るけれど底筒之男神がない社があった。
深読みすれば瀬戸内系海人と太平洋系海人の島であって、日本海系とは関係ないのか??

事代主命はエビスと同等とみれば海人で不思議はないですが、大歳神はこれいかに・・
大歳と称する場合は古事記の書く大年神グループのひとりの「御年神」を示すと考えています。
大年神グループは列島へ「弥生文化」を運んだ半島経由で渡来した人々とみています。

ひとつは春秋戦国からの脱出者で戦争避難民、おそらく水稲など高度文化を持つ人々を含む。
ひとつはBC1000以降の寒冷化からの脱出者で環境避難民、こちらはさしたる文化は持たない。

で、縄文と結合して北九州で拡大、これを持論では「アマテラス(グループ)」と称しています。
書紀の書く「天照大神」の原型です。
いわゆる弥生の始まりでもあります(BC500頃からか)。
(遠賀川土器や半島系無文土器)

半島から列島へ渡るそれらの人々(持論で初期開拓者)を救助あるいは輸送したのが安曇(阿曇)海人だと考えています。
本来は南西諸島から北九州あたりの漁労の民(大綿津見神)で、縄文からゴホウラ貝などの交易を行っていた。
後に安曇となって、瀬戸内での輸送も行うようになった。
その痕跡が淡路島の「大歳神」を祀る社の源流にあるのではないか。

記紀では素戔鳴尊の子とされる五十猛命や大屋彦命もこの流れにあるとみています。
屋久島などの杉を知る人物、台湾などのヒノキも(素戔鳴渡来BC190頃よりはるかに古い)。
海人に運ばれて紀ノ川遡上で植林(あいにくヤクタネゴヨウなどは育たなかった(^^; )
海人が現地で必要とするのは食糧と舟の補修用の木材。

木曽の山中にぽつんと銅鐸がある、この頃には林業集団が登場しているのかもしれない。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年12月 2日(金)13時34分13秒 ag091055.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.433[元記事へ]

萩原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』に次のようなことが書いてありました。

古代中国では祖霊をよくまつれば季節の運行にも恵まれ、穀物の豊穣がもたされる。という考え方があった。死者の霊魂は地中に埋めた死体とともに地中で暮らし、子々孫々を見守ると言うのが中国の来世観である。

 魂魄に分かれて魄は地中にいて、魂は天に上り、時々降りてくる というイメージで、殷の時代に、そのような考え方があったと理解しておりましたが、意外な来世観にぶつかりました。
 もし、このような来世観が、日本列島にも来ていたとしますと、銅鐸の祀りは地中の祖霊を祀るという意味がありそうです。
 そこへ、いや、魂は天に上るから、天を祀るべきであると、銅鏡の祭祀が優位に立ったと、銅鐸から銅鏡への祭祀の転換を理解することができます。

 この来世観、本当なのでしょうか。
>
 

Re: 銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月30日(水)15時32分16秒 ag088114.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.430[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。


 銅鐸は謎の多いく、興味はつきません。

 最古の神であろう雷を呼び、豊作を祈願するとか、沼地にスズ(水酸化鉄のかたまり)が生成するようにとか、古代人が祈りに使用したもののようですが、目的などよくわかりません。

 地域別の銅鐸出土数と祭神について相関をとってみました。片や約2000年前、祭神数は現在の『平成祭データ』からとったという意味の分かりにくいものですが、何らかの参考になればと計算をしてみました。
基礎資料は、 http://www.kamnavi.jp/log/doutaknew3.htm  にアップしております。

 ニギハヤヒ      0.53
 海神         0.50
 アジスキタカヒコネ  0.49
 大国主・大物主    0.05
 ヒルコ        0.02

 ニギハヤヒとかアジスキは後世にブームがあったような感じのしない神だと思います。それらに若干関係がありそうな雰囲気です。
 

弥生の海人

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年11月29日(火)22時43分3秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  銅鐸分布図に小銅鐸も追加しました、けれど暫定、最新版などで修正中です。
(PDF化の要領がいまいちよくわからない)
小銅鐸は海人の実用品とみていましたが、内陸にもあるのが不可解。
しかし弥生の海人が資源探査で行動をしていたと考えれば・・少なくとも関東では氷解(^^)

海人は土地に縛られず行動範囲が広くかつ移動が速い。
当初は一般的な輸送を行ったと思いますが、金属資源探査に従事する特化集団が登場したと考えています。

出雲系では安曇(阿曇)、大綿津見神の系譜。
西南諸島から南九州や北九州に至る広範囲です。
BC500あたりから中国の戦乱と寒冷化から逃れる人々が半島経由で列島にやってきた。
これの支援で漁労から離れて輸送に特化する海人がいた、これが安曇系海人の起源。

北九州の出雲勢力の拡大と共に瀬戸内への輸送開始。BC150頃からか。
瀬戸内へ運んだのは八島士奴美系の出雲。
そして一部が資源探査に特化、内陸にも入りさらに東北へ。

もうひとつが東シナ海系の海人。代表が大己貴と少彦名だと考えています。
登場はずっと新しく、北九州で弥生文化が形成されてからの渡来でBC180頃からか。
(古事記では少彦名を神皇産霊尊の手からこぼれた腕白坊主とする)
大己貴は素戔鳴の娘の婿となって北九州で勢力を急拡大。
北九州の開拓、福岡平野や吉野ヶ里など。山陰では鳥取あたりまでが行動範囲(因幡の白兎は医療伝承とみる)。
甕棺葬の風習を持ち、中国系の最新技術の導入。

もうひとつが物部系の海人。
原点は安曇と同じく大綿津見神と思いますが、輸送に特化するのは天孫降臨以降。BC130頃か。
天火明に随伴して日向から尾張へ、太平洋岸です。
天火明に随伴していた天之忍穂耳系(長江系)とまじりあった混成グループ。
(すなわち後の物部氏は単一の始祖を持たない)

安曇と同様に一部は資源探査に特化。内陸へも進出。
ただし、こちらには小銅鐸を使う習慣はなかったとみます(九州南岸~伊勢志摩に小銅鐸がない)。

資源探査の第一は鉄と銅でしょう。
安曇の発見したのがまずは琵琶湖の湖成鉄かな。ついで黒姫山の褐鉄鉱、秩父の自然銅、秋田の自然銅、そして岩手の餅鉄。
物部の発見したのは琵琶湖の湖成鉄程度でさしたる収穫なし(^^;
おそらく吉野の水銀も両者が発見していると思います。
奈良周辺で安曇と物部(天火明系譜)が接触する。

たぶん、この時代では大喧嘩にはならない。資源を共有できるなら約定締結あたりでOKとみます。
土地に縛られる農耕民ではないから。
そのルートのひとつが伊勢湾(尾張)~琵琶湖~若狭の内陸の道。
(後に若狭での天火明系譜と出雲系譜の鳥鳴海神系譜の結合へ、尾張では朝日遺跡の異文化の二重構造)
もうひとつが伊勢湾(津)~奈良~紀ノ川の道。
(こちらでも出雲系譜と天火明系譜の結合へ、記紀では長髄彦伝承の源)

淡路島は安曇海人の瀬戸内での拠点。
伊勢志摩は物部海人の近畿での拠点。
大己貴系海人の拠点は北九州の糸島半島と宗像あたりかな(安曇と共有)。


さて、関東で小田原から北へ内陸部で小銅鐸が発見されています。
安曇は姫川(糸魚川)を遡上して黒姫山の褐鉄鉱を発見。
諏訪の和田峠の黒曜石、信州縄文と東北縄文の交流ルートがあるはずです(碓氷峠経由と思う)。
安曇はここから岩手の餅鉄の存在を知る。
(安曇から碓氷峠を通る途中に巴型青銅器が出土)

そのルートの途中で秩父の黒谷の自然銅を発見。そこから南下すれば小田原、舟で自然銅を輸送できます。
後の武蔵国の国府の大国御魂神社は武蔵の六つの神社を武蔵六宮とする。
武蔵六宮の成立そのものが和銅の輸送路ではないか。
で、六宮の並びと小銅鐸の位置が重なります(^^)
関東の内陸での小銅鐸の意味はこれだと思います。

出雲崩壊の時その情報は隠蔽され、秩父の自然銅の存在はAD708まで知られることがなかった。
日本武尊の関東渡来で太平洋航路が復活したとき、随伴者は物部系の海人と兵士でしょう。
そのような過去があったことはつゆ知らず、東京湾の千葉県側へ上陸・・

さて、弥生の製鉄遺跡はまだ発見されていませんが・・
粒状褐鉄鉱を使う製鉄はタイのバンドンブロン遺跡にBC200頃に登場しています。
(1991に伊那史学会にて褐鉄鉱(鬼板)による製鉄実験に成功)

黒姫山の褐鉄鉱と岩手の餅鉄がクロスするのは諏訪(サナギの鈴あり)。
天竜川を下って浜松なら日本海経由で運び出すよりずっと近道。
安曇の重要な拠点が浜松周辺と小田原周辺にあった可能性大。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: どんたくさん

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年11月24日(木)10時44分42秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.429[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

どんたくさんなど、なつかしいお名前です。

>銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら

カシミール3Dという地図ソフトではオリジナルの地名データを記録することができます。
地名を地図にプロットするとそのサブデータ(250文字まで)も記録されます。
(弥生遺跡とか神社といったレイヤ別もできます)
また補助データとして画像などを含む任意のファイルをリンクさせることもできます。
私的なデータベースになっています。

それをベースにして全体を把握する目的で、画像ソフトにて色分け銅鐸を地図にプロット。
注目地域では拡大図を作っても良さそうですね。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

銅鐸分布と年代の一考

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年11月22日(火)23時32分26秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  銅鐸は自然神に対する農耕祭祀と考えています(山東半島の斉の瑯邪八主と推定)。
天秤棒のごときに銅鐸を吊して、キンコーンと鳴らしながら田畑を練り歩いていたのではないかなあ。
年代についてはちょいと修正(今後も常に修正がありえます(^^; )

初期開拓者(BC500以降によって青銅器が持ち込まれることがあっても、例外的と考えます。
持論:須佐之男渡来BC190頃、天之忍穂耳渡来BC150頃がすべての基本です。
少なくともこれ以前に銅鐸は存在しない(小銅鐸を除く≒海人御用達)。

天之忍穂耳渡来後の北九州では戦闘激化、青銅剣の生産優先と考えます。
参考図1 山口県長門市の向津具銅剣(明治時代に土中より出土)
参考図2 佐賀県吉野ヶ里の銅剣(甕棺内)対馬にも同形があるらしいけれど未確認
どうも半島系銅剣の由来と使用者を考えることに目をつぶるような傾向が・・(^^;

参考図3 大分県日田市 吹上遺跡の鉄剣(甕棺内) 北九州甕棺の東限
甕棺から鉄剣がでています。
持論にて甕棺葬は大己貴系譜の出雲と考えています。
大己貴系の海人が前漢か後漢初期に輸入していて不思議なし。

福岡県宗像の田熊石畑遺跡から15口の細身青銅剣出土。BC100~200とされるようですが、いいところかな。
須佐之男系譜と天之忍穂耳系譜、加えて地元縄文+初期開拓者(持論にてアマテラスと称す)の激戦の時代。
北九州の戦死者遺骨が大量にでる時代です。

だがBC100~BC60頃に出雲と天孫の政略結婚がうかがえる(深淵之水夜禮花の妃、淤美豆奴神の妃)
大国主の父の天之冬衣、なにゆえ「天」を冠するのか・・
ある程度の平穏期間もあったと考えています。
最初の祭祀用銅鐸、福田型が登場し得るのはそういう時代だと推定。

島根、鳥取、広島、岡山の福田型銅鐸は、出雲系の先駆者が瀬戸内と山陰へ開拓地探索で運ばれたものと推定。
(広島の福田型は細身銅剣とともに出土)
初期の農耕地開発はBC80頃か、北九州からの福田型銅鐸搬入は紀元前後頃か。

その後、山陰ではさしたる農耕適地なく開発は停滞、銅鐸の搬入はAD36頃(大国主の引退)以前では搬入されず。
瀬戸内では、岡山、兵庫、香川、徳島、河内などの沿岸部の開拓が進み、奈良盆地の発見。
銅鐸の生産が急拡大、おそらくは菱環紐式の始発。生産は岡山か兵庫西部あたりか。
神武朝(AD36-AD100頃)の直前か。

大国主は瀬戸内や奈良の開発が進んでいることをみこして、九州を神武に譲って島根に引退ということです。
山陰開拓は大国主の子の鳥鳴海神系譜が鳥取から若狭まで進出。
使う銅鐸は外縁付紐式から扁平紐式へ変化して、これが山陰にも登場する。AD50~AD150あたり。
銅鐸は作れる場所でどんどん作られた(^^;
弥生の寒冷化がはっきりしてくる時代で、銅鐸が大型化し祭祀も盛大となる時代。

大阪には銅剣鋳型が2ヶ所、奈良盆地には石剣はあるけれど銅剣は出土していません。
奈良は武器の必要のない平穏な弥生世界だったと推定(奈良湖の干拓(^^) )。
名古屋の朝日遺跡も大環壕はあるけれど戦闘痕跡はない。

北九州では神武朝が終了して争乱の時代へ。孝昭105-137、後漢へ王朝交代の使者=後漢書の倭国王師升。
倭国争乱となって邪馬壹国台頭(日向宮崎)、そして卑弥呼登場(新羅本紀、卑弥呼の使者AD173)


淡路島では・・
南あわじ市の古津路から銅剣14本が出土しています。
そのうちの2本が大分県大分市と広島県尾道市の中型細身銅剣と同じ鋳型の銅剣。
銅鐸に先行する重要なリンクとみています。
この銅剣がいつ持ち込まれたかはなんともいえず、ですけれど。

淡路島に後期型銅鐸がないのは、農耕不向きの土地で初期開拓だけで終了したためではなかろうか。
周囲には大阪や播磨など農耕適地がたくさんある、開拓の主力(人手)はそちらへ展開。
新しい銅鐸を追加する必要がなかった・・ということですね。

現在の淡路嶋の農業はタマネギやレタス。
「古代淡路国の社会・経済的特性」によると、律令時代では海産物と塩が租税だったようで、淡路島は海人の国だった。
(伊勢志摩も類似みたい)

淡路の五斗長垣内遺跡の鉄製品出土詳細を把握していませんが、毎度ヤマタイコクの鉄器うんぬん論・・(^^;
この遺跡は周辺で使われた鉄器(農耕具)のリサイクル工房じゃなかろうか。
鉄原料をここへ運んで生産、は考えにくい(褐鉄鉱なら長野県の黒姫山、餅鉄なら岩手、砂鉄はまだ無理と推定)。

破損したりちびてしまった鉄器を再生利用するための工房です。
出荷品のメインは釣り針・・弥生の海人の必需品だと思います。
錆びてめったに残らないと思うけど、広島市の長う子遺跡ナガウネや,福岡県(豊前)徳永川ノ上遺跡などから出土。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

どんたくさん

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月22日(火)21時37分15秒 ag088114.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  銅鐸については、学者さんも一目置いている どんたく さんにマップを紹介しましたら、次のようなコメントをいただきました。披露します。

大変な労作ですね。

突線鈕式銅鐸は、色を変えて、青色にしている点、わかりやすくていいですね。

あと、銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら
よいのになあ、と感じました。

神奈備の注
http://pcrescue.b.la9.jp/kodai3.html
小銅鐸の出土表は氏の作成です。
http://pcrescue.b.la9.jp/syoudoutaku.html

 

Re: 比屋武

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月22日(火)21時27分24秒 ag088114.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.426[元記事へ]

琉球松さんへのお返事です。

>  琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。
>  王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。
>
>  聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。
>  「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。
>  世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。
>  「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。


面白いですね。

藪サの御嶽 この サ がまた、社の訛りとすると、どうなってくるんでしょう・
 

Re: 銅鐸の分布図

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年11月21日(月)17時52分20秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.419[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> moritayaさん、移転中のようです・

面白いと思ったWEBはそのときに保存しておくべきですね。
以前にみたんだけど・・みつからない、というのが結構あります。

プロットミスやプロット忘れ、あります(^^; ま、各種情報を加えてぼちぼち修正。
正確な位置を特定するのがたいへんです。
地名が変更されているとますますですが、古くからある橋は地名の変更や架けかえがあっても橋の名前は残しているみたい。

淡路島など銅鐸のありようについての一考は、また後ほど。
参考図 淡路島の詳細

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

比屋武

 投稿者:琉球松  投稿日:2016年11月20日(日)12時04分12秒 ai126183094060.57.access-internet.ne.jp
返信・引用 編集済
   琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。
 王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。

 聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。
 「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。
 世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。
 「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。。
 

吉大社セミナー

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月20日(日)09時24分28秒 ag088114.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  吉大社セミナー
11月21日(月)『ヤマ・サト・ミサキの神々ー神社信仰の原風景を探るー』
皇學館大學 文学部 特別教授 櫻井 治男 先生

http://www.sumiyoshitaisha.net/seminar/index.html
 

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