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Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月16日(日)10時22分38秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  今井よりさんへのお返事です。

>神楽らに造詣の深い東京在住の方です

YouTube 根津神社 三座の舞。
三座の舞のうちの山神の舞ですね。
山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。

>南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。

パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

地層として残るような火山灰、大規模噴火だと思います。
夜になると山肌が赤く染まる程度の中小規模の噴火が地層として検出できるのだろうか。
少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。
平安時代に噴火記録が増えるのは、記録されるようになったからでしょう(その火山灰は地層になっているのか)。

失礼してちょっと遺跡発掘の追求。
加治木堀遺跡、鹿児島県曽於郡大崎町、自動車道建設での発見のようで、まだ湯気が出てる(^^;
鹿児島県立埋蔵文化財センターの加治木堀遺跡PDFからの引用です。
------
Ⅱ層は黒褐色土を主とし,この中に黄褐色のパミスが混在する層(Ⅱb層)がみられる。
Ⅱb層は,テフラ分析の結果(第4章第2節参照),桜島起源のP4(AD764 ~766)に対比される可能性が高いことが判明した。
その直下のやや茶褐色の層(Ⅱc層)及びその下の黒褐色(Ⅱd層)が遺物包含層である。
Ⅲ層は桜島起源のP7(約5,000年前)火山灰層に比定され,硬質の土壌で層厚は10cm程である。
------
参考図1 同上の地層図
地層Ⅱbというのは書かれていませんが、ⅡcとⅡd層が弥生遺物の出土(山ノ口式土器)。
桜島起源の地層に挟まれた地層に弥生遺物がある。その地層がどのような由来かは決定していないと見えます。
(そこが知りたい)
なお、Ⅰ層とⅢ層の間にはⅡ層欠落の攪乱がみえます。この攪乱は雨水による流失か?
参考図2 同上の出土物の地層(山ノ口式土器)

開聞岳 - 地形及び地質概説 - - 地質調査総合センター
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kaimondake/page4_1.html

開聞岳の2000年前の噴火、加治木堀遺跡との距離は桜島より2倍も遠い。
火山灰が降るとして、その成分は桜島と開聞岳でどう違うのか。それも知りたい。


記紀の「燃える小屋から火須勢理が飛び出してくる」。
天之忍穂耳から下ればBC100~BC50頃、燃える小屋が火山由来なら年代と位置の推定が可能になる。

景行311-333での13年「襲国を平定して市鹿文を火の国の国造」。
(襲国、現在の鹿児島県曽於郡周辺とみて間違いないと思います)
この記事は火山学の立場からの状況を知り得るかもしれない、という方向でしょう。

景行紀18年では八代海の不知火を以て「火國」としている。
夜空に赤く染まる山、その程度での噴火で十分に「火の国」だと思います。

肥後国風土記逸文では崇神時代に火山噴火を以て「火の国」としている。
一応文献とみておきます(^^;
おそらく雲仙、これも弥生~古墳あたりでの「大規模噴火」はみえないみたい。


山ノ口遺跡(山ノ口式土器)、肝属郡大根占町馬場山ノ口、開聞岳から東へ海を渡った海岸にあります。
調査報告書に
「開聞岳起源の暗紫ゴラの直下に当たることが判明」とあります。
{第二次の開聞岳噴火の時期に環状配石に供献されていた土器群で,優に2000年を越える弥生中期の土器である」
とあって、こちらは決定している。
当時の社会を特徴づける極めて珍しい祭祀とのこと。

この遺跡はたいへんに興味深い。
開聞岳が火須勢理の「燃える小屋」の原因であるなら、火須勢理の時代と場所が推定できるからです。
山ノ口式土器は奄美や沖縄からも出土(海神族も用いていた可能性大)。
加治木堀遺跡も山ノ口遺跡も同年代で同じ文化圏に属す、となります。

火須勢理(彦穂々出見)、火と穂、種子島の宝満神社や浦田神社(鵜草葺不合)の稲とも符合してきます。
また、穀璧のありようの推定にもつながる。

・・火須勢理はこのあたりで生まれたが、火山灰に追われて志布志湾に引っ越し(穀璧)。
だが今度は大津波に襲われて(海幸山幸)、内陸部に引っ越し。
そして鵜草葺不合誕生、種子島で陸稲から水稲への変化・・神武誕生して鹿児島へ(紀元前後頃)。

参考図3 山ノ口遺跡の軽石を用いた岩偶

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 
 

江戸城、大阪城の鎮護

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月15日(土)12時06分48秒 125-31-74-231.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  以前、当地の国指定史跡「隼人塚」の鎮護について
調査していましたが、、

さっき、地震で崩落寸前の熊本城を
タモリさんが散策されてました。
(崩落前の録画でした)

どなたか名城と言われる各地のお城の
鎮護について教えて頂けませんでしょうか。
(東西南北、鬼門、寺院)


○江戸城
○大阪城
○名古屋城
○姫路城

他、ご存じの処で結構です。
ここに繋いで下さい。

宜しくお願い致します。

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月15日(土)06時20分9秒 125-31-74-231.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.389[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)
>
>

ご紹介ありがとうございます。
私はこれを参考にしてページを作成しております。
多分2000年頃の作成かと思います。

隼人探訪==>>隼人抗戦==>>稲積の里

この地は、和気清麻呂が流刑され一年弱居住していた処です。
幕末の志士 坂本龍馬も、新婚旅行の途中訪れています。

絵手紙には近くの「犬飼滝」のことを「蔭見滝」と
音読で記載して紹介しています。

「犬飼」は大分県に地名があります。
多分、隼人抗戦(720年)前後に当地を平定のために移住してきた
方々が居住したのではと推察しています。
この辺りの小字は「中津川」、上流には万膳と云う小字もあります。
どことなく当時の地名が残っているような。。。


☆倭名類聚鈔
☆犬飼滝(いぬかい)
☆高千穂の峯と霧島神宮の大鳥居

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月14日(金)18時12分50秒 125-31-74-231.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.389[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )


神楽らに造詣の深い東京在住の方です

わざをき通信

http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/index.html

凄いリンクです。2000年頃から存じてましたが、
リンク集を南九州ゾーンだけに特化した折、削除してました。
再度歴史探訪にリンクしました。

詳細はお尋ねください。

http://yorihime3.net/

 

西米良の神楽由緒

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月14日(金)14時16分23秒 119-47-51-197.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  一応、西米良の神楽について由緒を掲示いたします。

文明3年(1471)
御川(おんかわ)神社に
懐良親王の霊を祀り
神前に舞を奉納した
のが始まりと伝える

現在は
例年12月18日
に近い前後土・日曜日に
開催される。

豊穣感謝・無病息災を
祈願し舞われる。

鎮守や地主神が
多く登場し、着面の舞も多彩

神面の中には
「小べし見」と呼ばれる鬼面や
狩面と通称される道化面等の古面もある

神楽は厳かな「神かぐら」
賑やかな神楽囃子が歌われる「民かぐら」に
分けられ
翌朝の全演目終了後
狩法神事としての
「狩面シシトギリ」が演じられる

当社の神楽は「村所神楽」と呼ばれる
小川の米良神社の神楽
越野尾の児原稲荷神社(こばる)の
神楽と合わせて
西米良神楽として
県の無形民俗文化財に指定されている

また、村所神楽は
当社の他に竹原の竹原八幡宮や上米良の本山神社
ほかで奉納されている。

=========

田の神舞は、この神楽の中で舞われます。(33番の中の一つ)

「山の神」が郷に降臨して「田の神」となります。

他の関しては拙宅のサイトのページを適時ご覧ください。

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月14日(金)04時02分39秒 110-54-54-86.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。


>
> 確かに新しい火山ではあるようです。逆に縄文以降では元気いっぱいじゃないかな(^^;
>
> Volcanoes of Japan > 第四紀火山岩体・貫入岩体データベース > 九州
> https://gbank.gsj.jp/volcano/
> 桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。
> 地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。
> 縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。
>

南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。
それでは3500年前以降の桜島の噴火爆発は見当たりません。
水蒸気爆発はあったかもしれませんが。。

拙宅の近くのマール(噴火趾、すりばち状、現在は畠)が噴火していた記録はあります。

この手の書籍は絶版が多くて、高価で入手困難です。

鹿児島大学の応用地学講座は入学者激減で閉講されました。。
昔は先生方とは交流がありましたが、
最近、防災意識が高まってますから。。どうでしょうか。


> 銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。
> ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。

> 山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。
> では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・
> 神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。
> 祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。

高千穂や村所、日向の方にも何回か祭り探訪に出掛けて採取しています。
伊勢神楽としての伝承はあくまでも南北朝以降のこと。
残念ながらそれ以前は承知しておりません。

只、村所(西米良)の方は古文書を拝見していません。。
江戸時代の神楽の古文書は幾つか所持しています。
(66番の内の一部ですが)
それには由緒は未記載、所作だけです。

以前は土砂崩れ跡や採掘現場らにも足を運んでいました。
健康状態が良ければ地層確認でも出かけたいのは山々ですが。
しょせんは空論です。

歴史探訪は健康第一!!



☆9500年前の上野原縄文遺跡の地層







http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月13日(木)22時17分39秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.386[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>ご教示の桜島ですが、縄文時代の噴火の記録がありません

確かに新しい火山ではあるようです。逆に縄文以降では元気いっぱいじゃないかな(^^;

Volcanoes of Japan > 第四紀火山岩体・貫入岩体データベース > 九州
https://gbank.gsj.jp/volcano/
桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。
地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。
縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。


>この出自はどれでしょうか?
>歴史探訪===>>南北朝動乱

銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。
ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。

宮崎県椎葉村は最後の焼畑でもあるようです(柳田國男も調査していますね)。
崇神時代に創始されたとみえる伊勢神宮(の原型)の当時の祭祀はいかなるもので、どこから運ばれたのか。
自然神に限りなく近い神、例えば山の神のごとくであったと考えています。
伊勢の式年遷宮は焼畑を儀式化したものと考えています(天武673-685頃)。

山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。
では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・
神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。
祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。

崇神以前の伊勢地域には弥生遺跡がないに等しい。
奈良盆地には遺跡が多数ある、出雲文化圏の中枢。
そこでの祭祀は銅鐸でしょう、狩猟や農耕、動物の絵が描かれています。水流を思わせる文様も。
その祭祀に「神が楽しみ民も楽しむ」が付帯していなかったはずがない。

銅鐸の絵柄からみて限りなく自然神だと考えています。
出雲文化圏の登場年代からみて、その自然神は山東半島の瑯邪八主の影響下にあると推定。
天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、兵主(例外的に祖先神、蚩尤)。

残念ながら「古出雲神楽」の痕跡はない、奈良が天孫系譜の中枢となって数百年が経過して完全に消えたのだと思います。
(民のレベルでの痕跡は全国に残るとは思いますけれど)
書紀で出雲が抹消され、自然神があいまい化されていてはなおさらで、平安あたりでの伊勢神楽に飲み込まれていったと考えています。


ちょっと追求(^^;
景行紀「13年の五月に悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
景行紀「18年五月、八代県・・日没・・人の火にあらずといふことを知りぬ・・その國を名づけて火國と・・」

襲國を平らげてから5年後に、八代海の不知火をみているとみえます。
ここでの「火國」は八代海付近。
景行大王が「襲國を平らげ」たときの「市鹿文を火の国の国造」任命から5年後となります。
景行紀には「火」が2回出てくる、一方はおそらく桜島の噴火、一方は八代海の蜃気楼。

肥後国風土記逸文に「崇神天皇の御代に火の空より下りて山に燃えしも怪し、火の下りし国なれば火の国と名ずくべし」
この「火」はおそらく雲仙の噴火によるものと思われます。
「又、景行天皇が球磨囎唹を誅ひたまひ・・・諸国を巡狩しましき・・」、続けて書紀の景行紀18年と同じ文が続きます。
肥後国風土記逸文では南九州での事象と、雲仙、不知火、3種類の「火」の記事がまじりあってる。

なお、ウィキペディアの熊襲の項に「筑前国風土記に球磨囎唹がある」とありますが、これは誤り。
筑前国風土記は存在しません。筑前国風土記逸文および筑後国風土記逸文が残るのみ(風土記/岩波書店)。
「球磨囎唹」が書かれるのは「肥後国風土記逸文」です。
(筑前国続風土記/貝原益軒では未確認)

肥後国風土記逸文に「球磨県の北西70里の海中に島あり」とある。
おそらく天草諸島でしょう。
この記事が正しいなら、古事記の「熊・曾国」の一部がAD720頃には球磨県になっているとみえます。
位置は現在の熊本県南部、球磨川周辺でよいと思います。

大隅と薩摩の語源は不明。
延喜式では大隅国、薩摩国が存在。肥後国の中に球磨あり。
拾芥抄では大隅国のなかに贈於あり。肥後国のなかに球磨あり。薩摩国のなかに薩摩と鹿児島あり。

薩摩は球磨の「球を薩」に変えての呼称ではないか。
大隅はAD720頃では「襲」あるいは「贈於」であったが、延喜式の頃では「大隅」に変更され、現在に曽於郡が残った。

参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )
参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 古事記の国生み筑紫島

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月13日(木)21時40分8秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.383[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます

書紀編纂者が伊弉諾伊弉冉尊をどのようにイメージしていたか、ですね。
伊弉諾伊弉冉尊以前では具体性はほとんどなく、イメージだけ。
縄文末期の寒冷化で移動する縄文人、そのかすかに残る痕跡。それが伊弉諾伊弉冉尊の源だと考えています。

スタートは奈良周辺と木曽あたりからの縄文。
当時において距離の記憶は無理だと思います。何日もかかる、何ヶ月もかかる遠いところ、その程度。
現代人でも東京から大阪と東京から青森と、どっちが遠いかなんて?、でも方角はわかる。
いつの時代でも太陽というコンパスがあるし(冬至とか春分の概念も必須)。
書紀では縄文海退の記憶を含めた国生み島生みのイメージを構成。

説話として淡路島スタートでよいと思います(書紀の一書はばらばら(^^; )。
そして九州へ。
ここで、神々の体系を構築するために夫婦神を捨てる。
縄文イメージの終わり。
北九州から今度は日本海沿岸を東へ。ここでは半島経由の渡来者(漂着者)登場のイメージが重なる。
弥生の開始。
天照大神と素盞鳴尊、宗像三女神など登場。
住吉三神が関門海峡あたりで登場も妥当なところと思います。

素戔鳴尊は嫁さんの存在を明示。天照大神や月読尊に比して素戔鳴尊は強い具体性があったからだと考えています。
出雲文化圏の登場、その祖先神として。
天之忍穂耳尊も同様で嫁さんを書いている。
天照大神を別枠として、祖先神(歴史)の流れに変化させたのだと思います。

参考図 筑紫島の四面を少し修正
後の筑前や筑後での前や後ろは、街道の完成をもって畿内からの道程として近い方が「前」ですね。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

上町断層

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年10月13日(木)16時04分12秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  大阪市内を南北に走っている上町断層の場所が、ネットの地図を見ていましても、松屋町(まっちゃまち)筋やひどいのは大阪城の西側の上町筋としています。断層からγ線が出ているとのことで、本町通りを御堂筋から東に歩きながら測定してみました。エアカウンターという測定器をつかいました。
御堂筋 、0.05μSv/h、
堺筋   0.09μSv/h
東警察前 0.05μSv/h
東横堀川 0.19μSv/h
内本町  0.05μSv/h
谷町筋  0.09μSv/h
上町筋  0.05μSv/h
生魂御旅所 0.09μSv/h(大阪城内)
 これから見ますと、断層は東横堀川の下にあると言えます。
 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月12日(水)23時25分22秒 125-31-73-204.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.381[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。

この出自はどれでしょうか?

ご承知のように九州は、朝廷からみたら「僻地」のなにものでもありません。
所謂「流刑の地」ですから、、
当時の朝廷から誅された公家や皇族が多数配流されています。
その流れで、中央の文化が移入されました。

伊勢神楽として有名な、日向の「西米良神楽」は後醍醐天皇繋がりです。
鹿児島の谷山には、懐良(かねなが)親王が

この辺りは拙宅サイトに、判る範囲で掲載しています。
歴史探訪===>>南北朝動乱

民俗芸能の所作は、専門家にお話を伺って
史資料を精査しながら、神舞を初めとする
田舎の民俗芸能を見物するのが楽しみです。

☆鹿児島神社のお祭り風景
桜島を核として三方に「鹿児島神社」を配祀した伝承有

○鹿児島神宮(霧島市隼人町)
○鹿児島神社(垂水市)
○鹿児島神社(鹿児島市草牟田)



http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月12日(水)13時19分0秒 49-156-214-39.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.381[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。


>
> 地名には危険が伴う。
> 奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
> 「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
> 書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;


奈良県 磯城郡(しきぐん)

というと、田原本町近辺ですね。
昔、名古屋在住の頃、弟が居住していたので
近鉄特急で、何度か足を運んでいます。

似たような地名呼称が、現在では真逆の処が、鹿児島でもあります。

姶羅(あいら)

がそうです。古代から中世は、大隅半島の鹿屋辺りを指しますが
現在の「姶良市」は薩摩半島の加治木町、蒲生町、帖佐町です。

市町村合併で、故地が消滅するの忍び難いものがあります。
でも、史資料に登場する平安時代の小字が残っていたりすると小躍りします。


> 「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
> 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。
>

神話伝承の小字が残っていると興味をそそります。
いつかゆっくり探訪したいものです。

「神楽」当地では「神舞(かんめ)」ですが
民俗学的に貴重な生きた史資料、文化財です。
古語拾遺では「神遊」で登場します。
当地でも史資料に登場するのは、島津藩の初期の頃からです。
目下のところそれ以前は承知していません。

この16日は、鹿児島神宮の「お浜下り」です。
隼人の霊を弔った「放生会」の現代版です。
お天気がどうも下り坂。。心配です。

☆鹿児島神宮のお浜下り


http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月12日(水)12時32分34秒 49-156-214-39.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.381[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
> 「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
> 「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
> 景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
>
> 書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
> 八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
> (景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
> 景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?
>
> 古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
> 「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。
>

こんにちわ。
ご多忙の処、当地「隼人の抗戦」について
テーマを提起して頂いてありがとうございます。

このあたりに関しては、拙宅サイト==>>隼人探訪==>>隼人抗戦

でも少し触れていますが、残念ながらお先真っ暗状態です。

一応、伝承の地として「拍子橋」や「長袋」があります。

「拍子橋」==>>熊襲猛が酒宴をはった場所跡
       酔狂に紛れて日本猛尊が。。。

「長袋」====>>熊襲が抗戦時に立て籠もった洞窟

       妙見温泉にはこの観光用の洞窟があります。
       この地は伝承の場所ではありません。
       対岸にありましたが、洪水で崩落しました。


「火の国」===>>どこでしょうか?

       ご教示の桜島ですが、縄文時代の噴火の記録がありません。
       火口やカルデラ、墳丘は多々ありますが、、
       どうもそれ以前、25000年位前らしいです。

       6500年前には姶良カルデラが大噴火をしています。。
       降灰はカムチャッカ半島迄達しているとの報告があります。

         ===>>「パミス年代測定法」:火山灰堆積層で年代測定

       現在の阿蘇地方、特に阿蘇カルデラには、
       縄文時代の噴火趾が多数あります。

       こちらの方が縄文時代は有力かも。

      ★地元としては、観光活性化で「桜島」を押したいのは山々。



☆隼人首塚
☆拍子橋
☆隼人舞(隼人塚)

http://yorihime3.net/

 

Re: 古事記の国生み筑紫島

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年10月12日(水)11時49分34秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.382[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます。

 島根県の隠岐島の次に九州島、それから壱岐、対馬となり、佐渡の次に、大倭豊秋都島(本州)となりますが、記紀の記された頃には蝦夷の棲むあたりへの認識が高まっていたと、ここは苦しい言い訳も含めてのお話ですが。。。。

 

古事記の国生み筑紫島

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月10日(月)20時39分13秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.381[元記事へ]

古事記の国生み神話での筑紫島と景行紀の熊襲制圧での地域推定図です。
熊曽国/建日別は南九州全域を示す(熊・曽の混合)。
景行紀の火の国はさらに限定して桜島周辺を示す。
火遠理命/彦穂々出見命の火(桜島)に通じるものです。

であるならば、景行紀の市鹿文を「火の国の国造」とする記述は妥当。
しょっちゅう火を噴いているのは桜島だと思います。
火の国は肥国にあらず。
隼人が支配者(高級官僚)に登用された事象がみあたりません。
元邪馬壹国の末裔(開化の末裔)ならば、大隅薩摩の国造りに登用されて妥当だと思うのです。


建日向日豊久士比泥別/肥国
古事記での文字は発音と意味が共存で危険ですが、肥国は肥えた国でよいと思います。豊国と意味は同じです。
建・日向・日豊・久士比泥・別、かなあ。
日向と日豊と久士比泥という地域を混合したもの、だから呼称が長くなった。
九州中央部を横断する地域、すなわち宮崎県の日向も含む。
(後世では肥国は西岸の熊本に限定)

.隠伎之三子島/隠岐島/天之忍許呂別は五島列島だと考えています。
なーんとなく島根の隠岐である、と感じてしまうところですけれど、古事記の国生みの順からはずれてしまう。
国生みで書かれる島が流刑地になってはおかしいですし。
島根の隠岐の文字は、国生みの記述から後鳥羽上皇あたりに「沖」に代わって採用されたものではないか。

.津島/対馬/天之狭手依比売
.伊伎島/壱岐島/天比登都柱
これらに共通するのは天を冠すること。
天之忍穂耳渡来につらなる島、という伝承が存在したことをうかがわせるところ。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 9日(日)23時27分7秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  今井よりさんへのお返事です。

古事記の国生み神話で
此の島(筑紫)は身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。

筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別
(やたら長くて丁寧、範囲が広いのか?)
熊曽国を建日別(曽の字、音を用ふ)

景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。

書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
(景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?

古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。


地名には危険が伴う。
奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;

「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。


神武の言語はいかに、神武の祭祀はいかに、神武御用達の土器はいかに・・
弥生時代の九州南部と北部での「方言」は通じる程度であったのか。
九州北部が出雲文化圏であったら通じるとは思えないのですけれど。
紀元前後頃の重要なヒントになると思っていますが、記紀にヒントはみえないなあ。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 8日(土)04時04分49秒 49-156-214-158.ppp.bbiq.jp
返信・引用 編集済
  > No.375[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
> 九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
> 熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
> 書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
> すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。
>
> もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
> 日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
> ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
> 曽於(曽於郡)のクマですね。
>
> 球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
> 神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


この辺りは、遺物なり木簡なりの出土を期待しましょう。
どのような喋り方(発音)をしていたかも興味あります。

江戸時代の「薩摩弁」については旧ロシアに
辞書が残っています。
ゴンザ辞書、一応所持しています。参考になります。


>
> 九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
> したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
> (韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

これは以前もお話ししたように、当地の民俗芸能に宿っています。
当地では、神楽の事を神舞(かんめ)と呼びますが
出雲神楽と伊勢神楽の両方が舞われます。
宮崎までは伊勢神楽が多いでしょうか、
それ以南は出雲神楽系統です。

史資料はもとより、民俗学的な考証も重要と考えています。


★霧島東神社
国の無形文化財「祓川神楽(神舞)」

尚、映像はyoutube==>>yorihime3でどうぞ。

http://yorihime3.net/jisya/higashi.html

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 8日(土)03時27分29秒 49-156-214-158.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.377[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

またまた、割り込みで恐縮に存じます。

> 東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
> 当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

私の神社探訪の動機と酷似してます。
私は氏神様(稲荷神社)を江戸末期生まれの祖母が「おみょうけんさ~(妙見)」と
呼ぶ不思議さでした。

この氏神様が、平家物語の敦盛愛用の「青葉の笛」所縁のお社とは。。
驚きの連続で今日に。。

>
> >神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

当地の場合、明治の廃仏毀釈で、約2500ケ寺が焼失しています。
残存した寺院は、社名を変えています、近場の例

○鹿児島神宮再建の「日秀神社」(旧三光院)
ここには唯一お堂があります。
○旧国分市上水道の第一号井戸に鎮座する「医師神社」(旧門倉薬師)
○姶良市の米山神社(旧米山薬師)

らでしょうか。

歴史の変遷を。。翻弄された神々でしょうか。

http://yorihime3.net/jisya/sanko.html

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)22時26分16秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.375[元記事へ]

訂正です。
誤:島根のキヌガイヒメ(出雲国風土記)
キサガイヒメです。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)21時34分52秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

氷川社とはなにか、を考えていたとき、楡山神社さんのうぶすな研究室の近津の記述で「ちかつ社」の存在を知りました。
東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

>神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

これは納得していません(^^;
そもそもが本地垂迹といった神仏習合は仏教サイドからのものではないでしょうか。
書紀の神々を仏教に包含しようとする意識であって、宗派によって習合のさせ方が異なり、統合された概念にもなっていない。
書紀「第六天神」、仏教「第六天魔王」の文字の偶然に惑わされた後世でのイメージとみております。
第六天神は「書紀ではあいまいな自然神」を代表させ、水害や風害除けとして開拓成就を祈願する神として扱われていた、と考えています。
(幕末~明治の国学者にもの申す(^^;;; )

ヒンズー教のシバ神には100(だったと思う)の姿があるとされます。
インド各地の多数の部族の神をひとつに統合させるためです。
肌の黒い部族に対して、おまえさん達の神様はシバ神の化身なのだ・・マハーカーラ=真っ黒けのシバ神登場。
後に仏教に取り込まれて大黒天、日本では大国主命と重なって大黒様(鎌倉以降)。大国ダイコクでしょう・・たぶん。
第六天神でのイメージもその程度の類とみております。

書紀の編纂目的のひとつは仏教などに対抗できる「概念」の構築にあると考えています。
その統一のための概念が天照大神の和魂と荒魂だと考えています。
単純には、その源流が天照大神(おおまかに天孫)に対抗する存在だった場合は荒魂。
日本の場合はインドに比せば、氏族の差は微々たるもの、「ふたつの姿」だけで事足りた。

神社建築において「千木」の形状で、先端が垂直に切られる場合は荒魂、水平に切られる場合は和魂、と聞きました。
また、千木の装飾の穴?が先端部で切り欠き状になっている場合は女神、切り欠きになっていない場合は男神、とも聞きました。

もっとも、そういう慣習があったとしても、社殿建設の時にどれだけ引き継がれるか。
東京駒込の天祖神社(源頼朝縁起)の境内に、榊神社(面足尊)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)があり、この由来を神主さんにおたずねしましたが??でした。
寺院でも同様、大昔にある問いかけに答えられなかった若い坊さんが今は要職に。

余談
さっきNHKの歴史秘話ヒストリアで明治日本語の話をやっていました、なかなか面白かった。
標準語は必須だがどうやるのがよいか、英語にしてしまえなんて案もあったらしい(^^;
文化と血脈(部族)、その中間にあるのが言語だと考えていますが、うかつに統一化すると文化を失うかもしれない。
なかなか難しいところ。
そういえばエスペラント語なんてのがありましたが今はどうなっているのかなあ。

最近ちと気になっているのが、「なになにだそう」です。
「なになにだそうです」の「です」を略している。なんかあいまいさを感じて?

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)16時35分12秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.370[元記事へ]

ちかつ社と第六天社を重ねてみました。
(第六天社は七所とか十二所といった伊弉諾伊弉冉尊以前としての面足尊を祀る社を含みます)
ちかつ社の変化とみる氷川社の集中する地域では省略しています。
参考図
(画像サイズが横800ドットを越えると自動縮小されて画像がぼやけるみたいですね)

みえてくる特徴は、ちかつ社は鬼怒川以南(現在の利根川以南)にはない。
茨城~福島での「ちかつ」は蝦夷が濃厚で、関東平野の西側では諏訪の千鹿頭が濃厚、であろうとみています。

第六天社は群馬にはない。
茨城と福島ではちかつ社と第六天社が混在する。

第六天社は平安中期以降の蝦夷制圧の北上ルート(茨城県~福島県)に登場しているとみえます。
正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部、クサカ部、卜部、物部などの人々の北上とともに、茨城の蝦夷が制圧され、その後の開拓に伴っての面足尊ではないか。

東京台東区の榊神社の縁起は「日本武尊が東征のおりこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り」とされます。
日本武尊時代に面足尊が存在することはありえない。地元住民の祭祀を日本武尊が遵守した、ということで良いと思います。
ただし、境内社に
七福稲荷神社/倉稲魂神  繁盛稲荷神社/倉稲魂神
事比羅神社/大己貴神
豊受神社/豊受姫神 があります。
出雲と食糧神です。このあたりにも第六天社の本質が隠れているかもしれない。

雄略456-489の開拓民(孔王部)は埼玉以北へは達していない。稲荷山鉄剣付近までの開拓、ということでしょう。
倭王武(武烈)の上表文の「東は毛人を征すること、五十五国」はちょいと誇大表示ということになりそう(^^;
ちなみに雄略が祀ったという外宮の豊受大御神は食糧神とみえますが、素性があいまい。

祖先神でもなく自然神ともいいにくい(あえていうなら大気都比賣命か)。倉稲魂神も同様。
ま、雄略時代にそういう概念があったかどうかもありますが、もともとあいまいだったのではなかろうか。
BC500以降の初期開拓者たちの農耕文化、その神格化が豊受大御神でよいと考えています。
倉稲魂神は稲作文化に特化で、後に稲荷にも重ねられる。

第六天が雄略につながる痕跡があるかどうか、関東で豊受大御神を主神として祀る社をざっとチェックしてみました。
たくさんありすぎていまのところ??(天照大神を同時に祀る社は除きます)。
稲荷と複合もしていて識別が容易ではなさそう。これからの課題としておきます。

古語拾遣807に鹿島の武甕槌命が登場しますから、この頃には書紀の神々の体系ができあがっているはず。
この頃に蝦夷を制圧した地域(茨城南部~千葉)で面足尊を「開拓の成就祈願」として祀りはじめたのではないか。
群馬に第六天社がないのは、平安中期において、この方面へは開拓民が送られていなかったからだと考えています。

おそらく源頼朝は第六天には関与していない。
三島大社は崇敬したようです、こちらの祭神はあいまいなれど大山祇神とされますが、本来は海人だと考えています。
建長寺の建立にあたって浅草の宮大工を呼び寄せています。
頼朝は当時の東京湾の浅海を渡河するのに苦労しており、千葉氏と接触していても祭祀まで受け継いではいないとみるところ。
武人ではあっても開拓者ではない、だから鎌倉を拠点に選んだ。

関東平野に密集する第六天ははるかに遅く、戦国以降でしょう。
関東平野に第六天を運んだのは、おそらくは千葉氏で、祖は平常長(1051頃)。
千葉氏-北条氏-徳川幕府の流れでの展開。
小田原の周囲に第六天社が少なからずあるのは、北条氏による開拓でのものと考えられます。

面足尊を祀る社に胡録神社があります(少なくとも5社以上)。
東京荒川区の胡録神社の縁起では、上杉謙信の配下の武士がここに住んだとあります。
第六天を称していたが、明治初期に胡録の呼称となったそうです。
胡録の意味不明なれど、胡粉ゴフンの胡の文字を使った可能性あり。
胡粉は貝を石臼で引いて作る、胡録社はすべて海岸沿いあるいは海岸近くの川沿いにあります。



さて、ちかつ社。
由来はメインが諏訪の千鹿頭。これは動かないと思います。
長野県佐久市の近津神社はかっては千鹿頭神社であり、池から大蛇がでてきたという由来があるそうです。
ただしいつ頃に近津社になったかは不明。

弥生後期~古墳時代に寒冷化で山岳地域から南下する人々が関東平野の山岳ぞいに展開した。
関東では碓氷峠からでしょう。
碓氷峠の東に貫前神社と咲前神社があります(高地性集落)。祀るのは経津主命。
諏訪から関東平野へ流入する諏訪系氏族の押さえだと思います。
貫前神社の成立は鹿島神宮や香取神宮の成立と同じ頃とみています。

鬼怒川水系(現利根川)の北岸で蝦夷との戦いが始まった。
おそらく・・垂仁273-311の五大夫のひとり物部十市根の頃、東京湾岸では豊城入彦命、鹿島側でも王朝系のだれかが上陸。
ここでは対出雲系譜の意識のなかの蝦夷であって、開拓の意識はまだない。
(この頃の王朝祭祀はいかなるものであったか)

そして正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部やクサカ部や物部など、おそらくは武装開拓民の登場。
鹿島神宮の社としての登場は721以降だと推定。
対蝦夷の社、書紀は強力そうな武甕槌命を創作。香取神宮は穏健な経津主命。
貫前神社はこれに習った、こちらは相手が出雲系譜で蝦夷ほど恐ろしくはなかったから経津主命(^^;

「ちかつ社」の多くが「近津」の文字を使いますが、なぜ??
近くに港があるわけでもないのに、疑問でした。
その起点は鹿島神宮のすぐ北にある近津社ではないかと考えています。

社名や御祭神の変化が大きかったであろう頃、すなわち延喜式の時代927頃での登場。
鹿島の港に近い、の意を以て「近津」に変更された。
御祭神も面足尊と風神の級長戸辺命、近津としては例外的に自然神ライク。
その他の社の多くがこの呼称に習った(千勝や千方など)。
ただし御祭神は別です、出雲系譜を主とする祖先神に切り替えられた。

その代表が氷川社だと考えています。
「ちかつ」にこだわらず、書紀や出雲国風土記から御祭神を素戔鳴尊とし、島根の簸川を氷川に置き換えた。
関東で河川の凍結はありえないけれど、諏訪湖の御神渡りをイメージしての氷川ではなかろうか。
そして延喜式以降に大勢力に発達した。
福島と茨城の県堺では都々古別社がグループを形成(味耜高彦根命)。
ここでは東北縄文が濃いゆえに、ツツ蛇の子の意だと思います。

鬼怒川沿いにある数社(千勝)では御祭神に猿田彦命を祀る。
おそらくは、現地の古い祭祀(≒弥生に遡る)の意をもって猿田彦命(書紀での縄文イメージ)としたのではないか。
(ひょっとすると強制的に)
全国的に、現地の古い祭祀を延喜式以降に猿田彦命に置き換えた社が少なくないと考えています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

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