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Re: < Re: 大変御無沙汰を致しております>

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月 9日(水)17時16分24秒 aa031252.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.410[元記事へ]

いこまかんなびさんへのお返事です。

 凄い記憶力ですね。驚嘆です。

 光秀の子孫と出会ったことを思い出しました。

 ありがとうございました。

 9月の「難波の古代史研究会」は生駒山がテーマで、「膽駒・神南備山の本記」から住吉の神の足跡のお話をさせていただきました。

http://www.geocities.jp/iko_kan2/index.html

貴ホームページを大いに参考にさせていただきました。感謝です。

http://kamnavi.jp/log/ugaikoma.htm

 
 

Re: < Re: 大変御無沙汰を致しております>

 投稿者:いこまかんなび  投稿日:2016年11月 8日(火)20時06分29秒 58-70-65-13f1.osk2.eonet.ne.jp
返信・引用
  神奈備さんへ
お久しぶりです。横から失礼します。
メイさんとは、2006.4.10に高津神社からの帰り、鶴橋の田で直接お会いした方だと記憶していますが。
 

Re: 土佐から還ってきた神について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月 7日(月)09時25分15秒 aa031252.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.407[元記事へ]

6.『三代実録』(859)
 高鴨阿治須岐宅比古尼神が従二位勲八等から正一位に昇っている。
 高鴨神が従一位になっている。
 この時期には阿治須岐宅比古尼神は高鴨阿治須岐宅比古尼神と呼ばれていたと云うこと。一方、高鴨神は一言主神(事代主神)の祖神であるから大穴持神社の神と云うことになる。


7.延喜式神名帳(905) 葛上郡
 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 現在は、阿治須岐高彦根神 配 下照比賣命、天稚彦命の三柱である。これに母神の多紀理毘賣命を加えれば四座となるが、アジスキ以外は不詳。


外の葛上郡の式内社
葛木坐一言主神社(名神大。月次相甞新甞。) は、後に名神大社となるが、新抄格勅符抄には記載がない。
大穴持神社 御所市朝町宮山に鎮座。この宮山には鉱床があり、現在の高鴨神社の地下につながっている。二社一体の神社と言える。


         以上
 

Re: 大変!御無沙汰を致しております。

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月 6日(日)16時38分56秒 aa031252.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.406[元記事へ]

メイ  (現在は女優 吉田 知永)さんへのお返事です。

 この掲示板への書き込みは、悪戯的なものを除いて、全て保存しています。

 どうも「メイ」さんのハンドルネームでの投稿は見つけられませんでした。

 いずれにしましても、5%からの御生還、おめでとうございます。

 その強運で、厳しい世界を乗り切られますように、応援させていただきます。
 

Re: 土佐から還ってきた神について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月 5日(土)10時02分50秒 aa031252.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.405[元記事へ]

4.『記・紀』(712~720)
 雄略天皇が葛城山に猟に出かけた際、一言主尊が出現し、当初は緊張関係にあったが、結局、天皇と神は仲良く猟をしたこという。


 ●葛城の神(一言主)の神域である葛城山に天皇が踏み込んできたと云うことである。葛城山の神々は早々に追い出したい。ある神はイノシシをして突進させたが果たせなかった。一言主は追い出しに失敗し、妥協した。そこに「老夫」の姿をした神が現れて、狩猟の邪魔をしたと思われる。それが高鴨の神であった。葛城山は鴨山とも云い、高鴨神の神奈備であった。一言主の祖神に当たる神と考えられる。またその名からは鴨神の祖神とも云うべき存在と言える。


5.新抄格勅符抄(806)年
高鴨神 五十三戸 土佐廿戸、大和二戸、伊与三十戸。
鴨神  八十四戸 大和三十八戸・伯耆十八戸・出雲二十八戸。
 高鴨の神の戸数の内、大和は二戸(四石)であり、これは追放されていたので、大和での地盤を築けなかった神と見ることができる。残りが土佐・伊予である。
 一方、鴨神は大和以外に伯耆・出雲であり、明らかに味鋤高彦根尊である。事代主神も鴨神と言えるが、この神は出雲に拠点はない。


● 高鴨の神とは鴨の神々の祖神と考えることができる。即ち大穴持の神である。葛上郡には式内社の大穴持神社が鎮座しており、帰還後は暫く高鴨阿治須岐託彦根命神社の高鴨神として祀られていたが、後に大穴持神社に遷されたのだろう。
● 大穴持神の裔である一言主は事代主の一面の姿と言える。


 

大変!御無沙汰を致しております。

 投稿者:メイ (現在は女優 吉田 知永)  投稿日:2016年11月 5日(土)00時58分32秒 om126161022134.8.openmobile.ne.jp
返信・引用
  神奈備さま

オフ会などで、楽しませて頂いておりました、
通称「メイ」でございます。
御記憶頂いておりますかどうか。
誠にお久しぶりでございます。m(_ _)m

3年前、生存率5%の事故に遭い、
もう、普通の人生は無理か、とまでなりましたが
悪運?強く?、甦り、東映は引退しましたが、
女優に復活し、webドラマ出演中、そして、
以降は、映画にも出演を果たせる予定です!
皆々様の、温かい御気持ちに支えられ、
復活を果たせました事を、感謝しております。

私は、桂川沿いに長年住んでおりましたが、
これも、明智光秀公からのお招きでしょうか。
直径ではありませんが、光秀公の子孫にあたり、
桂川を渡り、光秀公の最期の地とも言えます、
勧修寺近くに移転し、また、
通り沿いから登りますと、岩屋神社があり、
子孫の血が騒ぐ?と共に、数々の土地の歴史、
文化などを、改めて勉学致しております。

京の裏座敷とも言える、豊かな山々に囲まれ、
奥深い歴史と謎めいた伝説に溢れた、
本当に心休まりながらも、興味の絶えない、
恵まれた環境の中、女優として活動しながら、
やはり、またまた歴史探訪・追究に、
再度、邁進致しております。(*^^*)

岩屋神社の情報に、感謝いたします。
直系ではなくとも、やはり子孫ですね。
この町には、光秀公に招かれた気が致します。

神社仏閣探訪の「メイ」もですが、どうぞ、
女優・吉田知永も、今後とも、
心から、宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m

吉田  知永 (メイ・オラエ)   拝
 

土佐から還ってきた神について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月 3日(木)13時37分9秒 ab126220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1.『続日本紀』天平宝字八年(764)(淳仁天皇)
再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、その弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。
 ●戻って来た神は、「高鴨の神」であるが、その正体は何であるのか?


2.『釈日本紀』に引用された『土佐国風土記逸文』風土記編纂の官命は713年に発せられた。
土左の郡。土佐の高賀茂の大社がある、その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説ではその神の名を大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であるという。
 式内大社都佐坐神社(土佐神社)の現在の祭神はアジスキタカヒコネである。
● 「高鴨の神」とは、一言主尊なのか味鋤高彦根尊なのか、はたまた。


3.日本霊異記(787)
 文武天皇の御代(697~707)、葛城の役小角(高賀茂朝臣と云う者)が鬼神たちに吉野の金峰山と葛城山との間に橋を架け渡せと命じた所、葛城の一言主大神が人に憑いて、役小角が天皇を滅ぼそうと陰謀を企てていると讒言した。そのため役小角は伊豆の島に流されるが、大宝元年(701)に許されて仙人となって飛び去ったと云う。その後一言主大神は役小角のために呪縛され、今の世に至るもその呪縛は解けていないという
● 一言主はは文武天皇の在位中に活躍しており、土佐に流されていた訳ではない。

 

桜川断層

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年11月 2日(水)14時05分8秒 ab126220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  大阪市内を走る断層で有名なのは上町断層ですが、桜川断層というんがあります。
地下鉄・阪神の桜川駅付近から地下鉄堺筋本町駅西200mをつなぐラインとなっています。
地下鉄四ツ橋駅付近を通っていますので、散歩がてらガンマ線量を図ってみました。

地下鉄が走っているうえでは、ほとんど検出できませんでした。ガンマ線は鉄やコンクリートで遮断しやすいそうですから地下鉄の走っていない路地に入り込み、測定をしてみました。南船場町界隈です。
測定値を南から北に歩きながら計ってみました。
0.05μSv/h
0.09~0・14μSv/h この幅が3m程度
0.05μSv/h
南北に3mとしますと、45度の傾きですがら 断層の幅は2m程度とでました。
 

柏原市の式内社

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年10月30日(日)20時08分52秒 ab126220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  γ線はXと同じ波長ですから強すぎますと害があるのですが、天然のものはそれほど強くありません。マイナスイオンを作り出しますから快適に感じることはあるでしょう。神社立地との関係を見てみました。柏原市のγ線濃度マップはネットから。  

護衛艦いづも

 投稿者:言蛇  投稿日:2016年10月29日(土)23時59分3秒 FLH1Adt013.kng.mesh.ad.jp
返信・引用 編集済
  「娘子らが 織る機の上を 真櫛もち
        掻上げ栲島 波の間ゆ見ゆ(万葉集1249)」

神奈備さまこんばんわ、実家で喪に服す事態があったりスマホに振り回されていましたが神奈月ということで挨拶に伺いました。

写真は横須賀に配備された護衛艦「いづも」です。艦内には出雲大社の分御霊が鎮社しています。さしずめ現代の「草薙の剣」とも呼べるでしょうか?

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kotohebi/

 

萩原天神

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年10月22日(土)20時30分56秒 ab126220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   萩原神社に初めて参詣してきました。16年ほど前になりますが、神社オンラインネットワイクのオフ会が京都でありました時、ここの神社の南條宮司様とお会いして、神社のHPのありかたなどをお話させていただき、それ以来の再会でした。
 お互い、そこそこ元気で、楽しいひと時を持つことができました。感謝。
 

八坂神社と江戸の鎮守

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月22日(土)12時35分9秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  八坂神社の御祭神(八坂神社HPから)。
素戔嗚尊 (配祀)櫛稻田姫命 神大市比賣命 佐美良比賣命 八嶋篠見神 五十猛神 大屋比賣神 抓津比賣神 大年神 宇迦之御魂神 大屋毘古神 須勢理毘賣神 稻田宮主須賀之八耳神

稻田宮主須賀之八耳神は櫛稻田姫命の父のアシナヅチ
抓津比賣神は素戔鳴尊の娘、五十猛命とともに樹木の種を播くとされる。
大屋毘古神は五十猛命の別名ともされるが?

御祭神は記紀に書かれる人物群でまとめられており、記紀が完成してからのものと考えられる。
大己貴命がいない、血縁がないから。
大国主命がいない、6世代も後の人物だから。

縁起(八坂神社HPからの抜粋)。
八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている・・
斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる・・
新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて・・

「高麗」をコウライと読むなら、この縁起書は「高麗」918が成立してからのものとなるでしょう。
AD656で神仏習合はありえず、「祇園社」なるものは存在しないはず。
神仏習合が登場しはじめた頃に「祇園社」となったことがうかがえる。
(おそらくは天代密教の最澄以降、810以降)

「新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なり」
狛国とは高句麗のこと(持論、箕子朝鮮≒後の高句麗)。
新羅国の牛頭山とありますから、隣接していた伽耶諸国の伽耶山でしょう。
伽耶山の海印寺の「海印寺事跡」という古文書に「伽耶山は牛頭山」と書かれています。
(同上に「牛頭」登場の由来らしきも書かれる)


「高麗」はコマ。
武蔵国に高麗郡コマがあります、分散していた高句麗系渡来人を716に住まわせた地域。
東京湾沿岸部に716より早くにやってきた高句麗系の人々がいたと考えられます。
高麗郡にはなぜか氷川社がありません。
氷川社(ちかつ社源流とみる)の方が後からの登場だからじゃないか(延喜式967以降)。

656は孝徳645-654であり、持論では葛城皇子(天智)が百済問題処理で北九州にあった時代と考えています。
(斉明655-660-天智661-670、白村江の戦663、高句麗滅亡668)
656の伊利之使主が高句麗人(狛国人)であった可能性はきわめて高い。
すなわち八坂神社縁起の656創建が正しい可能性もきわめて高い。

高句麗人なら祖先でもある箕子朝鮮(崩壊)の情報を持っていておかしくない。
伽耶≒出雲系譜である情報も同じく。
列島から伽耶に引退した素戔鳴尊とそれに直結する人物を祀った。
656当時での祭神は素戔鳴尊だけだったかもしれない→国記、天皇記が残っていれば・・
(北九州での類似事象が宇佐神宮とみます、辛島氏など、および韓国岳ですね)


家康はなにゆえ城内にあった太田道灌などが祀った江戸社/江戸神社(創建702年)ではなく、神田神社を江戸の鎮守としたのか。
最古とみえる鳥越神社や根津神社を鎮守としなかったのか。
第六天神ではないのはあいまいで自然神に近いからでしょう(民の社ですね)。
しかし、城内鎮守には日枝神社(大山咋神)を置いています。食べ物は必須。

うすうすとではあってもそれらの意味と由来を家康は感じとっていたからではなかろうか。
素戔鳴尊は渡来者そのもの・・それを江戸の守護神とするのはいかなものか・・
(天之忍穂耳が天皇の初代とはされないことにも通じる)
鳥越神社や根津神社は日本武尊由来の社、朝廷による関東制圧での社。

神田神社であればワンクッションのある大己貴命(海人とみる)であり、「房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀った」は江戸の開拓に通じる。
アンチ朝廷の平将門、家康の意識の根底にはアンチ朝廷があったとみています。
大宝八幡宮は関東最古の武家の神、平将門が奉斎。
神田神社の旧地の地主神が「祇園社」であれば素戔鳴尊につながり、江戸の牛頭天皇の疫病退散祈願にもつながるでしょう。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 江戸城、大阪城の鎮護

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月19日(水)00時21分45秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.394[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>お城の鎮護について教えて頂けませんでしょうか

鬼門は風水から発した陰陽道の考え方のようですね。
もっとも、風水では磁北で、建築などでは真北(北極星か太陽の南中)を使う。
東京では5度ほどずれる。さて、陰陽道ではどっち?

うちの場合の鬼門にはまずまずの神社がすぐ近く(^^;
家の北東側には出入り口はありません、隣地なので作れない。
窓もない。日当たり悪く無意味だから。防火上も安全だし。


江戸社(素戔鳴尊)(神田神社内、江戸神社)
702年に現在の皇居内に素戔鳴尊を祀ったそうです。
だれが祀ったかは不明、
京都八坂神社縁起の「高麗の伊利之が牛頭山の素戔鳴尊を656に祀る」からそう離れてはいない。
だが、この時代に当地にやってきた人物がいるか?

鎌倉で江戸氏奉斎
室町~戦国で太田道灌1450頃 上杉氏 北条氏 奉斎
1603江戸城拡張で神田神社内の境内社となる。

神仏習合による牛頭天王はまだ登場していないはず(隅田川の牛島神社、慈覚大師860頃、など)。
創始は出雲系譜の渡来による可能性が高いか・・
ひょっとして、氷川社(近津社と同じ流れとみる)が素盞鳴尊を祀るきっかけの可能性あり。


神田神社(神田明神) 千代田区外神田2丁目16-2  (大己貴命、少彦名命、平将門)
天平2年(730)に現在の大手町1丁目付近に大己貴命を祀って創祀。
房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀ったという。
(往古の東京湾東岸には出雲系譜の痕跡少なからず)

延慶二年(1309)に鎌倉の僧侶が平将門の怨念を鎮めるためにここに合祀(首塚現存)(築土神社参照)。
江戸開府にあたって家康が当社を江戸の総鎮守とする。
慶長8年(1603)江戸城の鬼門に当たる駿河台に移転、元和2年(1616)に現在地に移転。
(1625 鬼門にあたる上野に寛永寺創建)
明治維新で平将門が削除されて少彦名命に置き換え、現在は平将門復活で三神を祀る。

江戸名所図会によれば現在地(神田神社)の地主神は祇園三社とあるので、素戔鳴尊。
すなわち京都八坂神社縁起と連なり、江戸社とも連なる可能性あり。


日枝神社(御祭神大山咋神)千代田区永田町2-10-5
江戸氏、江戸郷の守護神、山王宮
太田道灌が川越山王社勧請
徳川家康が城内鎮守とする。

大山咋神は「先の神楽の山神」に相応するのかもしれません(もうひとつの候補は大山祇神ですが縄文系)。
myHP大年神グループ参照(天知迦流美豆比売の子とされる、おそらく灌漑治水)
祖先神と自然神の中間かな。文化を表すグループ(弥生の初期開拓者)とみなしています。


隅田川神社(墨田区堤通2丁目17-1)
本来は水神社で隅田川の鎮守、新編武蔵風土記稿に御神体龍神、水神が亀に乗ってこの地に上陸の伝承有り。
江戸名所図会に「昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った(夫木和歌抄、1310頃)」とあります。
太田道灌(1432-1486)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあります。

この橋の修復をやらなかったのはおそらくは軍事上の考えからだと思います。
江戸時代に隅田川を渡る橋は千住大橋のみでした。
日光参詣へ向かう街道があったからかな。
このために明暦の大火で隅田川を渡っての避難ができず、10万ともいわれる死者が出た。
明暦の大火直後から両国橋をはじめとして次々に橋が架けられて、江戸の発達は隅田川の東側へ広がります。


大宝八幡宮 茨城県下妻市大宝667 城跡あり
大宝元年(701)、藤原時忠が宇佐神宮を勧請(位置的に正倉院戸籍721の藤原部と同じ流れと思います)
関東における最古の「八幡」だそうです。
平将門の戦勝祈願 吾妻鏡には下妻宮。

参考図1 江戸神社の御輿
参考図2 神田神社 茅輪くぐり
参考図3 神田神社の祭礼

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

歴史探訪のスタンス(再掲)

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月17日(月)09時40分17秒 115-124-133-9.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  私の歴史探訪のスタンスは

地元の氏神様の呼称の謎解きから始まり
伝承の史跡や祭事の現場へ足を運んで
且つ埋蔵文化財報告書や
史資料の精査に努めています。

考察・推論を展開する場合は
これらの事象に基ずいて
出典ありきでバックデーターを
掲載するように心がけています。
過去に掲載したデータも忘失することが多々
再度閲覧し史資料の内容を掲載
もしくはページを付記するようにしています。

この掲示板に投稿される方々は博識で造詣が深くて
私の浅学のレベルでは
理解できない箇所が多々あり、
療養中の身にはしんどくなりつつあります。
今後は楽しく拝読させて頂きます。


☆鹿児島神宮「お浜下り」
祭事前
16年10月16日

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月16日(日)17時25分49秒 110-54-24-57.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.395[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。


> 少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。

車に着いた降灰は速やかに洗い流さないと
雨で固まってしまいます。

降灰は、大抵が石英、ガラス成分が多いですから
傷が付きやすいです。
目に入って擦ったりすると危ないです。
これも同じく速やかに洗い流した方がベターです。

雨どいに溜まった降灰は、適時掃除をしないと
雨でセメントみたいにこびりついてしまいます。



先日熊本の阿蘇山が大噴火しました。
この時停電が多発しました。

これも高圧送電線の碍子に灰がこびりついて
ショートしたのが原因です。

雪国の「雪害」と似てます。
こちらの場合は、水滴や雪が碍子や電線に凍り付いて
ショートしたり、重さで断線したり、、、


霧島山には、8代将軍吉宗の頃の
火砕流の痕があります。
大樹が建ったまま炭化しています。

御嶽もそうだったかと思うと
聊か不気味です。

古代や中世に於いては
現代では想像に絶するようなことも。。

都会では計り知れない事故が田舎にはあります。


http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月16日(日)13時57分7秒 202-226-243-30.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.395[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

埋蔵文化財の史料の説明ありがとうございます。

>
> YouTube 根津神社 三座の舞。
> 三座の舞のうちの山神の舞ですね。
> 山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。
>

このあきるの市のサイトは凄いですよね。
プロの歌舞伎の写真家ですね。
時々伺っては楽しんでいます。

> >南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。
>
> パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
> 土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

私のページにも記載していますが、
大正5年の桜島の噴火を基準にして、地層の年代測定をするようです。
近年、確立した年代測定方法です。
桜島の降灰は日本全土を覆ってカムチャッカ半島にまで達していますから。。
6500年前の大噴火は旧ロシアの方でも確認されたとか。。

土層に含まれる「石英」成分を測定するようですね。
専門家に伺ったことがありますが。。
根気のいるお仕事だな~と驚嘆しました。

遺物の欠片も数年経つと一つの土器に生まれ変わったりします。。
縁の下の力持ち。。

未だ、未調査の遺物が多数ありますが、、
熊襲や隼人の痕跡が判るようになると嬉しいです。

今日は、熊襲所縁の鹿児島神宮のお浜下りです。
午前中神宮の境内や参道で撮影しました。
さっきアップしましたよ。
youtube/yorihime3/

長時間の見物は流石に疲労が、、
特に視力の低下は否めません、80歳に近い我が身に鞭打って励みましょう。

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月16日(日)10時22分38秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  今井よりさんへのお返事です。

>神楽らに造詣の深い東京在住の方です

YouTube 根津神社 三座の舞。
三座の舞のうちの山神の舞ですね。
山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。

>南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。

パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

地層として残るような火山灰、大規模噴火だと思います。
夜になると山肌が赤く染まる程度の中小規模の噴火が地層として検出できるのだろうか。
少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。
平安時代に噴火記録が増えるのは、記録されるようになったからでしょう(その火山灰は地層になっているのか)。

失礼してちょっと遺跡発掘の追求。
加治木堀遺跡、鹿児島県曽於郡大崎町、自動車道建設での発見のようで、まだ湯気が出てる(^^;
鹿児島県立埋蔵文化財センターの加治木堀遺跡PDFからの引用です。
------
Ⅱ層は黒褐色土を主とし,この中に黄褐色のパミスが混在する層(Ⅱb層)がみられる。
Ⅱb層は,テフラ分析の結果(第4章第2節参照),桜島起源のP4(AD764 ~766)に対比される可能性が高いことが判明した。
その直下のやや茶褐色の層(Ⅱc層)及びその下の黒褐色(Ⅱd層)が遺物包含層である。
Ⅲ層は桜島起源のP7(約5,000年前)火山灰層に比定され,硬質の土壌で層厚は10cm程である。
------
参考図1 同上の地層図
地層Ⅱbというのは書かれていませんが、ⅡcとⅡd層が弥生遺物の出土(山ノ口式土器)。
桜島起源の地層に挟まれた地層に弥生遺物がある。その地層がどのような由来かは決定していないと見えます。
(そこが知りたい)
なお、Ⅰ層とⅢ層の間にはⅡ層欠落の攪乱がみえます。この攪乱は雨水による流失か?
参考図2 同上の出土物の地層(山ノ口式土器)

開聞岳 - 地形及び地質概説 - - 地質調査総合センター
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kaimondake/page4_1.html

開聞岳の2000年前の噴火、加治木堀遺跡との距離は桜島より2倍も遠い。
火山灰が降るとして、その成分は桜島と開聞岳でどう違うのか。それも知りたい。


記紀の「燃える小屋から火須勢理が飛び出してくる」。
天之忍穂耳から下ればBC100~BC50頃、燃える小屋が火山由来なら年代と位置の推定が可能になる。

景行311-333での13年「襲国を平定して市鹿文を火の国の国造」。
(襲国、現在の鹿児島県曽於郡周辺とみて間違いないと思います)
この記事は火山学の立場からの状況を知り得るかもしれない、という方向でしょう。

景行紀18年では八代海の不知火を以て「火國」としている。
夜空に赤く染まる山、その程度での噴火で十分に「火の国」だと思います。

肥後国風土記逸文では崇神時代に火山噴火を以て「火の国」としている。
一応文献とみておきます(^^;
おそらく雲仙、これも弥生~古墳あたりでの「大規模噴火」はみえないみたい。


山ノ口遺跡(山ノ口式土器)、肝属郡大根占町馬場山ノ口、開聞岳から東へ海を渡った海岸にあります。
調査報告書に
「開聞岳起源の暗紫ゴラの直下に当たることが判明」とあります。
{第二次の開聞岳噴火の時期に環状配石に供献されていた土器群で,優に2000年を越える弥生中期の土器である」
とあって、こちらは決定している。
当時の社会を特徴づける極めて珍しい祭祀とのこと。

この遺跡はたいへんに興味深い。
開聞岳が火須勢理の「燃える小屋」の原因であるなら、火須勢理の時代と場所が推定できるからです。
山ノ口式土器は奄美や沖縄からも出土(海神族も用いていた可能性大)。
加治木堀遺跡も山ノ口遺跡も同年代で同じ文化圏に属す、となります。

火須勢理(彦穂々出見)、火と穂、種子島の宝満神社や浦田神社(鵜草葺不合)の稲とも符合してきます。
また、穀璧のありようの推定にもつながる。

・・火須勢理はこのあたりで生まれたが、火山灰に追われて志布志湾に引っ越し(穀璧)。
だが今度は大津波に襲われて(海幸山幸)、内陸部に引っ越し。
そして鵜草葺不合誕生、種子島で陸稲から水稲への変化・・神武誕生して鹿児島へ(紀元前後頃)。

参考図3 山ノ口遺跡の軽石を用いた岩偶

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

江戸城、大阪城の鎮護

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月15日(土)12時06分48秒 125-31-74-231.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  以前、当地の国指定史跡「隼人塚」の鎮護について
調査していましたが、、

さっき、地震で崩落寸前の熊本城を
タモリさんが散策されてました。
(崩落前の録画でした)

どなたか名城と言われる各地のお城の
鎮護について教えて頂けませんでしょうか。
(東西南北、鬼門、寺院)


○江戸城
○大阪城
○名古屋城
○姫路城

他、ご存じの処で結構です。
ここに繋いで下さい。

宜しくお願い致します。

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月15日(土)06時20分9秒 125-31-74-231.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.389[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)
>
>

ご紹介ありがとうございます。
私はこれを参考にしてページを作成しております。
多分2000年頃の作成かと思います。

隼人探訪==>>隼人抗戦==>>稲積の里

この地は、和気清麻呂が流刑され一年弱居住していた処です。
幕末の志士 坂本龍馬も、新婚旅行の途中訪れています。

絵手紙には近くの「犬飼滝」のことを「蔭見滝」と
音読で記載して紹介しています。

「犬飼」は大分県に地名があります。
多分、隼人抗戦(720年)前後に当地を平定のために移住してきた
方々が居住したのではと推察しています。
この辺りの小字は「中津川」、上流には万膳と云う小字もあります。
どことなく当時の地名が残っているような。。。


☆倭名類聚鈔
☆犬飼滝(いぬかい)
☆高千穂の峯と霧島神宮の大鳥居

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月14日(金)18時12分50秒 125-31-74-231.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.389[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )


神楽らに造詣の深い東京在住の方です

わざをき通信

http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/index.html

凄いリンクです。2000年頃から存じてましたが、
リンク集を南九州ゾーンだけに特化した折、削除してました。
再度歴史探訪にリンクしました。

詳細はお尋ねください。

http://yorihime3.net/

 

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