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Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 2日(日)17時07分43秒 116-94-118-117.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。

割り込みで恐縮に存じます。


> アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。
> すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。
> 起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。
> 出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。
> すなわち蝦夷の神。
> 西日本にはないといってよいです(門客神はある)。
>

秀真伝(ほつまつたえ)は、8世紀、蝦夷が多数、日向へ配流されていますので
伝承は残っていると考えます。
現に当地にはその記録があります。


===>>神社探訪==>>鎮座地別==>>霧島市・国分==>>大穴持神社


で精査途中ですがご覧ください。(一昔前の作成です)


> 古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。

この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に
太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが
由緒等が土砂崩れで流失し、精査を頓挫しています。

一応、御参考になれば幸いです。

☆大穴持神社(国分)

☆太玉神社(福山)

http://yorihime3.net/jisya/onanji.html

 
 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月28日(水)14時59分1秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.368[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。

近津社と第六天社の決定的な違いは、祖先神を祀るか自然神を祀るかであろうと考えています。
近津は諏訪の千鹿頭、これに蝦夷が結合。寒冷化による山岳地域からの南下で弥生末期あたり。
第六天社は開墾と治水であり、千葉側からで。もっとも古い場合でも古墳時代かなあ。
面足尊を祀るのは、書紀の解釈によるもので、そうなるのはむろん書紀が一般化してからで平安中期以降。
自然神を祀る場合は、人間の技術の発達で消えやすくあるいは変化しやすいと思います。

myHPに関東開拓と第六天神をアップしてあります(暫定書きかけ)
myHP近津神社と日本武尊も再アップ

関東で最古の可能性のあるのは天日鷲命。
天火明命の随伴者・・土佐(田村遺跡)-阿波-尾張-関東が存在するならBC100頃、物部氏(の祖)を含む。
水稲(農耕)はなさそう、布と紙。手工業品ですね。
参考図1 酉の市 この紋所は千葉氏でしょう(七曜星もある)(酉の市の風習は関東からだと思います)

古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。
酉の市の起源は足立区花畑(旧花亦村、伊興古墳群)の大鷲神社ともされる(myHP江戸名所図絵と神社散策の鷲神社)
日本武尊も祀っています。
だが、こちらは祖先神であって開拓とか第六天社とつながるとは考えにくい。

書紀の書く自然神ライクは埴山姫と迦具土命、そこから登場のクラオカミ神(≒水神)などか。
書紀では自然神はあいまい、神代三代目から七代目(伊弉諾いざ見尊)は夫婦神。
夫婦であるなら、そこから自然神が誕生とは考えにくい。
だから・・書紀は伊弉諾尊が独り神としてから、不可思議手段で何人かの神々を誕生させた。
このあたりは書紀編纂者の苦しいところ(^^;

だから、開拓と治水をひっくるめた自然神を意味するとして「伊弉諾伊弉冉尊以前」が登場した。
ま、書紀解釈の問題でもあり、当然ながら書紀が一般化して以降のことだと思います。
これに類似は菊理姫と白山信仰だと思います。
こちらは縄文の山岳信仰と書紀解釈の結合なのだと思います(後に修験とも結合)。


関東で明確に開拓が登場するのは、雄略だと考えています。
関東到来だけであるなら、豊城入彦命と日本武尊(AD320頃)ですが、これは開拓ではなく出雲系譜の征圧。
信濃の古文献の仁科濫觴記に崇神の末太子の仁品皇子の到来記事(記紀にはみえない)。
おそらくは垂仁273-311の子の豊城入彦の縁者を書いたものと推定。

碓氷峠の東に貫前神社があります。経津主命と姫大神を祀る。
姫大神は養蚕機織の神とされるのが興味深い。おそらくはこちらが最初の御祭神ではないか。
この社の周囲は高地性集落であり、戦闘を意識していたとみえる。
だれと誰の戦闘か・・古墳時代初期、寒冷から南下する諏訪の千鹿頭系譜と関東平野側のだれか(平安中期に経津主命に変化)の可能性あり。

そして雄略456-489時代。
埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄剣銘文(雄略471とみる)。
東京都足立区の伊興遺跡群(古墳群)(縄文~古墳)。縄文海進で海没していなかった地域の最南端です。
さて、雄略の祭祀はいかに。

伊勢外宮の豊受大御神は社伝によれば雄略時代とみえる。祖先神かどうかは不明なれど食物神ではある。
外宮の境内社に土宮と風宮、他に月夜見宮があって、なーんとなく自然神っぽいであります。
東京湯島天神の本来の御祭神は手力雄命(雄略縁起)。
ここから谷の向こう側には上野台地があり出雲系譜が濃厚、その監視の社であったと推定。

この後しばらく情報途絶。
男大迹王と磐井王の内戦、半島情勢の緊迫化。
天武673-685に至るまでの王朝の混乱によって関東への行動が断絶していた時期とみています。

正倉院文書の下総国大嶋郷戸籍AD721に孔王部。
おそらくは安康(穴穂天皇)-雄略時代の開拓民の子孫だと思います。
雄略の開拓民が下総台地の西側を北進した結果が稲荷山古墳鉄剣に連なると推定。


近津社の分布は猪苗代湖以南かつ関東平野で、現在の利根川より南の千葉側にはありません。
すなわち東北縄文の流れの存在した地域(蝦夷でもある)に近津社がある。
(東京で青森の亀ヶ岡土器が出土しています)

ちょっとずれますが
参考図2 門客神を祀る社の全国図 神奈備さんの採録されたもののそっくりコピーです。
ただし、一覧表は関東だけを抜き出しています(赤印がアラハバキの痕跡あり)。

アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。
すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。
起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。
出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。
すなわち蝦夷の神。
西日本にはないといってよいです(門客神はある)。

関東平野に多数あるようにみえますが、ほとんどが氷川社です。
氷川社は本来は近津社であって、延喜式以降に御祭神を素戔鳴尊に変更してグループ化した社と考えています。
その後に有力化したためにアラハバキの痕跡も残った。
その他の近津社もそれぞれの考えで千鹿頭を(書紀記載の)御祭神に変化させたが、非力でアラハバキの痕跡は消えた。

猪苗代湖の南に味耜高彦根命を祀る社が数社あります(myHP近津神社と日本武尊)
おそらくは小規模でグループ化して味耜高彦根命を祀る、とした社であろうと考えています。
近津社の北限かもしれない(諏訪の影響力の北限)。


さて、
下総国倉麻郡意布郷戸籍AD721では藤原部がほとんどを占める(千葉県我孫子市付近)。
王朝の混乱が落ち着き藤原姓が登場する元明707-714あたりの開拓民じゃないかな。
関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。
そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。
藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国)

藤原秀郷(俵藤太伝説)AD900頃、の祖は不明とされますが文献的には藤原部AD721でいいんじゃないかな。
奥州藤原氏もここからの一族。
藤原秀郷は騎射の始祖とされますが、おそらくは蝦夷の騎射を取り込んだのではなかろうか。

AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。
対蝦夷の拠点としてです。
東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。

そして、書紀は手力雄命より強そうな武甕槌命を創作する(^^; (自然神ライクから祖先神登場は不自然)。
おそらく経津主命も。こちらは穏和な神として(鹿島は北向き、香取は南向き、祭殿の向きが逆です)。
利根川の北側(常陸国)、蝦夷と王朝の抗争(接触)はまずはここから(坂上田村麻呂758)。


>近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません

参考図3 茨城のちかつ社(細かくやるとちとたいへんなので概略のみ)
現在の利根川(江戸以前の鬼怒川と小貝川)沿いにある「ちかつ」は一社を除き猿田彦命。
これより南(すなわち千葉県)には「ちかつのち」すらでてこないのです。
(近津で面足尊を祀る社は茨城県の北浦東岸≒太田市)

面足命を祀る社は一社を除き級長津彦命を祀るのが興味深い。
風の神のようですなわち自然神。この地域が強風の地域かどうかは知りませんけど雷の多い地域ではあるようです。

すなわち現在の利根川以南(千葉側)には「蝦夷」はやってきていない。
鹿島神宮が北を向いている理由でもあります(香取は温厚で南を向く)。
茨城南部の「ちかつ」は平安中期頃には制圧され、社名変更ないし御祭神の変更がなされた(強制的の可能性あり)。
北浦の近津+面足尊は鹿島からの開墾の流れを受けて御祭神の変更があったものではないか・・

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月27日(火)08時57分52秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.368[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> かたばみさんへのお返事です。
>
>  近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡
>

 近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません。(平成祭りCD)

 また、この三社は同じ町にあり、二社は勧請されたものでしょう。

 そうすれば、近津と惶根尊とは、たまたまの組み合わせでできたとも考えることができます。

 結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月25日(日)19時45分14秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.367[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 惶根尊と近津神社

 茨城県の場合

 全ての本社と摂社は2468+932=3400社

 惶根尊を祀る神社は本社摂社含めて19社。 0.55%
 一方、チカツ神社は本社摂社含めて16社。  0.47%
 共に、希な祭神であり、神社名です。

 近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡

 この3社は共にppmの単位の中での出現は奇跡的と言えます。
 何らかの関係がありそうですね。




 

第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月21日(水)22時17分26秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  第六天神を祀る理由のチェックをぼちぼちと。
伊弉諾尊伊弉冉尊神話の島生みでは、淡路島、四国、隠岐島、.筑紫島、壱岐島、対馬、佐渡島、.大倭豊秋津島。
ただし、隠岐島が隠岐であるなら、これのみ順序的に例外。
すなわち、瀬戸内から九州へ至り、九州から日本海へ、の流れとして書いている。

島生み神話は縄文海退での奈良周辺~瀬戸内~九州に至る縄文人の移動が源流と考えています。
大倭豊秋津島はまとめとして追加されたものか。
壱岐島~佐渡島は半島経由での漂着者(土笛)での、初期農耕の登場を示す。
持論での初期開拓者AD500以降、伊弉冉尊の死による穀物の登場に相応。

平安時代に縄文や弥生といった区分意識はありませんから、区分するなら書紀の書く伊弉諾伊弉冉尊より以前かどうか、だと思います。
書紀における天照大神や素盞鳴尊登場以前の意でもあります。
社の御祭神としては、後世で変化の結果、というのも少なからずとは思いますけれど。


関東の場合だと、濃密に分布するのは縄文海進で海、縄文海退で陸地化した地域。
徳川幕府の開拓した農地はその地域がほとんどを占める。ひとつの村に1社あるともいえます(新編武蔵風土記稿)。

いまのところ千葉県の加曽利貝塚と小田原の中里遺跡が関東での最古の水田痕跡のようで紀元前後頃。
東北の砂沢遺跡(BC300頃)よりはるかに遅く、長野の塩崎遺跡群よりも遅いとみえる。
水稲のはじまりを弥生時代と定義するなら、関東の弥生は紀元前後以降。

武蔵野台地に限定するなら水利が悪く農耕適地なし。縄文遺跡は多数、弥生遺跡はないに等しい。
弥生の開拓者がやってくる理由がなかった、だと思います(武蔵野の森が現代まで残る)。
青森の砂沢遺跡は出雲系の資源探索部隊の開発で近畿より早い可能性あり。
中里遺跡も加曽利貝塚もおそらく出雲系(小銅鐸、近隣に最古型の前方後円墳)。

正倉院文書の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍AD721には、関東平野の半ばが海であったとみえる大嶋郷の住人が詳細に記録されています。
そこには孔王部刀良アナホベのトラや孔王部佐久良賣なんて人物も書かれる。
(葛飾柴又、男はつらいよの山田洋次監督いわく偶然らしいけど)

大嶋郷の住人はほとんどが孔王部アナホベ、安康454-456(穴穂天皇)-雄略456-489で送り込まれた開拓民だと思います。
(安康は倭王済AD440頃~456と推定、允恭から近畿王を簒奪とみる)
この人々がいかなる祭祀をもっていたか不明なれど当時の九州系祭祀ではないか。
雄略の武神は手力雄命=雄略創始という湯島天神の御祭神(鹿島神宮/武甕槌命は平安あたりでの登場)。

景行311-333日本武尊は船橋市付近上陸(入日神社、意富比神社の元宮とされる)。
縁起に日本武尊が天照大神を祀ったというが、これはありえない。
相殿に萬幡豊秋津姫(天之忍穂耳尊の妃)と天之手力雄命あり。こちらが本来の御祭神であった可能性少なからず。
日本武尊の祭祀は雄略と類似と推定(伊勢外宮の豊受大御神は雄略の創始とされる)。

文武697-707浅草付近の隅田川に「浮嶋牛牧」登場。
万葉集3387に、「葛飾の真間の継橋」が謡われています(下総の国府、真間の入江、千葉県市川市)。
慈覚大師(円仁)が860頃に隅田川に牛御前社(素戔鳴尊)を造立(新編武蔵風土記稿、現在の牛島神社)。
平将門の乱939 武蔵、下総。

更級日記(1000頃)にて下総の市川から太日川(旧利根川)を渡って武蔵~東海道へ向かう道が登場。
千葉氏の祖の平常長が下総に登場1050頃。
源頼朝が千葉氏の支援で隅田川を渡る1180、これを謝して牛御前社に領地を奉納。


この流れの中に第六天神の登場があるのではないか。
縄文海退後の東京湾は千葉県側からの開墾と見えます。

伊弉諾尊伊弉冉尊以前は自然神だと思います(三代目からは夫婦神で書紀の意識も微妙ではある)。
書紀が一般にも読まれるとすれば平安後期あたりと思います。
開墾と治水、これの成就を祈願するとしたら、自然神を祀るだと思います(水に特化すれば水神様でもある)。
書紀の神話時代は時間軸の概念がない、区分するなら穀物登場だと思います。
そこから登場するのが「伊弉諾伊弉冉尊以前の神」、代表させての面足尊と惶根尊ではないか・・

関東の近津社(千鹿頭)は関東平野の山岳に添っており縄文が濃密で狩猟系でしょう、諏訪が源流で紀元前後以降。
関東の第六天社は千葉側に源流があるのではないか。これも紀元前後以降。
(ひょっとすると千葉県側の近津社は・・)
平安時代となってさらに後の戦国時代、関東平野の支配者となるのが千葉氏-北条氏-徳川氏。
その農地開拓の流れに乗った信仰。
(徳川幕府は北条家臣だった武士を開拓村の指導者としている)


参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる)
野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし)
若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命
宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神~伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊~神武
檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊~伊弉諾尊伊弉冉尊 その他

鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。
いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。
ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 女神の御神像

 投稿者:宮本634  投稿日:2016年 9月21日(水)21時31分36秒 em111-188-2-154.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  > No.365[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

2年前に登ったんですか!元気ですね!
酒殿神社から丹生都姫神社までの歩かれた道は三谷坂または勅使道ともいい世界遺産目指しているようです。
昔は三谷坂からそれて、丹生都姫が降臨された滝まで行く道があったと思うのですが、あのきれいな滝が三谷坂から見えるようになるとすばらしいんですがね。地元の人でなければ絶対気づかないのでもったいないです。ちなみに、三谷は、丹生都姫が降臨された「御瀧(みたき)」がなまって「三谷」となったと言う伝承があります。
そう言えば、先日大河ドラマで「九度山」の「九度」が「空海さんが母上のおられる慈尊院に九度会いにきた」ことから「九度山」と出てましたが、九度山町史を読んだ記憶が正しければ、昔は「九度」ではなかったような気がします。丹生氏には、昔そこで「くど(かまど)」を作ったことから「くど山」と名づけられたと伝承が残っています。話し言葉も地名も時代に伴って変わっていくので難しい分野です。私にはなかなか入っていけない分野です。
しかし、丹生明神、厳島明神、気比明神の像を作った目的はなんだったのでしょうかね?どうして高野明神の像はないのでしょうか?気になるところです。
私は、最後に念願の秩父にて丹治氏を調べて、丹生氏の謎解きを終えようと思っています。何年かかるかわからないんですけどね。とりあえず来年あたりから(^^;)またいろいろとご教授ください。<(_ _)>

 

Re: 女神の御神像

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月19日(月)20時55分10秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.364[元記事へ]

宮本634さんへのお返事です。

> 神奈備様、ご無沙汰しております。

こちらこそ御無沙汰です。ご投稿、ありがとうございます。

「高野山麓 祈りのかたち」は4年前に行われた特別展でしたね。見学したと思いますが、この女神像には注意をはらっていませんでした。ありがとうございます。
 その2年前に、酒殿から天野まで歩るきました。その道筋が境内全部と言うか、参道だったとは実に広大な神域です。

 鉾立岩がありました。神跡でした。

 

女神の御神像

 投稿者:宮本634  投稿日:2016年 9月18日(日)23時16分35秒 em114-49-8-17.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  神奈備様、ご無沙汰しております。
先日、神奈備様もご存知?の三谷薬師堂でこんな記事を見つけました。↓
http://kenpakunews.blog120.fc2.com/blog-entry-539.html?sp
丹生都比売、気比明神、厳島明神のご神像の木型が、丹生氏の本拠である三谷の薬師堂で見つかったそうです。丹生酒殿神社にあったのもが、神仏分離で薬師堂に移されたのだろうと。
ちなみに、丹生都比売神社と丹生酒殿神社とはどう言う関係であった説明しますと。丹生都姫が三谷に降臨し、何百年かの後、応神天皇の時代に、山上の天野にご神体をお遷しし、酒殿神社が里宮、丹生都姫神社は山宮となります。通常人々は丹生都姫神社には行かず、神主がいる酒殿神社から拝みました。紀氏も代替わりの時はこの酒殿神社に参拝しました。古代においては現在の丹生都姫神社から酒殿神社までが丹生都姫神社なのです。しかし、空海さんが高野山に来てから変わります。空海さんが丹生都姫神社を祭り、山宮であった丹生都姫神社は建物が増え、高野山真言宗の神事がどんどん増えました。また、平氏の時代に気比明神、厳島明神が勧請され、ちょうどこの頃、現丹生都姫神社では、丹生氏の神事の年4回?に、真言宗の神事が足され、年50回以上となり、神主さん達は三谷から移住し、丹生総神主は天野に単身赴任すると言う形になりました。丹生氏で、「天野は親が祭る宮、三谷は子が祭る宮」と言われるのはこのためです。
このように、丹生都姫神社は高野山の影響が強くなり、それと違い酒殿神社は高野山の影響が少ない状況となります。そのためか、丹生都姫神社で祭られている気比明神と厳島明神は酒殿神社では祭られていません。では何故「酒殿神社にあったものが神仏分離の時に薬師堂に移されたらしい」のか?酒殿神社は丹生都姫神社の遥拝所で関係は密接ではありますが、気比明神と厳島明神は酒殿神社とは関係ないのに何故?私の見方は違います。三谷薬師堂はもともと昭和の初期まで丹生氏(今苗字は変わっています)の所有で、神事においても重要な場所だったので、もとからここに神像の木型があったと見るほうが、なんかぴたっとはまる感じがします。まあ、真実は分かりませんけどね。
たまにネット上で、丹生都姫神社はどうして北向いてるの?って言う記述を見ますが、私は単純に「自分たちを見守ってほしい」との祭る人々の思いから、人々の住んでいる里宮のある三谷をむいているんだと思います。例えば家の中で神棚を後ろ向きには祭らないですよね。必ず自分たちがいる家の中向きに祭りますよね。それと同じだと思います。
私はそれより、何故何百年もたってから三谷からあえて不便な天野に神様をお遷ししたのか?「北から攻めて来たときに、南に逃げるために天野にお遷しした」との伝承もあるが・・・。酒殿神社の神事は今はなくなっていますが、もともとここで行っていた神事は丹生氏本来の神事であり丹生都姫に由来する神事で、丹生都姫を知る上で最も重要な神事であったことは疑いのないことであり、明治の世襲制廃止による神事の消滅は悲しいことだったと思います。昔8月に丹生都姫神社の池に魚を放つ神事が、酒殿神社の縁起に出てきます。明治ぐらいに丹生都姫神社の春と秋の大事な神事が8月にまとめられたことがありましたが、これは神事を減らす上で8月の神事のほうが重要だったと思われます。それらからすれば、8月の神事は実は丹生都姫が天野に鎮座したのが8月だったことを表しているのかも知れません。今は酒殿神社にも丹生都姫神社にもこの神事はありません。
古い神事はその神様がどういう神様なのかを想像するのに非常に重要で、古い神事を継承できている神社は非常にすばらしく、うらやましい神社だと言えます。
神奈備様 ながながと書いてしまいました。申し訳ありません。<(_ _)>
またいつかお会いしお話できればいいですね。



 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月16日(金)07時37分31秒 116-94-238-133.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。


>
> 江戸では新編武蔵風土記稿がメイン。編纂は幕末ではありますが明治維新の影響を受けない記録で貴重です。
> (目がかすんできましてCD化を期待(^^; )
> しかし、当時でさえも隅田川の築堤や江戸川改修など徳川家康時代であろう事象の記事がない。
> 江戸初期ではまだ公式の記録所ももなく、大名による記録も明暦の大火で失われたのかもしれません。
> 編纂時の250年も昔のことですし、江戸川の名称由来すら不明(江戸時代に開削された川なら明快)。

江戸の神社探訪ガイドありがとうございます。
楽しい興味津々のお話し
いつもありがとうございます。

私は、地元の寺社探訪もなかなか捗りません。
由緒繋がりで、前出の諏訪大社や稲荷神社関連を調べている程度で
現在は地元だけで手一杯です。

このサイトやかたばみさんのサイトのデーターを参考にして
また神社探訪に精を出しましょう。

昨夜は十五夜でした
7時から1時間程河川敷で眺めていましたが
残念ながら、雲が多くて、、、

今朝3時半、西方の空に満月を。。
そしていつもの公園に5時過ぎまで。。
西の山影に沈む満月を撮ろうと思ってましたが
生憎雲が多くて、、、隠れてしまいました。

しかし、目を凝らすと、満天の星空でした。
なんか救われました。。
風も爽やかでした。


http://yorihime3.net/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月15日(木)22時44分17秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.361[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>結局のところ、江戸末期の「三国名勝図会」と「国分諸古記」を

江戸では新編武蔵風土記稿がメイン。編纂は幕末ではありますが明治維新の影響を受けない記録で貴重です。
(目がかすんできましてCD化を期待(^^; )
しかし、当時でさえも隅田川の築堤や江戸川改修など徳川家康時代であろう事象の記事がない。
江戸初期ではまだ公式の記録所ももなく、大名による記録も明暦の大火で失われたのかもしれません。
編纂時の250年も昔のことですし、江戸川の名称由来すら不明(江戸時代に開削された川なら明快)。

参考図 第六天社分布図
関東平野には第六天神社が多数ありました(第七天神の一つ前、面足尊オモタルと惶根尊カシコネを祀る)。
その位置からおそらくは、家康による関東平野の開墾時代にその多くが運び込まれたと考えていますが、だれが運んだのか・・
全国に分布して九州にもあるんですよね。
面足神を祀るのは、伊弉諾伊弉冉尊より古いという意味だろうと考えています。
すなわち縄文に遡る・・

しかし、明治維新後では伊弉諾伊弉冉尊より前を祀ることはありえないという当時の論に従い、また仏教の第六天魔王と重ねられることを嫌って呼称や祭神が変更されています。
myHP江戸名所図絵と神社散策の榊神社、高木神社、胡禄神社、おおざっぱな探索でも三社も残る。
(榊神社の解説の別項参照)
うちのすぐ近所にもあったのですが、20年ほど前には近くの氷川社の境内に移されて消えていました。
明治維新前にははるかに多くが(全国に)存在したとみていますが、未だに未解決の社となっています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月15日(木)02時57分11秒 116-94-240-119.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.360[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

馬のリハビリでも
泳いでます。

見学はこちらからどうぞ。

競争馬の故郷

http://uma-furusato.com/


> 理詰めじゃない、とみておいてよいのかも。
>

神社探訪の動機は、
今から70年前の小学生の頃
氏神様は稲荷神社なのですが
江戸末期生まれの祖母が「おみょうけんさ~」(妙見様)
と云っていたので聞いたことがあるのです。。

返事は「昔からそう云うからよ」

でした。

何故だろうと、、、それからの謎解き、探偵ごっこ。。

史資料も一点では当たりが弱いので2,3あればいいのですが
当地の場合、明治初年の廃仏毀釈で公開されている史料は少ない。
それさえも識者に「偽物」とレッテルを張られては。。
どれを信用すればいいやらで。。

結局のところ、江戸末期の「三国名勝図会」と「国分諸古記」を
片手に探訪に勤しんでいます。

当時の公家や武家の日記らも参照にしています。
(今は、中右記、小右記、御堂関白記 ら)
http://yorihime3.net/info_books.html

もちろん、バックデーターとしては、公開されてる
「埋蔵文化財報告書」で確認します。

これが目下の私のスタンスです。

縄文時代の犬や馬の話題がありましたので、
当地の遺跡らをご紹介しました。
これらの詳細は、県の埋蔵文化財でお尋ねください。

上野原縄文遺跡のページにリンクがあります。

☆鹿児島神宮「初午祭り」の馬踊り

http://yorihime3.net/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月14日(水)21時48分53秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  今井よりさんへのお返事です。

馬が泳げば海の馬、タツノオトシゴ。

先の小型馬の分布は山岳やジャングルにみえます。
大型の馬は灌木が繁る場所では「逃げ足」が効かず、小型だった品種が生き残ったという論がどこかにありました。
妥当なところと思っています。


昔々、フィリピンまで魚を獲りにゆく物好きな漁師がおりました。
魚が捕れず海岸の村でひと休みしていると、みたことのない動物がこっちをみてヒヒーン。
物好きな漁師は村人に頼んで一頭わけてもらいました。

ほほー、力持ちじゃないか。
丸木舟屋の親父が舟を海岸まで運ばせてみたのです。
もう一頭ほしいな、今度は雌馬で。

理詰めじゃない、とみておいてよいのかも。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月14日(水)07時04分50秒 110-54-107-92.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。

古代から中世にかけては、
当地は、御承知のように「僻地」
峻険な山地が多いですから
牛馬は重要な担い手、
祭祀されている神々からも推察できます。
馬頭観音や馬櫪尊神など。
現在でも春祭りは賑やかですよ。

牛馬は、昭和の終わりまで山間部(棚田)では
農耕に従事してました。
今でも棚田は、時々見かけますが
大半はハンディータイプの農機具でしょうか。
数年前、人力のマンガを曳いて、、
暫く拝見してましたら、、
その後暫し談笑を。

馬は結構泳ぎが得意ですよ。
遠泳をしたかは、、
鹿や猪はニュースになります。

最近は、牛馬は、当地のような田舎でも
滅多に見かけません。
牧場にでも足を運ばないと。。

しゃんしゃんと鈴や鉦を鳴らし踊り
南国に春を呼ぶ「初午踊り」は
南九州の春の風物詩です。


http://yorihime3.net/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月14日(水)01時28分9秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.354[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>農業の近代化で役目を終わり

東南アジア系の小型の馬が列島に運ばれたとして、いつ頃になんのために、ですね。

滇(テン)、春秋戦国に遡り得る雲南省の国。滇王之印が出土し漢委奴国王金印に類似。
You tube知られざる文明、滇(てん)王国など参照。
この人々の生活を写した「貯貝器」が興味深い。
馬に乗る人物があります。

以下myHP長江流域の初期文化から引用
BC3300頃、長江中流域に屈家嶺文化、銅鉱石と銅片、甕棺あり
同じく良渚文化、巨木列柱あり、金属器なし
同時期の山東半島南部の大ブン口文化から良渚製の玉が出土

BC1400頃、洞庭湖やポーヤン湖周辺に青銅器王国登場
青銅器が単体で周囲に遺跡などがない山頂、山麓、水辺に埋められている。
深さ1m程度で周囲には細砂や黒っぽい黄土を詰めている
春秋戦国の「楚」はこの風習を引き継いでいるようで、山東省泰安(泰山南方)でも類似風習がある。

参考図 騎馬文化の造形
さて、滇(テン)王国の馬、造形的には小型にみえます。
漢より早い時代に馬に乗っている可能性あり。
(鐙アブミが中国で登場は西晋時代でまずは片側のみ、馬に乗り降りするときのためとみえる)

さーて、列島に馬がもたらされたとするなら、いつ、どこからなんの目的で・・
運ぶ手段は双胴船なら可能と思います。
沖縄に双胴サバニあり(フィリピンまで漁に出ていたそうな、海洋博での情報だったと思うけど)

南西諸島で馬が必要だったか??
南九州で縄文末期に馬が必要だったか??
わかりませーん(^^;

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月13日(火)21時19分9秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.352[元記事へ]

とみたさんへのお返事です。


魏志韓伝高句麗に
其国東有大穴、名隧穴、十月国中大會迎隧神還於国東上祭之、置木隧於神座

高句麗の東とは日本海、そこにある隧穴とは鬱陵島のこととみています。
(鬱陵島には洞窟がたくさんあって観光地になっている)
参考図 半島と日本海概略図
いつの頃かはなんとも言い難しですが、鬱陵島が日本海の海人の拠点になっていたと考えています。
(ちなみに10月は始皇帝が年始としている、出雲では神在月)

海流や季節風などがどうかはありますが、島根-隠岐-竹島-鬱陵島-半島東海岸(濊?)の航路は十分あり得ると思います。
鬱陵島あたりで荷物の受け渡しをしたかもしれない。
半島東海岸なら「倭国の見張り」は及ばず、その点で安心。

魏志韓伝の弁辰にて、国出鉄、韓濊倭皆従取之、諸市買皆用鉄・・
韓、濊(ワイ)、倭、は名指し(韓は馬韓や辰韓と思う、要は伽耶周辺国)。
伽耶から入手できなくても濊からなら入手可能(後に高句麗支配下)。
出雲側の対価はなにか、穀物でなんとかなったのではなかろうか。
ま、足下をみられて法外な値段をふっかけられたと思うけど(すなわち国内の鉄資源の探査)。


考古学での弥生前期とか中期というのは「そう規定する」の意で絶対年代じゃない。
また考古学は「物の歴史」どまりで「人の歴史」にはならないのが苦しい(記紀などとのジョイントがない)。
(絶対年代ではないので、離れた場所での事象とのリンクも取りにくい、各地域での編年とのずれ)

持論では土器編年など相対年代ではなく、絶対年代で考えています。
マーカーは箕子朝鮮崩壊BC194(素戔鳴)と呉楚七国の乱BC154(天之忍穂耳)です。
これ以降では記紀などに書かれる系譜(人脈)と書紀年代の復元をすりあわせて絶対年代を構成しています。

したがって、素戔鳴と天之忍穂耳の仮定が間違っていれば崩壊します(^^;
いまのところ崩壊はないですけど(^^)

四隅突出墓は弥生中期以降とされますが、持論では大国主以降(AD30頃以降)なんてことになります。
大風呂南(その周辺=若狭)は大国主の国譲り以降の神武朝時代に樂浪と交易。
奈良出雲陥落AD239以降で若狭の氏族は「天孫」に恭順して古墳時代に入る(ガラス釧は首長の伝世品を副葬とみる)。
そんな流れとなります。
(ただし・・恭順に不満を持つ人物もいた、彦坐王の子の沙本毘古王の反乱ですね)

自慢は「人の歴史」を10年程度の誤差範囲で考えることができること。
物語を作ることができる、でもあります。
ただし絶対年代のマーカーがない素戔鳴以前では、自然環境や春秋戦国からの避難者、といった程度の仮定しかできないのでおおざっぱになります。
縄文になると、アカホヤ火山灰など地質年代がベースになるので少なくとも数百年以上の誤差になります。

年輪年代法はミスさえなければ絶対に近いけれど、土器の焼成年代を50年程度の誤差で判定できるようになることを期待しています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒と住吉 4/e

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月13日(火)19時36分52秒 125-31-87-137.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

> 3.住吉三神の住吉への鎮座三題
>
> 『日本書紀』 神功皇后元年
>  表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて曰く。吾が和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながを)に居さしむべし。そうすると徃來する船を見守ることができる。そこで、神の教えのままに鎭坐していただいた。
>

こんばんわ。いつも楽しく拝読しています。
ちょうど、熊襲の征伐命令を出した時ですね。

そうすると、住吉三神は日向の橘におられたのですよね。
現在の宮崎の住吉神社の創建ということに。。。

この住吉神社ですが、橘三喜が参詣した時は
日向大地震の後で、社殿は流失していたようです。
以前、父と参拝した時
宮司さんが、古文書が流失して由来が判らないのですよ。
と残念がっておられました。

住吉大社と島津忠久  そして 何の因果か「熊襲」と
繋がるとは。。。

歴史は摩訶不思議。。

だから面白くて止められない。

http://yorihime3.net/jisya/sumiyoshi_miyazaki.html

 

生駒と住吉 4/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月13日(火)13時08分46秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3.住吉三神の住吉への鎮座三題

『日本書紀』 神功皇后元年
 表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて曰く。吾が和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながを)に居さしむべし。そうすると徃來する船を見守ることができる。そこで、神の教えのままに鎭坐していただいた。

『摂津国風土記』逸文 釈日本紀六
 住吉と稱ふ所以は、昔、息長足比賣の御世、住吉の大神が出現なされて、天の下を巡り行き、住むべき國を探し求められた。時に沼名椋の長岡の前においでになった。「こはまことに住み良き土地だ。」と仰せられたて、「真に住み良し、住吉國なり」と讃えられた。

『神代記』
 亦、表筒男、中筒男、底筒男の三軍神、誨へて曰はく、「吾が和魂(にぎみたま)は宣く大御榮(おほみさかえ)の大津の渟中倉(ぬなくら)の長岡(ながおかの)峡(を)の國に居さしむべし。便(すなは)ち往來(ゆきかふ)船を看護(みそなは)さむ。 因(かれ)則ち手槎足尼(たもみのすくね)を以て祭拝(いはひまつ)らしむ。難破(なには)の長柄(ながら)に泊(とまり)賜ふ。膽駒山の嶺に登り座(いま)す時、甘南備山を寄さし奉る。大神、重(また)宣(の)りたまはく、「吾の住居(すま)はむと欲(おも)ふ地は、渟名椋の長岡の玉出の峡(を)ぞと。(中略)時に進みて手槎足尼の啓(まを)さく、「今大神の願ひ賜ふ随(まにま)に己が家舎地(いへところ)等を以て、大神に寄さし奉らむ。」とまをして已(こと)了(をへ)き。即、大神の住み賜ふこと御意(みこころ)の如くなるに因りて、住吉(すみのえ)の國と名を改め号(まを)し、大社を定めたまひき。(中略)時に皇后、「吾に代りて齋祀奉(いつきいはひまつ)らしむるに、手槎足尼を神主となせ。」と勅(のら)し賜ふ。

『船木等本記』 筑紫より難波の長柄に依り坐して、大神、御言を以て宣たまはく、「吾は玉野國なる大垂海(おおたるみ)・小垂海(等(こたるみたち)に祀所拝(いつきまつ)られむ。」と宣りたまひて、膽駒の嶺に結行(いでま)しき。即、是の人等(たち)を奉仕(つかへまつ)らしめ給ひて、大御社に奉れるなり。

 鎮座地は、大津の渟名椋の長岡の玉出の峡と形容される地である。この意味は、「港に面した聖地の長い岡の美しい尾根」と解釈できる場所で、本居宣長が摂津国菟原郡住吉郷とした。元住吉神社の地である。ここから現在地に移転したとしている。しかしここでは生駒山との関連が見えぬくい。宣長は『神代記』を見ていないので、やもうえない。
 山根徳太郎氏は渟名椋を立派な倉庫と解して、難波津に求めたが、渟名椋とは神の鎮まる聖なる場所と見る方が一般的である。長い岡とは上町台地のことで、現在地はその付け根に当たり、坐摩神社お旅所はその先端に当たる。

 神功皇后の時代すなわち三世紀末の頃は社(ヤシロ)とされる建物は造られなかった。祭る際は瑞籬ヒモロギ)を作り、そこへ神を招いて祭りを行う形式だったと思われる。普段は住吉大神は神奈備である生駒山におられたのである。恒久的な 神社建築ができてきたのは七世紀あたりからと思われる。

 上賀茂神社では現在でも北2kmの神山にいる神を呼ぶ神事が行われているが、一方では常駐する神ともされている。それ以前は本殿の後ろは開いており、本殿前から神山を拝めるようになっていた。今は開いていない。住吉大社の本殿も西を向いているが、これは海路を見守っていると云うよりは、生駒山に居る神々を拝むように配置されているのかも知れない。

 『神代記』は生駒山への強いこだわりと云うか、愛着を持って書かれている。
 生駒山は、古代王権の大舞台である瀬戸内海と河内と大和を眺められる山で、かつ河内と大和を隔てる壁でもあった。

以上
 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月12日(月)03時43分54秒 125-31-86-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.353[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

ご丁重に長文で
ご教示頂いて感謝致します。


馬の情報について
平成10年頃でしたか、
当地の「初午祭り」関係で
少々調べました。
一応、当地の情報をお知らせ致します。


○ご指摘のように南西諸島では交配もあって
在来種は無くなったようです。


○開聞岳の野生馬「トカラ馬」に関しては説明板に

南西諸島の一つ中ノ島に共生して
農耕らに従事していた在来種。
農業の近代化で役目を終わり
昭和39年ここへ移された。

とあります。


ご指摘のように、日本の在来種として
北海道・根室市の無人島ユルリ島と
對馬馬として長崎の對馬に居るようですが
詳細は判りません。


○出水貝塚の馬について


☆縄文早期及び中期から, 後期の中葉に及ぶ遺跡
  馬遺物は後期に出土

☆馬は矮小であつて, トカラ馬と大さ殆んど等しく,
  体高110cm前後と考えられる.

☆飼育馬の埋葬

とあります。


「貝塚」としてのイメージは、
中学生の頃の社会科以来「ゴミ捨て場」でしたが、、

縄文時代は「神聖な場所」でもあったようで
目から鱗でした。

結構、丁重に埋葬されていたようで
祭祀道具の欠片も出土していたとか。。

垂水市の縄文犬に関してもしかり。。

当地には「縄文貝塚」や「遺跡」が
多数あるのですよ。
幼い頃は結構土器片もあったのですが、、
当時にタイムスリップしたいものです。
(平成に帰郷してから知ったのです。
当時は単なる土器片としか。。。)

また、戦国時代の馬は小さかったと聞いています。
なんでも今のポニー程度とか。。
そう言えば、担いでいる挿絵を見たような。。。
現に当地の中世の磐城の「切通」は、一応馬が通ったようです。
そう幅広ではありません。
当初はこんな狭い処をと思ってましたが。。。

どこかに剥製でもあると嬉しいですが。。


ここで、馬具の鉄鋳造らについて知識を頂きましたので
今後の精査の糧にしたいと存じます。
ありがとうございます。




http://yorihime3.net/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月11日(日)23時38分45秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.349[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>出水貝塚から縄文早期~中期 で出土しています

参考図 アジアの小型中型馬の分布 日本古代文化の探求/馬/社会思想社/森浩一編集

トカラの馬は東南アジア系の小型馬の流れとみえます。
奄美~八重山の小型種は現在では交雑して古形はないらしい。
森浩一氏は出土物には攪乱されている場合があるので要注意と述べられています(食糧とされた骨が埋めらるなどですね)。

時重初熊(獣医学者)が分類した記録1889だと
重馬:南部馬、秋田馬、華岡馬(場所不詳)
中馬 仙台馬、三春馬(たぶん福島県)、最上馬、蝦夷馬
軽馬 鹿児島馬
小馬 沖縄馬 隠岐馬 土佐馬 五島馬 対馬馬

この時代では列島では在来馬だけらしい。
隠岐にあるのが興味深い。離島ゆえに残ったのだと思います。
小型馬を運んだのは南西諸島系海人じゃないか。東シナ海系海人ではないとみるところ。
弥生の北九州の甕棺には大量の副葬品がありますが、馬関連の出土はひとつもないからです。
(甕棺=出雲系譜かつ大己貴系(東シナ海系)のもの、とみています。きっぱり(^^; )

半島南岸にも小型がある、この馬は神武朝が怪しい。神武北上で小型馬が荷駄を背負って随伴・・
対馬の弥生後期では車馬具や馬鐸出土ですが、騎馬に使われた様子はありません。

魏志倭人伝には牛馬なしとある。食べられてしまったのだと思ってます、マジです(^^;
倭人伝に末廬国から伊都国に至る道は草ぼうぼうで前が見えないとあります。倭国の表玄関の道が、です(AD240頃か)。
倭国が疲弊して草刈りすらできない状況だったのだと考えています。
寒冷化による食糧不足に加えて、卑弥呼による九州以東への出兵による疲弊。
飢饉多発で牛馬を飼育するゆとりなどなくなっていたとみるところ(新羅本紀に倭人が飢饉で逃げてきた193などあり)。
参考図 気候変化概略 安田喜憲の花粉分析などによる

素戔鳴の起源とみる箕子朝鮮~BC194には車馬具出土、ただし騎馬はみあたらない。
書紀神話に素戔鳴が馬を機織り小屋に投げ込む話があります。
もし、素戔鳴が馬(中型のモンゴル馬)を運んでいても、大切な動物のはずでそんなことはしないでしょう、書紀の創作とみます。

文献で確実なところでは応神紀に百済王が馬二匹を送っています。
古事記では照古王とあるので、おそらくは近肖古王346-374で、七支刀369と同時じゃないかな。
高句麗系の中型馬だろうと思います。小型馬じゃ高句麗の重装騎兵は無理でしょう。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:とみた  投稿日:2016年 9月11日(日)19時53分30秒 124-144-223-141.rev.home.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.348[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
>
> もう少し情報がほしいところです。

かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。



私は、考古学中心で考え、それが記紀、史記などの文献との接点を従として見る立場です。
歴博の報告書で鉄の論考は一応目を通しております。

弥生時代は500年も遡りましたが、揺り戻しもあり、ただいまの年代観は
弥生時代前期末はbc300-350年。
中期初頭はbc250年
中期後葉はbc108年(前漢武帝の楽浪郡成立)、
後期初頭は紀元0年
後期後葉は紀元150年
終末期前半(庄内式古式)紀元後190年~
終末期後半(庄内式新式)紀元後220年~
古墳時代初頭 紀元後250年

と考えています。

鉄は燕の時代の鋳造鉄斧が北部九州に入るのが、戦国時代から前漢時代でしょう。
韓半島の南東部の蔚山達川里に鉄鉱山が見つかりましたのが須玖Ⅱ式土器(中期後半)ですが、まだ鋳造鉄斧を作る技術はなく、楽浪郡の技術(鋳型が出ている)を使われています。釜山の東莱莱城や泗川勒島では鍛造鍛治工房がありそこからは紀元前後に既に鉄の素材を日本に入れていたようです。

本格的には紀元後2世紀に慶州の隍城洞で断面梯形鋳造鉄斧が作られるようになりました。
日本にも輸出するようになりました。
北部九州の福岡の三苫永浦では袋状の鉄斧の一つである有帯鉄斧が作られ始め熊本などを皮切りに全国に広がります。

私のささやかな知識です。
丹後の大風呂南墳墓は弥生時代後期後半とされその前の弥生前期・中期には、三坂や左坂で勢力を張る族がいます。
赤坂今井墳墓は大風呂南の後で後期末か終末期のものですね。


> 田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。

> 交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。
> もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。
> ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。


北部九州ルートでなく響灘経由のルートがあるような気がしますが、自信がありません。
対馬と日本海岸を結ぶルートがあれば出雲と丹後への鉄のルートが肯定できますが。

北部九州の土器(海上運搬具)が西出雲の山持遺跡や古志本郷遺跡に出たり東出雲の隠岐に出たりしているので、北部九州経由も十分あり得ます。

韓国直通と北部九州経由の両建のルートを持っていたのでしょうね。

いずれにせよ楽浪土器と三韓土器の出土地の分析が必要だと思います。
 

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