teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL

スレッド一覧

  1. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


豊玉姫と対馬

 投稿者:とみた  投稿日:2016年 9月 3日(土)14時45分49秒 124-144-223-141.rev.home.ne.jp
返信・引用 編集済
  対馬は津島でたくさんの入江=津があります。港が開けています。
対馬は、北西部の三根湾、南島と北島の間の浅茅湾、東北部の比田勝、南島東側の厳原が時代によって栄えます。


西側の津は勒島や巨済島へ向かうルートでしょう。東北側の津は慶州や金海に向かうルートでしょう。

福岡大の武末純一先生によれば、弁辰の鉄は金官伽耶の茶戸里や慶州の隍城洞から出て対馬三根湾・山辺地区や壱岐のカラカミ(唐神)遺跡に入ったのではないかとのことです。

北部九州の奴国は中広形銅矛や広形銅矛を対馬にたくさん贈っています。
鉄がほしかったのでしょう。海上運搬には海神(綿津見神)族を使います。

対馬には海神を祀る豊玉姫縁のワタツミ神社がありここが安曇族の本拠なのでしょう。和多都見神社 - 長崎県対馬市豊玉鎮座
和多津美神社 (壱岐市) - 長崎県壱岐市郷ノ浦鎮座
和多津美神社 (豊玉町) - 長崎県対馬市豊玉町仁位字和宮鎮座

玄界灘の入り口=奴国の玄関口の志賀島にも豊玉神をまつる志賀島神社がある。


朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
播磨の大平遺跡にこの鉄斧が伝わります。播磨一ノ宮のある揖保川流域です。ここが竜野です。
ここは伊和神社があり、出雲系鉄神と伽耶・新羅系鉄族の天日矛が争います。

かたばみさんによれば兵主神社が多いところだそうです。

出雲街道が米子から新見ー津山を経て佐用を通り、竜野を経由しますし、鳥取市因幡の千代川を遡れば竜野にもこれます。

銅鐸の兵庫県宍粟市一ノ宮の閏(ウルウ)賀銅鐸が発見されたところです。

この銅鐸は神戸市桜ヶ丘8号銅鐸が祖先です。

竜野の名前の由来はどうでしょうか。

豊玉姫は龍伝説を持っています。

竜野は東出雲の祖である野見宿禰が亡くなった地であり、宿禰神社があります。


 
 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 9月 3日(土)09時40分47秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.325[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

先日も船についてレスをいただいたのですが、私がかたばみさまに釣り合う知識もなく
お返事できずにすみませんでした。

> 初心者さんへのお返事です。
>
> >「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説
>
> もう少し掘り下げてみたいところです。
> タラシを遡れば孝昭105-137の子の、天足彦国押人と孝安137-175の日本足彦国押人があります。
> (数字は持論による即位年代)
> 二人は天と日本が異なるだけで同じ、なにかあると思ってますが、思ってるだけ(^^;
>
> 二人の母は尾張連の祖の娘(妹)の世襲足姫(たぶんタラシの初出)。
> 尾張連の祖は天火明命。旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
> 「足タラシ」の本来は「帯」だと考えています。帯の結び方などに特徴ある氏族じゃないか。

世襲足姫がタラシに初出というお話は興味深いです。
個人的に「襲」の字のつく人物に興味があるので、「襲」とタラシのコラボはワクワクします。

「帯」については、私の聞いたお話は、字ではなく「タラシという音」に注目されている印象でした。
「垂」表記についてもいわれていましたが、なにしろ、雑談でしたので。
でも、帯の結び方と言えば、影姫とシビの悲恋の記紀歌謡を思い出します。
「大君の 御帯の倭文幡 結び垂れ 誰やし人も相思わなくに」
武烈天皇は残念ながらタラシはつきませんし、全く関係のないレスですみません。
これからも、色々とご教示下さいませ。

 

生駒と住吉

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月 3日(土)08時50分50秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  住吉大社の鎮座と生駒山について少し考えたいと思います。

1.住吉の神の足跡


『日本書紀 斉明紀』元年夏五月の記事。
空中で竜に乗る唐人に似た者がいて、青い油の笠を着て、葛城嶺より馳せて肝駒山に隠れ、午の時に、住吉の松嶺の上から西に向かって飛び去って行った。

 住吉大社の鎮座地は長岡の前とあり、微高地であり、松嶺と呼ばれていたのだろう。

 これに似た話が、『住吉大社神代記』(以下、『神代記』と略す。)に、住吉大神が昔鎮座していた山を巡る話として記載されている。
 以前。大神、所顕坐(あれまし)処、并(なら)びに御名を注顕(しる)すこと右の如し。
右、大神、飛鳥の板盖(いたぶきの)宮に御宇(あめのしたしろしめ)しし天皇の御世の始に、夏五月庚午、宣り賜はく。「吾が山を巡検(めぐりみ)賜む。」と宣り賜ひて、即ち御馬に乗り賜ひ、油笠を着賜ひて、兄乃山より葛城嶺・膽駒山に馳せ到り賜ひて、午時を以て住吉に馳せ還り御坐(いま)して、御飯酒を聞食(きこしめ)す。(以下略)

 住吉の神は先ず、紀伊国伊都郡の背の山(畿内の南限)に現れ、葛城・生駒を経由して現在地に鎮座したようである。神功皇后の大和への足跡を示しているのかも知れない。
ここでは、生駒から直に住吉へ駈けていることに注意。

 

Re: 生駒について

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 2日(金)20時42分55秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  続きの持論:

天孫降臨は二人で2ヶ所。瓊々杵は九州西海岸、天火明は東海岸。
天火明は尾張(濃尾)へ進出(旧事本紀)。
そのとき随伴した複数の人々が物部氏の祖。
多くが海運者、その他は手工業者と武人。物部氏の祖は単一の人物ではないと考えています。

天照国照彦火明櫛玉饒速日命・・
饒速日と称する場合は後の大豪族となった物部氏が「祖を高貴なる人」とするために天火明と重ねたものとみています。
天火明(彦火明)とする場合は天孫の天火明を意味する、と解しています。

書紀が神武東征説話で天磐船と神宝を書きながらもも「饒速日という謎の人物」としているのは、神武以前に東国に天孫が存在していては神武東征説話が成立しなくなるからに他ならず。
ウエツフミ36綴7章でも饒速日を火明命であり天之忍穂耳の子と明示、臼杵の河内山に天降としています。
(臼杵ウスキが大分県の臼杵かどうかは? 河内山は熊本など各地にあり)

さて、天火明の降臨はBC130頃とみています(素戔鳴と天之忍穂耳の渡来理由からの逆算)。
孝昭105-137(九州東岸と推定)とはおおよそ250年ほどの差、この間に神武と出雲のありようの問題がありますが、略。

天火明の子孫の尾張の世襲足姫が孝昭に嫁いで、天足彦国押人と日本足彦国押人を生む。
神武 36- 66~懿徳 92-105は出雲との混合王朝であり、孝昭105-137に天孫降臨時代の天火明の系譜に戻す意図があったと考えています。
(その後の孝霊175-204、孝元、開化は「倭根子」(倭の祖先と解す)の尊称に変わります)
倭国争乱の始まり(北九州)でもあり、卑弥呼登場でもあります(日向宮崎)。

さて、ここまでの流れに世襲足姫に海人の意味があるとすれば、物部氏でしょう。
すなわち「足」とは天火明の子孫尾張連に発するもので、それが若狭に継承されたと考えています。
(尾張では奈良の出雲勢力下で消えたと見る、朝日遺跡などの変化)

若狭の日本海系氏族(大風呂南遺跡など)、記紀にみえてくる人物では彦坐王(ヒコイマス、母は意祁都比賣)。
(天足彦国押人-彦姥津命-姥津姫(意祁津姫、彦坐王の母とされる)

ここで書紀は彦坐王を開化225-248の子としてますけど・・大嘘とみてます(^^;
意祁津姫あたりで開化に彦坐王をはめこんだだけ。
「意祁」が海人系譜を示すと考えています。
すなわち若狭で「足」「帯」天火明系と「意祁」日本海系海人が結合した・・

下って継体507-530の妃に尾張連の娘の目子媛があり、安閑宣化の母とされる(持論では敏達も同じくとみる)。
これも尾張と若狭の結合あるゆえの嫁取りだと考えています。

彦坐王の孫の日葉酢姫と垂仁273-311の子が景行311-333で「足」。
足(帯)タラシだけの場合は天火明の末裔(尾張-若狭)の流れを意識した用法だろうと考えています。
「意祁≒気長≒息長」の場合が海人系を意味する(隠岐、壱岐も意祁からの変化とみる)。

神功皇后説話の息長帯比売はおそらくは実在で若狭だとみています(彦坐王のひ孫)。
すなわち息長(海人)と帯(天火明)の結合氏族の子孫。
ただし、神功皇后説話は記紀の創作であって、女帝まがいの皇后(神功360-386)は存在しないと考えています。
応神は仲哀の子とされますが・・これも嘘とみてます。七支刀369の銘文の倭王旨と「若狭のだれか」の子・・倭王五代へ。

神功皇后説話で浮上するのが住吉三神。
伊弉諾尊の禊ぎで、海面、海中、海底からうまれたとされますが・・
弥生初期以降での日本海(底)、瀬戸内(中)、太平洋(表)の海人を意味すると考えています(底と表は逆かもしれない)。
(縄文にまで遡れば大綿津見神、ここからの分化でもあります)

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒について

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 2日(金)20時35分34秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.324[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

>「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説

もう少し掘り下げてみたいところです。
タラシを遡れば孝昭105-137の子の、天足彦国押人と孝安137-175の日本足彦国押人があります。
(数字は持論による即位年代)
二人は天と日本が異なるだけで同じ、なにかあると思ってますが、思ってるだけ(^^;

二人の母は尾張連の祖の娘(妹)の世襲足姫(たぶんタラシの初出)。
尾張連の祖は天火明命。旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命。
「足タラシ」の本来は「帯」だと考えています。帯の結び方などに特徴ある氏族じゃないか。

確定できるような物証はありませんから、いろいろな方面からの複合になるので、以下毎度長文になります。

籠神社(真名井神社/豊受大神、若狭湾)による海部氏系図では始祖を彦火明命とする。
勘注系図参照
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
(天火明と饒速日の解釈が私とはちょっと違いますけれど)

籠神社の縁起は天火明の子孫が尾張から関ヶ原、琵琶湖を経て若狭に進出したことによるとみています。
物部氏の奉斎を受けてなにがしかの変化をしたのが現在の籠神社だと考えています。
(物部のうちの海人を濃くする、すなわち海部でもある)

応神386-402の名前の交換の気比神宮(気比大神/御食津神)も若狭湾にある。
日本武命ヤマトタケル-息長田別王-杙俣長日子王-息長真若中比売と弟媛(どちらも応神の妃となる)、
景行311-333の子は「無数」にいます。婚姻による各地の豪族と融和するのが目的と考えています。
ヤマトタケルもそれを継承、ひ孫の息長真若中比売の「息長」はその結果だと考えています、日本海系氏族(海人)との結合です。

気比神宮も籠神社に同じく物部氏の奉斎の流れにあると考えています(気比大神/古事記、笥飯大神/書紀)。
気比は書紀の表記の「笥飯」が本来を示すと推定、食糧をいれる竹製の器(四角?)ですね。
籠神社の籠と同じ、こちらは円形で魚介類メインか、神紋はカゴメ紋)。
どちらも手工業製品です、すなわち「物の部」が関与していた社とみています(加えて海人としての物部→海部)。
ただし、こちらは記紀の神功皇后説話(息長帯比売)によって有名となり、記紀内容に準じた変化が大きいとみています。

気比神宮の北に剣神社があります(素戔鳴尊、気比大神)。
おそらく籠神社や気比神宮と同列の社。
下って織田信長の祖先は剣神社の神官という論がありますが妥当とみています(尾張と若狭のつながりを示す)。

剣の呼称がいつからかわかりませんが武人にからみそう。
旧事本紀/天神本紀に降臨に随伴する人物が多数書かれますが、「兵杖を帯びる者」は武人でしょう。
稲荷山鉄剣の「杖刀人」も同じと思います(雄略456-489時代での表現か)。
天火明の随伴者の物部(海人、手工業者、武人)のうちの武人の奉斎を受けたのが剣神社の由来かもしれない。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 8月30日(火)20時20分57秒 p795074-ipngn200903fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.323[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 初心者さんへのお返事です。
>
> 異名同神はいろいろあり、興味深いところもありますが、これは風聞とあえてことわっている所から、あまり真剣に考える問題ではないかもしれませんね。紹介しておいて、無責任なことで、申し訳ない。

とんでもありません。興味深いです。


> 前田晴人さんは、住吉三神として、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇をあげていました。ともに、「足」 と「彦」が共通の連続した天皇達で、第四殿が仲哀の皇后である神功皇后であることも傍証になっているのかも。
>
>  これも、お話しとしては、面白いのですが、果たして・・・どう思います。

神功皇后もタラシヒメですから、全員「足」がつくというわけですね。
ヒメはヒコと対の言葉ですし。
「足」がつく人々は船や海運と関係がある一族であるという説を聞いたことがあるので、
それを思い出しました。
 

Re: 生駒について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月30日(火)20時08分0秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.322[元記事へ]

初心者さんへのお返事です。

異名同神はいろいろあり、興味深いところもありますが、これは風聞とあえてことわっている所から、あまり真剣に考える問題ではないかもしれませんね。紹介しておいて、無責任なことで、申し訳ない。

前田晴人さんは、住吉三神として、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇をあげていました。ともに、「足」 と「彦」が共通の連続した天皇達で、第四殿が仲哀の皇后である神功皇后であることも傍証になっているのかも。

 これも、お話しとしては、面白いのですが、果たして・・・どう思います。
 

Re: 生駒について

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 8月29日(月)11時36分32秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.320[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>  河内の平石に磐船大神社と言う磐座が点在する神社があります。近くに高貴寺があり、神仏習合時は寺の鎮守であったようです。この高貴寺に伝わる『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。住吉三神の一柱である底筒男命とは物部の遠祖である饒速日尊であると言う内容です。


天磐船に乗り降ったニギハヤヒが、底筒男命という海と航海の神と同じであるという伝承は興味深いです。
初めて聞きましたが、どこかほかにも同様の伝承はあるのでしょうか。

天磐船、天鳥船、鳥磐楠船、天鴿船などが、同様(類似)の船であったとしたら
「楠」の産する地域で造られた船だろうかと考えたりしています。
(ニギハヤヒの故郷もまた、楠が生えていた暖地だったのだろうかとも)

 

生駒について

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月25日(木)19時32分57秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   河内の平石に磐船大神社と言う磐座が点在する神社があります。近くに高貴寺があり、神仏習合時は寺の鎮守であったようです。この高貴寺に伝わる『河内高貴寺縁起』に、「風聞には当所、底筒男命、『旧事本紀』に言う饒速日尊、自ら天降りて御座す。岩船明神是也。」と書かれているのです。住吉三神の一柱である底筒男命とは物部の遠祖である饒速日尊であると言う内容です。  

Re: 10年前のログ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)22時34分1秒 116-94-118-166.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.318[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 今井よりさんへのお返事です。
>
> 出の山の神社 でしょうか。お父上とご一緒の。


どうも有難うございます。
父同伴でした。
懐かしさの余りアップしました。

神武、応神、仁徳、、、

日向から嫁がれた妃

もう、一昔前。

早いもので、、
 

Re: 10年前のログ

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月22日(月)20時29分12秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.317[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

出の山の神社 でしょうか。お父上とご一緒の。
 

10年前のログ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)15時36分31秒 202-226-242-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  ちょっとマイページを見直していたら
06年10月30日に「霧島六所権現巡拝」の時の「泉長媛」がヒットして
ここのログが出てきました。
懐かしい。。
あの頃は、史資料も揃ってなくて図書館通いでした。
あれから精査も余り捗っていないのは残念ですが、、

また、のんびり巡拝したいものです。

http://yorihime3.net/

 

Re: 奄美の「あいのこ」

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月22日(月)13時02分6秒 202-226-242-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.315[元記事へ]

琉球松さんへのお返事です。

>  奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
>  これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。

> 画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」

船の写真ありがとうございます。
小学校の登校路には川(新川・天降川)があって渡し舟でした。
当時渡し銭は5円でした。橋を渡ると3倍以上の周り道なのです。
往路は、良く遅刻しそうになるので重宝してました。
川船ですから、底も平だったように記憶してます。

http://yorihime3.net/

 

奄美の「あいのこ」

 投稿者:琉球松  投稿日:2016年 8月22日(月)09時28分40秒 ai126184025183.15.access-internet.ne.jp
返信・引用 編集済
   奄美大島と徳之島では、いわゆる「あいのこ」と呼ばれる小型船が活躍していました。
 これは、船底が平な本土型和船と、鋭利な形の沖縄型サバニの利点を合わせたタイプですね。
 見た目にはサバニとよく似ていますが、和船の安定性とサバニの直進走行性能がうまく合体されています。

 ちなみに、近隣の喜界島や沖永良部&与論は沖縄糸満や久高島漁師の影響が強いと言われ、サバニが利用されてきました。名称についてはジャワ島などの「サンバニャン(船の意味)」や、「鯖船」など諸説あります。

画像は、奄美大島の「あいのこ」と、神事で使用される沖縄島南部奥武島の「サバニ」
 

和船 復活へ

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月21日(日)07時11分0秒 114-142-123-114.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  先日、隼人の船で話題沸騰でしたが、、
今朝、「播磨船」の復活のドキュメントを見ました。

初夏、種子島や奄美の和船の船大工特集を。

あちこちで継承が進んでいるのは嬉しい限りです。

月が欠けてきました。

http://yorihime3.net/

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月19日(金)16時14分57秒 110-54-24-250.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。

早速のご教示ありがとうございます。

>
> >此伊勢津彦と云は建御名方神の亦名にて
> >即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
> >事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
> >傳への誤なるべし。
>
> 本居宣長さんの見当違いと(^^; ほぼ正しい、の複合だと思います。
> いつ、どこで、だれが、なにをしたか、これを混濁して記紀(付随して風土記)を解釈していることに原因ありと思います。

もう少し解釈を読んでみます。


>
> 南九州に建御名方あるいは諏訪社がある不思議、私もなぜ?の疑問を持っていました。
> 韓国宇豆峯神社にからむ可能性はありますが、南九州でのその登場はずっと近世の事象とみております。
> 島津氏の登場にからむ、荘園時代~鎌倉時代。
> 島津氏には信濃島津氏があります。

吾妻鏡 巻七

文治3年 丁未(1187)
8月8日 丙子


に記載があります。

神代と異なり、この時代なら史資料があるから
助かります。


また、当地の「島津家文書」にも
尚、私の頁をご参照ください。

http://yorihime3.net/mado/shimazu_suwa.html




>
> 持論
> 建御名方はいつの時代の人物か・・大国主の子であると仮定すればAD30頃。
> なにゆえ諏訪へいったのか、ほぼ追放(^^;
> 大国主の穏健政策(神武への国譲り)に反対して徹底抗戦しようとしたから。
>
> 出雲の神在月に建御名方はやってこない。諏訪をでることを禁じられていたから、追放者だから。
> 建御名方はどこにいたのか。周防と推定しています。
> スハ、州波が原型であり、諏訪の地名はここからきていると考えています。

追放者でしょうね。

其の後、隼人や蝦夷も朝廷と抗戦し
多数配流されていますが
激しく抗戦した首領は、見せしめの公開処刑を。

その点、建御名方は救われてますね。

ご多忙の処ありがとうございます。

http://yorihime3.net/

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 8月19日(金)16時09分23秒 aa031065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。


 、『播磨国風土記』揖保郡条によの伊勢野の話 山麓に神社を建て、「山上の峰にいる伊和大神の御子である伊勢都比古の命と伊勢都比売とを祀った。」との記事があります。伊和大神とは伊和神社の神で、延喜式では、伊和坐大名持御魂神社と言う名の神社で、これは伊和狼と大名持御魂神とは同じ神と言っていることになり。伊勢都比古と出雲建子神が同じ神ということで、建御名方神と等しいように取れます。
 ただ、伊勢国の伊勢津彦は「大風四起,扇舉波瀾.光曜如日,」の状態で伊勢を去っており、この姿には、日神・風神の姿が浮かびます。
 信濃の建御名方神に、日神のイメージよりは蛇神のイメージに思えます。

 いつも思うのですが、名前の大きく違う神々を同じ神だと見なすのは、野次馬的には面白いのですが、信仰されておられる方々には迷惑な話かもしれません。

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 8月19日(金)15時46分38秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.310[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>薩摩藩には多数の諏訪神社が鎮座しています

>此伊勢津彦と云は建御名方神の亦名にて
>即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
>事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
>傳への誤なるべし。

本居宣長さんの見当違いと(^^; ほぼ正しい、の複合だと思います。
いつ、どこで、だれが、なにをしたか、これを混濁して記紀(付随して風土記)を解釈していることに原因ありと思います。

南九州に建御名方あるいは諏訪社がある不思議、私もなぜ?の疑問を持っていました。
韓国宇豆峯神社にからむ可能性はありますが、南九州でのその登場はずっと近世の事象とみております。
島津氏の登場にからむ、荘園時代~鎌倉時代。
島津氏には信濃島津氏があります。

持論
建御名方はいつの時代の人物か・・大国主の子であると仮定すればAD30頃。
なにゆえ諏訪へいったのか、ほぼ追放(^^;
大国主の穏健政策(神武への国譲り)に反対して徹底抗戦しようとしたから。

出雲の神在月に建御名方はやってこない。諏訪をでることを禁じられていたから、追放者だから。
建御名方はどこにいたのか。周防と推定しています。
スハ、州波が原型であり、諏訪の地名はここからきていると考えています。

淳名河比賣(奴奈川媛)は大国主の妃とされますが、その場所は?
糸魚川周辺に淳名河比賣があるようですが、後世での大己貴の別名表記による錯綜とみています(このあたりは後日)。
大己貴の子である可能性もなくはないけれど、この時代(BC170頃)では諏訪へ移動する理由がない。

綏靖/淳名川耳、淳名はどこにでもある汎用の地名でしょう。
年代的に位置的に、神武の子の綏靖は北九州の淳名川の生まれかもしれない。
大国主の妃の淳名河比賣の出自と同郷かもしれない(神武と大国主はほぼ同時代)。

いつ、どこで、だれが、なにをしたか、記紀の記述をどこまで信じるか、ですね。
古事記の書く武甕槌に敗れて諏訪へ逃げた、という「事象」には源があるけれど、というわけです。
(武甕槌は書紀の創作とみています、天孫系譜の本来の武神は手力雄だとみています)

myHPの別図に近津社と日本武の図をおいておきます(暫定)。
諏訪の建御名方は関東において重要な役割をしていると考えています。
建御名方の子とされる千鹿頭の行動です。建御名方と諏訪縄文の子。
洩矢神=諏訪縄文≒ミシャグチ神。
当初はやってきた建御名方と抗争したのが洩矢神、後に和睦(諏訪の神官の守屋氏へ)。

糸魚川河口の縄文の寺地遺跡に環状木柱列があります。諏訪の御柱に直結する縄文の森林信仰と考えています。
(おそらく三内丸山の巨木柱も同じでしょう)
諏訪の北東に和田峠遺跡があります。黒曜石の大産地です。
縄文ではこれを中心に各地と交易していたと思います(伊豆七島の神津島も黒曜石の大産地)。
糸魚川の翡翠もむろんです。

弥生では黒姫山の褐鉄鉱。海人の安曇氏の資源探査で発見と推定(BC100以降か)。
これが穂高や安曇の地名由来となる(穂高神社にお船祭りあり)。
建御名方が諏訪に「追放」となったのは、鉄資源を含めてのことであり、単なる追放じゃないとみています。
(諏訪氏の起源にも注目)
蛇/ものと人間の文化史32で吉野裕子さんがミシャグチは黒姫山の褐鉄鉱の赤い川を意味するとされてます。


さて伊勢津彦が諏訪へ脱出したのはいつか。
可能性は天火明の尾張への到着時BC130頃か、「開化東征」での奈良出雲制圧時AD239でしょう。
天火明時代では諏訪は縄文の人ばかりでちと無理がある(逃げるなら東海あたりのほうがずっと良いでしょう)。

鎌倉時代、頼朝が関東で挙兵する。
このとき、関東一円に存在する近津社(千鹿頭)の信仰に注目しないはずはない(氷川社含む)。
近津社の起源の地、諏訪を味方につければ関東一円を味方にするのに同じ。
信濃島津氏の源流はここにありとみています。
ひょっとすると薩摩の島津氏より古い起源を持つ。
南九州に建御名方や諏訪社が少なからずあるのはこれにあると、今は考えています。

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月19日(金)09時24分26秒 202-226-242-80.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.307[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。


伊勢國風土記逸文 に

次のような記述があります。

======

伊勢國風土記逸文

伊勢國號 [其一]
 [伊勢國風土記云]
 夫伊勢國者,天御中主尊之十二世孫-天日別命之所平.
 始,天日別命,神倭磐余?天皇,自彼西宮,征此東州之時,
相隨天皇到紀伊國熊野村.于時,隨金烏之導,入中州而到於菟田下縣.天皇敕大部日臣命:
「逆黨膽駒長髓,宜早征罰.」亦敕天日別命曰:「國有天津之方.宜平其國.」即賜標釼.
 天日別命,奉敕,東入數百里,其邑有神,名曰-伊勢津?.天日別命問曰:
「汝國獻於天孫哉?」答曰:「吾覓此國,居住日久.不敢聞命矣.」
天日別命,發兵欲戮其神.于時,畏伏?云:「吾國悉獻於天孫,吾不敢居矣.」
天日別命令問云:「汝之去時,何以為驗?」?云:
「吾以今夜,起八風吹海水,乘波浪將東入.此則吾之卻由也.」
天日別命,令整兵窺之.比及中夜,大風四起,扇舉波瀾.光曜如日,
陸國海共朗.遂乘波而東焉.古語云:「神風伊勢國,常世浪寄國.」者,蓋此謂之也.


伊勢津?神,逃令來往信濃國.


 天日別命,懷柔此國,復命天皇.天皇大歡詔曰:
「國宜取國神之名,號-伊勢.」即為天日別命之封地國,
賜宅地于大倭耳梨之村焉.
 或本云,天日別命,奉詔,自熊野村直入伊勢國,殺戮荒神,
罰平不遵,堺山川定地邑.然後,復命橿原宮焉.
 譯註:標釼者,象?天皇之劍也.天皇雖不與天日別命同往,
而賜標釼,示以統帥之職委其命也.



底本?冷泉家本『万葉集註釋』卷第一,八一番歌條
參本?前田家本『釋日本紀』卷二十三「神風伊勢海事」條
神宮文庫本『日本書紀私見聞』「神風伊勢卜云事」道祥本三丁裏
北畠親房『元元集』卷第六「伊勢國桑名野代宮」條

======

これについて

本居宣長は古事記伝十四巻で

・・・・・・

今思ふに
此伊勢津彦と云は
建御名方神の亦名にて

右の故事は
即建御雷神の、建御名方を攻め追ひたまへる此段の
事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、
傳への誤なるべし。

・・・・・・

又、今伊勢外宮のわたり
かの高倉山のつずきなる高神山と云に
客神社とてあるは
建御名方神を祭れりと、神宮の書にあり。


=====

としていますが、、、

http://yorihime3.net/

 

Re: 建御名方の科野への敗走

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 8月18日(木)13時03分27秒 116-94-236-203.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.307[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。


>
> 母神とされる奴奈川媛命は出雲には見えず、越後ですから、建御名方は越後で育ってから品のに乗り込んでいったというのが、本来の物語ではないでしょうか。

な~るほど、、
そのような観点なら判らないでも。。

信州には鉱物資源とか当時の貴重品の類は
あるんでしょうか?

「みじゃくじ信仰」関連は少々かじりましたが、
ちょっと平安時代以降の史資料を読んでみます。

どうもありがとうございます。

http://yorihime3.net/

 

レンタル掲示板
/25