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生駒と住吉 4/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月13日(火)13時08分46秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3.住吉三神の住吉への鎮座三題

『日本書紀』 神功皇后元年
 表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えて曰く。吾が和魂を大津の渟中倉(ぬなくら)の長峽(ながを)に居さしむべし。そうすると徃來する船を見守ることができる。そこで、神の教えのままに鎭坐していただいた。

『摂津国風土記』逸文 釈日本紀六
 住吉と稱ふ所以は、昔、息長足比賣の御世、住吉の大神が出現なされて、天の下を巡り行き、住むべき國を探し求められた。時に沼名椋の長岡の前においでになった。「こはまことに住み良き土地だ。」と仰せられたて、「真に住み良し、住吉國なり」と讃えられた。

『神代記』
 亦、表筒男、中筒男、底筒男の三軍神、誨へて曰はく、「吾が和魂(にぎみたま)は宣く大御榮(おほみさかえ)の大津の渟中倉(ぬなくら)の長岡(ながおかの)峡(を)の國に居さしむべし。便(すなは)ち往來(ゆきかふ)船を看護(みそなは)さむ。 因(かれ)則ち手槎足尼(たもみのすくね)を以て祭拝(いはひまつ)らしむ。難破(なには)の長柄(ながら)に泊(とまり)賜ふ。膽駒山の嶺に登り座(いま)す時、甘南備山を寄さし奉る。大神、重(また)宣(の)りたまはく、「吾の住居(すま)はむと欲(おも)ふ地は、渟名椋の長岡の玉出の峡(を)ぞと。(中略)時に進みて手槎足尼の啓(まを)さく、「今大神の願ひ賜ふ随(まにま)に己が家舎地(いへところ)等を以て、大神に寄さし奉らむ。」とまをして已(こと)了(をへ)き。即、大神の住み賜ふこと御意(みこころ)の如くなるに因りて、住吉(すみのえ)の國と名を改め号(まを)し、大社を定めたまひき。(中略)時に皇后、「吾に代りて齋祀奉(いつきいはひまつ)らしむるに、手槎足尼を神主となせ。」と勅(のら)し賜ふ。

『船木等本記』 筑紫より難波の長柄に依り坐して、大神、御言を以て宣たまはく、「吾は玉野國なる大垂海(おおたるみ)・小垂海(等(こたるみたち)に祀所拝(いつきまつ)られむ。」と宣りたまひて、膽駒の嶺に結行(いでま)しき。即、是の人等(たち)を奉仕(つかへまつ)らしめ給ひて、大御社に奉れるなり。

 鎮座地は、大津の渟名椋の長岡の玉出の峡と形容される地である。この意味は、「港に面した聖地の長い岡の美しい尾根」と解釈できる場所で、本居宣長が摂津国菟原郡住吉郷とした。元住吉神社の地である。ここから現在地に移転したとしている。しかしここでは生駒山との関連が見えぬくい。宣長は『神代記』を見ていないので、やもうえない。
 山根徳太郎氏は渟名椋を立派な倉庫と解して、難波津に求めたが、渟名椋とは神の鎮まる聖なる場所と見る方が一般的である。長い岡とは上町台地のことで、現在地はその付け根に当たり、坐摩神社お旅所はその先端に当たる。

 神功皇后の時代すなわち三世紀末の頃は社(ヤシロ)とされる建物は造られなかった。祭る際は瑞籬ヒモロギ)を作り、そこへ神を招いて祭りを行う形式だったと思われる。普段は住吉大神は神奈備である生駒山におられたのである。恒久的な 神社建築ができてきたのは七世紀あたりからと思われる。

 上賀茂神社では現在でも北2kmの神山にいる神を呼ぶ神事が行われているが、一方では常駐する神ともされている。それ以前は本殿の後ろは開いており、本殿前から神山を拝めるようになっていた。今は開いていない。住吉大社の本殿も西を向いているが、これは海路を見守っていると云うよりは、生駒山に居る神々を拝むように配置されているのかも知れない。

 『神代記』は生駒山への強いこだわりと云うか、愛着を持って書かれている。
 生駒山は、古代王権の大舞台である瀬戸内海と河内と大和を眺められる山で、かつ河内と大和を隔てる壁でもあった。

以上
 
 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月12日(月)03時43分54秒 125-31-86-40.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.353[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

ご丁重に長文で
ご教示頂いて感謝致します。


馬の情報について
平成10年頃でしたか、
当地の「初午祭り」関係で
少々調べました。
一応、当地の情報をお知らせ致します。


○ご指摘のように南西諸島では交配もあって
在来種は無くなったようです。


○開聞岳の野生馬「トカラ馬」に関しては説明板に

南西諸島の一つ中ノ島に共生して
農耕らに従事していた在来種。
農業の近代化で役目を終わり
昭和39年ここへ移された。

とあります。


ご指摘のように、日本の在来種として
北海道・根室市の無人島ユルリ島と
對馬馬として長崎の對馬に居るようですが
詳細は判りません。


○出水貝塚の馬について


☆縄文早期及び中期から, 後期の中葉に及ぶ遺跡
  馬遺物は後期に出土

☆馬は矮小であつて, トカラ馬と大さ殆んど等しく,
  体高110cm前後と考えられる.

☆飼育馬の埋葬

とあります。


「貝塚」としてのイメージは、
中学生の頃の社会科以来「ゴミ捨て場」でしたが、、

縄文時代は「神聖な場所」でもあったようで
目から鱗でした。

結構、丁重に埋葬されていたようで
祭祀道具の欠片も出土していたとか。。

垂水市の縄文犬に関してもしかり。。

当地には「縄文貝塚」や「遺跡」が
多数あるのですよ。
幼い頃は結構土器片もあったのですが、、
当時にタイムスリップしたいものです。
(平成に帰郷してから知ったのです。
当時は単なる土器片としか。。。)

また、戦国時代の馬は小さかったと聞いています。
なんでも今のポニー程度とか。。
そう言えば、担いでいる挿絵を見たような。。。
現に当地の中世の磐城の「切通」は、一応馬が通ったようです。
そう幅広ではありません。
当初はこんな狭い処をと思ってましたが。。。

どこかに剥製でもあると嬉しいですが。。


ここで、馬具の鉄鋳造らについて知識を頂きましたので
今後の精査の糧にしたいと存じます。
ありがとうございます。




http://yorihime3.net/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月11日(日)23時38分45秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.349[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

>出水貝塚から縄文早期~中期 で出土しています

参考図 アジアの小型中型馬の分布 日本古代文化の探求/馬/社会思想社/森浩一編集

トカラの馬は東南アジア系の小型馬の流れとみえます。
奄美~八重山の小型種は現在では交雑して古形はないらしい。
森浩一氏は出土物には攪乱されている場合があるので要注意と述べられています(食糧とされた骨が埋めらるなどですね)。

時重初熊(獣医学者)が分類した記録1889だと
重馬:南部馬、秋田馬、華岡馬(場所不詳)
中馬 仙台馬、三春馬(たぶん福島県)、最上馬、蝦夷馬
軽馬 鹿児島馬
小馬 沖縄馬 隠岐馬 土佐馬 五島馬 対馬馬

この時代では列島では在来馬だけらしい。
隠岐にあるのが興味深い。離島ゆえに残ったのだと思います。
小型馬を運んだのは南西諸島系海人じゃないか。東シナ海系海人ではないとみるところ。
弥生の北九州の甕棺には大量の副葬品がありますが、馬関連の出土はひとつもないからです。
(甕棺=出雲系譜かつ大己貴系(東シナ海系)のもの、とみています。きっぱり(^^; )

半島南岸にも小型がある、この馬は神武朝が怪しい。神武北上で小型馬が荷駄を背負って随伴・・
対馬の弥生後期では車馬具や馬鐸出土ですが、騎馬に使われた様子はありません。

魏志倭人伝には牛馬なしとある。食べられてしまったのだと思ってます、マジです(^^;
倭人伝に末廬国から伊都国に至る道は草ぼうぼうで前が見えないとあります。倭国の表玄関の道が、です(AD240頃か)。
倭国が疲弊して草刈りすらできない状況だったのだと考えています。
寒冷化による食糧不足に加えて、卑弥呼による九州以東への出兵による疲弊。
飢饉多発で牛馬を飼育するゆとりなどなくなっていたとみるところ(新羅本紀に倭人が飢饉で逃げてきた193などあり)。
参考図 気候変化概略 安田喜憲の花粉分析などによる

素戔鳴の起源とみる箕子朝鮮~BC194には車馬具出土、ただし騎馬はみあたらない。
書紀神話に素戔鳴が馬を機織り小屋に投げ込む話があります。
もし、素戔鳴が馬(中型のモンゴル馬)を運んでいても、大切な動物のはずでそんなことはしないでしょう、書紀の創作とみます。

文献で確実なところでは応神紀に百済王が馬二匹を送っています。
古事記では照古王とあるので、おそらくは近肖古王346-374で、七支刀369と同時じゃないかな。
高句麗系の中型馬だろうと思います。小型馬じゃ高句麗の重装騎兵は無理でしょう。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:とみた  投稿日:2016年 9月11日(日)19時53分30秒 124-144-223-141.rev.home.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.348[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
>
> もう少し情報がほしいところです。

かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。



私は、考古学中心で考え、それが記紀、史記などの文献との接点を従として見る立場です。
歴博の報告書で鉄の論考は一応目を通しております。

弥生時代は500年も遡りましたが、揺り戻しもあり、ただいまの年代観は
弥生時代前期末はbc300-350年。
中期初頭はbc250年
中期後葉はbc108年(前漢武帝の楽浪郡成立)、
後期初頭は紀元0年
後期後葉は紀元150年
終末期前半(庄内式古式)紀元後190年~
終末期後半(庄内式新式)紀元後220年~
古墳時代初頭 紀元後250年

と考えています。

鉄は燕の時代の鋳造鉄斧が北部九州に入るのが、戦国時代から前漢時代でしょう。
韓半島の南東部の蔚山達川里に鉄鉱山が見つかりましたのが須玖Ⅱ式土器(中期後半)ですが、まだ鋳造鉄斧を作る技術はなく、楽浪郡の技術(鋳型が出ている)を使われています。釜山の東莱莱城や泗川勒島では鍛造鍛治工房がありそこからは紀元前後に既に鉄の素材を日本に入れていたようです。

本格的には紀元後2世紀に慶州の隍城洞で断面梯形鋳造鉄斧が作られるようになりました。
日本にも輸出するようになりました。
北部九州の福岡の三苫永浦では袋状の鉄斧の一つである有帯鉄斧が作られ始め熊本などを皮切りに全国に広がります。

私のささやかな知識です。
丹後の大風呂南墳墓は弥生時代後期後半とされその前の弥生前期・中期には、三坂や左坂で勢力を張る族がいます。
赤坂今井墳墓は大風呂南の後で後期末か終末期のものですね。


> 田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。

> 交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。
> もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。
> ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。


北部九州ルートでなく響灘経由のルートがあるような気がしますが、自信がありません。
対馬と日本海岸を結ぶルートがあれば出雲と丹後への鉄のルートが肯定できますが。

北部九州の土器(海上運搬具)が西出雲の山持遺跡や古志本郷遺跡に出たり東出雲の隠岐に出たりしているので、北部九州経由も十分あり得ます。

韓国直通と北部九州経由の両建のルートを持っていたのでしょうね。

いずれにせよ楽浪土器と三韓土器の出土地の分析が必要だと思います。
 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月11日(日)12時16分40秒 125-31-75-102.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.350[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

> ※「狗奴國」=「高(氏)ン國」と認識しています。
> ・「高句麗」建国王「朱蒙」の姓は「高氏」。「高句麗」=「高(氏)グル(仲間)」か、と。
> ・「高…」の姓は関連があるかも、と思います。

早速のご教示ありがとうございます。
これから関連付けて
また精査に勤しみます。

当地の「韓国岳」や「韓国宇豆峯」らの由来も
踏まえて精進致します。

☆16-9-1:韓国岳
古代に噴火で上部が吹き飛んでいます。
えびの高原側から望む
案外、ここから古代は朝鮮が見えたかも?
現在、長崎の普賢岳は時々、近くに見えます。

☆韓国宇豆峯神社
ここから剣神社を勧請しています。

☆居世神社(垂水市)
朝鮮王朝の始祖??

http://yorihime3.net/

 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2016年 9月11日(日)11時56分14秒 p5031-ipad04fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  今井さんへのお返事です。

>「居住地に因んで名を賜う」

韓國===>>高原
改名していますが。

※「狗奴國」=「高(氏)ン國」と認識しています。
・「高句麗」建国王「朱蒙」の姓は「高氏」。「高句麗」=「高(氏)グル(仲間)」か、と。
・「高…」の姓は関連があるかも、と思います。
 

Re: 弥生の鉄器と馬

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月10日(土)13時36分43秒 115-124-133-51.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.348[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> とみたさんへのお返事です。
>
> >朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。
>
> もう少し情報がほしいところです。


こんにちわ。

割り込みで恐縮です。


南九州の「馬」に関して

次にあります。

=====

『日本書紀』巻二二
推古天皇二十年(六一二)
正月丁亥《七》
◆廿年春正月辛巳朔丁亥。

置酒宴群卿。是日。大臣上壽。
歌曰。夜須彌志斯。
和餓於朋耆彌能。訶句理摩須。
阿摩能椰蘇訶礙。異泥多多須。
彌蘇羅烏彌禮麼。豫呂豆余珥。
訶句志茂餓茂。知余珥茂。
訶句志茂餓茂。
知余珥茂訶句志茂餓茂訶之胡彌弖。
兎伽陪摩都羅武。烏呂餓彌弖。
兎伽陪摩都羅武。宇多豆紀摩都流。

天皇和曰。
摩蘇餓豫。蘇餓能古羅破。

宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。

多智奈羅麼。句禮能摩差比。
宇倍之訶茂。

蘇餓能古羅烏。
於朋枳彌能。兎伽破須羅志枳

====

===>>宇摩奈羅麼。辟武伽能古摩。

馬なら日向の駒


○また、発掘遺跡等に関しては
出水貝塚から
縄文早期~中期 で出土しています。
トカラ午サイズだそうです。


○馬具は、近年、福岡の古賀市から
出土してますが、国内産かと
云ってましたがその後どうなったのでしょうか

http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3440/1.html


○以前、お隣、宮崎県でも
宮崎市山崎町の
山崎下ノ原第1遺跡
金 銅 張 馬 具

===>>以前リンクしてたのですが
今日、検索でヒットしません。

○邪馬台国論争で有名な「西都原古墳」でも出土しています。


☆都井岬の日向駒
☆開聞岳のトカラ馬
☆当地のお祭り「初午踊り」

http://yorihime3.net/

 

弥生の鉄器と馬

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 9日(金)19時28分39秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  とみたさんへのお返事です。

>朝鮮では断面梯形型鉄斧が作られますが、これは北部九州には入らず、沖ノ島経由で山陰に入ります。

もう少し情報がほしいところです。
韓半島における初期鉄器の年代と特質
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185003.pdf

なぜかというと、持論にて大国主が九州を神武に譲ったのはAD30頃。
その後、綏靖、安寧、懿徳 92-105、までは神武朝であり、出雲との混合王朝であった、と考えているからです。
すなわち、この時代では出雲は伽耶や樂浪とも交易可能で、鉄の入手もできたと考えています。
田和山遺跡の硯の破片、大風呂南遺跡のガラス釧の輸入です。

出雲は大国主時代(紀元前後)では奈良の開発に成功し大発達中(唐古・鍵など)。
これあるゆえに大国主は九州を神武に譲った。
しかし対馬-伽耶の交易ルートを失うことは想定していなかった。
これをやったのが孝昭105-137、孝安137-175だと考えています。
北九州から出雲を排し半島との交易も遮断した(専有化する)。

困ったのは出雲文化圏、鉄器の使用は困難を極めるようになった。
黒姫山の褐鉄鉱や東北の餅鉄など必死の資源調達。
鉄器は錆びて消滅することもあるでしょうけれど、最後まで青銅剣を使わざるを得ず、武器の差=戦闘力の差は明白になっていたと考えています。
(開化225-248の奈良突入はせいぜいが数百人とみています、それでも制圧されてしまった)

交易ルートのひとつは北九州を通らず、山口県長門あたりから対馬へ密航するルート。
もうひとつは、島根半島あたりから半島東岸の高句麗へのルートです(山陰の四隅突出墓の源はこれにあると考えています)。
ま、しかし、自由に伽耶へ渡れた時代と比せば、鉄や最新文化の導入はできなくなったに等しいでしょう。


古事記に八千矛神が馬に乗って歌を詠むシーンがあります(大国主や大己貴の別名になってるけど)。
鞍と鐙が登場、これが事実とすればこの馬はどこから入手?
魏志倭人伝では牛馬なしとある。
高句麗からだと考えています。

応神386-402頃では百済から騎馬を入手しているはずで、これが山陰経由で蝦夷に渡る可能性あり。
だが、ひょっとしてひょっとすると・・八千矛神の馬は応神の百済系の馬よりはるか昔に蝦夷に渡ったかもかも。
馬具は作れないが繁殖はできた。
南部馬はすでに消滅のようですが(北海道に残滓が残る)、高句麗の馬は残っているのかなあ。
DNA分析はいかに・・

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月 9日(金)09時14分51秒 119-47-51-132.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.346[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

おはようございます。

早速のご教示ありがとうございます。

神社探訪を始めた頃

「保食神」の名称が各神社でまちまち
不思議に思ったものでした。

そして今度は江戸時代の史料らにも。

考えれば、昔は、文盲率が高かったわけで
神社仏閣の方々位が識者。。
お坊さんが重宝されたのも頷けます。


当地の苗字(姓)を暇に任せて
ピックアップしていて
ちょっと面白い現象を発見して
ついほくそえんでしまいました。


明治初期、平民苗字必称義務令で
苗字を名乗るようになります。

江戸時代、当地では「門割制度」があって
防災の要として威力を発揮したようです。

当地の場合、その集落の主に農民には
門割の字を付けたようです。
結構、重なる地域が多いのです。
ある集落は同姓が多くて
過疎地の場合は、皆親戚という処もあります。。

そう言えば、中世の頃にはこんなお話も。

=====

『続日本紀』巻■
延暦九年(七九〇)十一月壬申《十》◆壬申。

外從五位下韓國連源等言。
源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。
各因居地行事。別爲百八十氏。是以。

源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。
故改物部連。爲韓國連。
然則大連苗裔。是日本舊民。

今號韓國。還似三韓之新來。至於唱■。
毎驚人聽。因地賜姓。
古今通典。伏望。
改韓國二字。蒙賜高原。
依請許之。


=====

「居住地に因んで名を賜う」

韓國===>>高原
改名していますが。

ご多忙の処
ご教示ありがとうございます。

http://yorihime3.net/

 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2016年 9月 8日(木)23時18分42秒 p4043-ipad02fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  今井さんへのお返事です。
お目に留めていただき多謝 謝々!

>鹿児島には、中世の「薩摩弁」の辞書がロシアに残っています。
「ゴンザ辞典」。。これで、当時の薩摩弁が判って楽しいです。

江戸末期の坂本龍馬が当地へ新婚旅行に来た折、
近くの「犬飼滝」(いぬかい だき)を
地元民は鹿児島弁で「いんけん だっ」と呼んでいます。
龍馬はそれに充てて「陰見滝」としています。

>===>>ある識者はこれは聴き違い、間違いと。

*これは、聞き間違いではなく其の様に聞こえたのです。

・筑後弁でも「犬=いん」と発音します。
・「飼=けェ」と訛ります。“kai”の母音の二重母音化?
・筑後弁でも「カイツブリ(水鳥)」⇒「けェツグロ」と訛ります。
・「飼の」の意の「の」=格助詞で「ン」に訛ります。
・「滝」=“tak”と閉音化して促音になった?
∴「犬飼の滝」=「いんけぇンだッ」と聞こえた、と。

*薩摩=“?”(sa)投馬(つま)國=南・投馬(つま)國。

・投馬國=“??”(tuma)國=双山国(直訳)=筑肥山地と「水縄連山(耳納山地)」の間の国。
・「對馬國」も同義⇒“??”(tuma)國=双山国(直訳)=上県郡・下県郡。

*鹿児島=土地の人は「かごンま」と。
・“????”(kagon-maeul)=「行った人の村」(直訳)=投馬國の飛び地、かと。

∴薩摩弁と筑後弁は親戚?

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月 8日(木)20時01分33秒 115-124-190-48.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  福島雅彦さんへのお返事です。

> かたばみさん、またまた横レス、失礼します。
>
> >後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。
>  帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。
>
> *倭王 「帥升」は、中国書記官の認識=“shuai-sheng”です。
> ・「倭人」が口述した音価に当て字しています。
> ・これは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=“??”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」であろうと思います。
> *「生口」160人の献上は、曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)からの製鉄技術者であろう、と。
> 時のハイテク産業で最高の贈り物です。
>
> *文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
>

興味深く拝読しています。

鹿児島には、中世の「薩摩弁」の辞書がロシアに残っています。
「ゴンザ辞典」。。これで、当時の薩摩弁が判って楽しいです。

江戸末期の坂本龍馬が当地へ新婚旅行に来た折、
近くの「犬飼滝」(いぬかい だき)を
地元民は鹿児島弁で「いんけん だっ」と呼んでいます。
龍馬はそれに充てて「陰見滝」としています。

===>>ある識者はこれは聴き違い、間違いと。


古代の言語も国際交流となると当て字が多いでしょうから
先生方のお話は勉強になります。

http://yorihime3.net/

 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2016年 9月 8日(木)17時05分43秒 p4087-ipad03fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  かたばみさん、またまた横レス、失礼します。

>後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。
帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。

*倭王 「帥升」は、中国書記官の認識=“shuai-sheng”です。
・「倭人」が口述した音価に当て字しています。
・これは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」=“??”(soe-sang)=鉄上=製鉄王=「素盞嗚尊」であろうと思います。
*「生口」160人の献上は、曽尸茂梨???-???(soe-ssi-mori)=製鉄の頭(かしら=おさ)からの製鉄技術者であろう、と。
時のハイテク産業で最高の贈り物です。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。
 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:琉球松  投稿日:2016年 9月 7日(水)09時30分34秒 ai126188172090.59.access-internet.ne.jp
返信・引用 編集済
  福島雅彦さん、かたばみさへ

 "裴世清は畿内には行っていない" のは、ありそうな話です。
 『魏志』の倭人伝さえ、陳寿は北部九州あたりを取材したに過ぎないかもしれませんね。
 いわゆる「邪馬台国」は、博多あたりのオジさんから聞いた噂をもとに書いたのかも。。。

 ところで、「タラシ」は7世紀初頭あたりではすでに尊称となっていると言うのもアリですね。
 もともと意味はあったはずなのに「足=たりる=十分で豊かな時代」などは、過去の天皇への諡号ですね。
 うがった見方をすれば。。。井沢元彦風に言うと "実はそんな時代ではなかったから" 祟りを恐れた後世の人が与えた名かもしれません(笑)

 あと、若干気になるのは「北」は「比」の誤写だとする説。。。これは同感なのですが、説としては「北狐=ペィコ(矛)」の可能性もありそうです。「銅矛」は北部九州や出雲の男王を擬人化したブランドでしょうか。
 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 7日(水)00時23分47秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  琉球松さんへのお返事です。

>中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね

タラシ外伝ですね。
(隋書の多利思北狐は「北」と「比」の誤写だろうとみています)
新唐書に「用明亦曰目多利思比孤」もあります。
この時代では血脈は薄れて高級ブランド的タラシの尊称になっているかもしれないです。
また、タリシが発音に近いなら、この時代では「足りる」のイメージに近くなっている可能性もあり。

孝安137-175日本足彦国押人と天足彦国押人の流れに筑紫磐井がある、いまのところそう考えています。
書紀では懿徳 92-105-孝昭105-137-孝安137-175-孝霊175-204ですが、先代舊事本紀の天皇本紀ではいささか不可解。
懿徳-孝照-孝安-孝照-孝霊となっています。
「孝照」が二度登場、なんだこりゃ・・書紀のそれとは異なる情報を持っていることがうかがえます。
神武朝の終わりの時代であって、錯綜と混乱があるのでしょう。

後漢書東夷伝107に倭国王帥升の朝貢記事があります。
帥升とは何者か、持論年代にて孝昭105-137の送った使者となります。
神武朝に代わって新王朝が登場したことの報告でしょう。
位置はなんともいいにくいですが北九州ではあると思います。
神武朝が出雲との混合王朝であるのに対し、出雲を排した王朝。すなわち倭国争乱のはじまりです。

この流れが一方では日向宮崎の邪馬壹国へ(孝安137-175、卑弥呼、孝霊、孝元、開化225-248)。
もう一方が書紀にはでてこない北九州の天足彦国押人であり、旧事本紀が書くもうひとりの孝照でもあると考えています。
書紀が日本足彦国押人と天足彦国押人というそっくりの名を書くのには訳がある、といったところ。
その後の倭国争乱で天足彦国押人の系譜の記録は消滅かな。

筑紫磐井は天足彦国押人の末裔であり、おそらくは継体と同じく日本海系氏族(彦坐王)の流れも引く。
母系においては継体と筑紫磐井は縁戚者だと考えています。
で、欽明539-571は筑紫磐井の縁戚者(九州王)であって継体の子ではない。

以下用明585-586目多利思比孤(短命ではない、九州王)、多利思北狐(近畿王)と続くわけです。
敏達572-584は継体の子で近畿王、敏達死去して用明が近畿王兼務、用明に帯同した蘇我氏が物部氏を滅ぼす。
(物部滅亡によって敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できず)
で、書紀は推古と聖徳太子という創作を登場させるわけですが、また機会があれば・・

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

生駒と住吉 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月 6日(火)12時44分35秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   住吉大神に生駒山を神奈備としたのは、垂仁天皇(景行天皇との説あり。)・仲哀天皇の二代の天皇で、熊襲國・新羅國・辛嶋を服従させて帰国、長柄泊から生駒山へ登って献上を宣言した。
 この山の木実や収穫物をもって祭ると、天皇が国を平定し、もし乱すものがおれば、蹴り殺してくれる。
 倭国に日神を出すのは船木の遠祖の大田田神である。この神が造った二隻の船は生駒の長屋王の墓の側に石船を、白木坂の三枝(さきくさの)墓(聖徳太子の御子の三枝王か)に木船を納めてある。
 カラクニに大神が渡られた時に、乎理波足尼命(神主津守氏の祖)は生駒山の榊を以て迹驚岡(福岡の住吉神社)の神を降ろし祭った。時に恩地の神(八尾の恩地神社)がやって来て鎮座した。毎年の春と秋に墨江に通う。これにより猿の往来が途絶えた(猿楽の交流か)のはその印である。母木里と高安國との間に諍石(いさめいし)がある。大神はこの山に堅く誓って、「草焼く火あり、木は朽ちるとも、石は久遠(とは)に期(ちぎ)らむ。」と云われた。原田修氏は、東大阪市と八尾市とのほぼ境界を頂上に延長した所にある巨石群の三間石山巨石遺構(奈良県生駒郡平群町櫟原字三石)と見ておられる。

 さて、住吉の神々が生駒山を神奈備山としていたと云う物語であるが、現在の住吉大社の位置から見れば、真東は高安山や信貴山であり、生駒山系の南端に当たる。生駒山最高峰を真東とするのは大阪城付近である。有力な式内社としては、坐摩さんや生魂さんである。
 この内、坐摩さんについては、『神代記』に、以下のように書かれている。

猪加志利乃神ゐかしりの)神。、二前。一名爲婆天利(ゐばてりの)神、(元、大神居坐(ましまし)て。唐飯所聞食(からいひきこしめ)しける地(ところ)なり。
右大神は、難波の高津の宮に御宇天皇之の御世、天皇の子、波多毘若郎女(はたびのわかいらつめ)の御夢に喩覺(さと)し奉らく、「吾は住吉大神の御魂ぞ。」と爲婆天利神または猪加志利之神と号(まお)す。」託(かみかか)り給ひき。仍(かれ)、神主に津守宿禰を齋祀いつきまつ)らしめ、祝(はふり)に爲加志利の津守連等を奉仕(つかへまつ)らしむ。充(あ)て奉る神戸二烟。神田七段百四十四歩。即ち西成郡に在り。

 イカシリの神とは、住吉大神の御魂であると宣言されている。
別に坐摩神は生駒山中に鎮座していたとの伝承があるが、『神代記』からも納得できる伝承のようだ。この神社は現在は船場の一角に鎮座しているが、大川沿いにお旅所があり、元の社地を示している。大坂城築城に際し、遷座した。
お旅所には神功皇后が腰を下ろして食事をしたとされる石がある。磐座となっている。
『神代記』は、仁徳天皇の頃の住吉大神は八軒屋の近くに鎮座していたことになる


 どうやら、神功皇后の足跡と住吉大神の足跡は同じであったと見える。皇后は依り代であったと思われる。

 座摩神社から、寒い季節の夕暮れに、真東の生駒の山頂に縦に三つの星が登ってくる。オリオンザの三ツ星であり、カラスキの三つ星であり、これぞ住吉三神である。


 

十五夜 お月見

 投稿者:今井より  投稿日:2016年 9月 5日(月)16時05分23秒 115-124-190-183.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  この15日は、鹿児島神宮の例祭「十五夜」です。

幼い頃から、春の「初午祭り」が
賑やかなので「例祭」かと思ってましたが、、

こちらが「例祭」なんですね。

いつからの祭事なのかちょっと勉強不足ですが、、
他の地方では、どのような祭事があるのでしょうか
興味津々です。

壱岐対馬には「十五夜相撲」があるようですね。
幼い頃は、河原で、すすきから注連縄を作って
相撲大会がありました。
結構強かったので賞品が楽しみでした。

御天気が良ければ、のんびりお月見をしたいものです。

http://yorihime3.net/

 

琉球松さま

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2016年 9月 5日(月)14時58分16秒 p5059-ipad106fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ご高説を何時も興味深く拝読しています。
ご返信を賜り、多謝 謝々!

>中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね。
 当時は推古天皇の代で女王であるはずなのに、これは不可解です。

※私は、『日本書紀』が馬脚を現した部分だと観ています。

・即ち、『隋書』は九州皇統の「阿毎多利思比孤」に面会した、と。
・裴世清は畿内には行っていないのであろう、と観ています。
 

Re: 「○○タラシ」

 投稿者:初心者  投稿日:2016年 9月 5日(月)11時51分5秒 124-159-21-41.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.335[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

> 横レス、失礼します。何時も興味深く拝読しています。
>
> ※この「○○タラシ」の初出は「天照大神」ではないかと、愚考します。
>
>    即ち、「阿毎」=「天(あま・あめ)」、「多利思」=「照」の事である。

ハングルについては、知識が全く及びませんが
>初出は「天照大神」ではないか
については、実は私も可能性を感じています。

>「多利思」=「照」
「多利思」については未考察ですが(全く頭が働きません)
 「照」=「帯」=「垂」の可能性についてのみ考えておりました。
 

Re:「○○タラシ」

 投稿者:琉球松  投稿日:2016年 9月 5日(月)09時51分1秒 ai126166056136.48.access-internet.ne.jp
返信・引用
   中国『隋書』には「タラシ彦」と、男王であるとしていますね。
 当時は推古天皇の代で女王であるはずなのに、これは不可解です。

 そこで琉球古語で「タラシ」を解釈すると、「たらす(誑す)」。。。これは「騙す」や「躊躇する」という意味で、中国側に気を使って、躊躇しながらもあえて騙したのではないかと考えてみました。
 現代日本語でも「女タラシ」とかあるわけで、当時の倭国のしたたかさの表れでしょうか?

 まあ、他の「タラシ彦」にもそういう性格があるのか精査してみないと何とも言えないのですが。。。
 

タラシについて

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月 5日(月)09時43分9秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.334[元記事へ]

>(たぶん皇極と斉明の天豐財重日足姫が最後)

訂正(^^;
元正715-723が日本根子高瑞浄足姫がタラシで(いまのところ)最後。
天武673-685の子の草壁皇子の子で日本根子と足を共有する女帝。

非九州系大王、継体507-530-安閑531-534-宣化535-538-敏達572-584-舒明629-641-天武673-685-(草壁皇子)-元正715-723。
持論では宣化-敏達に重なって、九州系の欽明539-571-用明(推古)があります。

myHP倭王五代~聖徳太子~壬申の乱シミュレート参照
皇極と元正、共通するのは敏達の子の押坂彦人大兄皇子。
敏達は継体(彦坐王系譜とみる)の子。

なにゆえ押坂彦人大兄皇子は(近畿王)敏達の後を継承できず、(書紀では)推古や聖徳太子が割り込んでくるのか。
物部氏が蘇我氏に滅ぼされて背景とする豪族を失ったからだとみています。
皇極も元正も古い祖先に彦坐王、あるいはずっと近くに継体の妃の尾張連の目子媛、が存在するという共通項があります。
パズルですね(^^;

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

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