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Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月12日(水)12時32分34秒 49-156-214-39.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.381[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
> 「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
> 「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
> 景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
>
> 書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
> 八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
> (景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
> 景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?
>
> 古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
> 「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。
>

こんにちわ。
ご多忙の処、当地「隼人の抗戦」について
テーマを提起して頂いてありがとうございます。

このあたりに関しては、拙宅サイト==>>隼人探訪==>>隼人抗戦

でも少し触れていますが、残念ながらお先真っ暗状態です。

一応、伝承の地として「拍子橋」や「長袋」があります。

「拍子橋」==>>熊襲猛が酒宴をはった場所跡
       酔狂に紛れて日本猛尊が。。。

「長袋」====>>熊襲が抗戦時に立て籠もった洞窟

       妙見温泉にはこの観光用の洞窟があります。
       この地は伝承の場所ではありません。
       対岸にありましたが、洪水で崩落しました。


「火の国」===>>どこでしょうか?

       ご教示の桜島ですが、縄文時代の噴火の記録がありません。
       火口やカルデラ、墳丘は多々ありますが、、
       どうもそれ以前、25000年位前らしいです。

       6500年前には姶良カルデラが大噴火をしています。。
       降灰はカムチャッカ半島迄達しているとの報告があります。

         ===>>「パミス年代測定法」:火山灰堆積層で年代測定

       現在の阿蘇地方、特に阿蘇カルデラには、
       縄文時代の噴火趾が多数あります。

       こちらの方が縄文時代は有力かも。

      ★地元としては、観光活性化で「桜島」を押したいのは山々。



☆隼人首塚
☆拍子橋
☆隼人舞(隼人塚)

http://yorihime3.net/

 
 

Re: 古事記の国生み筑紫島

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年10月12日(水)11時49分34秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.382[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます。

 島根県の隠岐島の次に九州島、それから壱岐、対馬となり、佐渡の次に、大倭豊秋都島(本州)となりますが、記紀の記された頃には蝦夷の棲むあたりへの認識が高まっていたと、ここは苦しい言い訳も含めてのお話ですが。。。。

 

古事記の国生み筑紫島

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月10日(月)20時39分13秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.381[元記事へ]

古事記の国生み神話での筑紫島と景行紀の熊襲制圧での地域推定図です。
熊曽国/建日別は南九州全域を示す(熊・曽の混合)。
景行紀の火の国はさらに限定して桜島周辺を示す。
火遠理命/彦穂々出見命の火(桜島)に通じるものです。

であるならば、景行紀の市鹿文を「火の国の国造」とする記述は妥当。
しょっちゅう火を噴いているのは桜島だと思います。
火の国は肥国にあらず。
隼人が支配者(高級官僚)に登用された事象がみあたりません。
元邪馬壹国の末裔(開化の末裔)ならば、大隅薩摩の国造りに登用されて妥当だと思うのです。


建日向日豊久士比泥別/肥国
古事記での文字は発音と意味が共存で危険ですが、肥国は肥えた国でよいと思います。豊国と意味は同じです。
建・日向・日豊・久士比泥・別、かなあ。
日向と日豊と久士比泥という地域を混合したもの、だから呼称が長くなった。
九州中央部を横断する地域、すなわち宮崎県の日向も含む。
(後世では肥国は西岸の熊本に限定)

.隠伎之三子島/隠岐島/天之忍許呂別は五島列島だと考えています。
なーんとなく島根の隠岐である、と感じてしまうところですけれど、古事記の国生みの順からはずれてしまう。
国生みで書かれる島が流刑地になってはおかしいですし。
島根の隠岐の文字は、国生みの記述から後鳥羽上皇あたりに「沖」に代わって採用されたものではないか。

.津島/対馬/天之狭手依比売
.伊伎島/壱岐島/天比登都柱
これらに共通するのは天を冠すること。
天之忍穂耳渡来につらなる島、という伝承が存在したことをうかがわせるところ。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 9日(日)23時27分7秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  今井よりさんへのお返事です。

古事記の国生み神話で
此の島(筑紫)は身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。

筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別
(やたら長くて丁寧、範囲が広いのか?)
熊曽国を建日別(曽の字、音を用ふ)

景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。

書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
(景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?

古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。


地名には危険が伴う。
奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;

「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。


神武の言語はいかに、神武の祭祀はいかに、神武御用達の土器はいかに・・
弥生時代の九州南部と北部での「方言」は通じる程度であったのか。
九州北部が出雲文化圏であったら通じるとは思えないのですけれど。
紀元前後頃の重要なヒントになると思っていますが、記紀にヒントはみえないなあ。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 8日(土)04時04分49秒 49-156-214-158.ppp.bbiq.jp
返信・引用 編集済
  > No.375[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
> 九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
> 熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
> 書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
> すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。
>
> もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
> 日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
> ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
> 曽於(曽於郡)のクマですね。
>
> 球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
> 神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


この辺りは、遺物なり木簡なりの出土を期待しましょう。
どのような喋り方(発音)をしていたかも興味あります。

江戸時代の「薩摩弁」については旧ロシアに
辞書が残っています。
ゴンザ辞書、一応所持しています。参考になります。


>
> 九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
> したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
> (韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

これは以前もお話ししたように、当地の民俗芸能に宿っています。
当地では、神楽の事を神舞(かんめ)と呼びますが
出雲神楽と伊勢神楽の両方が舞われます。
宮崎までは伊勢神楽が多いでしょうか、
それ以南は出雲神楽系統です。

史資料はもとより、民俗学的な考証も重要と考えています。


★霧島東神社
国の無形文化財「祓川神楽(神舞)」

尚、映像はyoutube==>>yorihime3でどうぞ。

http://yorihime3.net/jisya/higashi.html

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 8日(土)03時27分29秒 49-156-214-158.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.377[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

またまた、割り込みで恐縮に存じます。

> 東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
> 当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

私の神社探訪の動機と酷似してます。
私は氏神様(稲荷神社)を江戸末期生まれの祖母が「おみょうけんさ~(妙見)」と
呼ぶ不思議さでした。

この氏神様が、平家物語の敦盛愛用の「青葉の笛」所縁のお社とは。。
驚きの連続で今日に。。

>
> >神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

当地の場合、明治の廃仏毀釈で、約2500ケ寺が焼失しています。
残存した寺院は、社名を変えています、近場の例

○鹿児島神宮再建の「日秀神社」(旧三光院)
ここには唯一お堂があります。
○旧国分市上水道の第一号井戸に鎮座する「医師神社」(旧門倉薬師)
○姶良市の米山神社(旧米山薬師)

らでしょうか。

歴史の変遷を。。翻弄された神々でしょうか。

http://yorihime3.net/jisya/sanko.html

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)22時26分16秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.375[元記事へ]

訂正です。
誤:島根のキヌガイヒメ(出雲国風土記)
キサガイヒメです。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)21時34分52秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

氷川社とはなにか、を考えていたとき、楡山神社さんのうぶすな研究室の近津の記述で「ちかつ社」の存在を知りました。
東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

>神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

これは納得していません(^^;
そもそもが本地垂迹といった神仏習合は仏教サイドからのものではないでしょうか。
書紀の神々を仏教に包含しようとする意識であって、宗派によって習合のさせ方が異なり、統合された概念にもなっていない。
書紀「第六天神」、仏教「第六天魔王」の文字の偶然に惑わされた後世でのイメージとみております。
第六天神は「書紀ではあいまいな自然神」を代表させ、水害や風害除けとして開拓成就を祈願する神として扱われていた、と考えています。
(幕末~明治の国学者にもの申す(^^;;; )

ヒンズー教のシバ神には100(だったと思う)の姿があるとされます。
インド各地の多数の部族の神をひとつに統合させるためです。
肌の黒い部族に対して、おまえさん達の神様はシバ神の化身なのだ・・マハーカーラ=真っ黒けのシバ神登場。
後に仏教に取り込まれて大黒天、日本では大国主命と重なって大黒様(鎌倉以降)。大国ダイコクでしょう・・たぶん。
第六天神でのイメージもその程度の類とみております。

書紀の編纂目的のひとつは仏教などに対抗できる「概念」の構築にあると考えています。
その統一のための概念が天照大神の和魂と荒魂だと考えています。
単純には、その源流が天照大神(おおまかに天孫)に対抗する存在だった場合は荒魂。
日本の場合はインドに比せば、氏族の差は微々たるもの、「ふたつの姿」だけで事足りた。

神社建築において「千木」の形状で、先端が垂直に切られる場合は荒魂、水平に切られる場合は和魂、と聞きました。
また、千木の装飾の穴?が先端部で切り欠き状になっている場合は女神、切り欠きになっていない場合は男神、とも聞きました。

もっとも、そういう慣習があったとしても、社殿建設の時にどれだけ引き継がれるか。
東京駒込の天祖神社(源頼朝縁起)の境内に、榊神社(面足尊)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)があり、この由来を神主さんにおたずねしましたが??でした。
寺院でも同様、大昔にある問いかけに答えられなかった若い坊さんが今は要職に。

余談
さっきNHKの歴史秘話ヒストリアで明治日本語の話をやっていました、なかなか面白かった。
標準語は必須だがどうやるのがよいか、英語にしてしまえなんて案もあったらしい(^^;
文化と血脈(部族)、その中間にあるのが言語だと考えていますが、うかつに統一化すると文化を失うかもしれない。
なかなか難しいところ。
そういえばエスペラント語なんてのがありましたが今はどうなっているのかなあ。

最近ちと気になっているのが、「なになにだそう」です。
「なになにだそうです」の「です」を略している。なんかあいまいさを感じて?

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)16時35分12秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.370[元記事へ]

ちかつ社と第六天社を重ねてみました。
(第六天社は七所とか十二所といった伊弉諾伊弉冉尊以前としての面足尊を祀る社を含みます)
ちかつ社の変化とみる氷川社の集中する地域では省略しています。
参考図
(画像サイズが横800ドットを越えると自動縮小されて画像がぼやけるみたいですね)

みえてくる特徴は、ちかつ社は鬼怒川以南(現在の利根川以南)にはない。
茨城~福島での「ちかつ」は蝦夷が濃厚で、関東平野の西側では諏訪の千鹿頭が濃厚、であろうとみています。

第六天社は群馬にはない。
茨城と福島ではちかつ社と第六天社が混在する。

第六天社は平安中期以降の蝦夷制圧の北上ルート(茨城県~福島県)に登場しているとみえます。
正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部、クサカ部、卜部、物部などの人々の北上とともに、茨城の蝦夷が制圧され、その後の開拓に伴っての面足尊ではないか。

東京台東区の榊神社の縁起は「日本武尊が東征のおりこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り」とされます。
日本武尊時代に面足尊が存在することはありえない。地元住民の祭祀を日本武尊が遵守した、ということで良いと思います。
ただし、境内社に
七福稲荷神社/倉稲魂神  繁盛稲荷神社/倉稲魂神
事比羅神社/大己貴神
豊受神社/豊受姫神 があります。
出雲と食糧神です。このあたりにも第六天社の本質が隠れているかもしれない。

雄略456-489の開拓民(孔王部)は埼玉以北へは達していない。稲荷山鉄剣付近までの開拓、ということでしょう。
倭王武(武烈)の上表文の「東は毛人を征すること、五十五国」はちょいと誇大表示ということになりそう(^^;
ちなみに雄略が祀ったという外宮の豊受大御神は食糧神とみえますが、素性があいまい。

祖先神でもなく自然神ともいいにくい(あえていうなら大気都比賣命か)。倉稲魂神も同様。
ま、雄略時代にそういう概念があったかどうかもありますが、もともとあいまいだったのではなかろうか。
BC500以降の初期開拓者たちの農耕文化、その神格化が豊受大御神でよいと考えています。
倉稲魂神は稲作文化に特化で、後に稲荷にも重ねられる。

第六天が雄略につながる痕跡があるかどうか、関東で豊受大御神を主神として祀る社をざっとチェックしてみました。
たくさんありすぎていまのところ??(天照大神を同時に祀る社は除きます)。
稲荷と複合もしていて識別が容易ではなさそう。これからの課題としておきます。

古語拾遣807に鹿島の武甕槌命が登場しますから、この頃には書紀の神々の体系ができあがっているはず。
この頃に蝦夷を制圧した地域(茨城南部~千葉)で面足尊を「開拓の成就祈願」として祀りはじめたのではないか。
群馬に第六天社がないのは、平安中期において、この方面へは開拓民が送られていなかったからだと考えています。

おそらく源頼朝は第六天には関与していない。
三島大社は崇敬したようです、こちらの祭神はあいまいなれど大山祇神とされますが、本来は海人だと考えています。
建長寺の建立にあたって浅草の宮大工を呼び寄せています。
頼朝は当時の東京湾の浅海を渡河するのに苦労しており、千葉氏と接触していても祭祀まで受け継いではいないとみるところ。
武人ではあっても開拓者ではない、だから鎌倉を拠点に選んだ。

関東平野に密集する第六天ははるかに遅く、戦国以降でしょう。
関東平野に第六天を運んだのは、おそらくは千葉氏で、祖は平常長(1051頃)。
千葉氏-北条氏-徳川幕府の流れでの展開。
小田原の周囲に第六天社が少なからずあるのは、北条氏による開拓でのものと考えられます。

面足尊を祀る社に胡録神社があります(少なくとも5社以上)。
東京荒川区の胡録神社の縁起では、上杉謙信の配下の武士がここに住んだとあります。
第六天を称していたが、明治初期に胡録の呼称となったそうです。
胡録の意味不明なれど、胡粉ゴフンの胡の文字を使った可能性あり。
胡粉は貝を石臼で引いて作る、胡録社はすべて海岸沿いあるいは海岸近くの川沿いにあります。



さて、ちかつ社。
由来はメインが諏訪の千鹿頭。これは動かないと思います。
長野県佐久市の近津神社はかっては千鹿頭神社であり、池から大蛇がでてきたという由来があるそうです。
ただしいつ頃に近津社になったかは不明。

弥生後期~古墳時代に寒冷化で山岳地域から南下する人々が関東平野の山岳ぞいに展開した。
関東では碓氷峠からでしょう。
碓氷峠の東に貫前神社と咲前神社があります(高地性集落)。祀るのは経津主命。
諏訪から関東平野へ流入する諏訪系氏族の押さえだと思います。
貫前神社の成立は鹿島神宮や香取神宮の成立と同じ頃とみています。

鬼怒川水系(現利根川)の北岸で蝦夷との戦いが始まった。
おそらく・・垂仁273-311の五大夫のひとり物部十市根の頃、東京湾岸では豊城入彦命、鹿島側でも王朝系のだれかが上陸。
ここでは対出雲系譜の意識のなかの蝦夷であって、開拓の意識はまだない。
(この頃の王朝祭祀はいかなるものであったか)

そして正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部やクサカ部や物部など、おそらくは武装開拓民の登場。
鹿島神宮の社としての登場は721以降だと推定。
対蝦夷の社、書紀は強力そうな武甕槌命を創作。香取神宮は穏健な経津主命。
貫前神社はこれに習った、こちらは相手が出雲系譜で蝦夷ほど恐ろしくはなかったから経津主命(^^;

「ちかつ社」の多くが「近津」の文字を使いますが、なぜ??
近くに港があるわけでもないのに、疑問でした。
その起点は鹿島神宮のすぐ北にある近津社ではないかと考えています。

社名や御祭神の変化が大きかったであろう頃、すなわち延喜式の時代927頃での登場。
鹿島の港に近い、の意を以て「近津」に変更された。
御祭神も面足尊と風神の級長戸辺命、近津としては例外的に自然神ライク。
その他の社の多くがこの呼称に習った(千勝や千方など)。
ただし御祭神は別です、出雲系譜を主とする祖先神に切り替えられた。

その代表が氷川社だと考えています。
「ちかつ」にこだわらず、書紀や出雲国風土記から御祭神を素戔鳴尊とし、島根の簸川を氷川に置き換えた。
関東で河川の凍結はありえないけれど、諏訪湖の御神渡りをイメージしての氷川ではなかろうか。
そして延喜式以降に大勢力に発達した。
福島と茨城の県堺では都々古別社がグループを形成(味耜高彦根命)。
ここでは東北縄文が濃いゆえに、ツツ蛇の子の意だと思います。

鬼怒川沿いにある数社(千勝)では御祭神に猿田彦命を祀る。
おそらくは、現地の古い祭祀(≒弥生に遡る)の意をもって猿田彦命(書紀での縄文イメージ)としたのではないか。
(ひょっとすると強制的に)
全国的に、現地の古い祭祀を延喜式以降に猿田彦命に置き換えた社が少なくないと考えています。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年10月 7日(金)16時16分41秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.373[元記事へ]

今井よりさんへのお返事です。

書きかけていたのを誤って消してしまったみたい。
マツタケご飯とぎんなんの食い過ぎかな(うんと安いカナダ産です、香りがやや洋風ですが十分)。


>海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。

磐座を伴うなら縄文にも遡り得る祭祀があった可能性もありますね。
南九州での「天智」は白村江の準備での海人(隼人など兵を含む)の招集と船の建造に関連ではないでしょうか。

>東北の蝦夷と南方の熊襲(隼人)討伐
>どちらにも「日本健尊」伝承があります。

九州での日本武尊が関東での日本武尊と同一人物かどうかはわかりませんが・・
(仲哀356-360)も日本武尊のひとりといえる)
関東では豊城入彦命は痕跡が少なくなんともいいにくいですが、日本武尊については戦闘痕跡がみえません。
また、日本武尊は出雲の残勢力の制圧であって、蝦夷との戦闘があったとしても出雲制圧の一部であったと考えています。

別項の榊神社の縁起のごとく先住者への対応が紳士的。
鳥越神社の縁起も住民が日本武尊を祀っている(榊神社は鳥越と同じ社地だったが、徳川幕府の土地利用の都合で移転)。
上野台地には出雲関連社がありますが、ここでも医療をもって日本武尊を援助しています。

景行311-333には無数の子女がいる。
婚姻融和策をとっていたと考えています。おそらく関東の日本武尊もそれを継承していると考えています。
あちこちで子を作った・・はず。
すなわち、関東には日本武尊のみえない末裔がたくさんいる・・まほとんど民間人で伝承は残っていないでしょうけれど。

書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。

もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
曽於(曽於郡)のクマですね。

球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


>この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に
>太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが

大穴持神はちとやっかい。
大穴持神は山陰で最古、半島経由の農耕渡来(BC500以降)と接触していた文化圏、サヒメ伝承。
大穴牟遅命と大己貴命は同じで、東シナ海系海人。須勢理姫の婿(素戔鳴尊渡来BC190頃。島根のキヌガイヒメ(出雲国風土記)、因幡の白兎。
大国主命ははるかに下って神武 36- 66とほぼ同世代の豊後、神武への国譲りと島根への引退。
同名処理によって出雲系譜の年代や位置がぐちゃぐちゃに(^^;

九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
(韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

太玉神は天孫降臨の随伴者ですから、南九州に存在しておかしくないと思います。
かえって北九州はほとんどが出雲文化圏であり、こちらには存在しなかった可能性あり。
ただし神武が運んだ可能性はあります。


さて、丹波の大粒の栗が到着。
栗むき器なるもの購入、なにせ渋皮むくのがやっかいで栗ご飯作るのを敬遠していたので。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年10月 5日(水)20時13分50秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.370[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

楡山神社さんのHPに、こんなのがありました。http://nire.main.jp/rouman/

 (3)面足命(おもだる-のみこと)
 一部の"ちかつ社"の祭神でもある面足命とは、不思議な神である。古事記冒頭の神代七代の第六代目に当ることから、神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる。
 三面六臂、八面六臂などの慣用句は、仏像の姿から来た言葉といひ、多面多肢の仏は多い。埼玉県熊谷市下増田の近殿神社(祭神:稲田姫命)は、武蔵風土記稿に「村の鎮守なり。本地十一面観音を安置す。観音寺持」とある。日本では十一面観音は四臂で描かれることも多いといふ。面足命とは、もと多面多臂の仏像を祀ったことから、近代に定められた祭神名なのかもしれない。
 漢字の字形のよく似た「百足」から来たかについては未調査である。馬蹄石のやうに、何かの動物の足跡が石などに残ったことから来たのかどうかも、考慮中である。

 『平成祭CD』を見ていますと、由緒の書いたものは少ないのですが、第六天社は鎌倉時代以降に創建されたものが多いように思われます。

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 3日(月)18時26分17秒 125-31-88-37.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる)
> 野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし)
> 若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命
> 宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神~伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊~神武
> 檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊~伊弉諾尊伊弉冉尊 その他
>
> 鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。
> いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。
> ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。
>
>

こんばんわ。
せっかく鹿児島の話題を掲載して頂きながら、、
遅くなり恐縮に存じます。

海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。
航海の目印になったと感じます。
昔は山頂にお社があったようです。

檍神社は住吉神繋がりです。

三社とも「天智天皇伝承」と関連があるのです。
精査は頓挫状態ですが、、
天智天皇の道先案内をした海運の長がいたのでしょうか。

南北朝の頃になると、後醍醐天皇の皇子らが当地へ。
四国~日向~谷山(鹿児島)
この頃になると史資料が幾つか散見されます。

http://yorihime3.net/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 3日(月)16時53分7秒 125-31-84-1.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.370[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

またまた、割り込みで恐縮に存じます。


> 関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。
> そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。
> 藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国)


> AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。
> 対蝦夷の拠点としてです。
> 東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。
>

当地には、神奈備さんが興味をお持ちの「韓国宇豆峯神社」が鎮座しています。

ここから勧請して「剣神社」が韓国の南方500mに鎮座しています。

この位置関係に驚いたものです。
そうご指摘の蝦夷討伐の寄港地の鹿島神宮と香取神宮と相似してるからです。

東北の蝦夷と南方の熊襲(隼人)討伐
どちらにも「日本健尊」伝承があります。

この背景を探求したいと考えてはいますが。。
一応、ここに掲載しています。

☆韓国宇豆峯神社

☆剣神社

☆日本健尊上陸地「若尊神社」


http://yorihime3.net/jisya/uzumine.html

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:今井より  投稿日:2016年10月 2日(日)17時07分43秒 116-94-118-117.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  かたばみさんへのお返事です。

割り込みで恐縮に存じます。


> アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。
> すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。
> 起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。
> 出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。
> すなわち蝦夷の神。
> 西日本にはないといってよいです(門客神はある)。
>

秀真伝(ほつまつたえ)は、8世紀、蝦夷が多数、日向へ配流されていますので
伝承は残っていると考えます。
現に当地にはその記録があります。


===>>神社探訪==>>鎮座地別==>>霧島市・国分==>>大穴持神社


で精査途中ですがご覧ください。(一昔前の作成です)


> 古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。

この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に
太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが
由緒等が土砂崩れで流失し、精査を頓挫しています。

一応、御参考になれば幸いです。

☆大穴持神社(国分)

☆太玉神社(福山)

http://yorihime3.net/jisya/onanji.html

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月28日(水)14時59分1秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.368[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

>結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。

近津社と第六天社の決定的な違いは、祖先神を祀るか自然神を祀るかであろうと考えています。
近津は諏訪の千鹿頭、これに蝦夷が結合。寒冷化による山岳地域からの南下で弥生末期あたり。
第六天社は開墾と治水であり、千葉側からで。もっとも古い場合でも古墳時代かなあ。
面足尊を祀るのは、書紀の解釈によるもので、そうなるのはむろん書紀が一般化してからで平安中期以降。
自然神を祀る場合は、人間の技術の発達で消えやすくあるいは変化しやすいと思います。

myHPに関東開拓と第六天神をアップしてあります(暫定書きかけ)
myHP近津神社と日本武尊も再アップ

関東で最古の可能性のあるのは天日鷲命。
天火明命の随伴者・・土佐(田村遺跡)-阿波-尾張-関東が存在するならBC100頃、物部氏(の祖)を含む。
水稲(農耕)はなさそう、布と紙。手工業品ですね。
参考図1 酉の市 この紋所は千葉氏でしょう(七曜星もある)(酉の市の風習は関東からだと思います)

古語拾遺によると、忌部氏の祖は天太玉命でこれに従う五神があり、そのうちのひとりが天日鷲命。
酉の市の起源は足立区花畑(旧花亦村、伊興古墳群)の大鷲神社ともされる(myHP江戸名所図絵と神社散策の鷲神社)
日本武尊も祀っています。
だが、こちらは祖先神であって開拓とか第六天社とつながるとは考えにくい。

書紀の書く自然神ライクは埴山姫と迦具土命、そこから登場のクラオカミ神(≒水神)などか。
書紀では自然神はあいまい、神代三代目から七代目(伊弉諾いざ見尊)は夫婦神。
夫婦であるなら、そこから自然神が誕生とは考えにくい。
だから・・書紀は伊弉諾尊が独り神としてから、不可思議手段で何人かの神々を誕生させた。
このあたりは書紀編纂者の苦しいところ(^^;

だから、開拓と治水をひっくるめた自然神を意味するとして「伊弉諾伊弉冉尊以前」が登場した。
ま、書紀解釈の問題でもあり、当然ながら書紀が一般化して以降のことだと思います。
これに類似は菊理姫と白山信仰だと思います。
こちらは縄文の山岳信仰と書紀解釈の結合なのだと思います(後に修験とも結合)。


関東で明確に開拓が登場するのは、雄略だと考えています。
関東到来だけであるなら、豊城入彦命と日本武尊(AD320頃)ですが、これは開拓ではなく出雲系譜の征圧。
信濃の古文献の仁科濫觴記に崇神の末太子の仁品皇子の到来記事(記紀にはみえない)。
おそらくは垂仁273-311の子の豊城入彦の縁者を書いたものと推定。

碓氷峠の東に貫前神社があります。経津主命と姫大神を祀る。
姫大神は養蚕機織の神とされるのが興味深い。おそらくはこちらが最初の御祭神ではないか。
この社の周囲は高地性集落であり、戦闘を意識していたとみえる。
だれと誰の戦闘か・・古墳時代初期、寒冷から南下する諏訪の千鹿頭系譜と関東平野側のだれか(平安中期に経津主命に変化)の可能性あり。

そして雄略456-489時代。
埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄剣銘文(雄略471とみる)。
東京都足立区の伊興遺跡群(古墳群)(縄文~古墳)。縄文海進で海没していなかった地域の最南端です。
さて、雄略の祭祀はいかに。

伊勢外宮の豊受大御神は社伝によれば雄略時代とみえる。祖先神かどうかは不明なれど食物神ではある。
外宮の境内社に土宮と風宮、他に月夜見宮があって、なーんとなく自然神っぽいであります。
東京湯島天神の本来の御祭神は手力雄命(雄略縁起)。
ここから谷の向こう側には上野台地があり出雲系譜が濃厚、その監視の社であったと推定。

この後しばらく情報途絶。
男大迹王と磐井王の内戦、半島情勢の緊迫化。
天武673-685に至るまでの王朝の混乱によって関東への行動が断絶していた時期とみています。

正倉院文書の下総国大嶋郷戸籍AD721に孔王部。
おそらくは安康(穴穂天皇)-雄略時代の開拓民の子孫だと思います。
雄略の開拓民が下総台地の西側を北進した結果が稲荷山古墳鉄剣に連なると推定。


近津社の分布は猪苗代湖以南かつ関東平野で、現在の利根川より南の千葉側にはありません。
すなわち東北縄文の流れの存在した地域(蝦夷でもある)に近津社がある。
(東京で青森の亀ヶ岡土器が出土しています)

ちょっとずれますが
参考図2 門客神を祀る社の全国図 神奈備さんの採録されたもののそっくりコピーです。
ただし、一覧表は関東だけを抜き出しています(赤印がアラハバキの痕跡あり)。

アラハバキ神とはなにか・・東北における門客神。登場はBC100頃に遡る。
すなわち東北縄文と出雲の接触、出雲の人が門客神。高度文化をもつなら神格化されると思います。
起点は青森の砂沢遺跡あたり。秋田にもあるかもしれない。
出雲の資源探索部隊(おそらく安曇氏)と「縄文の自然神」が結合したものがアラハバキ神であろうと考えています。
すなわち蝦夷の神。
西日本にはないといってよいです(門客神はある)。

関東平野に多数あるようにみえますが、ほとんどが氷川社です。
氷川社は本来は近津社であって、延喜式以降に御祭神を素戔鳴尊に変更してグループ化した社と考えています。
その後に有力化したためにアラハバキの痕跡も残った。
その他の近津社もそれぞれの考えで千鹿頭を(書紀記載の)御祭神に変化させたが、非力でアラハバキの痕跡は消えた。

猪苗代湖の南に味耜高彦根命を祀る社が数社あります(myHP近津神社と日本武尊)
おそらくは小規模でグループ化して味耜高彦根命を祀る、とした社であろうと考えています。
近津社の北限かもしれない(諏訪の影響力の北限)。


さて、
下総国倉麻郡意布郷戸籍AD721では藤原部がほとんどを占める(千葉県我孫子市付近)。
王朝の混乱が落ち着き藤原姓が登場する元明707-714あたりの開拓民じゃないかな。
関東平野北部では日本武尊の北上で蝦夷勢力は征圧されていたが、現在の利根川より北側では蝦夷勢力が残存していた。
そこに送り込まれたのが平安中期あたりでの開拓民で、おそらくは武装開拓民。
藤原部、壬生部(香取郡)、クサカ部、卜部(おそらく中臣)、物部(常陸国)

藤原秀郷(俵藤太伝説)AD900頃、の祖は不明とされますが文献的には藤原部AD721でいいんじゃないかな。
奥州藤原氏もここからの一族。
藤原秀郷は騎射の始祖とされますが、おそらくは蝦夷の騎射を取り込んだのではなかろうか。

AD721頃以降に鹿島神宮と香取神宮の登場とみます。
対蝦夷の拠点としてです。
東京湾側からの上陸だと利根川水系の横断がやっかい。そこで太平洋岸の鹿島に上陸拠点を作った。

そして、書紀は手力雄命より強そうな武甕槌命を創作する(^^; (自然神ライクから祖先神登場は不自然)。
おそらく経津主命も。こちらは穏和な神として(鹿島は北向き、香取は南向き、祭殿の向きが逆です)。
利根川の北側(常陸国)、蝦夷と王朝の抗争(接触)はまずはここから(坂上田村麻呂758)。


>近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません

参考図3 茨城のちかつ社(細かくやるとちとたいへんなので概略のみ)
現在の利根川(江戸以前の鬼怒川と小貝川)沿いにある「ちかつ」は一社を除き猿田彦命。
これより南(すなわち千葉県)には「ちかつのち」すらでてこないのです。
(近津で面足尊を祀る社は茨城県の北浦東岸≒太田市)

面足命を祀る社は一社を除き級長津彦命を祀るのが興味深い。
風の神のようですなわち自然神。この地域が強風の地域かどうかは知りませんけど雷の多い地域ではあるようです。

すなわち現在の利根川以南(千葉側)には「蝦夷」はやってきていない。
鹿島神宮が北を向いている理由でもあります(香取は温厚で南を向く)。
茨城南部の「ちかつ」は平安中期頃には制圧され、社名変更ないし御祭神の変更がなされた(強制的の可能性あり)。
北浦の近津+面足尊は鹿島からの開墾の流れを受けて御祭神の変更があったものではないか・・

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月27日(火)08時57分52秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.368[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> かたばみさんへのお返事です。
>
>  近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡
> 近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡
>

 近津と惶根尊との組み合わせはこの三社以外にはでてきません。(平成祭りCD)

 また、この三社は同じ町にあり、二社は勧請されたものでしょう。

 そうすれば、近津と惶根尊とは、たまたまの組み合わせでできたとも考えることができます。

 結論としては近津と惶根尊の関連はなんとも言えないということになります。いかがでしょうか。

 

Re: 第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月25日(日)19時45分14秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.367[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 惶根尊と近津神社

 茨城県の場合

 全ての本社と摂社は2468+932=3400社

 惶根尊を祀る神社は本社摂社含めて19社。 0.55%
 一方、チカツ神社は本社摂社含めて16社。  0.47%
 共に、希な祭神であり、神社名です。

 近津神社で惶根尊を祭神とするのは、以下の3社。
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町町付1218,常陸国 久慈郡
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町下野宮1626,常陸国 久慈郡
近津神社,,,本社・主神,惶根尊,茨城県久慈郡大子町上野宮3208,常陸国 久慈郡

 この3社は共にppmの単位の中での出現は奇跡的と言えます。
 何らかの関係がありそうですね。




 

第六天社、面足尊と惶根尊

 投稿者:かたばみ  投稿日:2016年 9月21日(水)22時17分26秒 ae024212.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  第六天神を祀る理由のチェックをぼちぼちと。
伊弉諾尊伊弉冉尊神話の島生みでは、淡路島、四国、隠岐島、.筑紫島、壱岐島、対馬、佐渡島、.大倭豊秋津島。
ただし、隠岐島が隠岐であるなら、これのみ順序的に例外。
すなわち、瀬戸内から九州へ至り、九州から日本海へ、の流れとして書いている。

島生み神話は縄文海退での奈良周辺~瀬戸内~九州に至る縄文人の移動が源流と考えています。
大倭豊秋津島はまとめとして追加されたものか。
壱岐島~佐渡島は半島経由での漂着者(土笛)での、初期農耕の登場を示す。
持論での初期開拓者AD500以降、伊弉冉尊の死による穀物の登場に相応。

平安時代に縄文や弥生といった区分意識はありませんから、区分するなら書紀の書く伊弉諾伊弉冉尊より以前かどうか、だと思います。
書紀における天照大神や素盞鳴尊登場以前の意でもあります。
社の御祭神としては、後世で変化の結果、というのも少なからずとは思いますけれど。


関東の場合だと、濃密に分布するのは縄文海進で海、縄文海退で陸地化した地域。
徳川幕府の開拓した農地はその地域がほとんどを占める。ひとつの村に1社あるともいえます(新編武蔵風土記稿)。

いまのところ千葉県の加曽利貝塚と小田原の中里遺跡が関東での最古の水田痕跡のようで紀元前後頃。
東北の砂沢遺跡(BC300頃)よりはるかに遅く、長野の塩崎遺跡群よりも遅いとみえる。
水稲のはじまりを弥生時代と定義するなら、関東の弥生は紀元前後以降。

武蔵野台地に限定するなら水利が悪く農耕適地なし。縄文遺跡は多数、弥生遺跡はないに等しい。
弥生の開拓者がやってくる理由がなかった、だと思います(武蔵野の森が現代まで残る)。
青森の砂沢遺跡は出雲系の資源探索部隊の開発で近畿より早い可能性あり。
中里遺跡も加曽利貝塚もおそらく出雲系(小銅鐸、近隣に最古型の前方後円墳)。

正倉院文書の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍AD721には、関東平野の半ばが海であったとみえる大嶋郷の住人が詳細に記録されています。
そこには孔王部刀良アナホベのトラや孔王部佐久良賣なんて人物も書かれる。
(葛飾柴又、男はつらいよの山田洋次監督いわく偶然らしいけど)

大嶋郷の住人はほとんどが孔王部アナホベ、安康454-456(穴穂天皇)-雄略456-489で送り込まれた開拓民だと思います。
(安康は倭王済AD440頃~456と推定、允恭から近畿王を簒奪とみる)
この人々がいかなる祭祀をもっていたか不明なれど当時の九州系祭祀ではないか。
雄略の武神は手力雄命=雄略創始という湯島天神の御祭神(鹿島神宮/武甕槌命は平安あたりでの登場)。

景行311-333日本武尊は船橋市付近上陸(入日神社、意富比神社の元宮とされる)。
縁起に日本武尊が天照大神を祀ったというが、これはありえない。
相殿に萬幡豊秋津姫(天之忍穂耳尊の妃)と天之手力雄命あり。こちらが本来の御祭神であった可能性少なからず。
日本武尊の祭祀は雄略と類似と推定(伊勢外宮の豊受大御神は雄略の創始とされる)。

文武697-707浅草付近の隅田川に「浮嶋牛牧」登場。
万葉集3387に、「葛飾の真間の継橋」が謡われています(下総の国府、真間の入江、千葉県市川市)。
慈覚大師(円仁)が860頃に隅田川に牛御前社(素戔鳴尊)を造立(新編武蔵風土記稿、現在の牛島神社)。
平将門の乱939 武蔵、下総。

更級日記(1000頃)にて下総の市川から太日川(旧利根川)を渡って武蔵~東海道へ向かう道が登場。
千葉氏の祖の平常長が下総に登場1050頃。
源頼朝が千葉氏の支援で隅田川を渡る1180、これを謝して牛御前社に領地を奉納。


この流れの中に第六天神の登場があるのではないか。
縄文海退後の東京湾は千葉県側からの開墾と見えます。

伊弉諾尊伊弉冉尊以前は自然神だと思います(三代目からは夫婦神で書紀の意識も微妙ではある)。
書紀が一般にも読まれるとすれば平安後期あたりと思います。
開墾と治水、これの成就を祈願するとしたら、自然神を祀るだと思います(水に特化すれば水神様でもある)。
書紀の神話時代は時間軸の概念がない、区分するなら穀物登場だと思います。
そこから登場するのが「伊弉諾伊弉冉尊以前の神」、代表させての面足尊と惶根尊ではないか・・

関東の近津社(千鹿頭)は関東平野の山岳に添っており縄文が濃密で狩猟系でしょう、諏訪が源流で紀元前後以降。
関東の第六天社は千葉側に源流があるのではないか。これも紀元前後以降。
(ひょっとすると千葉県側の近津社は・・)
平安時代となってさらに後の戦国時代、関東平野の支配者となるのが千葉氏-北条氏-徳川氏。
その農地開拓の流れに乗った信仰。
(徳川幕府は北条家臣だった武士を開拓村の指導者としている)


参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる)
野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし)
若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命
宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神~伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊~神武
檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊~伊弉諾尊伊弉冉尊 その他

鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。
いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。
ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 女神の御神像

 投稿者:宮本634  投稿日:2016年 9月21日(水)21時31分36秒 em111-188-2-154.pool.e-mobile.ne.jp
返信・引用
  > No.365[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

2年前に登ったんですか!元気ですね!
酒殿神社から丹生都姫神社までの歩かれた道は三谷坂または勅使道ともいい世界遺産目指しているようです。
昔は三谷坂からそれて、丹生都姫が降臨された滝まで行く道があったと思うのですが、あのきれいな滝が三谷坂から見えるようになるとすばらしいんですがね。地元の人でなければ絶対気づかないのでもったいないです。ちなみに、三谷は、丹生都姫が降臨された「御瀧(みたき)」がなまって「三谷」となったと言う伝承があります。
そう言えば、先日大河ドラマで「九度山」の「九度」が「空海さんが母上のおられる慈尊院に九度会いにきた」ことから「九度山」と出てましたが、九度山町史を読んだ記憶が正しければ、昔は「九度」ではなかったような気がします。丹生氏には、昔そこで「くど(かまど)」を作ったことから「くど山」と名づけられたと伝承が残っています。話し言葉も地名も時代に伴って変わっていくので難しい分野です。私にはなかなか入っていけない分野です。
しかし、丹生明神、厳島明神、気比明神の像を作った目的はなんだったのでしょうかね?どうして高野明神の像はないのでしょうか?気になるところです。
私は、最後に念願の秩父にて丹治氏を調べて、丹生氏の謎解きを終えようと思っています。何年かかるかわからないんですけどね。とりあえず来年あたりから(^^;)またいろいろとご教授ください。<(_ _)>

 

Re: 女神の御神像

 投稿者:神奈備  投稿日:2016年 9月19日(月)20時55分10秒 ab131145.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.364[元記事へ]

宮本634さんへのお返事です。

> 神奈備様、ご無沙汰しております。

こちらこそ御無沙汰です。ご投稿、ありがとうございます。

「高野山麓 祈りのかたち」は4年前に行われた特別展でしたね。見学したと思いますが、この女神像には注意をはらっていませんでした。ありがとうございます。
 その2年前に、酒殿から天野まで歩るきました。その道筋が境内全部と言うか、参道だったとは実に広大な神域です。

 鉾立岩がありました。神跡でした。

 

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