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悪意に満ちた怨嫉謗法の方々は、私が大聖人の御本尊を不要だとしていると書かれます。
デマをねつ造し、批判する対象を貶める。
魔の眷属・・・
ご本尊について少々書いておきますので、今後はキチンとした認識をお持ちくださいませ。
付け加えますが、これは大聖人仏法、創価思想の基本概念です。
お気に召すとか召さないとかのレベルではございません。
以前曼荼羅本尊原理主義者の方々へ提示した言葉がございます。
それでも地球は動いている・・・・・
肝に銘じる努力を致しましょう。
御本尊は、法華経で虚空に建った宝塔を大聖人が紙や板に写し取られたものです。
御書にございますので、大聖人門下の方々は信受なさいませ。
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
(日女御前御返事)
その虚空に建ったと書かれる宝塔は何を元としているのか?
3000年以上前に地球の半径ほどの塔が虚空に建つ道理がございません。
ですので、これはたとえ話です。
例えであらわされた本体は何なのか?
御書にございます。
『一御文に云く多宝如来涌現の宝塔何事を表し給うやと云云、此の法門ゆゆしき大事なり宝塔をことわるに天台大師文句の八に釈し給いし時証前起後の二重の宝塔あり、証前は迹門起後は本門なり或は又閉塔は迹門開塔は本門是れ即ち境智の二法なりしげきゆへにこれををく、所詮三周の声聞法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、』
(阿仏房御書)
これも門下ならば疑う必要すらございません。
衆生己心の妙法を、釈迦が虚空の宝塔に例え、大聖人がそれを曼荼羅として写し取られた。
御本尊とはこう云うものです。
ですので、御本尊の元となる本体は、私ども衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
これが正解。
本が衆生己心の妙法、迹が曼荼羅本尊。
御本尊は充分条件で絶対条件ではございません。
絶対条件であるなら、大聖人は覚れませんし、戸田先生の獄中の悟達もありません。
この点は池田先生がご明言です。
創価を名乗るならこの点も信受致しましょう。
以上、大聖人仏法、創価思想から見た御本尊にの位置付けを書きました。
今後はキチンと弁えて下さい。
私は毎日御本尊の前に端座し、30分の唱題を心がけています。
御本尊不要主義者なら、そう云う事は致しませんし、これまでネットで知り合ってご訪問頂いた多くの方々が実際に見ておられます。
お疑いなら拙宅にお越しくださいませ。
仏間で共に唱題致しましょう。
今後私が御本尊不要論者だと云う方がおられましたら、そのお方は第六天の魔王の眷属です。
以上書いておきます。
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