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  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時01分56秒
 
「報恩抄を書かれた大聖人」は、モウさんが投稿してくれたものです。
その内容が素晴らしく独立したスレとして立ち上げました。

今回の「報恩抄を書かれた大聖人」は特に量が多く(100投稿近くになりそうです!)
「モウさんのお洒落で小さな書斎」に一緒に入れるのは良くないと判断しました。

皆様、研鑽の糧として下さい。宜しくお願いします!ヾ(^∇^)/では

モウさんの「読める開目抄」http://blog.livedoor.jp/mou_oyasumi/
モウさんの「漫画シアトル事件」http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=45645611

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  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月27日(月)06時49分44秒
  • 編集済
  • 返信
 


No.062 【法理について】② 「顕謗法抄」


当時の人は大聖人の仏法を本当に信じていたといえるのかな。信仰者のありのままに
ついて考えてみよう。

大聖人が当時の人(というか現代も同じだけどね)の様子をつまびらかに描写してい
る「顕謗法抄」という興味深い御書があるの。真蹟が残ってるんだけど、これは偽書
じゃないのかと疑う人までいるんだって。それくらい厳しいことが書いてあるんだ。

八大地獄について説明されてるんだけど、読んだことがない人は読むとびっくりする。
地獄の描写がすごいの。それで大聖人は、その地獄に落ちる原因、殺生とか、妄語と
か、そういうのね、そんなのは誰でもしてるわって言われてるんだ。ミもフタもない
んだけどね。そうだよね。生きてる限り、小さな虫も踏まずに生きた人はいないし、
一生に一度も嘘をつかない人なんかいないだろうって。でも大聖人は語るの。仏典に
よると、そういう人たちはみんな地獄に落ちるんだよって。そして次々とそれらの罪
で落ちる酷くなる地獄の様相を説明されているの。おせっかいにも、それぞれの地獄
にいる期間までも説明されてるんだけど、それも想像を絶するような期間なんだわ。

最初から救いようのない話をされてるの。そして、この話におちはないから。

さんざん脅かしたあとで、最後の阿鼻地獄のことだけは恐ろしすぎて、聞いた人が死
んでしまうから経典にも書けないほどの恐怖なのだと。恐ろしすぎるわ。でも仏典ど
おりなら、地獄に落ちるのを避けられる人なんて、誰もいないだろうねって。この救
いようのない話のふりに、大聖人はフォローもなく言われてる。「でも、みんなは、
本当は、自分は地獄に落ちないと思ってるじゃないか」と。勝手なものだねと。


「設い言には堕つべきよしをさえづれども心には堕つべしともをもわず」
(顕謗法抄、P446) 真蹟あり



誰でもみんな勝手な解釈をしてるんだって。例えば、悪いこともしてるけど、けっこ
う良いこともしてるから、それで相殺して地獄に落ちないとか、勝手な理由を思いつ
きで言ってるけど、大聖人はそれを言下に否定されてる。そんな相殺なんてこと仏典
に書いてないから、みんな地獄に落ちると。要するに、みんな、仏さまの言葉を軽く
考えてるんだわと。え~、だ、大聖人、ひどいっっ。


「仏菩薩等をばかろくをもえるなり、」(同、P446)


大聖人はなぜこんなことを言われたのか。結局、みんなひどい地獄に落ちると結論づ
けられたのか。いいや、そこまでは言われていないの。地獄の苦しみを細かく描写し
たけど、みんな信じてないだろ、仏の言葉を軽く考えてるんだよでおしまい。そう戒
められた大聖人御自身は、本当に人々が「そんな」地獄に落ちると思っていたのか。

大聖人がそこを述べられていないんだから、言わない方がいいのかもしれないけど、
疑う気持ちが大きくなっても困るから、はっきりと言っておくけどさ、違うから。

本当にそう思ってたなら、諸御書、例えば善無畏三蔵が世間のことで地獄に落ちない
はずだとか述べられた理しないから。つまり大聖人御自身も、世間の善行をどれほど
重ねても地獄に落ちることは免れないなんて、実はそんなことは考えてはいないんだ。

本当にそうなのかって。実はそうなんだよ。ここまで何度も述べてきたけど。法理か
らいうと、そういうのは架空の話だって認識されてたの。真蹟のある御書では、十字
御書にきちんと書いてあったのは紹介したよね。「観心本尊抄」には、天台大師の説
いたのは全部が「説己心中所行法門」だってのもあったよね。それが天台大師の理解。
だいたい、十界互具が説かれた後、他の世界なんて架空だって、もうわかってるんだ
って。そう開目抄にも書いてあったもの。もっと誰にでも分かりやすいのでは、「上
野殿後家尼御返事」には、死んで落ちるという地獄などの世界は、生きてるこの現実
の世界、残された家族のいる世界でしかないことが克明に描写されているの。これは
真蹟が無い御書だけど、少なくても当時から人びとの理解はそういうことなの。分か
ってくれるかな、現代人のみなさま?

少なくても天台大師のころから、みんなそうだと思ってたわけだよ。言うまでもなく
十界の互具が説かれた時点でそうなんだけど、天台大師も「三果は人無きが故に」と
まで言われてるの。爾前経の仏とか、本当はそんな仏はいないんだって思ってたんだ。

つまり誤解を恐れずに言うと、大聖人は信じていないことを述べられていたの。それ
は誘引のためだからね。方便に使ってたっていうと分かりやすいかな。

では、なぜ、「顕謗法抄」を始めとした諸御書では、地獄におちると言われたのか。
なんで、そんなに救いようのない話をされてしまっているのか。答えはきちんとその
「顕謗法抄」に書いてあるよ。「みんな、そのままの通りには信じてないだろ」と。

その上で大聖人が地獄を詳細に説いた理由は想像に難くないから。

開目抄の六難九易のところで述懐されていたのを思い出してほしい。経典に説かれた
六難九易。学会員には、この部分は戸田先生が己心の障魔を克服することの大変さに
置き換えて指導されてるのを思い出すんだけど、原意を考えるときには、それはちょ
っと切り離して考えてほしい。

もともとの六難九易は、絶対にできないことを、法華経を弘めんと決意する人につき
つけてるわけなんだ。でもそれは本当にそうではないんだと行者は悩んで気がつくの。
つまり、本当に本気でそうだと悩んで行者の決心を誘引するための言葉だったんだ。
大聖人は開目抄では「慈悲」からそう説いてるんだと一言で表現されてるのが証拠。
それと同じだよ。よく、お母さんが、「そんな悪いことばかりする子は、煮て焼いて
今晩のおかずにしちゃうよ。」と脅かすのと同じ。そんなこと言っても、晩飯を抜き
にされたことは無いんだってこと。(あったらごめん。)

これらの地獄の説明は、仏が人びとを悪道に導かないように考えさせるための言葉な
んだよ。だから本当のことを言われてはいないの。大聖人にしてみれば、それにした
って、みんな、なめてるよなっていうのが、当世の人びとを見ての描写なわけ。

同抄には、他にもなるほどと思う描写があるの。父母を殺すという五逆罪を犯す人は
あまりいないけど、自分の都合で仏像を焼いたり、寺院を奪ったりしてるだろと。


「但殺父殺母の罪のみありぬべし、しかれども王法のいましめきびしくあるゆへに此
 の罪をかしがたし、若爾らば当世には阿鼻地獄に堕つべき人すくなし但し相似の五
 逆罪これあり木画の仏像堂塔等をやきかの仏像等の寄進の所をうばいとり率兜婆等
 をきりやき智人を殺しなんどするもの多し、此等は大阿鼻地獄の十六の別処に堕つべ
 し、されば当世の衆生十六の別処に堕つるもの多きか」(同、P447)


みんな、仏教を大切にしてるように口では言うけど、こだわるんだけど、自分勝手な
都合で、いいようにやってくれてるじゃないかと。都合が悪ければ仏像だって焼くし、
仏僧だって殺すんだから。そんな宗教観なんだよ。いつの世も、仏典の教えを真芯に
受けて心から信じていこうと、真摯な姿勢で学ぶ人なんて・・・ほんといないって。
それとも、これらの地獄に落ちると経典に書かれたのを読んで、心から信じた人がい
るのかと。・・・うーん、考えさせられるね。

つまり、乱暴にいうと、世間の人も、仏典をそのまま信じようとしてないってこ
となんだよ。都合が悪ければ自分の都合による解釈、それが世間で通っていたの。

現代人とあんまり変わらないってことなんだよ。



  • [63]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月22日(水)23時53分6秒
  • 編集済
  • 返信
 


No.061 【法理について】① 人びとはどんな風に信じてたのか。


今日から信仰の背景となる法理をば。

「報恩抄」を理解するのに、そこまでいるのかって。もちろんなんだよ。それで難し
い話をするつもりなのかって、違うからね!! 仏法への理解を無しに御書が分かるわ
けがないもんね。ここが重要すぎる視点だと思うからなんだよ。

ここからは、諸宗の学者なんか、述べてもくれないことだし、考えてもないことだし
、でも!!。実際に大聖人が何を大切にされてきたか。そういうことに触れておきた
いの。学者なら客観性こそが大切なはずなのに、勝手に自分達の矮小な思い込みで、
「難しい単語」を振り回すことに貶めて、大聖人のお考えだとしてきた諸々の学者。
意味が分かってないことを全て仏教の不思議な概念だとしてしまったから、彼らの説
明だと実像からは、ほど遠いんだってことに気づいてほしい。

本当に客観的に冷静に考えるなら、まず自分たちの足元をよく見つめて、昔の信仰者
がどう考えたかを想像をすべきなんだよ。

私はよく昔の信仰者だって、神や仏の話だからといって説話なんかを全て鵜呑みにし
てたわけではないって、いつもいろいろな例で述べてきたつもり。それが御書の理解
につながるからだけど、端的にいえば、それは仏法の根幹への理解につながるんだ。

では、昔の人は大聖人をどう見て、仏教をどう信じていたのか。今回はそこからね。

大聖人が書かれた御書の中でも特に重要な十大部の一つに「下山御消息」という長文
の御書がある。この御書、現存してるのが奇跡に思える御書なのだ。もともと信仰し
てない人に送った御書なので、欠片でも残存しているだけでもありがたいことだけど。
現代では、かって散逸したうちの、全体の約1/7が集められてるの。残りは消滅かな。

散逸といっても頁ごととかじゃなくって、全国20か所に散逸した断簡だったの。
1頁よりもっと細かく切り刻まれて、1文字とか、2文字とかの部分もあったらしい。
細々なの。これが真蹟御書として、たとえ1/7でも読めるなんて「奇跡」だよね。

なんで、文字ごとに切り刻まれたのか。昔の関係者は、ありがたい文字だからと、切
り抜いて、お守りにしたらしいんだ。「日蓮」の文字とかをね。むろん当時から御書
なんて、普通の人が容易に手に入らない貴重なものだから関係者の手によってそうさ
れたんだろう。つまり、信仰のつもりで、切り刻んでしまったのだ。本人はそれで大
聖人が守ってくれると信じたのかもしれないけど、これって、もし本気で書いた本人
の気持ちを考えたら、反対に罰があたりそうだとは思わないのかって。

実に残念なことだけど、他の多くの御書だって多かれ少なかれ、そんな散逸を免れな
かったんだろうと思う。大聖人亡きあと、僧侶社会では、殺し合って奪い合ってでも
自派の正統性を誇示しようとしてきたりしたんだわ。大聖人の御書にいたずら書きを
したり改ざんなんか日常茶飯事。

ずいぶん昔の人は勝手なことをしたものだと。でもね、そう思うのは現代人の視点だ
からだよ。今の人たちだってあまり変わらないんだけどね。



  • [62]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月21日(火)22時45分44秒
  • 編集済
  • 返信
 


No.060
 【道善房について】⑦


ちょっとややこしいかもなので、御書を時系列で順番に並べてみた。

①「善無畏三蔵抄」(文永7年・49歳)
  ・清澄寺で大聖人は道善房と再会したこと(文永元年・43歳)を述懐。
  ・その後に道善房が改心したことを喜ばれた。(文永7年・49歳)

② 佐渡流罪(文永9年・51歳)、道善房はまた知らんぷり。勝手に死ねばみたいな。

③ 道善房が亡くなる(建治2年・55歳)← 55歳っていうのは大聖人のことね。

④「報恩抄」(同年)
  ・道善房のことを懐古しながらも、厳しく書かれてるんだ。
  ・やっぱり大聖人も裏切られて、厳しく言うようになってしまったのかみたいな。

⑤「華果成就御書」(弘安元年 4月・57歳)、道善房の3回忌。
  ・道善房を褒めちぎってるので、偽書なんではないのとかの無責任なウワサが。

⑥「本尊問答抄」(弘安元年 9月・57歳)
  ・上の御書と同じ年に再び厳しく批判されてるの。


こういう順番なので、世の中の人は、大聖人は、道善房を最後は馬鹿にしたはずじゃな
かったのかみたいに思ってるの。(そう心の底では思いながら、麗しい師弟関係だとか、
想像を補って勝手に言ってるみたいなかんじ。)だから、「華果成就御書」みたいに
途中で褒めすぎる御書があるのはおかしいんだと、まあ、普通だったらそう思うよね。

この最後の「本尊問答抄」には、こんな批判があるんだよ。


「故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中に
 は不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ
 給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし地獄まで
 はよもおはせじ又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず中有にやただよひまし
 ますらむとなげかし、」(本尊問答抄、P373) 日興上人写本(断片)あり


大聖人によると、道善房は師匠だったけども、法華経のことで地頭に恐れをなして、
心の中では「すまない」と思いながらも、表面上は敵のように憎んできた人だって。
(あのね、他人の心中なんて本当の所は分からないからね。つまり外にとった態度は、
かたきのようだったのと、 憎んでいた、ってことだよ。庇いながらもそういう表現な
んだからね。)

後になって「少し」信じたと聞いたけど、臨終が厳かなものであることは期待できな
いだろうと、大聖人は心配して言われてるの。法華経を信じたんだから地獄までは行
かないだろうけども、成仏もかなわないだろうから、漂うことになるのだろうかと嘆
いている、と、そんなふうに心配されてるんだ。

ここも各々の御書を素で読めば、全然おかしくはないと思うんだ。改心されたことを
いったんは喜ばれ、 再び法華経を本当に信じる機会があったのに見過ごしたことをま
た嘆かれ、それでは成仏出来ないと心配されているの。

他と違う御書、「華果成就御書」で褒められてるのは、何も道善房が法華経を信じた
行者としてではないから。何もしてないから、この人は。信じたうちにも入らないっ
てあっちこっちに言われてる通りだよ。それでも大聖人がここまで智者になれたのは、
道善房が機会をくれて道が開けた、それだけではなく、そのあと、菩薩がわざと邪見
の相を現じるという法華経の文のままに、道善房のおかげで(良い言葉が浮かばない
けど、反面教師とか、頼らずに自立できたみたいな感じで)成長出来て、感謝してい
るのだと、境涯が大きすぎて普通の人の発想には、夢みたいに聞こえるのかもね。
いわゆる、「子供に手を焼くことで、パパは本当にパパになれたよ、ありがとう」的
な話だと言えば分かってもらえるかな。その根拠は引用してる法華経の文だよ。

それでだ、ようやくだけど、「報恩抄」での批判は何のためって。No.56を見てもら
えればいいんだけど、法華経を信じてるうちになんか入らないってことだよ、このお
かたは。功徳で言えば全然なしってこと。大聖人が本当に困ってるときに、それを救
える立場の人が見捨てておいて、そのあと題目を唱えようが、釈迦仏を立てようが、
意味がないよね。でもそれを言うと、大聖人は、結局、道善房のことが嫌いだったの
かみたいにすぐに人は誤解するんだけど。「好き・嫌い」の話から人間はどうしても
頭から離れないからね。だけど大聖人はそういう視点で語ってるんじゃないんだよ。

お墓参りにも行かなかったけど、その理由は、なんとなくだと説明されてたよね。
通説では、なぜ、行かなかったかという理由は説明できないから。でもさ、大聖人が
なんとなく行かないからだって言ってしまうと、宗教者として権威も実もフタもない
話だから、まあ、遁世の身だからとか、理解できない話に落ち着けてしまうわけ。

前にやった【 身延編 】(No.39からNo.54)は、その説明のためでもあったんだ。
大聖人が身延をなんとなく降りられなかったのは、法難が周囲の人に降りかかるのを
避けようとされたのも理由の一つではないかと私は推測した。

もう一度、平頼綱との最後の会見を思い出してほしい。最高権力者の北条時宗からの
依頼、大寺院の寄進もしてあげるから、国を助けるために調伏を行うようにとの依頼、
ああ、「依頼」っていうから変なんだよね、命令だよね、それを断ってって、これ、
国家の命令に逆らったんだよ、大聖人は。自分もすごい祈祷をするからと答えたんじ
ゃなくて、そうじゃなくて、調伏してくれる各宗派の首を斬れって言ったんだよね。
この国家反逆ぶりで、殺されないほうがおかしいわ。

これから戦争が始めるのに、こんな一派を幕府が放置してくれるはずがないよ。だけ
ども処刑してしまっても、庶民の中に不服が残るよね。普通に考えると権力者ならば、
横死を狙うよ。悲惨であればあるほどいいの。罰が当たったんだって、残った人に言
えるから。多くの門下を巻き込んでくれたほうがいいんだわ、きっと。

それで大聖人も、おそらくはもっと平頼綱との会見以前に、降りかかる災難について
予見されることがあったのだろうと思われるの。平頼綱だって馬鹿じゃないからね。
根回しして、大規模な襲撃をするよりも、言葉一つでいなくなってくれれば、それに
こしたことはないからね。当然そうなるだから、そこを見越せば、だから流浪しかな
かったの。 そこは私の想像だけど。

加えて世間の人から誤解されやすいのは、大聖人は法難なんか避けないだろうって。
死んでもいいんだって思ってたし、流罪を赦免運動も断ったんだからって。いいえ。
違うんだからね。そんな風に考える人は、話が全然見えてないと思んだ。当事者のつ
もりで考えればわかるよ。騒ぎが起こるのが嬉しいんじゃないの。前に進めば法難が
伴うのは必然 なの。法難が来て、その法難を「乗り越えよう」とすることに意義があ
るの。法難が来て「手を抜いて」死んだことを誇っても意味がないのだよ。そんなの
謗法なだけだよね。来たらそれを乗り越えて、生き残ろうと必死にあがくの。

分かってほしい。門下に法難が降り注ぎそうなら、それを避けようとするの。法難が
無ければないに越したことがないんだから。でも成長していく過程では必然的にくる
ものだって、そういうことだからね。だから、大聖人が信仰を薦めておきながら、門
下に法難が来ないように心配するのは当然にそう考えるだろうなってことなの。だか
ら山を降りられなかったのは、そんな理由からではないかと思うの。

もう一つは聖人としての矜持だよね。門下に優遇されながら法門を著述する姿ではな
く、御書には何度も何年間も一度も山を出ていないと言われているの。厳しい土地で
の生活で、清楚な生活に、御自身の正しさをこれほどまでかと世に示されるお姿。

山中で餓死しそうでも関係ない。同居したがる弟子らをもことごとく返そうとした。
それが数年で状況は変化して、やはて公上対決の話や、持ち上がった3度目の流罪も
無くなり、熱原などの鎌倉近県の門下への弾圧も終結した。それだから、今度は、
そこに身延の寺院を建設することにしたんだ。

また襲撃されない環境下で著作する必要もあったと思う。老年になるまえにまとめて
おきたいっていう御書もあったよね。弟子の育成もそうだし、いろいろとしておきた
いことがあったのだと思う。でもそういうのは、一度も山を降りようとされなかった
理由にはならないよね。

報恩抄を書かれた健治2年は、身延に来て、まだ2年しか経ってなかったころ。末に
も通らないと大聖人が言われたのは、身延を降りた情報が幕府側に届けば、関与した
門下には迷惑が伴う。ましてや、清澄寺だなんて、そこに行けば、また門下を含めて
東条景信の子息に襲撃されるのなんて、当然と言うか、何の状況も変わってないから。
大聖人の方針は、自分は法難で殺される覚悟は出来てても、門下にも思い切れとは言
われてはいるけれども、出来るだけ、妻子のある門下への法難を避けさせようと配慮
してきたんだ。だから行けないんだよ。その理由を明確に口にだして言えないけど、
みんなが分かってることだから、「なんとなく」なわけなの。

という点を踏まえれば、道善房を軽んじて墓参りに行かなかったといよりは、積極的
に明確に行けない理由があったんだ。だから道善房を大切だという気持ちに、何の矛
盾もないというわけなの。純粋に大切に思われていたんだと思う。その上で、法華経
を信じてるわけではなかったと手厳しく言われてるの。道善房に信仰だとか功徳とか、
法華経とか、そんな目で見て彼を理解しようとしても全然だめなの。

―― そして。報恩抄の後段は。

それでも、そんな道善房を救いたいんだという思いが溢れてるんだよ。
こんな人だったのにね。

「此の十余年の間は見奉らず」(善無畏三蔵抄、P889)

「師にて候し人かんだうせしかども」(王舎城事、P1138)

「としごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば、」(報恩抄、P323)

「法華経を信じたるにはあらぬぞかし。」(報恩抄、P323)




  • [61]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月20日(月)17時11分35秒
  • 返信
 


No.059 【道善房について】⑥


前回の「善無畏三蔵抄」の続き。

12年目に再会した道善房からは、自身の安堵だけを心配した質問が寄せられた。
そのときに大聖人はどう答えるか、少し迷ったけど、こう答えたんだ。


「爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智
 が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じ
 おだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二
 度見参の事・難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つ
 べき人と申して有りしが臨終思う様にも・ましまさざりけるやらん、此の人も又
 しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、」
 (善無畏三蔵抄、P889)真蹟なし、録外。


道善房とは、言い争いこそしなかったけど、清澄寺を追いだされてから会うことも
なくて、喧嘩したのと同じだった。そんな再会だったから、ここは穏便に話すべき
だと大聖人は思ったけど、老いた道善房を見て、次に会えるかも分からないので、
あえて厳しく言うことにしたんだって。道善房のお兄さんにも同じことを言ったけ
ど聞きいれなかった。その師匠のお兄さんの亡くなった死相がよくなかったので、
それが哀れだったから、今度は強く言ったんだと。
こんなふうに大聖人の仏法の正邪の判断は、現実の死相という現証に立脚してる部
分があるんだよ。諸学者が言う仏法がどうのとかの想像ではなく、現実の証拠。

そうして大聖人は道善房にこう言ったの。


「阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の
 法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五
 体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非
 ずや、中中・山人・海人なんどが東西をしらず一善をも修せざる者は還つて罪浅
 き者なるべし、当世の道心者が後世を願ふとも法華経・釈迦仏をば打ち捨て阿弥
 陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善
 人とは見えたれども親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず、」(同) 



こういう思いで大聖人は、明確に言われたの。阿弥陀仏を5回も作ったんなら、地
獄に5回も落ちて当然だって。釈迦仏という父を捨てて、阿弥陀仏という伯父を大
切にするような者は親不孝者だと。大聖人は法門に暗い人には難しい論理なんか使
わないからね。これを見ても道善房は法門に疎いんだわ。山や海で生活に追われて
る人が東西も正邪も知らないのは罪も浅いけど、仏法を学ぶ者が、阿弥陀仏を大事
にするのは、親を捨てて、他人と交換するような罪深いことだと言ったんだって。
それからもっと厳しく言われるの。


「一向悪人はいまだ仏法に帰せず釈迦仏を捨て奉る失も見えず縁有つて信ずる辺も
 や有らんずらん、善導・法然・並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本
 尊として一向に念仏を申す人人は多生曠劫をふるとも此の邪見を翻へして釈迦仏
 ・法華経に帰すべしとは見えず、」(同)


世の中の悪人は、仏法に無関係だから釈尊を捨てる罪もない。何かの縁があれば仏
法を信 じることもあるかも知れないけど、浄土宗の邪義を信じて念仏を唱える僧侶
は、たちが悪いからずうっと未来まで正しい道に入ることはないだろうって。


「されば雙林最後の涅槃経に十悪・五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふ
 に謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒へる智者共の中にこそ有
 るべしと見え侍れとこまごまと申して候いしかば此の人もこころえずげに思いて
 おはしき、傍座の人人もこころえずげに・をもはれしかども其の後承りしに法華
 経を持たるるの由承りしかば此の人邪見を翻し給ふか。」(同)



だから、涅槃経には、250個の戒律を持ち、まじめに修行する智者たちの中にこそ、
謗法で人びとを不幸に導く恐ろしい者たちがいると説かれてるんだと、そう道善房
にえんえんと話したところ、道善房は「もういいから」と全然理解しなかった素振
りだったし、周りにいた人たちも「何をゆってるんだか」みたいな感じだったけど、
その後、聞く所によると、なんと、道善房は法華経を信じ始めたという。

大聖人が言われてるのはそこまでだけど、私はこれを読んで、なんだかなって感じ
がするんだ。パターンだよね。一生懸命に真心から話しても、斜めにしか聞いてな
い態度。中高生ならともかく。その後にこっそりとやり始めてるのって。遠い人な
ら本当に喜ばしいことだけど。近親者なら、なぜ素直に報告しないの。前回の質問
の内容にも現れてるんだ。死者が出ても、自分が重傷を負って明日をも分からない
のに、それでも布教をしようとする大聖人の決意すらも、道善房の目には、立身出
世とか、名僧として名をとどめるかどうかとか、そんなことが目に映るんだ。

教えてくれた人には何も言わないの。重い決意もなく、自分もちょっとやり始める。
でも、もともと、簡単においしい目に会いたいだけだから、何も決意を語らない。

これが趣味だったら好きにすればいいよねって感じだけど、みんなが命がけで大切
にしてる信仰を、こんな視点で見てるような師匠って、一体、どうなんだかね。
ああ、世間的に分かりやすく言えば、奥さんに相談もなく、「〇〇〇万円の車を買
ったからね。だっているだろ。」とか、奥さんになる予定の人に相談もなく、「海
沿いの一等地にマンションを買っておいたからね。」っていう亭主みたいなもの。
良いことしたって亭主は思ってるんだろうけど、「相談なしかよ」の思いのほうが
普通は先に立つんだよ。だけど、そういうのは私の主観で、大聖人はそんな心の狭
いことは言われてないけど。言われてないけど、こっちはなんとなく分かるって。


「善人に成り給いぬと悦び思ひ候処に又此の釈迦仏を造らせ給う事申す計りなし、
 当座には強なる様に有りしかども法華経の文のままに説き候いしかばかうおれさせ
 給へり、忠言耳に逆らい良薬口に苦しと申す事は是なり。」(同、P890)



それから道善房は、阿弥陀仏はやめて釈迦仏を造ったんだって。大聖人はそれを喜ば
れてるの。あのときには強く言ってしまったけど、法華経の文のままに強く言って本
当によかったと。本文を 数行ほど飛ばすけど、大聖人は、ここで、声を大にして叫ば
れてるようだわ。この道善房が法華経を信じたのは、大聖人が、自分が強く語った言
葉によってだ、と。大 聖人は自分が導いたのだと高らかに誇られているんだ。(私は
ちっぽけな人間だった。)


「強言とは思食すとも実語・軟語なるべし、例せば此の道善御房の法華経を迎へ釈迦
 仏を造らせ給う事は日蓮が強言より起る、日本国の一切衆生も亦復是くの如し、」(同)


そうだね。
大聖人は心から喜ばれてるんだから、私なんかが、やきもきしたって、馬鹿みたい。
あー、そうだよ、私は心の狭い人間だよっ。だって許せないって思うもん。こんな人、
絶対にすぐに退転するわって。

それでこの御書が書かれたのが文永7年のことで、よかった、よかったで終わってる
けど、文永9年からの大弾圧で大聖人が佐渡に流罪されると、窮地におちた大聖人を
見て道善房はまた、知らんぷりするんだ。道善房は、また、まただよ、大聖人を裏切
ってしまう。(ほうらね、ほうらね。)

大聖人が最大の苦難にあったとき、世間の人は、おそらく佐渡から帰ってくることは
ないだろうと思ったの。やがて、殺されてしまうんだろうなと思われていたんだ。
そのときにも道善房は一度も来てくれることも手を差しのべてくれることもなかった。
報恩抄には、その時のことを、力のない立場ではないのに、何か心配して人をやると
か支援してくれるとか、そんなこともなく、という思いが述べられてるんだけど。

道善房だけが特別に意地悪だったわけではない。師匠も、父母も、兄弟も、みなが反
対を唱えただけでなく、大聖人に敵対したんだ。 これってどうなの。


「日蓮ほど・あまねく人にあだまれたるものは候はじ、 ~ 彼等もいまだ日本一州
 の比丘比丘尼優婆塞優婆夷の四衆にはにくまれず、日蓮は父母・兄弟・師匠・同法
 ・上一人・下万民・一人ももれず父母のかたきのごとく謀反強盗にもすぐれて人ご
 とにあだをなすなり、」(国府尼御前御書、P1324)真蹟あり

(日蓮ほど、父母・兄弟・師匠・友をはじめ、上から下までの万民に憎まれる人はい
 ない。まるで親の仇、謀反人、強盗などのように、人ごとに迫害を加えられる。)




  • [60]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月15日(水)22時47分23秒
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No.058 【道善房について】④


小松原の法難は、大聖人の法難の中でも、戦争と表現されるくらいに大変な法難
だったの。10人を襲うのに、なぜ、そんなに大勢で襲わねばならなかったのか。
なぜ、大聖人は生きながらえたのか。その解説。

地図を見ると、よくわかるけど、「なんでこんな平地で待ち伏せしてたんだ」っ
て誰でも思うよね。それは襲う側の理由なんだよ。

鎌倉時代の支配関係は複雑すぎて素人の私には分からないから、端的に言うと、大
聖人は信仰をしてる工藤吉隆という領主に招かれてそこの領地に向かって歩いてい
ったの。前回の添付した図を見てほしい。たぶんこの上の端あたりからが工藤吉隆
の領地だと思う。そのためにお隣の東条景信の領地を通ったわけだね。この襲撃場
所から隣の領地まで1kmも離れてはいないんだよ。

状況にもよるけど数km先にも声は届くから。騒ぎになれば、田舎の平地で1kmな
んて余裕だよ。つまり逃げた人が工藤吉隆に救援を頼まなくても、聞こえるんだよ。

東条側は大聖人がここを通るとの情報を得たんだ。でも、その人数が正確に何人に
なるかまでなんて分からないだろ。隣の領主が加勢に来ることも想像できたはず。
数人とはい え、実際に来たしね。東条側は、隣の領主が来ようが、その同行者がい
ようが殺 してもいいって判断したんだろ、これ、もう戦争だよ。それでだ、あなた
が東条景 信だったら、何人繰り出すの?

東条景信に何人の家来がいたかなんて知らないけど、全員だよ。絶対に仕留めたい
んだろ。だけど、この平野を見てよ。確実に言えるのは、東条景信は殺したがって
るんだけど、大聖人は戦って東条側の首を取ろうと思ってないから、絶対に逃げた
いんだよ。しかも山が迫ってる平地で、あたりは松の林だったんだよ。何度も言う
けど大聖人は向かってきてはくれないの。東条景信は馬鹿でもないかぎり、複数の
方向に人員を回り込まさねば、おちおちと逃げられるのが想像できるはずなんだよ。
逃げる側は全部を相手にする必要はないから、360度のうち逃げる方向だけを選べ
ばいいんだよ。見晴らしがいいんだから、これだと、100人でも足りないわ。

御書によると、最初から馬で駆け寄ってきたわけじゃなくて、最初に弓を雨のよう
に射かけたっていうから、距離があったってことだよね。ああ、なぜ最初から馬で
追いかけて来なかったのかっていうのは、現代のサラブレットみたいな馬じゃない
からね。これが、か・ま・く・ら時代、だということをお忘れなく。馬は現代の馬
のざっくり半分くらいの大きさ。速度も大したことないの。自転車と同じようなも
の。当時の武士は馬に乗って弓で射かけるんであって、馬に機動力がないから弱っ
ちいわけなのよ。そういうわけで、遠くから見えた時点から馬で全速力で来たら、
人間を載せた馬なんてすぐ疲れるし、人間が走って逃げきることは可能なのよ。も
ちろん、当時の人の背丈ほどもあって強い名馬もあったけど、みんなじゃないから。

だから馬で近接するまで走ってこないで、先に弓で射かけるってわけなの。それに
みんな勝手に大聖人は徒歩だったってことにしてるけど、そうとも限らないから。
大聖人の側だって馬に乗って移動してかもしれないんだからね。大聖人は馬に乗れ
たし、身延でも最後まで馬を大切にされて愛でてたからね。野生のがなついた栗鹿
色の馬がお気に入りだったのよ。竜の口の時にも馬上から勝手に降りたりしてるの
も乗れたからなんだ。小松原の法難の時は、天津の領主様からのご招待なんだから、
馬ぐらい用意されてても不思議じゃないしね。

しかも時は夕暮れか。松の林があるって海沿いの防風林だから。風の強い日が多か
ったんじゃないかな。しかも松林だと弓で狙いにくい。なんか逃げるのに最適な状
況だよね。反対に東条景信はその不利な状況を知ってて人数を繰り出してるんだよ。

これを漆黒の闇での奇襲だと書いてる学者は馬鹿だよね。月も煌々と登ってたろ。

あと言えば、敵側の東条景信の所従は、大聖人の顔なんておそらく知らないから。
東条景信が必ず殺そうと思って11年間思ってきた人物なだけだから。11年前に、
ちょっと清澄寺に来ただけ。その前、大聖人が清澄寺にいたのって子供の時だよ。
東条側のほとんどの若い侍は、大聖人が誰なのか、顔を知らないんじゃないの。

よく逃れられたなって思うのが半分、半分は、東条景信の部下だって主命だから戦
うけど、これって義があるのかと思うよね。当時の人は、無関係に僧侶を畏れ敬う
ものだと思ってるんだもの。自分たちが生き残るための殲滅戦とは様相が違うはず。

御書には、弟子の1人はその場で死亡。他に2人が重傷を負った。工藤氏がその数
に入るのかは不明だけど、じきに亡くなったとされる。そして大聖人も多くの矢傷
を受け、左手を折られ、頭には10cm以上の刀傷を受けたと伝えられてるの。大聖
人側の人たちの気持ちを考えてみよう。なぜこんなことになったのか、なぜ、あの
時にあそこに東条景信がいたのかを考えると、こちら側に裏切り者がいて密告した
からだと考えるのが普通だね。東条の屋敷のすぐ南の松林の街道。危険だからと思
って日中を避けるぐらいなんだから、信用できない人には行動の予定を洩らさなか
ったはずだと思う。それなのに。これも法戦だと割り切れるものだろうか。 大聖人
はどう思われたのだろうか。

共に戦う仲間を殺されて、信用した者からは裏切られ、自分も逃げねばならなかっ
た。それらの痛みの中で、おそらく出発地点の花房の蓮華寺に辿りついたんだ。


道善房のおっちゃんが大聖人のいる花房の蓮華寺にお見舞いにやってきたのは、そ
んな夜の3日後だ。大聖人は負傷の姿。久しぶりの再会。大聖人の側は、戦う中で
殺された門下の弔いが終わったかどうかという所。他の重傷者の消息は聞けたけど
駆けつけてくれた天津の領主も重傷だけど、おそらく領地は反対側だからお見舞い
にも行けなかったことだろう。重傷者も含めて皆の安否も気になるところ。

その場に来た道善房とは、いろいろな会話もあっただろう。だが。

大聖人がこの御書で語る、道善房のセリフはこうだった。道善房いわく、「自分は
智慧もないから、これ以上出世もしないだろうし、ほら、名僧として世間の人に謳
われることもないだろ。世間の人がやってるから、念仏を唱えてるだけなんだけど。
自分がそうしたかったわけではないけど、義理もあってさ、あれから阿弥陀仏の像
を5つも作ったんだけど、これって、地獄に落ちるのかな、どうなのかな。」

これって、自分の名聞名利のことだよね。大聖人を見てもそんなふうな感想なの。
ほ、他に言うべきことが、ないのか、と思ってしまう。この人、ピントがボケてる
よ。なんで出世の話なの。なんで名僧になるかどうかの話なんだ。殺されていった
門下が当座に苦しんでて。そして尋ねて来たのは、現実の問題に即したものではな
く、自分が行ってきたこと、それも自分の本心ではないんだと、いいわけをしなが
ら、阿弥陀仏を5体ほど作った罪で地獄におちるのかなって、そういう心配だった
の。この前置き部分、これを書いた大聖人の寂しい思いが伝わってくるようだわ。



  • [59]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月13日(月)23時24分22秒
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No.057 【道善房について】③


報恩抄の最初に出てきた昔話の人たちだって、「何」かがあってそこまで深い恩を感
じたんだっていう人ばかりだった。これまでの御書では、道善房が誓願を助けてくれ
たことを、虚空蔵菩薩が高僧となって現れたとまで表現されてた。大聖人にとっては、
自分のことを子供のときから世話を焼いてくれた、あるいは自分という人間を見出し
てくれて清澄寺に迎え入れてくれたなどもあるかもだけど、それらの通常の恩義以上
に、本来なら絶対に自分には手の入らないはずのこと、自分の強い誓願の実現に、道
善房が節を曲げてまで助力してくれたことに感謝されたのだろうと思う。道善房自身
は法門への理解などほとんどない、つまり人々を救おうという強い動機など無かった
けど、幼い大聖人の「当時のみなが知る事件」(それが何かは言われてないし、私的
なことでよいと思う)のあとの、誓願される姿をみて、「不憫」だと感じ入って手を
貸したんだ。

大聖人は修学を追えて報恩の思いで清澄寺で布教を始めた。それなのに道善房は大聖
人をすんなりと裏切ってしまうんだ。あれっ、道善房って裏切ったのって?そうだよ。
御書には、大聖人を勘当したと書いてあるんだ。自分は無関係だと。大聖人が東条景
信に引き渡されなかったのは、逃げるのに手を貸してくれた兄弟子2人がいたからな
の。この二人がいなければ大聖人は、殺されて、全ては闇に葬られたってわけだよ。

大聖人は、報恩抄では懐古しながらも、道善房には法華経を信じてるという要素が無
いこと。そのことを強調されてるんだよ。これを冷静な事実として述べなければ、後
段の意 味が分からなくなるの。たとえ道善房本人が信じてると言おうと言うまいと、
信じていないに値するという評価を突き下したの。

一方で、法華経の修行もまだしてない兄弟子2人を指して、隠して逃がしてくれたこ
とで、彼らの後生の成仏は間違いないのだとも断言されているんだ。

道善房のことを別の御書からもう少し追おう。今度は「善無畏三蔵抄」から。
前段は省略して、途中からの抜粋だからね。


「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御
 恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、此の恩を報ぜんが為
 に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す、而るに此の人愚癡にお
 はする上念仏者なり三悪道を免るべしとも見えず、而も又日蓮が教訓を用ふべき
 人にあらず、」(善無畏三蔵抄、P888)真蹟なし、録外。


大聖人が諸経が悪いという論理を知ることが出来たのは、虚空蔵菩薩が道善房とな
って現れてくれたおかげなんだと。ここの表現もちょっと注意。他の御書でもそう
だけど、仏法の根幹を知ることができたという表現ではないんだ。何が正しいのか、
何が間違っているのかは、現実の人びとの生死の姿を見ておおよそは知ってたから。
経典という智慧を実際に自分で読むことで、諸宗の失点がどこにあるのかを具体的
な言葉で知ることができたんだよ。それを解き明かすことができたのだと。

大聖人はその恩を道善房に返そうと、清澄寺を基点にして仏法を弘めることで、道
善房をも導こうとされたんだって。ところが道善房は「愚ろか」で、念仏の修行が
好きだった ので、全く無理だったって。大聖人の教訓なんか聞き入れる人ではなか
ったと。

その次は、場面が変わるの。これが何の時かって、日付が書いてあるから分かるん
だけど、なんと、小松原の法難の3日後だよ。(そうは書いてないんだけどね。)


「然れども文永元年十一月十四日・西条華房の僧坊にして見参に入りし時彼の人の
 云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立
 てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起こら
 ざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、
 此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、」(同、P889)


つまりだ、清澄寺を追い出されて、ていうか東条景信から逃げて、それから11年、
伊豆流罪もあったし、いろいろあったけど、そんなの大昔のことで、また安房国に
帰ってきたら、またまた、あのしつこい地頭の東条景信が待ち伏せてて、急襲を受
けたんだよ。東条景信だって馬鹿じゃないから、それなりに人数を揃えて行ったと
思うんだ。

余談だけど、御書にリアリティを求めて、ここで少し小松原の法難をば。

御書(P1498)には、このとき大聖人を含めて10人ほどで夜道を歩いていたんだ。
申酉(15時~19時)だというから夕暮れの待ち伏せかとも思うけど、さすがに待
ち伏せする側は時刻を選べないから、「夕方のかなり前」~「日が沈んでからずい
ぶんたった」時までの間だよ。どっちにろ、太陰暦で11日目だから月が出てるね。
上弦の月(太っていく半月ね)で、日が沈む時にはもう、南空から西空の間に浮か
んでるんだから。よほどの雲空でも、真っ暗な中での襲撃ということではないね。

大聖人の一行の10人のうち戦える人は3人か4人だったと書いてあるけど、その
人数を襲うのに、東条景信側も数人っていうことはないわ。大聖人も数えたわけじ
ゃないだろうけど、数百人だったと御書には記載されてるんだ。これが表現上の誇
張かどうかは私には分からないけど。世の中の人は「数人を襲うのに数百人なんて
誇張に決まってる」と思いがちなんだけど、あれ、意外とおかしい数字じゃないん
じゃないって思うの。他の御書にも「合戦にあひ」(単衣抄、P1514、真蹟なし、
録内)と戦争だと表現されてるの。では、あり得ないって思ってる人のために状況
を考えてみよう。

大聖人が常に同行者を伴っていたことは東条景信の耳に入っていたはずだし、それ
が何人になるかまで分からないから、東条側は複数人を捕まえることを想定しなけ
ればならなかったんだ。実際、当日の10人は多いよね。これを殺すのに、あるい
は捕まえるのに、まず、数十人の単位がいるのは、まあ、普通に理解できるよね。

ところで、その場所は、どんなだっただろう。

時代劇で町中のセットでの辻斬りなんかを思い浮かべてたら、ちょっと違うからね。
遭遇したのは、大路ってあるけど、町の中じゃないよ。山道でもない。添付写真を
見て。今の国道181号線。今でも田舎なの。広い平野の一本道。海が見えないくら
いに、海から離れた平地で、当時は名前のとおり「松林」だったと予想される。

添付した上空からのgoogleの写真を見てほしい。この181号線の街道を上に登っ
ていったわけ。181号線は道の両側に家が並んで立ってるので、当時の面影を想像
して181号線の一本隣の山側の道に沿って風景を写してみた。(googleって本当
に便利だわ)「なんで待ち伏せして襲撃するのに、こんな平地を選んでるんじゃい
っ」て思うけど、それは東条景信の領地内だからだよ。そんで隣の領主、・・・
おおっと。詳しい人間関係は不明なので、やめとこう。



  • [58]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月12日(日)11時14分34秒
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No.056 【道善房について】②


では道善房の非道ぶりを。

報恩抄等の御書を見る限り、道善房に向ける目は非常に厳しい。それも仕方がない
のかもしれない。そもそも、この師匠、故郷の清澄寺に帰って布教を開始したとき、
どうしたのだ。ひどい振舞だったけど、それは今までに書いて来たからもういいか。

言っとくけど、この報恩抄は、報恩を述べようと書いて遣わした御書で、そこに恨み
つらみなんて書くわけないよ。基本は修辞として故人を悼むことを書くよ。だからそ
ういう部分があるのは、常識的なことで、挨拶みたいなもので、本当の本心かどうか
は、今一つはわからない。なのに、そんなところばかりに着目して、大聖人は師匠を
大切に思ってたなんて言われても、ちょっと片手落ちだと思う。反対に個人を悼むべ
き文章にわざわざ書かなくてもよいはずの文言があれば、それは本当に言いたかった
ことの気持ちが表れてると思えるのではないかな。

この報恩抄に述べられた、道善房のことを振り返った懐古の部分を抜粋してみた。


「故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわ
めて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。
地頭景信がおそろしさといゐ、
提婆瞿・伽利にことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしを、あながちにをそ
れて、いとをしとをもうとしごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば、後生はい
かんがと疑わし。
但一の冥加には景信と円智・実成とがさきにゆきしこそ、一のたす
かりとはをもへども、彼等は法華経十羅刹のせめをかほりてはやく失ぬ、後にすこし
信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりきなり。
ひるのともしびなにかせん。其
の上いかなる事あれども、子・弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし。力なき人にも
あらざりしが、さどの国までゆきしに、一度もとぶらはれざりし事は法華経を信じた
るにはあらぬぞかし。
それにつけてもあさましければ、彼の人の御死去ときくには、
火にも入り、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたたいて経をも一巻読
誦せんとこそおもへども、賢人のならひ、心には遁世とはおもはねども、人は遁世と
こそおもうらんに、ゆへもなくはしり出ずるならば、末へもとをらずと人おもひぬべ
し。さればいかにおもひたてまつれども、まいるべきにあらず。但し各各二人は日蓮
が幼少の師匠にておはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへ
りて御弟子とならせ給いしがごとし、日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、か
くしおきてしのび出でられたりしは、天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑いおぼ
すべからず。」(報恩抄、P323~324)


道善房のお人柄は、恐ろしくなって、弟子を捨てられた人だと述べられているの。
これらは故人を悼むには、書かなくてもよい部分だわ。(この御書で法門の意義を述
べるには必要なんだけどね。)それにしても素でこの文章を読むと、よく世の中の人
は、これを読んで大聖人が道善房を慕っていたとか言えたよなと思える文章だよね。

話の冒頭からひどい。御書には「いたう」は「大変な」という意味でよく使われてる。
だから、大聖人のことを可愛い弟子だと思ってたなんて、一言も書いてないんだよ。
道善房は、大聖人のことを「自分の手にはあまる弟子だから、憎いとは思わなかった」
けれど、大聖人から見た道善房は、「臆病であって、清澄寺の中で生きることに執着
していた」って書いてあるの。これを読んで、どこにも師弟愛なんて、感じないよ。

その次は、道善房は、円智や実成とかいう人たちが脅かすのを、必要以上に恐れて、
日ごろから大切だと思っていた弟子(大聖人)さえも捨てた人だと。これも「いとを
し」って言葉が書いてあるけど、結句は、脅かされるとその大聖人を軽く捨ててしま
ったんだよ。本当に大切に思ってないよって文章じゃないか。だから後生はどうなる
ことか分からないって、心配だと、そう書かれてるの。

そのあとは、脅かした円智や実成とかいう人たちが死んだので、道善房もそれからは
法華経を少し信じてみたけど、それに何の意味があるのかと。ここも穏便な表現じゃ
ないよ。「ちぎりき(乳切木)」ってこんなだから。戦いの棒だよ。分銅つきの。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E6%9C%A8%E8%A1%93
(契木術)

喧嘩用って、これで頭を殴られたら死んでしまうよ。すごい例だよ。争いが終わった
後の武器のようなもので役に立たないって言われてるんだけど。昼間の灯だとも言わ
れてる。道善房なんか信じてるようでも全然、意味が無いよって。ひどいことを言わ
れてるけど、客観的に見れば、これも大切なんだよ。世間の修辞だったら、「師匠も
ついに私の見解を信じてくれました」と喜ぶのが普通なんだけど、大聖人は特別扱い
なんかしていないの。冷静な目でここは書かれてるの。

その上、弟子と思ってくれるのなら、安否を気にかけてもいいはずなのに、大聖人が
佐渡流罪になったときに、訪れることもなかったよねって。脅かしてた2人は死んだ
んだし、道善房が権力を握っただろうから、力がないわけでもないのに、出来るくせ
に、ぜーんぜん、何もしてはくれなかったよねって。大聖人と道善房の人間関係って、
すごく冷たいものしか感じないよ。

その後の文章は、それでも道善房の死と聞き、不憫に思って、火にも入っても、水に
入ってでも、清澄寺まで走って行って、墓をたたいたり、経巻を読んであげたいと思
った・・・けど、そうはしないからねって。どうなの、これ。

その理由は、自分ではそう思ってないけど、他人が遁世だと思ってるから、行かない
んだと。他の人にも示しがつかないからなんだって。だからどうしても行けないんだ
と。それって、えええ!? いや・いや・いや、他人がどう思っていようが、自分が
遁世だと思ってないんだったら、行けるじゃないかと。普通、そう思うよね。

そして最後には、ただし、兄弟子の2人だけは、大聖人が捕縛されそうなときに、清
澄寺で隠してくれて、そのおかげで忍び出ることができたんだって。あの時に信じて
くれたことは「天下第一の法華経の奉公」だと。だから後の成仏は疑いないんだよと。

ここも大切だよね。兄弟子の2人が法華経を信じたとかなんて書いてないんだよ。
理解なんかしてない。大聖人がとんでもない人物だと皆が怒る騒動の中で、大聖人を
信じて、反対に清澄寺の師匠連中を裏切って、大聖人を隠して、逃がしてくれたんだ。
何も分かってないようでも、一言でも聞いて、賛意を示して、喜んで手を貸してくれ
たこと、そのことが、法華経の内容を修行するのと同義なんだよ。なんでって、ここ
の本義が分からないから、御本尊がどうのとか、戒壇がどうのとか、大聖人の仏法と
見当違いの批判をしてる人が多いんだわ。それはあとで言うからね。

でもここ、急に今まで話にも出てこなかった兄弟子の話に急に切り替わって、後生は
疑いないなんて言ってるのは、文章の流れからいうと、裏切った道善房の後生は全く
駄目だよって言ってるのと同然だからね。
そういう意味を示唆してるわけ。

これを読んでさ、勝手に解釈して、道善房は大聖人を「心の中」では大切な弟子だと
思ってたとか、大聖人が師匠を大切に思う心が表現されてるとか、よおく、みんなそ
んな風に読めるよね。というか、無理にそういうことにして人に言うっていうのは、
本当は自分は信じてもないのに言ってるってことで、心の底で大聖人を侮ってるんじ
ゃないかと思ってしまうよ。大聖人はここで道善房のことを、全然、褒めてないじゃ
ないかって。懐かしがってはいるけど、厳しく言われてるの。

しかもこの後の「報恩抄送文」には、清澄寺の道善房のお墓に行かない理由は、結局
のところ、なんとなくだって書いてあるんだよ。結局、そんな理由なのかって。


「遁世のやうに見えて候へば、なにとなく此の山を出でず候、」(報恩抄送文、P330)


ひどいよ、ひどいよ、これを読んで褒めたたえてる人たちのほうもひどい。世の中の
人は、みんな嘘つきばかりなのって。

―――なあんてね。(ごめん)

大聖人がここで道善房を褒めてないのは本当だけど。それほどまでに客観的に書かな
ければならない理由とは何だったのか。



  • [57]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月11日(土)07時17分30秒
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No.055 【道善房について】①


次は師匠の道善房について。これまでに大聖人と道善房との関係を伺ってきた。
ところで、大聖人はいったい、師匠の道善房の「何」に深い恩を感じられたのか。
大聖人は、どう言われているのか。

今回は「華果成就御書」から。

この御書を書かれたのは、師の道善房が亡くなって「報恩抄」を書かれてから、さら
に2年後。やはり清澄寺時代の兄弟子だった2人に送られたんだよ。ただね、こっち
の御書では、道善房のことを、これ以上ないくらいまでに褒めてるんだ。

大聖人が師匠を褒めたっていいだろうに、この御書ではあまりに褒めてるものだから
偽書ではないかと思う人たちもいるみたい。私にこの御書が真書だとか偽書だとか言
える見識なんてないけど、特におかしい内容に思えないので、まずは、そのまま読む。


「草木は大地なくして生長する事あるべからず、日蓮・法華経の行者となつて善悪に
 つけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや、
 日蓮は草木の如く師匠は大地の如し、」(華果成就御書、P900) 真蹟なし、録外。



草木は、大地があるおかげで、生長できたんだって。日蓮が法華経の行者となれたの
は、全部、師匠の道善房のおかげなんだって言われてるの。大聖人を草木だとすると、
その師匠の道善房は、大地のようなものだと。すっごいよね、道善房。

続いて唐突だけど、大聖人が四菩薩のうちの一人、上行菩薩だとすると、道善房こそ
が安立行菩薩だと言わんばかりの文章が。そこまで道善房のことをと思ってるのか。


「彼の地涌の菩薩の上首四人にてまします、一名上行乃至四名安立行菩薩云云、末法
 には上行出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか、」 (同)


次は、稲が花を咲かせてお米を実らせたあとには、それで終わりじゃなくて、米の精
が大地に戻って、刈り取った稲の切り株から再び芽がでる(これを「ひつじ」と言う
んだって)ように、やがて花が咲き、二度、実がなるんだって。


「さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいで
 て二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし
 あらたうとたうと、」 (同)


これが何を言ってるのかというと、稲が道善房で、そこから実となったお米が大聖人
だよ。大聖人がお米と言う功徳満載の姿で採れて、稲穂が切り取られたあとに残る稲
の切り株。そこにはいい所は何もない。だけど、必ず、米の精が大地に戻るから、切
り株から再び芽が出て、今度は切り取られたはずの切り株だったものも稲穂を身に付
けることになるだろうと。つまり大聖人の功徳は、道善房には無関係なものだけど、
大地に還って、いつか必ず、道善房の功徳となるだろうという予言なんだよ。それを
なんと尊いことだろうかと結ばれてるの。

でも、その次はよく分かんない。


「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地
 獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず委くは又又申すべく候、常に
 かたりあわせて出離生死して同心に霊山浄土にてうなづきかたり給へ、経に云く「
 衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」
 云云。」(同)



良い弟子を持つと、師弟ともに成仏するし、悪い弟子を育てれば、師弟ともに地獄に
堕ちるんだって。そこは分かるよ。でもその次。師と弟子が一致しなければ何事も成
就しないよと言われてるの。大聖人と道善房と、どれだけ広い目で見ても一致なんか
してないよね。だから、ここは、大聖人とお手紙を送った兄弟子だった2人との師弟
関係を言ってるだけなのかもしれないんだけど。常に語り合わせようと言ってるしね。

だけども、そうとも言い切れない。最後に法華経の五百弟子品を引用したのは、道善
房のことだもの。「菩薩たちは、衆生にわざと悪い姿を現じて見せて、方便を使って
衆生を導く」のだと。「邪見の相」を現じたのも、大聖人を育てるためだったと、結
果を見ればそう言えるのだと。これ、善悪不二を言ってるんだよね。正義が勝ったそ
の後には、悪だったものも、意味があったととらえることができるのだと。(ただし
正義が勝って証明された後の話だからね。悪を許して傍観してて善悪不二はない。)

ここの最後の結論を見ると、道善房がどれほど悪くても、大聖人にとってはありがた
い存在に見えたのかもしれない。そう思えたのは、大聖人の御境涯なのだとしか言い
ようがないし、結局、この「華果成就御書」は、大聖人の深い人生観から、師匠によ
せる思いを、詩的に表現されたものなのかもしれないね。

引用された法華経の五百弟子品の一節を引用してみる。


 「諸の比丘諦かに聴け 仏子所行の道は
  善く方便を学せるが故に 思議することを得べからず
  衆の小法を楽って 大智を畏るることを知れり
  是の故に諸の菩薩 声聞縁覚と作り
  無数の方便を以て 諸の衆生類を化して
  自ら是れ声聞なり 仏道を去ること甚だ遠しと説く
  無量の衆を度脱して 皆悉く成就することを得せしむ
  小欲懈怠なりと雖も 漸く当に作仏せしむべし
  内に菩薩の行を秘し 外に是れ声聞なりと現ず
  小欲にして生死を厭えども 実には自ら仏土を浄む
  衆に三毒ありと示し 又邪見の相を現ず
  我が弟子是の如く 方便して衆生を度す
  若し我具足して 種々の現化の事を説かば
  衆生の是れを聞かん者 心に則ち疑惑を懐かん」
  (法華経「五百弟子受記品」)


道善房は、客観的に見て、仏典への理解も乏しく、信仰者としても失格だったのかも
しれない。大聖人が道善房に好印象を持たれていたのかも分からない。(それって、
すごいことなんだけど、それほど平静に、客観的に大聖人は評価されているんだ。)

だけど、関わった人を大切にしようとされる大聖人の思いがどれほど深いかは、よく
分かる。邪険にされて、反対されて、勘当もされて、それでも変わりなく信仰を薦め
てるんだ。どんな仕打ちにも、話さなくなったとか、無視するようになったとか、そ
ういうのがなかった。最後には、智者となり、人を救えるようになった功徳も、全て
道善房に還ることだろうと。

うーん。私だったらだ、この後の御書を読んだら、「あんた、関係ないでしょ。裏切
り者のくせに。」とか言って、知らんぷりするよ。清澄寺で勘当して裏切ったのって、
単なる破門を意味しないからね、東条景信はね、別の裁判の恨みもあって、数年たっ
った後でさえも、小松原の夜道で襲撃して大聖人を殺そうとしたんだよ。立宗宣言の
ときに清澄寺で捕縛されてたら、きっと、十中八九は殺されてたんだ。というか殺し
たがってたって誰でも分かるだろ。大聖人さえいなければ、日本第一の御厨と言われ
た清澄と二間の寺は、東条景信のものだったし、自分が地頭なんだから当然そうなる
はずだったのに、裁判まで起こされて、よく知らない理屈で負けて、土地を取り上げ
られて、権力者の面子を丸つぶしなんだよ。自分の土地の中に治外法権が出来てるん
だよ。許せるかい。殺しておけば、次になにかの時に裁判で領地も戻ってくるかもし
れないしね。というか領民に示しがつかないから。

そんな人に引き渡されるのに、道善房は、自分は無関係だから、と縁を切ったんだ。
その後もおいしい所だけとって、知らんぷりだった人なんだ。だけど大聖人はそれで
も見捨てずにいたんだ。最後は、全部が、あなたのおかげですよと・・・・。



  • [56]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月 9日(木)23時33分10秒
  • 編集済
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No.054 【身延山】 ⑮


身延についてはもう終わり。
最後におまけの余談だけど(私の話って余談ばっかり)当時の食事量を推測できる
記載が御書にはあるんだ。それで、ここからも大切なことが分かるの。


「八月分の八木一石給候い了んぬ、」(太田殿女房御返事、P1005)真蹟あり


八木って、ヤギさんじゃなくて、お米のこと。「八」の字を逆さにして「木」の字に
くっつけると「米」という字になるの。当時の言葉あそびだわ。こんな風に大聖人の
言葉使いが豊富だったことも、当時の多くの人と話していたからだよね。特定の御書
にだけしか見られない言葉遣いだから偽書だと言う学者さんがいるけど、そんなこと
を言ったら、五大部は全部が偽書になっちゃうよ。怪しすぎるから(笑)。そんな自
分の主観で御書を偽書だと決めつける人は、思慮不足を露呈してるというものだよ。
土木殿御返事なんて、人様に送るのに字をまちがえちゃってるよ、なんぼなんでもそ
んな失礼なことありえないっしょって、「絶対に偽書だ」とか言い張ってほしい。
(うわあ、余談の中でそのまた余談に数行つかってしまった・・・。)

それで(こほん、)この御書を、御供養を毎月もらってて、今月も8月の分の米をい
ただきましたよって読むのは間違い。この信徒だって、毎月毎月1石もの量を御供養
してたなら、すごいことじゃないかな。
一石って150kg。現代と金銭感覚が違うけど、現代でも1袋10kg入りで4000円と
して計算すると、150kg/月ならば12万円/月。頑張ればいけるのかな?

あやや。でも違うから。これは8か月分のお米を届けましたってこと。

一石とは、もともと中国で兵士1人を1年間、養うのに必要な米の量だったみたい。
つまり1年間の食糧に相当するの。でもそんな昔の由来なんて関係ない。鎌倉時代だ
と1年、もたなくて、8カ月しか、もたないんだって。なぜって、1石の単位量が変わ
ってるからだよ。今の一石とか一合とかは、明治時代に決まったもの。秀吉の時代に
も統一 を図ったけど、鎌倉時代はその前だから、どれくらいかなんて分からないの。
だから 鎌倉のこの当時の一石は8カ月分の食糧として計算されてたんだろうね。

なんで10カ月や、1年分を届けないのかっていうと、1石が流通の単位だから。
食事の計量の最小単位が「一合」で、今なら180ml、お米なら150g、炊くと2倍
以上に膨らんで400mlくらいに。これがお茶椀一杯分だね。ちなみに534kcal。

当時の一石や一合の重さは不明だけど、1石 = 1000合の割合は同じはずだから、
8カ月分だと、8月*30日=240日なので、1000合/240日= 4合/日。余り10合。
炊く量は毎日4合。歯切れがいいの。10か月だと3.3合になるし、12か月だと2.8合。
日常のことにそんな半端な数値を使いたくないよね。だから8か月分になるようにと
一合分が決められたんだと思う。

1日に4合も食べるのかって疑問は無いわ。実際の重量は不明だし、古い時代は、
6合や7合との文献もあるの。それに肉とかを食べずに玄米ばかりで生きようと思
ったらそれぐらいいるのかも。現代の一合だと534㎏なので、成人の最低必要量は、
2000kcalだから、やっぱり食事がお米だけなら4合はいるだろ。でもそれは普通の
健康な状態の時の話だから。大昔はかなり違ったかもね。一合の大きさを決めるの
は、年貢を徴収する側なんだから、時代と共に大きくなってったんじゃないかな。

そういうわけで、この御書にある一石というは、8カ月の一人分の食糧。ところでこ
の御書は真蹟には7月2日と書かれてるだけで年は書いてないの。長年、建治元年だ
と言われてたけど、弘安のものじゃないかと言われてる。前回に引用した研究からな
んだけど、そういうわけで、同じ建治元年の8月には、食料が乏しくて、3日も食べて
ないよって御書があるんだけど「雪を食として命を継ぎ」「空くして両三日を過ぐ」
(単衣抄、P1514)を見て、「早いな、大聖人、8か月分の食料をたった1か月で食
べてしまったのか」って思ってた人(誰のことかな。ふふん~♪)は、だから違うか
らね。両者は執筆の年が異うらしいの。どの御書がどの年月日かは研究ですごく変わ
っていくみたいなので、この1石の量のお米をもらったときに他にどれだけの御供養
をいただいてたのか、その時にどれだけの人が身延に滞在していたかも分からないの。

でもそこでお話は終わらないのよ。要は、一石の御供養が一人分として計算されて御
供養されてたんだってことが重要なのよ。私が思うのは、身延には、たいてい複数の
人がいたんだってこと。はたして、その人たちが公平に食べてたかなと思うんだ。
御供養は運ぶ都合もあったのかもしれないけど、一人分として計算されて渡されてい
たんだ。それらを一つに集めて炊いたんだろうけど、公平に分けたのかな。

例えば、下の御書では、門下からお世話する下働きの人を送ってきてくれてるの。
人夫を送るってことは、普通はその分の食料もいっしょに送ってくるよね。家来だけ
山奥に連れてきて食事の面倒見てくれって、そんな失礼なことないよね。


「さどの国と申しこれと申し下人一人つけられて候はいつの世にかわすれ候べき、」
(妙一尼御前御消息、P1254)真蹟あり

「かたがたのものふ二人をもつてをくりたびて候、」(兵衛志殿御返事、P1090)
  真蹟あり


それで食料が乏しくなったら、大聖人は公平にその人たちの分も食べただろうか。
彼らは給料としてもらってるんだから、食えなくなってまで冬山にいないと思うの。
大聖人は好きでそこにいるんだからね。下人が主人を差し置いて食事をしたなんて
想像できないかもしれないけど、下人って身分が低い人じゃなくて、力仕事や用事で
走ったりする人だから、年配者じゃなくて、言いつけやすい子供のことだろ。まさか
面識もないのに年寄りの下人を深山によこしたりしないだろう。10代の子供だったら、
その子の分まで食べて、お腹を空かさせたりするのかな。どうするんだよ。

この御書は建治元年(大聖人53歳)だと言われてるけど、そのとき、最高幹部の六老
僧だって、彼らでさえ、まだ、この年齢なんだよ。

 ① 日昭(55歳または40歳)、② 日朗(31歳)、③ 日興(30歳)、
 ④ 日向(23歳)、⑤ 日頂(24歳)、⑥ 日時(26歳)。

大聖人がいくら偉かろうと、育ち盛りの子供にご飯を食べさせようとするのは、年配
者の矜持みたいなもので、なにせ大聖人は好きでここにいるんだから、食料がまだあ
ったとしても、大聖人が3日くらい食べない日はあったと思うの。つまり、みんなが
公平に食べていたとは、私にはとても思えないもの。

もう一つは、軽い飢餓状態が続くと、人体は新陳代謝を落として飢餓モードに変わる
から、1日に必要な最低カロリーは極端に小さくなるらしい。飢餓状態の生命活動は、
レオナルド・ガレンテがサーチュイン遺伝子というスイッチがあるのを発見したの。
飢餓の状態が続くと、生命活動は長寿命を目指すようになるんだって言うんだよね。

飽食に近い現代人には分かりにくいけど、こんな少食でよく生きてるなと思うくらい
準備期間を経て飢餓に耐えてきた人たちと、里から派遣されてきただけの育ちざかり
の人たちの食生活は明らかに違うから。同じにしてたら、すぐに死んでしまうよ。
だから御書に御供養の記載がいくら豊富にあっても、それは、もともと、その人たち
の分を確保しなければならないから(と配慮するから)、同時に大聖人が食糧が乏し
いと嘆くことはありえると思うんだ。

それで、ようやくだけど、私が言いたい結論はここなんだよ。

ちなみに六老僧の中でも日昭(享年88歳?)、日朗(享年76歳)、日興(享年85歳
が当時の社会で異常なほど長寿だったのは、大聖人と同じく飢餓に近い食事をずっと
長年にわたって続けていたからだと推測するしかない。食料がある時も無い時もだよ。
日興上人なんて85歳で亡くなるまで、老衰しても目も良く見えて書を読めたというか
ら本物だわ。現代人でもそんな人はいないよ。つまり、大聖人がどれほどつつましい
食事生活をしていたか、正確に言えば食料がある時もない時も、ささやかな生活を続
けられていたかは、弟子のこの異常な長寿、その姿がそれを証明したんだよ。



  • [55]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月 8日(水)22時11分43秒
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No.053 【身延山】 ⑭


文永11年の5月に身延に着いて、ちょうど1ヵ月後の6月に草庵が完成したんだ。
いちおう草庵がどんなのだったかを中心に、御書の記述を時系列を並べてみたよ。
日付は略号で表記したの。例えば、3月26日は、3.26.てな具合。


■文永11年、1274年(53歳)
  3. 26. 鎌倉に到着。
  4. 28. 平頼綱と会見。
  5. 12. 鎌倉を出発。
  5. 17. 身延に到着。「富木殿御書」P964(みなかへして但一人候べし
  5. 24.  「法華取要抄」P331
  6. 17.  庵室完成。P1542
      「妙法比丘尼御返事」P1413(六月十七日より此の深山に居住して)
  7. 26.  「上野殿御返事(亡父追善御書)」P1507 (この葉うちしきたるやう)


■建治元年、1275年(54歳)
  5月  「妙一尼御前御消息」P1254(下人一人つけられて候、)
  7. 13.「高橋入道殿御返事」P1460
     (道にて候へば各各にも申すべく候いしかども申す事もなし、)
  8月 「単衣抄、P1514」
      ・(雪を食として命を継ぎ
      ・(山林に交つて果なき時は空くして両三日を過ぐ)
      ・(鹿の皮破ぬれば裸にして三四月に及べり
      ・(膚を隠す衣を送り給候こそ何とも存じがたく候へ


■建治2年、1276年(55歳)
  1. 11.「清澄寺大衆中」p893
  7. 21.「報恩抄」P293


■建治3年、1277年(56歳)
 11. 20頃、庵室が大破、修復中。P1542


■弘安元年、1278年(57歳)
  9. 6 「妙法比丘尼御返事」(亡夫追悼御書)P1413 真蹟なし、録内。
      ・滞在者一人。(今は此の山に独りすみ候
      ・訪問者なし。(訪う人なければ
      ・肌を隠す服が無い。(はだへをかくす衣も候はざりつる
      ・弟子逃亡。(年比なれし弟子つかへし下人だにも皆にげ失とぶらはざる
 11. 29. 「兵衛志殿御返事」(厳冬深山御書)P1098
      ・庵室の完成度はまだ半分。(坊ははんさくにて)
      ・常に40人~60人が滞留。(人はなき時は四十人ある時は六十人
      ・一人になりたい。(小法師と我が身計り御経よみまいらせんとこそ
       存じて候に
)(としあけ候わばいづくへもにげんと存じ候ぞ


■弘安2年、1279年(58歳)
  8. 17. 「曾谷殿御返事 (輪陀王御書)」P1065
      ・滞留者は100人以上。(今年一百よ人の人を山中にやしなひて)
      ・朝から夜まで修学は盛況。(十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ)
      ・数百kgの米でもわずか。(焼米二俵給畢ぬ、米は少と思食し候へども)


■弘安3年、1280年(59歳)
  1.27 「秋元御書(筒御器抄)」P1078)真蹟なし、録内。
      ・庵室の大きさ(手の広さ程の平かなる処あり)
      ・壁の材質(木の皮をはぎて四壁とし)
      ・服の材料(自死の鹿の皮を衣とし)
      ・食料(春は蕨を折りて身を養ひ・秋は果を拾いて命を支へ候つる)
      ・庵室の大きさ(庵室は七尺・雪は一丈・四壁は冰を壁とし)
      ・庵室の出来具合(内には雪を米と積む)
      ・人の出入り(本より人も来らぬ上)


■弘安4年、1281年(60歳)
 11. 1.  身延に小坊完成。P1375
 11. 24. 身延に大坊完成。P1375(坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ)


■弘安5年、1282年(61歳)
  3月.  「莚三枚御書」P1587、真蹟あり
      ・木の皮を敷物に。(木の皮をはいでしき物とす
  9. 8.  身延を下山。
 10.13. 池上宗仲邸にて御入滅。


いろいろとおかしいよね。例えば、鹿の皮を服にしてたのは7年目のことなのに、
2年目に鹿の服が破れたって書いてある。それで温かい服をいただいたのに5年目
になっても肌を隠す衣がなかったとか。鹿はたくさんいたから、鹿の服を何度も拾
った(ドラクエじゃないんだから、死体から皮を剥いだんだけどね)と考えること
もできるけど、服も消耗が激しくて1年ですぐに破れたんだと考えられなくもない
けど、いや、やっぱり無理があるよね。つまり御書の系年が間違ってるの。真蹟が
ある御書であっても、お手紙には月日が書いてあっても、「何年」かまでは書いて
ないのが普通だからだよ。何年に書かれた御書なのか、御書の系年の研究は最近に
なっても行われてるから、いっぱい変わるみたい。下のを見てほしい。

http://www.totetu.org/index.php?id=997&author_en=wakae%20kenzo&author=%E8%8B%A5%E6%B1%9F%E8%B3%A2%E4%B8%89
(東洋哲学研究所、若江賢三氏)

素人の私が言うのも何だけど、それでも上記の内容に満足はしていないわ。花押の
変遷についても疑問だし、建治元年に食事が豊富だったというのも、ちょっとおか
しいような気がするんだ。いやいやいや、文句を言ってごめんなさい。こんな研究
成果は有難いよ。私には無理だもの。その上で、このまま使うこともためらう。

だから御書の順番の一つ一つを厳密に考えないで、漠然とみても、それでも、人の
出入りが無い時とある時の差が激しいよね。それは単に表現上のことなのかもしれ
ないけど。これらの文章をそのままに考えて、御書をつなぎ合わせてよむと、大聖
人と弟子との間に、激しい攻防戦(帰れvs来ました)があったようにうかがえる。

どっちなんだろうね。この土地では馬を飼うことも難しいという御書もあったけど、
結局、馬も飼ってるし、馬屋も作ってるからね。未開の土地を開拓して事情が急変
していったってことで理解できるけど。平たい土地はそんなにないって言ってたの
に、結局は、大寺院を建設できたのも、大人数で石を除いて、土地の整地作業から
したと書いてる御書もあるから、9年間の間にさまざまな事情が大きく変わったと
みてもいいと思う。つまり大聖人の皆を守りたいとの意気ごみとは裏腹に、みなが
放っておかなかったので、当初の山中に入った時の事情とは、大きく変わっていっ
たということかな。

あと「法華取要抄」に著作の年月日があるのは後加だから。講義書を見ると分かる
けど明確な根拠はないの。少なくても2つの草案があって、原文は佐渡流罪中に書
かれたと推測されてるんだ。だいたい日興上人が「文永11年」と記すだけで月日
を書かなかったくらいに執筆の月日が定かではないのに、いただいた人の側にも記
録がないのに、身延についたばかり年に、執筆の年月日が5月24日だったなんて、
後世の人がどうして分かったのか、そんなの根拠がないのよね。


「此の御書は正本に年号月日なし。土木殿へともなし。後人之を加う。」
 (法華取要抄私記、日寛上人)



まあ、それでも譲って、文永11年5月に、山中で清書なんか出来ないだろうと思われ
るかもしれないけど、清書だけなんだったら出来ないことはないと思う。まあ、普通
では無理だから、絶対に無いと思うのもおかしいんだわ。手塚治虫氏は、漫画の墨入
れを新幹線の車中にやってたそうだからね。私がやれと言われれば「ありえない」の
一言だよ。あんな車中で、揺れるし、あんな手のひらみたいに狭い所に原稿を置いて、
インク壺を片手に持って書くって、書けるわけがないっしょ。1枚書くのにどれほど
時間がかかると思ってるの。途中で手が揺れたら即、原稿がパアだよ。でも世の中に
は常人には不可能に思えても、それをやれる人がいるんだと思わざるをえない。それ
に比べたら、静止した山中で、原稿を見ながら石の上に紙を置いて墨で文章を書くぐ
らいなら、うん、不可能ではないね。どっちにしろ、「法華取要抄」の著作日は、大
聖人がここにずっといたという説明に支障となる事実はないってこと。



  • [54]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月 7日(火)23時47分59秒
  • 編集済
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No.052 【身延山】 ⑬


大聖人が鎌倉を立ち、身延に初めて着いた時の話。

この地を選んだのは、日興上人の案内だというのは、想像に難くないね。それだけ
しか、この土地と大聖人を結びつけるものがないもの。御書には、足まかせで来た
ってあるから、鎌倉から、この身延に来るまで、日興上人と共に旅をして、この地
に決めたんだってことだね。本当に「足にまかせて」 (P1461)だったのだろうか。

分からない。御書に散見できることが全てではないから。どんな背景があるのかも
わからないし。何もかもが、記述の通りというわけではないからね。例えば「下山
御消息」を例にあげてみる。対外的に書かれた御書の中には、事実を変えて書かれ
てるものもあるんだ。


「日蓮聖人去る文永十一年の夏の比同じき甲州飯野・御牧・波木井の郷の内・身延の
 嶺と申す深山に御隠居せさせ給い候へば、さるべき人人御法門承わる可きの由候へ
 ども御制止ありて入れられず
おぼろげの強縁ならではかなひがたく候しに」
 (下山御消息、P343)真蹟あり


これは、大聖人が弟子の代わりに主人に書いた手紙なんだけど、この弟子は主人から
追い出されるから困ってたんだ。だから大聖人との出会いをちょっと脚色してるの。
法門を聞きたくて身延に来たけど、容易に大聖人には会わせてくれなかったって。そ
れで勝手に忍び込んで、家の外から耳をそばだててたら、大聖人の講義の声が聞こえ
てきて、それで大聖人の仏法に深く納得するものがあったんだってことにしてるの。

本当は、大聖人自らが主人に送る手紙の原稿まで書いてあげてるっていうのに。(笑)
説明の必要はいらないと思うけど、人情の機微だよね。すっごく仲がよいんですって
先に言ってしまうと、読みもせず、この弟子が追い出されてしまうからだろうね。

でも、先ほどの富木氏に送った私信の手紙には、嘘を書く必要はないと判断できるわ。

富木氏に送った御書には、鎌倉からの移動の形跡が書いてあって、5月17日には今の
身延の地に着いたの。到着したばかりの日に送ったその御書には、すでに飢えにさい
なまされ、ついてきた弟子もみな送り返すことにして、そこにしばらくいるか、やが
ては一人で流浪するかもしれないみたいに書いてるんだ。飢えて死にそうだって。山
の中に入っていって。

どうなってるのだと。日興上人によって入信した波木井の土地を案内されたんじゃな
いのかと。波木井の外護はどうなっているのかと。またなぜそんな悲惨な状況になっ
て、遠方の千葉県の富木氏に手紙をもたせた弟子を送ってるのかと。お腹が減っただ
とか。ご飯くれとか。可哀想ではないかと。

身延に来て、お腹が減って死にそうで、これからは一人で生きてくと言われてから、
でも、その1月後の6月17日には草庵が完成している。簡素な作りとはいえ、柱が12
本もあって、とりあえず3年ほどは潰れずにもっている。壁だってあったんだから。
いろんな大工道具もないのに。1カ月で家が出来たんだ。おかしいだろ。でもって、
その建設の途中の5月24日には「法華取要抄」という大部の御書を完成されている。
いったい、いつの間に書いたんだって。

雨露もしのげなければ、紙に筆で書くこともできないし、参考文献の多くの経巻を置
く場所だっているだろう。だいたい、普通の論文でも一週間かそこいらで書けるもの
じゃない。この御書は大聖人御自身がいくつも書写されていたくらい、完成度の高い
構成なのだ。思いつきで(って失礼だけど)すらすらと書いたとかいうものではない。
到着した時の御書とは、あまりに状況が全然違うだろうと。どうなってるのと。
おかしい、おかしい、おかしい。

そんな感じで、いろいろおかしいと思うのは、大聖人と周囲の人との関わりが想像で
きないからだと思う。

答えは簡単なんだけど。―― たくさんの人が集まったんだよ。

敬愛する門下が放っておかないから。家だって建てるし、それまでの間、雨露を凌ぐ
工夫だってするし、経巻だって持ってくるわ。だから、1カ月もしないうちに書き物
が出来上がるくらいになってるわけ。

身延に滞在することが決まった後は、完成するまでは波木井氏の所に世話になった
のかもしれない。1か月も野宿はしないだろうと思うしね。完成前に移り住んだな
ら、その中で御書を書ける日も十分にあっただろうとは想像できるけど。

それまでの間、波木井宅にずっと世話になるんだったら、それだったら最初から行
ってるはずなんだけど、そうしなかったのは、身延に住むかどうかを決めてなかっ
たからだろうか。そこは分からないの。地頭の波木井氏が草庵の建設に積極的に関
与してたのなら、木の皮の壁だったとか、敷物も無かったとか、簡素過ぎるよね。

でも建設にたずさわる人たちが、どこで寝泊りしてたのかを考えると、波木井氏、
および近隣の村の人の関与をまるで抜きにして考えるのも無理だよね。

御書には、5年もの間、「一町を出でず」(P1413)と言われてるんだから、その
文字通りだとすると、大聖人は、波木井氏のところにさえ行ってないことになる。
でも、それは言い過ぎなんだ。「山林に交つて果なき時は」(P1514)って言って
るから、「一町」は基本生活の舞台を言われてるんであって、果物を取りに行って
るんだからね。それとも全てを弟子任せだったっていう可能性もあるかもだけど。

御書には、鎌倉を出たとき、行き先も決めてないような手紙を、富木氏に送ってて、
別の御書にも「足まかせ」(P1461)だって書いてある。道の途中でたまたま縁故
を思い出して、身延の奥の深山にやってきたのだろうか。。。。
普通に考えると、その前に、地頭に、「住む場所を探してるんだけど、ここに住ん
でもいいかな?」って聞くよね。でなきゃ勝手に人様の土地を詮索するものかな。
それとも聞いてからだと断りにくいから、先に勝手によい場所を探したのかな。

地頭の波木井氏は、日興上人の教え子だから、事前に日興上人から、探してるから
行くかもねという連絡はあったのかもしれないね。それだと最初に素通したのも分
かるし、「この山中・心中に叶いて候へばしばらくは候はんずらむ」(P964)と、
気に入ったから、それから街道まで降りて行って、波木井宅に世話になったのかも
しれない。後年の日興上人の回想では、波木井氏だけが大聖人が来るのを待ってい
たとの表現があるの。これが身延に入る前のことなのか、身延で9年間過ごされた
ことなのか、池上に療養に出て行かれたときのことなのかは、分からないけどね。


「其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに、此の殿ばかりあり。」
(美作房御返事、編年体御書P1729)


でもそこまで考えても、次の御書を読むと、やはり波木井氏のところには行ってな
いんじゃないかと思うの。


「今年のけかちにはじめたる山中に木のもとに・このはうちしきたるやうなる・すみ
 か・をもひやらせ給え、」(上野殿御返事(亡父追善御書)、P1507) 真蹟あり



文永11年の7月26日の御書には、今年は飢えながら山中での生活を始めたって書いて
送ってるんだから。5月~6月に波木井氏のお屋敷にやっかいになってたら、7月にこ
の文章のお手紙を送るのってすごい違和感があるよね。

5月に来て、6月までお屋敷に世話になってて、7月から山中で生活を始めたんなら
今年は飢えながら山中での生活を始めましたって、7月に書かないだろう。

ところが、次の御書では、また微妙なんだよね(どっちなんだって)。この御書な
んだけど。弘安4年12月。


「去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の
 山出ずる事一歩も候はず」(上野殿母御前御返事、P1583)真蹟あり



山を出てないって言われてるから、波木井氏の家には行ってないんだけど、それは、
6月17日からのことになるね。つまり草庵が完成してからということになるの。
もうね、どっちなのっていうか、御書を見るたびに、ああだ、こうだと決めつける
危険性を考えてしまうよね。ちょっと想像で文章をつなげ過ぎてるかもしれない。



  • [53]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月 6日(月)22時03分44秒
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No.051 【身延山】 ⑫


話が横道に逸れすぎるけど、大聖人が武士以外の農民の人などと交流があったこと。
だって身延での生活で食事をどうしてたんだよ。雪で閉ざされた山中で、金銭なんて
どこまで役に立つんだよ。身延に最初に来た時に、お金はあるのに売ってくれないっ
て御書があったよね。それで、1っ回、こっきりであきらめたのか。そんな馬鹿な。

御書に書いてある御供養を全部、足せば、それで生きていけたって彼らは思えるのか。
人は基本的には毎日のように口に食事を入れていかなければ生きていけないんだよ。
御書に書いてある御供養ぐらいで、とても生きながらえないよ。無理なんだって。

それとも山中で木の実などを採ってたなんて書いてるけど、冬はどうしてたのかな。
具体的に想像してみようよ。雪中で閉ざされて食料が尽きて空腹なまま日が過ぎ時、
「両三日を過ぐ」(P1514)とか。そんなとき、どうしたのかな。あくまで御供養
をくれる人が訪れるまで待ってるのか。そんなはずがないよね。そのままだと数日
で死んじゃうんだから。それから弟子が遠方の門下までお手紙を届けにいくのかな。

普通に、山を降りて町に出てたところで農家で食べ物を売ってくれるように交渉する
よ。というか交渉してるよね。御書にあるものに。塩を取引きしたりとか。


「七月なんどはしほ一升をぜに百しほ五合を麦一斗にかへ候しが今はぜんたいしほなし」
 (上野殿御返事、P1551) 真蹟なし、録内。


世話になった人に利子を付けてお金を返すとか。門下というか、この人、信徒じゃな
いからね。助けてくれて縁があった人だよ。お返しするのは当然って感覚なのよ。


「本銭に利分を添えて返さんとすれば」(一谷入道御書、P1329) 真蹟あり。


つまりだ、食べ物も無くなれば、近くの街道のある所まで弟子が行って何かの交渉を
しなかったはずはないだろ。4日目になっても、5日目になっても、空腹で待ってるの
かって。それで山を降りたところの近くの農家などと交流して、それは商取引だから、
普段は知らん顔だったという発想なのかな。諸学者の発想は本当に寒々しいね。

そんな寒々しいところに人は集まらないって。富木氏が送ったお手紙にも大聖人の元
で暮らしたいってあるように、門下は来たがったんだよ。楽しいにきまってるだろ。
和気あいあいとして楽しいから、厳しい迫害でも布教をしていこうと思えるんだよ。
でなければ、民衆とは乖離した信仰形態を薦める教団になっていくはずだから。

大聖人の弟子は、布教したくて、大聖人の弟子になってるんだよ。大聖人に褒められ
たいんだよ。布教したくてしたくて仕方がないのに、農家の人と懇意になっても、何
も言わなかったなんてないよ。さんざん言ってるから。聖教とってとか、いろいろと。
わずか数km先の家々じゃないか。夏なら行き来も出来るんだよ。食料を売ってくれ
ただけでも、きっと「なんだかみんな、死ねばいいって言ってるけど、娘が病気のと
きに行ったんだ。すごくいい人だったよ」みたいな話になってるって。

それに、もっと当たり前のことだけど。そこ、領主さまが門下なんだよ。(笑)
こっちでは領主の波木井氏が信仰してるんだから、これまでと当たりが違うよ。
そこの農家の人たちに、大聖人の弟子が「何か売ってくれませんか」と聞きに行けば、
「ばーか」てなわけにはいかないし、仲良くしておこうと思うよ、普通。

波木井氏だって、入れ替わり何十人と人数の変わる人たちを全て養うなんてできない
し、いつも波木井郷に滞在してたわけじゃないみたいだしね。地頭を通さない交流が
全くなかったっていうほうが無理があるんだよ。私が子供が病気で数km先の山に尊
い僧侶がいるというのなら、絶対に会いに行くわ。「下山御消息」にも会わないと言
われたのに、勝手に草庵の後ろに回って云々という話が出てくるよ。

初日にお金を見せても食物を売ってくれなかったからといって、1回、断られただけ
で、それ以来、ずっと何の交流もないと考えるほうが無理があると思うんだよね。
近傍の農家からのたとえわずかな支援でもないと、無理なんだよ。そういった交渉と
かを全部を下に任せておいて、自分は素知らぬ顔で礼状も書かなかったのかな。

毎日、毎日、何十人分もの食事が供給される一連の流れをどう構築してたのかな。
買い出しで山を降りて富士宮まで行って、朝市とかに出て帰って来たのかな。遠くに
買い出しにいくくらいなら、ある程度は、途中の農家と頼みに行くことぐらいはあっ
たはずだと思わないのかな。それとも春の山菜と秋の木の実で本当に一年をやりくり
してたとでも思うのかな。鎌倉時代に御供養でもらった1貫文で買えるお米は一石だ
ったらしいから、お米で150kg、それを炊くと300㎏ぐらい。お茶碗に2000杯分。
1日2食で1000回分。100人なら10日分。10人なら100日分。10日~3カ月ごとに1
貫文くらいの御供養をもらわないと無理。だいたい、数十人の人数を養うだなんて、
夢でも見てるんじゃなかったら、近隣を無視して、遠方に住む幾人かの有力な門下で
支えきれるものではないよ。

どこのお武家さんが、家来の食いぶちが数十人くらい増えても平気だなんてことがあ
るだろうか。御書に書いてないだけで、数十人が暮らすには、経済や流通に走り回る
人たちの支えがあってしかるべきではないかな。

幾つかの御書はその人に与えながらも、別の保管に適す人に渡すように指示してる。
報恩抄とか、光日房御書とか。御書の法門は、その人だけなのでなく、後世に法門を
伝える目的があって書かれてるんだ。近隣の農家の人に交流の証拠が残る御書を送る
必要はあえてないし、渡したことで騒動を引き起こしかねないし、たとえ送っていて
も山中の僧侶から送られた書なんかを数百年後まで彼らが代々(続けばの話だけど)
保管なんてしてないのは、当然すぎる話だよ。無くて当たり前なの。

身延に40人あるいは100人が滞在していたっていうのも、近隣に建物がなければ無理
な話だからね。入山の初期には凍傷で亡くなる門下もいたとのことだから、追い返す
ってのは当たり前で、その何もない状況から数年後の大寺院の建設まで、状況がどん
どん変わっていったはずだろう。何の中継地もないのに庇をあげた寺院なんて建設で
きないからね。山を降りて街道に出た波木井の里の協力は不可欠ってわけだよ。


というわけで、いちいち御書に書いてないだけで、近隣と仲良くしてたのって当然だ
から。農民に向けて書いた御書がないだなんて、残しようがないだろ。あるほうが不
思議だわ。または熱原の農民を愚痴の者どもと馬鹿にしてたとか。御書を読んでみろ
って言いたくなるよね。ふし穴かと。周りから想像でみても実際とは違うんだよ。
ちなみに学会本部は近隣への挨拶を欠かせないらしい。キリスト教の教会が隣にあっ
ても何十年も問題がなかったのも、他宗を攻撃するという一面だけを見て考える人に
は想像もつかないことだろうね。各地の会館にしたって、私の小さい経験からは、交
流があるか、ないかだわ。駐車場や騒音問題などの問題はつきまとうものの、団体を
見る目は神経質になりがちなもの。これが商店街のある地域だったら、すごく仲良く
なったりするんだけど。

大聖人も、四条金吾に頼りにならなくても身近な人を大切にして語っていくことで、
いざという時に守ってくれると指導されてるんだから、身延の地域を大切にされてき
たに決まってるんだよ。それでも、違うって言える人は、食事をせず何日も過ぎた後
にどうすべきかをよく考えてみようよ。



  • [52]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 2月 5日(日)10時22分54秒
  • 編集済
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No.050 【身延山】 ⑫


きっと、お一人で山地に過ごそうとされたんだと思う。不便で死ぬかもしれない所で
もそれを選ぶことが最善の選択だったとお考えだったんではないかな。


「いま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがために
 のぼりて候いき、又申しきかせ候いし後はかまくらに有るべきならねば足にまかせ
 ていでしほどに
」(高橋入道殿御返事、P1461)真蹟あり


文永11年の5月12日に、鎌倉を出発して、5月17日に身延に到着されてるの。
よく聞く説だと、地頭の波木井氏の家に宿泊したんじゃないかって言われてるけど、
それも違うよね。地頭の家はどこか近くの別の山奥にあるんじゃなくて、ここに来
るまでの身延の山の手前の街道沿い、つまり今きたところの途中にあったわけだよ。
17日にお腹がへって死にそうだってことは、そこも通りすぎてきたってこと。

だいたい、それだと何のために山中を目指したと思ってるんだって。きっとその日
は、星空で見ながら野宿。たき火でもおこして、ファンタジーでよくあるシーンな
んだわ。うーん、絶対にそう。

根拠は到着してすぐに飢えで死にそうになってるからね。お金は持ってたけど、誰
も食べ物と交換なんかしてくれないって書いてある。波木井氏にすぐ世話になって
たんなら、こんなのおかしいよね。大聖人は、結局は一人で流浪したいと言われて
るんだ。そんなのが希望なのよ。そんな思いを持っておられたってことだよ。

これが到着した5月17日の御書だよ。山奥でお手紙を書いてるの。


けかち申すばかりなし米一合もうらずがししぬべし、此の御房たちもみなかへし
 て但一人候べし、このよしを御房たちにもかたりさせ給へ。十二日さかわ十三日
 たけのした十四日くるまがへし十五日ををみや十六日なんぶ、十七日このところ
 いまださだまらずといえども、たいしはこの山中心中に叶いて候へばしばらくは
 候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどま
 るみならばけさんに入り候べし、恐恐謹言。」(富木殿御書、P963)真蹟あり


そして注目すべきことは、そういうことを、富木常忍にるると書いて送ってるってこ
とだよ。お腹へって死にそうだとか、一人で生きて行くつもりだからねって、こうい
うのって、悲惨ぶった印象もなくて、すねてるのでもなくて、堂々と、明るくこんな
感じなんだよって言えるのって、まさに、あなたたちを守るために、これからはこう
して一人でやってくからなっていう意気があるからこそ言えるんだと思うの。

でなければ、その他の理由で、門下をほっぽって、一人、山中に行って、お腹が減っ
たよって書いて送ってくるだなんて、おかしいだろう。

もちろん、それは大聖人の心づもりでも、門下がそれを放置しておくはずがないの。
何ゆってるんだって感じだよね。一人で戦うだなんて水くさい。慕ってくる人は多か
ったはずだよ。ここも想像だろとか言われそうだけど、大聖人が多くの人に支えられ
てたのは、御書に書いてあるのなんか、ほんの一部でしかないんだから。それが分か
らない諸学者は、門下には武家しかいなかったなんて言ってるけど、おかしいから。
だったら殺された人の名前もないから、誰も殺されてないんだわ、きっと。

学会だって、先生がどれほど人に会ってきたかなんて、おいそれと後世に知れること
はなかったはずだし、だいたい学会が世間の人たちの根底に、どれだけの人に勇気を
与えて影響を与えてきたかなんて、少しも文献に残ってることじゃないからね。

大聖人が農民と交流があったのなんてね、簡単に立証できるんだよ。それは次回に書
くことにして。要するに、そんな感じだったと思うの。御書だと、何度も大聖人は、
身延で弟子を追い返したので一人で生きてくとか、弟子はみんな見捨てて帰ってしま
ったとか書かれてて、そのくせ、いつも何十人も滞在してるっていう御書も多くて、
どれが本当なのって迷うけど、最初の頃は、一生懸命に帰そうとしてるのが大聖人で、
それでも来るのが弟子の側だと考えると、だいたい整合性がつくと思うの。

大聖人は、御書にはいちいち書いてないから見落としがちだけど、非常に多くの人に
支えられていた。決して自分を含めて数人で彷徨い、武家や僧尼らだけを相手にして
手紙で主に交流していたわけではないから。路上で演説なんかしなかったとか言われ
てるけど、そんな観点ではないからね。御自身が歴史上のどの戦いにもない大きな戦
いだったと感慨を込めて言われている通りだわ。


「万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん、西王母がそののもも輪王出世
 の優曇華よりもあいがたく沛公が項羽と八年漢土をあらそいし頼朝と宗盛が七年秋
 津嶋にたたかひし修羅と帝釈金翅鳥と竜王と阿耨池に諍える此にはすぐべからず
 としるべし、」(開目抄、P218)

「謗法の人人も国に充満せり、日蓮が大義も強くせめかかる修羅と帝釈と仏と魔王と
 の合戦にもをとるべからず、」(報恩抄、P313)


別の御書には、法難で敵側に責められて殺されてきた関係者の人数は「数百人」にの
ぼると言われてる。常に大勢の人を巻き込んできた。そんなに大勢だったのが信じら
れないと普通の人は思うんだろうな。こんな数値も普通に読まないと絶対に分からな
いから。その発想は学会だけどね、やっぱり。池田先生があれほど人と会って多くの
人と関わってきても、世間の人はほとんど知らない。およそ世間のどんな人よりも群
を抜いているのは間違いない。だから周囲の人が動くんだって。だからこそ、その動
く人たちに感化されて、末端までもが日夜に活動されていたのだから。そこが世間の
人には分からない。理屈云々よりも自分たちのためにそこまで動いている人、その人
格に感化されて人はそこにあるのだ。もしも、聖教新聞や御自身の著作とかが無くて、
指導や論文だけが残っていたのたら、そこに池田先生がどれほど人と会ってきたかな
んて誰にもわからない。学会が大きくなったのは、宗教だからそんなものなのかな、
みたいな。全然、違うっていうのにね。


「日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見て候へどもいとをしと申す
 人は千人に一人もありがたし、」「妙法比丘尼御返事」(亡夫追悼御書)P1418
 真蹟なし、録内。


何のために身延に一人で行って、不便なのに、弟子を一人残らず返そうとしたのか、
草庵を建ててもらってまで、お世話になってるのに、執拗に弟子を全て追い返そうと
したのはなぜなのか。大聖人はお一人で厳しい暮らしをされるのを覚悟で行かれてる
んだよ。後から続く人に灯を照らすために、そこで一人で次の戦いを起こされたんだ。
それをまた、門下が放っておくはずもないけどね。

身延の奥地だから安心な場所だなんてことはないよ。後年、四条金吾が命を狙われた
とき、身延から鎌倉までの帰り道をどれほど心配されたかが、その後の御書に残って
るの。危ないよと、鎌倉まで、無事にたどり着いたかとずっと心配していたと。



  • [51]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月30日(月)06時13分38秒
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No.049 【身延山】 ⑪


実のところ、決定的にこうだとみんなが納得できる理由は、提示されてこなかったと
思う。でも、いろんな可能性の中で、もっとも普通に、起こってることを冷静に見れ
ば、もっとも優先すべき理由が忘れられてるような気がしてならないの。

もう鎌倉にいるべきではないのだと。
多くの門下の犠牲を伴って諌暁してきたんだよ。こ・ろ・さ・れ・て、きたの。
私(わたくし)の思いではなく、そうしてきたんだから、国家がふり向かないのに、
自分だけが依然として鎌倉に残って、門下に大切にかしづかれる日を過ごしてよいわ
けがないんだと。

また故郷に帰るわけにはいかない。どこか門下の家に世話になるなど、もってのほか。
どれほどの法難を招き寄せることか。これまでの理不尽すぎる法難を見ても、どこの
屋敷に行っても関係ないだろうしね。
それにだよ。四条金吾が命を狙われたときの用心の仕方を教えられたのは、御自身が
常にそういう配慮をされてたってことだろ。毎日、毎日が命を狙われないように用心
してて、今度は必ず、身内に内通者がいて、裏切り者によって死ぬことになるよって、
そんなすごい用心だよね。十のうち九は、裏切りによって狙われるんだと。


「よるは用心きびしく夜廻の殿原かたらいて用ひ常にはよりあはるべし今度御内をだ
 にもいだされずば十に九は内のものねらひなむかまへてきたなきしにすべからず。」
 (四条金吾殿御返事、P1164)


常にそんな心配してたら、どこだろうが、安心して過ごすことなんてできないわ。
だったら一人で居る場所をつくるしかないってわけ。

いろんな可能性の中で、それらが、身延に行かれた理由として最初に考えられる可能
性じゃないのかと、私は思う。そしてそう考えると、御書の中で、整合性があって、
矛盾はない。

大聖人は逃げたりなんかしないと思う人はどうかしてる。大聖人は逃げている、いつ
だって。当然のこと。不軽菩薩だって、石を投げられればよけるんだよ。そして場所
を変えて、また手を合わせて、人びとの仏性を拝むんだ。石に当たることが修行じゃ
ないの。一生懸命に法難を超えようとして、その中で身命を失うのはやむをえないの。
法華経のために命を使ったことは、誇りとなるわけ。法難が起こるのはしかたないし、
起これば乗り越える、その中で死んでも本望。でもそれは手を抜いて死ぬのが目的じ
ゃないんだから。そんなことまで説明しなくても分かると思うけど。念のため。

清澄寺で追われたとき、東条景信に「さあ、殺してください」と首を差し出したんじ
ゃないからね。逃げたんだよ。当たり前だけど。次に松葉谷でも襲われて逃げたの。
それから伊豆流罪で、そこで死のうと受け入れたわけではないから。帰ってきたの。
今度は、安房の国で小松原の法難で襲撃を受けたときにも、相手と戦って殲滅させた
なんて書いてないから。おそらくは逃げたんだから。竜の口で死罪になったときも、
法華経のために命を捨てるのだと喜びを噛みしめながらも、八幡で立ち止まるなど、
徹底的に時間稼ぎをして、虎口を逃れたと述懐されてるんだ。


「去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか。「必ず心の固きに仮りて神の守り即
 ち強し」等とは是なり、」
(真言諸宗違目、P141)真蹟あり


佐渡流罪だって、招待されて自ら行ったわけではないから。後年、佐渡の人たちが恋
しいとは言われてるけど、命を狙われる中、赦免状が着くと、急いで本土に渡って逃
げたんだろ。実際には殺されないように細心の注意を払って、法難を乗り越えてきて
るんだ。必ず強い意志があってこそ天も護ってくれるんだと。


――― では大聖人は、どこへ行けばよかったのか。


あと、もう一つの理由は、弟子の育成としてふさわしい地だよ。育成なんてどこでも
出来るようだけど、そうでもないんだ。この信仰を布教してくには、必ず、経典類を
きちんとそろえた場所を拠点にするんだって考えられてたの。だから清澄寺は、有縁
なだけでなくて大切な場所だったんだよ。今度の身延にも、経巻はかなりの量があっ
たんだ。誰が流罪中に保管しておいてくれてたのかも分からないけど。


「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし
 然れば則ち予所持の聖教・多多之有り」(曾谷入道殿許御書、P1038)真蹟あり


だけども散逸して欠損してるのを、弟子のために修正しておきたいと望まれたの。


「然りと雖も両度の御勘気・衆度の大難の時は或は一巻二巻散失し或は一字二字脱落し
 或は魚魯の謬悞或は一部二部損朽す、若し黙止して一期を過ぐるの後には弟子等定
 んで謬乱出来の基なり、爰を以つて愚身老耄已前に之を糾調せんと欲す、而るに風
 聞の如くんば貴辺並びに大田金吾殿・越中の御所領の内並びに近辺の寺寺に数多の
 聖教あり等云云、両人共に大檀那為り所願を成ぜしめたまえ、」
 (曾谷入道殿許御書、P1038)真蹟あり


他に、流罪中に書写して用意しておいた法華経が消失したっていう御書もあったわ。
私だったら、法華経みたいな長い経巻を書写して焼失したらそれだけで心が折れる。
それでなくても、経典を読み、御書を書かれるのに、これまでのように、いちいち襲
撃されてたら、書くものも書けないよね。

だから遁世という形をとるしかなかったんだと思うの。一つには門下を守るために。
二つ目には聖僧だったから。そして弟子のために新たな展開の準備をするために。

次の「三沢抄」には、おそらく大聖人が身延に行ってしまったことについて、門下が
私達を見捨てないでって言ってるんだと思う。大聖人は、法難を重ねて乗り越えたこ
とで仏法に疑いがない、つまり仏としての存在は揺るぎないのだから、もうここにい
るんですよ、と言われてるの。たとえ、門下が大聖人を捨ててしまったとしても、そ
れは当然で、自分が仏になることで、みなを救おうと約束したんだって。自分一人の
ことはなんとでもなるからって。みんなを見捨てたりなんかしないから、ゆっくりし
ててねって。あ、ゆっくりは言ってないか。とにかく自分だけが厳しい道を選ぼうと
されてるんだ。


「いかなる大難にも・こらへてんと我が身に当てて心みて候へば・不審なきゆへに此
 の山林には栖み候なり、各各は又たとい・すてさせ給うとも一日かたときも我が身
 命をたすけし人人なれば・いかでか他人にはにさせ給うべき、本より我一人いかに
 もなるべし
・我いかにしなるとも心に退転なくして仏になるならば・とのばらをば
 導きたてまつらむとやくそく申して候いき、各各は日蓮ほども仏法をば知らせ給わ
 ざる上俗なり、所領あり・妻子あり所従あり・いかにも叶いがたかるべし、只いつ
 わりをろかにて・をはせかしと申し候いき・こそ候へけれ、なに事につけてか・す
 てまいらせ候べき・ゆめゆめをろかのぎ候べからず。」
(三沢抄、P1489)真蹟あり


大聖人は弘安4年(1281年)5月の「八幡宮造営事」に 7、8年間からお身体の衰弱
が激しかったことを記されている。8年前って文永11年(1274年)だよ。身延に来
られた年のこと。


「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義月月の難両度の流罪に身つかれ
 心いたみ候いし故にや此の七八年間が間年年に衰病をこり候いつれどもなのめに
 て候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、
 其の上齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一今年はすぎ候とも一二をばいかでかす
 ぎ候べき、」(八幡宮造営事、P1105)


よく大聖人が身体を崩されたのは建治年間のことからだと言われてるんだけど、それ
って、どういう計算なのかな。弘安4、3、2、1、建治3、2、1、文永11年。
8年前だったら、文永11年の身延に入った年だよ。そして、それよりも重要なことが
この御書にあるのだけど、日々の日常、月々の難や流罪などで無理を通したことが、
平気でもなんでもなくって、実に、心も身体も痛めていたことを述べられてるんだ。
これまでの御書には書かれてなくても、本当は、御自身の身体を深く崩されるほどの
戦いの連続だったの。

真蹟のある御書、弘安4年12月の「上野殿母御前御返事」にも8年間だとあるの。


「去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候いて今年十二月八日にいたるまで此の
 山出ずる事一歩も候はずただし八年が間やせやまいと申しとしと申しとしどしに身
 ゆわく心をぼれ候いつるほどに、今年は春より此のやまいをこりて秋す」
 (上野殿母御前御返事、P1583)真蹟あり


後戻りのできない衰弱を感じていく中で、身延の厳しい地を選ばれたんだ。



  • [50]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月26日(木)23時12分41秒
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No.048 【身延山】 ⑩


佐渡流罪を赦免されて鎌倉に到着したのが、3月26日。その10数日後の4月8日には、
平頼綱に呼び出されたけど、話し合いは決裂。その内容は詳細には伝わってないの。


「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきにはにるべくもなく威儀を和らげてただし
 くする上
或る入道は念仏をとふ或る俗は真言をとふ或る人は禅をとふ平左衛門尉は
 爾前得道の有無をとふ一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様に
 て大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつ
 ては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、」(種種御振舞御書、P921)録内。



平頼綱は、それまでの荒れ狂う姿ではなく、蒙古がいつ来るのかを穏やかに尋ねてき
たってあるから、和やかな会談にも見えるけど。書いてないことが多すぎて真実は分
からないよ。日興上人の伝記によると、北条時宗は大聖人に大寺院の寄進を申し出た
そうなんだ。それが本当なら、きっと、この会見のときのことになるだろうね。


「冨山仰に云く、大聖は法光寺禅門(※=北条時宗)、西の御門の東郷入道屋形の跡
 に坊作って帰依せんとの給ふ、諸宗の首を切り諸堂を焼き払へ、念仏者等と相祈り
 せんとて山中え入り給ふぞかし、」(三師御伝土代、日道上人)



大聖人はそれさえ蹴ってしまったんだって。平頼綱はどれほど人を殺してきたか分か
らないと言われるほどの恐怖政治をしてきた人なんだよ。佐渡流罪を許してやって呼
び寄せたら、やっぱり幕府でも知らない国家情報を知ってる危険人物だったわって。
それでも穏やかに仲良くしようと提案してきたのは、本当にぎりぎりの譲歩だったの
かもしれない。だけど大聖人のほうだって、譲れないものがあるんだ。ここも他の五
老僧とは見解が異なったみたいだね。国から認められて大寺院を運営しながら、布教
したほうがよいのではっていうのは、悪くはない、大人の意見ってやつだよね。

だけど、そういう申し出を断ったことすら、大聖人の御書には書かれてないんだ。日
興上人が伝えなかったら永遠に失われてたわけ。だったら、たまたま伝わってること
だけで事実の全部と思わないほうがいいと思うのは私だけなのか。

この会見でおとなしかった平頼綱だったけど、もしも大聖人がこの後にも鎌倉に居続
けてたら、これまでにも増して苛烈な弾圧が始まってもおかしくはないんだよ。大聖
人だって、それを予想しなかったわけではないだろう。

平左衛門尉と会って、彼らが聞いて来たのは、蒙古がいつ来るのかだよ。その情報を
確認したかった。そのために大聖人を赦免にした可能性だってあるの。だから待遇が
一変したんだろ。できれば他宗と折り合いをつけて仲間にしたかったんだ。

文永9年の9月13日の時に、幕府が蒙古襲来にそなえて、各地の御家人に九州に人を
やるように「関東御教書」で命令した時、そんな忙しい日の直前の9月12日に、わざ
わざ大聖人を急襲して竜ノ口に連れていったんだ。偶然じゃなく国威発揚の為だろ。

今度は文永11年、会見で大聖人は、今年中に蒙古が来ると予言してきてしまった。
そんな情報を持ってうろうろしてる人物を、今度も放置しておくはずがないんだって。

幕府側からしたら、和やかな態度に転じて、ぎりぎりの譲歩だった大寺院の寄進、そ
れすら平気で断る人物だと分かったのだ。権力者が穏やかでネコナデ声で会見したっ
て、永遠に逆らい続けることが決定的になった人物を彼らが放置しておくわけないよ。

もうすぐ蒙古襲来があるのに、国土が滅ぶのだと、幕府に匹敵する情報を持って予言
を吹聴する人物なんだよ。各宗派に蒙古調伏の祈祷を国家をあげて依頼してるのに、
「そんな祈りだと国が滅ぶんだぞ」と主張する巷の人物を放置しておいては、足並み
がそろわないからね。

当然、死んでもらわなければならない。早急に。その年のうちに来襲があるという情
報は聞けたから、もう用は無い。どこからそんな情報を得てるのかは分からないけど、
それは本当なのだろうから。これまでを超える、決定的な抹殺が起こっても不思議で
はないんだって。少なくても可能性はあったんだよ。

ところが、大聖人のほうは、そんなことは百も承知。かなり以前から、3度目で隠棲
することを考えていたんだ。3度、同じことを言っても聞かないのなら、押しても駄
目なら引いてみろじゃないけど、そこで同じことを言い続けるのも無駄だから。
おそらくこの会見のときにも、そう言われただろう。

大聖人が、以前から山籠もりを考えていたのは、御書にそう書いてあるのだもの。
最初の2つは後年の回顧だけど、3つ目は佐渡流罪中だから。真蹟などがないのが惜
しいところなんだけどね。


本より存知せり国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし用いずば山林に身を
 隠さんとおもひしなり、」(下山御消息、P358)真蹟あり



「同じき四月八日に平左衛門尉に見参す、本よりごせし事なれば日本国のほろびん
 を助けんがために三度いさめんに御用いなくば山林にまじわるべきよし存ぜしゆ
 へに同五月十二日に鎌倉をいでぬ。」(光日房御書、P928)真蹟曽存


「国主信ぜられまじく候へば日蓮尚篭居の志候」(祈祷経送状、P1356)
 真蹟なし、録内。



幕府が大聖人の諌暁を聞き入れなかったことについて、大聖人はどう思われたのだろ
うか。口惜しくはなかったのかどうか。

御書にそうあるわけではないけど、長年をかけて国に諌暁してきたのに、聞き入れら
れないと分かって落胆した気持ちが強くあったのではないかとは思うんだ。それで行
動が変わるわけじゃないけど。予想はしてたことだし。繰り返すけど御書には書いて
ないから、私の想像ね。言わないからといって平気だったとは思うのか? 御書には、
幕府側が聞き入れるかどうか分からないけど、使命を果たすだけだみたいに淡々と言
われてたり、言っても聞かないのは自分の失点ではないと、あっさりと言われてる所
もある。


「つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて、去ぬる文永十一年五月十二日
 相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず既に五箇年を
 へたり。」(妙法比丘尼御返事、P1413)真蹟なし、録内



別の御書には、国土が滅んでしまって皆が苦しむことになると大変に嘆かれてたりも
するから、上記のような御書はかなり複雑な思いの中から、苦しみを伏せて淡々と書
かれてると思うんだ。大人なんだから、真剣なんだから、幕府が自分の意見を聞かな
かったからといって、「くっそー、どうして分からないんだ」とか、幕府を恨むよう
な記述をわざわざ書かないよね。そういうことは書かないで、平静に書かれてるから
こそ、深い落胆の思いが込められているのではないかとも思えるの。



  • [49]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月25日(水)23時56分30秒
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No.047 【身延山】 ⑨


きちんとしてるのに、大聖人の門下になったら、法難に会うわけだよ。いろいろと。
そんなわけあるかいって言う人、どの法難が普通に起こりうる法難だったわけだよ?
そんなの、大聖人だったら平気だろっていう感覚はいただけない。法難なんて、かっ
こよく言っても、襲われるほうには、ようは殺し合いだから。大聖人の側だって、常
に人を周囲に頼んで、武器を準備してたことが御書に書かれてあるんだ。実際に殺さ
れた門下はきっとすごく多いんだと思う。御書には誰々さんが殺されたって出てこな
いって?

そうだよ出て来ないんだよ。たぶん一人も。生涯を通して、小松原の法難で、鏡忍房
一人が戦死しただけだったら、鏡忍房の名前がもっと何度も出てきてもよさそうだけ
ど、御書には一人の名前だって出て来ないし、御自身が傷を受けたことも必要以上に
は出て来ない。どっちかというとまるで日常茶飯事のように、御書には弾圧で殺され
た人たちは、数百人になるとあるだけだ。何でも書いてるんじゃないよ。書いてない
けど、そこにどんな思いがあるのかを想像してみようよ。
だから書けないんだよ。


「其の外に弟子を殺され切られ追出くわれう等かずをしらず、」
(聖人御難事、P1189)


「弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、」(行敏訴状御会通、P180)



魔性に魅せられた権力が、どれほど理不尽だったか。それと戦ってたんだよ。

大聖人は御自身の戦いを、項羽と劉邦や他のどんな歴史上の戦いよりも苛烈だと表現
されてるんだから、多くの人を巻き込んでいたのは、間違いないことだろうね。

そんなふうに門下が殺されていく法難をよしとされたかって。とんでもない。できる
だけ、可能なかぎり、そういうことは避けたいとお考えだったんだ。身延に行かれた
その翌年には、身延に行く途中に家があった門下にお手紙を送ってるの。


「但し去年かまくらより此のところへにげ入り候いし時・道にて候へば各各にも申
 すべく候いしかども申す事もなし、又先度の御返事も申し候はぬ事はべちの子細
 も候はず、なに事にか各各をば・へだてまいらせ候べき、あだをなす念仏者・禅
 宗・真言師等をも並びに国主等をもたすけんがためにこそ申せ、かれ等のあだを
 なすはいよいよ不便にこそ候へ、まして一日も我がかたとて心よせなる人人はい
 かでかをろかなるべき世間のをそろしさに妻子ある人人のとをざかるをば・こと
 に悦ぶ身なり、
日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上・わづかの所領をも召さ
 るるならば子細もしらぬ妻子所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし。」
 (高橋入道殿御返事、P1460)真蹟あり


大聖人が寄ったと人に知れたら、必ず大弾圧が押し寄せるだろうから、寄らなかっ
たんですよと言われてるの。この御書には大聖人側の事情なんて書いてないけど、
ここを通りがかった2日後には、別の御書で飢餓状態で嘆いておられるから、普通
だったら寄って、これからの身延山のために備蓄も欲しい所だけど、そんなことも
全て押し殺して、門下の無事のために通りすぎたんだよ。


「かまくらに有るべきならねば足にまかせていでしほどに便宜にて候いしかば設い
 各各は・いとはせ給うとも今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども・心に
 心をたたかいてすぎ候いき、そのゆへはするがの国は守殿の御領ことにふじなん
 どは後家尼ごぜんの内の人人多し、故最明寺殿・極楽寺殿のかたきといきどをら
 せ給うなればききつけられば各各の御なげきなるべしとおもひし心計りなり、」
 (同、P1461)



執権の北条時宗(守殿)の御領地だから、敵だと思われて嘆かわしい事態になると思
ったのだって言われてるの。昔からそうなんだよ。初期の御書を見ても、富木常忍に
迷惑がかからないように夜になってから行きますよとか、そういう配慮をされてたの。

門下には誠心誠意の配慮を尽くされている。(別な一面では公平で厳しいんだけど。)

でもそれは門下への配慮。御自身はどうだったかというと、弘安元年には、3度目の
流罪が画策されてるよと、幕府側の情報がリークされたんだ。そして御自身が法難を
受けるのは、願ってもないことだと大聖人は喜ばれてるんだわ。

「御文うけ給わり候い了んぬ、日蓮流罪して先先にわざわいども重て候に又なにと
 申す事か候べきとはをもへども人のそんぜんとし候には不可思議の事の候へばさ
 が候はんずらむ、もしその義候わば用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり、
 今度ぞ三度になり候、法華経もよも日蓮をばゆるき行者とはをぼせじ、」
 (檀越某御返事、P1294)真蹟あり



自分はよかったの。仮に法難で死んでも。法が流布することは間違いないのだから。
伝教大師だって、目的は死後にかなったんだからって、そう言われてるの。


「設い日蓮死生不定為りと雖も妙法蓮華経の五字の流布は疑い無き者か伝教大師は
 御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を
 顕す」(土木殿御返事、P963) 真蹟あり



でも門下に難がおよぶことを避けるためには、一杯の飯を請わずに、身延の山奥に
初めて入っていくことを厭わなかったんだよ。



  • [48]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月24日(火)23時54分8秒
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No.046 【身延山】 ⑧


大聖人は、基本的には法難が起きたときには、命を顧みずに信仰を捨てないようにと
指導されていることが多い。例えば「兄弟抄」。


「仏になる道にはあらねどもはぢををもへば命をしまぬ習いなり、なにとなくとも
 一度の死は一定なり、いろばしあしくて人にわらはれさせ給うなよ。」
 (兄弟抄、P1084)真蹟あり。


死は一定だと。多くの御書にそうあるよね。それと共に、いつも死ぬ時の様子にもこ
だわってるのにも着目してほしいの。当時は死はわりと身近だったから、対比は容易
だったろうから、虚偽ではなく、本当に門下の死相は優れたものだったのだと思う。

今の私達で言えば、死んだあとじゃないけど、よく、学会員だといえば無茶苦茶なく
らいに顔色が良くて不思議だと言われてたのと同じだよ。不思議なくらいにそうだっ
た。いちいち言わなくても常識だったから、当時の門下の手紙は残ってないけど、
それくらい歓喜に満ちてたから、合言葉のように、具体的に、死ぬ時に顔色が悪くて
人に笑われるなよと御書に書いてあるんだよ。同じなんだって。当時を想像してみてよ。

あと大聖人は、死後の世界を予言して脅してるんじゃないってことは、大切なことな
んだけど、それはまた後で詳しく言うよ。真蹟のある「十字御書」ばかりじゃなくて、
今回はこの御書。長いので略すから、自分で読んでほしいところ。


「地獄と云う二字をばつちをほるとよめり、人の死する時つちをほらぬもの候べきか、
 これを地獄と云う・・・」 (上野殿後家尼御返事、P1505) 真蹟なし、録外。


死んで別の世界に行くとか想像してたんじゃなくて、本当に死んだときの顔をみて、
悪道を歩む人生だったのか、これからも悪道を歩むのかを心配してたんだよ。死んで
横たわる現実のその姿が、経文に説かれてた死後の意味なんだと。

それで話を戻すと、大聖人は、門下に対して法難にあったら乗り越えろって言うけど、
法難に会わせることを、出来るだけ避けさせたいと考えてたんだ。なぜって、仏法を
学ぶ身なら覚悟もしていいようなものだけど、ほとんど理解もしてない人たちが苦し
められるのを「心苦し」いと思ってたんだわ。


「然れども凡夫なれば動すれば悔ゆる心有りぬべし、日蓮だにも是くの如く侍るに前
 後も弁へざる女人なんどの各仏法を見ほどかせ給わぬが何程か日蓮に付いてくやし
 とおぼすらんと心苦しかりしに、案に相違して日蓮よりも強盛の御志どもありと聞
 へ候は偏に只事にあらず、教主釈尊の各の御心に入り替らせ給うかと思へば感涙押
 え難し、」(P1126、呵責謗法滅罪抄)真蹟なし、録外。


この心情を決定的に示すのが、大聖人の佐渡流罪中に、門下が赦免運動を幕府に働き
かけたことをやめさせたことだよね。大聖人は、本当に命がけで、そんなすごい覚悟
だったんだからね。自分が法難に会うのは、全然、良かったんだ。なにせ、赦免運動
を厳しく叱ってるんだからね。


日蓮が御免を蒙らんと欲するの事を色に出す弟子は不孝の者なり、敢て後生を扶
 く可からず、各各此の旨を知れ。」 (真言諸宗違目、P139) 真蹟あり 



門下には幕府に影響力のある人も多いからね。だけど、そんなことで動いたら、彼ら
の立場が危うくなるだろう。まちがっても、大聖人が佐渡流罪で、悠々快適生活を楽
しんでて帰りたくないってことはないんだからね。最後まで殺されそうだったんだよ。
佐渡では諸天に向かって「帰せよっ!」て、大声で叫んでるんだから。そして赦免の
あとは、関係者に御礼を言ってるんだから、本当はもちろん助けてほしかったんだよ。


「本国へかへし給へと高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば、」
 (光日房御書、P927)真蹟曽存


「日蓮此の度赦免を被むり鎌倉へ登るにて候、如我昔所願今者已満足此の年に当るか、
 遠藤殿御育み無くんば命永らう可しや亦赦免にも預かる可しや、日蓮一代の行功は
 偏に左衛門殿等遊し候処なり、」(遠藤左衛門尉御書、P1336) 真蹟なし。



法難が来るのは必然。来たら乗り越えるように努力するのも当然。だけど、門下を自
分のことで巻き添えにするのは、さすがによしとされなかったの。

なんだか牧口初代会長や、戸田二代会長と重なって見える。牧口先生は、御自身が、
どれほど窮地に追い込まれていても、自分のことで友人を利用しようとはされなかっ
たんだ。



  • [47]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月23日(月)23時54分32秒
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No.045 【身延山】 ⑦


それから鎌倉に出て行って布教を開始して、39歳で立正安国論を提出したら、草庵を
大勢に急襲されたってわけ。「下山御消息」には、数千人と記されてるんだけど、こ
のお手紙は部外者である門下の主君に向けて送ってるんだから、あながち過剰な表現
でもないはずだよ。 世間の知る所だからね。


「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其
 の夜の害もまぬかれぬ、然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて大事
 の政道を破る
日蓮が未だ生きたる不思議なりとて」(下山御消息、P355)



ただ、この法難については、御書に詳しく書かれてないってのもあるけど、理不尽す
ぎて、どう解釈していいのか分からないぐらいに、もう理不尽なんだ。大切な政道を
破った って御書にあるとおりだよ。何人、集まったんだよって。まるで国のイベント
みたいだけど、だいたい、なぜ夜中にしたんだろ。

大聖人の草庵は町の外れ。夜はひっそりとしてるの。山へと向かう一本道の途中で逃
げ道はない。って、よくそう言われてるけど、それは少人数で襲ったときの話だよ。
こんな夜道を灯りもつけずに何十人とか、何百人とかで来るイベントだよ。山に来る
前に、人々がどこかで集まってる時点で、誰かが、知らせてくれて気づくよ。

集まった人間が何をするかなんて昔も今も変わらない。草庵だって壊されるだろし、
当時は火事が恐れられたっていっても火がつけられてもおかしくない。ただ、最初か
らそんな計画だったのかな。みんなで集まって追い出すつもろだったら、昼間でよか
ったずだし、夜中に殺すつもりで襲ったなら、群衆を集めるべきじゃないはずなんだ。
逃げられる可能性が大きいから。何か後先とか関係なく、急に盛り上がったイベント
みたいな感じ。気に入らないから殺すのなら、暗殺でよかったはずだし、幕府が政道
を破る禁を犯してまでやったんだよ。何をそこまで怒ってるのって感じ。国の権力者
の指示だったから、暴動を起こした者にも何んにも、お咎めもなかったんだよね。

国が法律を犯すことを民衆に見せて、そんなリスクを負ってまで、することなの。
それほど、あらかじめ打ち合わせしてた提出物1枚の影響があったってことだよ。

私も、これから報告書を出す時には、名前とか間違いがないように気をつけようっと。
民衆を繰り出して、夜中に襲われたら嫌だしね・・・って、ありえないだろ。

それで、その難を逃れて、そのあとは、千葉県の富木常忍を頼ったっていう話もある
けどよくは分からない。どっちにしろすぐ翌年に、今度は伊豆流罪に処せられるんだ。

40歳の時だね。これも流罪の理由は不明なんだ。悪口を言ったからじゃないかとか。
よく分からない理由では、本人も周囲も反省なんか出来るわけないだろって。本当の
事情とは何か。推測では、幕府とつるんでた良観房という有名人がいたの。その人の
師匠のこれまた有名な叡尊が、もうすぐ関西の地から鎌倉に来ることになってて、幕
府の要人以下、数万人に受戒するという、そんなイベントが翌年に決まってたの。
そのあおりを受けて、牽制のためだったのではないかと書いてあるのを読んだわ。
つまり、政治と結託してた良寛房のイベントの都合なわけだよ。なんじゃそりゃ。

それで伊豆で2年を過ごして、赦されたのが42歳。その翌年には天変地異を見て、執
筆のために一切経を見ようとして故郷の安房に帰って来て、病身の母にも会うことも
できたんだけど、さっそく、そこで東条景信から襲撃を受けて、弟子を殺されたんだ。

43歳の時。もうね、一切経を見るどころじゃないよ、その地を後にするしかないだろ。

それからどこに居たのかよく分からないけど( 45歳の時には、もう一度、清澄寺に
戻ってたみたいだね。) それからあとは、また鎌倉に来たんだよ。

それで鎌倉で布教したら、今度は、50歳の時には竜の口で死罪、あと佐渡流罪だよ。
どんな罪状なの、これ。死罪にしようとしたのは、私刑だったみたいだしね。その後
も流罪の間中、嘘の御教書(命令書)が何度も捏造されてたみたい。

そして、この間、良寛房の策謀で、とても多くの大聖人の門下が殺されたんだって。


「頚を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及
 ぶこと数百人なり、
此れ偏に良観念阿道阿等の上人の大妄語より出たり心有らん人
 人は驚く可し怖る可し云云、」(行敏訴状御会通、P182) 真蹟曽存。



具体的には、讒言だよ。鎌倉の町に自分たちで火をつけて、門下のせいだと言いふら
されたんだって。その他、牢屋に入れられた直弟子も数十人だと書いてあるんだから、
もしもだよ、御書に登場するような人たちが弟子の全部だったのなら、主な弟子は、
ほとんどが牢獄だったってことになっちゃうよ。


「かまくら内に火をつけて日蓮が弟子の所為なりとふれまわして一人もなく失わん
 とせしが如し。」(破良観等御書、P1289)



つまり大聖人の布教によって、多くの人の命が失われたんだ。まさに戦いだったの。
大聖人は仕方ないよねって思ったかな。十一通御書を出して対決を迫り、良寛房に
祈雨の力が無いことなど、公式に対決をどんどん迫ったんだけど、死罪&流罪。

佐渡でも命を狙われ続けてとても危なかったんだけど、生きて帰ってきたのが53歳。
多くの人が退転した。


「かまくらにも御勘気の時千が九百九十九人は堕ちて候」
(新尼御前御返事、P907)真蹟曽存。 



なにせ、佐渡への流罪は生きて帰ってくる人はいなかったんだからね。大聖人が帰れ
るなんて、世間の人はまさか思わなかったんだじゃないかな。

この間の大弾圧でどれほど人が殺されたか。あるいは、ほとんどが退転してしまった
んだと。自分を信じて周囲がそうなった体験をして、平然と思える人がいるかな。

ここまで読んで分かってほしいのは、ただ単に布教を頑張り続けるのが良いことだと
いう単純なことではないの。どう動くかで、理不尽な命の犠牲を伴ってるんだよ。



  • [46]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月22日(日)23時41分47秒
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No.044 【身延山】 ⑥


大聖人はちゃんとしてたんだよ。それなのに、ひどい目にあってるんだよ。

もともと立宗宣言して清澄寺で追い出された時もそうなの。世の中から誤解されてる。
諸宗の批判してみたら、念仏を信じてた東条景信が怒って、大聖人を捕まえて問いた
だそうとしたのを、清澄寺のみんなが逃がしてくれたとかじゃないからね。そんなの、
全然、違うから。

地頭の東条景信は、もともと大聖人のことを大っ嫌いなんだよ。殺したいって思って
たの。なぜって、ああ・・・、地頭とか鎌倉幕府の支配構造は複雑で説明は難しいわ。
とにかく清澄寺のある近辺は幕府の直轄地だったんで、地頭のくせに東条景信の領地
といえるかは微妙だったの。それで、この人は裁判によって、この清澄寺を含む地域
を自分のものだと思ってたのに取られてしまうんだ。おそらく半分の領地を失ったん
だと、先に挙げた本で山中氏が御書から推測している。(私は、論文みたいにいちい
ちに引用をひっぱってこないからね。自分で読んでみて。)

東条景信は、その裁判に負けたんだよ。なぜなら、すっごい頭のいい僧侶がいて、裁
判の判例を鎌倉幕府の大元、鎌倉幕府を開いた源頼朝の言いつけから持ってこられて、
負けちゃったんだよ。誰なのそれって、それこそが日蓮大聖人なんだよ。大聖人って、
そんなことまでやってたんだ。いつのことかって、清澄寺を追い出された後に、裁判
に関わり出したっていうのもおかしいから、少なくても、この裁判の発端の時は、立
宗宣言前のことなんだよ。そしてこの裁判は「一年」で決着したんだから、立宗宣言
の時には終盤か、もう、このときには裁判はとっくに終わってたのかもしれないね。
つまりは東条景信の殺意みたいなものは、立宗前の清澄寺時代からあったに間違いな
いんだよ。清澄寺を自分のものにして、浄土宗に改宗させようと狙っていた。その正
当な裁判で負けた私怨。それを清澄寺のみんなは、よおく知ってたはずなんだよ。


「東条左衛門景信が悪人として清澄のかいしし等をかりとり房房の法師等を念仏者の
 所従にしなんとせしに
日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄二間の二箇の寺東
 条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本
 尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり、此の
 事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給うべき、」 (義浄房御返事、P895)
 真蹟なし、録外。



立宗宣言のときには、あるいは決着がまだついてなかったかもだけど、自分の領地を
消失させる人物を殺したいって思わない領主はいないだろ。大聖人がなぜ裁判で頑張
ったかのかは、この御書を見ると、東条景信側から猪狩りを行って、「ここはオレの
領地だぞ」って堂々と奪い取ろうとしたわけだよ。大聖人は、本来の地主に恩義を感
じると共に、東条景信が清澄寺の僧侶を浄土宗に転向させていったとあるから、この
人が領主になれば、「ハイ、清澄寺の人たちはみんな浄土宗しか認めません。」って
言いだすような人だったんだろうね。法華経を捨てる覚悟で大聖人は戦ったってある
もの。あれれ、そうすると、やっぱり、立宗前から「法華経」だったということにな
るんじゃないのかな。それにこの御書にある表現だよね。とても余裕で戦ったんじゃ
ないんだ。法華経の信仰をかけて、必ず「念仏者」に渡さないようにと頑張ったの。

東条景信がそんな事情をどこまで知ってたかは分かんないけど、裁判を助けた人物
の思いが念仏批判だったということを知り、はっきりと目にした時は、驚いたろう。

そんな東条景信がだよ、大聖人の立宗宣言の場に来たのは、修学を終えた大聖人のお
話を神妙に聞きに来たと思えるかな。地頭だったから、誰も「来るなよ。」とは言え
なかったけど、来るってだけで、一触即発になる予感はあったはずなんだよ。東条景
信は清澄寺の僧侶を念仏宗に改宗させたがってたんだから、浄土宗を批判するのを見
て、捕縛する理由が出来たんだから、怒り心頭どころか、ほくほく状態。内心は自身
の幸運を喜んだろうね。

東条景信が殺意をもっていたのなんか、11年たった後でも大聖人に奇襲をかけて他の
人を巻き込んで殺そうとしたことでも明らかだよ。
あるいは殺しておけば、土地も戻
るかもという思いもあったのかもね。

それで大聖人は、みんなには見捨てられたの。東条景信は、裁判の意趣返しもあって、
捕まえたら殺したいと思って来てたんだよ。清澄寺の講義で諸宗を批判する場がどれ
ほど荒れたのかは想像に難くないわ。大聖人は、泰然として、つかまるに任せたんじ
ゃなくて、逃げて、そう、命が危ないから、清澄寺の中に逃げて、隠れたんだよ。
その時に、道善房は関わりを恐れて、大聖人を破門にしたんだから。そこも諸学者の
認識がどうかしてるところ。この人は大聖人を大切になんかしてないよ。


「されば日蓮は此の経文を見候しかば、父母手をすりてせいせしかども・師にて候
 し人かんだうせしかども
・鎌倉殿の御勘気を二度まで・かほり・すでに頚となり
 しかども・ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんも
 あるやらん、」(王舎城事、P1138) 真蹟曽存

「はじめは日蓮只一人唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人・耳をふさぎ・眼をい
 からかし・口をひそめ・手をにぎり・はをかみ・父母・兄弟・師匠ぜんうもかたき
 となる
、後には所の地頭・領家かたきとなる・後には一国さはぎ・後には万民をど
 ろくほどに」(中興入道消息、P1332) 真蹟なし、録内。

  ※「ぜんう」とは善友、近しい人達のこと。


残酷な話だけど、両親がいつ、大聖人の意図を知ったのかは不明だけど、諸仏堂で人
が集まった晴れの舞台で大聖人が諸宗を批判する姿を見たんだとしたら、どれほどか
躊躇したろうか。もしも諸宗批判を以前に知っていたのなら、心配でとても寝られな
かったろうね。そして「手をすり合わせて」やめてほしいと懇願したのを大聖人は断
ったんだ。言っておくけど、放蕩息子が両親を恨んで家を出ていったんじゃないから
ね。父母のためにそうすることを選んだの。

師匠の道善房にしたってそう。すでに勘当されてたんなら、諸仏堂での晴れ舞台は、
なかったはずだから、その場で、東条景信が命を狙わんとした騒動の中で、勘当を言
い渡したはずだ。だってそのあとは大聖人と会ってないもの。その時の道善房の無慈
悲なありかたは報恩抄にも書かれてるんだけど。その騒動を逃れられたのは、ただた
だ、兄弟子の2人が命がけで隠して、逃がしてくれたからだよ。

立宗宣言は、命がけで法を説いたんだ。周囲からみれば、そうなるって分かってるだ
ろうって思われてたろうね。でもここを選ばねば、布教の根本を失ってしまうから。

でもね。

ここもそうだけど、浄土宗の批判をしたからって、即、命を狙われることなのか。
それで長年いっしょにくらしてきた清澄寺の人たちや師匠がすぐに見捨てていいこと
なの? そんなひどい所なの? 浄土宗を批判したら牢に入れられるのが普通なのか。
だったら、No.31で挙げた、これまでの浄土宗を批判した人たちは、誰か、命を狙わ
れたのかっていうの。

顕真や、公胤や、明慧房や、隆真とかは、どうなの。なんかあったの?
大聖人の修学時代に比叡山にいた、俊範や、宗源や、永尊などはどうなったの。

浄土宗って、批判されたらすぐに殺される宗派なの?。
そんなことないよ、教義批判を普通に堂々と受けてきたのが、仏教なんだよね。
なんでそこまで関係者は腹を立てたり、見捨てたりしたの。どんな雰囲気だったのか。

普通なら、正面から「出てけっ」ぐらいは言い渡されるかもしれないけど、なんで殺
されるの? 大聖人は殺されるところだったのよ。それで兄弟子の二人だけが隠して
くれたの。なんで地頭が出てきて、お寺の中を探し回るの。命からがら、様子を見て
逃げねばならないって、こんなのを平然と普通だと思われたら困るのよ、理不尽すぎ
るんだよ。



  • [45]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月22日(日)00時19分13秒
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No.043 【身延山】 ⑤


そんなのは違うか・・・。

大聖人のお気持ちは、いつも信仰ではありながらも大勢の人に負担をかけてきたこと、
そのことを大聖人御自身がどれほどか重くとらえられてるんだ。それについての背景
から説明しなければだね。それも最初から。ちょおおと長くなるけど。(やっぱり)

大聖人が法難にあったのって、どんなことが原因だったのかな。例えば、最初の法難、
松葉が谷の法難の原因になったのは、「立正安国論」を北条時頼に提出して諫めたか
らだったよね。

大聖人は突然に突拍子もなしに、国家諌暁だとか言って、立正安国論を幕府に提出し
たんじゃないからね。勝手に書きあげて郵便ポストに投函したんじゃないから。宿屋
入道という、れっきとした北条時頼の側近の一人に話して、彼を通して渡してるわけ。

どのような提出の仕方がよいかを幕府の側近に相談したの。対話形式な文体にしたの
も独創的な形式というより、政治を直接に批判しないための当時のきちんとした提出
の形式の一つだったんだって。それに提出する前には、大聖人は、実際に北条時頼に
会ってるんだからね。話してるの。それから立正安国論を出したんだ。


「復禅門(※=北条時頼)に対面を遂ぐ故に之を告ぐ。之を用いざれば定めて後悔有
 る可し、」(安国論御勘由来、P35)真蹟あり。


社会的に勝手なことをしたってわけじゃないんだからね。その返書が無かったもの
だから、これまた、不勉強な今の世の学者さんたちによると、行動が過激すぎて、
無視されても当然すぎるみたいなことを平気で言ってるけど、それも違うからね。

先に挙げた山中氏の著作に明らかにされてるんだけど、幕府側の頭脳と言われてた
北条実時が自分の仲の良いお坊さん、西大寺の叡尊に送った手紙には、当時の僧侶
の堕落ぶりを指摘して怒ってるんだけど、その文面が立正安国論の文面のまんまの
パクリだったというわけだからね。
彼らにしても立正安国論を読んで感銘を受けたってことの証明なんだよ、これは。

つまり、立正安国論を読んで、馬鹿馬鹿しいというよりは、なるほどなと思われた
節が多分にあったってこと。だからこそ、幕府の側近も大聖人の提出に協力したん
だし、その内容を吟味して、彼らには無理だと判断したから、黙殺しかなかったん
だわ。同時に脅威でもあったわけ。幕府の中でも、それに脅威に感じた人たちは、
それだから、浄土宗の人たちを率いて、松葉谷の草庵を襲ったってわけだよね。

浄土宗の勢力を集めて、論争ではなく、襲撃しようとしたわけだよね。それくらい
彼らのハートをつかむ内容だったわけだよ。単に念仏者の「バーカ」って書いてあ
るだけじゃ、変人扱いされるだけで、呼び寄せて棒で叩いて反省させればいいこと
で、闇夜に大人数を集めてまで草庵を襲撃するなんてことは、なかったはずだよ。

つまり、最初の法難からして、大聖人は布教についての法難を覚悟してたんだけど、
冷静によく考えれば、すっごい過剰反応であって、これって、殺されるようなこと
なのっていうくらいな理不尽な出来事だったんだよ。



  • [44]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月20日(金)21時33分5秒
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No.042 【身延山】 ④


実は、佐渡流罪から赦免されて帰った時も、故郷に帰ろうかなと思ったんだって。
だけど行かなかったんだ。父母のお墓にもお参りに行かなかったの。その理由は。


「但し本国にいたりて今一度父母のはかをもみんとをもへどもにしきをきて故郷へは
 かへれ
といふ事は内外のをきてなり、させる面目もなくして本国へいたりなば不孝
 の者にてやあらんずらん、これほどのかたかりし事だにもやぶれてかまくらへかへ
 り入る身なれば又にしきをきるへんもやあらんずらん、其の時父母のはかをもみよ
 かしとふかくおもうゆへにいまに生国へはいたらねどもさすがこひしくて吹く風立
 つくもまでも東のかたと申せば庵をいでて身にふれ庭に立ちてみるなり、」
 (光日房御書、P928) 真蹟曽存



故郷に錦を着て帰る、つまり世間的に功績が認められた人になってから故郷に帰る
ものであって、功績なかばにして帰るなんて恥ず知らずなことは出来ないってこと
だよ。別の御書(王舎城事)には、大聖人が法華経を布教するのを、両親が手を合
わせて思いとどまるように懇願したのを振り切って、後にして来たんだそうだから、
世間的に見れば、寂しくなって帰ってくる時間があるなら、志を果たすことに尽力
すべきではないかとか、そういう考えかただったのかな。

錦を飾ってかあ、大聖人がそういうのを気にするなんてねって。これを読む前には、
ちょっとぐらい、身延の山を降りて、ささっと清澄寺に行ってくればいいのにとか
思ったけど、そういうんじゃないんだね。

故郷に帰るのは、自分自身を許すことが出来なかったからだなんて。【 理由1 】

ところで大聖人のお母さんが亡くなるのは、佐渡流罪よりもずっと前なんだ。
この御書の冒頭には、佐渡流罪に行く前から故郷の父母の墓に会いに行かなかった
ことまでが書かれてあるの。


「なにとなく相州・鎌倉に住しには生国なれば安房の国はこひしかりしかども我が
 国ながらも人の心も・いかにとや・むつびにくくありしかば、常には・かよう事
 もなくして・すぎしに
御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の
 外に・はなたれし上は・をぼろげならではかまくらへはかへるべからず、かへら
 ずば又父母のはかをみる身となりがたしと・をもひつづけしかば、いまさらとび
 たつばかり・くやしくて・などか・かかる身とならざりし時・日にも月にも海も
 わたり山をも・こえて父母のはかをもみ・師匠のありやうをも・とひをとづれざ
 りけんと・なげかしくて、」(同、P926) 



その理由は、故郷の人たちと仲良くするのが難しいって、あらまあ、そんな理由な
んだって、ちょっと驚かされてしまう。ふうん。故郷の人たちから意地悪ばかりさ
れてたのかなあ。まさになんとなくの理由だよね。実際、お風呂にも入らず、流罪
赦免後のぼろぼろの放浪者然とした姿だったんならともかく、流罪前に鎌倉に住ん
で時から行かなかったんなら、まさに「なんとなく」だよね。でも。

大聖人だって、他の御書では、故郷の「人たち」が恋しいって、言ってるのにね。
違うのかな。ウソだったのかな。嫌なヤツばかりだったのかな。


「さすがに凡夫なれば古郷の人人も恋しきに」( 四条金吾殿御返事、P1193)
 真蹟なし、録外。


それに、この御書を送った光日房だって故郷の安房の人なんだよね。その人に今回
は服まで貰っておいて、故郷の人は仲良くしてくれないからねって、どういうこと。
なんとなく、そんなのおかしいよね。仲のよい人はいっぱいいるのに。光日房の子
供だってそうだし、清澄寺の人びとで大聖人を助けてくれた人も、御書には数多く
出てくる。故郷の人に向かい、堂々と、「そちらの人の心は仲良くしづらいのだ」
と言うなんて、ひどい。故郷で仲が悪くて会いたくない人なんて、誰だろうと考え
たときに、あっ、いたわ。あの人だわ。だね。東条景信とその子供。

権力者に嫌われてたんだ。しかも命を狙われるほど嫌われてるんだから、そりゃ、
故郷で大聖人をよく思わない人たちも、嫌というほど、いっぱいいるはずだよね。

文永元年のときに故郷に帰ったときには、小松原の法難で実際に襲撃を受けて殺さ
れそうになったんだから、まあっ、かなり控え目に言っても、親しくしてくれない
人たちがいるっていうのも頷けるわ。もちろん、もっと個人的に生まれ故郷の片海
に幼い時から気の合わない人がいたのかもしれないけど、そんなの普通なら、年を
とったときに父母の墓参りの妨げにならないよな。よほど何かの事情でもあるんな
ら別だけど。わざわざ、それとなしに手紙に書くことでもないはずだ。

安直に考えて、権力者から睨まれて、大聖人の帰郷に目を光らせてたんなら、巷の
人びとの目にも厳しいものが宿るよね。少なくても、「なんで帰ってきたの」みた
いな。小松原の時みたいに、大勢の人を巻き込んで死者が出る、そんな騒動を好ま
ないのは、大聖人も他の人もみんな同じだよ。

大聖人というと、好戦的で仏の加護があるから、どんな法難でも全く恐れずに行動
したって思われがちだけど、騒動を起こして、門下にまで法難が競い起こることを
好んでないから。佐渡から帰ってきて、門下のことを考えれば、心情的には、最後
に行くところがなくなのかもしれないって、私は思うの。

えっ、そんなの、違うって!?



  • [43]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月19日(木)22時06分19秒
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No.041 【身延山】 ③


どうして★身延に行かれたのか★を考えていこう。

まず最初に、身延に行く契機となったのは、国家への諌暁を三度も行ったけど、
聞き入れられることがなかったからなんだ。だから山林に交わることにしたのだと。

別に遁世だとか、世を逃れてとか、そんな言葉づかいは、大聖人御自身もされてるこ
とだから、まあどうでもよいの。こちらは真意がしりたいわけ。

「下山御消息」を読むと、大聖人の行動に私(わたくし)の思いがなかったこと、人
びとのために、以前から三度までは国を諫めようとお考えだったことが分かる。

「上下共に先の如く用いさりげに有る上本より存知せり国恩を報ぜんがために三度
 までは諌暁すべし用いずば山林に身を隠さんとおもひしなり、
又上古の本文にも
 三度のいさめ用いずば去れといふ本文にまかせて且く山中に罷り入りぬ、其の上
 は国主の用い給はざらんに其れ已下に法門申して何かせん申したりとも国もたす
 かるまじ人も又仏になるべしともおぼへず。」(下山御消息、P358)真蹟あり


そして三度言っても聞かなければ、昔の人に習って去るのだと。なぜ、三度なのか。
昔からの賢人に習ってだって言われても、別にそう決まってるわけじゃないからね。
それが昔からの決まりだったら、日興上人なんか、日目上人と合わせて何十回も国家
諌暁をしてるんだから、そんなルールが鎌倉時代に厳然とあったわけじゃないってこ
と。つまり大聖人御自身のお考えでそうされたってことだよ。あくまで御自身の考え
を踏まえて、昔の人の習慣を引き合いに出されてるの。

世の中の人からは「遁世」(とんせい・世を逃れること)のように思われてると、御
書には何度もそう書かれてるけど、実は、御自身でそれを否定されてるの。

「心には遁世とは・おもはねども、人は遁世とこそ・おもうらんにゆへもなくはしり
 出ずるならば末へも・とをらずと人おもひぬべし、」(報恩抄、P323)

「内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へば、なにとなく此の山を
 出でず候」(報恩抄送文、P330)


自分で遁世だと思ってないなら、師匠の墓参りくらい行ってあげればよいのにとか思
うんだけど、そうではないのよ。「なにとなく」なんだって。なんとなくって、何だ
よって思うよね。文字通りだと、師匠の道善房も軽く見られたもんだね。

そもそも遁世って、どういう常識なのか。世間の人からしたら出家するのが遁世なの
に、その上でまた世を逃れるってあるのかな。そう思って調べてみたら、鎌倉時代で
は、出家した人も普通に暮らしてるから、そこから遁世というのがあるみたいだね。
ただ、遁世とはいっても、別に隠れてなきゃだめってことないみたい。何かあれば世
間に普通に出てきてるから。師匠が無くなったというのに、「世を逃れた身なので、
お墓まいりに行ったら、他の人に示しがつかないのです。」なんてことは、普通の人
の事情には無いの。

そうすると何のために、山林に向かったのだろう。国家に向かって三度も諫めれば、
そのまま、そこで同じように言い続けるだけが選択枝ではないってことは分かる。
世の中には、押しても駄目なら引いてみなという言葉もあるし。いろんな選択がある
はずだわ。でも鎌倉に居続ける必要がないなら、なぜ山林に向かわれたのか。まして
世の中から引退したつもりはないのだと語られている。大聖人がそう語られたのだか
ら、山林で過ごされることが好きだっただけなのかもしれないけど、山から降りない
という理由があるかのようにも拝される。

私にできるのは、その背景を一つ一つ探っていくことなの。

まず一つ目。

けどまあ、リアリティが大切だから、いちおう書いておくけど、清澄寺に行くのが大
変だってろうっていうのも事実なんだよ。身延の山の中(山梨県)から、安房の国
(茨城県)まで行くぐらい、ちゃっちゃっと身支度を整えていけばよいのに、なんて
のは現代人の発想だからね。

おそらくは、着ていく服からしてないから。あのね、社会生活を断固拒否した人が、
日の光を見てまぶしくて歩けないとか、コンビニに行くのに着ていく服がないとか、
そんなのと同じじゃないからね。そんなことないだろと思うかな。御供養された服も
いっぱいあるだろうと思ってる人は、ちょっと状況が飲み込めてないんだよ。

寒い雪山の閉ざされた生活で、床に引く敷物すらないのに外出服があると思うかな。
報恩抄の翌々年の様子が書かれた「兵衛志殿御返事」(P1098)を見てほしい。長い
から引用もしないけど、「きもの」も薄くて、服が無くて凍傷で死人も続出してるっ
て。冬にも服が無いのに、夏になったら急に服が出てくるわけがないから。
それにしても、そんなにしてまで山に居続ける理由は、なんだろうね。

大聖人はお風呂なんか入ってないからね。身延の草庵にお風呂なんかないんだから。
お風呂は無理でも、水浴びとか、体を拭いたりとか、それくらいしてると思うかな。
冬の間に積雪に閉ざされて、その雪も日中に結晶が溶け、夜間には再結して完全な氷
になるような気候の所だよ。弘安元年には冷蔵庫の中みたいな年もあったみたいだ。
草庵の周囲にも死人が続出するほど寒くて日中に木を拾いに出る人もなく、火を焚く
こともできずにできない日々だったって、そんな中、水分を体につけて拭くなんてし
ないから。洗濯やそういうのも無し。それが普通に日常だったんだから、基本的に汚
いんだよ。

大聖人がそんな汚い生活をされてるわけがないだろって、馬鹿にしてるのかって、そ
うじゃないから。鎌倉時代ナンデスヨ、そういうことだから。

そんなまさか、何年もずっとお風呂に入ってないって驚くかな。当時はお風呂なんて
ないんだからね。お風呂に入って、キレイキレイなんてのは、つい最近の話なのだ。
ちょっと引いちゃうかもしれないから、見たくない人は知らぬままに過ごして下さい。

http://www.asahi.com/ad/furozuki/lifestyle/20150527_04.html
(日本人のお風呂好きは、いつから始まった?)

http://www.heianjidai.com/furo.html
(平安時代Campus)

ということは、山の一軒屋で暮らす人にとって、少なくても冬季は・・・・。

まあね、みんなそうだったんだから。臭うはずだとかは、たぶん安心していいよ。
なんでって、野生の動物だってそんなに臭くないから。あらゆる動物の中で人間だ
けが風呂に入らずにいると異臭がすごいってのも変な話なんだ。冷静に考えるとね。

きっと昔の人は、お風呂に入らなくても臭くなかったんだと思う。人間なんて寒い
地方に行けば寒さに耐えれるような身体になるし、暑い地方に行けば暑さに耐えら
れる身体になるもんなんだ。食事内容と食事量が劇的に変わったことも大きいかも
しれないけど、環境への適応だと思う。日常的に風呂に入る、そういう習慣になっ
てから、わずかに数世代を経て、人間はなぜか臭くなったんだと思うんだ。てこと
で、昔の人は全然臭くなかったんだと私は思いたい。

その根拠は、もしも、そんなに臭かったらだよ、平安時代の貴族だって、何をさし
おいても、まず風呂に入ることを最優先にしたに決まってるからだよ。身体が臭く
なっているのに、髪の毛の手入れだけは入念にしてたなんていう話のほうが、辻褄
が合わない話だからね。人間だって数百年も立てば、いろいろと違ってくるの。
平均身長だってそうだし、同じ日本人だって言っても、言ってしまえば、みんな小
人族だったんだよね。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212427362
(鎌倉時代の武士の身長、体格は平均的にどれくらいだったのでしょうか)

130cmとか、140cmとか、現代だと子供の身長に近い。昔の生活用具を見るとび
っくりする。小さいんだもの。あと平均寿命だってずいぶんと異なるけど、こっち
は統計があるわけではないから、はっきりしないみたい。男女とも平均で30歳前
後だったとか。ずいぶんと若い。死にゆく人々の顔も、今とはずいぶん違うだろう
なと想像する。

んまあ、ここまで話をのばして何だけど、その上で、身支度が大変だったからとか、
そういうのが清澄寺に行かなかった理由というわけではなかったんだってこと。



  • [42]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月17日(火)00時11分42秒
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No.040 【身延山】 ②


身延の建物は、最初の7年が「一間四面」の草庵。4年目で柱と壁が崩れたけど、修復
して住んだみたい。そして最後の2年間に建てて住んだのが「十間四面」の大寺院だよ。

それで「一間四面」の家って、どんなだと思ってるのかな。佐渡の塚原のときもそう
だけど、粗末な家だったとか。それは違うよー。「一間」を1.8mと考えると、その
3倍だから、5.4mの幅の家だとか。そうよく言われてて、添付の最初の図のようなの
が想像されてるんだけど、こんな家おかしいから。お堂じゃないんだからね。まさか。
人が住む家なんだよ。どうして縁側をそんなに広く贅沢に取る必要があるんだって。

自分で描いてみたんだけど、最低でも2つ目の図のような家だと思うの。ちょっと柱が
どうとかだとか、人間との大きさがおかしいとか、細かいところは無視して。書いて
みると意外と大変なんだから。縮尺は無視するの。ぷんぷん。御書には、縦は「七尺」
とあるから、当時は、一尺=30cmだから、上から下までは2.1mくらいかな。これも
地面から庇(ひさし)までの高さなのか、屋根の頂上までの高さなか分からないけど、
昔の人の身長は、五尺(150cm前後)ぐらいだから、低い天井というわけではない。
掘っ建て小屋という感じではないってわけ。

根拠は、ここだよ。
http://www1.asitaka.com/his/sann.htm (奈良の寺院)

日ごろ、仏法を学ぶのに建築の歴史なんて関係ないわと言ってたのに、仏教建築を語
ることになるだなんて。でも、結構、面白いよね。五重の塔とか。(どれも地震で倒
れた例がないんだって。それはすごいのに、落雷対策が今一つなのが悲しい所。)

「一間」が1.8mというのは、明治24年に決められた定義。鎌倉時代にはなんの関
係もないの。柱と柱の間が「一間」なの。間隔はまちまちで決まってないの。なんで
決まってないんだよって、考えればわかるけど、JISやISOみたいな統一規格なんて
無いよ。柱と柱をつなぐ木の長さなんて、その地方に生える木が、どんな種類の木で、
どれくらいの長さかによって決まることじゃないかな。だから決まらないの。

数年後には崩壊したってぐらいだから、積雪に耐えられなかったんだろうし、柱の
間隔を長く取りすぎたのかもしれないね。当然、真ん中の部分と庇の部分との間隔
を一定にする必要はないしね。あと、「兵衛志殿御返事」に薪を取ってくる人がい
ないから「火も焚かず」(P1098)ってあるから、火を起こせる場所があったんだ
よ。住んでる家なんだから当然なんだけど、中で鍋や釜でご飯を炊くんだからね。
そうすると煙を逃がすためには、家屋はある程度は高さが必要になってくるし、火
のすぐ近くにだって可燃物になる柱や、熱がこもる壁が近くにあっては困るだろ。

だから、中心の四本の柱には壁は無いはず。柱だけ。平安時代の部屋割りみたいな
のは無かったと推測される。壁もあったっていうけど、土壁ではなかったみたい。
木の皮で壁にしたっていうから、素人づくりっぽいよね。屋根にはまだ青々とした
草か、木の皮を敷いたと思うし、だいたい柱が12本もある構造なんて、そうとうに
大きな構造である可能性もあるんだよ。奈良時代の家屋の柱の間隔、つまり「一間」
は3mくらいのが多かったらしいから。3倍すると幅9m。それだと相当に大きな
草庵ってことになるよね。

3年後には完全に四面の壁が倒れるんだから、簡素なつくりだったのかって、とんで
もないよお。積雪が「一丈」だって御書があるんだよ。3mの積雪のある地域だよ。
何年もの降雪に耐えてた家が、簡単なつくりなわけがないじゃんか。

大聖人からみたら、鎌倉の一等地で大寺院という話もあったのに、それを断ったのだ
と日興上人に語ってるんだから、思いとしては、山奥でぽつんと立つこの草庵のこと
をまるで「手を広げた」くらいのような土地に立つと表現されたのは、仕方ないよね。

経巻を置いて、御書を書くこともここで出来るし、何人かはここで生活ができる。
大聖人がそこにいたら、みんなが来て、それぐらい家の一軒は建てちゃうだろう。
だれが掘っ建て小屋のままにしておくものかって。

それで数年後にはこれが崩壊して、今度は「十間四面」のお寺を建てたっていうん
だわ。横に柱が十本だろ。3m*10= 幅30m・・・・。大きいね。たとえその半分
の間隔でも、1.5m*10=幅15mと、大規模なのは変わらない。こうなるともう数
人で作ったとかそういう規模の建造物ではないわ。一大事業だよ。

御書には、みんなで整地から頑張ったことが記されてるんだよ。出来上がった建物
も鎌倉の大寺院に匹敵する規模だと。とはいえ、柱を立ててから17日間で完成した
建物だから、あっという間に出来た家だよ。豪華な瓦の屋根とか、彫刻した装飾と
か、そんな鎌倉の大寺院みたいなのとは違うんだからね。信徒の真心に対して、そ
う言われてるんだよ。


「坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申し候へ。」
 (地引御書、P1375) 真蹟曽存


鎌倉で建てても一千貫文(当時の1億円くらい?途方もない値)はかかるという寺院
だったんだって。その1/10の規模の最初の草庵だって、馬鹿にはできないの。大聖
人は流浪するんだとか、さんざん一人でお経を読むんだと言ってたのに、いつのまに
か草庵が出来てて、いつのまにか大寺院が出来て住むようになったんだね。法華取要
抄の講義書を読むと、当時の信徒側のお手紙が残ってて、大聖人のもとで暮らしたい
と切望してるの。そんな人が多かったんだろうと思わせる。



  • [41]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月16日(月)00時21分49秒
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No.039 【身延山】 ①


ええと、なにの御書だったっけ。あ、そうそう、忘れてたわ、「報恩抄」。こほん。
あ、いえ、忘れてないよ。ぜんぜんっ。ずっと覚えてたから。ほんと。

大聖人は報恩抄を書かれたのは、道善房が亡くなったからなんだけど、結局、大聖人
は清澄寺には行かなかったんだよ。それで、どうして大聖人が清澄寺に行かなかった
のか。いやそれよりも、なぜ、そもそも身延山に行かれたのか。その状況が分かれば、
なぜ、清澄寺に行こうとしなかったのかも、手掛かりになるかもね。

というわけで、道善房のことを書く前に、身延山にどうして行かれたのかについて。
ああ、また数回だとか言ってた長々と書くつもりだろうと思われるかもしれないけど
残念ながら、この項目については、私はまだよく分かんない。勉強が全然足りないっ
てこと。だから知ってる人がいたら、本当に教えてほしい。知らないって言いながら
も平気で書いてみるところが、ちょっと痛い気もするけど。私の今の理解を書いとく
というのも悪くはないかな。

そのまえに身延って、どんなところだったか。何ごともリアリティが大切だからね。
あ、私、身延山なんて行ったことないからね。たぶん、行っても現代の整備されて
開けた場所を見ても、当時の事情は素人目になんて分からないと思う。

御書の記載をみると、当時の身延山は今とずいぶんと違うことが想像される。700年
近くたってるんだから当たり前だね。


「富士河と申す日本第一のはやき河・北より南へ流れたり、此の河は東西は高山なり
 谷深く左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり、河の水は筒の中に
 強兵が矢を射出したるがごとし、此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河
 はやく石多ければ舟破れて微塵となる、かかる所をすぎゆきて身延の嶺と申す大山
 あり、東は天子の嶺南は鷹取りの嶺西は七面の嶺北は身延の嶺なり、高き屏風を四
 ついたてたるがごとし、峯に上つて・みれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば
 石連連たり、
大狼の音・山に充満し、猿猴のなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あ
 はれしく蝉のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の菓は冬になる、たまたま
 るものはやまかつがたき木をひろうすがた
時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、」
(新尼御前御返事、P904) 真蹟曽存



これを見ると相当な深山だよね。google(遠隔の道や風景が瞬時に分かるだなんて、
こんなの、なんて有りがたいのっ!)で身延の山を登ってみると道なりに石なんか
あんまりないけど、大聖人がこの地に住み始めたころは、大きな石がごろごろとした
オオカミや、猿とか、鹿とかがいつも鳴いてる所だったみたい。なんでそんな地を選
んだんだろうね。

別の御書にも、深い山で大きな石ばかりで、猿がやかましいとか、そんな感じ。回り
に人なんか誰も住んでなかったんだからね。最初は、誰もいなかったの。地頭の屋敷
がすぐ近くにあったとか、畑を耕してる人が近くにいたとか、いないの。


「身延の滝と申す白布を天より引くが如し此の内に狭小の地あり日蓮が庵室なり深山
 なれば昼も日を見奉らず夜も月を詠むる事なし。峯にははかうの猿かまびすしく谷
 には波の下る音鼓を打つがごとし。地にはしかざれども大石多く山には瓦礫より外
 には物もなし」(妙法比丘尼御返事、P1414)真蹟なし、録内


その中に、わずかに手を広げたような土地があって庵室を立てたって御書もあるけど、
その気持ちについては後述するとして、実際の大きさは、もう少し大きかったみたい。


「此の四山四河の中に手の広さ程の平かなる処あり、」
(秋元御書(筒御器抄)」P1078)真蹟なし、録内。

「中に四つの河あり所謂富士河早河大白河身延河なり、其の中に一町ばかり間の候
 庵室を結びて候、昼は日をみず夜は月を拝せず冬は雪深く夏は草茂り問う人希なれ
 ば道をふみわくることかたし、」(種種御振舞御書、P925)真蹟なし、録内。



「一町」って、縦と横が100mの広さ。鎌倉時代でもたぶん同じくらいの単位だよ。
これはおうちを建てた「平らな土地」がそれだけあったということじゃなくて、毎日、
水を汲み入ったり、用を足しにいったり、そういう生活の場が100mとか、そんなぐ
らいの範囲だったってわけ。


「此の深山に居住して門一町を出でず既に五箇年をへたり。」
 (妙法比丘尼御返事、P1413)真蹟なし、録内


大聖人がこの身延に到着して、同行してきてくれた弟子たちみんなを追い返して、た
った一人。御書によると、文永11年の5月17日のことだね。ちょうどその1か月後の
6月17日に草庵が完成したんだって。ええっ、なんか変だよね。誰が建てた?
山奥で1か月で建てたおうちって、掘っ建て小屋なの? 「一間四間」なんだって。
そこで御書を書かれたのなら、経巻とかはどこに置いておいたんだろう。


「今年のけかちにはじめたる山中に木のもとに・このはうちしきたるやうなる・すみ
 か・をもひやらせ給え、」(上野殿御返事(亡父追善御書)、P1507) 真蹟あり



それにもしも計画を立てて、好きで来たんなら、飢えて死にそうみたいに言われても、
勝手にそんなことを言われたらわがまますぎると思うよね。「御供養しますから降り
て来て下さいよ」と普通なら思うよ。木の葉を敷いたような家に住むのを「思いやら
せたまえ」って、こういうことを言えるのは、好きで遁世の生活をしたかったんじゃ
なくて、やむを得ない事情があって、山中に行ったってことで、そして、その事情を
門下もよく知っていたってことでないと、なんとなく合点がいかないよね。



  • [40]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月15日(日)00時45分22秒
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No.038 【学習量編】⑩


さらに「曇りなし」とされたことに、もう少し踏み込んでみよう。
大聖人が具体的にどんな内容を臨終と照らし合わせて納得されたのかは、書かれては
いないだろうと、普通はそう思ってる。けど、この御書のすぐ上に書いてあるから。


「法華経に云く「如是相乃至本末究竟等」云云、大論に云く「臨終の時色黒き者は
 地獄に堕つ」等云云、守護経に云く「地獄に堕つるに十五の相餓鬼に八種の相畜
 生に五種の相」等云云、天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」
 等云云、」(妙法尼御前御返事、P1404) 真蹟あり



こういうのが「日蓮幼少の時より」見てきたことで、曇りなしだったって言われてる
の。反対にだね、ここにある法華経や守護経とかの経典以外には、天台大師の摩訶止
観と、龍樹菩薩の書いた大智度論が挙げられてるけど、天台大師とか、龍樹菩薩とか
以外の人が死相に関して書いてる記述なんてないんだわ。その他の御書もそう。


「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善
 人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる。
 又軽き事鵞毛の如しやわらかなる事兜羅緜(とろめん)の如し。」
 (千日尼御前御返事、P1316) 真蹟なし、録内。



これは経典に書いてあるのかもしれないけど、大聖人にとって「曇りなし」とされ
た実感からなんだよ。そんなことを言われても、現代人がお葬式に参加して色が白
いとか、とろとろとか、言われても自分たちの実感と違うぞと思う人は、ひとまず
置いて。時代は変わっても人間は同じだと言われても、当時の人の死んでいく人の
年齢層は、今の社会の亡くなっていく人とは同じに語れないからね。現代人は、生
物学的には、とっくに役割を終えても生きながらえてと言っても過言ではない生き
物なんだよ。

話がそれるのを恐れるけど、あとで身延の大聖人の生活にも触れるつもり。現代人
の感覚では、当時の生態は全く同じ人間としては説明のつかないことが多いんだ。
そういうのは今はちょっと省略させて。ただここでは、個々の実感は別として、当
時の人が「生きてるときよりずっと色が白くて、ひきつることもなく端然として」
と、大聖人と会話されていることに着目して、それを語るのに集中したい。

大聖人にとっては、幼少期のときから臨終を見てきたのだ。そして最初に仏法に取
り組んだ課題がその臨終について書かれた経典や人師のこと。そしてそれは後年に
主に天台大師らの記述であったことが明かされている。これを以って、当時から大
聖人が天台大師に重きを置いていたとは考えないだなんてそんな見解があったら、
そのほうが不思議きわまるというものだわ。

あと、誤解があるといけないけど、大聖人は最初に見たのが、たまたま天台大師や
法華経だったということではないんだよ。なぜって。

死相についてまとめることから始めたということは、要は研究発表なんだ。大聖人
は、仏法を学ぶのに、最初に偉い人の言葉だと鵜呑みに覚えようとしたのでもなく、
深い法理の意味を探ろうとされたのでもなく、実地で検証可能な研究から入ったの。

大学の研究室などでも論文の読み回しというものがあるけど、与えられた特定の論
文を読んでいくのではなく、複数の論文など広い範囲にまたがって、課題を踏破す
ることは、つまりある程度の全体を見渡して文章を見て把握できる能力がすでにあ
ったことを物語っているだろ。

つまりこれが仏法についての最初の学習だとすると、それ以前に他の分野で経典を
読み解けるほどの読解力を学んでいたと考えられるわけ。でなければ、そんなこと
を思いついて、経典のどこにどんな風に書いてあるのか分からないし、たとえ該当
箇所を指さされても、意味が分からないわ、きっと。だから仏法を学する以前に学
問をしてきたっていうのは整合性のある話だし、仏門を志してからだって、「念願
すらく」って言われるくらいに、小僧としてあるべきよく分からないような修学の
仕方ではなく、経典を暗唱したり、その他の修行をしたりするよりも、それを研究
することを望んでいたんだから、与えられた経典などを読むのは当たり前のことだ
ったのかもしれないね。

現代人だって、小学一年生が最初に学ぼうとするのに、たとえば、日寛上人の「臨
終用心抄」をいきなり読もうなんて人は、まさかいないだろ。


「天台大師・摩訶止観に云く、身の黒色をば、地獄の陰に譬ふ等云云。乃至天台の
 云く白は天に譬ふ等云云。大論に云く、赤白端正なる者は天上を得ると云云。
 天台大師、臨終の記に云く、色白と云云。玄奘三蔵、御臨終の記に云く、色白と云
 云。一代聖教を定むる名目に云く、黒業は六道に止り、白業は四聖となる云云。」
 (日寛上人、臨終用心抄)
 ※ 句読点は私が勝手にうったからね


大聖人もきっとこんな風にして、清澄寺のあらゆる書からまとめてみたんだと思う。

そうして、大聖人がそこで身につけたことは、単に、死相についての確信だけでは
ない。仏法について信を置くことになる芯となる根底の確信、経典の通りに、本当
にそうなるんだという確信を得たことだよ。誰もそこまで踏み込まないことかもし
れないけど、そこまでやったからこそ、他の人とは違う、うわべの信ではなく、確
信をもっておられたんだ。そんなことで?と思われるかもしれないけど、たった一
つが確かだったら他も確かだと思えるものではないかな。一つが不確かだったら他
も曖昧というわけ。

ここで私が結論的に言えることは、大聖人の修学の淵源は、実地の研究にあるの。
そこで経典に書いてあること、または天台大師らの記述は正しいと、生活の中の人
びとの姿を通して確信を得たんだ。経典の正しさを深く知ってしまったのだよ。

さらにさらに、踏み込んで言うけど、ちょっとそこまで言うべきかはためらうけど、
天台大師や、龍樹菩薩らが、臨終の相を見て仏法の正さを記述してるってことはだ、
この人たちもそうだったってことだよ。彼らもまた実際の人が正しく生きて死んで
いく人の姿を見て、仏法のすごさを間のあたりにしてきたってこと。生活に現れる
実証の一つ一つに確信を得て、仏法を宣揚してきたんだってことになるよね。

ここが分かんないと、御書に説かれた、当時の門下との会話の意味が全然分からな
いだろうと思うの。大聖人が御書でよく地獄に落ちるぞというのも、誰にも分らな
い死後の世界で脅かしてたんじゃなくて、リアルで見てきたことを心配してたって
こと。そしてそれを門下も熟知してたってことだよ。なぜって・・・ここまで。

これでこのテーマはここではおしまいでいいことにしようっと。身延について話て
からもう一度もどるわ。なかなか報恩抄にもどれないね。



  • [39]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月14日(土)00時18分7秒
  • 編集済
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No.037 【学習量編】⑨


大聖人が最初に抱いた動機について述べてきた。

普通はここまでだけの話で終わるんだけど、もう一つ言っておこうっと。みんなが
スルーしてしまうんだけど。人の死に触れるのは失礼な話だからか、これ以上は踏
み込まいようにしようと気遣うのは仕方ないのかもしれないけど。

大聖人は、浄土宗の人の死に際を聞いて、おかしいよなって食い下がったんだよね。
死相は大切だというお考えだったんだ。修学中に見聞きした浄土宗の人達の死が、
言ってきたようなのと違うのだったら、その時点で「此の疑を以て」って言ってる
ように、大聖人が修学中に浄土宗に共感してたって線は無いんだよ。

そこからも、どの宗派の教えにしよっかなとか、漠然と修学してたわけじゃないん
だってわかりそうなもんだよね。十宗を真面目に学習していくのに、まず浄土宗を
最初に勉強していこうと選んだのは、心から信じて習おうとしたんじゃなくて、何
のためって、世の中の人の目を開くために習ったんだとしか言いようがないよ。

では、浄土宗の人の死相が、「其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず」
(前述)だと考えたのは、いつのころなのか。それほどの多く数を知ったのは。

大聖人が仏法を習い始めて最初に取り組んだのが、死相の研究だったことを思い出
してほしい。その経説をまとめたものに照らすと、自分の想像したように、子供ご
ころにも、予想したとおりの死相になることに「少しも曇りなし」との思いを抱い
たんだ。その御書には、浄土宗の人の死相のことだと書いてないから、もっと素朴
なものだったのかもしれないけど、その時に念仏を心から信じて唱えた人が成仏の
相だったとの実感を一例でも持っていたら、後年のこんな感想はないはずだよね。

後年に御書で書かれているように、浄土宗の臨終に苦しんで死ぬ人が数知れなかっ
たというのは、当然ながら、その小さい時からそう印象を受けたからだろう。そし
て近親者や弟子はそれをみんな隠すんだと。それを冷静に見て育ったの。

死んでいく人を調べてみたら、やっぱりねって思ったわけだよ。子供の時から。
それなのに、歳を経てから浄土の経典を自分から進んでやるわけがないだろって。

では反対に、この最初の研究で、良い死相だったと思った人はどんなだったの。
それも御書には書いてないよ。でもなぜ書いてないんだか考えてみれば、それこそ
が、自分の人生で追いかけ続けていくこと、それを証明していくんだから、反対に
書いてないんだよ。後年になって振り返って、当時の結論を「少しも曇りなし」と
思い出して自分の門下に語ってるんだから。後世に法華経を宣揚してるんだから、
どっちが先かあとかは分からないけど、最初のその研究から見ても、法華経を信じ
て唱えてた人は合格だったっていうことだよ。

法華経を信じる人の臨終がどんなだって。その経典の内容から想像できそうなもの
だけど、書いておくと、それを信じて生きた人だろ。すると、この世で、生活しな
がら、幸せになることに確信を抱いて生きていこうとする人。その死相が悪くなか
ったのって、そんなに想像に難くないことなんだけど。

だから大聖人が、法華経を唯一の経典だと思ったのは、最初の研究、つまり12歳
から遠くない頃のことだと思われるんだ。


「日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗成実
 宗律宗法相宗三論宗華厳宗真言宗法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、
 禅宗浄土宗と申す宗も候なり、此等の宗宗枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を
 知る身とならばやと思いし故に、随分にはしりまはり十二十六の年より三十二に至
 るまで二十余年が間、
鎌倉京叡山園城寺高野天王寺等の国国寺寺あらあら習い回り
 候し程に一の不思議あり、我れ等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし、
 いづれもいづれも心に入れて習ひ願はば生死を離るべしとこそ思いて候に、仏法の
 中に入りて悪しく習い候ぬれば謗法と申す大なる穴に堕ち入つて、
 ~ 謗法と申す罪をば我れもしらず人も失とも思はず但仏法をならへば貴しとの
 み思いて候程に此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」
 (妙法比丘尼御返事、P1407)真蹟なし、録内。


強烈な思いで、いったい仏法はどうなっているのか知りたいと、誓願した12歳。
そこから機会を得て、清澄寺内で十宗を学んでいく。その最初のテーマが、経巻や
諭師の言葉にある臨終の姿についてだったんだ。そしてその内容を実地で検証して
て経典に曇りなしと確証を得た。まさに研究だよ。経文が正しいのかの。それに基
づいて、後年、浄土宗の言葉に疑いをもちながらも学んでいったんだ。真言宗とか、
十宗を調べたんだ。遠国を回り、寺々を回り、読んでない真言宗の人師の書がない
と言えるほどに調べた。なぜそこまでするの。

最初から強いテーマをもっていないと、そんな、しらみつぶしに主要な寺を全部回っ
てまで調べないよ。漠然とした学習でそんなことするわけがないんだよ。

法華経だとされた記録は、ずっと後年のことだけど、最初の学習時に、「曇りなし」
とした自身の体験を踏まえて始まっていることは見落とせない。

その誓願を立てて、諸国を回って経典と人師の書を見て、そうして、“一つの不思議”
に気付いたんだって。それは、法華経が素晴らしいってことじゃないんだよ。
その不思議とは何か。仏法を誤り習うと謗法といってかえって不幸になるということ。
法華経がいいのは、もう皆が知ってる当たり前のことだったの。問題はそこじゃない。
法華経にしか成仏は説かれていないはずなのに、世の人が仏教ならみな貴いと思って
ることが、人々を不幸へと追いやってんだと、法華経の譬喩品を見てそう思ったんだ
って。

これまでに言ってきたことを思い出してほしい。大聖人が言ってることは、法華経の
優位性ばかりのことのように勘違いしやすいけど、そうじゃない。各経典の順番づけ
なのかと。違うから。微妙に言葉を変え、品を変えて伝えようとしているのは、何が
どこで誤っているのか。正しいのは法華経なのってことは分かってるの。なぜその法
華経に他の経典を入れ混ぜて修行しようとするのかって。それが諸宗教の悪の根本だ
って気づいたの。


「法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ。此れが謗法の
 根本にて候か。
」(報恩抄、P315)


大聖人は人々を不幸へと向かわせる思想の根本原因を見出した。人々の成仏を説いた
唯一の経典であるのは法華経、その法華経を信じるには、やはり他と混同せずに法華
経の内容によって修行することこそが正しいのだと。



  • [38]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月13日(金)00時15分38秒
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No.036 【学習量編】⑧


大聖人の動機が浄土宗の人の死顔だった根拠とされる、もう一つの御書はこれ。


「念仏宗の長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受け
 て臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る、其の已下の念仏者の臨終の狂乱
 其の数を知らず、」 (当世念仏者無間地獄事、P106)真蹟なし、録内。



しかし当然ながらこれらも違うよ。該当する人名が誰なのか、私には確証はないんだけ
ど、よく似た名前の人物の亡くなったときの大聖人の年齢を調べてみた。

 *善恵(証空)1177年生、1247年没(大聖人26歳)、西山浄土宗。法然の高弟。
 *隆寛 1148生、1227年没(大聖人16歳)
 *聖光(=弁阿。鎮西派の祖)1162年生、1238年没(大聖人19歳)。
 *薩生(不明)、この人の師匠の幸西は、1163年生、1248年没(大聖人が27歳)。
 *真光 1280年生−1333年没(大聖人112歳)。

と、さすがに112歳は別人かな。大聖人が26歳だと、それから念仏を疑い始めたとい
うのは遅すぎて事実を説明できない。この文の下は、念仏宗で死んだ人はみんなそう
だという趣旨だから、子供の時の話ということではなくて、執筆当時の有名な人たち
の臨終を聞き及んで名前を挙げたに過ぎないだろう。これらはてんで違うね。

ただ、この御書の続きのところは、いろいろ分かって面白いよ。


「是くの如きの相違は大なる疑なり、若し之に依つて本願を疑わば仏説を疑うに成ん
 ぬ進退惟谷れり。此の疑を以て念仏宗の先達並びに聖道の先達に之を尋るに一人と
 して答うる人之れ無し、念仏者救うて云く、汝は法然上人の捨閉閣抛の四字を謗法
 と過むるか汝が小智の及ばざる所なり、故に上人此の四字を私に之を書くと思える
 か、源曇鸞道綽善導の三師の釈より之を出したり、三師の釈又私に非ず、源浄土の
 三部経竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出ず、」(同、P106)



このように浄土宗の僧侶の死にざまを知って、成仏したと言ってることと全然違うで
はないかと。これを読むと腹を立てて、この史実を疑う人がいるんだけど、困ったも
のだね。想像すれば分かりそうなもんだけど、当時の浄土宗は、ひたすら現実で強く
生きることをあきらめて、あの世で幸せになることを目指す宗教だよ。そういうのを
信徒に説いた貴族の僧侶階級はともかく、本当にまじめに信仰した人が現世でどんな
生き方を選んで過ごしたか、想像がつかないってか。それもおかしいだろ。希望と元
気にあふれて日常に満足しながら阿弥陀様の世界に旅立って行ったと思えるのか。
死ぬときにどんな顔だったのか、想像が本当につかない人がいるだろうか。それを親
族が隠したなんて、当たり前のことすぎて、私には、説明する言葉もないよ。

それで大聖人は、若い時に、それを浄土や天台宗の僧侶らに問うたんだって。でも、
誰も答えられた人はいなかったって。つまりちゃんと聞いたんだよ。自分の胸の奥で
ずっと真実をためこんでたんじゃなくて、浄土宗って、おかしいではないのかって。

その批判に対しての返事は厳しく、「おまえは法然上人様の説かれた捨閉閣抛の四字
をどう思ってるんだ。素直に信じないで、批判するだなんて。おまえみたいな何も分
かってない奴が考えることも出来ないほどの深意があるんだよ。その法然上人様のお
考えも勝手に言われてるんじゃないぞ。中国の偉い、曇鸞上人や、道綽上人とか、善
導上人がきちんと言われてることなんだ。そんなことも知らないおまえが何ゆってん
の。ばかには教えておいてやるけど、その中国の3人だって勝手に言ってるわけでは
ないからな。その源をたどれば、八宗の祖と言われるほどみんなが尊敬してる、おま
えなんかけちょんけちょんだよ、仏教の教義の根幹を為す竜樹菩薩様、この人を否定
するんならもう終わりだよ、その人が書かれたんだ、念仏の修行が今は正しいのだと。
まあ、とてもとても、おまえなんかに考えが及ぶまい。」
って叩き返されたってわけ。それで普通の人なら「そうなんだっ」てあきらめるんだ
けど、大聖人は「そうなんだっ」て、喜んでどこまでも調べようと思ったんだ。

これ、17歳以前のことだから、清澄寺の道善房か他の誰かなんだよ。普通にこういう
会話が成り立ってたってわけ。
周囲の大人にとっては、実にやりにくい子供だったか
もしれないね。



  • [37]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月12日(木)00時31分22秒
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No.035 【学習量編】⑦


 ここからの幾つかは、とても大切なところ。当時の門下がどれほど喜んで信仰を
  してたのか、諸学者には思いもよらない、そのリアリティを、肌で感じるように
  気づくことができる。ちょっと、遠回りな説明なんだけど。


それでは今度は、またずっと戻って、大聖人がいつから法華経に共感していたのか。
そういうことは書いてないぞと多くの人が思ってる。でも推測できることはあるの。

次は妙法比丘尼御返事。この御書をもう一度みてみたい。
大聖人ご自身の誓願を述べてるんだったね。


「日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟を
 きたり、此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程
 に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、
 いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす」
 (妙法比丘尼御返事、P1407) 真蹟なし、録内。


真蹟はないけど、別に疑わしい点も無い御書。子供のときから念仏を唱えていたよう
な環境だったと。そのうちに、「いささかの事」があって、それが原因で誓願を起こ
すことになったと書いてある。この多少のことが何であるのか、私には分からない。
多少の事と伏せられたのは、自分にとって私的な事件だからだろうか。子供のときの
強い動機となったのだから、誰か親しい人の死だったのかもしれない。幸せを願って
念仏を唱えて死んでいった人の死相を見たことなのか。それは分からない。書かれて
いないのだから詮索しなくてもいいかなとも思ったりする。おそらくはささやかな、
普通の日常の出来事がきっかけだったのかもしれない。ただ何かがあって、それがき
っかけとなって、人びとを救うという誓願に立ち、清澄寺で揉め事を起こしたのが、
みんなが知る、この「いささかの事」という事件だったのだろう。

近親者の死が動機ではないかという見解があって、それを否定することも、肯定する
ことも御書には直接的には書いてはいない。一般的には、大聖人の動機は、下の御書
にある記述のこ とだと理解されることも多いようなんだ。


「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出
 る気は入る気を待つ事なし風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老い
 たるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと
 思いて、
一代聖教の論師人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一
 切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引き向えてみ候へばすこしもくもりなし、」
 (妙法尼御前御返事、P1404) 真蹟あり


でもどうもこれは違う。この御書に書いてあるのは、子供の時に、仏教を習うことに
なったから、最初に調べようとしたのが人びとの臨終のことなんだって。その理由と
いうのが、誰人もいつか過ぎ去る無常の存在だと感じたからだと。近い人の死があっ
たのかもしれないけど、そこまでは書いていないからね。ただ、みんな死んでいくん
だからと人の世の無常を見つけてそう思ったんだって書いてある。死をまっさきに見
つめてる子供って。それはともかく、それで経典や人師の論釈を調べてまとめていっ
たんだ。死に顔の研究。すごいよね。そんなことをしてるから道善房から、やめろ、
やめろって言われたのかも分かんないけどね。普通の子供がそんなことをする動機は
なんだっていうと、やっぱり、人びとのために仏道を目指したっていうのなら、誰か、
身近な人の死で深く思う経験があったのかもしれないね。

そして自分で調べてまとめたその「明鏡」を見て、今度は身近に出会った人ごとに観
察すると「この人はこんな死相だろうな」と思った通りの死顔だったって言ってる。
うわあ。冷静にして口を挟めない研究だわ。自分でそこまでやったんだって。それで、


「此の人は地獄に堕ち給う乃至人天とはみへて候を、 世間の人人或は師匠・父母等
 の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候、 悲いかな師匠は悪道に堕ちて
 多くの苦みしのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし地獄の苦
 を増長せしむる、譬へばつみふかき者を口をふさいできうもんしはれ 物の口をあ
 けずしてやまするがごとし。」(同、P1404)


死顔の中には、地獄に落ちた人だけでなく、人界や、天界の死顔もあったんだって。
だから、浄土宗の僧の死顔を批判してる御書とは、ちょっと趣きがちがうんだよね。
浄土宗の僧とかは、みんな、とんでもない死顔をしてたって言ってるんだから。

それでそれは置いといて。趣旨が少し離れるけど、ここ。世間の人は自分の身近な人
たちが死んで悪い死相でも、それを認めずに、ひたすら西方浄土に行かれましたって
言ってたってあるよね。当時の人だってそうだったんだ。何を当たり前のことをと思
われるのかもしれないけど、これって分かるわ。嘘でもそう思いたいって気持ちは分
かるけど、じゃあ、本当に極楽浄土に行ってなくても、そういうことにしてしまった
ら、本当に行ってないのなら、その亡くなった人は、誰にも苦しんでるのを知られず
に可哀想じゃないのかって。でもそこを周囲の人は問わないのよ。良いとか悪いとか
そういうことじゃなくって、そういう姿勢って、本当に信じてるっていうのかな。
どう? それを、大聖人は子供のときから、その人々の姿を 目に焼き付けてきたんだ
よ。

この最後の数行は重いよ。近親者ならともかく、師匠が悪道に落ちた死顔だから苦し
んで るのに、求道者であるべき弟子たちは遠慮してか、師匠のその死相を讃嘆して良
い死顔だったということにしてしまってると。本当に苦しんでることには、無視なの
かいって。



  • [36]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月11日(水)00時15分36秒
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No.034 【学習量編】⑥


ちょっと報恩抄から逸れるけど、大聖人の生い立ちをもう少し具体的に追う。

次は「四恩抄」にも世間の誤解が多いので触れておかないと。41歳のときの御書。
大聖人のお人柄が謙虚だったので、現代の人には反対に誤解されてしまってるんだ。


「此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、法華経を殊に
 信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり、又信じて候いしか
 ども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一巻
 一品題目計なり、去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の
 程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、」(四恩抄、P936) 真蹟なし


学者さんは、この御書を根拠に、大聖人は法華経を立宗宣言のときには信じてなかっ
たんだと批判してるんだ。立宗宣言なんて勝手に言ってるだけで、大聖人は、ちょっ
と批判を言ってみただけみたいな感じだったんだよみたいな。そういうわけで、この
御書は真蹟じゃないんだけど、そういう観点からではなく、この御書が真蹟だとして
述べておくね。

御書の文章は、大聖人は、学問を初めてようやく24、5年になるが、法華経を特に信
じるようになったのは、ここ6、7年くらいのことだと書かれてるんだ。また信じてた
と言ったって、「懈怠」だったから、学問だとか世間のことにかまけて、一日に読経
したのは一巻だけどか、一章だけとか、題目ばっかりだったよと。それが今年からは
(法華経のために伊豆流罪になったので何もしなくても)法華経を24時間修行してる
ことになるねって、そう言われてる。大聖人が文中で言いたいことは、後段の法難に
会ったおかげで生きてることがそのまま法華経の正しさを証明できる修行となってい
るという意義を言われんとしてることはたしかなんだけど、それはそうとして、前半
の表現が気になるってわけ。立宗宣言後もあんまり信じてなかったし、怠慢で修行も
してなかったんですよって。そこの表現だね。これは弘長2年、41歳のときだから。

学問してきたのは、24、25年だってあるから。41-【24か25】= 16か17歳。
これだと12歳でもそれ以前でもないね。しかもそれはまだいい。法華経を信じたのは、
6、7年なんだから、 41―【6か7】= 34か、35歳なんだってこと。
立宗宣言は32歳だから、法華経を信じ始めたのは、その2、3年後ということに。

いやいやいや、大聖人の記述は謙虚すぎるよ。勉強したのはが16歳ごろで、法華経を
信じ始めたのは34歳だなんて。32歳に立宗宣言してるのにだよ。それとも、どこかで
この御書の年月日おかしくないのか。いえ、おかしくないから。それから後の文章も
すごいことを言ってるよね。怠慢だったから、毎日、題目とか唱えてるだけでちょっ
としか修行できなかったよとか。すごい誤解だね。ここは明らかに謙遜をまじえて言
われてるの。懈怠だった理由に、学問をしていたことと世間の事があって修行できて
いないと言われてるんだ。ああ、先にその修行について言っておくわ、「題目を唱え
ていた」の。そう言ってるだろ。大聖人はお寺にこもって一人で長い経巻を誦す、そ
んな普通の仏僧の修行と同じではなかったってこと。走り回って忙しかったんだよ。

世間のことって、よく知られてるのが、この間に清澄寺と東条景信の裁判を領家に代
わって引き受け、勝利に導くために必死になられて走り回ってたか、その後だったん
だし、怠けてたって言ったって、その間に書いた御書の数々をみてみろって。無名の
頃の御書なんて誰も保管して残してないんだろうけど、現存してるのだけでも、たっ
たそれだけでも御書の細かい文字で187頁分、普通の僧侶が書く一生分だから。

その学問に費やした時間が修行のうちに計算されてるんではなくて、懈怠側に計算さ
れてるんだからどこまで謙虚なの。 「世間の事」と並んで「学問と云ひ」ってのが、
よく読むと、なんと怠慢の理由の一つになってるんだよ!!

それだけでもこの話の中の深さが分かろうというものだよ。よく上の文章をみてよ!
しかも今に残ってない分や、裁判やお手紙なんかをいれたらどれだけの文章を書き続
けて活躍されていたか。それから批判してた他所のお寺に通わせてもらうように
交渉して一切経を調べて、立正安国論を書いて、それを幕府に届けてもらうために、
宿屋入道に話をつけて、ところがその見返りに大勢の人から殺してやると松葉が谷の
襲撃を受けて、逃げきって、また捕らえられて、その挙句に伊豆に流罪で送られて、
そこで死にそうになってたってのに。これらを懈怠だと言われてるのだ。文章の意味
は、それらの折々の活動よりも法華経の法難で流罪になってるんだから、今度は一日、
24時間も修行してるのと同じことだよねということ。かくも流罪はありがたいという
ことだったんだよ。それくらい日常から離された焦りとか、流罪の地では深く考えさ
せられたってことなんだと思う。

それで残る問題なのは16歳と35歳のことか。ここも法華経が分からない人たちには、
仕方がないんだけど。16歳が出家したころなのは別にいい。12~15歳のころの雑用
係だったときの勉強量よりも、出家して遊学できたときの勉強量のほうがより本格的
だったというのは何も問題ないから。年齢的にも、現代で小学校~中学校のときの勉
強量を誇ってみたって、その量たるや知れてるってわけだ。高校生~大学生から本格
的に勉強しましたと言うことは別段におかしくはないだろう。あるいは清澄寺の兄弟
子らへのお手紙になら道善房が勉強を許してくれたことを言えても、寺の規律を外し
たことは、清澄寺にはずっと道善房の敵対者がいたんだから、対外的には伏せておか
ねばならないことだったのかもしれないのかもしれない。諸御書にもそんな配慮があ
るからね。

それよりも興味深いのは、法華経を「特に」信じるようになったのが35歳だという
点かな。ちゃんと本文に「特に」ってあるんだから批判する人は見落とさないでほし
いね。他宗の人の概念では、南無妙法蓮華経だと立宗宣言をしたのは、仏さまのよう
に悟りを開いたはずなんだから、そんな人がさらに信仰を深めるなんておかしいと。
仏はそれ以上に悟りを開くことなんかないとか、非現実的な話に身をまかせてしまう
わけ。そういえば余談だけど、大聖人の仏法を批判してる某宗の人が、「高僧伝」こ
そがもっとも客観的で正しい内容だから大聖人は間違えてるんだと、そうのたまわっ
てるサイトを見たけど、頭にキノコが湧いてるというのかとは言い過ぎかもだけど、
どこの宗派も多かれ少なかれ、そんな批判に身をまかせてしまう人を多く目にする。
客観的に正しいだなんて、高僧伝を読んだことがあるのかと。その内容をあなたはそ
のまま信じてるのかと。そんな批判に終始してるくせに、最後には宗教は他宗の悪口
をいうものではないと結ぶのが世の常で、それって、おかしいだろう。それなら堂々
と各思想を批判する態度を鮮明にしているほうが、ずっと健全な宗教だと思う。

ああ、なんだっけ、そうそう、35歳の話だ。法華経だと、九界即仏界・仏界即九界と
いって、仏様になっても修行を続けるんだよ。仏が釈尊で、修行を続ける姿が上行な
どの地涌の菩薩。そしてその姿は地涌の菩薩のほうが立派なの。それが現実を説いた
法華経なんだから。この法華経で説かれた仏を本仏というんだよ。多くの人は、この
「本仏」と「教主」の意味すら勘違いしている。それはおいておいて。

大聖人が立宗宣言で法華経に信を置いていたのは、当たり前すぎることなんだけど、
その後もまた人間として、いろいろな体験により確信を深めていかれたのも、これま
た当然すぎることなんだよ。
それとも、それがおかしいとでもいうのかな。なにかな、
32歳のときから悟ったから何の成長もなく、何も人生を深めて考えることもなく、そ
のまま、ずっーとだと思えるのかな。非現実的だ。法華経はそういう思想ではないの。

ただし法難を乗り越える中で思想が変遷していって、観心本尊抄などの重書を著した
と簡単にまとめて言ってのける学者もいて、そんなことを説く学者の意見も実にいい
加減なものだし。大聖人は話す順番とかの戦略の変更はあっても、法難のたびに思想
の変更なんかあったっけかって感じだよ。重書を著した経緯は、地震や彗星などが、
それらが当時の人の心にどう映って、どう生活を脅かしたのかを見てのことだから。
一念三千は、主体とは別に依法にも一念があるんじゃないの。二念三千じゃないから。

「天変は衆人をおどろかし、地夭は諸人をうごかす」(瑞相御書、P1140)真蹟なし

立宗の32歳からこの御書までの41歳。上に挙げたような、そこまでされていたのかと
思わざるを得ないほどに奔走された9年間。それでも、大聖人は、まだまだ自分は、
懈怠だった、これからだよと言われるんだから、謙虚というより、人生に誠心誠意す
ぎる。だからこそ、そういうお人柄だからこそ、この間に多くの信徒が入ったんだよ。
当時の多くの人たちは、難しい法理を理解して入信したわけじゃないんだから。そう
いう誠心誠意の人に、心から惹かれたんじゃないかな。



  • [35]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月10日(火)01時06分14秒
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No.033 【学習量編】⑤


前回の「漢土に渡つて六百余年」、つまり中国に仏教が来て以来の真言宗の人師の
問答の全てを読んできた、だいたいは把握しているとの言葉は、すごすぎるよね。
同じ仏教じゃないかと思うかもしれないけど、他派の教義の奥深い所の話になると、
本当に一つ一つ追うなんて大変だと思うんだ。大聖人の理解は、普通じゃないよ。

法華経の梵本の譬喩品を解説した一文は有名だよ。真蹟がないのがちょっと残念。
他にも、大聖人が梵本を把握したって推測される文章は無いのかって。あったわ。
実は、これを書いてて気がついたことなんだけど、これまで、よく分からなかった
課題だったのよ。大聖人が全部を読んでいたということなんだったら、すんなりと
問題が解けるの。そんなの途方もなく無理だって、想像が及ぼなかったんだもの。

解けなかった問題は「撰時抄」という御書。そこに、インドから中国へと多くの僧
によって経典が渡ってきたけど、その多くの翻訳の中で、妙法蓮華経を訳した鳩摩
羅什、ただ一人だけが誤らずに中国語に訳したと言われてるんだ。それで、なぜ、
そんなことが言えるんだって、御書で自問自答されてるの。

つまり、法華経という経典が何故正しいといえるか。なぜ、釈尊の意図をそのまま
正しく伝えていると言えるのか。その根拠を問うわけ。これは一大関心事だよね。

大聖人は、鳩摩羅什の他の全員が誤ってると言われてるんだけどね。だ・け・ど、
質問はあるのに、その答えはないんだよ。五大部なのに。建治の御書なのに。


「疑つて云く、何をもつて知るぞや、羅什三蔵より外の人人はあやまりなりとは。
 汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土・日本にわたる一切の訳
 者を用いざるか、いかん。答えて云く、此の事は余が第一の秘事なり。委細には
 向つて問うべし。
」(撰時抄、P268) 真蹟あり
 


ここで問題なのは、秘密って何なのっていう疑問と、それが秘密なら、どうしてわざ
わざ、秘密だって書いておくわけって疑問だよ。それでもって、聞きに行けば、普通
に教えてくれるっていうんだから、特別な理由があって言えないってことだよね。
それを書いてくれないんなら、読んでて、すっごく困るんだけど。悩むよね。

御書には、でも、少しだけ答えを教えてあげようって、続くので、目を近づけて何度
も、何度も読んだよ。でも分からないわ。だって、鳩摩羅什の舌が焼けたのって、他
の 御書にもよく書いてあるし、ていうか、いつも、その話だけを端的に書いてるし。
御書の続きは、こうだよ。


「但しすこし申すべし。羅什三蔵の云く、我漢土の一切経を見るに、皆梵語のごと
 くならず。いかでか此の事を顕すべき。但し一の大願あり。身を不浄になして妻
 を帯すべし。舌計り清浄になして仏法に妄語せじ。我死なば必やくべし。焼かん
 時舌焼けるならば我が経をすてよと、常に高座にしてとかせ給しなり。上一人よ
 り下万民にいたるまで願じて云く、願わくは羅什三蔵より後に死せんと。終に死
 し給う後、焼きたてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ。御舌計り火中に青
 蓮華生て其の上にあり。五色の光明を放ちて、夜は昼のごとく、昼は日輪の御光
 をうばい給いき。さてこそ一切の訳人の経経は軽くなりて、羅什三蔵の訳し給え
 る経経、殊に法華経は漢土にやすやすとひろまり給いしか。
 疑つて云く、羅什已前はしかるべし。已後の善無畏・不空等は如何。答えて云く、
 已後なりとも訳者の舌の焼けるをば誤ありけりとしるべし。されば日本国に法相
 宗のはやりたりしを、伝教大師責めさせ給いしには、羅什三蔵は舌焼けず。玄奘
 ・慈恩は舌焼けぬとせめさせ給いしかば、桓武天王は道理とをぼして天台法華宗
 へはうつらせ給いしなり。」(同、P268~P269)

これを読んで答えが分かる人っているの?

要するに、鳩摩羅什が誓いを立てて舌が焼けなかったっていう内容なんだな。これ
が理由の全部なんだったら、「ふうん、この伝説を信じておられたのか」と不思議
な気がして終わりなんだけど、これが答えの少しって、どういうことなの。しかも
だよ、後段はもっと意味不明。、鳩摩羅什の舌が焼けなかったことで正しいって証
明したのはいいよ、鳩摩羅什の後に出てきた人まで、舌が焼けたから誤りだって、
いやいや、普通は誓いも立ててないんだから、舌も焼けるでしょって、無茶ぶり。

全然分からないのは、これは鳩摩羅什の話で、大聖人にとっての秘事ではないよね。
最後には、伝教大師の有名な法論、高尾寺で南都六宗を下した、仏教史の中でも燦
然と輝く、あの仏教がまとまったといっても過言でない法論を決したのが、この鳩
摩羅什の翻訳が正しいと示されたことが理由だって言うんだ。そんなのありなの。

だって舌が焼けないのはすごいけど、高僧伝を読めば他宗の伝説にだって不思議話
は数知れないよ。昼間は仏を背負って夜は兜率天で勉強したとか、仏様が現れて教
えてくれたとか。舌が焼けなかった伝承くらいで、南都の高僧のお歴々が折れるわ
けがないよ。なんなの、この入り組んだ謎ぶりは。

それで答えは、「撰時抄」と同じ建治元年(たぶん)の「太田殿女房御返事」に書
いてあるの。なんなの、同じ年に書くんなら、重書のほうに書いててよって思うけ
ど、まず、そこも注目だよね。重書たる「撰時抄」ではなく、信徒へのお手紙の中
に答えを書かれてるんだ。大聖人は、明らかに法門を意図的に分散させて、後世に
伝えるためにと、お手紙の中に書かれてるんだ。


「撰時抄」に秘事だよって書いたのは、答えはちゃんとあるよってことだったんだね。
でもそれはまだ秘密にしなくちゃならないけど、後世の人には伝えるよって。
!!!!ありがたいです。!!!!

この御書でも話は、鳩摩羅什の舌は焼けなかったこと。反対に真言宗の不空の舌が焼け
たと比べてるから、真言宗の批判なんだね。つまり、隠してたのは、「撰時抄」でも
まだ真言宗を批判する武器を隠してたってこと。建治元年になっても公開討論を期して
たってことだよ。


「月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊
 の経文に私の言入れぬ人にては候へ、一百七十五人の中羅什より先後一百六十四人
 は羅什の智をもつて知り候べし、羅什来らせ給いて前後一百六十四人が誤も顕れ新
 訳の十一人が誤も顕れ又こざかしくなりて候も羅什の故なり、此れ私の義にはあら
 ず感通伝に云く「絶後光前」と云云、前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、
 後を絶すと申すは羅什已後・善無畏・金剛智・不空等も羅什の智をうけて・すこし
 こざかしく候なり、感通伝に云く「已下の諸人並びに皆俟つ事」されば此の菩提心
 論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり、」
 (太田殿女房御返事、P1007) 真蹟あり


インドから中国に経典を伝えた人が176人。鳩摩羅什を除いた175人が全員、翻訳を
誤ってたって言われてるの。175人のうち、鳩摩羅什の前後の人は164人で、彼らの
誤りが分かったのは鳩摩羅什のものと比較したからだって。それですごいのは残りの
11人は鳩摩羅什よりずっと後の人だけど、やっぱり間違えてたって。その後世の11
人が鳩摩羅什のを見て、小賢しくなって、つまり自分流に解釈する勝手な人だって
分かったのも、やはり鳩摩羅什の翻訳のおかげなんだって。と、そう大聖人は言われ
てるの。誰がそれを読んで確認したのか、それは直接はここで言われてないよ。

それから続けて、これらの見解は大聖人の自分勝手な見解じゃないよと言われてるの。
「続高僧伝」を書いた中国の律宗僧で歴史家の著作「律相感通伝」に、「絶後光前」
と、また「已下の諸人並びに皆俟つ事」だと書いてあるだろうと。

どういうことかと言うと、鳩摩羅什は、自分より前の翻訳を(※誤りを正すことで)
光り輝かせ、彼より後には並ぶ翻訳者はいなかった、というわけ。だから鳩摩羅什
より後世の真言宗の開祖の3人なんかも、鳩摩羅什の智慧のおかげで小賢しくなった
だけなのがよくわかったってことね。「鳩摩羅什より後の翻訳者は、みんな、羅什を
拠りどころにした」って書いてあるとおりだよと。

そうなんだ!? 「感通伝」という書に、詳しく書いてあるのかなって思って、そっち
を 見てみると、すごくあっさりとしか書いてない。(と思う。全部読んでないからね)

http://buddhism.lib.ntu.edu.tw/BDLM/sutra/chi_pdf/sutra19/T45n1898.pdf
(律相感通伝) 5P目

感通伝の「絶後光前」や「以下諸人並皆俊艾」の文だけを見ても、そこまでの意義を
引き出せないんだよ。でも逆なら出来ると思う。自分で175人の翻訳を読んで、ああ、
なるほどね、他の翻訳者はここを間違ってるなって思って、みんな鳩摩羅什のおかげ
ではっきりと分かるわって自分で思って、それから「感通伝」のここを読めば、中国
の著名な仏教の歴史研究家も、私と同じことを言ってるだろって、それは言えるわ。

つまり大聖人が自分でそういった人の問答、つまり研究を、ことごとく読んでいたな
ら、そう考えることで、この御書がすんなりと整合性をもってよめるってわけ。

実際、そうでないと、誰の話を根拠にしてるのか、意味不明になってしまうもの。
この「感通伝」を書いた、道宣は596年~667年の人。善無畏(637年~735年)、
金剛智(669年~741年)、不空(705年~774年)だから、道宣は、善無畏以外は
存在も知らないの。(おそらく)

この御書で、不空の翻訳に大いなる虚偽があるとの感想は、大聖人のもので間違いな
いんだしね。不空の訳出の態度に詐欺があるのに気がついたのも、彼だけを対象に勉
強したわけじゃないから、気がついたんだろうし、この御書を読めば、鳩摩羅什とそ
の他の翻訳者と対比して照らし合わせたのは、他でもない大聖人だよ。

つまりは梵本もかなり詳しく読まれてたってわけ。
ただ、これは考えついて日の浅いことだから、もうちょっと考えてからにしたほうが、
よかったのかもだけども。なんでも言っちゃえって感じで書いておくわ。



  • [34]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月 9日(月)00時38分28秒
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No.032 【学習量編】④


そんな浄土宗の破折でさえ、とっかかりでしかなかったわけだ。浄土宗や禅宗の教義
体系なんて、大聖人にはたいしたことのない部類で、18歳までに法然や善導が書き残
した法門なんてもう知ってたよって言ってるのは、もう紹介したよね。

法然だけでも大変なのに、善導って、中国人だしょ。典籍って、中国語よ。いったい
どれくらいの著作があるのか。代表作だと思うんだけど、調べると「観無量寿経疏」、
「往生礼讃」、「法事讃」、「般舟讃」、「観念法門」の5つ。すごく重要らしい。

最初の「観無量寿経疏」のさわりだけ見てみた。「此觀經一部之内。先作七門料簡。
然後依文釋義。第一先標序題。第二次釋其名。」。やめとけばよかったって思ったよ。
それで読めても、法門はすんなりと理解できないし。浄土宗の人と話すと思うけど、
聞いたこともない専門用語が多すぎる。(人のこと言えないけどね。)とても同じ仏
教だなんて思えないくらいに言葉が違うもの。でもこんなくらいならまだいいほう。

その後に控えてる天台宗を真似した真言宗なんて。真言宗の祖師はインド人。(笑)
大聖人は法華経の梵字の原本を、善無畏三蔵のものを依典としてるからね。善無畏
の法門を知るためには、当然ながら梵字の論釈まで読まれていたはずだよ。 てか、
中国の数百年間の諭氏のを、ほぼ、みんな読まれたって自分で言われてるからね。

まず、大聖人は、日本語、中国語のほかに、インドの梵字の経典も読まれてたの。


「彼の車をば法華経の譬喩品と申すに懇に説かせ給いて候、但し彼の御経は羅什存略
 の故に委しくは説き給はず、天竺の梵品には車の荘り物其の外聞信戒定進捨慚の七
 宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候、」
 (大白牛車御消息、P1584)真蹟なし。



鳩摩羅什の翻訳は、原典が長くても、その要点をまとめるのが得意だったの。普通の
法華経には書いてないけど、原典の梵字のほうの法華経には、こんなふうに書いてあ
るよって、大聖人は説明されてるんだわ。つまり梵字で読んだってこと。大聖人はこ
ういうとき、きちんと全てを精読して把握したのか、そうでないときには、「粗い」
という表現を付けくわえられる。こんなところにも潔癖症なくらいに正確な記述をさ
れる人なんだ。ただこの御書は有名なんだけど、真蹟が無いので、紹介にとどめて、
真蹟があるほうのも挙げとくね。


「但し真言宗・漢土に渡つて六百余年・日本に弘まりて四百余年・此の間の人師の難
 答あらあらこれをしれり、伝教大師一人此の法門の根源をわきまへ給う、」
 (四条金吾殿御返事、P1118) 真蹟あり


こっちのがすごいけど。日本の400年間の真言宗の論釈は、ほとんど読んだって。そ
れだけでなく、中国に伝えられて以来の600年間のまでを、ほとんど読んだと。
えええ!!!だよね。
梵字の典籍だけは、読まなかったって書いてないから。ほとんど読んだんだって。

3か国の言語を修得してるわ、天気の移り変わりについて幕府を出し抜くぐらいに詳
しいわ、若き日の法廷で権力者を打ち負かすくらいに法律には詳しいわ。海外事情に
詳しすぎて幕府から蒙古がいつ攻めてくるのかきかれるほど詳しいわ。なになに。
どうなの、これって。誰がこんなに教えてくれたの。

...答え。誰も。一人で。

―― 道善房がその機会をくれたんだ。もしも12歳で普通に清澄寺で小僧さんとして
過ごして、16歳に出家してから本格的な勉強をしたとしたら、 16歳から語学を学びだ
したんだとしたら、はたして梵字までたどりつけただろうか。 そう考えると、12歳で
機会を得られたのは、年齢的に最後のチャンスだったのかもし れな いね。私が勝手に
そう思ってるだけなんだけど。

そして大聖人は知ったんだ。調べても普通は分からないこと。どこにも書いてないこ
と。真言宗の淵源が書いてないのは、真言宗はインドには無かったからなんだって。
インドには本当は無かった宗教。そしてその証拠までたどり着くんだ。真言の開祖が、
インドから来た人に、「天台宗のような教義が中国にはありますか」と聞いてるんだ。
その答えが「無いよ」て言ってるって。インドに無い教義が中国に来たら、天台大師
の言ってるのと同じ意味のことが、この大日経にも書いてあるぞと吹聴したってわけ。

真言宗も最初は、天台大師の言ってる内容と同義だからって言ってたの。大日経の解
釈書にもそう書いてある。なんのことはない、結局は、天台大師の教義なんじゃない
のって見解が、伝教大師の「依憑集」にも書いてあったから、伝教大師は真実を知っ
てたんだって大聖人は理解されてるの。「依憑集」の序文にも、それらの真言宗の文
章の相伝を読めと。そう指摘されても、真言宗の人たちは今でも、「え、伝教大師は、
文章で書かれた相伝が好きだったのかなあ」とか、論理を度外視する思考に完全に毒
されてるってわけ。なんのために伝教大師が「依憑集」を書いたのか。そもそもこの
書は、諸宗の教義が全部、天台大師の言葉を頼りにして作った(依憑)という諸宗の
開祖の文言を集めたものだからね。

だけど、伝教大師でさえも、真言宗がどうやって、仏教の大切なところに入って来た
のかは知らなかったんだ。そう。伝教大師でさえも。

一人、大聖人だけだったんだよ。真言宗の教義体系が、中国が発祥の地であるのに、
ウソの歴史を作って、インドから伝えられた経典とともにその教義が伝えらたという
姑息な虚構を、大聖人は日本にいながら、いくつかのヒントから気づいて、破折の論
理を構築していったんだ。今日、真言宗の経典は中世ともいえる7世紀~8世紀のイン
ドで成立したことは常識なんだけど、それを鎌倉時代に見破ることが、どれほど大変
だったのか。想像を絶するね。

んで、そんなことが報恩抄のところに書いてあるの。これだけ書いてきて、すごく略
してここの一文でまとめちゃったけど。誰も知らなかった仏教に根差した密教(とい
えば聞こえはいいかもだけど、要するに後から土着の呪術信仰が仏教の権威で看板を
掲げたもの)に、どれほど食いちぎられてきたか、その祖師たちのいい加減さ、それ
らの虚構を暴く面白さ。真面目な人間からみた虚言のおかしさ。そこのところは、自
分で読んでほしい。

禅宗のほうも報恩抄には詳しく書いてないけど、その経典が偽ものなことから始まり、
教義理解はもちろん、中国の達磨大師が始めた禅宗が中国全土で一世を風靡したけど、
その臨終の相をみて趨勢が霧散してしまったことなど、いろいろ明らかにされてる。
そんなことが言えたのは、誰もが行かなかった次元まで勉強されていたからなんだよ。



  • [33]
  • 報恩抄を書かれた大聖人

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 1月 8日(日)00時31分22秒
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No.031 【学習量編】③


16歳以降に本格的な勉強だなんて、とっても無理だって。日本語の読み書きは当然。
それから急に中国語の典籍を読みほどけて、天台大師の摩訶なんとかを読みほどくこ
とが出来て、龍樹の十住毘婆沙論を自分で考えたってか。読めんだろ。

どこに書いてあるとかより、これらの御書の内容の深さを見て、大聖人がどれほどの
膨大な知識量を得てきたか、それがそのまま証拠だって。それは、人々を救おうとす
る決意の深さを表してるんだ。智慧第一と謳われた法然、その彼が9歳のころから必
死に勉強してきたのを少し上回ったぐらいではなく、それらを十倍して遥かに凌駕す
る桁違いの量。

だいたいだね、一切経とか5千巻とか7千巻とかいうのは、後世のものだから法華経が
出来たときには一切経はもっと違ったとは思うんだけど、それでも、「法華経より外
の一切経を空に浮べて文文句句」(P387)を言えることが、六難九易の中の一つで、
絶対に出来ないことの一つに数えられてるんだから。読むのすら大変だけど、それを
読んだところで仏典の法門が右から左に分かるようには書かれてないよ。それでそれ
の解説書に頼ることになるんだけど、そっちの人師の論釈のほうも難しかったりする
んだ。天台大師のどれかでも読んで見て、すっと分かるという人がいたらすごいよ。
そんなに簡単に読めないから何百年も誤解されてきたんだってば 。

法然の法門を、おかしいと気づいて指摘したのは、何も大聖人だけじゃないから。
念仏無間地獄抄」(P101、真蹟なし)とか、あちこちに名前が出てるよ。

・「落ちさせ給いて法然が弟子」となった、延暦寺第61代座主の顕真
・「希代の学者」の公胤大弐僧上。「浄土決疑集」を書いたの。
・「天下無雙の智人」の明慧房。「摧邪輪」を書いた。
・「天下無雙の学者」の隆真法橋。「弾選択」を書いた。念仏の首謀者と敵対した。
・ 大聖人も知ってる、大和の荘の法印俊範・宝地房の法印宗源・同坊の永尊竪者など。
 (P89、P101、P274、P698~699等)

でも勝者はいなかった。


「此の悪義を破らんが為に亦多くの書有り所謂・浄土決義鈔・弾選択・摧邪輪等なり、
 此の書を造る人・皆碩徳の名一天に弥ると雖も恐くは未だ選択集謗法の根源を顕わ
 さず
故に還つて悪法の流布を増す」(守護国家論、P37)



だった。かえって悪法に勢いをつけさせてしまったんだと。

このほか「破良寛御書」にもあるけど、要するに今までの人は、要するに法然という
日本の祖師を批判したけど、中国の浄土宗の祖師たちまで勉強が及ばなかったわけ。
だから法然の法門が、自分が勝手に言ってるのではなく、中国で、皆から尊敬されて
る、曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)らの言葉を借りてて、
しかも彼らも、八宗の祖と称される竜樹菩薩の言葉を用いてるから、浄土宗の教義を
組み立てていた深い論理には、誰もそこまで立ち向かえなかったの。

まさか竜樹を疑う人なんか、日本にいるわけないわけ。いったい浄土宗の祖師の言葉
のどこからどこまでが竜樹なのか分からないのよ。だから「顕真座主、落ちさせ給い
て法然が弟子となる、
」(P274)となってしまったってわけ。この人、天台宗の座主
だったくせにね。ほんと情けないんだから。かえって敵を増長させてしまったんだ。
その中国側の論理もまでさかのぼって、浄土宗の根源まで調査して勉強したのが大聖
人なの。


「かく申す程に年卅二建長五年の春の比より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて後に真
 言宗等をせむるほどに念仏者等始にはあなづる、日蓮いかにかしこくとも明円房・
 公胤僧上・顕真座主等
にはすぐべからず、彼の人人だにもはじめは法然上人をなん
 ぜしが後にみな堕ちて或は上人の弟子となり或は門家となる、日蓮はかれがごとし
 我つめん我つめんとはやりし程に、いにしへの人人は但法然をなんじて善導・道綽
 等をせめず、
又経の権実をいわざりしかばこそ念仏者はをごりけれ、今日蓮は善導
 ・法然等をば無間地獄につきをとして専ら浄土の三部経を法華経にをしあはせてせ
 むるゆへに、螢火に日月江河に大海のやうなる上念仏は仏のしばらくの戯論の法実
 にこれをもつて生死をはなれんとをもわば大石を船に造り大海をわたり大山をにな
 て嶮難を越ゆるがごとしと難ぜしかば面をむかうる念仏者なし。
 (破良観等御書、P1292~1293)



大聖人も最初に浄土宗の批判を公にしたときは、浄土宗の僧らは、「日蓮がどれほど
賢いったって、明円房や公胤僧上や顕真座主ほどには優れていまい。その彼らだって
最初は法然上人を非難してたけど、勉強してみたら、みんな改宗してしまったぞ。」
って。日蓮大聖人もそうなるだろうと思われてたんだって。だから浄土宗の人たちは
はじめこそは、オレがやっつける、オレが法論を申し込むって盛んだったんだって。

ところがこれまでの浄土宗の批判者達は、ただ日本の法然をやり玉にあげてただけで、
中国の浄土宗の祖師までは批判できなかったんだ。なぜって調べていないから。それ
に尊敬されていたから。ところが大聖人は中国の祖師のことまで調べて、浄土宗を批
判しているんだってことがわかると、浄土宗の人には、誰も面と向かうことができる
人はいなくなったって。

他の御書と合わせると、もっと面白かったね。大聖人が批判を開始してたころの浄土
宗は、彼らだって他経典を批判し、他宗では成仏できないって言ってたんだよ。法然
の時の純然たる浄土宗は、念仏だけで他宗の修行を完全に否定していたんだ。ところ
が大聖人が浄土宗を批判して逃げまくると、「た、他宗の批判はよくないっ」って言
う宗派に変わって行ってしまったんだって。浄土宗はもともとそんな大人しい教義じ
ゃなかったってわけ。他宗を貶め、批判して、自分たちを宣揚してたのに、大聖人に
言い返せなくなると、批判はやめようねって宗派に変わっていったんだ。大人しくな
ってしまった。これをもって、大聖人は浄土宗への勝利と考えたわけだよ。

大聖人が浄土宗を批判しても何も変わらることがなかったと主張してる学者は、大聖
人の主張をろくに知らないんだ。そういう誤りを言って世を渡ってるてなわけだよ。

浄土宗は教義を変更したけど、そんなことをほとんどの人は知らないんだ。彼らは、
法論で負けると、他の手段、最初に武力に訴えて襲撃、つぎに虚言で大聖人を亡き者
にしようと図らっていったわけ。・・・おおっと、話が逸れ過ぎたかな。



  • [32]
  • No.030 【学習量編】②

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)10時01分15秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2017年 1月 6日(金)00時36分5秒
   ★
No.030 【学習量編】②


あと、大切な御書はこれ。「佐渡御勘気抄」。
真蹟が無いからどうしようかと思ったんだけど。写本とかないのかな、これ。


「九月十二日に御勘気を蒙て今年十月十日佐渡の国へまかり候なり、本より学文し
 候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は
 必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、」
 (佐渡御勘気抄、P891) 真蹟なし。録外。


流罪で佐渡に到着された時の御書だよ。命を捨てる覚悟だったことを述べてるんだ
けど、これ、注意してほしい。佐渡流罪になってから命を捨てる覚悟だって言われ
てるんじゃないよ。もともと学問をした理由。それを始めたときにはもう、仏教を
極めていく決意だったんだって。2つは同じことを意味してるの。その目的は人を
救うため。そして仏教を極めるには、身命を捨てる覚悟だったと。何それ。だった
ら、どうなるの。

もともと学問を始めたのは、12歳以前のことだったよね。「幼少の時より」学問を初
めて、「十二の時より」この誓願を持ち続けたんだって書いてあったから。幼少の時
に、あるいは本格的に勉強を始めようとした時にすでに、仏道を目指す思いを持って
いたんだって。だったら両親が望んで清澄寺に来たわけじゃないってことになるよ。
自分で来たかったんだ。命を投げ出す覚悟で。こんな子供を両親が喜こぶはずもなく、
実は両親に反対されたんだっていうのも、うなづける。だからそんな子供が入山して
すぐの12歳で、どんな揉めごとを起こしたのか、師匠からも反対されたのまでを押し
切ったんだ。道善房は心から納得しなかったかもだけど、それとも何かのはずみで約
束でもしてしまったのか、最後には、御書にあるとおり、「不憫」と思って、勉強の
道を許してくれたってことになる。そうでもなかったら、16歳以降だったら道善房が
大聖人が勉学したいってことに反対する理由がないもの。報恩抄には、勉強する時間
を手にいれる、あるいはその機会を得るために、両親や師匠から反対を受けていたこ
とが、冒頭の本文にあったね。
この「佐渡御勘気抄」が本当だったら、結局、大聖人は、ずっと小さい頃、一人で決
意して、周囲の心を動かして、道を切り開いたってことになる。必ず死ぬような目に
あうってことを知りつつだよ。

それだったら分かるわ。開目抄の主意も。法難がなぜあるのか、それが最初から覚悟
していたってことをずっと述べられていたから。六難九易で悩み、その経典の真意を
慈悲だと理解されたシーンは圧巻だった。私にはあそこは泣けてしかたなかったけど、
その決意は、法難の状況から何となくそうなったんではなく、はるか、以前、ほんの
子供のころに決まっていたとしか、これらの御書を整合性よく読むことが出来ないん
だけど、いったい、私はどこか、間違えているのだろうか。

大聖人が、他の誰とも違う点。歴史上のどんな人たちとも違う点は、他の人たちは、
志を立てて、頑張って、その中で難に直面して、それを乗り越えたんだ。頑張ってい
く中で困難な局面に出会って打開してきた。だけど、大聖人は、最初から知ってて、
絶対に無理だとそう経典に書いてあるのを分かってて、それでも人びとを救うために、
ほんの子供のときに決意して、何も無い状況から初めて、そして死ぬ覚悟になること
を分かっていて、そのために誰よりも何十年も勉強して、そして法難を迎えたんだ。
こんな人が、歴史上の他にいるのを知ってるだろうか。

それにしても、たったの12歳以下の子供のとき。人びとを救おうと一人で決意して、
周囲の反対を説得して、自分一人で死地に向かおうと、そのために莫大な勉強を人知
れず行うなんて。その自分の小さいときからのことを詳しく文献に記すこともなく。。。

あまりに屹立した自己。それが覚りと言えば、それ以上の悟りなんて世の中に無いよ。
大聖人が後世に詳しく語るのは、自分の足跡の偉大さではなく、ただひたすら、
その慈悲の深さだった。開目抄で自分のことを説かれたのも、衆生を思う慈悲だった。
主親師だろうが、そんな言葉ばっかりに目をやらないで、そのありのままの姿を誰か
一人でも見てほしい。

仏教を学ぶ人たちは悟りが大切だという。私が言えることは、大聖人は悟りを得たこと
をもって他者への説得には当たらなかったということだ。悟りを得たというのなら、そ
れは生活の事象に表現されるはずだと思う。その御一生の振る舞い、それをみて判断で
きることが正しい判断ではないだろうか。大聖人のその御一生を振り返ってみれば、
成り行きではない。その幼少期にこれほどの透徹した思いを・・・それを抱いたこと。
いや抱けたことが、人間と社会の深みに達した覚りと言わずして何と言うのだろう。


それから、他の御書でも。子供のときから今まで他のことを祈ったことはないんだっ
て言われてたの。たしかに。これって、子供のときからを含むよね。


「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、」
 (四条金吾殿御返事、P1169)真蹟なし、録内。


次の御書には、なんと、物心がついた時からだって。しかも一日として安穏として過
ごした日は無いんだと。きちんと決意は小さい時からのものだって言われてたんだ。


「日蓮生れし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘
 めんと思うばかりなり、」(上野殿御返事、1558)真蹟なし、録外。


他の人がこれを言っても「そんなの言ってるだけじゃん」と思うけど、大聖人の記述
は謙虚で自分のことでも必要なこと以外は自慢なんかされない人なんだ。蒙古襲来
も予言が当たってからは人にそれを吹聴するなって書いてあるし、最後に平左衛門尉
が鎌倉の一等地に寄進するかとか、時頼が大聖人に帰依すると言った話も日興上人が
伝えただけで、御書のどこにも書かれてはいない。その大聖人が、語る言葉はすごく
重いよ。





  • [31]
  • No.029 【学習量編】①

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)10時00分5秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2017年 1月 5日(木)00時15分36秒
   ★
No.029 【学習量編】①


今日から、報恩抄を読み解くために、別の寄り道をば。ここを知らないと、いろい
ろなことが実感として分かりにくいと思うので。

こうして12歳以前に決意。学習を開始。12歳から清澄寺内に果敢な学問をされたん
だって考えると、他の御書だって、そのままに読めてくるんだ。12歳~16歳の時に
はまだ出家した僧侶じゃないんだよ。出家したのは16歳。それから初めて広く経典
を手にとって、勉強を始めましたっていうんじゃ遅すぎるよってことだったね。

ここでもう少し、他の御書を読んでみよう。

前に見た「清澄寺大衆中」。虚空蔵菩薩が宝珠をくれたのを受け取ったおかげで、
一切の経典を見て八宗の勝劣をほぼ知ったって書いてあったよね。


「日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝
 珠を給いて右の袖にうけとり候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の
 勝劣粗是を知りぬ、其の上真言宗は法華経を失う宗なり、是は大事なり先ず序分に
 禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ、」(清澄寺大衆中、P893)


清澄寺で道善房から受けとったから、一切経を読めたって。これ、清澄寺のことだろ。
この「清澄寺大衆中」が本当だったら、清澄寺において貰ったもののおかげで一切経
を見たって言ってるんだよ。何度も言ってきたことだけど、12歳に道が開けたって言
ってるのに、17、18歳まで無為で過ごしたというのは話が通らない。ここで勝劣を知
ったと言ってるのは、ずっと後年のことも含めてだろうけど、開始は12歳のときから、
経典等を学習しはじめることが出来たってことを言われてるんだと思う。

八宗というのは、新しい浄土宗と禅宗を省略して言ってるだけね。合わせて十宗だよ。
その上で真言宗が悪いのを理解したってここで言ってるんだよ。これも取り消しよう
がないよ。これが重要だと思って、その序文として、禅宗と念仏宗を責めることにし
たんだって。ここにも戦略がきちんと明かされてるね。

こんなふうに立宗宣言の清澄寺において、すでに真言の悪を述べてたって、「報恩抄」
でも「清澄寺大衆中」でもそう述べられてあるわけ。しかもだ、修学中にだって、そう
いう質問をしてたって御書があるから、普通にいろいろ疑問だってことを述べてたんだ
ろうよ。でも普通は無視されるわけだよね。難しいことを言うなよなって。

それは置いといて、ここでもう一つ気づくことは、12歳で経典を手にしても、誰も教
えてくれる人のいない(※ 本尊問答抄)中で、一人で読みほどきを開始したんだろ。
大聖人は、17歳のときに天台宗の歴代の書を清澄寺で書写してるぐらいだから、清澄
寺には経典だけじゃなくて多くの人師の論もあったはずだよ。それらを読み始められ
たことに感謝されたってことは、12歳の時点で十分に文字が読めてたってことだよ。

読み書きもちゃんとできて経典の読解力があったってこと。だから諸御書で幼少の頃
から勉強してたって言ってるのは、12歳~16歳のことを幼少だなんてさ、16歳が幼少
だとか、おかしことをを言ってるんじゃなくて、文字通りの幼少のころ。12歳以前。
ただし、清澄寺に来る前に学習してたら、あるべき具体的な場所の記述がないんだか
ら、自分で学習してたのか、あるいはひたすら、その思いだけがあったのか。

どちらにしてもそういう思いがなければ、入門して誓願して経典がほしいだなんて、
言ったところで道善房も、誰も認めてはくれまい。それを「みんなも知ってるとおり」
っていう出だしで御書に書いてるってことなんだよ。


次。もう一度、「善無畏三蔵抄」。虚空蔵菩薩から宝珠をもらったって。その続き。


「其のしるしにや日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱・粗伺ひ侍りぬ、」
 (善無畏三蔵抄、P888)真蹟なし、録外。


ここでもさっきの「清澄寺大衆中」とほぼ同じ意味。宝珠をもらったからだよ。
その結果として八宗と、今度は、禅宗と念仏宗もほぼ知ることが出来たと。こっちで
は、新興宗教の禅宗と念仏宗を入れて十宗だと言ってるんだ。当時は大流行してたか
ら、清澄寺もそうだったはずだけど、あんまり学問する人がいなかったっていうから、
浄土宗の文献は豊富には無かったんだろうなって。私の想像だけど。なにしろ法然が
なくなったのは大聖人が生まれるほんの十年前のこと。法然がどれほど学習したかを
勉強した人が清澄寺にいてもおかしくはないけど、それだったら当時に生きて教えて
くれてもよさそうなものだけど、いなかったっぽいから。清澄寺には、既存の八宗に
ついての文献はあっても、浄土宗についての詳しい文献は、まだあまりなかったのか
もだね。ただ、後々までの禅宗や念仏宗を破折できたのまで含めて、全部が道善房が
自分の思いを汲んでくれたおかげなんだって感謝の言葉を述べてるわけだよ。そうい
う御書だから。

こうしてみると、意外と、そうだとは書いてないんだけど、学習時期が早かったって
ことに気づくよね。


―――――――――――――――――――――――――――――


http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kokufu/hasu.html

1951年に発見され、1952年に2千年の時を経て開花した世界最古の種の蓮。
1951年は戸田第二代会長が就任、地涌の菩薩による広宣流布の時代が始まった年。
大聖人の立宗から700年目の前年に、これからの時代を寿ぐようにそのハスは咲いた。


  • [30]
  • No.028 【番外・法門編】⑨

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時58分27秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2017年 1月 4日(水)00時45分3秒
   ★
No.028 【番外・法門編】⑨


今日はちょっとおまけ。「守護国家論」。

真言宗について。それでももう一度考え直してみる。そんな必要が無くても、あらゆ
る視点から考えねばならない。一つの視点、一つの完全なストーリにとらわれてはい
けない。歴史の真実は誰もがありえないと思えるような推論、往々にして驚くような
ことが事実だったりするのだから。

初期に真言の破折を含めなかったのは、布教戦略だった。その理由にも頷ける。その
御書も残っている。だけど初期のころの御書には「法華・真言」だとか書いてあるん
だから誤解するのも仕方ないのかもね。

よーし、全て白紙で、もう一度、考えてみよう。今度は、守護国家論にある通りだと。
立宗当初の大聖人が真言宗を正しいと思っていたから、そう書いたんだと。別にいい
ではないか、当時の日本に法華経を正しく宣揚する宗派がどこにも存在し無かったん
だから、話す方の身になれば、すべての話題をまぜこぜにしないで、お互いに共通の
表現を用いて語るものだろうから、そういう表現をするのが、ごく自然だろうとか、
そうじゃなくって、大聖人は実は本当に知らなかったんだと考えてみる。

御書を見渡しても、大聖人が大日経の理念を大切そうに宣揚していないなんてのも、
なんだわ、きっと、大聖人も真言のことを話すのが、気恥ずかしかっただけだと。

そんな大聖人が真言宗に好意的だったとされる根拠の一つが「守護国家論」だよ。
そこに「法華・真言」と何度も並べて言ってるからね。 大聖人がそう書かれたのに、
それは違うでしょうなんて失礼だよ。大聖人も心からそう思って言ったのに決まって
るんだから。そんなのは真言宗がウソをついたんであって、偽装したのは大聖人では
ないからね。自分が考えだしたことならともかく、他の人がついてきた「ウソ」まで、
知ったことでないから、そんな責任は大聖人にはないだろって。いいの、いいの、そ
れくらい。

えっ、何? いつもとトーンが違うって? いや、大聖人様の言われてることだから、
そのまんま信じればいいの。切り文であろうと単語であろうと、前後で矛盾しようが
何であろうが、全部が正しいのだよ。世間の人がみんな使ってる言葉で、それを譲っ
て使ってるだなんて解釈は、今日に限っては許されない。世間の人の言葉にいちいち
釘を刺すことを何よりも優先したんだ。そうしない可能性なんてない。そうに決まっ
てるんだから。考えては駄目なんだ。「法華・真言」と何度も言ってるんだから。

しかも「守護国家論」には、ただ一か所だけだけど、了義経とは、法華経と涅槃経と
大日経だと、この3つを並べて書いてあるんだ。これは決定的というか、アウトなん
じゃないかと いうこと。うん。真言宗の経典である大日経をだ、了義経だと、つまり
法華経と同じ仏の最終的な主張だと述べているんだぜ。あーあ、やっぱりそうだ。
大聖人は法華経と大日経とを、いっしょにしてるんだ。

それをもう少し詳しく見てみよう。
まず、「守護国家論」が浄土宗の破折を主眼にしてるのは、誰にも異論がない所。
浄土宗の祖師たちの主張の根拠は、遠い昔の竜樹という人の書いた「十住毘婆沙論」。
それを使って浄土宗の経典が一番いいんだって言ってるわけだね。ところが大聖人の
言い分だと、その「十住毘婆沙論」には、いろんな経典の名前が挙げられてるけど、
そこに法華経と大日経の名前は書いてないだろうというものだね。なのに勝手に法
華経を含めて全部を駄目だと言うなよなと。(※大日経はインドに存在しないから、
竜樹の書に書いてないのは当たり前。)


これも大聖人が見つけた浄土宗批判の論点なんだ。これまでの世の中の誰も、まさか
インドの竜樹まで、法然の考えを辿って詳しく検討する人はいなかったんだもの。


「此等の人師の私の案に非ず其の源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出でたり、」
(守護国家論、P51)真蹟あり


その「十住毘婆沙論」が根拠なんだったら、そこに書かれてない法華経や大日経を勝
手に話に入れるなと、それが法然の教義のおかしい所だよって、文句を言ってるの。
この御書での大聖人の批判は、そういう主張なの。そこまではいいだろ。

問題はそこからで、法華経や大日経は、「了義経(釈尊の真意が書かれた経典)」だ
から、そこに入らないという所だね。仏が最後に説いた遺言ともいうべき涅槃経には、
了義経だけを大切にしなさいと書かれてるんだって。

ところが、よく読んでみると、大聖人の主張では、何が了義経かというと、決まって
るわけではなくて、相対的に使う言葉なんだよって、 この「守護国家論」に何度も説
明されてるんだ。あらまあ。そうなんだ。何が了義経か、つまり何が良い経典かは、
比べるものによって違うんだと。


「仏説に就て小乗経は不了義・大乗経は了義なり。大乗に就て又四十余年の諸経は不
 了義経・法華・涅槃・大日経等は了義経なり。而るに円覚・大仏頂等の諸経は小乗
 及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり。法華経の如き了義には非ざるなり。」
 (同、P43)

(仏の説いた経典の中では、小乗経がダメで、大乗経がよい。大乗経の中では、諸経
 は駄目で、法華・涅槃・大日経がよい。そういうふうに、たとえ名前に「了義」が
 付いてる大円覚修多羅了義経や大仏頂如来密因修証了義経であっても、小乗経に比
 べれば良い経典だけど、法華経に比べればダメな経典になる。)


相対的なものだっていうんだから、ここで大日経が法華経と並び称されてると言って
も、いったん、ひとくくりにされてるだけ。諸経に比べればマシな経典ってこと。
大日経が法華経に肩を並べられるのかは、「守護国家論」とほぼ同時期の御書、「唱
法華題目抄」には、


「大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経。法華経は了義経なり」
(唱法華題目抄、P9) 真蹟なし、日興上人の写本が一部あり。


と、守護国家論にはそこまで書かれていないだけで、大日経がだめだという大聖人の
見解は、ほぼ同時期の別の御書にはきちんと書かれてあるわ。つまり省略してるだけ
だったんだね。なあんだ。

法華経が一番に優れてるのはともかくとして、それ以下の順位争い、つまり、この、
「守護国家論」では、大日経の位置づけが諸経典より上だというのが高すぎるのが気
になるけど、ああ、それも、ちょっとよく見れば、大日経「等」とあるようにきっと、
ここに華厳経や他の大乗経典も含ま れるんだよね。少なくても大日経を含めて、たっ
た3つの経典だけが「了義経」なんじゃないってわけなの。
大日経だけが、法華経と並べて他の大乗経典より頭一つ飛び出てるってことではない。
手品みたいだけど、大聖人の中で経典の順位付けは、どの時代も変っては無いんだね。

なあんだ。それだと、大日経を宣揚してただなんて考えが霧散してしまったね。
結局は、「守護国家論」の中でも、単に「了義経」と言えば、法華経と涅槃経なの。
やっぱりそうなんだ。


「了義の法華涅槃」(守護国家論、P45)
「法華・涅槃を以て不了義経と為す共に仏意を覚らず」(守護国家論、P58)


そして守護国家論の結論部分は、やっぱりこうなっているの。


「又云く「了義経に依つて不了義経に依らざれ」[已上]是の如きの文一に非ず皆四
 十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義・魔説と称す是れ皆人をして其の経を捨
 てて法華・涅槃に入らしめんが為なり、」(守護国家論、P77)


法華経と涅槃経なんだって。大日経なんて霧散消滅。結局、いつものことだけど、
丁寧に読めば、大日経の宣揚だなんて、ほんと、拙速な理解だってことが分かるわ。

やっぱり大聖人が知らなかったなんて、おかしかった。その考えは間違ってた。
さらにだ、

もしも「守護国家論」にある言葉の使い方でもって真言宗の経典を特別視してると
考えると、おかしくって意味が通じなくなるところがある。了義経だと考えるなら、
なぜ真言宗の経典だけは、説明を完全に避けたのかという疑問が起こるわ。

それにさ、先の已今当の経典の全ての頂点に立つのだという法華経の主張に対して、
各経典はその位置の理由を何度も解説しているよ。涅槃経だって説明してる。涅槃経
の言い たいことはすでに全部が法華経に説かれてて、それと同意だと言ってる経典だ
から、 涅槃経は了義経になるんだって。涅槃経以前の経典が邪見だという誤解は、
迦葉 菩薩らが反省して述べた発言だから関係ないよとか。それなのに大日経なんて
なんの説明もないから。本質的には、単にその他の大勢といっしょってこと。

同抄では、法華経が「已今当」に第一だと言われてるけど、大日経はどこに入るの?
已今当が対象とするのは全ての仏だって言ってて、真言宗の言いわけである、過去・
現在・未来に説かれるわけではないとか、不定の経典だとかそういう言い訳を全部、
許さないと大聖人はこの御書ではっきりと言われてるのに。

そこまで書いておきながら、大日経典はどうなのかと。普通に「已」(つまり過去)
に説かれた経典だからそこに含まれてしまうじゃないか。そういう含みだから、この
「守護国家論」って、大日経をほめてるようで、全然、持ち上げてなかったわ。

真面目に読んでみるとそういうこと。真面目に読んで「守護国家論」が真言未分化の
表現を取っているというんなら、まだ分かるけど、そういうのに乗っかって、大聖人
がまだ真言未分化の思想だったなんて、そういう人は、人の意見に乗っかってるだけ
で、自分では真面目に読んでない人だと言うことが決定づけられる。とんでも君だよ
ね。





  • [29]
  • No.027 【番外・法門編】⑧

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時57分9秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2017年 1月 3日(火)00時27分42秒
   ★
No.027 【番外・法門編】⑧


大聖人は、立宗宣言のときには、明確に真言批判を清澄寺でしていたってことだった。
ただ、それなら若いときにはどうしてたのって思うよね。明確に布教するほどではな
くても、真言宗への批判を口にしなかったのかと。そんなことないからね。いっぱい
言ってたみたいよ。昨日に出した御書だけど、今度は批判側ではない立場で再登場。


「日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い
 候いて真言の秘教をあらあら習ひ此の事を尋ね勘うるに一人として答をする人なし、」
 (善無畏三蔵抄、P887)真蹟なし、録外。


真蹟のある御書じゃないから、そこを言われると困るけど。戒体即身成仏義で真言宗
の相伝を「別に記して」あると指定された内容が書いてあるのが、同時期のこの御書。
真言宗で伝えられていた相伝で、開祖の善無畏三蔵は一度、仮死状態になったことが
あって、その時に閻魔大王に許されて戻って来たんだって。その時に口に出した言葉
が、法華経の言葉だったというもの。その話を批判して、そもそもなんで地獄に落ち
たんだよって、大聖人は真言の奥義を教えてくれた人たちに一人一人尋ねてみたんだ
けど、誰も答えられなかったって。つまり当然、学習しながら、批判も旺盛にしてい
たってわけ。当然すぎて、ふうんって感じだよね。


そんな若い時に批判してたのは、真言宗だけじゃないからね。浄土宗についても。


「若し之に依つて本願を疑わば仏説を疑うに成んぬ進退惟谷れり此の疑を以て念仏宗
 の先達並びに聖道の先達に之を尋るに一人として答うる人之れ無し、」
(当世念仏者無間地獄事、P106)真蹟なし、録内。


これはもうちょっと後で説明するからね。重複するのでここでは省略。やっぱり批判
してたけど、死顔を見ておかしいと言っても誰も答えられる人はいなかったの。

自分の胸奥に秘めてたってことじゃなく。それなら法華経の宣揚に声をあげていたと
考えるのが普通なんじゃないのかな。隠す必要なんてないんだし。別に立宗宣言を待
たずに他の人に語ってたってことだよね。もしもそうだったら、どうなる。

みんな大聖人のことを怒って、とたん、友人付き合いをやめて追い出されるのかな。
ここは想像だけど、そんなことはないと思う。学生の身分でまじめに研鑽してて、
真面目に語って、人間関係があれば、話は聞いてくれるよ。でも黙殺だね。きっと。
誰も相手にしてくれなくなる。真面目に語れば語るほど。んなこと分かりきってる。
いくら真面目な友人でも、社会的に許せないことを語る人間なら、どこまでおつき
合いすればいいものか引いちゃうよね。熱く語ろうが、冷静に語る人だろうが、その
人の前途の多難さを想像すれば、なにがどうしても同意なんて、できっこないもの。

修学時代に出来た友人の一人が後の六老僧の日昭なの。この人も大聖人よりも一歳ほ
ど年上なんだけど、大聖人が立宗宣言後にやって来て弟子になるんだよね。普通に考
えれば、修学時代に法門のことについても、いろいろと話したことがあったと考えた
ほうが納得できる。まあ、私の想像なんだけど。もしかすると大聖人は絶対に人に法
門を語らずに秘密にしてて、研鑽した内容さえも秘密。勉強するのも人知れずに本を
借りては読んで考えてたって人だったのかもしれないからね。想像は想像だよ。

立宗宣言前にどうお考えだったのかを示唆する御書があるんだよ。どちらも真蹟の
ない相伝書だけど、六老僧の一人で日向が大聖人の講義を聞いて書きとどめたとさ
れる書だよ。日向といえば、報恩抄は、この人が最後に持つようにと大聖人に命じ
られたんだよね。そんな人。信頼されてたんだ。


「其の故は爾前の間は一切衆生を畏れ給えり、若し法華経を説かずして空しくやあら
 んずらんと思召して畏れ深くありと云う文なり、さて今は恐るべき事なく時節来つ
 て説く間畏れなしと喜び給えり、今日蓮等の類も是くの如く日蓮も三十二までは畏
 れありき、若しや此の南無妙法蓮華経を弘めずしてあらんずらんと畏れありき、今
 は即ち此の恐れ無く既に末法当時南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れな
 し、」(御講聞書、P816)真蹟なし


大聖人はこんなふうに言われてたんだって。釈尊も法華経を説かなければ、衆生を救
えないと、法華経を説く時期がくるまでは、ずっと深く畏れていただろうと。やがて
法華経を説く時期がきたので、恐れることがなくなり、大変に、喜ばれたんだと。
大聖人もまた32歳まで、もしも、南無妙法蓮華経を弘めないままに終わってしまわ
ないかとずっと畏れていたんだって。ところが今は弘めることが出来たので、恐れが
無くなったんだって。

これだと他の御書と少しトーンが違ってて、別の面もあるって考えさせられるよね。
多くの御書には、法を弘めるかどうか逡巡して、他の人に迷惑をかけるのも嫌だし、
自分が説かないで罰が当たるのも嫌だし、なんていうトーンだったよね。こっちでは
弘めようというのは最初っから心の中で深く決まっていて、それ故に悩んでたってこ
とになる。いくら自分の命を差し出しても、六難九易の壁は乗り越えられないから。

同じ「御講聞書」には、こんなことも書いてあるの。大聖人の門下は「置く」とい
う文字を恐れよと。もしも置いといて、言わないで終わったなら、それでは使命を
果たせないではないかって。


「一置不呵責の文の事 仰に云く此の経文に於ては日蓮等の類のおそるべき文字一
 字之れ有り、若し此の文字を恐れざれば縦い当座は事なしとも未来無間の業たる
 べし、」(御講聞書、P842)真蹟なし


人びとが怨嫉して信じないことが分かってるのに、どうやれば、これまでの人師が誤
りだということを信じさせられるというのか。絶対に無理だと経典には書いてあるの
に「やれ」というんだから、その機会をどうして得るのか、責任を感じれば、何十年
も悩んでたって、想像にあまりあるよね。その数十年の間に、どうやって理解させて
いくのか、何の戦略も無いと単純に考えるほうがどうかしてるって。世人の考えるの
は、32歳まで考える時間があったというのに、そこから戦略なしに唐突に布教したに
決まってるんだって。それで法難があるたびに思想がどんどん変わっていったって。
ひどいよね。


これで元の話にもどってもいいかな。


  • [28]
  • No.026 【番外・法門編】⑦

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時55分13秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2017年 1月 2日(月)01時40分0秒
   ★
No.026 【番外・法門編】⑦


真言宗への細かい疑問は、それでも尽きないのかもしれないけど、それらも不思議
でも何でもない答えだよ。こんな御書があるんだ。大聖人は修学中には真言の秘法
を勉強してきたんだと非難する人がいるけんだど、これって非難されるべきこと?


「日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて我等易易と生死を離るべき教に入らんと思
 い候いて真言の秘教をあらあら習ひ此の事を尋ね勘うるに一人として答をする人
 なし、此の人悪道を免れずば当世の一切の真言並びに一印一真言の道俗三悪道の
 罪を免るべきや。」(善無畏三蔵抄、P887)真蹟なし。録外。


そのまんまだと、習ってきたんだよ、真摯に、ちゃんと。法華経が最勝と知ってて
も諸宗の修行がすぐ悪いとは言いきれない時期がずっとあったんだって。でも習っ
た上で聞いたんだよ。真言宗の相伝書には、開祖である善無畏三蔵が死んだときに
は死相が悪かったとか、地獄の閻魔宮に一度行ってきたとか、そう相伝書に書いて
あるのはなぜかって。それを聞いても誰も答えてくれる人はいなかったって。

このことも、この本文の続きが道善房にもらった宝珠のおかげで八宗の大綱が分か
るようになったって書いてある所に結びつく文章だから、もともと清澄寺での発想
だったのかもしれないね。もう少し踏み込むと、この善無畏三蔵が地獄に行った、
相伝書は現在には伝わっていないんだけど、大聖人は後年、ずっとこれを言われて
るんだ。真言宗への決定的な切り口なんだ。この真言宗の失われた相伝書を大聖人
が知ったのはいつだったのか。そこを考えても分かることだけど。修学時代にしか
ありえないんだよ。諸宗の悪口を言ってる大聖人に、誰が真言宗のこの奥義を教え
てくれるっていうんだよ。もう書物は失われて口伝の中にしかない真言宗の相伝の
中の逸話。それを質問したのも修学中のことだし、知ったのも修学中。当然ながら
それを疑問に思ったのも修学中のことだよ。アホみたいだけど、そこまで言わない
と、晩年にこれを大聖人が書いたからといって、立宗後に、文永年間に50歳にな
ってから思いついたという、バカな学者が多いからどうしたものか。(ああ、しま
った。バカって言っちゃったよ。ごめんごめん。)


大聖人が真言宗をまるで信じてるように立てて話すのも、あとの攻撃への切り口を
するどくするために、その前の段で謙虚に信じてるんですよっていうのは、御書で
よくある手法で、この報恩抄でも見られるよ。
報恩抄は真言宗を徹底的に批判してる御書だけど、最初の部分では、弘法のことを
私も信じてるとか、心から信じるためだとかいってといて、同じ一つの御抄の中で
そう言っておいて、それからさんざん馬鹿にしてるから。表現手法ってことだね。

だからここも、書かれてるように、おそらく清澄寺では真言宗を学ぶそんな状況だ
ったんだろうし、事実、誰よりも真言宗について調べて学んだんだけど、冒頭にあ
るように本当に「生死を離れようと思って真言の秘教を学んだ」のかどうかは怪し
いってわけ。単なる皮肉なのかもだね。結局、言いたいのは、尋ねても答えられる
人はいなかったと。それだけだよ。

同じことは次の御書でも言えるんだ。最初のころは真言宗を志してたと言ってる。


「予も始は大日に憑を懸けて密宗に志を寄す然れども彼の宗の最底を見るに其の立
 義も亦謗法なり」(聖愚問答抄上、P484)


この「聖愚問答抄」では、劇仕立てで、登場人物の「聖人」がこう言ってるんだ。
この聖人が使う、「予も」の言葉で始まる文章は3回ほど出てくるんだけど、前の
場面だと、法然のことも信じてるんだからと平気で言ってるからね。


「予も仰いで信を取ること此くの如し但し仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず
 只経文を先きとすべし」(同、P481)


その上でだ、法然上人は貴い人だと私も仰いで信じてるけど、仏法は貴賤によらな
いからねと釘をさしている。最初の信じるってのは譲ってるだけで真実じゃ無いよ。

この「予も」の使い方は、他の御書でも同じに使ってて、それが報恩抄なの。その
まま同じ使い方だから。自分も仰いで信じてるけど、でも仏法の邪正は論証しなく
てはねって。だから、こういう登場人物の発言だけをそのまま大聖人に持ってきて、
きっと最初のころは大聖人も真言宗で成仏しようとしてたんだっていうのは、ちょ
おっと、無理がありすぎるんだわ。


この報恩抄では、同じ御書の中で最初には、弘法大師のことを、


「答えて云く予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。但し古の人人も不可思議の徳あ
 りしかども仏法の邪正は其にはよらず、」(報恩抄、P319)


でも後段になると、結局、弘法大師はこういう人だったねってことに。


「いわうや弘法は日本の人かかる誑乱其の数多し此等をもつて仏意に叶う人の証拠
 とはしりがたし。」(報恩抄、P321)

「弘法大師の御義はあまり僻事」(報恩抄、P308)


じゃあ、さっき言ってたのは何だったのって? それは文章をちゃんと読めば分かる
ことだし、単語だけ出してもそういう使い方はいつもしてるってことだよ。

同じ一つの報恩抄の中でこんな表現もされてるの。


「慈覚智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは親に値うての年あらそひ日天に値
 い奉りての目くらべにては候へども慈覚智証の御かたふどをせさせ給はん人人は分
 明なる証文をかまへさせ給うべし、詮ずるところは信をとらんがためなり、」
(報恩抄、P307)


文意は明らかに謙遜して、相手の立場に立って言われてるだけだから。でも言葉の上
では真言宗の信仰を深めることを進めてるよね、一応。もしも報恩抄がここで突然終
わってたら、後世の学者たちは、「ああ、大聖人も自分が正しいかどうかは今一つ自
信がないんだ。だから真言宗への信を深めたいと言われてるんだろう。」みたいな(笑)。
そんな言葉を探して騒ぐのが、今の人の安直に論文を書く風潮みたいな気がする。

もちろん大聖人はこの報恩抄でも、真言宗の各祖を厳しくというか、徹底的に批判し
ている。弘法大師のことなんか、上に書いてるように、全然、信用なんかしていない。





  • [27]
  • No.025 【番外・法門編】⑥

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時53分43秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2017年 1月 1日(日)01時46分58秒
   ★
No.025 【番外・法門編】⑥


真言宗に並々ならぬ親近感を大聖人が持っていたとする学者がいるけど。盲目かと。

大聖人が真言宗の批判を伏せたのは、戦略だったと御書には示されている。また「報
恩抄」や「清澄寺大衆中」には、立宗宣言後の清澄寺で真言批判をしていたことを書
いて送っている。また清澄寺で道善房から機会をもらったことで知った内容にも真言
批判が含まれている。それらを取り消しようがないよ。本人が語ってるというのに。
受け取って読んだほうは、もし事実記載に齟齬があれば、大いに驚くはずなんだよ。

しかし、ここまで書いてても、当世の学者たちは、それは大聖人が都合よく書いてる
んだろって思ってる。うん、いいよ。その疑う気持ちは大事だよね。だけどね、まず
はそんな難しい話じゃないんだから。

私達が最初に考えねばならないのは、そんな難しい話より、そう眼前の事実だよ。

大聖人が真言宗に少しも近しい思いを持ってなかったのはだ、眼前の事実、法華・真
言や、了義経などの位置づけとか、それらの名目だけで、真言宗の教義や概念を、
何一つとして宣揚していないこと、この事実に勝るほど雄弁に語るものはない。もし
親近感をもっていたなら、共感した教義の一つくらい宣揚してもいいはずではないか。
法華経の絶待妙の立場からしか述べていないんだよ。

それなのに、その無いものを心に浮かべて、「並みならぬ」とか創作せねばならな
いほど客観性に劣る意見を振り回されても、事実を述べてほしいと思うばかりだ。

「法華・真言」と並び称してたとか、「了義経」に含めていたとか、そんな位置づけ
とか名目ばっかりで思い込むなんて早とちりも過ぎるというものだよ。当時の人がみ
んながそう思ってた言葉を使っていただけのことだろう。一つの話をするのにそれに
合わせて使うくらいのことは当然ではないか。

本当に好きで、認めてたんなら、真言宗の教義を紹介してるよ。こんな概念が説かれ
てて有りがたいんだぞとか、こんな仏さまが法身として法華経に並び立ってるんだと
か。そこまでいかなくても、何か自分が感銘したことを述べてるはずだろ。それがな
いんだからね。それを見てわからんのかなって強く思うわ。

あと真言宗の相伝で分かるというのは、北林氏の本に初登場したことで、それが善無
畏三蔵にある真言宗の相伝にある逸話だと解明されてる。結局、真言宗の開祖であっ
ても法華経を唱えたんだって。そういう相伝だから。その罪滅ぼしに、善無畏三蔵は
法華経の真言を大切にあつかったおかげで、大聖人も引用することができたんだよね。

その他、「戒体即身成仏義」の真言批判など、これまでの話題は明らかになっている。
その上で、それでもだ、真言宗批判を伏せたっていう証拠が無いんだって思う人は、
私のここのNo.20からを読み返してみて。法理の立ち場から論証してるつもりだから。

大聖人が伏せていたとの言葉が、後からのものではなくて、最初からだってことを、
証拠を立てて、話したつもりだよ。諸々の学者が思いもよらなかった方法だけども、
それを見てもまだ分からないって人がいたら困るので、さらに詳しく説明しておくん
だ。サービス精神っていうか、とにかく理解してよって感じなの。

もう一度。

諸宗の悪を増長させてしまった、ああ、ごめん言い方が難しかったか。いろんな仏教
の悪を繁栄させた根本となる概念は、いろんな経典が優れてて、法華経のほうが劣っ
てるという主張ではなくて、法華経もいいけど、「でもね」って考え方だったんだ。
少なくても天台宗はそうなの。みんな法華経じゃん、開会したからそれでいいんじゃ
んって考え方。その天台宗の考え方を誤りだと思う結論に至ったから、大聖人は確信
をもって浄土宗や他の諸宗を攻撃することができたの。浄土宗然り。真言宗然りだよ。


「嘉祥大師の法華玄を見るにいたう法華経を謗じたる疏にはあらず但法華経と諸大
 乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ此れが謗法の根本にて候か 」
 (報恩抄、P315)


上のNo.23を見てほしいんだけど、法華経が尊いとする、つまり「円教」であるのは、
全ての人が仏になれる道を目指せる、仏であることを自覚して生きていくそんな修行
を提供していることにあるんだ。「九界即仏界・仏界即九界」とか「一念三千」とか
難しい話を抜きにすれば、疑う人にも分かるのかもしれない。平たく理解してみて。
生きて生活してる人間が仏なんだと。他にはどこにもいないんだと。法華経でこれが
説かれるのは寿量品だけで、他品では相変わらず幻の仏がいるんだけど、いちおう、
それらが実際にはいなんだってことは法華経自身が示してくれてるから、法華経の話
は全部が円教だという主張に整合性は取れてるわけ。全部が円教なの。

他の経典にも、同様のことが書かれてあるとしたって、つまり真言宗の経典にも一念
三千があるとか、そのままで成仏だとか、同じようなことが書かれてあるって解釈し
て主張しみたって、つまり法華経の概念とそっくりな概念がいくら真言宗の経典に説
かれていたとされてあっても、それ以外の概念を含む経典は、円教にはならないんだ
からね。大日如来が普通の人間ではなくて、根本的な法身だと言ってる時点で、すで
にもうアウトなんだよ。だって法華経以前の経典だからね、ボロが出るのは仕方ない。

あくまで普通の生きてる人間が、釈尊ではなく、究極に仏の存在なの。そういう法門。

だから真言宗の教義に法華経と同じことが書いてあっても、余分なことを含んでる点
で駄目だろってことになるの。上の相待妙と絶待妙について大聖人の解釈とは、そう
いうことだから。余分なものを含む教えは、法華経の立場で開会して使うことは許さ
れるけど、それ自身の存在を失わせなければならないんだから。法華経以前の経典や
迹門が許されるのは、ただひたすら絶待妙の立場でだけ。

それを天台宗は、絶待妙なんだから、同一視していいんだと長年、勘違いしたんだ。
だからそこから転じて、天台宗の人が、法華経と大日経の肩を並べてたなんてのは、
単なる結果の姿に過ぎないわけなの。あまつさえ、大日経のほうが優れてるというよ
うになると、もはや何をか言わんってわけだよ。その結果の話題のほうが分かりやす
いから、大聖人もよくそれを御書で話題にされてるんだけど、それだけではないって
ことね。

結局、それが謗法なのを大聖人だけが知ってるっていうのは、上記の理由からだよ。


「既に四百余年を経歴するに此等の人人一人として此の義を疑わず汝何なる智を以
 て之を難ずるや云云。」(富木殿御書、P987)真蹟あり。


伝教大師から400年間、誰も「此の義」を疑わなかったって。この「此の義」とい
うのは、前にあった、大聖人が習い損ないの念仏者たちに教えられてきた「此の義」
と同じ意味だからね。数十年間も大聖人はそれと対峙してきたってことだよ。

報恩抄には、伝教大師だって、法華経の下に真言の修行があるんだと考えてたって書
かれてあるよね。名前を削ってっていうのが、絶待妙として使ったってことだよ。


「大日経は法華経には劣りたりと知しめして八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけ
 づりて法華宗の内に入れ七宗となし大日経をば法華天台宗の傍依経となして華厳大
 品般若涅槃等の例とせり、」(報恩抄、P304)


読む人にとっては、法華経が上でも下でも、どっちでもいいだろうと思うし、どうし
て大聖人はそんなことに拘って論証されようとしたのかって、そういうことだから。
大日経の内容そのものが劣った内容なんだったら、法華経の下にあろうが上にあろう
と取り扱うべきじゃないないよね。そうではないの。法華経に使役される立場ならば
許されるの。ここが分からないと、大聖人が下だとか上だとか、何を論証されてるの
かが分からなくなると思うんだ。どっちが偉いって、大人気ないんじゃないみたいな。
そこの内容がほやっとして分かってないから、頼まれてもしない勝手な公平感で気を
利かせて、真言が好きだったに違いないとかの勘違いが出来上がるの。

実際には何もないのに踊らされて、恐れて騒ぐ人たちって、ちょっとね。まるで職場
で学会宣言も出来ないくせに、学会員だと表明してる人にああだこうだと、理を説い
て諭そうとしてる人たちとなんとなく重なるわ。本人が悠々としてるのに、何もしな
いんだから自分たちが怖がる必要なんてないはずなのに、なぜか神経質で、心の中は
ぶるぶるなのが、こっちはおかしすぎるんだけど。





  • [26]
  • No.024 【番外・法門編】⑤

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時52分39秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月31日(土)00時14分57秒
   ★
No.024 【番外・法門編】⑤


それで大聖人が布教を開始して、すぐにその大切な部分を秘密にするようになったっ
てことは、御書に明白だってことは分かってもらえたかな。

なぜ秘密って、そりゃ理由は書いてないけど、分かりそうなものだから、私が考えた
ことを述べておくと、立正安国論を書くために一切経を調べるために岩本実相寺に行
く必要があったんだろ。岩本実相寺じゃなかったっていうのはひとまず置いといて。
どこでもいいんだから。清澄寺を追い出されて、一体、他のどこで一切経を閲覧でき
るの? 比叡山? もしも天台宗の悪口を言いはじめてたら同じで入れてくれないよ。

浄土宗だって、浄土宗の悪口を言ってる僧をどうして手厚くもてなして、貴重な経典
を見せてあげて、さらに悪口を言わせようと思うの。どこでも同じだよ。

真面目に考えながら浄土宗の悪口をいう人なんだよ。もしそれが天台宗・真言宗への
批判、つまり自分たちの悪口だったら、本をわざわざ貸してくれるか。殺したいと思
われても仕方がないのに。たとえ、みんなが殺そうと思わなくても、騒動を起こして
迷惑をかけるのを、大聖人は、出来るだけ避けなければならないと思うはずだよ。
経典が閲覧出来なくなるのなんかは、まだいいけど、話し合いも出来ない状態っての
は出来るだけ避けないといけないと思うはずだと、私は思うんだ。

絶待妙と相待妙の真実、諸経典のとらえ方を述べるってことは、当時の天台宗が根本
的に間違えてるってことなんだよ。しかもそれは、法華経以外の修行、つまり阿弥陀
だけでなく、真言宗の大日如来でもいいんだとかの考えをも許さないから。だから、
大聖人は知ってたんだ。反対にこれを知らなかったらさ、とても浄土宗の批判だって
出来っこないんだわ。浄土宗でもよいのではないかという長年の疑問が払拭されずに
納得されてなかったってことになるんだから。両者は一衣帯水なの。
とても、どの経典の背くらべが一番なのかなんて、単純な図式ではないの。

それから大聖人が、全面的に説明しようとしなかったのは、難しくて、普通の人に理
解されないから。後年の御書でも、こんなことをあんまり説明してないからね。


重要なのは、やはり戦略だから。最初から天台宗や浄土宗や全部について悪いって
言ってたら、騒ぎにならないと思うの。黙殺されるだけだよ。修学時代にだって言っ
てきたはずだから。てか、いろいろ疑問を投げかけてきたって御書にあるんだし。学
会員だったら同じで分かると思う。もしも牧口先生が全ての宗派が誤りだと全面的に
言ってたら、日蓮正宗が喜んで御書を出版するのに手を貸してくれたと思うかな。あ。
日亨上人は宗門に見切りをつけて御書の編纂を学会と共にしてくれたんだっけ。ごめ
ん、譬えをちょっと間違えたわ。なんぜ、社会的な運動を起こすのには注目される必
要があるんだから。黙殺する人ばかりを増やしてもだめだってこと。浄土宗や禅宗を
皮切りにして、天台宗の悪を暴き出すには、まず表層的な分かりやすい所、これまで
も多くの人が指摘した非をまず追求して、運動に広がりを持たせようと思われたんじ
ゃないかな。天台宗の僧らが興味を持ってくれるのを待って。


「偽り愚かにしてせめざる時もあるべし、真言天台宗等は法華誹謗の者いたう呵責す
 べし、然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし、然る間まづま
 づさしをく事あるなり立正安国論の如し、いふといはざるとの重罪免れ難し、云つ
 て罪のまぬがるべきを見ながら聞きながら置いていましめざる事眼耳の二徳忽に破
 れて大無慈悲なり」(阿仏房尼御前御返事、P1307) 真蹟無し


こっちは真蹟が無いというだけで無視なんだそうだけど。ニセモノの大聖人が書いた
ことになるらしい。ひどい話だけど、とりあえず、誰もが納得できる理由の一つは、
ここに書かれてあるわ。人びとが理解しがたいから、ひとまず差し置いたのだって。
上の内容が難解なのをみれば、理由として当然至極だわ。そう考えないでいたと主張
するほうが無理があるってもんだろ。真蹟のある御書にも戦略があったことと、伏せ
ていた理由と、真言宗の批判を始める経緯についてまで、端的に書かれている。


「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめ
 せ、此の国の国主我が代をもたもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾
 の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれら
 しりなんず、さらばよもあわじとをもひて各各にも申さざりしなり。」
 (三沢抄、P1489)


この後に、でも公場対決を期したけど竜の口で処刑されそうになったから、もう言わ
なければならないと考えたんだって言われてるよ。これが大聖人が直接に言われてる
理由だよ。これで理由と経緯は明確だね。公式での対決を期したのだと。
そこまで用心しなければならないほど、真言宗の嘘言の構造は入り組んでたんだ。


こういうわけで、最初に言ってて伏せるようになったってことは、清澄寺の人びとは
よく知ってただろうってこと。だから報恩抄に書いてあるのは、嘘じゃないってこと
になるね。ああ、よかった。よかった。

立宗時に真言批判した事実は、報恩抄だけではなく、その半年前の「清澄寺大衆中」
にも同様のことが書かれてあるんだ。そっちは省略するね。


最後にもう一個。諸宗では、都合が悪くなって、こんなことしてきたよって箇所。


「是れ偏に仏法の邪見なるによる。仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり、
 禅宗と念仏宗とを責め候しは此の事を申し顕さん料なり」
 (曾谷入道殿御書、 P1024) 真蹟一部あり。


ここにも真言宗を責めるために、前座として禅宗と念仏宗を責めたって書いてある。
こうしてちゃんと大聖人が言ってるのに、それを疑って、自分たちの筋が通らない
もんだから、文章の最後の「料」という漢字を「とが」ってルビふって読むことに
させてきたんた。いつから? 誰がこうしたの? 「とが」ってなんだよ。どうし
てこれを通説では、「とが」って読むことにしたんだ? 「料」はイコール「罪」じ
ゃないぞ。御書でもいつも「料簡(りょうけん)」て意味で使われるだろ。こうい
う考えだったという意味で使われてる。大聖人は、禅宗や念仏宗の「罪」だなんて
ことを言ってるんじゃなくて、真言宗が天台宗を腐らせたことを示すために禅宗や
浄土を責めたんだって、そう言われてるの。正しくあるべきだった仏法。その天台
宗を根っこから腐らせたのは、真言宗の教義なんかを法華経の教義と同じとみなし
てよいと思ったことなんだと。





  • [25]
  • No.023 【番外・法門編】④

  • 投稿者:名無しさん
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時51分10秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月30日(金)08時35分48秒
   ★
No.023 【番外・法門編】④


約教とか約部とか急に言われても、分からないよね。OK、OK~♪ 大丈夫。
大聖人が解説した、天台大師が経典を見る時の4つの段階だよ。

天台大師も、大聖人も、法華経が正しいと思ってるんだ。それは皆が成仏できるから。
成仏できる教えを「円教」というの。でも法華経以前の経典にも成仏できるって説い
てる部分があるから、他の経典にだってそういう成仏できると書いてある所があって
そういう意味では他の経典だってその一部だけとると「円教」と言えないこともない
よねって、そういう疑問に対して、天台大師の考え方を4段階で示したんだ。

詳しくは、添付した今日の図を見てほしいの。記号は3つ。
法華経以前の経典の中の成仏できないという教えと、成仏するという教え。それから
法華経の中の成仏できる教えの3つ。法華経の中には普通の人が成仏できるってい
う教えしかないからね。法華経の話の中には架空の仏とかも出てくるけど、経典みず
からがそれらを架空だって破折してるんだから、結局、法華経は全部が普通の人の成
仏を説く経典だと言えるんだ。

もちろんだけど、成仏できるっていうのが良い教えで、成仏できないっていうのが悪
い教えだからね。成仏できる教えを修行してもいいと考えるの。それが大前提だね。


 ① とりあえず、法華経以前の教えには良い点もあるぞと着目した段階だよ。
   法華経はまだ登場しないの。だから無関係。

 ② 法華経以前の経典は法華経に劣ると言っても、その良い点だけは、法華経の良
   い点と同じだねというものの見方。真理はどこにあっても変わらないから。

 ③ 法華経以前の経典も良いことを言ってるけど、全体の話に矛盾があるからやっ
   ぱ、だめだよという答え。みんなが成仏できると書いてあっても、でも二乗は
   無効だとか、女の人は除くとか。真実ではない架空の仏しか説かれていない。


この上の①~③は相対して比較した場合のこと。その上で法華経の優位性を知ること
を「相待妙」と呼ぶの。天台大師が諸経典を褒めたのは、これらの中の話。比較して、
良い所は良い所として褒めたんだよ。でも全体で見るとだめだって。そういうこと。


 ④ 法華経から一方的に使いまわすときには、他の経典の意義は完全に失われるの。
   比較なんで出来ないってのはそういう意味。この④の考え方を「絶待妙」と呼
   んでるってわけ。ここに他の経典の姿かたちは何も無いの。


天台大師が、他の経典にも成仏が説かれてるから、法華経と同じだと言ってるのは、
②の場合のことだね。でも言ってるだけではだめってことだね。その前提となる思想
に無理があるから内容に矛盾を生じてるからダメなの。きちんと比較してみるとそう
いうことだと。
世の中の人が勝手に勘違いしてるのは、④の「絶待妙」の立場になると、都合よくも、
法華経も他の経典も同じになるんだというもの。それこそ意味不明だよね。なんだそ
りゃって感じ。だよ。そういう意味不明の誤った理解なんて、仏法は説いてないって
ことだよ。


絶待妙の立場で他経典が無くなるのは、「諸宗問答抄」にある文証で明らかだから。
「河川の水も大海に入ると大海と同じ塩味になる」というのは、大海の塩味だけにな
って、元の川の水の味は無くなるという意味なんだって。この他、天台大師の法華玄
義や、妙楽大師の弘決の文なども引用されてるの。大聖人はそう説明されてるよ。

諸宗問答抄の方にある答え。つまり文証をまとめておくと。

①~③の前提:「相待妙の下にて又約教約部の法門を釈して」 (P376)

①「約教の時は一代の教を蔵通別円の四教に分つて之に付いて勝劣を判ずる時は
  前三為・後一為妙と」(同)

②「此の時もなほ爾前権教の当分の得道を許し且く華厳等の仏慧と法華の仏慧とを等
  から令めて只今の初後仏慧円頓義斉等の与の釈を作られ候」(同)

③「約部の時は一代の教を五時に分つて五味に配し華厳部阿含部方等部般若部法華部
  と立てられ前四味為・後一為妙と判じて」(同)

④の前提:「次に絶待妙と申すは開会の法門にて」(P377)

④「「諸水入海・同一鹹味・諸智入如実智・失本名字」等と釈して本の名字を一言
  も呼び顕す可らずと釈せられて候なり、」(同)


そして④の絶待妙の立場を誤解して、どの経典の修行も法華経の一部だと思って修行
すればよいとの見解について、「堕地獄の義」、「地獄に堕す可き邪見の悪義なり」、
「皆大地獄に堕つ」などと本章では繰り返し、手厳しく批判されている。


ここが分かると大聖人の仏法は、すっきり。はっきり。本迹とか、他経典のことをど
うして大切にするのかも、全部が。当たり前っちゃあ、当たり前の考え方なんだけど。
信仰を真面目に考えてみようというリアリティのない人には、なかなか思いつかない
考え方だよね。悪口で「西暦を使ってるくせにキリスト教に文句を言ってるのはおか
しい!とかね。(笑)

では、なぜ、これを秘密になんてしなければならなかったのかな。


  • [24]
  • 下のNo.21の説明が分かりにくいので図にしてみたの。

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時49分26秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月29日(木)10時53分26秒
   ★
下のNo.21の説明が分かりにくいので図にしてみたの。

3つを合わせて考えると、天台宗への批判が浮き彫りになって、
その内容からすると、真言宗を擁護する理由すら崩壊してたことを、
隠されていたんだなってことがよく分かるってこと。


  • [23]
  • No.022 【番外・法門編】③

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時45分32秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月28日(水)20時14分46秒
   ★
No.022 【番外・法門編】③


でも安心してね。大聖人の他の御書を見ると書いてあるから。ずっと後になったら書
いてくれたのかって。ところがそうではないんだよ。驚くことに、もっと前になの。
最初期の御書を見ると、なんと、それが書いてあるから。
どうしてって思う前によく読んでみよう。

34歳の時に書かれた「諸宗問答抄」(真蹟は無い。日代写本あり。)には、当時の天
台宗を批判してて、上の御書と同じ議論を出している。他の経典も法華経だと思って
修行すれば別にいいんじゃないのかと。その疑問に対して、丁寧に述べられてるんだ。

引用された文証も多数。結論は天台宗を再興した妙楽大師の「弘決」。


「相待・絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり、況や復余をや」
 (諸宗問答抄、P377)真蹟なし。


具体的な内容はあとにするとして、まず説明をば。
そこで1頁以上にわたって道理から詳しく説明されている。こっちでは全然秘密じゃ
ないよ。どうして、これが秘密なのって思うぐらい。これが秘密にしなくちゃいけな
いようなことなのか。なぜなのか。それは、こっちの最初期の御書には、それが謗法
だと明確に言ってるからだよ。そこも後の御書と違う点なんだよ。


「堕地獄の義にて有るなり」(同、P377)、「皆大地獄に堕つべし」(同頁)だと。


真蹟がないからなんて馬鹿にしてはいけないよ。開目抄でも言ってるから。厳しく
言われてる。その思いは当然だよね。勉強するにはこっちのが分かりやすいから出し
たの。開目抄でだって、この文証は出てくるから。増上慢の人の考え方はこうだって。
そして、こういうことを言ってる邪宗こそが、人びとを不幸にしている原因だと言っ
てるの。それを大聖人お一人が知ったんだと言われてるんだから。

実は、ここの部分は日本の天台宗の考え方を深く批判してるわけだよ。立宗から2年
後の御書にこんなことを書かれてるんだけど、難しいことをいろいろと全部言っても
話に耳も傾けてくれないだろ。彼此の理解に差がありすぎるんだ。だから、その7年
後と言われる「唱法華題目抄」には、そういうトーンは伏せることにしたんだよ。
もし、天台宗批判を前面にしていたら、それを見たら各寺の人たちが、快く大聖人に
立正安国論を書くのに諸経典を貸してくれたかな。そんなわけがないよね。


なぜって、だから戦略だって。最初に書いてなくて、後から出したんなら、大聖人は
知らなかったのかって疑われるけど、最初に書いてて、後で伏せたんなら、隠したと
しか言いようがないだろ。というか、大聖人が自分で「且つは秘し」って言ってるわ。

これがどういうことを意味するのかというと。―― そこをよく考えてほしいの。

この「諸宗問答抄」では、真言宗の批判にも少し触れているんだ。「次に真言宗の法
門は・・・汝外道に同ず如何と云う可きなり。」(P381~382)と、已今当の論理や
真言宗の大日経の位置づけや、宗旨の論理の破綻について、少し触れられてるんだ。
歴史的な観点からはまだ述べられてないけど、ここの批判だけでも十分な気もする。

後年の慈覚がどうとか智証がどうとか、どうして真言宗があんなに堕ちていってしま
ったのか、そこまで詳しくは述べてはいないけど。詳細なことは、後年に勉強したこ
とも加わったのかなとも想像できるけどね。なにせ天台が真言に落ちたことについて、
さらなる教学の深化を門下に託した御書があるぐらいなのだから。

ま、直接的な真言宗の批判はともかくだ、要は後に秘密にした答えがあるってこと。

こうなるとだね、「諸宗問答抄」が、仮に(仮にだよ)偽書であっても無関係だわ。
他の御書には秘密だって書かれてた文証が、正確に書いてくれてある偽書だなんて、
なんて気の利きいた偽書なんだろうか。だって、論証してる文証は変わらないから。

同様の質問は「一代聖教大意」にも乗せられている。こっちは法華経以前の経典にも
成仏できることが説かれてる所もあるよねって。そしてそこでも答えは、秘密だとは
っきり言われている。もうこうなるとあれだね、すごいことだよね。


「答う予の習い伝うる処の法門此の答に顕るべし。此の答に法華経の諸経に超過し又
 諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし秘蔵の故に顕露に書さず。」
 (一代聖教大意、P401) 真蹟無し、日目上人写本あり。


「唱法華題目抄」(39歳)や「一代聖教大意」(37歳)に伏せられた天台・真言へ
の論難についての根拠、その答えは、数年前の「諸宗問答抄」(34歳)に記されてる。
たとえ、これらの御書を著した年月が異なり、研究の結果、順番が変わるようなこと
があっても、先の二つの御書で、秘密にしたという文言があることは変えられない。

つまり例えば「唱法華題目抄」にある、“爾前の円は絶対妙に同ぜず”っていう言葉を
無くすことなんて出来ないし、その意味が「諸宗問答抄」を読めば、まるで解説書の
ようによく分かるってだけのことだからね。そして、この「唱法華題目抄」にもこの
問題が溶けたことで、天台大師が著述された六十巻の真意がようやく分かったと言わ
れてるのだよ。法華経理解への足かせが外れたってことだよね。

その真実を疑う人は、目をよおく開いて見てみてね。


「爾前の円をば法華に同ずれども但法華経の二妙の中の相待妙に同じて絶待妙には
 同ぜず、此の四の道理を相対して六十巻をかんがうれば狐疑の冰解けたり」
 (唱法華題目抄、P12)


ここまで、ここまで大聖人が言われてるのに、諸宗の人の目はどうなってるのやら。

そしてまた、これらの御書の記載は、事実、戦略があって伏せていたということその
ものだから、変えようがない。その答えとなる引用文は、たとえ執筆の順番が異なろ
うが、「諸宗問答抄」に書いてあるんだし、それ自体を隠さねばならない理由なんて、
布教の都合上以外には見当たりそうにはない。少なくても私には。

それでは、どんなことが書いてあったのか。

唱法華題目抄に文証は秘密とされた4つの意義。天台大師の考え方について大聖人が
解き明かした理解の仕方を説明してるの。約教とか約部とか、文章だとわかりにくい
ので記号で表してみることにしたけど、やっぱ、本文も読まないと分からないかも。





  • [22]
  • No.021 【番外・法門編】②

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時44分25秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月27日(火)23時14分49秒
   ★
No.021 【番外・法門編】②


それで大聖人は、そんな見解に怒ってるんだよ。そんなことあるかいって。法華経
を修行するのに、どうして浄土経典の仏の名前を唱えなきゃならないんだって。

でもそのおかしくも不思議なことは、当時ではなんと常識だったんだ。御書にも、
あっちこっちに出てくるよ。大聖人は、いつも法華経は法華経で修行しろとか言わ
なくちゃならなかったし、門下からの「念仏を唱えても法華経の修行だって聞きま
したっ」との質問にも、「法華経を修行したいんなら、まず法華経を修行しろ。」
と答えなくちゃならなかったの。考えてみれば不思議な話題に付き合って、ずっと
そうやって指導されてるんだ。

ここでは一つだけ。


「問う世間の念仏者なんどの申す様は此身にて法華経なんどを破する事は争か候べ
 き。念仏を申すもとくとく極楽世界に参りて法華経をさとらんが為なり。又或は
 云く法華経は不浄の身にては叶ひがたし恐れもあり念仏は不浄をも嫌はねばこそ
 申し候へなんど申すはいかん。答えて云く此の四五年の程は世間の有智無智を嫌
 はず此の義をばさなんめりと思いて過る程に日蓮一代聖教をあらあら引き見るに
 いまだ此の二義の文を勘へ出さず」 (題目弥陀名号勝劣事、P112) 真蹟なし


世間の念仏者が言うのは、争うつもりなんかなくて、念仏を唱えるのもやがて法華経
を悟るためだし、法華経を修行するには自分たちは不浄の身だから身の丈に合わない
んだとか、自分を蔑んだような分けのわからん理由で浄土経典を修行してたって。
そういうことを最近の念仏者は言うようになってきたと。ここ4、5年って言ってる
のは「破良観等御書」と合わせると、彼らは大聖人に責められてから他宗への悪口、
つまり教義批判をしなくなってしまったんだって。彼らも昔は、専修念仏だと積極的
に他宗の悪口を言い、絶対に他宗を認めなかったのに、大聖人に数年も責められたら、
「別にいいやん」的な、そんな言い分に逃げ出したってこと。ずるいって。現代の浄
土宗の人が昔を聞いたら、びっくりだよ。もともと自分たちが他宗派をどれほど攻撃
してきた宗教なのかって。浄土宗がそんな風にへこたれたのは大聖人の功績なんだよ。


そうやって念仏を唱えるのが法華経の修行だとする教義が、世間では当然だったんだ。
浄土宗の人だけじゃなくて、みんなそうだった。天台宗でさえそうだった。なぜかっ
て、天台大師がそうだと言ってるんだからと、そんなふうに理解されてきたんだ。
これだよね。これだったら、大聖人がどれだけ法華経が大切だって言っても、みんな、
「それはそれとして、他の修行でもいいではないですか」ってなってしまう。

大聖人が、幼少のころに、天台大師や法華経の考え方に共感して、諸経の勝劣をほぼ
知ることになったのに、他宗の修行を違うとは、おいそれとは言えなかった理由だよ。
つまり、修学時代、仮に、法華経が何よりも大切だと考えてたとしても、念仏の修行
がなぜ悪いのかまでを当時の人に納得させられるほど論理的に説明できなかったんだ。
今の人から見れば、不思議な同時並行だけど、世間は、そんな時代だったんだね。
法華経が最優先で、真言の大日経も、浄土の経典も説く内容は全然ダメであっても、
だめだからこそ法華経の修行として、大日如来でも、阿弥陀でもいいんだと。(笑)

それが上の「題目弥陀名号勝劣事」で説かれた「此の義」だよ。それを数多見るって。
それに悩んだんだよ。わけが分からんって。十宗のどれが本当なのかって。そして誓
願のままに、諸宗の非を日蓮大聖人が一人で知ったんだと。単に諸宗の悪い点だった
ら、それまでに多くの人が批判してるからね。開目抄でもどこでも、大聖人お一人が
諸宗派の非を知ったっていうのはそういうことだよ。その解釈のどこがおかしいのか。
それこそが僻案なんだとして、立宗後に浄土宗を責めてるんだから、実は立宗時には
天台宗も、真言宗も、同じく、誤っているってことが分かっていたってことなんだ。


では大聖人は御書でどう言われてるのか。
具体的に、それまでの諸宗がどのように天台大師の解釈を見誤っていたというのか。
間違ってる!おかしい!って思いつきで言うだけだったら、誰でもできる。法門の誤
りをどう説明できるのか、それが大聖人だよ。

実はそれは、ちょこっと大聖人は秘密にされてる。

法華経とかについて、天台大師が「開会(かいえ)」って法門を説かれてるんだ。
平たく言うと、それまでの諸経典の内容は真実じゃないけど、法華経の立場から開い
た心で見れば、全てが真実になるんだってこと。なんのことかって。たとえば、大乗
経や小乗経の比較だと面倒だから、もっと外に目をやって、キリストの生誕日を元に
した「西暦」という年の数えかたがあるよね。もしもこれをキリスト教の教義の一つ
だと言われて西暦を出されたら困るけど、そういうのは度外視して使ってるよね。
そんなこと当たり前だと思うけど、イスラム圏の国ではこれを嫌って、未だに太陰暦
を使ってる国も多いのよ。

私達は御書を研鑽するのにも、仏法者の立場から西暦を使うしね。でも、それは謗法
じゃないの。理由は、だれも西暦を見るたびにキリストの教えを思い浮かべないから。
西暦のほうが便利だし、誰にも仏法を弘めるのに誤解を与えることもないから、年の
数え方として使うだけ。元の意味は消滅させて新たに有意義に使う。そういうのを
「開会」っていうんだ。意味を開くって感じかな。

ほぼ同じような概念に、「絶待妙」と「相待妙」という法門があるの。というか、
私には「開会」との違いは分かんない。「相待妙」は、法華経がその他の教えと比較
して優れてるよっていう比較なんだけど、こっちは要するに普通の比較だね。もう一
方の「絶待妙」は「開会」と同じ意味で、比較なんかしないの。全部、法華経の立場
で考えるから、他の教えなんて存在しない。法華経の意義からの視点しかないから。

それで大聖人以前の諸宗は、っていうか現代でもまだ誤解してるんだけど (^^;)。
絶待妙の考え方だと、念仏でもいいんだって、そう仏法を理解してたの。
天台大師がそう言われてるんだから、絶待妙で見ると諸経典も法華経なのだと。

大聖人が真言宗と未分化だったとよく引き合いに出されるのが、38歳の「守護国家論」
(真蹟曽存)なんだわ。法華経と真言宗を並べてあるとか言われてる。その内容は、
またにして、要するにややこしいことが書いてあるの。だからこの時代の大聖人は、
まだ真言宗が悪いとは知らなかったんじゃないのっていうのが、変な学者の説。

でもほとんど同じ頃の39歳の頃に書かれた「唱法華題目抄」(日興上人の写本が一
部あり)には、大日経は駄目だと書いてあるんだ。それで「唱法華題目抄」のほうは、
もっと後の御書じゃないのって憶測する学者もいるんだけど。彼も読んでないから。
どっちもほぼ同じ時期なんだよ。むしろ立正安国論のあとに来たらおかしいわ。

その大日経を批判してる「唱法華題目抄」には、こういう質問があるの。
法華経以外の諸経典も、法華経の絶待妙の立場から見るなら、同じ法華経になるので
はないのかと。そんな疑問に答えられている。要するに、たとえ他の経典が説く修行
をしても法華経につながる修行だと言えるのだと、天台大師も、伝教も大師もそう言
って法華経以外の修行もやってたじゃないかと。ここまで私が繰り返し言ってきたこ
とと同じだよね。

その御書には、これについては日本の天台宗でも山門派と園城寺派でも見解が異なり、
争い続けてきたんだってことを述べられてる。しかも、大聖人はこの問題に結論を持
っていると言われてるんだ。誰も知らないこと。大聖人は答えを知ってるんだって。


「但し予が流の義には不審晴れておぼえ候」(唱法華題目抄、P12)だと。


天台大師が言う立て分けを、四つの観点から簡単に説明されている。だけども!


「一つ一つの証文は且つは秘し且つは繁き故に之を載せず」(同)


と要するに書かないと結ばれている。
いちいち書かないよと。秘密にしておくんだと。なぜ―――、秘密なの。ここ、すご
く大切なのに。でも、とにかく秘密なの。書いてないんだよ。

わっはっはっは。(壊れてないから。)答えはあるので、御安心してね。

だいたい何故それが秘密なのか。この唱法華題目抄は、御本尊の作り方まで詳細に述
べられてる、至れり尽くせりの御書なんだよ。それでその4つの観点についてもだい
たいは述べられてるんだ。約教と約部とかに分けて、爾前の円は絶待妙と同じとしな
いって、なのに、その「根拠」、文証だけを秘密にするんだって、どういうこと。
中身はだいたい教えてくれるのに、文証だけは秘密って、・・・これをだ、布教戦略
と言わずにして、なんと表現すればいいのって。


♪あっちや、こっちでは、秘密だって言って、けんもホロロなのに、別の御書には、
 くわし~~く書かれてあるぅぅぅ。それは、何故かな~。♪ (ふざけてません)





  • [21]
  • No.020 【番外・法門編】①

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時42分42秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月27日(火)00時21分54秒
   ★
No.020 【番外・法門編】①


やっぱりここで、大聖人の法門の大切なところを、数回に割って書いておこうっと。
諸宗の学者たち、みんなが見落としていることだよ。詳細を話すと長くなるのでそう
いうのは後回し。真言宗の戦略とかそんなのもあとで。とにかく今はこれなの。

報恩抄をやるっていうのに、全然、違う御書じゃないかって。しかも、ここで言うべ
きことでもないんだけど、だって、もうここで言っておかないと、この後のこととか
も誤解が先に立って、全然、聞く耳を持たないだろうし。

世の中で大聖人が修学時代に法華経なんか信じてなかったって根強く思われてるのは、
念仏を唱えてたって御書があるからだよ。これってわかりやすい話だからね。それと
修学時代にもなんかそんなのがあったって。それらがごっちゃになってるんだ。
まずそこからだね。

当時の人は、みんな念仏を唱えていたの。おそらく大聖人も、ほんの子供の時には
そうだったろうね。以下の御書では、出家した後から振り返って、心では違うと思っ
てたのどうか、それは微妙な感じの表現なんだけど、みんながそうすることを願って
たから、幼少の時には念仏を唱えてたことを述べられてるんだ。


「日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟を
 きたり、此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し
 程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し
 程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす、」
 (妙法比丘尼御返事、P1407) 真蹟なし、録内。


ただね。表現が微妙過ぎて要注意なんだけどね。文章では、いつまで唱えてたのか
分からないんだ。周囲の人に合わせたというのも曖昧だけど、それは幼少の時なの、
か、大人になったら違うのか。なにせ、「幼少より」の言葉は、大人になってから
の期間も含まれてるはずだと想像させるのに、でもそれから、「いささかの事」が
起こって、それを疑って、一つの願いを立てたって、それも幼少期の話だからね。

それは、この御書のこの後の続きに、12歳から16歳までってあるのでも分かる。


「日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗・成
 実宗律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有り
 ときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり、此等の宗宗・枝葉をばこまかに習は
 ずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分にはしりまはり十二十六の
 年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等
 の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に・一の不思議あり、」(同、P1407)


文章の順だと、「いささかの事」が12歳以前。「一つの願い」が12歳のときの虚空
蔵菩薩に立てた誓願ってことだよ。ここでとても大切なのが、その願いっていうのが、
まず「いささかの事」があって、念仏を唱えることへの疑いを持ったからなんだって。
それで「一つの願い」をするようになったって、そう、きちんと書いてあるよね。


別の御書で大聖人は、仏法を習い始めたときから、死んでいく人の死に顔について、
深く思うところがあったってあるんだわ。それを知るのが最初の念願なんだって。


「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく」
 (妙法尼御前御返事、P1404) 真蹟あり。


これ以上は、本題が逸れるから、ここでは省略するけど、ぼーと読めば、幼少期に唱
えていただけでなく、大人になっても念仏を唱えてたみたいに読めるけど、実はそこ
までは言ってないの。御書の趣旨はそういうことではなくて、子供の時に、そういう
ことが疑問になったので、修学して解決したいって思ったってことだよ。


もう一つ。修学時代に念仏を唱えてた証拠として、いつも出される御書がこれ。これも
初めて聞いて誤解するんならともかく、全文を読んでそんな勘違いする人が学者の看
板を掲げてるってこと自体が恥ずかしいよ。まず全文を読んでみたのかと。


「南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり、日蓮幼少の時習
 いそこなひの天台宗真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の間ありしなり、」
 (題目弥陀名号勝劣事、P115)真蹟なし、録内。


大聖人は、念仏も題目も同じだと間違った人に数十年間も教えられてきたんだって。
教えられてきたって言ってるんだから、念仏を唱えていただろうってわけね。そう
思う人って、なんなんだろね。そんなこと言ってないのに。ここは大聖人の法門を
読み解く上で、とても大切なので、もう一度、前後まで含めて出してみるね。


「弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏には、
 ならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず
 、妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿
 弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり、日蓮幼少の時習いそ
 こなひの天台宗真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の間ありしなり、是れ
 存外の僻案なり但し人師の釈の中に一体と見えたる釈どもあまた侍る、彼は観心
 の釈か或は仏の所証の法門につけて述たるを今の人弁へずして全体一なりと思い
 て人を僻人に思うなり」(題目弥陀名号勝劣事、P115)真蹟なし、録内。


ここで大聖人は何を言いたかったのかな。最初に、阿弥陀仏も法華経を唱えて仏に
なったと言ってるの。法華経が能開、阿弥陀が所開、つまり法華経での開会のこと
を言ってるんだ。その開会を正しく知らないで物知り顔に、開会したんだから念仏
をやっても法華経になるんだよと教えられてきたんだって、大聖人ではなく、彼ら
がそう言ってるの。諸学者の想像だとさ、これは修学時代のことだし、言われて反
論をしたとかも書いてないから、それなら大聖人もきっと唱えてきたんだろうって
彼らは想像で決めつけてるんだよ。大聖人は修学時代に反論しなかったはずだとか。

言っておくけど、私にとって、大聖人が立宗前に念仏を修行しようと真言を極めよ
うと、 そんなの、どうでもいい話なの。だけど、ここは違うの!

本当に、ここの文章は絶対に、そういう意味とは違うから。なぜこだわるのかって
いうと、そういう学者さんの読み方はさ、「此の義」ってのが大聖人にとって、ど
れだけ悩ましい課題だったのかが分かってないから、ここでこういう風に取り上げ
てる意味が分かってないんだよ。全く大切なことが分からずに些事にこだわってる。

幼少の時に教えられたの。その解決にひたすら数十年間とりくんできましたってこ
とを言ってるんだよ。

大聖人は「これこそが言葉に出来ないほどの誤りだ」と指摘してて、この誤解に基
づく解釈がこれまでの人師の釈には無数にあるんだと。そう言われてるよね。実は
ここに全ての答えが書いてあるんだけど。

とりえあえず、これが当時の人びとの不思議な誤解だったんだよ。つまり、法華経
は素晴らしいけど難しい。でも法華経は「開会」したら、全部が法華経になるんだ
から念仏を唱えても法華経を修行したことになるんだと。だれが言ってるのって、
天台大師が言ってることにされちゃってるんだよ。だから天台宗の人が念仏を唱え
ても天台宗としてもオッケーなわけ。変だと言えば変だけど根が深いんだよ。

それでそういうのがおかしいんじゃないのって気づいて、死んでいく人を調べてみ
たら、やっぱりだと思うほどに納得して、子供の時に事実上で解決したってのに。
それなのに、歳を経てから喜んで念仏の修行をやるわけがないだろ。





  • [20]
  • No.019 【生い立ち編】⑭

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時41分23秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月26日(月)00時13分18秒
   ★
No.019 【生い立ち編】⑭


もう一度出してみる。

「法然善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候いき、こ
 のごろの人の申すもこれにすぎず、」 (南条兵衛七郎殿御書、P1498)真蹟現存。

大聖人が、法然や善導など、当時の浄土宗の人が知っていたであろう知識の全てを、
わずか17、18歳で知ってたって言われてるの。「これにすぎず」ってあるものね。
この「南条兵衛七郎殿御書」は真蹟があるから、偽書ということは、まずないね。
よっぽど筆跡を真似るマニアックな人がいたら別だけど。だけど、たとえそこまでの
可能性を考えたとしても、この御書の重要性は少しも揺るがないんだ。なぜならば、
「この御書こそが物的証拠だーっ」ていうよりも、状況を的確に気づかせてくれるっ
て意味で、もうね、十二分に重要なんだよ。

実際に考えて大聖人の勉強量はそれぐらいの速度でなければ話に辻褄が合わないんだ。
そうでなかったら、17、18歳って、鎌倉に遊学したばっかりの年だから、そのときに
多くの経典を初めて目にしました、天台大師の著作もみて17歳で考え始めてすぐに分
かりましたってことは、絶対にそんなことないだろってツッコミを入れたくなるよね。
ということはだ、必然的に、遊学以前に相当な勉強をしていたってことだよ。つまり
清澄寺には相当量の経典や人師の本があった。一切経とかいうほどでないにしても。

それで話の辻褄が合うんだ。17歳以前の何時から勉強したのか。出家した16歳?
それとも15歳くらいとか。違うだろ。1年や2年でなんとかなるもんか。12歳だよ。
だから12歳に誓って、そのすさまじさに感じ入った道善房が禁忌を犯してまで秘蔵の
経典を自由に手に取ることを許したとしたら、大聖人が恩義に感じているという事実
も他のことも全てつじつまが合う。それとも何かな、12歳に誓願を立てた大聖人が
12歳からぼーっとしてたと思うほうが正しいのか。そっちのほうがおかしいだろう。
もしそうだったら、わざわざ御書に12の時からとか書かないよ。恥ずかしいじゃん。

それに17歳、18歳のときには、大聖人は浄土宗ぐらいは、ほぼ知っていたというこ
とでならなければ、後ろがつかえて、あとの諸宗はどうするのってことになるんだ。
浄土宗から調べていったことが御書に書いてあるんだけど、当時の諸宗って十宗もあ
るんだよ。その中でも浄土宗と禅宗は、まだ他愛もない部類なんだって。なぜって、
私が勝手にいうんだけど、浄土宗は、本人たちは嘘をついてるつもりではないからね。
真面目に書いてあるんだから、論理も読みほどきやすい。反対に禅宗は思いつきで言
ってるところがほとんどだから、教義的には矛盾がいっぱい。そんなのと比べて、嘘
つきが智慧を絞って作り上げた真言宗や、それに憑りつかれた天台宗なんかの巧妙さ
とは、比較のしようもないぐらい。真言宗のトリック(インドの真言宗が中国を経て
日本に伝わってきたと言ってるんだけど、実はインドには真言宗は無いの。それは現
代では常識だけど、当時の人にとっては誰にも知りえるようなことじゃない)。それ
を大聖人は推理だけで論証したんだ。真言宗はインドにないはずだと。真言宗の教義
の骨子は、全部、インドではなくて、中国の天台大師のを盗んだだけのものだって。

法華経を宣揚してたはずの天台宗の人たちだって、すっかり騙されてしまってた。
開祖の伝教大師がそう言ってるからだ・・・と天台宗の人たちも思ってたわけだ。
実は、伝教大師がそんなこと言ってないし、そんな風にも思ってないというのは、大
聖人によって初めて明らかにされた事実で、情けない限りだけど、調べても調べても、
少しぐらいの智者ぐらいでは知りえなかった歴史の真実なんだって。中国の天台大師
はどうなのかって言うと、天台大師が生きてる時代には、インドにもどこにも真言宗
は存在していないからね。真言宗の原型がインドで出来たのは7世紀のことなんだよ。
六世紀の天台大師はもちろん知らない。釈尊なんておよそ無関係なんだ。真言宗の
大日経とかは、ただのインド地方の呪術信仰だったわけ。それが中国に入るときに、
中国の天台大師の論理をちゃっかり取り入れて成立したってわけ。インドの時から、
うちはそうでしたって顔をしたってわけだよ。インドの文字を使ってかっこよく。
そりゃ、言ってることが法華経の理念と似てるはずだね。それを論証することがどれ
だけ大変だと思われるかな。

大聖人は日本に真言宗が伝わってきてからの400年間だけの書物だけではなく、中国
に真言宗が伝えられてからのあっちの600年間の人師の書は全部、あらあら把握した
って言われてるんだ。大聖人の御書での「あらあら」の使い方は怖いよ。御書の記述
はすごく正確を記されてるし、すごく謙虚でもあるんだわ。大聖人が「あらあら」っ
て言ったら、ほぼ全部だと思って間違いないわ。

そこまで勉強する人がいないくらい勉強して、ウソで創出された宗派だとされたの。
その他の宗派だって、昔からあった歴史のあるものは、それなりに勉強するのは大変
なはずだって想像できる。華厳経だってややこしいはずだよ。天台大師が一念三千を
説いたのも、華厳経典から重要な文を引用してる上で成り立ってるんだ。その数百年
も続いた論争を追うのが簡単なわけがないよ。馬鹿にして切り捨てるだけなら簡単だ
けど、彼の人びとを納得させるまで学習をするのって、ちょっと想像できないくらい
だったんだよ。大聖人の勉強量は、他宗の高僧らが、みんなが押し黙ってしまうほど
だったんだから。





  • [19]
  • No.018 【生い立ち編】⑬

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時40分26秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月25日(日)07時53分1秒
   ★
No.018 【生い立ち編】⑬


法然のすごいけど、それを理解した大聖人ってすごすぎると思わない? 何なの。
法然のことがそんなに好きだったの? いや、この調子で他の祖師も調べてるんだわ。
浄土宗にいる人たちよりも、よっぽど大聖人のほうが詳しく丹念に調べてるんだよ。
ちょっと他宗派をかじって悪口を見つけて言い並べてるような次元とはち・が・う、
てこと。それでもって、ため息が出るくらいなんだけど、ここも意味が分かってない
諸宗の学者さんたちってば、現代社会の知識が入れ放題のこの時代になっても、この
話題についていけない、法然の勘違いのレベルよりずっと下ってことなんだよ。

なんのことかって?

――いよいよ、それを書かなくちゃ。でも大丈夫なんだろか。ためらうわ。

いやいや。やっぱり、もうちょっと後に。そこに答えがみんなあるのに。
絶待妙と相待妙ぐらい知ってるよって、たいてい、みんなそう思ってるんだから。
大聖人がどう言われて、それがなぜそんなに大切で、何を秘密だと言われてるのか。

それが分かってないから、御書に真言の名目なんかがあると、「ああ、大聖人は、真
言宗の法門に好感を持ってるんだ」とか平気で言えるんだよ。大聖人は明確に言わて
るのに。御書が分かってたら恥ずかしくってそんなこと言えないから。大聖人が真言
宗の教義だと取り上げて、これは素晴らしいと宣揚したことなんか、人生の最初から
最後まで一度もないわ(笑)。宣揚してきたのは法華経だよ。法華経だって真言はあ
るからね。ていうか、インドの言葉を真言と言うんだから、法華経だって原典は全部、
真言なんだよ。それを御本尊に真言があるのを見て、真言宗に傾倒って・・。言って
ることに無理がありすぎるんだって。

大聖人が読んだ梵本の法華経はおそらく善無畏三蔵が持ってきたものだから。開目抄
の上巻の末尾に書いてあるだろ、宣揚してあるから。どうして現代の誰も彼もそこを
無視して飛ばしてしまうのか。目に入らないのか。真言師が持ってきたものだろうと、
善無畏をむちゃくちゃ馬鹿にしてても、その功績はどこまでも正しく評価して、そし
てそれを大切にして使われてるんだよ。それを。一人の人間として信用してるの。
大聖人には他宗に嫌悪感なんか、終生ないわ。人間が嫌いでこんな人生を選ばないっ
ていうの。


「あだをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並びに国主等をもたすけんがためにこそ申
 せ、かれ等のあだをなすはいよいよ不便にこそ候へ、」
 (高橋入道殿御返事、P1460)真蹟あり


だよ。勘違いが甚だしいのは、大聖人が「法難」を経て思想を深めて重書を著してい
ったと勝手に多くの学者が言ってるところだよ。御書のどこに、そんなことが書いて
あるっていうの。大聖人が重書の契機にされたのは、地震とか、彗星とかだよ。当時
の人心が動揺して、それをどんなふうに見てたのか、みんなが苦しんでるときに、そ
れを契機にされたんだろ。自分が法難で苦しんだのが契機なんじゃなくて、他の人が
苦し む社会事象が著作の契機だったんだよ。

ああ、もう、いろいろ話がおかしいから、つっこむ所がホント多すぎるわ。誰も言わ
ないのが不思議なんだけど、大聖人が他の誰とも違うのは、頑張ってたら法難が起き
て、その理由づけをしたんじゃないだろ。最初っから分かってたって開目抄に書いて
あるだろ。それが開目抄のテーマなんだし。分かってて、覚悟して、やったんだよ。
それを説明してるんだよ!開目抄はっっ。
それが私達みんなと違うところ。諸宗の学者は目を開いてもう一度読んでみて!
みんなから憎まれるって。知ってたの。最初から。それで、実際に憎まれたからって
浄土宗や真言宗の僧侶を憎むわけないだろうに。分かってたんだから。この「高橋入
道御返事」をみてよ。これが心にもないことをかっこつけて言ってるんではない証拠
が、これらの法門の研鑽の深さなんだよ。本当に心から侮ってたら、ここまで、こん
なにまで人生をかけて他宗のことを調べあげないから。もっと適当なところで馬鹿に
してるよ。大聖人はそうじゃないから。布教してあげたい人たちと、邪魔をしてくる
人たちが同じなんだよ。自分の命を狙った人たちに話をして、彼らが改宗して、門下
になっていったんだよ。 それを目指していったんだよ。


「いまだ此の事にあはざりし時よりかかる事あるべしと知りしかば今更いかなる事あ
 りとも人をあだむ心あるべからずとをもい候へば、此の心のいのりとなりて候やら
 んそこばくのなんをのがれて候、」(四条金吾釈迦仏供養事、1147)真蹟曽存。


それで絶待妙か。元の話に戻ると、これも誤解されてるからどこから話せばいいのか
なんだけど、とりあえず、日顕みたいな何でもかんでも絶待妙・相待妙だなんてのは
絶対にやるなよって、提唱者の天台大師がそう言ってることだけは紹介しとこうっと。
日顕のは、意味も分からずに、単に知ったかぶりで恥ずかしいだけだからね。そうい
うのをやりそうな奴がいるだろうなって、天台大師も予想して戒めたんだからね。

結論だけ言っておくと、他宗の教義も自由自在に使うの。大聖人は。他経の教義は、
絶待妙の立場だと、法華経の上とか下とか横とか内とか外の立ち場に並ぶのでなく、
立場とか看板とか完全に消滅するの。法華経を表現するのに使うってことなんだよ。

大聖人によると、それが分かってないから天台大師の言葉に諸宗は迷ってしまったん
だって。彼らは「ああ、大聖人は他経典のことも褒めてるわ」って。現代でも同じだ
けどね。

でもその話はまた今度に。今は法門のことじゃなく、大聖人子供のころの話をもっと
したいの。





  • [18]
  • No.017 【生い立ち編】⑫

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時39分22秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月24日(土)07時30分19秒
   ★
No.017 【生い立ち編】⑫


一切経をなんども見てたことは、次の御書にもあるもの。

「予正嘉文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を聞き見るに此の国の中に前
 代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の両難なり、」(強仁状御返事、P184)
 真蹟あり

正嘉元年のは岩本実相寺で、文永元年の彗星のあとにも一切経を見てるんだって。彗
星(7月)のあとに行ったのは安房の国方面つまり清澄寺周辺だからね。翌年には静
岡にも行ってるから、この「強仁状御返事」に書いてあるのは、どこの一切経なのか
断定までは出来ないけど、たぶんに清澄寺ってかんじもする。それはともかくだよ、
要するに何度も見てきてるってこと。

以上、清澄寺にどれほどの経典があったのかは分からないけど、貴重なものであった
のには変わりないし、規則だってあっただろう。それは入門者、正確には出家もまだ
していないんだから入門もしてないような、子供の大聖人が閲覧してよいものではな
かったはずなんだ。当時、修学の人がいなかったのなら、だいたい雰囲気は想像でき
る。自分たちが読みもしないなら、どうぞと言うと思うかな。ふつう。自分たちが読
みもしないほどの大切な経典だよ。権威の象徴。実際に経年劣化するし、店で売って
るものではなく、それぞれに縁起があって大切。それなら、勉強したいと子供がねだ
っても渡せるはずがない。それを道善房は許したんだ。勉強のことなんか何も分から
ないけど、必死になっている大聖人を見て不憫と思えるほど心を動かして、経蔵の鍵
か何かを渡したんだろう。それによって大聖人はずっと思いを寄せていた経典を閲覧
して、見ることができたんだ。

そして私は、証拠は他にもあるって言ったよね。なぜならば、本格的な勉強が16歳
のスタートだと、どうしてもあとで辻褄が合わないもの。
大聖人の学問の途中経過を記した御書があるの。

「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八 の時よりしりて候いき」
 (南条兵衛七郎殿御書、P1498)真蹟現存。

これって何げにすごくない? 浄土宗の開祖、法然とその中国の祖師の善導とかが書
いた法門のことは、17歳から18歳のときにはもう知ってたよと。さらっと書いてある
んだけどさ、この浄土宗の法然は、学問への探究態度がすごくて「智慧第一の法然房」
と比叡山などでも言われてた人なんだ。勉強量が半端ないので知れ渡ってる。大聖人
だってそれは御存知だよ。御書には、法然も17歳で一切経を5回も読み、天台大師の
著作、摩訶止観とか、法華玄義とかの60巻、諸宗の全てを知ったと言ってたんだって。

「日本国には法然上人浄土宗の高祖なり十七歳にして一切経を習極め天台六十巻に渡
 り、八宗を兼学して一代聖教の大意を得たりとののしり」(念仏無間地獄抄、P97)
 真蹟なし。

 ※ 念仏無間地獄抄 真蹟はないが、写本に三宝寺本、本満寺本が伝えられてる。

天台大師の止観とか玄義をだよ。法然はそれを全部読んでるの。大聖人は法然を決し
て侮ったりしてないから。それを認めてなお、別の御書では、たいしたことがないん
だと。あいつってば、読み方が謗法だから、どうとも思わないって言われてるんだ。
そしてこっちの御書では、その法然が生涯で考えたことぐらいは、17歳か18歳の
ときにはもう知ってたからねって言われてるの。

大聖人が清澄寺から、最初の鎌倉へ遊学に行ったのは、17歳だと言われてるんだよ。
17歳で留学して、初めて一切経に並ぶくらいの経典を見ることができて、天台大師
の著作もそれから学んで、それで浄土宗の法然の書き残した法門を把握したと言える
ほど勉強して、そのむこうにまだ中国の善導がいるの。この人の書いた法門、たぶん
それは梵字で書かれたものを翻訳したものになるのかな、それを把握してって、無理
無理、無理。ちょっと考えたら分かりそうなことだろ、これ。大聖人に無茶苦茶を期
待しすぎだよ。

大聖人が17歳、18歳で知っていたとされるのは、そういうことなの。世の中の誰
よりも知識量が豊富だと言われた日本の法然。そしてその根拠となる中国の善導。彼
らが知ってるのは天台大師だけじゃないからね。彼らの著作には当然ながら竜樹菩薩
や中国のお歴々の見解が登場するの。その知見の深さがどれくらいって、これまでも
法然の邪義に戦いを挑んだ天台宗の人たちがいたんだけど誰も勝てなかったんだから。

16歳デビューですなんて無理なんだって。夢をみすぎ。屋台を引きながら三ツ星の
称号をもらおうとしてるようなもん。手を広げたら空を飛べるとでも思ってるぐらい。

法然の場合は、9歳でお寺で正式に勉強を始め、13歳~15歳では比叡山に行き、
17歳から一切経を5回は繰り返し読んだ。そして、43歳のときに善導の「観経の
疏」を読んで感銘を受けて浄土宗を始めたみたい。経典の学習時期が早いよね。法然
は17歳から一切経だけを読んでただけではなく、他の論師の著作を読み、他寺まで
足を延ばして、そうして、43歳だ、そのときに善導が語る法門をくみ取って、専修
念仏を始めた。それで大聖人は、その智慧第一と世間から讃えられた人の到達点を、
そんなぐらいはね、と言われてるんだ。法然がたどり着いた善導のこともみんな、彼
らが書き残した法門を把握していたよっていうのは、単に知ってたってぐらいでこん
な言い方をする大聖人じゃないからね。法然や善導が依典とした人たち、それらみん
なを理解して把握していたということになる。恐ろしい勉強量と言わざるを得ないん
だけど。

法然なんかなんて馬鹿にしてはいけない。御書には、法華経の相待妙・絶待妙の解釈
で比叡山や園城寺の天台宗の人たちでさえ理解していない法門について、法然はそこ
まで天台大師の意図を知っていただろうとされているんだ。

「此の意を存じ給いけるやらん法然上人も一向念仏の行者ながら選択と申す文には雑
 行難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処もあり委く見よ又慧心の往生要集
 にも法華経を除きたり、」(一代聖教大意、P405) 真蹟あり





  • [17]
  • No.016 【生い立ち編】⑪

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時37分53秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月23日(金)00時03分7秒
   ★
No.016 【生い立ち編】⑪


それでも開基から数百年も立つ寺院になら、全ての経典ではないにしても相当数の経
典があっても、おかしくはないはずだと思うの。大聖人の時代に修学の人がいないに
してもだよ。

大聖人が一切経を閲覧したのは、正嘉元年の地震の翌年(37歳)ごろから翌年か翌々
年(39歳)に岩本実相寺に入られたことが有名なんだ。立正安国論を提出される前に
検索されたらしいし、その間にいくつもの御書を書かれてる。だけど、この2年間が
一切経を初めて見た機会だったなんてことは普通にまずないんだから。少なくても、
比叡山に遊学中に見てたはずなんだわ。だから岩本実相寺が初見というのは間違い。
報恩抄にも修学中に「一切経を開きみるに」ってあったもんね。しかもとてもそれが、
初見って感じの悩みかたじゃなかったよね。もしも見たことが無いのなら、他宗に従
わない云々なんて決意じゃなしに、初めて見てみたらと謙虚に述べるはずだろう。本
尊問答抄になんか、たまたまの「一切の経論を勘て」だよ。初見の感動も何もない。

そして「清澄寺大衆中」は、真蹟はないけど、それを受けると、一切経を見て諸宗の
勝劣をほぼ知ったのは、12歳からそれほど離れていないことになる。右の袖に宝珠
を受け取って、そのおかげで「故に一切経を見候いしか」だからね。これ清澄寺だよ。

ちゃんと書いてあるのに、なぜこの文章をそのまま読まずに、不思議話にしてしまう
のか。こっちが現代人の視点に不思議な思いを抱くわ。なんでだろうと。そうして諸
宗の勝劣を知ったんだ。大聖人が一人だけだよ。道善房は絶対に知らないの。だって、
本尊問答抄の「一切の経論を勘て十宗に合せたるに」(本尊問答抄、P370)の続き
は、諸宗の失点を知ることができたんだと言ってて、そしてそのあとの文章は、

「此の事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて」 (同、P371)

だからね。大聖人一人だけが考えて知ったって、道善房が知らなかったことを暗に、
じゃなくて明白に述べてるんだけどね、これを知ったから、仏法と国が亡びないよう
に諸経の要点を集めに(今度は岩本実相寺に行って)、立正安国論を提出したってこ
と。

清澄寺に一切経があったのではないかという文献上の根拠は、あとで出すけど、
「強仁状御返事」に文永元年7月の彗星を見て、一切経を調べに行ったと書いてある
ことだよ。その9月には、他でもない、安房の清澄寺方面に行ってるんだからね。
うーんと、でもここは詳しい事跡は残ってないからね。でも私のす・い・そ・く。

つまり時系列からいうと、岩本実相寺やそれから鎌倉に遊学に行く前に一切経を読ん
で諸宗の勝劣をすでに知ってたということ。しかも比叡山で諸宗の教義をほぼ掌握し
たのでもないのは、他の証拠からも言えるんだけど、この「清澄寺大衆中」を読むと、
すでに12歳で智慧の宝珠をもらったら一切の経論を見ることができたと述べてるん
だから、清澄寺においてほぼ掌握したということになる。それじゃなんで立正安国論
を書くのに、清澄寺じゃなくて、岩本実相寺なんだよって思うかな。清澄寺は追い出
されたからだよ。様子を見に行くくらいならともかく、長期間の滞在だったらそれは
大問題だろ。敵対者から狙われてる身だってことをお忘れなく。それなら岩本実相寺
も危ないんじゃないかと思うかもしれないけど、そうではないのはずっと後で書くつ
もり。御書にある布教戦略の通りだからね。

それに岩本実相寺にある一切経というのは、日本で書き写したものではなく、慈覚大
師が唐から持ってきたもの。つまり正本にあたるの。きちんとした文章を書くのに、
正確を期して出来るだけ書写の間違いのない、正本の方を見たいと思うのは、人の常
というものだと推測できる。そういうわけで岩本実相寺なんだよ。





  • [16]
  • No.015 【生い立ち編】⑩

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時36分53秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月22日(木)00時21分31秒
   ★
No.015 【生い立ち編】⑩


当時の清澄寺がどんなだったのかは、正確には分からない。御書には当時の日本には
一万を超える寺院があったんだって。

「今又日本国一万一千三十七の寺並に三千一百三十二社の神」
(諌暁八幡抄、P583) 真蹟あり

当然、安房の国にも多くの寺院があったと思われるけど、清澄寺は、ちょっと格が違
うんだからね。千葉県の安房郡誌にある清澄寺の寺伝によると、清澄寺は12の僧房
を持つらしいから、地方の寺院とはいえ相当に大きな寺院だということなるんだ。
道善房はその一つの房の住職ということになるのかな。また慈覚大師(864年没)の
開基ということらしいから、それが本当だったら360年余の歴史がある古刹になる。

それなら、そこそこの量の経巻などがあってもおかしくはないんじゃない?

私は、清澄寺がどれほど大きな寺だとしても、「一切経」は、ないだろと思ってた。
一切経は、全部で5千巻とか7千巻とか言われてるけど、数がはっきりしないことか
らも、実数は数えきれないくらいにあるもんだろうと思ってたの。つまり比喩として
一切経と言ってるだけで、5千巻とか7千巻なんて、書くのも読むのもちょっと尋常じ
ゃない量だと思っていたから。でも調べてみたらそうでもないらしい。

一切経とは、中国唐代(730年)に「開元釈経録」として仏教の経律論が5048巻に、
まとめたのを言うんだって(見たことがないけど)。それで経典では5千巻もあるの
に、その書はわずかに20巻なんだって。なんだそれは。 それから「貞元新定釈教
目録」(800年)になると30巻。日本の大正から昭和初期ごろの出版物「大正新脩
大蔵経」には、11970巻の経典等が収められてて、目録とか図版を除いた現在の日本
の経典は全部で29巻で収まってるらしい。税込で470,880円(買えんわ!)。

「らしい」というのは、どれくらいの量か見たことなんかないからね。でも現代の書
籍にして20巻や30巻だったら、ちょおおと読むのは大変だけど、無理という量で
はない。そう、読むだけならね。書写するのも、一字を書くのに手を合わせてたんじ
ゃ大変だろうけど、正確さと伝えることを最重要視して書写すれば、何十年もかかる
というほどの数字ではない。写すだけに専念すれば一人でも出来るぐらい。いや、侮
っているわけではないよ。当時の事情と今日は違いすぎるからね。経典を見せてくれ
るなんて貴重なことだったろう。なぜってどうしても閲覧すれば傷むからね、和紙だ
って。管理もきちんとしないと書いた経巻も劣化していくから、和紙だって普通なら
何十年ももたない。日にも焼けるし、夜なら灯に使う油だって貴重品。しかも消しゴ
ムもないから基本的に文章を間違えれ、ばその紙全体を捨てることになる。書いたら
書いたで乾かして、ノリで張り合わせて先に書いた紙に繋げていかないといけないし、
新聞の切り貼りとOCRの作業が同時にくるようなものなんて、考えただけで大変そう
だわ。

要するに、神聖なものであると同時に、貴重で、かつ、基本、使ってるうちに劣化する
ものなの。それを、おいそれとは貸してくれないだろうって。少なければ少ないなり
に、多ければ多いなりに僧侶にとって権威でもあったはずで、お寺にとって大切なもの。
そんな貴重なものを、入門したての、出家もまだしていない小僧(しょうそう)にだよ、
軽々に貸し出してくれるものか、考えてみれば、誰にでもわかることだろう。





  • [15]
  • No.014 【生い立ち編】⑨

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2017年 1月 7日(土)09時35分47秒
  • 返信
 
報恩抄を書かれた大聖人
  投稿者:モウ
  投稿日:2016年12月21日(水)00時09分23秒
   ★
No.014 【生い立ち編】⑨


ここの御書、さっきの御書とほぼ同じ表現で、明るく輝く大きな宝珠を受けとって、
でもそこからが違う。右の袖に受け取ったんだって。そのおかげで一切経を見ること
が出来たんだって。ここまで具体的に書いてあれば、分からない人がおかしいよね。
ああ、私にだって何をもらったのかなんてもちろんわからないよお。でもこの御書を
送った兄弟子らが知らないはずはないからね。私たちには別に分からなくてもいいの。
具体的に何か、勉強できるための機会となる閲覧のパスポート足りえるもので、それ
が何でどんな形をしてるのかなんてささやかすぎて、どうでもいいぐらいの事だけど、
それを授かったおかげで、念願がかない、勉強することができたんだということは容
易に分かるよ。というか、書いてあること、そのまんまだからね。

一切経の閲覧とあるから、これは将来、つまり16歳に出家して遊学できるパスポート
だとも考えられるけど、そんなものを12歳の入ったばかりの子供に与えられっこな
いだろ。遊学の学費とか誰がそんなことを早々に決めてくれるというのか。よほど才
能があったとしても12歳で入門したばかりの子供に、留学が決まりましたなんてお
かしすぎる。それに後の勉強量から言うと、16歳で本格的な勉強がスタートして、
経典類を把握しだしたと考えたりするとつじつまが合わないんだ。無理がありすぎる。
だからこれは12歳から近くのことだよ。文章の通り、日本で第一の智者にしてほし
いとの思いを目の当たりにして、それがあまりに不憫だからと便宜を図ってくれたん
だと。それが大聖人にとっては、分不相応に思われていたことで、その最大の障壁を
突破したからこそ、最大の感謝になっている。単に子供が誓願だと言って祈ってるの
を見つけただけで、大人が節を曲げてまで便宜を図ることなんてないだろう。その思
いを裏付ける何かの行動、人の心を動かし感動をもたらすような行動があったから、
道善房は、折れざるを得なくて、その何かを与えたんだ。

それが何か。法華経とかかな。法華経は八巻とか十巻もあるのに。右の袖の中に入れ
られるかどうか、挑戦しないと、ちょっと分からないけど、たぶん無理がありそう。
だいたい一切経を知ることができたと言えるほどの知識量だよ。だいたい、子供が漢
字ばかりの法華経だけを全巻もらったって、たとえ暗唱は出来るようになっても、意
味なんか分からないから。同時に解説書が無ければ、誰が教えてくれるんだよ。

ところで入門したばかりの小さな子供に、経典とか、そんな貴重品を貸してくれるも
のだろうか。そう思うとそこだね。普通はどんな社会でも、必ず段階を踏まえて勉強
させるし、そのためには他の雑用が出来ることが大切だし、それらを含めての修学の
はずだろう。当時の経巻がどれほど大切なものかは言葉を尽くすまでもないことだ。
経典は大量生産よろしくサラサラと書き移すような類のものではもちろんない。御書
には、清澄寺の僧侶が法華経を書写している描写があるんだけど、一字を書くたびに、
三度祈る習慣があったみたいで、みながそうなのかは分からないけど、それくらい大
切なの。

「円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十
 巻をそらにをぼへ、五十年が間一日一夜に二部づつよまれしぞかし、かれをば皆人
 は仏になるべしと云云」(種種御振舞御書、P923) 録内。

たとえ経典を読むようになっても、修学用に準備された幾つも写本があるものからで
あって、貴重な書物を文字通りの小僧にすぐに貸し与えるなんてないよ。どの社会に
も権威があって、規則があるはずなんだ。まさか入山したての者に、経蔵にある貴重
な書物や経巻を自由に閲覧してよいなんて、まさかまさか、無いだろ。