• [0]
  • 喧嘩スレ2

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2017年 1月10日(火)12時58分50秒
 
喧嘩上等バチバチ大好きな方どうぞ!!ψ(`∇´)ψ
ただし「参加ルール」をしっかり読んで、ご参加ください( ^ ^ )/□

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

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  • [490]
  • みきさん

  • 投稿者:大河
  • 投稿日:2017年 4月 5日(水)11時15分50秒
  • 返信
 
ひとまず、みきさんのお話を「そのまま」聞きましょう。

世間を見渡せば、
わが子を殺す親もいます。
虐待はニュースでたくさんあります。
わが子に、お金をたかる親もいます。
わが娘を、金のために「身売り」する親もいます。

何故、このような酷い親の子として生まれたのかという「宿業」を見つめないと根本的解決はありませんし、

貴女のお母さまは、創価学会の指導を「正しく」
理解・実践できなかったと言えます。

ですから、創価学会の責任ではないのですが、

みきさんが、何故このような酷い親の子として生まれたのか
その宿命転換が可能なのも、創価学会の信仰なのです。



  • [489]
  • 日蓮聖人の発想

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 4月 2日(日)21時04分35秒
  • 編集済
  • 返信
 
 日蓮聖人は『刑部左衛門尉女房御返事』に、


  不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり


と教示している。この日蓮聖人の教示によれば日本国の人は「親不孝者」になってしまい、このような発想をする日蓮聖人は愚か者?。



  • [488]
  • 日蓮正宗門徒の発想

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 4月 2日(日)17時24分37秒
  • 返信
 
“創価学会のニセ本尊大量流布が原因で発生した阪神淡路大震災から22年が経過した”

(ある日蓮正宗門徒のブログ)

こちらで討論させていただいた御書「立正安国論」を同じように用いても、
このように教化されるのが日蓮正宗の愚かさであり、教団の将来性のなさを感じます。

  • [487]
  • 笑いますよ

  • 投稿者:みき
  • 投稿日:2017年 3月30日(木)23時08分54秒
  • 返信
 
泥棒すら庇うカルト集団!


  • [486]
  • 中大兄[近江宮に天の下治めたまひし天皇]の三山の歌1首

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月20日(月)09時56分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
 香久山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき狂った神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき 『万葉集』


                

  • [485]
  • 脱成長社会への展望

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月15日(水)18時57分17秒
  • 返信
 
 https://sojo-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_view_main_item_detail&item_id=942&item_no=1&page_id=13&block_id=21

  • [484]
  • 煩悩即菩提

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月13日(月)22時58分34秒
  • 編集済
  • 返信
 
 日蓮聖人は『当体義抄』に、

 法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此の迷悟の二法、二なりと雖も然も法性真如の一理なり。譬へば水精の玉の日輪に向かへば火を取り、月輪に向かへば水を取る、玉の体一なれども縁に随って其の功同じからざるが如ごとし。真如の妙理も亦複是の如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷ひと成り、善縁に遇へば悟りと成る。悟りは即ち法性なり、迷ひは即ち無明なり

と言っています。煩悩即菩提とは、体は同じでも働きが違うということではないでしょうか。日蓮聖人は、

 減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり。飢渇は大貪よりをこり、やくびゃうはぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる。

と言っています。「貪煩悩」は、戒めるべきものです。


 なお、愚人が言いたいのは、「これ以上、自然や生態系を破壊するのは止めましょう」です。

  • [483]
  • Re: 依正不二

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月12日(日)23時14分44秒
  • 返信
 
>>482

>  どうでしょうか?。先ずは「成長戦略/経済優先の政策」を見直すことが大事だと愚人は思う。

「成長戦略/経済優先の政策」は必要なことですよ。単に「見直す」と言われても何をどう見直すのか具体的な話が無ければ誰も同意出来ないでしょう。

具体案も無く「見直し」「チェンジ」と言う言葉だけで行われた政権交代の悲惨な結果を教訓にして考えなければならないのが現在の政治でしょう。
大聖人は生命活動を行う上での貪煩悩など「煩悩」を否定していません。むしろ、「煩悩即菩提」なのですから、生きる上での苦悩は悟りの縁になるのです。
何となく悪そうだから単に「見直し」を叫び「具体案は他人まかせ」で、より良い具体案を作る「苦悩」を避けるようでは仏法者では無いでしょう。

「人の心が澄めば、自然が澄みます。自然が澄めば、人の心が更に澄みます。人の心が澄めば更に自然が澄みます。」は、いいのですが、観念論的過ぎますし、「政策の見直し」の根拠にはなりません。

自然はあるがままにあるだけです。「依正不二」とは言っても、人類が消えても地震の原因である海洋プレートが止まったりはしないでしょう。
自然環境も我々の生命活動と同様に日々活動している事実を前提にして尚且つ、「自然が澄みます」を「自然災害の無い世界」と言っているなら、それは、死んだ世界ですよ。

我々の生命活動と同様に自然環境もその変化には必ず予兆があります。適切に予兆を捉えて対策を取れば、たとえ自然災害が起きても被害を抑えられる。と言うことでしょう。

末法に南無妙法蓮華経が流布するのが確実なのは、冬にインフルエンザの予兆があれば予防接種をする人が増えるのと同じぐらい当たり前の話と言う見方もあります。

  • [482]
  • 依正不二

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月12日(日)07時58分25秒
  • 編集済
  • 返信
 
 夫十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此をつくる。眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。 『瑞相御書』


 この文は人と環境/自然との不二を説いた文であるが、依報である環境/自然は影であり、正報である人は体であると而ニも示している。そして、古代中国思想の五行説に基づいて自然と人との相関/自然と人との合一を説く。

 この依正不二/天(自然)人合一という思想は、地球温暖化の問題もあって非常に重味を増しているように愚人は感じる。

 今日までの人の繁栄は、自然破壊/自然の犠牲の上に成り立っている。そして今日の日本国について言えば、安部晋三氏を首班とする内閣/行政府と自民党・公明党の連立与党が圧倒的多数を占める国会/立法府は、成長戦略の名のもとに経済優先の政策を推進している。

 この経済優先の政策とは、つまり人の貪煩悩を奮い立たせる政策である。(公明党は仏教徒を中心とした集りであったと記憶しているが、貪煩悩を奮い立たせる政策を遂行して良いのか?)人の貪煩悩/物欲を満足させる為に、自然を破壊し、自然との不調和をさらに進めて行こうというのである。

 はてさて、その先にあるものは何か。日蓮聖人の、

 眼根をば東方をもってこれをつくる。舌は南方、鼻は西方、耳は北方、身は四方、心は中央等、これをもってしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば、四方中央をどろうべし。されば国土やぶれんとするしるしには、まづ山くづれ、草木かれ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そうすれば天変あり。人の心をうごかせば地動す。

との自然と人との相関/自然と人との合一説に明らかなように更なる天変地異である。(しかしながら日蓮聖人によれば天変地異は、法華経流布の瑞相であると述べている)

 仏教は「彼あれば此れあり、此れあれば彼あり」との縁起を説いていますが、人と自然とは相関関係にああります。主体である人の心が荒廃すれば、自然が荒廃します。自然が荒廃すれば、更に人の心が荒廃します。人の心が更に荒廃すれば、自然が更に荒廃します。

 人の心が澄めば、自然が澄みます。自然が澄めば、人の心が更に澄みます。人の心が澄めば更に自然が澄みます。

 どうでしょうか?。先ずは「成長戦略/経済優先の政策」を見直すことが大事だと愚人は思う。

  • [481]
  • 天罰論②

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)23時09分30秒
  • 編集済
  • 返信
 
 日蓮聖人も「天人相関説」のうえから「災異」が起こるとしているが、文応元年の『立正安国論』の提出時にはまだ「天罰」の言葉は見えない。


 五戒破るれば此国土次第に衰へ、又重て五戒を持たずして此身の上に悪業を作れば、五戒の戒体破失して三途に入るべし。是凡夫の戒体也。『戒体即身成仏義』

 答えて曰く、仏法いまだ漢土に渡らざる前は、黄帝等五常を以て国を治む。その五常は、仏法渡りて後にこれを見れば、すなわち五戒なり。老子・孔子等もまた仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめんがために遣すところの三聖なり。夏の桀・殷の紂・周の幽等の、五常を破つて国を亡すは、すなわち五戒を破るに当るなり。また人身を受けて国主と成るは必ず五戒・十善に依る。外典は浅近の故に過去の修因・未来の得果を論ぜずといえども、五戒・十善を持ちて国王と成る。故に人五常を破ることあれば、上天変頻に顕れ、下地夭間侵すものなり。『災難興起由来』

 答えて曰く、彼の時もまた災難あり。云く、五常を破り、仏法を失いし者これあるが故なり。いわゆる周の宇文・元嵩等これなり。難じて曰く、今の世の災難も五常を破りしが故にこれ起るといわば、何ぞ必ずしも選択集流布の失に依らんや。答えて曰く、仏法已前に五常をもつて国を治むるは、遠く仏誓をもつて国を治むるなり。礼儀を破るは仏の出したまえる五戒を破るなり。『災難対治抄』


 これ等の文は、五戒(五常)を破戒すると戒体も破して天地人の陰陽五行説に基づく天人相関性が崩れて国土や人に災難が起こるという文である。『立正安国論』には、


 慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗皇帝の会昌元年、勅して章敬寺の鏡霜法師をして、諸寺において弥陀念仏の教を伝えしむ。寺毎に三日巡輪すること絶えず。同二年回鶻国の軍兵等、唐の堺を侵す。同三年、河北の節度使忽ち乱を起す。その後、大蕃国また命を拒み、回鶻国重ねて地を奪う。およそ兵乱は秦項の代に同じく、災火は邑里の際に起る。いかにいわんや、武宗大に仏法を破し、多く寺塔を滅す。乱を揆むること能わずして、遂にもつて事あり」と已上取意。」


とある。しかし、『立正安国論』提出から九年後の『立正安国論副状』においては、

 正嘉元年 太歳丁巳 八月二十三日戍亥の尅の大地震、日蓮諸経を引いてこれを勘うるに、念仏宗と禅宗等とに御帰依あるの故に、日本国中の守護の諸大善神、恚に依つて起す所の災なり。もし御対治なくんば、他国のために此の国を破らるべき悪瑞の由、勘文一通これを撰し、立正安国論と号し、正元二年 太歳庚申 七月十六日、宿屋入道に付して故最明寺入道殿にこれを進覧せしむ。


として、正嘉大地震を「天罰」としている。ここで、天災地変を「天罰」と観る日蓮聖人の遺文を数文示してみよう。


 国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等 悉 く来たってこの人をまぼる。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右無く此の大王を罰せず。但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。『四条金吾殿御返事』

 正嘉の大地震等の事は、去ぬる文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて、故最明寺入道殿へ奉る所の勘文立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛 逆 難と他国侵逼難起こるべしと 勘 へたり。『呵責謗法滅罪抄』

 所謂正嘉の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之逼責するなり。大集経に云はく、仁王経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。『聖人知三世事』

 而るに今の世は法華経を軽蔑するこ
と土の如く民の如し。真言の僻人等を 重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依って増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭孼を致す。 涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡す等是なり。『太田殿許御書』

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大 兵乱等の無量の大災難並びをこり、『新尼御前御返事』


 これ等の遺文を読むと、日蓮聖人は「天罰」の由縁を国主等の叛仏・叛法・叛僧としていることが解る。しかしながら、 叛仏・叛法・叛僧を「叛自然」と読み替えれば、天災地変は、人間の「自然破壊/自然との不調和」に対する天罰/天譴であると読む解くことが出来ると思う。

 これ以上、「自然破壊/自然との不調和」を人間が犯し続けたならば、


 但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。


との『四条金吾殿御返事』の文の如く、もっと大きな「天罰」によって、国土(人)が滅びることに成るかもしれない。日蓮聖人は云う、


 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。

と。もうこれ以上の自然破壊を改めて、速やかに自然との対話を進めれば、


 然れば即ち三界は皆仏国なり。仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。


とあるように、自然と人が調和した国土となり身心もまた法楽の姿となるのだ。


 董仲静曰く、

 国家論に道を失ふの敗有らんとすれば、而ち真先に乃ち災害を出して儲れを謎告し、自ら省みるを知らざれば、又怪異を出して以て之れを警催し、尚変ずるを知らざれば、而ち零敗乃ち至る。

  • [480]
  • これは何かのテストなのでしょうか?

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)19時31分12秒
  • 編集済
  • 返信
 

なぜ、今さら、そんなことをという気がしてなりません。

そういった方々が、いかにも「これが仏教というものだろう」と、どう語ろうが
彼らの自由でしょうけれども。

彼らは、仏教だと思って、自分の思いを重ねて学問的思考を述べてる、つもりな
だけではないでしょうか。

自分が信じてもいないことを、想像を逞しくして、自分は信じてはいないのだと、
半分は逃げ腰で、半分は昔の信仰者を侮っているのがなんとなく分かります。

なぜかというと。
日蓮大聖人を語るのならば、大聖人の思想に沿わなければなりません。

大聖人はどう言われていますか。

「日蓮は此因果にはあらず」(P960)
「日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」(P960)

です。
この佐渡御書だけでなく、顕謗法抄とか他の御書でも、実に因果論を自由に都合
よく解釈して自分の本当に言いたいことの説明に「使って」おられます。
なぜそんなことが許されるのかって。それが本来の意義だからです。
そこを分かってほしいのですが、再確認のためなのでしょうか。

仏教で説かれる通常の因果論を用いられているのは、世間に合わせて表現されて
いるに過ぎないのです。何度も言いますが、一念三千なのですから。
私達に罰を加える梵天や帝釈天も、全ての環境も、自分の己心の反映ですって。
それが完全に実在だと捉えてしまうと、一念じゃなくて、環境と自分の「二念三千
」になっていまいますよ。つまり、災難が当時の人びとの心にどう映っていたか、
そこ が重要なのです。というか、それだけが本来の意義なんですって。

今さら、現代人の私達の己心に、災害が人心の荒れた原因だなんて思えませんから。
仏法はもっとうまくできてるんですって。

大聖人は言われています。

「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて、本門の十界の因果をとき顕す」(P198)

すでに爾前迹門の十界の因果を破っているのに、どうしてそれを今さら強調する必要
があるのでしょうか。

大聖人の仏法の深さを全く知らない方々の話しなら聞き流せますが・・・。

(私、数日ほど所用でPCを離れますの、レス等はできません。)



  • [479]
  • 天罰論①

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)17時13分25秒
  • 編集済
  • 返信
 
 ★注意★ 災害を「天罰」とすることに嫌なおもいをなさる方や不快感を感じる方は読まないで下さい。

 なお殆ど他人の「論」の紹介です。


 最近、新潮新書刊 末木文美士著 『現代仏教論』を読んだ。この本の第一章『震災から仏教を考える』で氏は、震災を「天罰」との観点から述べている。この中で末木氏は、

 「仏教では縁起ということを言います。もし地震は自然現象で人間は関係ない、というのであれば、人間と自然とは無関係で、縁起的な関係がない、ということになります。でも、それは仏教的に考えてもおかしいと思います。人間も自然も相互に切り離せない関係の中に入っている。それが縁起ということではないでしょうか。」【同書23頁】

と延べ、

 「自然を人間と無関係だとして、自然への関心を失わせ、自然を疎外することになってしまいます。自然と対話しながら、自然に対してどのように対応したらよいのか、自然と一緒に考えていく姿勢が必要ではないでしょうか。」【同書23頁】

と述べている。此処で氏は、「人間と自然との相関関係」、日蓮聖人の遺文から言えば「依正不二」を延べていると愚人は読み解く。「天罰」について氏は、

 「僕は決して厳格な理論としての「天罰論」の立場に立つわけではないが、それでも、そのような人知を超えた何か、僕の用語でいう「冥」の領域を無視して、人間至上主義の傲慢に陥るよりは、「天罰」という言い方でも、「冥」の世界への畏れを持つ方に共感する。」【同書30・31頁】

 と延べている。氏は、東日本大震災発生時に「天罰論」を延べ論争を巻き起こしたそうだ。愚人も、人間至上主義を改める上から「冥」に対する畏れを持つことは必要であると思う。

 大正時代に発生した「関東大震災」の時に「天罰論」を述べた人がいる。実業家の渋沢栄一である。氏の「天罰論」を半沢健一氏の論文、『関東大震災とリスボン大地震―天譴論・内村鑑三・ヴォルテール』から紹介する。


関東大震災における言説で興味を惹かれるのは「天譴論」である。それは実業家渋沢栄一に発する。渋沢の天譴論から二つを次に掲げる(現代かな遣いに修正)。

 「日本は明治維新から僅々数十年を出ずして世界列強の班に入った。この長足の進歩は世界の均しく驚嘆するところである。と同時に我が国民の自ら顧みて衷心聊か自負する処が尠なくなかったと思う。私は近頃我が国民の態度が余り泰平に狎れ過ぎはしないかと思う。順調に進み平穏に終始すれば、勢い精神の弛緩するのは已むを得ない処かも知れないが、我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかったか、これは私の偏見であれば幸いであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的なものではなく、何か神業のように考えられてならない。即ち天譴というような自責の悔を感じない訳には行かない。」

 渋沢は忘れっぽい日本人に対して震災の一年後にこう書いている。

 「私は此震災を迷信的に解釈して、今時の国民は少し浮かれ過ぎるから天が斯様な罰を与えたもので、謂わば天譴ではないかとも考える。/要するに新春を迎えると共に、自然の空気、一般の気合が緊張して欲しいものである。己を中心として、人の揚足取りのみを得意とする様では、夫の恐ろしい天譴を余り早く忘れ過ぎたと見ねばなるまい。吾々国民は厚始)一新する事が必要である。」

 天譴とは何か。渋沢は天譴を日常語の「天罰」と同意に使っているが、語源を辿れば中国前漢時代の儒学者董 仲 舒に発するという。「天人相関説」の別称もある。その意味は、君主の政治的失敗に対して「天」が地上に警告、譴責を行い統治への反省を促すということである。日本では君主は天皇であるが,渋沢は注意深く天皇への譴責ではなく国民全体への譴責であると読みかえている。

 つまり震災は「天罰」であり「天譴」であるとの事である。この時の渋沢栄一の警告も空しく、伊勢湾台風・阪神淡路大震災・東日本大震災が起き、最近では熊本大地震が発生している。人間は自然/天に対する畏れを抱くべきであると愚人は思う。心を澄ませて自然/天からの声を聞くべきだと愚人は思う。 ー続くー

 

  • [478]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)14時14分11秒
  • 返信
 
大震災の日に 災害天罰論 を書かれるとのことですが、

亡くなられた方、行方不明の方、被災されたかた、現在でも避難生活を強いられている数十万人の方に対し、

単純に日蓮大聖人の文言を絡めた上で「天罰である」と論じるだけの

非礼な振る舞いのないよう心掛けて下さいね。

  • [477]
  • 東日本大震災

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)09時19分27秒
  • 編集済
  • 返信
 
 本日は東日本大震災から六年です。

 亡くなられた方々にお悔やみを申し上げると共に、行方不明の方、被災された方々の安寧を祈っています。


 本日は後程、3・11だからこそ災害天罰論について投稿してみたいと思います。嫌な思いをする方は、題名に【天罰論】・投稿者に【愚人】とありましたらスルーして下さい。

  • [476]
  • グラスルーツさん

  • 投稿者:自城魔突
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)08時45分7秒
  • 返信
 
同志誹謗楽しいですか????

>グラスルーツ :2017/03/10(金) 12:37:43 ID:y.GuJz5s0
>   あの人ほど、管理人にちくって泣きつく人見たことないよね。
>    居心地が良すぎて、バーチャルの極楽浄土を失いたくないんだね。
>    現実生活が全く駄目なことを物語っています。
>    哀れ~~~!

本当に哀れで可哀想な人だなぁ・・・

  • [475]
  • Re: 国主と民衆

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月11日(土)00時33分9秒
  • 返信
 
>>473

> 日蓮大聖人がこのような事実をご存じなかったはずがありません。

そうですね。
「国主の力」を認めつつも、過去の状況や経緯から帰依とかまでの過大な期待はしていなかったと思います。
立正安国論も謗法に関する部分がほとんどで、「正」である「法華経」には深くは触れてもいませんし、話全体は客への「折伏」ですから、結びは「客の帰依」になるしかないのですけど、主人の最後の言葉では正法誹謗により「不幸になる」「地獄に落ちる」で「汝早く~」ですから割と乱暴で淡白な感じにも受け取れ、立正安国論の中では「謗法退治と比べて帰依に関してはそんなに重視してないんじゃ?」と思ってもいます。

  • [474]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)23時30分21秒
  • 返信
 
>>469
>  御返事ありがとうございます。そのような捉え方もあるのかと勉強になりました。ありがとうございました。

私個人の捉え方と言うよりは一般的な捉え方になるかと思います。

立宗時に四箇格言で当時の仏教界を敵に回し、立正安国論で時頼の謗法を断罪して国主を敵に回しており、俗にいう「権威」「権力」を当初から大聖人は遠ざけていますから、「国主の威力による弘教」を考えていたのなら全て矛盾した行為にしかなりません。
『はじめから弘教に関しては「国主の威力」等に期待していない』と考えた方が自然でしょう。
このため、立正安国論で「国主の帰依」ははじめから必須条件では無かったと考えられます。

  • [473]
  • 国主と民衆

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)15時06分19秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>470 THJさん。

愚人さんは、「而二不二」の而二は理解できても不二であることが理解しづらいようです。

仮に国主が本で民衆が影にすぎないのであるとすれば、たしかに国主が帰依すれば
民衆が帰依するだろうといった発想も可能です。
しかし、現実には「国主」といえど、もともと民衆(凡夫)であったことには違いありません。
凡夫であっても、その時々の時勢で「国主」という立場になっただけのことですよね。

たとえ政治的に「国主」になったり、国を統べる「王」になったとしても
権威をもたない「民」によって時勢がひっくり返されることだってあるのが歴史的現実です。

一次的な権能にすぎない「国主」に対し正しい信仰とはいかなるものかを説くことと
その目的を「日蓮大聖人は政治的な布教が意図されていた」と解釈するための根拠として、
今回のように“歴代の法主が諌暁をされていた”という事実を関係づけるのも
無理があるように思います。

その理由として

1 平安時代以後、朝廷は天台を重んじたが「禁教」にした仏派はあっても淘汰はできなかった
2 幕府体制になった時代の「国主」(国主)には、特定の信仰を民衆に強制させる術がない
3 鎌倉時代をみただけでも「国主」は何人も変わっている

ことがあげられるでしょう。

日蓮大聖人がこのような事実をご存じなかったはずがありません。




  • [472]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)12時18分50秒
  • 編集済
  • 返信
 
>依正不二なれども、正は体・依は影です。生仏不二なれども、仏は植えて・生は田んぼです。 人法一箇なれども、法は本・人は迹です。

---

上記が愚人さん御主張の 而二不二 は「優劣」であるとの論拠になっていないとおもいますが、オバカな阿部日にも解りやすいようにもう少し説明をお願い致します。

/////////////////////

>天台大師・妙楽大師も五行説を取り入れています。日蓮聖人も取り入れていますね。

---

当時、一般的に用いられていた風習や教説を用いて、読み手に解りやすく説明をされる
ことはそんなに珍しいことではありません。
また、外典や外道の教えであっても仏法と重なる部分はあります。
(たとえば親孝行など)
ただ、そうであるからといって外典や外道の教えが仏教より勝っているという
根拠にはならないとおもいますがいかがでしょうか。

日蓮大聖人の御文を拝読される愚人さんは、たぶん天罰論の根拠として

「日蓮強盛にせめまいらせ候ゆへに 天此の国を罰すゆへに 此の疫病出現せり、
 他国より此の国を天をほせつけて責めらるべきに 両方の人あまた死ぬべきに
 天の御計らい としてまづ民を滅ぼして人の手足を切るがごとくして・・」(千日尼御前御返事)

等の御文を、用いて日蓮大聖人も「天」の存在を認めているとおっしゃるかもしれません。

もしそうであるなら、その旨お書き下さいね。






  • [471]
  • お願いしますよ先輩

  • 投稿者:自城魔突
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)08時57分32秒
  • 返信
 
>  今この板を見ると、長いものに巻かれてきた人たちが大聖人の正義である立正安国論で浮かれ騒ぐ。
>
>  バカバカしいですね。

けじめって言う言葉の意味、お分かりですか?
もう少し尊敬できるような人になってください。




  • [470]
  • Re: 国主に保護されて布教が進むのを思われてたの?

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)00時18分31秒
  • 返信
 
>>463

> 国主が信仰して、はい、終わりだなんて、どこにも書いてないですよ。

そのとおりですよね。
大聖人は弘教で、古代の中国思想のようなことは一つもしてないのですから。

立正安国論の執筆動機は「正嘉の大地震(1257年)」ですが、その原因を「時頼の出家(1256年)」とし、時頼の謗法を断罪しているのは明らかで、国主に取り入る感じが微塵も無いのが立正安国論です。
「為政者の傲慢」は今でいえば「謝ったら死ぬ病」ですから、立正安国論でどんなに道理を尽くして話しても、国主自身の謗法を断罪しているのですから国主が諌暁を素直に受け入れる要素は一つも無いわけです。

国主が諫暁を受け入れるかどうかは別にして、これ以上国主が謗法を続ければ経典にある国難が起こり民が苦しむため、「民のために国主を正す諌暁をする」民と共にある仏法者としての姿勢を明確に国主や世の人々に示した書であり、後世の仏法者が受け継ぐ姿勢ですね。
立正安国論は「民のため・陸続と続く地涌の菩薩たちのため」その先陣として大聖人が国主を諌暁しているもので、国主が少しでも気づけば、「後続の正法受持者を迫害から守ることが出来る」とは考えられたでしょうが、仏法者が行わなければ意味の無い弘教を「国主の威力に頼る」なんて考えられないのですよね。

そもそも「国主の威力による弘教」を考えていたなら、立宗(1253年)直後から国主への働きかけを始めていなけれおかしいことで、民への弘教を先にして、国主には7年も正式には何もしていないのは不自然なことでもあります。
四箇格言で当時の仏教界を敵に回し、立正安国論で時頼の謗法を断罪して国主を敵に回しても、正法を広めると覚悟した大聖人ですから、「国主の威力による弘教」と思えるような文証が仮にあるとして、立正安国論(1260年)以降には存在しないでしょう。

  • [469]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)00時11分43秒
  • 返信
 
 御返事ありがとうございます。そのような捉え方もあるのかと勉強になりました。ありがとうございました。

  • [468]
  • 阿部日ケ~ン(院政)氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月10日(金)00時09分36秒
  • 返信
 
 依正不二なれども、正は体・依は影です。

 生仏不二なれども、仏は植えて・生は田んぼです。

 人法一箇なれども、法は本・人は迹です。



 儒道の五行説を取り入れて作られたのが『提謂波利経』です。釈教が儒道を取り入れたのは佳いですね。因みに、天台大師・妙楽大師も五行説を取り入れています。日蓮聖人も取り入れていますね。



 日蓮聖人の災異説は、外道の説を取り入れたということなのでしょう。



  • [467]
  • モウ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 9日(木)23時13分38秒
  • 編集済
  • 返信
 
 モウ氏さんの日蓮聖人観を読ませて頂きました。そのような捉え方もあるのかと勉強になりました。ありがとうございました。

  • [466]
  • 余談になりますが・・

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月 9日(木)12時39分36秒
  • 編集済
  • 返信
 
>「日蓮宗ポータルサイト」を観ると「日蓮大菩薩」との呼称ではなく・・

説明が不明瞭ですみません。
日蓮宗といっても多数の門派がありますが、拙近隣の身延派の末寺では、
このようなのぼり旗を見かけます。
http://www.nobori-noren.com/shopdetail/000000001253/ct107/page1/brandname/

またこのような掛け軸が売られています。

http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r169403235#enlargeimg

  • [465]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月 9日(木)12時19分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
少々説明が荒いようですので確認をしたいとおもいます。

>而二不二のうち「不二」についての文です
>国王と民は而二であり勝劣があると・・・

どのような勝劣があるのでしょうか。具体的におっしゃってください。
ちなみに“而二不二”は「同じもの」を2つに区別しても差別はないということであって、而二であって不二ではないというのは而二不二にはなりませんよ。

簡単にいえば、10円玉に表と裏の区別はあっても、その価値に違いは無いというのが“而二不二”の考え方です。

/////////////////////////////

>「天罰論」であると愚人は思います

日蓮大聖人は、民衆が法華経を誹謗することで厄災が起こるのは「総罰」で
あるととかれています。
つまり、誰のせいでもなく民衆(国民)が原因だということですね。
また罰には4つあるとも説かれています。
勝手に「天罰」をいれて5罰にしない方がよろしいでしょう。
筋が通らなくなります。
仮に愚人さんが主張されるように「天罰」であるとするならば、御書にある「総罰」が
「天罰」であるということになってしまいますが、その論拠はどこにあるのでしょうか。


////////////////////////

>「釈教の内に儒道を盗み入れた」こともあるようです

法華経はこれにあたりませんし、愚人さんの
“日蓮聖人の災異説は、古代中国の儒家が説いた災異説と同じ”という論拠には
まったくなっていません。

天罰という考え方は、そもそも外道の考え方によるものですので
内道(仏法)とは根本的に違います。
愚人さんの主張はかなり強引に感じます。








  • [464]
  • おはようございます、皆様方

  • 投稿者:沖浦克治
  • 投稿日:2017年 3月 9日(木)07時28分29秒
  • 返信
 
 立正安国論を読んで最も共鳴するのは以下の御文です。

 『言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。』
 (立正安国論)

 正義のために云わねばならない。
 云わないことを恐れねばならない。

 私はこの御文を万分の一でもみで読むため、僧俗和合の真っ最中から宗門はダメだと宣言して来ました。

 戒壇本尊本懐でネットが浮かれている時、戒壇本尊は本懐ではないと宣言して来ました。

 御本尊は道具であって、拝む私どもが主体だとの正論も、非難中傷の嵐のなか話し続けて来ました。

 ですので常に沖浦は創価学会の公式見解を無視すると攻撃されたものです。

 今この板を見ると、長いものに巻かれてきた人たちが大聖人の正義である立正安国論で浮かれ騒ぐ。

 バカバカしいですね。

  • [463]
  • 国主に保護されて布教が進むのを思われてたの?

  • 投稿者:モウ
  • 投稿日:2017年 3月 9日(木)00時16分35秒
  • 編集済
  • 返信
 


古代の中国思想のような国主への布教を中心に考えていたと?

その理由は、大聖人がそう言ってたからですって。ええっ!?
そんな、理由でいいんですか、って思います。

真面目に考えれば、どこかでおかしいと気づきそうなものなんですけど。
前提となる仮定が曖昧なまま、思い込みに華を開かせてしまうの は、人
としてありがちなことではありますけれど。

もしも、大聖人が中国の思想を大切にされてたって言うのなら。
一切衆生が尊敬すべき者に主師親ありって言われて、インドの神様をあ
げてるのなんかはどうなるのでしょう。しかも儒教なんかより、未来や
過去を知ることが出来て、ずっっと深い思想だって言われてますよっ。

インドのバラモン教をです。♪

しかも当時の人びとがそんなのを信じてたわけじゃないから、それを尊
敬すべきだって主張された大聖人は、もう世間に合わせたんじゃなくて
オリジナルで、インドの神々を心から信じてたってことに。(笑)

いえ、否定してる思想や文言なんて関係ないです。ちゃんと、尊敬しろ
って言われてるんですからね。しかもその古代インドの思想には幾つも
あるって言ってるから、もう無茶苦茶ですね。これだと大聖人は、ころ
っ、ころって、数行の中で思想が色々に変わる人になってしまいます。

「因中有果」なんだから、一生懸命に諌暁しようしまいが、国主が法華
経を信じる人かどうかなんて生まれてきた時から前世でどうせ決まって
てるんだって。無意味ですわね。で、すぐに「因中無果」だから、国主
が信仰しなかったら、やっぱり決まってなかったんだってことにして。
次にまたするかもしれないって思ったら、都合に合わせて「因中亦無果
亦有果」だから、するかどうかは、決まってるときもあるとか。(笑)

ひどいですよね。なあんて(笑)。 ちょっといたずらっ子でしたか。


真面目に語ると、大聖人は、法華経が流布していくことは、「絶対」だ
とお考えになっていましたのよ。国主がしようがしまいが、です。

なぜ法華経が流布することが間違いないのかって、薬師品にそう書いて
あるんだって、文証もあるけど、ただそういうんじゃないんですよ。

大聖人は、もっと掘り下げて、そこから教えられてますから。
法華経の流布が間違いないのは、その思想性によるんですよ。

五綱で「教法流布の先後」ってあって、低い思想が広まることはないの。
無理に無視しても国が滅んでしまうだけ。それでたとえ国が滅ぼうと、
何がどうなろ うと、法華経が広まっていくことは、もう確かなんだと。

絶対ってわかります? ここが、大・切・なんですよ。
極論すれば、大聖人が死んでも、大聖人の門下が全員殺されていなくな
っても。蒙古が来て国が滅んでも、それでも、広まるんだっていうこと。

その確信の下で進められてたんですよ。だから三大秘宝の姿形がどうの
とかなんて、陳腐すぎますね。戒壇の形がどうだろうと、題目の形がど
うだろうと、広まっていくことは止められないって、そういう確信です。

それでその礎のために、大聖人は布教を頑張られたんですよ。
大聖人が待ち望み、期待されたのは、陸続と現れる地涌の菩薩ですから。

国主が信仰して、はい、終わりだなんて、どこにも書いてないですよ。
反対に涅槃経等に、像法時代なら国主は法華経の行者を支えてくれるけ
ど、末法だから国主は敵に回る役割だって述べておられるでしょう。

信仰しないのに国主に諌暁したのかって、それは違いますから。
悪からんは一定、よからんは不思議ですよ。そういった中で起こる法難
を覚悟して、六難九易を思い、布教することを「最初」に決意した次第です。

そんな大聖人の仏法を確立したのは、大聖人です、もちろん。
こういうやり方で修行していくんだって。だから教主なんですよ。
ところが世の中の人は 、そんなことばかりに目をやってるけど、大聖人は
違いますから。そんなオリジナリティ性を誇ってなんかいないでしょう。

自分こそが 地涌の菩薩の中で一番偉いんだとか、オリジナルなんだとか、
そんなこ と眼中にないんですわ。陸続と続く人々が、地涌の菩薩が現れて、
その 人たちが布教していってくれることに期待したわけなんでしょうに。

大勢の地涌の菩薩にです。

国主一人・・・。違います。(笑)
なんか、すっごい大切な部分を見落としてます。

だから門下の信仰をする人たちを、当時の国を支えた真言師たちよりも
ずっと、ずっと、尊い人たちだって言ってるんですよ。つまりはですね、
国主なんかよりもです。



  • [462]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)23時50分12秒
  • 返信
 
>>460

『守護国家論』の文は「謗法の者を対治しなければならない証文」として出されていますから、立正安国論の「諌暁」の文証になりますが、「王の威力による弘教」の文証になりませんよ。
『四条金吾殿御返事』の文は既に御書の結論を解説しています。「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とあるように、仏法上に王と民の「勝劣」はありません。
『四恩抄』の文は「仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か」として出された文ですから、弘教を行う上での王と民の「勝劣」の文証になりませんよ。

正法流布を行う上では「王と民の勝劣」はありません。王には「正法流布者を守る・謗法退治」する力があるだけです。
立正安国論では「王の威力による弘教」を考えていないから、わざわざ、客に「国主の役割での謗法退治だけの宣言」と「肩書の無い衆生としての謗法退治と帰依の宣言」が分かれているのですよ。
大聖人は広宣流布を、自身の含め仏法者自らの手で行うように考えているから、国主には「謗法退治」を「諌暁」したのですよ。

既に話したように、仏が王に何を付属したのかと簡単に言えば「善人を護り、悪人を罰することで民を助ける」ようにと言うことです。
元品の無明に起因した問題は正法でしか解決出来ないんですから、「国主の威力」に弘教を頼る理由が無いのですよ

  • [461]
  • 阿部日ケ~ン(院政)氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)23時18分19秒
  • 返信
 
 愚人さんの解釈でいくと、王がいなければ民は存在しないという事に
なりますが、理屈に合わないでしょう。


御書に曰く

「王は民を食とし民は王を食とす」(四条金吾殿御返事)

【現代語訳:国王は民に依ってなり立ち、民は国王に依ってなり立つのです)

「国」として考えれば、王(為政者)と民は一蓮托生です。
かりに王が帰依したとしても、民が帰依していなければ国土は安穏になりませんし
民が帰依していても、王が帰依していなければ安穏にはなりません。

ちなみに現世安穏になるといっても天災地妖が全く起こらなくなるという事ではありません。

 愚人云、

 阿部日ケ~ン(院政)さんの提示された『石虎将軍御書』の文は而二不二のうち「不二」についての文です。THJ氏さん宛の投稿に書きましたように、愚人は、国王と民は而二であり勝劣があると考えています。

/////////////////////

>古代中国の儒家が説いた災異説と同じだと思われます
--

儒教の災異説をしらべてみると
「徳を失い天命を全うできていない天子を戒めるために天が起こすもの」と、とあるサイトに
書かれていましたが、これではたんなる「天罰論」でしかありません。
儒教でなくてもキリスト教やイスラムなどでも説かれていますね。

日蓮大聖人の論は謗法によって国を護るべき善神がいなくなり(「守護」をするはたらきが弱くなり)
その代わりに、悪鬼魔神が入り災害が起こるというのですから、まったく違います。

 愚人云、

 日蓮聖人の災異説も「天罰論」であると愚人は思います。

 『報恩抄』

 正法を行を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。

 『下山御消息』

 法華経守護の釈迦・他宝・十方分身の諸仏(中略)十羅刹女・鬼子母神は他国の賢王の身に入り易はりて
国主を罰し国を亡ぜんとするをしらず。

 日蓮聖人は国土の災難は「天罰」だとしています。


そもそも日蓮大聖人は天台の止観の五を引用され儒教(家)を劣とされています。
「儒道の内に釈教を盗み入れたり」(開目抄)

 愚人云、

 確かに釈経を儒道の中に入れたこともあるようですが、「釈教の内に儒道を盗み入れた」こともあるようです。『提謂波利経』は中国で儒道の五行思想を取り入れて創作された経典だそうです。『仁王経』は、中国の護国思想を取り入れて中国で創作された経典だそうです。『父母重恩経』は、仏教が儒家・道家から親不孝の教である攻められ、儒教の「孝」の思想を取り入れて中国で創作された経典だそうです。【参考文献 佼成出版社 『仏教の東伝と受容』



  • [460]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)22時12分6秒
  • 返信
 
 国王と民は而二不二の関係にあり、不二についてはTHJ氏さんの仰る通り平等ですが、不二については勝劣があります。

 『守護国家論』

 諸の国王に付嘱して比丘・比丘尼・清信男・清信女に付嘱せず。何を以ての故に、王の威力無き故に。

 『四条金吾殿御返事』

 しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。

 『四恩抄』

 三には国王の恩、天の三光に身をあたゝめ、地の五穀に神を養ふこと皆是国王の恩なり。

  • [459]
  • 今晩は、皆様方

  • 投稿者:沖浦克治
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)19時22分20秒
  • 返信
 
 お久しぶりでございます。

 色々と議論もお盛んのようですね。
 ですが、議論のための議論は仏法でも創価でもございません。

 立正安国論の事で口角泡を飛ばしてみても、それは只の知ったかぶりに過ぎません。
 立正安国論を読んで、

 自分にとって立正安国とはどう云う行動なのか?

 これが無いなら仏法者としてはどう云う価値もございません。
 戸田先生が云われました。

 『 信仰 は生活であって観念 の遊戯でない』

 ここでの議論はこの戸田先生の精神に反します。
 ご意見ががおありならどうぞ。

  • [458]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)14時21分22秒
  • 編集済
  • 返信
 
>依正を王民にわければ、王が正つまり体であり民が依つまり影である。

---

愚人さんの解釈でいくと、王がいなければ民は存在しないという事に
なりますが、理屈に合わないでしょう。


御書に曰く

「王は民を食とし民は王を食とす」(四条金吾殿御返事)

【現代語訳:国王は民に依ってなり立ち、民は国王に依ってなり立つのです)

「国」として考えれば、王(為政者)と民は一蓮托生です。
かりに王が帰依したとしても、民が帰依していなければ国土は安穏になりませんし
民が帰依していても、王が帰依していなければ安穏にはなりません。

ちなみに現世安穏になるといっても天災地妖が全く起こらなくなるという事ではありません。


/////////////////////

>古代中国の儒家が説いた災異説と同じだと思われます
--

儒教の災異説をしらべてみると
「徳を失い天命を全うできていない天子を戒めるために天が起こすもの」と、とあるサイトに
書かれていましたが、これではたんなる「天罰論」でしかありません。
儒教でなくてもキリスト教やイスラムなどでも説かれていますね。

日蓮大聖人の論は謗法によって国を護るべき善神がいなくなり(「守護」をするはたらきが弱くなり)
その代わりに、悪鬼魔神が入り災害が起こるというのですから、まったく違います。

そもそも日蓮大聖人は天台の止観の五を引用され儒教(家)を劣とされています。
「儒道の内に釈教を盗み入れたり」(開目抄)

  • [457]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)10時52分58秒
  • 返信
 
>>456

依正不二の「依」は依報、「正」とはと正報の事であり、それらが一体で不二(二つにあらず)の関係にあることをいいます。 正報とは自分自身、この身のことです。 依報とは私たちの暮らすこの国土・環境を言います。

大聖人の仏法に「主体は王、民は影」と言う発想はありませんよ。
「王は民を親とし」とも御書にはあり、立正安国論で「民のため」に国主を諌暁すると共に民にも弘教しているのですから、「民」も同じく主体なのです。
仏法では「王」も「民」も同じ「正法により環境を変えて行ける主体」となる衆生ですよ。
「王」には「民」を守る力があるだけです。

「仏法は体のごとし世間は影のごとし体曲れば影ななめなり」と混同していませんか?

  • [456]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 8日(水)05時47分26秒
  • 返信
 
 愚人の思う日蓮聖人の思想は、

 その優れた仏法も王法の威力により流布していく。

 依正を王民にわければ、王が正つまり体であり民が依つまり影である。

 依正を人と国土にすれば、正である人の主体は王である。故に王が帰依することにより国土も安穏になるということ。

  • [455]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 7日(火)20時42分39秒
  • 返信
 
>>454
> 日蓮聖人の災異説は、古代中国の儒家が説いた災異説と同じだと思われます。

それは自由だと思いますけど、私の個人的な感想では、王様に意見を言う場合、天(神様)を利用するしか無いので、どこの文化圏でも似通った話があるだけなんじゃないかと思います。

災異説のような話はそれこそ仏教より前からあるでしょうから儒教が原初とも思えませんけど。

  • [454]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 7日(火)19時23分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
 愚人は、日蓮聖人の思想を古代中国思想から読み説いてみたいと思っています。

 日蓮聖人の災異説は、古代中国の儒家が説いた災異説と同じだと思われます。

 古代中国では、儒教思想を取り入れた経典を創作していますね。

 儒家や道家からの批判をかわす為の経典なども創作されたみたいです。

 

  • [453]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 6日(月)20時24分30秒
  • 返信
 
>>452

> 日蓮聖人は、君主が善ならば国土が安んじ、君主が悪ならば国土が乱れるという国主と天との天人相関説に立っていたということです。

天人相関説は儒教ですね。大聖人で言えば「神天上法門」でしょう。

提示された御書は、王の行為によって国の栄枯盛衰が決まると言う話から、「聖人・賢人なる智者」がいて、正法を理解する王がいれば、仏法流布がされるいうことと、逆に王が悪法に帰依した場合は、正法の行者は大難を免れないと言う話をしているわけです。

「国主が帰依すれば民衆も従う」とか「仏法流布には国主の流布が必須条件」と言う話はしておらず、逆に、大難を乗り越えられた大聖人の体験から正法は、国王の権力などは及ばない偉大なものであることが示されている御書です。

国主が正法に「帰依」するかどうかはともかく、少なくとも正法流布を阻害しない王であればいいのですよ。
悪王の国でも、大聖人は正法流布を確実にしているのですから、「国主の流布」はそもそも必須条件になっていないのです。

  • [452]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 6日(月)19時11分11秒
  • 返信
 
 日蓮聖人は、君主が善ならば国土が安んじ、君主が悪ならば国土が乱れるという国主と天との天人相関説に立っていたということです。

  • [451]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 6日(月)16時49分27秒
  • 返信
 
>>450

> 仏法流布には国主の流布が必須条件です。だから日蓮聖人が亡くなった後も、お弟子さん達が国主諌暁を続けたのだと愚人は考えています。

「諌暁」と「帰依」を混同するからそうなるのでしょうね。

「善悪に付て国は必ず王に随うものなるべし。」は、国王の善行悪行に国の存在が左右されると言う話で、「国主の流布」に民が従うと言う意味ではないですよね。

「仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ」を簡単に言えば「善人を護り、悪人を罰することで民を助ける」と言う仏法と王法とで「世の安穏」「民の安穏」のために一致する部分です。
「諌暁」は国主がそれから外れ「善悪の分別が無い」場合に行うことです。少なくとも「正法を流布する人を国主が迫害しないように、謗法を行わないように行う」のが「諌暁」です。
このため、「諌暁」を先ず行うのが仏法者です。

そして、「帰依」は国主などの他者に従っている状態ではありません。その衆生が「正法に従う」から「帰依」なのです。
「国主の流布」をその威力を用いて流布することだと勘違いしても、国主に従っているだけの民は国主が変われば民も従うものを変えてしまう儚いもので、「必須条件」とは成り得ません。

仮に「仏法流布には国主の流布が必須条件」だとしても、国主の役割でしか出来ない弘教方法を誰も説明出来ませんし、大聖人もそのような事を説明していません。
以前、「弘教に使える善の権力」なんてものがあるかのように妄想した人は結局、何一つ具体的な説明は出来ませんでした。
権力を用いた弘教は全て「権力の悪用」にしかならないため、そもそも「善悪の分別が無い」国主が行うことですから「帰依」が出来ていない国主でしかないのです。

国主に出来ることは「正法を広める者を守り、謗法を行う者を諌める」ことです。そして、民はその国主と同様に「正法を広める者を守り、謗法を行う者を諌める」ことで仏法流布の環境を整えるわけです。
これは、先に民が「正法を広める者を守り、謗法を行う者を諌める」ようになり、国主も後から「正法を広める者を守り、謗法を行う者を諌める」ようになることも可能です。
仏法上は国主であっても同じ衆生でしかないのですから正法流布のために行うことに差など無いのです。

「帰依」を勧めるのは、その衆生個人を「元品の無明」「生死の苦悩」から救うためです。
「帰依」とはそもそも何か?を考えれば、「国主の流布」で国主に従っているだけの民ではいつまでも本当の意味での「帰依」が出来ないことは誰でも分かることですから、逆に悪道に落ちる因にしかならないのも理解出来ることです。

国主が正法流布すれば楽だろうとは思いますが、その考え自体が他者依存であり「正法」から外れているのですから「国主の流布が必須条件」とはならないのですよ。

大聖人は国主に対して諌暁しているのであり、国主と言う王法上の役割に依存した正法流布を考えていません。
正法流布は大聖人自身が行うと決意されたことであり、それを門下が「国主に頼る」ようなものと勘違いしているなら、大聖人が門下に定めた弘教と言う修業で楽をしようとしているだけでしょう。
門下が「諌暁」や「国主の帰依」に対する働きかけを続けること自体が修業です。しかし、その後に「正法流布」で楽をしようと思っているなら大きな勘違いにしかなりません。

  • [450]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 6日(月)00時31分6秒
  • 返信
 
 日蓮聖人は、

 善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。

と言っています。仏法流布には国主の流布が必須条件です。だから日蓮聖人が亡くなった後も、お弟子さん達が国主諌暁を続けたのだと愚人は考えています。



 愚人は、日蓮正宗法

  • [449]
  • Re: THJ氏さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 5日(日)16時28分49秒
  • 返信
 
>>447

> 日蓮聖人は国王/国主一人の帰依により国土が安穏になると言っているのです。

すぐに「帰依」する必要性があるとまでは読めませんよ。
「正法を以て世を治むれば自他安穏」ですから、「他」の安穏だけなら、国主は正法に逆らわなければいいだけです。
今も昔も王法に民衆が望むのは「善人を護り、悪人を罰する」ことで「民を助ける」ことです。
これを正法から言えば「王法に可能なことは正法を守ることと謗法退治」と言うことですよ。
王が善悪を分からない場合は、正法の師に助言を求めるようにすればいいだけです。

立正安国論は、謗法退治が国主に可能な治世のために出来る「他」の安穏であり対象は「世の中」「世の人々」でしょう。
そして、「就中人の世にあるや各後生を恐る」あたりから、「自」の安穏、対象の問題が衆生個人になり、「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ」となるのです。

国主が正法に帰依するに越したことはないでしょうが、帰依自体は必須条件とは言えないでしょう。
そもそも、出家していながら権力を維持している時頼は「立正安国論」で批判されている「悪僧」でもあり、得宗への権力集中をした人物でもあります。
登場人物である「客」と史実にある「時頼」とでは人物像にギャップがあります。
仮に時頼が帰依し、その威力で謗法退治をしていたら時頼が亡くなった後に大きな反動がくるのが予見されますし、病気が原因で出家し、史実では提出後3年ぐらいに亡くなります。
時に虚ろいやすい「国主帰依」を必須条件とはしないでしょう。やはり、肩書の無い衆生としての時頼個人の安穏のための「折伏」と言えるでしょう。

> 文応元年の『立正安国論』提出時やその以前に、国主に他宗の僧との「公場対決」を求めた事を示す遺文はありません。愚人は、この時には未だ日蓮聖人には「公場対決」の考えは無かったと考えています。

「文章が無かった=考えていない」とはなりませんよ。「四箇格言」を出してしまった以上、挑まれたらする覚悟はあったと考える方が自然でしょう。

> 最後の客の言葉は、日蓮聖人が『立正安国論』の演出/印象づけの意味から、最後を客の力強い言葉で止めたと考えます。

ただ単に「演出/印象づけ」と思う人が大体、「国主帰依」を必須条件のように考えているのは分かります。
劇にする人やそれを見る人は大体、偉そうな「国主」が大聖人に「叱咤」されているような演出が好きですから。
「演出/印象づけ」のためだけなら、その前に客に謗法退治と帰依を一緒に力強く宣言させて、主人が大げさに褒める部分を無くしても可能でしょう。
「謗法退治」と「帰依」の2つが必須条件なら分ける必然性が無く、「立正安国論」の話全体が「国主諌暁」であるなら、わざわざ謗法退治と客の帰依を区切る必要が無いわけです。

「客=国主」と言う設定自体は話の中にはありませんから話全体としては「折伏」になります。その中で国主と言う役割の人に対する「諌暁」と、仏法でしか問題を解決できない「個人」への「折伏」が分かれているのです。

主人の最後の言葉の中で、国主に行って欲しい「他」の安穏に寄与する「国主諌暁」から「自」の安穏にテーマを移す必要があるから、わざわざ分けていると考えるのが自然です。
主人は最後にこれから起こる二難を明確にして「謗法退治」を念押しし、その後、主人の最初の言葉にある「具に当世の体を覿るに愚にして後生の疑を発す」に対応する「就中人の世にあるや各後生を恐る」からの話で折伏としての話を締めくくるわけです。

仏法でしか解決出来ない「元品の無明」に起因した問題を「国主諌暁」に含め、国主に頼っても不可能なのですよ。

  • [447]
  • THJ氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 5日(日)06時49分59秒
  • 編集済
  • 返信
 
 国主はそもそも、仏法上は一人の衆生ですから、「国主が正法に順ずれば」が必須条件では無く「国主の帰依」に拘らない判断が出来た言うことでしょう。

 愚人云、

 日蓮聖人は、

 国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。

と言っています。確かに「国王/国主」も衆生の一人ですが、日蓮聖人は国王/国主一人の帰依により国土が安穏になると言っているのです。


 また、三度目の諌暁時には立正安国論で示した「神天上法門」の一部を大聖人自身が「竜の口の法難」で崩しており、国主以外の「世皆正に背き」の状態を自身の手で解決することにしたのでしょう。
当然、「世皆正に背き」の状態を解消するには、最終的に「国主の帰依」も必要ですが、国主は少なくとも正法受持者への迫害をしなければよく、「公場対決」の場では国主は証人ですから、「公場対決」が実現後に国主は帰依してもいいことになります。

 愚人云、

 文応元年の『立正安国論』提出時やその以前に、国主に他宗の僧との「公場対決」を求めた事を示す遺文はありません。愚人は、この時には未だ日蓮聖人には「公場対決」の考えは無かったと考えています。


身延に入ったからこそ「公場対決」を望んでいたと考える方が自然でしょう。

 愚人云、

 この件に関しましては先の投稿で、愚人の誤りを認め訂正しました。


そろそろ一歩踏み込んだ考察をはじめてもいいと思いますよ。

 愚人云、

 愚人は、日蓮聖人の遺文から読み取れた事を書いていきます。



 立正安国論の最後に、正法帰依を誓った客に対する主人の言葉はありません。
謗法退治の時と同様に大絶賛したのか、それとも難にあう心構えを語ったのか。

このことからも「国主が正法に帰依すれば万事解決」と言う単純な思考では無いと思いますよ。

 愚人云、

 最後に主人の言葉がないことが何故に、 「このことからも『国主が正法に帰依すれば万事解決』と言う単純な思考では無いと思いますよ。」となるのか、おバカな愚人には解りません。愚人が思うに、最後の客の言葉は、日蓮聖人が『立正安国論』の演出/印象づけの意味から、客の力強い受持信行の言葉で最後を止めたと考えます。


  • [446]
  • 阿部日ケ~ン(院政)氏さんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 4日(土)22時51分28秒
  • 編集済
  • 返信
 
 愚人さんが引用された御文(法蓮抄)以外に御書文中で 天災 という言葉は使われていないことはご存じでしょうか。

 愚人云、

 愚人も天災という文字は使われていなかったと記憶しています。


 法蓮抄文中の「天災」についての記述は、三災七難のうち「他国侵逼」と「自界叛逆」の2つが起こっていないとの日蓮大聖人の警告と関連があります。

他国からの侵略、身内からの反乱という軍事的かつ政治的な災難は、自然災害とは一線を画する人為的なものですよね。

法蓮抄では、

“悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行わず”との経文を用いて
『いかに諌むれども用いざれば 結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし』 と原理を説明されています。

正法を壊す大悪人を重んじ、正法を流布する大善人を罰するような愚かな政治を
行っていると「天災」ではなく「人災」によって民衆が大罰を被ってしまうと
いうことになるでしょうか。

 愚人云、

 古代中国思想の災異説から言えば、阿部日ケ~ン(院政)氏さんの云ふ「天災」が 「災」であり「天の譴」となり、「人災」が「異」であり「人の威」なりましょうか。
 しかし、途中で挫けてもう書くのは止めましたが、愚人が投稿した「日蓮聖人の災異説」を見れば解ると思いますが、日蓮聖人は、阿部日す~ン(院政)さんの云ふ「天災・人災」共に天の為す災いとしており、古代中国思想に当てはめれば「自然災害」が「災であり天の譴」となり、「他国侵逼・自界叛逆」が「異であり天の威」となりましょう。そして「自然災害」と「他国侵逼・自界叛逆」とは、「凡そ災異の本, 盡く國家の失に生ず。國家の失, 乃ち始めて萌芽し,而して天, 災害を出し, 以て之れを譴告す。之れを譴告して變を知らざれば, 乃ち怪異を見しめして以て之れを驚駭す。之れを驚駭して, 尚お畏恐を知らざれば, 其の殃咎 乃ち至る」となりましょう。


 日本は蒙古によってに占領されたわけではありませんが、二度の襲来に起因した内政混乱で幕府の権威は衰え、身内からの反乱も起こり結局、北条徳宗家は滅亡してしまいました。御文の通りだったということですね。

立正安国論においても、天災の原因を示すことよりも、このままでは
より多くの民衆が犠牲になる人災が起こってしまうとの警告が主題となっています。

 愚人云、

 日蓮聖人に置いては、「自然災害」も「他国侵逼・自界叛逆」も「天の為す災い」であり、「自然災害」は「天の譴」でありますから、「汝、時頼」が国主の威力により謗法を対治しなければ、「天の威」により国が亡ぶという「警告」の意があると思います。
-----

また、その他にも法蓮抄では仁王経の一節
【聖人去らん時は七難必ず起る】を引用され

『当に知るべし此の国に大聖人有りと、
  又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。』 との結論を導かれます。

 法華講員や学会員のみなさんが「日蓮」を“大聖人”と呼称するのは
ここから来ているように思います。

自城魔突さんが、苦言を呈しておられたのは、ただ単に呼称が違うという意味ではなく、日蓮自らが認識された「大聖人」という御境涯を、通常の高僧らを指す「上人」と下げてしまっていると感じられたからです。
 身延が日蓮大聖人を末法の仏とせず「大菩薩」と呼称しているのと同じですね。

愚人さんに「大聖人」と表記することを強いる訳ではありませんが、不快に思われる
かたの心情も察していただければ幸いです。

 愚人云、

 この板は学会さんの「板」でありますに、愚人の配慮が足りなくて申し訳ありませんでした。因みに「日蓮宗ポータルサイト」を観ると「日蓮大菩薩」との呼称ではなく、「日蓮聖人」との呼称になっています。


  • [445]
  • 日蓮聖人の災異説

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 4日(土)17時12分4秒
  • 編集済
  • 返信
 
 念仏宗と禅宗等とを御帰依有るがの故に、日本守護の諸大善神、瞋恚を作して起こす所の災ひなり。『宿屋入道許御状』

 夫此の国は神国なり。神は非礼を稟けたまはず。(中略)一乗捨棄の国に於ては豈善神怒りを成さざらんや。仁王経 に云はく「一切の聖人去る時七難必ず起こる」と。彼の呉王は伍子胥が 詞 を捨て吾が身を亡ぼし、桀・紂 は 竜 ・比を失ひて国位を喪ぼす。今日本国既に蒙古国に奪はれんとす。『北条時宗への御状』

 正嘉元年八月二十三日戌亥の刻の大地震、日蓮諸経を引いて之を勘ふるに念仏宗と禅宗等と御帰依有るの故に、日本国中の守護の諸大善神恚りに依って起こす所
の災ひなり。『安国論副状』

 又此の大罪は叡山三千人の失にあらず、公家武家の失となるべし。日本一州上下万人一人もなく謗法なれば、大梵天王・帝桓並びに天照大神等隣国の聖人に仰せつけられて
謗法をためさんとせらるゝか。例せば国民たりし清盛入道王法をかたぶけたてまつり、結句は山王大仏殿をやきはらいしかば、天照大神・正八幡・山王等よりきせさせ給ひて、源頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なり
き。『法門申さるべき様の事』

 此の国すでに三逆罪を犯す。天豈之を罰せざらんや。『真言諸宗違目』

 国王と申す事は、先生に万人にすぐれて大戒を持ち、天地及び諸神ゆるし給ひぬ。其の大戒の功徳をもちて、其の住むべき国土を定む。二人三人等を王とせず。地王・天王・海王・山王等 悉 く来たってこの人をまぼる。いかにいはんや其の国中の諸民、其の大王を背くべしや。此の王はたとい悪逆を犯すとも、一二三度等には左右無く此の大王を罰せず。但諸天等の御心に叶はざる者は、一往は天変地夭等をもちてこれをいさむ。事過分すれば諸天善神等其の国土を捨離し給ふ。若しは此の大王の戒力つき、期来たりて国土のほろぶる事もあり、又逆罪多にかさなれば隣国に破らるゝ事もあり。善悪に付けて国は必ず王に随ふものなるべし。
世間此くの如し、仏法も又然なり。仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。しかればたとい聖人・賢人なる智者なれども、王にしたがはざれば仏法流布せず。或は後には流布すれども始めには必ず大難来たる。『四条金吾殿御返事』

 正嘉の大地震等の事は、去ぬる文応元年太歳庚申七月十六日宿屋の入道に付けて、故最明寺入道殿へ奉る所の勘文立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛 逆 難と他国侵逼難起こるべしと 勘 へたり。『呵責謗法滅罪抄』

 所謂正嘉の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀して刀杖を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之逼責するなり。大集経に云はく、仁王経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐・対馬の如くならん。『聖人知三世事』

 而るに今の世は法華経を軽蔑するこ
と土の如く民の如し。真言の僻人等を 重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依って増上慢の者国中に充満す。青天瞋りを為し黄地夭孼を致す。 涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積りて国を亡す等是なり。『太田殿許御書』

 末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大 兵乱等の無量の大災難並びをこり、『新尼御前御返事』


 而るを安房国東条郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請の文をもってあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。『新尼御前御返事』

 去ぬる正嘉元年丁巳大地震此の大瑞日本の日記に見ざるか。日蓮諸経を引き勘ふるに、念仏宗と禅宗等との邪法此の国に出現し、存の外に国中の上下鎮護国家の為の大法を蔑如せしむるに依って、法華・真言の国中守護の諸大善神瞋恚を為し、悉く他国に向かふが故に起こる所の災難なり。此の国将に他国に襲はるべし等云云。具には故最明寺入道殿に奉る勘文の如し谷土野禅門之を尋ぬべし。 念仏者並びに檀那等之を聞きて怨を成すこと、譬へば不軽菩薩の増上慢の四衆の如し。『正嘉地震大瑞御書』

 予不肖の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間、法華経の座にて守護せんと誓ひをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出だして此の国をおどす。いかに諫むれども用ひざれば、結句は人の身に入って自界叛 逆 せしめ、他国より責むべし。問うて云はく、此の事何なる証拠あるや。答ふ、経に云はく「悪人を愛 敬 し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行らず」等云云。夫天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知んぬべし、国主に失ありと云ふ事を。鏡にうかべたれば之を 諍 ふべからず。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当に知るべし大禍ありと云ふ事を。『法蓮抄』

 現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず。是豈不孝の者にあらずや。此の不孝の人々、一人二人、百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり。されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいかりてをどりあがり、大せいせい天にはびこり、大火国に充満すれども僻事ありともおもはず、『一谷入道女房御書』

 文の心は、人にはあまたの子あれども、父母の心は病する子にありとなり。仏の御ためには一切衆生は皆子なり。其の中罪ふかくして世間の父母をころし、仏経のかたきとなる者は病子のごとし。しかるに阿闍世王は摩竭提国の主なり。我が大檀那たりし頻婆舎羅王をころし、我がてきとなりしかば、天もすてゝ日月に変いで、地も頂かじとふるひ、万民みな仏法にそむき、他国より摩竭提国をせむ。此等は偏に悪人提婆達多を師とせるゆへなり。結句は今日より悪瘡身に出でて、三月の七日無間地獄に堕つべし。これがかなしければ、我涅槃せんこと心にかゝるというなり。我阿闍世王をすくひなば、一切の罪人阿闍世王のごとしとなげかせ給ひき。『妙一尼御前御消息』

 文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行なはん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけ、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。国主等其のいさめを用ひずば、隣国にをほせつけて彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるゝならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。『撰時抄』

 而るに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は古の謗法をば不思議とはをぼせども、此をしれる人なければ一子の悪事のごとくうちゆるして、いつわりをろかなる時もあり、又すこしつみしらする時もあり。今は謗法を用ひたるだに不思議なるに、まれまれ諌暁する人をかへりてあだをなす。一日二日・一月二月・一年二年ならず数年に及ぶ。彼の不軽菩薩の 杖 木の難に値ひしにもすぐれ、覚徳比丘の殺害に及びしにもこえたり。而る間、梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり、度々いさめらるれども、いよいよあだをなすゆへに、天の御計らひとして、隣国の聖人にをほせつけられて此をいましめ、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし、自界反逆せしむ。吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて、仏滅後二千二百三十余年が間、いまだいでざる大長星、いまだふらざる大地しん出来せり。『撰時抄』

 すでに此の国に天変あり地夭あり。他国より此をせむ。三十三天の御いかり有ること又疑ひなきか。『撰時抄』

 日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく。又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。此等の大謗法の根源をたゞす日蓮にあだをなせば、天神もをしみ、 惜地祇もいからせ給ひて、災夭も大いに起こるなり。『撰時抄』

 大集経・金光明経・仁王経・守護経・ はちなひをん経・最勝王経等に、末法に入って正法を行ぜん人出来せば、邪法のもの王臣等にうたへてあらんほどに、彼の王臣等、他人がことばにつひて一人の正法のものを、或はのり、或はせめ、或はながし、或はころさば、梵王・帝 釈 ・無量の諸天、天神・地神等、りんごくの賢王の身に入りかわりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。『三三蔵祈雨事』

 日本国の人々は、一人もなく日蓮がかたきとなり候ひぬ。梵王・帝釈・ぼんのうたいしゃく・日月・四天のせめをかほりて、たうじのゆき・つしまのやうになり候はんずるに、いかゞせさせ給ふべき、いかゞせさせ給ふべき。『高橋殿御返事』

 日本国の人の日蓮をあだみ候は一切世間の天人の眼をくじる人なり。されば天もいかり日々に天変あり。地もいかり月々に地夭かさなる。『乙御前御消息』


  • [444]
  • 古代中国思想の災異説

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 4日(土)12時45分35秒
  • 編集済
  • 返信
 
 其れ大畧の類, 天地の物, 常ならざるの變有るは, 之れを異と謂う。小なる者,之れを災と謂う。災は常に先に至りて, 異は乃ち之れに隨う。災は天の譴なり。異は天の威なり。之れを譴して知らざれば, 乃ち之れを畏すに威を以てす。詩に云う,『天の威を畏る』と, 殆ど此の謂いなり。凡そ災異の本, 盡く國家の失に生ず。國家の失, 乃ち始めて萌芽し,而して天, 災害を出し, 以て之れを譴告す。之れを譴告して變を知らざれば, 乃ち怪異を見しめして以て之れを驚駭す。之れを驚駭して, 尚お畏恐を知らざれば, 其の殃咎 乃ち至る」【『春秋繁露』必仁且知篇】


 臣, 謹みて春秋の中を案じ, 前世已行の事を視て, 以て天人相與の際を觀るに, 甚だ畏る可きなり。國家, 將に失道の敗有らんとすれば, 天, 乃ち先に災害を出して以て之れを譴告す。自ら省みることを知らざれば, 又た怪異を出して之れを警懼す。尚お變を知らざれば, 傷敗 乃ち至る。(中略)臣聞く, 天の大いに奉じて之れをして王たらしむる所は, 必ず人力の能く致す所に非ずして自ずから至る者有ればなり。此れ受命の符なり。天下の人, 心を同じくして之れに歸すこと, 父母に歸するが若し。故に天瑞, 誠に應じて至る。書に曰く,「白魚, 王の舟に入る。火有り, 王屋を復おおい, 流れて烏と為る」と。此れ蓋し受命の符なり。周公曰く,「復えるかな, 復えるかな」と。孔子曰く,「徳は孤ならず, 必ず鄰有り」と。皆な善を積み徳を累かさぬるの效なり。後世に至り, 淫佚衰微するに及び, 羣生を統理すること能わず, 諸侯 背畔し, 良民を殘賊して以て壤土を爭い,徳教を廢して刑罰に任ず。刑罰, 中あたらざれば, 則ち邪氣を生じ, 邪氣, 下に積めば, 怨惡, 上に畜つむ。上下, 和せざれば, 則ち陰陽謬して妖生ず。此れ災異の縁りて起こる所なり。【『漢書』董仲舒傳】


 文帝元年四月, 齊・楚の地の山二十九所, 同日に倶ともに大いに水を發し, 潰くずれ出づ。劉向以為えらく,「水, 土をやぶ るに近きなり。天, 戒しめて若かく曰く,『齊・楚の君を盛んにすること勿れ』と。今, 制度を失し, 將に亂を為さんとす」と。後十六年, 帝の庶兄齊悼惠王の孫文王則薨じ, 子無く, 帝, 齊の地を分かちて, 悼惠王の庶子六人を立てて皆な王と為す。賈誼・錯諫む。以為えらく, 古制に違い, 亂を為さんことを恐ると。景帝三年に至り, 齊・楚七國, 兵百餘萬を起こし, 漢, 皆な之れを破る。春秋, 四國同日に災あり, 漢, 七國同日に衆山潰れ, 咸な其の害を被むるは, 天の威を畏れざるの明效なり。成帝河平三年二月丙戌, 為の柏江の山崩れ, 捐江の山崩れ, 皆な江水を廱ふさぎ, 江水逆流して城を壞ち, 十三人を殺す。地震うこと二十一日を積かさね, 百二十四たび動く。元延三年正月丙寅, 蜀郡の岷山崩れ, 江を廱いで江水逆流し, 三日にして乃ち通ず。劉向以為えらく, 周の時, 岐山崩れ, 三川竭かれ, 而して幽王亡ぶ。岐山は周の興る所なり。漢家, 本もと蜀漢より起こる。今, 起こりし所の地, 山崩れ川竭れ, 星孛又た攝提・大角に及び, 參從より辰に至る。殆んど必ず亡びん。其の後, 三世, 嗣亡く, 王莽, 位を簒うばう【『漢書』五行志下之上】


 心を正して以て朝廷を正し, 朝廷を正して以て百官を正し, 百官を正して以て萬民を正し, 萬民を正して以て四方を正す。四方正しければ, 遠近, 敢えて正に壹ならざる莫く, 而して邪氣,其の間を奸す者有る亡し。【『漢書』董仲舒傳】




 【引用文献】

 [共同研究:天変地異の社会学 ]

 『再考・天変地異』 串田久治



 臣聞く、災異は皇天、人君の過失を譴告する断以、猫お嚴父の明試のごとし、畏懼しヅ、敬み政むれば則ち禍錆え幅降る。忽然簡易なれば期ち咎罰除かれず(漢書)

 人君不徳なれば謫天地に貼われ、災異屡≧發して以て不治を告ぐ(漢書)


 臣聞く、日は衆陽の宗、人君の表、至尊の象なり.君徳衰微し、陰道盛彊にして、陽明を侵蔽すれば、則ち日蝕之に應ず(漢書)

 天は王者に左與す.故に災異數・・臆われ以て之に譴告し、其の改更を欲す一(漢書)

 【引用文献】

 『前漢の災異説』ーその解釈の多様性の考察ー 澤田多喜男




  • [443]
  • 謗法と天災・人災

  • 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)
  • 投稿日:2017年 3月 3日(金)17時47分13秒
  • 編集済
  • 返信
 
愚人さんがメインスレに書き込まれた内容について、興味深かった
ところを引用させてもらいますね

>つまり天災地夭は国主の失によるということです。
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愚人さんが引用された御文(法蓮抄)以外に御書文中で 天災 という言葉は使われていないことはご存じでしょうか。
法蓮抄文中の「天災」についての記述は、三災七難のうち「他国侵逼」と「自界叛逆」の2つが起こっていないとの日蓮大聖人の警告と関連があります。

他国からの侵略、身内からの反乱という軍事的かつ政治的な災難は、自然災害とは一線を画する人為的なものですよね。

法蓮抄では、

“悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に星宿及び風雨皆時を以て行わず”との経文を用いて
『いかに諌むれども用いざれば 結局は人の身に入つて自界叛逆せしめ他国より責むべし』 と原理を説明されています。

正法を壊す大悪人を重んじ、正法を流布する大善人を罰するような愚かな政治を
行っていると「天災」ではなく「人災」によって民衆が大罰を被ってしまうと
いうことになるでしょうか。

日本は蒙古によってに占領されたわけではありませんが、二度の襲来に起因した
内政混乱で幕府の権威は衰え、身内からの反乱も起こり結局、北条徳宗家は滅亡してしまいました。
御文の通りだったということですね。

立正安国論においても、天災の原因を示すことよりも、このままでは
より多くの民衆が犠牲になる 人災 が起こってしまうとの警告が主題となっています。

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また、その他にも法蓮抄では仁王経の一節
【聖人去らん時は七難必ず起る】を引用され

『当に知るべし此の国に大聖人有りと、
  又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を。』
 との結論を導かれます。

 法華講員や学会員のみなさんが「日蓮」を“大聖人”と呼称するのは
ここから来ているように思います。

自城魔突さんが、苦言を呈しておられたのは、ただ単に呼称が違うという意味ではなく、日蓮自らが認識された「大聖人」という御境涯を、通常の高僧らを指す「上人」と下げてしまっていると感じられたからです。
 身延が日蓮大聖人を末法の仏とせず「大菩薩」と呼称しているのと同じですね。

愚人さんに「大聖人」と表記することを強いる訳ではありませんが、不快に思われる
かたの心情も察していただければ幸いです。

  • [442]
  • THJさんへ

  • 投稿者:愚人
  • 投稿日:2017年 3月 3日(金)16時59分5秒
  • 編集済
  • 返信
 
 愚人に重大な事実誤認がありました。日蓮上人の、弘安元年の『諸人御返事』を読んでも公開対論をスル気満々でしたね。お詫びして訂正いたします。

 祈祷に関するTHJさんの見解を頂き有難う御座います。そのような意見も有ることを受け止めてまいります。

  • [441]
  • 愚人さんへ

  • 投稿者:THJ
  • 投稿日:2017年 3月 3日(金)12時32分3秒
  • 返信
 
愚人さんへ、続きがまだのようですけど、本スレ[No.9897]の返事です。

> 身延に隠棲した後なので、それは無いと思います。

その根拠の妥当性は何でしょう?

身延入山後の「強仁状御返事」で問答を望む相手に、「公場対決」の場を用意するように答えています。また、モウさんが独立スレに投稿している「報恩抄」にも過去の「公場対決」の記載があります。身延に入ったからと言って「公場対決」の意思が無いと判断出来ませんよ。

大聖人が「自分は仏力・法力がある」とか「念仏者たちを殺せ」とか過激な事を言う場合は、「公場対決」のための「挑発」です。
祈雨対決の時も「雨さえ降らせられない者が、どうして往生や成仏をさせられようか」等の相手への挑発を対決の途中でしていませんでしたっけ?

蒙古襲来の時には幕府は幾つかの宗派に祈祷させてますから、どこの祈祷に効果があったかなんて分からないわけです。
他宗が「いや、お前の祈祷が効いたんじゃない」とか言い出すところが出て、「公場対決」になるように「挑発」したのですよ。
大聖人が自然を操れる「超能力兵器」なわけも無いですし、文章表現だけで大聖人が暴力を「使った・望んだ」と言う理由にはなりませんよ。

大聖人は王法で可能なこと、仏法で可能なことをそれぞれしっかり認識していたため、法論で法の正邪を明らかにし、その証人として国主が立ち会う「公場対決」を重視していました。
「食法餓鬼」は「施を止める」王法で退治し、法の正邪は法論で、つまり「仏法で決着」させる考えだからずっと「公場対決」を望んでいたのですよ。

> それは日蓮上人の被害妄想とも考えられます。日蓮上人の記述だけで断定するのは危険だと思います。

では、祈雨対決の後に急に起こったことはどうなりますか?
蒙古襲来に現実性が出た時に出した十一通御書は無視されていますから、祈雨対決で恨みをかっていなければ大聖人には処刑されるほどの理由がありませんよね。

> 日蓮上人が初めから決めていた事なので、としか愚人には言えません

国主はそもそも、仏法上は一人の衆生ですから、「国主が正法に順ずれば」が必須条件では無く「国主の帰依」に拘らない判断が出来た言うことでしょう。
また、三度目の諌暁時には立正安国論で示した「神天上法門」の一部を大聖人自身が「竜の口の法難」で崩しており、国主以外の「世皆正に背き」の状態を自身の手で解決することにしたのでしょう。
当然、「世皆正に背き」の状態を解消するには、最終的に「国主の帰依」も必要ですが、国主は少なくとも正法受持者への迫害をしなければよく、「公場対決」の場では国主は証人ですから、「公場対決」が実現後に国主は帰依してもいいことになります。

身延に入ったからこそ「公場対決」を望んでいたと考える方が自然でしょう。

そろそろ一歩踏み込んだ考察をはじめてもいいと思いますよ。