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  • 教学部レポートの正体

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)11時09分33秒
 
「教学部レポートの正体」は、海さんが、宿坊の掲示板に投稿していたものです。
宿坊氏には、よほど都合が悪かったのか、理不尽にも全て削除されてしまいました。
その流れで、こちらの掲示板にて投稿されました。
その内容が素晴らしい内容で、本スレではスグに流れてしまう為に、テンプさんの提案を受け、独立したスレとして立ち上げました。
皆様、研鑽の糧として下さい。宜しくお願いします!ヾ(^∇^)/では

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

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  • 教学部レポートの正体⑨

  • 投稿者:テンプ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)12時26分41秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体⑨   投稿者:海   投稿日:2015年 7月 2日(木)13時48分8秒     通報 返信・引用


   モウ様
>余談ですが、末文の「(教学部レポートの正体⑧ つづく)」は⑨では
ないでしょうか。

なんとなく変だなとは思ってましたが(教学部レポートの正体⑧終わり。⑨につづく)と書けば良かったんですね。
でも、この⑨で一切がお仕舞いですので、お許しください。

宿坊板への書き込みが認可制になったとのことですので、今回は最初からこちらに書き込みます。




教学部レポートの正体⑨

「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【12】 20日朝8時半から小委員会が行われ、そこでも議論が紛糾。教学部で、他5人を事実上、論破する結末となりました。
 しかし、谷川総長は、こちらで用意した大御本尊を巡る教義的説明が気に入らなかったようで、原田会長が発表する趣旨説明文から、そうした箇所は全て削除することになりました。
 20日午後3時から、執行部、SGIの首脳、教学部などが出席する会議が開かれ、出席者から、教義の根本を拙速に変えることについて、強い懸念が表明されて、実質的に、原田会長の方針が否決される形となりました。<<<<<



 海の意見。
非常に民主的な手続きが踏まれていることが、逆に理解できました。

創価学会会則によれば、会長には相当強大な権限があります。
「第10条 会長は、次に定める会務を行なう。
1) 教義および化儀を裁定する。この場合、師範会議に諮問の上、最高指導会議の意見を聞き、これを尊重するものとする。
2) 御本尊に関する事項を司る。」

であるにもかかわらず、会長の提案が「否決」されるのだとしたら、原田会長は本当に民主的な手続きを重視して慎重に事を進めている、ということができると思いました。




「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【13】 にもかかわらず、既定の方針は、撤回されず、独断専行の状態が続いています。教学部は、その後は、一切、意見を求められないようになりました。小委員会も開かれていません。学会教学の最重要課題であるにもかかわらず、教学部を完全に排除するという異常事態が続いています。会員の疑問には、誰が答えるのでしょう。宗門との論争が起きたら、誰が戦うのでしょう。
<<<<<

 「規定の方針」というのは、
このレポートの【10】の③でいうところの
「学会常住御本尊が、新しい大御本尊という意義づけをするんだ。それを総本部完成の新たな体制の出発する今、やるしかないんだ」

という原田会長の方針であり、遠藤文書でいうところの
「「学会常住御本尊を、弘安2年の大御本尊に替わる新たな根本の大御本尊と意義づける。」
という部分でありましょう。

 しかし、現実にはそうなっていないのですから、「既定の方針は、撤回されず、独断専行の状態が続いています」と誰かに訴えてみたものの、全部ウソだったわけですね。
 またはレポート筆者がそのように思い込み、まぼろしを書いてしまっただけなのかもしれません。
 筆者(宮地)は、論の枢要な部分で、見込みがまったく外れてしまう、自称・教学の「玄人」さん。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【14】 9月25日には、SGI主要国の中心者を招集した会議が開かれましたが、そこでも原田会長は、既に否定された方針を繰り返しています。各国の理事長たちに感想を伺いましたが、多くは、余りに拙速な発表に困惑していました。論理性を重んじる欧米の首脳は、教義の根幹で論理的整合性が付かなくなることを心配し、各国に戻っても説明しようがないと苦悩されていました。
<<<<<

 こういう書き方は私は卑怯な部類の書き方であると思っています。何人中の何人なのかが明記されていないので、あたかも全員の感想がそうであったかのように錯誤させる文なのです。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
大御本尊の問題は、日本の創価学会の下に各国SGIを位置づけるSGIの新たな機構・規定とセットで発表されました。この点については、日本の侵略を受けたアジアの国々の首脳が、強い違和感をあらわにしていました。このまま独断専行が続くと、池田先生が作られてきた学会の信心、SGIの組織が大混乱に陥ります。未来永遠に大きな禍根が残ります。<<<<<

この「日本の創価学会の下に各国SGIを位置づけるSGIの新たな機構・規定」とやらは実現しているのでしょうか?私はこの辺には詳しくありません。

しかし、2015年6月現在、創価学会のサイトに掲載されたSGI憲章では次のように書かれています。

「SGIはそれぞれの国の実情をふまえて、各加盟団体の自立性と主体性を尊重する。」

 日本の下に云云というニュアンスはどこにもありません。




「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
大御本尊に関する見解の発表は、事実上、宗門に対する宣戦布告となります。大慶祝の時に、なぜ混乱と論争の火だねを蒔くのでしょう。勝つためには、それ相応の準備が不可欠ですが、なぜ何も準備しないまま、負け戦に突入していくのでしょう。
<<<<



そろそろレポートも最後なのですが、最後の締めも「仏敵への恐怖心」で終るところが、ユニークな人だなと思いました。

また今更「事実上、宗門に対する宣戦布告となります」と開戦をイメージしているところに、本当にこの人は、この20年以上、何を遊んでいたのだろう、と疑わざるを得ません。

とっくに開戦していましたし、とっくに大勢は決しています。
なのに「負け戦に突入」とは・・・・
どこまでも残念な信心の人だ、と思います。

何度も言いますが、少なくとも私の周囲の現場レベルの学会員は、対論でも対話でも、宗門などには負けません。何十人もそういう方を知っています。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
 池田先生が全世界の会員同志のために贈ってくださる総本部の完成を前に、このような事態が起こり、本当に池田先生に申し訳ない気持ちで一杯です。とともに「仏法に相違して己義を構えば之を用う可がらざる事」という覚悟を決めております。
<<<<


 直前で「自身の臆病」を披瀝した人が、それに気づかず「覚悟」を述べる。
 まったくもって軽薄な人です。

 かなりていねいに読み込みましたが、終始、文章も人格も、教学も経験も、未熟な印象がぬぐえませんでした。
 なぜこのような文章に心酔する人がいるのか、甚だ理解に苦しみます。


以上、教学部レポートの正体⑨ 終わり。



皆様には、もう、この教学部レポートの正体は見えたことと思います。

このような程度の者が書く駄文に騙されてしまうようでは、人生を過ちます。

また、この教学部レポートがすべての始まりであると宣言する宿坊板も、同じような軽薄な人間性をもっているように感じます。

そしてこの一連の文章「教学部レポートの正体」を4月より書いてまいりましたが、このたったの2ヶ月ですら、諸天が寿いでくれているような人生の展開がありましたことを感謝しております。

むかし先輩から教わりました。
「正しい信心を一生懸命に、2年3年と続けているのに、結果が出ないなんてことは絶対にない。出ないとしたら、池田先生との呼吸が狂っているか、真剣じゃないってことだ」

私の人生は、まさにそのとおり、想像以上に幸福を感じられる人生にしていただきました。

だからといっても、ここは娑婆世界。
多様な凡夫の姿をした仏様たちの集まりである創価学会の中で、喜びや楽しみだけを感じてきたわけではありません。

怒りや悲しみも感じてきましたし、「違うんじゃないの?」なんてことはたくさんありました。

でも自分だって、そんなに立派なもんじゃないし、みんな一生懸命だし、池田先生が好きだし、題目をあげると結局のところ、すべての人が使命ある偉大な菩薩、と思ってこれまで道を過つことなく、来れたのでした。

過去の私は、福運のない、捨て猫みたいな気分にしばしば支配されていましたが、
現在の私は、自称・福運の塊です。
池田先生、三代会長のおかげです。

人生を何度も何度も高次元に開いて来られた体験。
学会の中で出会う人、社会の中で出会う人。
みなさんに恵まれています。
感謝感謝の日々です。

その反対に、かわいそうなことですが、文句ばかりをいう人間が、何かをなしとげる姿は見たことがありません。

なので私は、この信心の勘(反宿坊、反遠藤文書でいく)に自信がたっぷりとあるのです。

 逆説的ですが、この矛盾だらけ、わけがわからないほど滅茶苦茶な部分もある創価学会の中で、打ち出しに悩んだり、幹部の不用意な態度に怒ったりしながらも、あらゆる未熟さ、無能さ、無智さを大きく抱擁して愛してくださった三代会長の御恩を思えば、そうそう簡単に仲間や同士にかんしゃくを起こせるはずはありません。

私は、池田先生に怒られない自分だとも思わないし、会えばきっと怒られる。
でも怒られたら、幸せじゃないですか。
でかい声で「ハイ!」って言ってみたいです。
怒られるのは期待を受けた人の特権であることは、実社会の中でも常識です。

ただし、学会を破壊する行為に出たものとは戦います。

教学部レポートや宿坊板に騙されては三世の後悔となります。
創価学会は池田先生が指揮をとっているという事実を見失ってはなりません。

毎日読誦している勤行の中に、「深入無際」とあります。
諸仏の智慧の門を信心でくぐって入っていくと、そこにあるのは際限のない広大な世界です。無量であり、無礙=さまたげがありません。

宿坊板を読んでいると、深入「迷路」であり、狭量であり、四方が壁のような境涯にはまっていく感じがします。

師弟不二だと妄想しながら、池田先生が指揮をとる創価学会を攻撃し、公明党をつぶせと主張する。

いったい、どんな師弟不二を目指しているやら。
宿坊の板に池田先生の言葉の羅列はあっても、
行動や慈悲の部分において、池田先生と似ている部分が、ちっとも発見できません。


(以上で「教学部レポートの正体」の一切を終了させていただきます。ちょっと開けて、遠藤文書をやります。)




  • [8]
  • 教学部レポートの正体⑧

  • 投稿者:テンプ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)12時24分5秒
  • 返信
 
宿坊板、感心するほどの早業削除でした。

教学部レポートの正体⑧  投稿者:海  投稿日:2015年 7月 1日(水)12時47分40秒   通報


 ここから先は、【8】から【14】まであるのですが、実は私はここから先の記述にはあまり興味がありません。
誰がああいった、こう言ったの、言い換えたの、というような類の話で、教学的な論点がないからです。

 ああ言った、こう言ったに拘泥すれば、団結はどんどん乱れます。
言葉は「常に足りていないもの」ですから、齟齬が生じた場合、誤解を「理解」に変えていく姿勢(つまり言葉の付加やいい直しを認める態度)がなければ、一言の齟齬によって、永久の敵対が生れます。日常的な、同志的人間関係や家族的人間関係においては、そういう言葉の曖昧さや、言いなおしや添加は許容されているのです。

 ところが寛容を失い、やり込めてやるという態度の人間関係においては、一言のミスが永久に指摘され続け、次から次へと揚げ足を取られますから、結局のところ、対話の継続が不可能になります。

こういうところに拘泥する輩は、実社会にも時々いるのですが、一言一言を契約しているわけでもあるまいし、面倒くさい人だな、というのが率直な感想です。

不用意な一言はもちろん誤解を生むものですが、関係性が良好であれば、言い直したり言葉を不加したりして、次第に理解は深まります。

しかし、最初からけんか腰であったり、言葉尻を捉えてやろうとレコーダーを回しているような者とは、建設的議論はできません。

もともとにクレーマー的要素を持った面倒くさい人ですから、相手をする人も構えた付き合いにならざるを得ませんし、その緊張感のゆえに本当のことが言えない場合も生れます。それがまた齟齬を生むこともあるでしょう。

幹部の方々には頑張ってもらいたいと思う反面、こういう諸の、悪意を含めた視線にさらされて論評される、と言う意味では、若干同情もいたします。
以上、ここまでは一般論です。


ここから先の部分については、以下に紹介しつつも、一言二言のコメントを付すにとどめたいと思います。
なぜなら、便宜上、教学部レポートは宮地が書いたものと考えられる体裁をとってはいますが、本人からは何の弁明もないので、相手がいまひとつ明確ではありません。

その明確ではない文責によって書かれた内容を丸ごと信じると言うのは、週刊誌に惑わされる以上に愚かしく感じます。

つまり、この文書の言った、言わないについて、万が一訴訟になる場合、誰がその責を追うのか。これを広めた信濃町の人びと氏が負うのか。
それさえも明確ではないのですから、少なくとも文責が明確になっている週刊誌よりも真面目に相手をしてはいけない代物なのだと思います。

また、レポート筆者も遠藤文書の筆者も、建設的対話をしようとする態度がない。
 最初から、外部に情報として、その幹部の発言を流出させようという悪意があります。
 そんなところを喝破しておけば、この手の扇動文書に騙されることはありませんから、あまり細部に及ぶことなく、本質を突いておくに留めたいと思います。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【8】 谷川総長は囗では勇ましく「宗門と最終決着をつける」(東京地裁で和解で負ける)と言っていましたが、それを断行しようという覚悟や責任感や能力があるとは到底思えませんでした。<<<

 人の決意を論評する者がいます。
 戦わない者が、戦う者を論評することがあります。

レポート筆者は裁判で戦ったことがあるのでしょうか?
戦わざる者が、戦う者を論評する。この一文の本質はそこです。

中島みゆきは歌います。
「戦う君の歌を 戦わない者が笑うだろう」

この場合、事実として、谷川さんは戦った人です。
レポート筆者は「和解で負ける」と書いていますが、和解は負けではありません。
引き分けです。
シアトル事件も和解で決着でしたね。

H地氏のように、電話盗聴された被害者のはずなのに、なぜか裁判でも負けてしまう、という「意味不明な完敗」とはまったく異質です。

和解の多くは裁判長が勧めてきます。
断ることによって負けることはあります。
谷川さんが引き分けるつもりで戦ったと思いますか?

そのジャンルで戦わない者は、戦う者を応援するだけです。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
また何より悲しかったのは、教学部以外の5人の方々の言葉に、会員の苦悩に対する慈悲が一かけらも感じられなかったことです。八尋弁護士や金沢総局長は「変更しても、ほとんどの会員は付いてこれるでしょう。大体は大丈夫でしょう」と言っていました。一人残らず幸福にする、絶対に退転させないというのが、池田先生の御心ではないでしょうか。八尋弁護士については、ある人に「多少の退転はやむを得ない。9割は付いてこれる」という趣旨の発言をしていたとも聞き及んでおります。 1000万会員の1割と言えば100万人。100万人の同志を退転させ、地獄に堕とすというのでしょうか。<<<<<


 海の意見。
 ここの部分は、この教学部レポートに扇動されることの愚かさを思い知らせてくれる部分でありましょう。顕正会の浅井なみの先見の無さが露呈しています。

① 実際の今回(2014年11月)の教義解釈の変更を受けて退転したという人をいまだに聞いたことはありません。
1割と言えば、支部で2~50名、区で数千名規模ですが、そんな退転者が出たのでしょうか。

「100万人の同志を退転させ、地獄に堕とすというのでしょうか」
と述べるにいたっては、なんというか、先見に乏しいというか、実際の学会員を知らなすぎるというか。リアリティがない妄想に落ち込む人というか・・・異常興奮しすぎでしたね。
 地震が来るとか、地球が滅亡するとか歎いてみせたのに、期日を過ぎても何ごとも起こらない。そんな結末の教学部レポートを、今なお振りかざす愚者たちがいる。
 そういう見方が大事だと思います。

② また人を切り捨てることの無慈悲さを説くならば、宿坊板の削除癖も責められるべきでしょう。基準は管理人の気分のみ。

宿坊氏ではない、他者に宛てられた文まで数分で削除するのですから、この板の住人は、管理人のそういう横暴を許容できる従属関係があるのではないかと疑われる人間関係です。宿坊は、日顕並のかんしゃく持ちです。

 クジラ板が異論を排除しない姿勢でいることと並べみれば、どちらに仏法者の態度、現場で鍛えられた包容力があるかは一目瞭然のように思います。

 この視点は反宿坊板にも書かれていましたが、クジラ板は整理されていないので確かに読むのが面倒くさい状況もあります。しかし、私たちはこのような整理されていない会話の中から、ていねいに真実を聞き取ることを日常としています。

③ また教学部レポート筆者は、自己矛盾を起こしています。一人も迷わせたくないかのような「正義」を振りかざしているのに、この教学部レポートを流出させて多くを惑わせる。この教学部レポートを読んで、創価学会がイヤになってしまった人が、宿坊板の書き込みの範囲の中でも複数見られましたね。このレポート筆者にあるものは、「正義」というよりも「偽善」です。

④ さらに加えて言うならば、宿坊板のノーカット版で紹介されていた2008年3月のものとされる池田先生のお言葉にも、
「■師匠の言う通りしない幹部は吊し上げろ。そして迷惑をかける輩は除名していくんだ。」とあるようです。

この池田先生の発言も、人数こそ違いますが、「同志を退転させ、地獄に堕とすというのでしょうか」とコメントするつもりでしょうか。

 宿坊板に集結している、宿坊さんを初めとする除名処分者の皆さんは、どのようにこの先生の指導「迷惑をかける輩は除名していくんだ」を受け止めているのか、逆に問うてみたいものです。
 所詮、あれこれ言っても、師匠が健在の創価学会を訴えている勢力の掲示板に過ぎません。
 その重大なツールが、この教学部レポートだったわけです。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【9】 また小委員会では、秋谷議長は、師範会議に、婦人部の秋山さん・八矢さんが入っていることを、しきりに気にしていました。異議を申し立てそうなメンバーを変えるように指示を出していました。当初から皆の合議で決定するというつもりはなかったのです。<<<<<

 なんか、もう、なんでも書き殴りたいのですね。
 いったい、これを誰に訴えてかけているのでしょうか?

 当事者である学会執行部に対して言っているのではないところが恐ろしいです。(この文書が最初から、学会首脳ではなく外部を扇動するために書かれたものであることは「正体①」に書きました)。

 この文章の本質は、人と人の連結を裂くための言辞の羅列である、ということです。仲間割れを誘発させようとしているわけです。




「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【10】 御本尊の問題は、いつか完全に決着をつけねばなりませんが、それをやるには1ミリの狂いもないような論理構成を考えねばなりません。本部の方針が1ミリでも狂えば、現場では10メートル、100メートルの狂いとなって大混乱を引き起こしてしまいます。<<<<<


「1ミリの狂いもないような論理構成を考えねばなりません」と勇ましいのですが、レポート筆者がその組立ての主体者だとしたら、これは「永遠にできません」と述べているように聞こえます。
 それからね、本部が1ミリ狂っていても、現場は何も狂いません。
 なぜだかわかりますか?
 わからないでしょうね。教えてあげません。

あなたが知るべきは、現場の学会員をとことん蔑視する「本性」が文に出てしまっているということ。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
「教学部は黙って従え」と言わんばかり会議が何度も続き、進退窮まって、教学部として9月19日の夜、原田会長に直に指導を受けることにしました。夜9時半過ぎに遠藤・森中・宮地の3人で原田会長のところに伺いました。
 この数日前にも原田会長にご指導頂く機会があり、その折にも「教学部の皆さんの思いは、よく理解しました」とのことでしたので、率直に、紛糾する会議の実情をご報告しました。原田会長の話は、以下のように、全く予想に反するものでした。

① 小委員会の方針は、全て池田先生のご指導を受けて進めている事である。きょうも、その点について池田先生のご指導を受けてきた。
② 宗門問題で、大御本尊を巡る問題がまだ残っている。今こそ大御本尊とも決別する。大御本尊は、学会とは関係ない存在だ。
③ 学会常住御本尊が、新しい大御本尊という意義づけをするんだ。それを総本部完成の新たな体制の出発する今、やるしかないんだ。
④ 全て池田先生のご意志だ。教学部は戦う覚悟がない。腹を決めなさい。大変厳しい叱責であり、教学部としては、池田先生のご意志ということですので、「分かりました。やらせていただきます」とお答えしまた。<<<<<<



 海の意見。
これも、「学会常住御本尊が、新しい大御本尊という意義づけをするんだ」という前提の話ですから、そうなってはいない現在において論じる意味はありません。
過程にいろいろ議論や意見衝突があることは良いことです。

 問題としては、むしろ、教学部レポートが「危機である」として煽った状況(大誓堂の御本尊が大御本尊になる)が、まったく発生していないことです。
 2013年に、このレポートで煽られた「危機」は、結果としてウソだったのです。

 何月何日に地球が滅ぶ、と人類の最後を予言し外し続けてきた、数多のカルト宗教者なみの煽りが、創価学会の中に起こったのです。その恥ずべき歴史が教学部レポート(=宮地文書)によって刻まれた、ということです。

 もしも、大誓堂の御本尊が根本とすべき「大御本尊」である、などと定義されていたら、そのときは私とて、腕まくりをして戦いを起こすことでしょう。

 ただし、宿坊板のような、除名処分者・非創価学会員勢力とは与同しません。

 混乱に乗じて敵性人物たちが暗躍することは、歴史の常だからです。

 池田先生がそうであったように、多様性に富んださまざまな創価学会員の方々のお顔を思い浮かべ、そこに一切の悲しみや戸惑いの表情を浮かべぬように配慮し、ひっそりと、しかし強く、創価学会の一切を傷つけぬように行動を起こします。
 それも自分の足元から。

 私のいる創価学会の現場は、かなり素晴らしい世界です。
 自分の足元を変えられない者たちが叫ぶ「改革」ほど空しいものはありません。




「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【11】 会長からのご指導を頂いた後、念のため、池田先生のご指導の細かなニュアンスを大山・第一庶務室長に確認しました。大山室長は、とても驚いた様子で、「池田先生は全くそのようなことを言われていない。学会が損をしたり、学会員が苦しんだりしないようにということで、池田先生は一貫されている。今までやってきたことが間違っているとならないようにというのが、教学に関する変わらぬご指導だ。慌てて事を進めるなどということは、一切言われていない。原田会長も池田先生の前では
『いろいろな意見がありますので、慎重の上に慎重に進めます』
 と言っていた。こんなやり方をしては、学会の信心も教学も崩れてしまうではないか」とのことでした。
 原田会長が池田先生にご説明したのは、
① 宗門は700年、護持の名に隠れ、広宣流布を進めてこなかった、
② だから、大御本尊を持っていても、功力は出ない、
③ 大御本尊が一切の電源で、書写本尊が端子というような関係ではない、
④ 学会常住の御本尊を根本に広宣流布を進めていくという範囲だったようです。「池田先生のご意向のもと、大御本尊との決別を今この時に宣言する」という、池田先生のご指導は、全くの作り話だったのです。その翌日、会長が池田先生にご指導を受けた際に同席されていた長谷川本部長にも確認しましたが、大山室長と全く同じ見解でした。<<<<<


① は事実そのとおり。
② もまさにそのとおり。若干補足すれば、真の智者がいれば広宣流布はできる、と大聖人はおっしゃってます。
「智者と申すは此くの如き時を知りて法華経を弘通するが第一の秘事なり」(1051)
「正法をひろむる事は必ず智人によるべし」(1148)

つまり宗門には智者も智人もいなかった、ということです。また創価学会が仏意仏勅の団体である文証ともなります。

③ これは「分身散体」の義の否定ですね。「分身散体」は御書にも法華経にもない語ですし、御本尊に関連した教義のなかで、「分身」はありえません。なので修正されて当たり前だと思います。
詳しくは
「(質問へのお答え①)  投稿者:海  投稿日:2015年 5月26日(火)14時55分19秒」に書きましたので、本文書の最後に転載しておきます。

④ はそうなっていない現在において、論じる価値がありません。書き手の妄想だったのか、はたまた陰謀だったのか、それともさらに低次元な勘違いだったのでしょうか。



以下「分身散体」の義が日蓮大聖人のものではないことについて。


(質問へのお答え①)  投稿者:海  投稿日:2015年 5月26日(火)14時55分19秒   通報
教学部レポートの破折(質問へのお答え①)

 先週の私の書き込みに対して、お二人のみ文証を引かれ、反論していただきましたので、順次、お答えさせていただきます。
まずは大勝利さんへのお返事から。

>>>>
海さん  投稿者:大勝利  投稿日:2015年 5月19日(火)18時20分4秒
※ 「「戒壇の大御本尊」が本体、他の御本尊は分身であるという論理」
からは、通常、大御本尊は本体(本)、他の御本尊は分身(迹)というべき、分身散体なる理屈が展開される。※

この海という人は何を言いたいのか?意図がさっぱりわからん。
「第九に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、若しは仏の在世若しは滅度の後に、是の経を得ることあって歓喜踊躍し、未曽有なることを得て、受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為に是の経の義を分別し解説せん者は、即ち宿業の余罪重障、一時に滅尽することを得、便ち清浄なることを得て、大弁を逮得し、次第に諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧、首楞厳三昧を獲、大総持門に入り、勤精進力を得て速かに上地に越ゆることを得、善能く分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を抜済して悉く解脱せしめん。是の故に是の経に此の如きの力います。」
どこに(本)(迹)があるのだろう?
勝手に「通常」はとか言い出してレポートを貶めたいだけの自分の論理の押し付けではないのか?
<<<<<<以上大勝利さんの引用


 さて大勝利さんに2つ意見を述べさせていただきます。

① まずは私が(本)(迹)を書き込んだ意図。( )をつけて記しているように、これは「註」的な意味で書き込んだものです。
「本門」「迹門」という一般用語についている「本」と「迹」でしか、「本」「迹」の意味を理解されていないとしたら、私が( )をつけた本迹の原義的な感覚が理解できなかったと思います。少々不親切だったかもしれません。お詫びしますね。

「下種感応日月の本迹 下種の仏は天月・脱仏は池月なり。天台云く不識天月但観池月云云」(百六箇抄866頁)
においては、
本=天月、迹=池月
とされています。

そして日寛上人も
「一、諸仏皆釈尊の分身なり文。(御書 p214)
 釈尊はこれ天上の月の如し、分身は万水に浮ぶ影の如し等云云」(開目抄下愚記)
 と述べて、
釈尊=天月、分身=万水に浮かぶ影(池月)
としています。
つまり、本と迹という言葉には、

 本=天月=釈尊、 迹=池月=分身

という構図ができているのです。

私がこれら原義(妙楽などを見れば、もっと奥深い原義もありますが)から本体が(本)、分身が(迹)との注記したとしても、一般論として外れた説明ではないと思いますが、いかがでしょうか。

わかりにくければ( )を削除でよいかと思いますし、不要ならばなくてもいい部類の言葉ですので、あまりそこを気になさらないで幹を見ていただけると幸いです。


②それから、大勝利さんが引用された文は御書でもなく、法華経でもなく、無量義経十功徳品第三の一説ですね。

御書には「分身散体」はありません。法華経にもありません。大勝利さんは出典をしめさずに引用していますが、御書か、法華経か、と勘違いされることを意図したのでしょうか。出典は示すのが礼儀だと思います。

さて、無量義経にはあるのですが、大勝利さんがどういう主張を証明したくて引用をされたのかが定かではありません。
 引用された部分を現代語訳にして俯瞰してみましょう。

「無量義経を持つ十の功徳のうちの「第九番目の是の経の不可思議の功徳力」とは何か。もしも善男子、善女人がいらっしゃって、仏の在世または滅度の後において、この無量義経を得ることあって歓喜踊躍し、その教えの未曽有なることを得て、無量義経を受持し読誦し書写し供養し、広く衆人の為にこの経の義をよく理解して解説する者がいたならば、その人は即ち宿業の余罪や重障を一時に滅尽することができる。

つまり清浄なることを得て、大弁(意味がやや不明なので、そのまま残します)を体得し、だんだんと諸の波羅蜜を荘厳し、諸の三昧、首楞厳三昧を獲て、大総持門に入り、勤精進力を得て、速かに自分のいる位よりも上地に越えていくことができる。よく分身散体して十方の国土に遍じ、一切二十五有の極苦の衆生を根本的に救済し、一人残らず解脱させるだろう。この故に是の無量義経には、このような力があるのです」

 無量義経の十功徳品は私も大好きな経典ですが、残念ながら、ここに唯一「分身散体」という言葉があったとしても、これは御本尊のことでは到底ありません。
 この十功徳品の十の功徳を得られる対象となって励まされるているのは、凡夫中の凡夫なのです。

自分がぜんぜんだめな人間(凡夫)であっても、励ました後輩が立派になるよ、とか、無慈悲な人でも慈悲が涌いて来るんだよ等と功徳が書かれて励まされているのです。もともと無量義経は法華経の序分であり、無量義経のなかでは流通分です。

ですから、ここでいう「分身散体」するのは、私たち凡夫自身なのです。信じられないことですが、この無量義経(大聖人のお立場から翻って南無妙法蓮華経)を持つ者は、凡夫の姿のままで、ばか者のままで、後輩が立派になることを喜びとしたりしながら、十方の国土に分身散体して遍満する、というのが無量義経の文意なのです。

大聖人お一人のこと、などと読める流れでもありません。ぜひ通して読んでみてください。御本尊のことを示す引用箇所では到底ありませんから、その点は間違いを改めてください。



このように書きますと、戸田先生がこの無量義経を引用して分身散体の義を説明されていることを引き合いに出される方がいると思います。
しかし、戸田先生や池田先生の言葉だからといって、時代性を無視してそれを引用することには、私は意味を感じません。

そもそも「成就甚深未曾有法 随宜所説意趣難解」と方便品にありますように、仏様が本来の甚深の法を「随宜所説」されるのが「方便」です。そしてその方便の意趣(なぜそのように説いたのか、という真意)は難解です。

ゆえにいつでも仏法は、「昔言っていたことと違う」といって迷ったり退転したりするものだと私は理解しています。

また、戸田先生の教学は、獄中の悟達のように法華経の行者ならではの深遠な部分(大石寺由来ではない部分)と、大石寺から教わったとおりの知識の部分に分けて考えるべきではないでしょうか。

戸田先生の言葉だからと言って、「法主に逆らったときには創価学会を解散する」のような言葉を現代に持ち出して従うことを良しとしたら、あっという間に創価学会は大石寺に吸収され、その魂は滅びます。こういう「過去に従え」というやり方は、法華講の言い分なのです。

富士の清流七百年だとか、さんざんなウソを教わってきましたが、その罪は創価学会の会長先生にあるのではなく、教えた坊主が悪いに決まっているのです。こっちは信頼していたのです。

なのに、いつまでもその坊主に教わったウソに拘泥する態度は間違っていると思いますし、より正しい方向にどんどん修正されるべきだと思っています。

本来なら、平成5年に、御本尊を学会が授与をするという大方針転換を決定したときに、一気に日蓮正宗の臭いを消すことも、理屈の上では可能であったと思います。しかし、当時の学会員の理解度を吟味し、20年間を待ち、ゆるやかに機根を整えていただいた。

私は、すでに時を得ており、池田先生のご存命中に、真に日蓮大聖人根本、御書根本の創価学会になるべきだと思っていましたので、今回の会則変更には拍手喝采を送ります。

ともあれ、御書にも日寛上人にも「分身散体」なる語はありません。

それをこの期に及んで、御本尊についての意見書の枢要な骨子としているのですから、教学部レポートは主張の基本とするところがなかなか日蓮大聖人に近寄ってこられず、おかしいものだなと私などは思うのです。

*註:この反論に対し、「分身散体」はないが、「分身散影」はある、といってどんどん文証が御本尊の話から離れていきました。それも十方分身諸仏の話で、到底南無妙法蓮華経の話ではありませんでしたので、紹介するまでもないと判断します。

(教学部レポートの正体⑧ つづく)





  • [7]
  • 教学部レポートの正体⑦

  • 投稿者:テンプ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)12時18分30秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体⑦   投稿者:海   投稿日:2015年 6月26日(金)13時46分47秒     通報 返信・引用 編集済


   以下、宿坊板にて削除済み。

教学部レポートの正体⑦  投稿者:海  投稿日:2015年 6月26日(金)12時54分9秒   通報


「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【7】 また聖人御難事の「余は二十七年なり」という大聖人の「出世の本懐」の表明についても、谷川総長は
「『出世の本懐』の意味だって変えればいいんだ。独立した教団なんだから、変えてもいいんだし、変えられるんだ。南無妙法蓮華経の御本尊を顕したことにすればいいんじゃないか」
 と述べていました。もちろん御書の解釈はできるにしても、御本尊の「出世の本懐」について生半可な教義理解で軽々しく決められることではありません。

 さらに「末法下種の三宝」についても、現在は、公式には仏宝が日蓮大聖人、法宝が三大秘法の大御本尊、僧宝が日興上人になっているのを変更するのかという議論になった際、
谷川総長は
「それも変えればいいんだ。何の問題ない」
 と述べていました。

しかし、
「それでは、歴代法主が僧宝であるという宗門に対して、僧宝は日興上人であると反論した学会の論拠が崩れてしまう」
と申し上げると、
谷川総長は
「それでもいいんだ。宗門とは別の教団なんだから」
 という返事でした。
「過去との整合性など、どうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。完全に独立した教団として出発するんだから。結論は決まっているんだ。教義なんて、それを後付けすればいいんだ」と、谷川総長は何度も繰り返していました。何でも自分たちで決められるという全能感がにじみ出ていて、何を言っても取り付く島がありません。支離滅裂な不毛な会議となりました。<<<<<



海の意見。
前半が「出世の本懐」についての変更論議であり、後半が「三宝論」の変更論議になっています。

(1) 出世の本懐についての谷川発言の検討

すでに2015(平成27)年1月29日付聖教新聞で、「会則の教義条項改正に関する解説(上)」が発表されています。この「解説」の筆者は、私が知っている程度のことは当然知っている上で、かなり筆を押さえて文章を書いている、と読みながら思いました。

私も「2015年 4月21日(火)11時03分8秒」に宿坊板に「遠藤文書の?」(宿坊板では削除済)という投稿をして、日蓮大聖人の出世の本懐が戒壇本尊のことに限定されるべきではないことを、多数の御書の引用で示しました。

それはもちろん、戒壇本尊が偽物であるなどという短絡的な主張をするためではありません。三大秘法の建立こそが出世の本懐である、という本部の発表と同じく(御書根本、日蓮大聖人根本という態度が同じなので、同じような結論になるのは当然)、その「出世の本懐」に連なる一つの御本尊として、戒壇の本尊も当然「真」のご本尊なのです。

だから、戒壇の本尊が創価学会員が拝するべき御本尊である「時代」において、創価学会員が拝すれば功徳が沸くのは当然です。それは他宗格護の大聖人御真筆御本尊も同じです。

さて、
 「『出世の本懐』の意味だって変えればいいんだ。独立した教団なんだから、変えてもいいんだし、変えられるんだ。南無妙法蓮華経の御本尊を顕したことにすればいいんじゃないか」
との谷川発言には、内容的な間違いは見当たりません。話し言葉のメモなので、不謹慎に聞こえる、という程度のものです。
 文脈上、谷川発言に対する悪意が初めからあるので、読み手が文体に引きずられて悪い発言に見えてしまう、というだけのことです。中身そのものに問題はありません。たとえば、こういうことです。

「なんと谷川は、「1+1=2でいいじゃないか」と述べるのですが、確かにそういうことができるとはいっても、足し算の定義について、生半可な理解で決められるものではありません。これまで1+1=3だとしてきた経緯があるのです。過去との整合性など、どうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。谷川には何でも自分たちで決められるという全能感がにじみ出ていました」
のような馬鹿げた理屈を吹っかけているのが教学部レポートのように、私には見えます。

1+1が2なのか、3なのか。
まず最初に、その追求をしないまま、いきさつにこだわって攻撃を仕掛ける。だから、こういう愚かな文を綴ってしまうのだと思います。真実に関心がなく、真実に立脚しようとしない文章は、まったく無価値なものになってしまう、その典型的文章が教学部レポートだと言うことができます。

さて、この谷川発言の中の、
「南無妙法蓮華経の御本尊を顕したことにすればいいんじゃないか」
との考えは、単なる思い付きではないように感じます。谷川氏の発言には、しっかりと御書で裏付けられる考えが透けて見えます。

 たとえば、
「あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。」(阿仏房御書1304)
 この御書においては、戒壇本尊ではない御本尊であるにもかかわらず、「出世の本懐」であると日蓮大聖人は呼ばれています。私たちがこれまで、あまり教わってきていない「出世の本懐」の真実の一つです。
また、
「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄365)
と御書にあります。

 すると「「南無妙法蓮華経の御本尊を顕したことにすればいいんじゃないか」と言う発言は(教学部レポート筆者によって、谷川氏の思いつきであるかのように記述されてはいますが)、その内容を御書に照らしてみれば、きちんと整合性が取れている発言を谷川氏はしているにすぎないわけです。

だからレポート筆者も、
「もちろん御書の解釈はできるにしても、」
と、その発言の裏づけが御書にあることを認めています。

 ところがレポート筆者は「御書軽視」が身に付いているのです。御書で裏づけができることも認めているのに、それには従わない。
彼は、
「本尊の「出世の本懐」について生半可な教義理解で軽々しく決められることではありません。」
 と述べて谷川発言を退けるのです。
 御書で裏付けられる「出世の本懐」を、彼は「生半可な教義理解」と呼ぶのです。

 御書で裏付けられるのなら、それ以上の「教義理解」はないはずなのに、それでは不足であるとする教学部レポート筆者。
 彼は御書より他に何の「教義」を求めているのでしょう。

そして「軽々しく決められることではありません。」とまで言うのでありますが、私に言わせて頂ければ、レポート筆者は何も「決め」なくてもいいし、そんな権限は彼にありません。

「出世の本懐」の意義を決められているのは、日蓮大聖人その人です。レポート筆者君が決めることではないのです。我らは正しく学ぶことに専念すればいいだけです。
「御書だけではだめで、自分たち教学部の判断が不可欠」だと、かなり深刻に思い込んでいる彼には、真につける薬がないかもしれません。


(2)三宝論について

日蓮正宗の三宝論は、
  仏宝=日蓮大聖人、法宝=三大秘法の大御本尊、僧宝=歴代法主

創価学会の三宝論は
  仏宝=日蓮大聖人、法宝=三大秘法の大御本尊、僧宝=日興上人
となっています。

 では日蓮大聖人の三宝論はどうなっているのでしょうか。

「第十三常不値仏不聞法不見僧の事
御義口伝に云く此の文は不軽菩薩を軽賤するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと云えり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賤せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れは至無数劫なり末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり、深覚円理名之為仏の故なり円理とは法華経なり云云。」(御義口伝766)

 この御義口伝によれば、不軽菩薩を軽賤した者たちは地獄におちて三宝に逢えなかった。今末法において、日蓮の類の南無妙法蓮華経を唱える者を軽賤することは、これよりも重い罪を得る。末法の仏は凡夫であり、法とは題目であり、僧とは我等行者である、といわれています。

ならば、「創価学会の三宝」をこの御書に則って立てるならば、

仏宝=日蓮大聖人
法宝=三大秘法の南無妙法蓮華経
僧宝=三代会長と創価学会員

とすればよいのではないでしょうか。あくまで個人的な感想の域で、一案としてそう思うという範囲の話ですが、次の教義の見直しの時には、ぜひとも検討してほしいテーマです。

また、仏宝はそのままでもよいし、もしかすると「総じては一切衆生すべて」に拡大する可能性もあるかもしれないです。人間尊厳思想を前面に出すなら、すべての衆生を仏と見るべきでありましょう。例えば不軽菩薩の如し。

法宝は御本尊のみに限定せず、三大秘法の南無妙法蓮華経とし、僧宝は「我等行者」に相当するものにすべきだと思います。

いずれにしても御書を深めていくと、新しい時代の「三宝論」は、日蓮大聖人の三宝論とこそ、類同のものになるべきです。今は日寛上人流に矮小化されたものの内、僧宝部分が少しだけ修正(大石寺歴代住職ではなく日興上人だと)されたものにすぎません。
御義口伝にちゃんと三宝についての記載があるのに、それが一顧だにされていないことにこそ問題があると思います。
現在の創価学会教学には、まだまだ捨て去るべき「大石寺未熟教学の残骸」があるように思います。

ゆえに、前後を失った切り文句ではありますが、谷川氏の
「それも変えればいいんだ。何の問題ない」
という発言の「方向性」を私は支持します。

谷川氏が
「過去との整合性など、どうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。完全に独立した教団として出発するんだから。結論は決まっているんだ。教義なんて、それを後付けすればいいんだ」
と述べたかどうかは確認できませんが、ここでいう「結論」が日蓮大聖人の教義であるかぎり、私は支持します。過去との整合性(日寛教学や大石寺教学)よりも、日蓮大聖人の教義との整合性をこそ、求めるべきです。
しかし、今はその他どういう内容の変更をしようと論議があったのか示されていないので、論評することはできません。

 しかし、いずれにしても、教学部レポート筆者(宮地)と、学会執行部の相違がどこにあるのかといえば、日蓮大聖人を根本とするかしないか、という一点にあることは、もはや浮き彫りになっている、と言っていいのではないでしょうか。

 日蓮大聖人根本の教学を確立しようとしているのが、学会執行部であり、それを阻止しようとしているのが遠藤と宮地である。

 好き嫌いに関わらず、誰に加勢すべきか。私はこの一点で決めております。



(教学部レポートの正体⑦ つづく)



  • [6]
  • 教学部レポートの正体⑥

  • 投稿者:テンプ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)12時15分30秒
  • 返信
 
   宿坊板にて削除済み。

教学部レポートの正体⑥  投稿者:海  投稿日:2015年 6月18日(木)13時14分57秒   通報


「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【6】 しかし、無理筋の結論を導こうとしても、無理なものは無理なので、小委員会の結論は紛糾を極めました。教学部以外の5人は、論理として完全に破綻していました。
 率直に申せば、素人談義の域を出ず、これが学会の最高首脳の教義理解かと別の意味で衝撃を受けました。
 例えば、秋谷議長は「弘安二年の御本尊については、南無妙法蓮華経の法体を文字曼荼羅に図顕された御本尊であるが、唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠はない。
 日寛上人より『究竟中の究竟』等宗派の確立のために確立されたとも推察される」「弘安二年の御本尊も何の徳用も働かない。・‥他宗の身延派や、中山系、京都系が保持している真筆の御本尊と同じ事になる」と主張していました。
 そう主張したい気持ちは理解できますが、それでは、相伝書、相承書、日興跡条々事などを盾に宗門から攻撃されたら、どう答えるのか、また逆に、「弘安二年の御本尊」を全く認めてこなかった身延派から攻撃されたら、どう答えるのか。
「大御本尊」に関する戸田先生や池田先生の発言、また教学的な主張との整合性は、どう付けるのか。不用意に教義を変更すれば、学会は四方八方から矛盾を突かれて、大混乱に陥りかねません。宗門は、「大御本尊」について何百年にもわたる論争の蓄積があります。
 特に近年は、正信会との激しい論争を経験しているので、この論題について、学会が戦うのであれば、それ相応の準備が不可欠であることを訴えましたが。そうした経緯についても、ほとんど認識を持っていない様子でした。<<<<


海の意見。

 これもレポート筆者の理解力のなさと勇気のなさ、経験のなさが露呈していておもしろく読める箇所です。

① 「率直に申せば、素人談義の域を出ず」
自分を玄人だと思っているメンタリティがよく出た一節です。御書は信心で拝するものであり、それ以外に仏の智慧に肉薄することはできません。
そして信心に「玄人」「素人」はありません。
言葉の使い方に隙があり、ついつい差別主義者的な心根をみせてしまう筆者です。

これより以下に示しますが、このレベルの発言を「素人談義」と評価する人間が、一般の学会員の教学研鑽を見たときに、どういう悪心と蔑みを持って評価するのであろうかと、想像するだけでおぞましいものを感じます。


② 次の秋谷議長のものとされる発言を検討してみましょう。
「弘安二年の御本尊については、南無妙法蓮華経の法体を文字曼荼羅に図顕された御本尊であるが、唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠はない。
日寛上人より『究竟中の究竟』等宗派の確立のために確立されたとも推察される」

 全くそのとおりです。「南無妙法蓮華経の法体を文字曼荼羅に図顕された御本尊」との表現も問題を感じません。

「御義口伝に云く所聞の聞は名字即なり法体とは南無妙法蓮華経なり能持とは能の字之を思う可し、次に記の一の故始末一経の釈は始とは序品なり末とは普賢品なり法体とは心と云う事なり法とは諸法なり諸法の心と云う事なり諸法の心とは妙法蓮華経なり」(709)

とも矛盾しない表現だと思います。



 教学部レポートの表現を振り返ってみましょう。
「御本尊の本質は「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示にある」

「法体」にかかる形容詞句の部分だけ、並べてみましょう。

「南無妙法蓮華経の法体」(秋谷議長)
 「「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体」(教学部レポート)

 同じ「法体」とはいっても、日寛上人の言葉を用いた分だけ、御本尊の法体の意義が矮小化されていることは、すでに「正体②」で述べました。



 そして秋谷議長発言とされる「唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠はない」は真実です。レポート筆者は、これにも反論ができないはずです。
むしろ「出世の本懐」が何であるかを示す御書は数多くあるのですから、それらの御文から、しっかりと大聖人の真の「出世の本懐」を学ぶべきでありましょう。


③ もうひとつの秋谷議長の発言も検討してみましょう。
「「弘安二年の御本尊も何の徳用も働かない。・‥他宗の身延派や、中山系、京都系が保持している真筆の御本尊と同じ事になる」

 大聖人の御真筆だからといって、日蓮宗の本尊を拝むことはしない。これは自明です。
また大石寺の御本尊もかつて「大御本尊」として、歴史上最大級の敬意をもって拝してきた経緯はありますが、すでに二十余年間、事実上、拝していません。

 顕正会のように、戒壇本尊を思いながら「遥拝勤行」をしている創価学会員がいるとでもいうのでしょうか。いるわけもありません。

 これはとても重要な事実なのです。創価学会員は家庭の御本尊を通じてそのまま「宝塔の中に入」り、日蓮大聖人の御前で、三代会長たちや同志と共に久遠の儀式をなしているのです。千日尼に書かれているとおりです。
 そこに大石寺の戒壇本尊は、あらゆる意味で介在していません。
 勤行しながら、富士宮に通じている、なんて感じている人は、事実上、誰もいないのです。

 そういう意味では、御本尊に本体と分身があるなどという、「分身散体」という後世由来の教義は、すでに空疎な「観念」に過ぎません。だれも自分の眼前の御本尊を、富士宮の分身などとは感じていません。
 信心を離れて観念的に考える場合にのみ、大石寺との関係性が浮かぶ仕組みになっているわけです。

このように、「他宗と同じ」というのは、事実の上で大石寺の扱いがすでにそうなっていることを示しています。
故に拝んだところで「正しい信心」ではないのですから、「何の徳用も働かない」のです。
 拝みたければ大石寺の信者になればよいのであって、創価学会はそうはしない。当たり前の話ではありませんか。



④ このように秋谷議長の発言は、至極当たり前のことなのなのです。その日蓮大聖人の義と相違ないものを非難するゆえに、この後のレポート筆者の発言は混迷します。もちろん御書が引けません。これは誤っている者の特徴ですので、私はまずは文証の有無に注目します。

レポート筆者は、
「そう主張したい気持ちは理解できますが」
とあたかも自身の側には教学的な裏づけがあるかのように書いています。
しかしそのあと、自分の信じる教学を開陳するわけでもなく、自分自身が内包する、妙な「気持ち」を綴ってしまいます。

「宗門から攻撃されたら、どう答えるのか」
「身延派から攻撃されたら、どう答えるのか。」
「「大御本尊」に関する戸田先生や池田先生の発言、また教学的な主張との整合性は、どう付けるのか。」
「不用意に教義を変更すれば、学会は四方八方から矛盾を突かれて、大混乱に陥りかねません。」


秋谷議長を「素人」と読んだ人物は、その後、何を教えてくれるのかと思っていたら、このように自分自身の敵に対する「不安」を書きなぐってしまったのです。


レポート筆者さん、安心しなさい。
身延でも宗門でも、何ら恐れることはありません。

君ができないことはよくわかりましたから、君にやれとは頼みません。
しかし、少なくとも私は破折できるし、池田先生の弟子であるゆえに負けません。
他にもたくさん、身延や日顕宗などに負けない人たちはいらっしゃいます。

君はおそらく、第二次宗門問題の際も、現場で法華講などと戦った経験がない「ペーパー教学部」なんだろうと思います。

それともこてんぱんに負けてしまった痛い経験があるのでしょうか。
ここまで臆病な人を見たことがないので、ちょっと驚きました。

臆病な人間が、学会に敵を招き入れる。
そんな「蟻の一穴」のような構図が、教学部レポートにはあるように私には見えます。

(教学部レポートの正体⑥ つづく)



  • [5]
  • 教学部レポートの正体⑤

  • 投稿者:テンプ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)12時11分3秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体⑤ 投稿者:海 投稿日:2015年 6月18日(木)13時10分27秒
教学部レポートの正体⑤

「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【5】 ところが、こうした教学部側の思いは、全く受け入れられませんでした。小委員会の結論は、次のような方向で確定していたのです。

①「戒壇の大御本尊」は、もはや謗法の宗門の本尊であり、功力もなく、学会とは何の関わりもない。その意味を否定しておかねばならない。

② 総本部こそ世界広布の根本・中心であり、そこに安置される「創価学会常住御本尊」こそが「戒壇の大御本尊」に変わる新たな「大御本尊」である。

③こうした内容を、先生のご存命のうちに、先生のご意思として発表する。
 まさに、総本部完成の今こそ断行すべき時である。教学部のリポート「創価学会常住御本尊と広宣流布の使命」が今言える限界のラインで訴えても、それは不徹底であり、全く駄目だと一蹴されました。<<<<<

海の意見。
① について述べます。
この文章においても、このレポート筆者は論旨が一貫しない態度を示しています。

【3】の③において、彼はこう述べていました。
「「戒壇の大御本尊」における戒壇・本尊の意義も正しい信心が介在しなければ成立しない。また「一閻浮提総与」という意義も、広宣流布があって初めて成就するものである。」


 当然のことながら、謗法となった日蓮正宗に正しい信心はありません。そして、創価学会に正しい信心があるという前提で書いているのだと信じます。だとすれば、

「「戒壇の大御本尊」は、もはや謗法の宗門の本尊であり」
 この部分には異論がないはずですね。
 そして、大石寺の本尊を根本として拝することは正しい信心ではない。
すると「功力もなく」にも異論はないはずです。

「学会とは何の関わりもない。」これも現在と未来においての真実を表しています。
よって「その意味を否定しておかねばならない。」となるわけで、無理の無い展開だと思います。
 レポート筆者が御本尊から功力を引き出すためには「正しい信心が必要」とするならば、①の首脳部の意見は、まったく違和感がないはずの意見なのです。



② について述べます。
「② 総本部こそ世界広布の根本・中心であり、そこに安置される「創価学会常住御本尊」こそが「戒壇の大御本尊」に変わる新たな「大御本尊」である。」

 これは本レポート作成時の2013年秋の検討段階では議論があったのかもしれませんが、事実の上で、そのような意義付けは大誓堂の本尊になされてはおりません。
なので2015年現在では、これを議論する意味がないのです。よって捨て置くしかありません。

 しかし、実際の大誓堂の御本尊の意義付けが「大御本尊」となっていないという「事実」は重要です。この事実は、3つの可能性を含んでいます。

(1) そもそも日昇本尊を大御本尊としよう、などという議論がなかった。

(2) 小委員会の参加者たちは、他者の意見を聞くことに柔軟な態度を持っており、教学部の主張は受け入れられた。つまり教学部レポートは、学会首脳が事前に結論を決め付けている、と述べていたが、それはただの勘違いか思い込み、もしくは貶めるためになされた虚偽であった。

(3) 池田先生の指導のもと、議論が修正された。

 いずれにしても、大誓堂のご本尊に「大御本尊」の意義付けがなされていないのですから、この教学部レポートの存在価値はすでにない、と言うことも出来るのです。

③ についても②同様、実際にはそのような意義付けは日昇書写本尊にはなされていませんから、現在論じる意味がありません。

 しかし、この文書がここまで出回っている以上、筆者(宮地なら宮地)は、学会首脳部が頑なに、結論ありきで大誓堂の御本尊を「大御本尊」としようとしている、と書きなぐったことについて、事実はそうなっていないのであるから、なぜ自分たちが騒いだような危機が現実化していないのか、また事実に反して起こした自らの筆禍についての弁明をすべきであると思います。
(教学部レポートの正体⑤ つづく)


?

  • [4]
  • 教学部レポートの正体④

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)11時38分27秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体④  投稿者:海  投稿日:2015年 6月11日(木)13時26分10秒   通報

宿坊さん、お待たせしました。
あなたへの回答が拙稿「正体」③④には含まれていますので、どうぞ削除なさらぬようお願いいたします。

教学部レポートの正体④

【4】の続きに進もう。
「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
① 学会は、教義的に宗門の伝統を受け継ぎ、いわゆる「大御本尊」を「本門戒壇の大御本尊」「出世の本懐」「一閻浮題総与」といった最重要の御本尊として位置づけしてきた。会員にも、何十年にも渡って、そうした方向で教育を徹底してきた経緯がある。
② 学会の採用している御本尊も、すべて法主による「大御本尊」の書写である。「創価学会常住御本尊」、関西の「大法興隆所願成就」は第64世日昇書写。本部の「賞本門寺戒壇正本堂建立」の御本尊は第66世日達書写。全世界のほとんどの会員は、第26世日寛上人書写の御形木本尊を受持している。信仰の実態において学会は「大御本尊」あるいは法主書写の御本尊以外は、大聖人の他の真筆本尊をふくめ、大石寺門流以外に伝わるいかなる本尊も本尊として容認してきていない。
③ 宗門を批判する際、日顕の大御本尊否定発言や、大御本尊が「正本尊」として安置されている「正本堂」の破壊を論点としてきた。とにかく、学会員が確信をもって日々の信仰実践に励めること、すなわち学会員の安心と幸福が最優先されるべきであり、総本部も御本尊も教学も、全てそのために存在するというのが教学部の真情でした。
<<<<

(1)海の意見。
 文の展開がとてもうねっています。
 教学的に論じ尽すのかと思いきや、この教学部レポート(宮地文書)は、これまでの経緯(いきさつ)を述べる方向に転じてしまいました。ここからが、この文書の本音なのだと思います。

 これまでのいきさつを乗り越えて、真に日蓮大聖人の思想と教義に近い創価学会へと転換しようとするのが、今回の改訂の創価学会首脳部の意図するところだと私は見ています。
これに対し、過去のいきさつ、すなわち大石寺流教学で教えてきた経緯を大事にしてくれ、と言うのが教学部レポートの筆者の立場です。両者の話が噛み合うはずもない、と思う次第です。



(2)その上で③について見てみましょう。
「宗門を批判する際、日顕の大御本尊否定発言や、大御本尊が「正本尊」として安置されている「正本堂」の破壊を論点としてきた」
 とレポートは言います。ここでも拘っているのは、教義的な話ではなく「いきさつ」です。

 しかし、振り返ってみれば、日蓮正宗ではなく、日顕宗と呼んだのも、過渡期のショックを緩和させるための方策ではなかったでしょうか。当時、人々がまだ信頼を残してしまっていた日蓮正宗という宗団そのものを否定しないで「おかしいのは日顕だけだ」としたから「日顕宗」と呼んだのです。

 しかし、そうしている一方で、富士の清流700年などという妄想の実態、宗団全体が腐敗堕落している様子が「地涌からの通信」などで次々と明らかになっていきました。
そして山友、原島など、脱会者たちは、続々と日蓮正宗に集結したのです。

 いまさら、日蓮正宗は正しい、と思っている学会員がいるとも思われません。

 先生を勇退させしめた直接の権威である日達法主を、池田先生が護ったのも、同様です。
 そして日達の呼称は、第六十六世御法主日達上人猊下から日達上人、そして日達法主とだんだんと尊称を下げていった措置は誰もが知るところです。こういうところに、池田先生の細かな配慮を感じるのです。

 変更するにしても十分に機を読み、会員にいらぬ混乱を与えたくないという池田先生の一貫した振る舞い。そんなお気持ちを感じて顧みれば、外部を巻き込んでの暴露を好む宿坊板のメインの登場者たちに、師弟がないことはよく見えるのです。

あんなことを池田先生がやると思いますか?単純なことです。

長期間でみれば漸次的変更であったものでも、その変化の一瞬を捉えれば大変更と感じてしまうのもやむをえませんが、今起こっている出来事は壮大な流れの中の小さな一瞬にすぎません。



 そのうえで再考してみましょう。
「大御本尊が「正本尊」として安置されている「正本堂」の破壊を論点としてきた」
という教学部レポートの表現は、まったく本質が見えていません。

「大御本尊が「正本尊」として安置されている」から正本堂が尊いのではないのです。
このあたり、教学部レポートの筆者は、池田先生を語りながらも、日蓮正宗宗門に近いメンタリティを「教学部レポート」に書き込んでしまっていると思います。
正本堂が何ゆえに尊いのか、わかっていないのです。

池田先生は昭和39年6月30日、東京・台東体育館での学生部第七回総会において、次のように話されている。

「どんなものでも終着点がある。帰趨すべきひとつの終着としてのしるしがなくてはならない。と同じように、宗教においても、その終着点が必要です。戸田先生は『本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。カスのようなものだ』このように何度もおおせになっておりました。その本質を、皆さん方もよく知っていただきたいと思います。

 戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます」

 さて、この池田先生の思想と、教学部レポートをもう一度並べてみましょう。
「大御本尊が「正本尊」として安置されている「正本堂」」

「全民衆がしあわせになること」
が戒壇建立、正本堂の真意、本質であり、オカラとしての建物にこだわる姿勢はそもそも戸田先生にも、池田先生にもないのです。
 その真意から離れたところに教学部がいたことがよくわかる一文でありました。

 学会員の真心の結晶をいともかんたんに破壊できる点にこそ、日顕の本質があることが注目すべき第一であって、大御本尊が安置されているとかいないとか、の話ではなかったはずです。

 また、
「とにかく、学会員が確信をもって日々の信仰実践に励めること、すなわち学会員の安心と幸福が最優先されるべきであり、総本部も御本尊も教学も、全てそのために存在するというのが教学部の真情でした。」
の文も悩乱しています。

 学会員の「安心」を優先するなら、このような文を外に向かって書き出すべきではありません。このレポートが最初から首脳部の説得ではなく、外部に読ませることを目的としていることは「正体①」に書きました。つまり、筆者はうそつきであるか、または言行が一致しないお方であると私は思います。

 そして「総本部も御本尊も教学も、全てそのために存在するというのが教学部の真情でした。」との美辞は、総本部はともあれ、「御本尊」「教学」を貶めすぎです。
美辞に包まれていますが、御本尊や教学の存在意義をこれほど矮小化した文を私は見たことがありません。

 会員の幸福のためには、御書と御本尊を日蓮大聖人の義で拝していかねばならない。
 そこにこそ、厳格でなければならないのではないでしょうか。

 確かに「いきさつ」には配慮は必要です。私も性急な改革論者ではありません。しかし、その配慮は平成5年の御本尊下付実行開始よりすでに20年以上もなされていると思うのです。

 それでもなお、足りないというならば、このレポートの筆者は、その20年の間、いかなる努力をしてきたというのでありましょう。
 20年間放逸しながら、これからもその時間が必要だ、などと言うならば、その者は単に大石寺教学を創価学会に縛り付ける役割と使命を帯びて、この世に生れてきたとしかいいようがありません。

 宿坊氏に問いましょう。
この①②③の部分(過去のいきさつにこだわれ、との文意)を読んで「教学部レポート」が戒壇本尊に拘泥していると思われないのでしょうか。

まずは、これをもって回答の一つとします。
(教学部レポートの正体④ つづく)






  • [3]
  • 教学部レポートの正体③

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)11時22分6秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体③ 投稿者:海 投稿日:2015年 6月11日(木)13時28分43秒   通報
先に③をアップしたつもりでしたが、見れませんでしたのでもう一度。

教学部レポートの正体③

「教学部レポート(=宮地文書とも言われるらしい)」いわく。
>>>>
③ 御本尊が御本尊として成立するためには、上記の様に人法一箇の法体が正しく顕示されていることを第一の要件としつつ、「信心の本尊」であるがゆえに、どこまでも正しい信心で拝するという第二の要件が不可欠である。<<<<


 海の意見。
 この前半部分「御本尊が御本尊として成立するためには、上記の様に人法一箇の法体が正しく顕示されていることを第一の要件としつつ」は、二重に誤っています。

 第一には、「正体②」で記したように、日蓮大聖人の本尊義の一部をもって全体であるかのように断定し、しかも、日寛上人の義に帰ることを目的とした文だからです。
 第二には、「正しく顕示されていること」を誰がどのように「正し」さを判断するのかが曖昧なのです。レポート筆者自身は自分が「正しく判断できる」と思っているので、こういう文を書くのでしょうが、書き手(宮地)の慢心が見えているので、こういう文章に従うことには慎重にならざるをえません。
 いずれにしても、日寛上人ではなく、日蓮大聖人の義に帰るとの立場で書かなくては、時代を逆行させる悪書にしかならないと思います。




「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
④ 「戒壇の大御本尊」における戒壇・本尊の意義も正しい信心が介在しなければ成立しない。また「一閻浮提総与」という意義も、広宣流布があって初めて成就するものである。<<<<<

 海の意見。
 これはそのとおりです。異論ありません。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
(⑤の前半 )「創価学会常住御本尊」は、戸田先生が「大折伏大願成就の大御本尊」として当時の日昇法主に申請されたものであり、戸田先生は、この御本尊を拝して75万世帯の願業を成就された。また池田先生もまた、この御本尊を拝して世界広宣流布を進めてこられた。その意味で、創価三代の師弟の誓願の結晶ともいうべき御本尊であり、当時の和合僧団の化義に則り、法主の書写という形を取ったが、日蓮大聖人からの直受と拝するべきである。<<<<

海の意見。
これも異論なしです。そのとおりです。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
(⑤の後半)「戒壇の大御本尊」が本体、他の御本尊は分身であるという論理から、あくまで「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示が本質であるという、日寛上人が本来意図していた本尊義に引き戻すとこに、このレポートの主たる目的がありました。<<<<<

 海の意見。
 すでに述べているように、ここでいきなり、この文書の論旨の流れが崩壊するのです。前後の一貫性が失われてしまっています。

 日蓮大聖人が消えうせ、「日寛上人が本来意図していた本尊義」を根本とせよ、と突然に主張するのです。

 このように文章が飛躍することからして、途中から本性が出てしまったのではないか、と勘ぐらざるをえない部分もあります。さほど長くもない文章の中で、いとも簡単に論旨が曲がるのは、理解できません。

 創価学会はどこまでも大聖人根本、御書根本(註、御書全集根本ではないことを一応断っておきます)です。ゆえに「日寛上人の本尊義」などに戻ることは考えなくてよいのです。

撰時抄にいわく。
「質問します。経文には確かに明らかに書かれていますが、天台・妙楽・伝教等の未来記の言葉はあるのでしょうか。
答えていわく。あなたの質問はさかさまです。私が釈を引いた時には、経論はどうなっていますかと、疑問に思いなさい。経文に明らかなのだから釈を尋ねてはいけません。さて釈の文と経とが相違したならば、経をすてて釈につくべきでしょうか。
彼云く。そんな道理は聞かれるまでもなく、至極当然、経を取るべきです」(259)

 御書があれば、人師を尋ねてはいけない。そして両者が相違したら御書をとる。
 教学部レポートというのは、この当たり前の前提ができていないのです。

 また、このレポートが言うところの、日寛上人の本尊義に戻る、との具体的モデルがいつの時代に戻ろうとするものかを考えれば、それは「日蓮正宗は富士の清流700年」などというウソを創価学会が信じ込んでいた時代(第二次宗門問題以前)でありましょう。その時代に「日寛上人の本尊義」の「理想」があるのは明白だからです。

 筆者が意識しているかどうかはわかりませんが、この教学部レポートの提案の方向性は、戒壇本尊を学会員が拝むことを指向しているといわざるを得ないのです。
 それ以外に、「日寛上人が本来意図していた本尊義に引き戻す」ことができますでしょうか。

 日顕がいなくなったとき、大石寺の僧侶がもみ手で創価学会ににじり寄ってきたとき、大石寺に創価学会が再び復帰するような教学的余地(戒壇本尊信仰)を残してしまうところが、このレポートで最大に警戒を要するところであると思います。



「教学部レポート(=宮地文書)」いわく。
>>>>>
【4】 しかし、教学部としては、こうした教義の理解を徹底するには、主に以下の理由から、時間をかけて慎重に進めなければならないと考えていました。<<<<<

海の意見。
ここでいう「こうした教義」が何を意味するのでしょうか。ここまでの流れが、日蓮大聖人根本のようなことを書くことがあったり、一方で日寛上人の本尊義の復活を目的としてみたり、首尾一貫していないので、どちらの教義を徹底したいのかがわかりにくいのです。

それは上記で示したとおり【3】の部分に、日蓮大聖人のお考えと矛盾しない部分(④と⑤の前半)があったりしますし、かと思えば日寛上人の本尊義(③と⑤の後半)が混ざっているからなのです。

しかし、レポート筆者は「このレポートの目的は、日寛上人の本尊義に帰ることだ」と主張している以上、戒壇の本尊から離れる意図はないはずですね。
(本レポートが戒壇本尊に拘っているといえる箇所ですね)

この二つの主張の混在について、より具体的に示しましょう。

「【3】② 「戒壇の大御本尊」も、法主によって書写された御本尊(以下、書写本尊)も、同一の法体が顕示されており、そうした本質次元では共通している。」
 「同一の法体が顕示」というところの「法体」の解説部分に、勝手に即断しすぎの矮小化があるのですが、それでもここでは、あらゆる御本尊の「本質的平等性」を言っています。

 ところが【3】⑤の後半になると突然、
「「戒壇の大御本尊」が本体、他の御本尊は分身であるという論理から、あくまで「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示が本質であるという、日寛上人が本来意図していた本尊義に引き戻すとこに、このレポートの主たる目的がありました」
 と述べ、「分身散体」という御書にも法華経にも由来しない本尊義を持ち出し、戒壇本尊の事実上での優位性(本体と分身)に話を引き戻すのです。

「本質次元では共通」といいながら「分身散体」を主張する矛盾は、理が二通りあることになってしまうのです。

 そして一点付記すれば、戒壇本尊とて、すでに紙幅のオリジナルは失われ、木に彫られた複製にすぎません。筆勢は大聖人のものではなく彫刻師のものであり、細部の正確な描写はすでに失われています。

 100歩譲って、大石寺流の分身散体に則ったとしても、ある複製(戒壇本尊)がその他の複製を生むという話にしかなっていないことには注意が必要だと思います。
 このような伝説的物語にいつまでも拘泥する必要はない、と私は思います。


 この文の作者は、単純に頭破作七分なのか、文章があまりに下手なのか、それとも諸説を混在させて読ませて、自分の立ち居地が宗門側ではないことをカモフラージュしているのか、それはわかりません。
しかし普通に読んでいくと、この「教学部レポート」(宮地文書)が導きたい方向が日蓮大聖人の方向ではないことがわかります。

(「教学部レポートの正体③」 つづく)





  • [2]
  • 教学部レポートの正体②

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)11時16分45秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体②  投稿者:海  投稿日:2015年 6月 7日(日)14時14分24秒   通報 返信・引用
さて、宿坊板で以下の投稿も削除されました。
管理人の宿坊氏いわく。

「海氏は、まず管理人の質問に返答するように。
何度も言わせないでください。その他の駄文は一切削除します。」

私は宿坊板の誰よりも、文証を丁寧に扱っている自負がありますが、御書がたくさん乗せられた文章を「駄文」と言い切る宿坊氏に呆れてしまいました。

御書の検討はしたくないようです。

駄文かどうか、見極めていただきたく、転載いたします。


教学部レポートの正体②  投稿者:海  投稿日:2015年 6月5日(木)14時17分25秒
教学部レポートの正体②

>>>(教学部レポート引用)
【3】 教学部では、「戒壇の大御本尊」「創価学会常住御本尊」の意義づけについては、以前から研究を進めていました。
 この7月9日には、原田会長あてに「創価学会常住御本尊と広宣流布の使命」というレポートを提出しています。その骨子は以下の通りです。
① 御本尊の本質は「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示にある。
② 「戒壇の大御本尊」も、法主によって書写された御本尊(以下、書写本尊)も、同一の法体が顕示されており、そうした本質次元では共通している。
③ 御本尊が御本尊として成立するためには、上記の様に人法一箇の法体が正しく顕示されていることを第一の要件としつつ、「信心の本尊」であるがゆえに、どこまでも正しい信心で拝するという第二の要件が不可欠である。
④ 「戒壇の大御本尊」における戒壇・本尊の意義も正しい信心が介在しなければ成立しない。また「一閻浮提総与」という意義も、広宣流布があって初めて成就するものである。
⑤ 「創価学会常住御本尊」は、戸田先生が「大折伏大願成就の大御本尊」として当時の日昇法主に申請されたものであり、戸田先生は、この御本尊を拝して75万世帯の願業を成就された。また池田先生もまた、この御本尊を拝して世界広宣流布を進めてこられた。その意味で、創価三代の師弟の誓願の結晶ともいうべき御本尊であり、当時の和合僧団の化義に則り、法主の書写という形を取ったが、日蓮大聖人からの直受と拝するべきである。「戒壇の大御本尊」が本体、他の御本尊は分身であるという論理から、あくまで「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示が本質であるという、日寛上人が本来意図していた本尊義に引き戻すとこに、このレポートの主たる目的がありました。
<<<以上、引用終わり。

海の意見。
(あ)この教学部レポートの目的が「日寛上人が本来意図していた本尊義に引き戻すとこ(こと?)」にあるとの表明は重要です。
 以下に精密に見ていきますが、執行部との対立の要因は、執行部が日蓮大聖人の本義に帰ろうとしているのに対し、執行部は日寛上人に帰ろうとしている、という本質的な相違があるからです。

(い)①②において、教学部レポートの筆者は、文証を引くこともなく、勝手に御本尊の定義しています。そもそも御本尊のことを文証なく定義する姿勢が、私には信仰者のそれとは思われません。
 御書には御本尊について、多様な御教示があるのです。ゆえに単純な教学部レポートの文を見るにつけ、過度の矮小化をこの①②の部分に感じるのです。

(う)御書に説かれている御本尊の意義について、教学部レポートが「部分」を以って「全体」としている「定義」の根源を論じてみます。

①において、教学部レポートは、
「御本尊の本質は「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示にある。」
としています。
 文証が引かれていないので、彼らがこの表現を選んだ根拠は私が想像するしかありません。おそらくこれは、日寛上人の開目抄文段に関連しての書かれたのであろうと想像されます。

「この本因本果は刹那の始終、一念の因果にして、真の十界互具・百界千如・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。此くの如く本地難思の境智冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の自受用身と名づくるなり。この時法を尋ぬれば人の外に別の法なし。人の全体即ち法なり。この時、人を尋ぬれば法の外に別の人なし。法の全体即ち人なり。既に境智冥合し人法体一なり。故に事の一念三千と名づくるなり。故に宗祖は「自受用身即一念三千」と。伝教云く「一念三千即自受用身」等云云。これ即ち今の御本尊なり。故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。 応に知るべし、この久遠元初の自受用身乃至末法に出現し下種の本尊と顕れたまうと雖も、「雖近(而)不見」にして自受用身即一念三千を識らず。故に本尊に迷うなり。」(観心本尊抄文段)

ここで日寛上人は伝教大師の「一念三千即自受用身」が「今の御本尊」であるとします。そして、一念三千が「法」で、自受用身は「仏身」を表すから「人」と考えたのでしょうか、レポート筆者は
「「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示が本質」
という断定的表現を、文証を示さないままに用いるのです。


(え)
さて、レポート筆者は日寛教学に信頼を置いているようです。私のほうからは、この問題に関して、二重の批判を行いたいと思います。

(え)の1
まずは、日蓮大聖人の御本尊のご教示では、人法一箇が単純に「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」ではない事実を示します。

日寛上人が引用した伝教大師の「一念三千即自受用身」の文言は、日蓮大聖人も御書で引用されています。
「伝教大師云く「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」文、此の故に未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり」(日女御前御返事1244)
この文章の意は、日寛上人の上記文段と同意で、「一念三千即自受用身」を「未曾有の大曼荼羅」であるとされています。

しかし、日蓮大聖人の見方は単一ではありません。

「伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云」(御義口伝759)

こちらでは、同じ「一念三千即自受用身」とは、なんと我々のことなのだと大聖人はおっしゃっています。

「一念三千即自受用身」は御本尊(戒壇本尊ではないそれ以前に建立された御本尊)であり、と同時に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」なのです。
これは、A=B=Cの形になっています。

題目を唱える者=一念三千即自受用身
=未曾有の大曼荼羅(戒壇本尊のことではない)

この発想は、生死一大事血脈抄や阿仏房御書と同一のものです。

「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(「阿仏房御書」1304)

「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(「生死一大事血脈抄」1337)

 このように、日寛上人ではなく、日蓮大聖人の「本尊義」に照らして見たとき、教学部レポートの
「御本尊の本質は「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示」
という表現において、「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」とすることによって、「今日蓮等の類い」のご教示が欠落させられていることに気づくのです。「一念三千即自受用身」から、「日蓮の類い」「唱え奉る者」たちが消えてしまっているのです。

 日寛上人の定義の限界というのは、日蓮大聖人の広大無辺な智慧を矮小化してしまうところにあると思います。これはたとえ文証をていねいに引いていたとしても、犯してしまいやすい過ちなのです。

(え)の2
 次に日寛上人の御本尊義が、さらに微妙に日蓮大聖人と異なることを示します。
旧版の「教学部レポートの破折」にて、上記「(え)の1」の主張をしたとき、宿坊板の常連である「信濃町の人びと」なる者が「2015年 5月20日(水)00時32分28秒」の記事で反論をされました。

信濃町の人びとさんは、日寛上人の文証の提示をされ、日寛上人も大聖人と同じように
「題目を唱える者=一念三千即自受用身=未曾有の大曼荼羅(戒壇本尊のことではない)」
であると主張をされました。
 つまり私(海)は教学がわかっていない、と述べられたのです。

 さて、信濃町の人びとさんが引かれた日寛上人の文は以下の二つです。
「我等、妙法の 力用(りきゆう)に 依(よ)って 即(そく)蓮祖(れんそ)大聖人と 顕(あらわ)るるなり」(「当体義抄文段」)

「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)れば、我が身即わち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(「観心本尊抄文段」)

 私は確かに、そもそも日寛上人には詳しくないのです。
しかし、日寛上人の文をよく読みますと、日蓮大聖人の主張とは似て非なる相違点があることに気がつきました。
 微細なように見えても、この両者には、本質的な違いがある、といえるのです。

「伝教云く「一念三千即自受用身・自受用身とは尊形を出でたる仏と・出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云」(御義口伝759)

御書では、日蓮大聖人と私たちは勿体無くも「今日蓮等の類い」と同列に呼んでいただいているのです。「一念三千即自受用身」は無条件に「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者」なのです。

 ところが日寛上人は、とっても似ているのですがよく読むと違います。大聖人と私たちは異なる存在です。
「我等、妙法の 力用(りきゆう)に 依(よ)って 即(そく)蓮祖(れんそ)大聖人と 顕(あらわ)るるなり」(「当体義抄文段」)
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉(たてまつ)れば、我が身即わち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(「観心本尊抄文段」)

 日寛上人は「条件付」なのです。本質的には凡夫は凡夫だぞ、というようなニュアンスが残っています。顕す凡夫と、現れる蓮祖聖人の間には、立場の違いがあるのです。

 私はそのように感じます。このニュアンスを感じる私がおかしいのかどうか、については議論に馴染みません。
 だからこそ、最初から大聖人の御書を拝し物を考えるべきなのです。
 日寛上人とはいえ、人師を混ぜると、こういう微細なズレが生まれてきます。その違いをいっしょに飲み込んでしまうことを私は恐れます。

(お)
撰時抄にいわく。
「質問します。経文には確かに明らかに書かれていますが、天台・妙楽・伝教等の未来記の言葉はあるのでしょうか。
答えていわく。あなたの質問はさかさまです。私が釈を引いた時には、経論はどうなっていますかと、疑問に思いなさい。経文に明らかなのだから釈を尋ねてはいけません。さて釈の文と経とが相違したならば、経をすてて釈につくべきでしょうか。
彼云く。そんな道理は聞かれるまでもなく、至極当然、経を取るべきです」(259)

教学部レポートのおかしさは、この撰時抄の教えを無視している点にあります。
教学部レポートには御書がない。いくら日寛上人のものとはいえ、人師の言葉ばかりなので、御書はどうなってますか、と私は尋ねています。そして両者が違っていたら御書を取る。
 この当たり前のことができていないのが、恥ずかしいことながら、「教学部レポート」なのです。

そして宿坊板の主要な書き手である「信濃町の人びと」さんも、私に質問し、教学がわかっていない、と放言したにもかかわらず、私の回答にはだんまりを決め込んでいらっしゃるようです。
日蓮大聖人によって、自説の変更を迫られても変更したくない信心なのかな、と私は感じています。
(以上、教学部レポートの正体② つづく)




  • [1]
  • 教学部レポートの正体①

  • 投稿者:クジラ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)11時13分32秒
  • 返信
 
教学部レポートの正体①  投稿者:海  投稿日:2015年 6月 5日(金)14時13分31秒   通報 返信・引用
 さて宿坊板にいかのとおり投稿したところ、即刻削除されましたので、こちらに転載させていただきます。


教学部レポートの正体①  投稿者:海  投稿日:2015年 6月 5日(金)13時29分34秒   通報
教学部レポートの正体①

 以下に「教学部レポートの破折」の修正版を記します。
今回、修正するのはこれまでアップした①②の部分のみですが、旧版にいただいた反論への反論の視座も含めて、よりわかりやすいものにしたいです。
タイトルは「教学部レポートの正体」に改めたいと思います。

(教学部レポート引用)>>
大御本尊問題の経過について
【1】 いわゆる「本門戒壇の大御本尊」と、総本部に安置される「創価学会常住御本尊」について、最高幹部の一部が、教義的な意義の変更を強硬に推し進めています。
 御本尊は、根本尊敬の対象であるがゆえに、御本尊に関する教義は信仰の根本をなしています。
 現在、一部幹部が進めているような形で教義変更が拙速かつ拙劣に進められれば、日本でも海外でも会員の信仰が動揺し、組織に混乱が広がることは確実です。
 また、宗門からの攻撃にも十分な応戦ができず、学会が教義論争において敗北することは必死と考えられます。学会の存亡に関わる極めて危機的な状況にあります。
<<<以上、引用終わり。

 海の意見。
この文章は、いったい誰に対して書かれたものでありましょうか。私は当初、学会首脳を諌めるために書かれたものだと思っていましたが、最初から「告発文」として外部に流出する意図で書き始めたことがわかります。

「最高幹部の一部が、教義的な意義の変更を強硬に推し進めています。」
「現在、一部幹部が進めているような形で教義変更が拙速かつ拙劣に進められれば」

 これはとうてい、最高幹部の説得を試みたものとはいえません。最高幹部への説得をすでに放棄し、外部からの世論形成を目的とした文章、ということができます。
いわば外敵を学会にふっかける意図のもと、書かれた文章なのです。
 この手法は、池田先生とも異なり、もちろん日蓮大聖人の精神とはまったく異質なものです。
元教学部長である原島嵩は「池田大作先生への手紙―私の自己批判をこめて」 (1980年)を書き、元副会長である福島源次郎は「蘇生への選択―敬愛した師をなぜ偽物と破折するのか」(1990/2)を書きましたが、学会の非を外敵に訴えかける方法論は教学部レポートも同じである、と言わざるを得ません。
こんな「師弟不二」がどこにある?と言いたいです。


(教学部レポート引用)>>>
【2】 「学会常住御本尊」の意義付けについては、総本部の慶讃委員会のもと、専門の小委員会が、この9月に入って急遽、発足しました。出席者は谷川事務総長、金沢組織総局長、秋谷議長、八尋弁護士、森田康夫氏。そこに教学部から遠藤総合教学部長、森中教学部長と宮地が加わりました。御本尊という最重要の課題にもかかわらず、総本部完成前の2ヶ月前とスタートが余りにも遅く、発足当初より、準備不足の感が否めませんでした。それでも初めのうちは、議論を深めていくような雰囲気がありました。教学部側でも、忌憚なく意見を述べさせていただきました。しかし、回を重ねるうちに、この小委員会の開催趣旨が、既に内々で決定した方針を教学部に承認させ、その方針に即した説明文を作成させるところにあることが露になってきました。
<<<以上、引用終わり。

海の意見。
この部分では、このレポートの作成者および作成時期が推定できます。

上の【2】の部分は、伝聞情報に基づいた文ではなく、その場にいた者の主観的感想です。よって、この「専門の小委員会」への教学部からの参加者三名の中のいずれかが同レポート作成者であり、ただ一人敬称等のない「宮地」なる者の可能性が高い、という体裁が取られているわけです。
しかし、最近指摘されているように、実際は別人の作文の可能性もないわけではないですね。

また、この文書で扱われている事象は、「総本部の慶讃委員会のもと、専門の小委員会が、この9月に入って急遽、発足」「総本部完成前の2ヶ月前とスタートが余りにも遅く」との文言から、2013年のものと判断できます。
(以上、教学部レポートの正体① つづく)