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  1. 足あと帳(0)
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古市百舌鳥古墳群について5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 8月 2日(金)09時43分41秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.668[元記事へ]

7.倭の五王
 この時代に南宋に遣いを出した五人の大王の名が記載されている。

421 倭王讃        朝貢   仁徳427
425 倭王讃        遣使   仁徳427
430 倭王  讃か     朝貢          ┏ 倭王讃  仁徳
438 倭王珍        朝貢   宇治     ┗  倭王珍  宇治
443 倭国王済       朝貢   允恭454            済王済
451 倭国王済      将軍位  允恭454
462 倭国王の世子興   将軍位   木梨軽皇子       ┏ 倭王興 木梨
477 倭国王 武か    朝貢   雄略 己巳 489  倭王済 ┫
478 倭王武       将軍位  雄略 己巳 489           ┗ 倭王武 雄略

 国の代表は卑弥呼がそうであったように、神聖王の系列に属する王の名で行われるのが普通である。『宋書』では、倭王珍と倭王済との繋がりが書かれていない。と言って、王朝の交代があったとは断言できない。倭国王の系譜にそれほど関心があったというよりは、倭と言う王家から出た王達との認識であった様に思われる。
 雄略天皇は市辺押磐皇子を殺害と『紀』にあるように、倭王家の中でも他者を排斥して来ている。恐らく、木梨軽皇子の神聖王の地位をも奪ったのであろう。神聖王倭王武として南宋と交渉したのだろう。

以上
 参考書
『史跡で読む日本の歴史』古墳時代 岸本直文
『講座日本の考古学』古墳時代下 広瀬和雄
『大王から天皇へ』熊谷公男
『豊中歴史同好会誌:つどい285』岸本直文
 
 

古市百舌鳥古墳群について4

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 8月 1日(木)08時48分16秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.667[元記事へ]

5 市辺押磐皇子は履中の皇子で『播磨国風土記』では市辺天皇とあり、即位していた可能性がある。
 木梨軽皇子は允恭天皇の第一の皇子である。允恭二十二年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されるとある。『古事記』では、「日継知らしめす」とあり、実際には即位していた可能性がある。
 また、『 播磨国風土記』にある「宇治天皇」は、菟道稚郎子のことで、腹違いの兄の仁徳天皇に皇位を譲り、自殺したと『紀』に記されている。美談になっているが、実際には即位していたから『風土記』に天皇とあるのだろう。古市の墓山古墳は全長225m、五世紀前半の前方後円墳である。

6 河内の大王の『古事記』の没年と日継の記述  古事記の天皇没年干支は比較的事実に近いように思う。
15 応神 甲午 394
16 仁徳 丁卯 427
  宇治       天津日継
17 履中 壬申 432
18 反正 丁丑 437
19 允恭 甲午 454   日継
  木梨       日継
20 安康
  市辺
21 雄略 己巳 489
22 清寧
23 (飯豊天皇) 市辺の皇女。「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ。」と言ったそうな。相手は清寧だったか。


 

古市百舌鳥古墳群について3

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月31日(水)10時45分18秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.666[元記事へ]

王権の変遷
 

古市百舌鳥古墳群について2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月30日(火)10時41分24秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.665[元記事へ]

3. 応神元年は百済王の記事から三九〇年、没年は『古事記』崩年干支から三九四年とみてよい。活躍期は四世紀後半にあり、晩年に政権を奪取したと理解できる。文献によるホムダワケの性格と、津堂城山古墳の考古学からみた被葬者像は一致し、河内政権の始祖であるホムダワケ墓を、古市・百舌鳥最古の倭国王墓である津堂城山古墳とすることが妥当。
 日本における須恵器生産も、TG232型式には安羅の陶質土器の影響が大きく、伽耶各地への分散後、一定年限の経過後に陶工が倭に渡ったと考えられる。むろん、鍛冶技術・馬匹生産なども同様である。河内政権は好太王に敗北を喫したが、伽耶人の渡来により「文明開化」を果たす。

4. 同じ時期に複数の大王級古墳が造営されていることから、二重王権へ発想したもの。大仙陵古墳の造営は、一日最大千人の人々が働いても三十年以上かかる。
 副系列は佐紀石塚山古墳、古市・百舌鳥の津堂城山古墳(応神)、上石津ミサンザイ古墳(履中)、誉田御廟山古墳(反正)、市野山古墳(市辺押磐皇子)、岡ミサンザイ古墳(雄略)と続く。
  主系列は、佐紀の五社神古墳の次に古市・百舌鳥の仲津山古墳(仁徳)、大山陵古墳(允恭)、土師ニサンザイ古墳(木梨軽皇子)、前の山古墳(清寧)と続く。
 

古市百舌鳥古墳群について

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月29日(月)14時20分52秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1 岸本直文氏の一連の論文から。
先ず、箸墓古墳以降の倭国王墓を取り上げ、前代のものを元に仕様を更新し、変化を遂げるが、これらを整理すると、箸墓に始まる主系列(神聖王慕)と桜井茶臼山古墳に始まる副系列(執行王慕)に分れることを明らかにした。これによりオオヤマト古墳群から佐紀古墳群へ、また古市・百舌鳥古墳群、さらにこの末期群と継体との関係など、2系列の併存関係を示した。

2.古市・百舌鳥古墳群最初の大王慕は津堂城山古墳であり、被葬者像は、ホムダワケの人物像に合致する。ホムダワケは新たな王統の始祖とされるが、それをささえた集団は南山城を基盤とし、佐紀政権の権力基盤そのものであることから、ホムダワケは佐紀政権に連なる人物と考えられる。そして、神功凱旋時のカゴサカ王・オシクマ王の抵抗と敗北は、佐紀の王権を打倒した内乱とみる。津堂城山古墳の被葬者は、四世紀後半の半島と河内での活動により、日向など各地諸勢力と結びつきをもち、河内における権力基盤を形成しクーデタを敢行したのではないか。これにより河内政権が樹立される。


 

防人5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 7日(日)08時48分44秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.662[元記事へ]

4.鹿島と杵島
『常陸国風土記』崇神天皇の時代、建借間命を辺境の荒賊を平定の為に差し向けた。霞ヶ浦の東の浦に、国栖の夜尺斯・夜筑斯に率いられた凶賊がいた。命は一計を案じて、波打ち際をにぎやかに美しくかざり、杵島ぶりの歌曲を歌い七日七晩歌舞を行った。賊党は興味を持って全員浜にやって来た。この時に兵に命じて一網打尽とした。
『肥前国風土記逸文』三つの峰が相連なる。名づけて杵島と曰ふ。坤のかたなるは比古神と曰ひ、中なるは比売神と曰ひ、艮のかたなるは御子神(一の名は軍神。動けば則ち兵興る)と曰ふ。
あられふる 杵島が岳を 峻(さか)しみと 草採りかねて  妹が手を執る。
是は杵島曲なり。
景行天皇はここを「惇戟島 かしま」と名を付け、これがなまって きしま となったとある。鹿島と枕詞が同じ。杵島の神々は、素戔嗚尊・稲田姫・五十猛命と見なされている。
 鹿島の軍事的性格のルーツは五十猛にあるようだ。
                                   以上
参考書
半藤一利 『万葉集と日本の夜明け』  龜山 勝 『安曇族と住吉の神』
東城 敏毅 『万葉集防人歌群の構造』 中西進 『万葉集』
 

防人4

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 6日(土)11時20分32秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.661[元記事へ]

酒仙さんへのお返事です。

ありがとうございます。

3、鹿島立ち
 常陸の国に鎮座する鹿島神宮の正殿は、神社には珍しく北を向いており、これは国全体の北方を護るためだと古くから言われてきた。日本の国にとって、この地は永らく北の護りの要であり、国土鎮護の宮だったのである。万葉の時代には利根川は今日のような大河ではなく、時に洪水を起こす地方の川だった。常陸・下野や下総の人々が主に鹿島立ちを行ったのであろう。その際、祈った神は阿須波の神であった。
4350 庭中の阿須波(あすは)の神に小柴さし吾(あれ)は斎はむ還り来までに
庭の中の阿須波の神に小柴をさし供え、私は身を清めて行こう。無事に帰ってくるまで。
阿須波の神とは、居住地を守り給う住居守護の神、また行路の安全を守り給う旅行安全の神である。鹿島神宮の前の神である。冒頭の4370の歌が、「鹿島立ち」を歌ったものとされる。
また、鹿島立ち を 鹿島の神が大和へ旅立ったことを指すとする見解もある。
鹿島神宮の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、 奈良の春日大社の祭神として勧請(神仏の霊を移し祀ること)された。その際 、命は、常陸(茨城県)の鹿島から 白鹿に乗って出立され、一年ほどかけて 奈良の御蓋山(ミカサヤマ/春日大社)に至り鎮座された、このことに因んで、旅に出ることを「鹿島立ち」といわれるようになった。
なお。『日本国語大辞典』には、【鹿島立】旅に出かけること。旅立ち。出立。『菟玖波集』(つくばしゅう)は、南北朝時代に撰集された連歌集に記載。巻数は20巻。句数は2190句。以上の構成は、勅撰和歌集の部立てに倣ったものである。1356年(正平11年/延文元年)とある。『菟玖波集』が「鹿島立ち」の初見と思われる。
『上記;ウエツフミ』1223年、豊後国守護の大友能直がサンカの伝承などを編纂したもの。天児屋根命は、天照大御神が天岩戸に籠った時、岩戸の前で神楽を奉じた神である。天孫降臨に際して降臨に従っている。天孫降臨が「鹿島立ち」から始まり、鹿島から鹿児島へ
と移動した。
『秀真伝:ホツマツタエ』は記紀より古いとされている古伝である。ここでは、鹿島立ちとは、オオナムチを成敗(国譲りをさせる)するための決起集会を鹿島立ちと称している。オオナムチの国(シマ)を断つとの意味で使っている。ホツマは、『菟玖波集』1356年(正平11年/延文元年)以降の作ではないかと思われる。

 

Re: 防人3

 投稿者:酒仙  投稿日:2019年 7月 5日(金)00時34分14秒 kc218-216-219-223.ccnw.ne.jp
返信・引用
  > No.660[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

すごいです

さすがです

読み人の風景が 少し 近づいた気がします

http://doutaku.saloon.jp/kodainonazo/index.html

 

防人3

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 4日(木)21時24分47秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.659[元記事へ]

2 . 時代背景
663 白村江の戦い。西国の軍人が枯渇の中、軍事態勢を強いられた。
664 対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(すすみ)を置いた。また筑紫には大堤を築いて水を貯えた。これを水城(みずき)と名づけた。
665 達率答?春初を遣わして、長門国に城を築かせた。達率憶礼福留、達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野と椽に二つの城を築かせた。
667 「倭国高安城、讃岐国山田郡の屋島城、対馬国の金田城を築いた。
669 八月天智天皇は高安城に登って、城を築くことを相談された。しかしまた人民の疲れていることを哀れんで、造造されなかった。冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。
670 高安城を造って殻と塩を蓄えた。
  防人とされた人々はどのようなレベルの人だったのか、
 万葉集に採録された歌に作者の名が記載されている。
4348 上総国 国造の丁(よほろ)、日下部使主三中。国造の丁 集団の長
4349 上総国 助丁(すけのよほろ) 刑部(おさかべの)直(あたへ)三野(みぬ)。助丁 副う存在。
4350 上総国 主帳(ふみひと)の丁、若麻續部(わかをみべの)諸人(もろひと)。主帳の丁  集団内の庶務的会計を司る存在
4351 上総国 望陀郡(うまぐたのこほり)の上丁(かみつよほろ)、玉作部國忍(くにおし) 上丁(かみつよほろ)  一般兵士。防人として上番する丁男。
4373 下野国 火長(かちょう)、今奉部(いままつりべの)與曽布(よそふ)。火長 その10人単位。
4376 下野国 寒川郡の上丁、川上巨老(おほおゆ)。
防人の序列に従って歌は並んでいる。
 防人の歌で構成されている巻二十には、213首採録されており、そのうち物部姓とわかる人は10首である。
 姓を持つものが中心。無学文盲の農民ではなかろう。農民であったとしても富農であろう。
 

防人2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 3日(水)11時02分48秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.658[元記事へ]

 戦前、『愛国百人一首』が斎藤茂吉、折口信夫等によって選別された。
4370 霰(あられ)降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみいくさ)に我は来にしを
鹿島の神に祈願をこめて、天皇の軍に私は加わってきたのだ。
この二首は、那賀郡(なかのこほり)の上丁(かみつよほろ)、大舎人部(おほとねりべの)千文(ちふみ)。
4369 筑波嶺の早百合(さゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹そ昼も愛しけ
筑波山のさ百合の花の夜床、そこでもいとしい妻は、昼もいとしいよ。
この歌は「愛国」にははいらない。
東国武士として武運長久を鹿島の神に祈って出征することを、「鹿島立ち」と後世に呼ばれた。防人の歌の主題は勇気凛凛ではなく、愛する者との別れ、それも3人に2人は帰ることのない別れであった。病没・餓死・逃亡など。。
4382 太小腹(ふたほがみ)悪しけ人なり疝病(あたゆまひ)我がする時に防人に差す
右の一首は、那須郡の上丁、大伴部廣成。
ふたほがみは悪い人だ。あた病を私がしている時に防人に指名した。
これも「愛国」には選ばれていない。と言うより、防人に指名した地方の長官を非難し、恨みを歌っている歌であるが、これを選者の大伴家持に提出し、家持が拙歌として落とさずに、万葉集に入れたのである。おおらかな時代であったようだ。
万葉集に進上された歌は歌数 166首 、その内 拙歌 として 77首がふるい落とされている。よくも残ったもの。なお、選別率は 53% である。
東国から集められた防人は難波に集結する。装備は自前、食料は難波往復自弁である。赴任地では食料生産した。明治の屯田兵と同じである。国は費用があまりかからない防衛が出来たことになる。
約3千人の防人を筑紫,壱岐,対馬に常駐させた。
律令制では、21~60歳の男子は、3年間の防人の軍役につく義務があり、その大半は筑紫地域,大宰府などに配置され,筑紫地域の内外の軍事に活用された。防人の生活は、60日間軍役につき,他の日々は農業生活を営むのであった。
4402 ちはやぶる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父(おもちち)がため
右の一首は、主帳、埴科郡(はにしなのこほり)、神人部(かむとべの)子忍男(こおしを)。
御坂の神に幣をささげて無事を願うわが命は父母のためのものである。
御坂は長野県の南部の阿智村にある峠で、美濃との国境にある。ここから千数百点にのぼる石製模造品が出土し、これがこの歌の「幣まつり」の幣の原型であることが実証され、峠神祭祀のため手向けられたぬさの実態と符号したことである。神坂峠遺跡は国指定の史跡となり、出土した石製模造品等は阿智村の文化財になっている。防人の遺跡ともいえる。
しかし、東国からの防人の補給は難しく,停止・復活をくりかえし、9世紀始めに,選士・衛卒制に移行し,防人制はなくなった。
難波に集合した防人達は住吉の神に無事を祈って赴任していった。筑紫、壱岐、対馬にはそれぞれ名神大社の住吉神社が鎮座している。

 

防人1

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 2日(火)11時37分35秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1. 律令国家の誕生
弥生時代は田を耕して、税を納めればおしまいで、国への何の義務もなかった。水争い、稲泥棒をみはっていれば、後は呑気なものと言えよう。
 国民国家が形成されてくると、国民は飢えと侵略を防ぎましょうと言うことになり、一人一人が重荷を背負う必要が出てきた。国のために黙々と死んでいく、庶民の悲鳴が聞こえてくる。
 白村江以後、防人の制度が出来、東国から兵士が調達されて、筑紫・壱岐・対馬に赴任し、60日の兵役と耕作に従事した。任期は3年だが、時に延長された。『魏志倭人伝』によると、軍事的副官のヒナモリがおかれた国は、対馬、一支、奴国不弥国であり、古代の防衛線は変わっていない。

 防人の徴発は、先ず、新羅・唐からの船で上陸してこないと思われる地域からである。侵略軍は、太平洋の黒潮を乗り越え、潮岬、熊野灘、遠州灘を越えての船の攻撃はなかろう。更に、この地域は経済的にも、文化的にも立ち遅れていた。権力が目を付けたのである。
 

予言書

 投稿者:大日月地大神御霊  投稿日:2019年 5月29日(水)01時47分53秒 softbank126200227186.bbtec.net
返信・引用
  いつも お世話になっておりますm(__)m

予言書を発見しました、

見ていただけると光栄です。

日月地神示、大日月地神示、続 大日月地神示

http://kisu.me/Lk4

https://goo.gl/kaebxD

③このブログは途中から大日月地神示のより分け

http://ogy.de/09bp

http://ogy.de/gpyx

http://ogy.de/beg7

⑥日本にしかない!貴重な予言書 一覧

http://kisu.me/Sj9

⑦このブログで絶対に見てほしい!厳選動画

http://kisu.me/NuD

⑧【原因を作って、偽善者で現れる戦略】イスラム国とは何だったのか?

http://kisu.me/V8Y  
 

Re: 我が君へ

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 5月 1日(水)15時10分38秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.653[元記事へ]

言蛇さんへのお返事です。

>
> やり遂げられましたね我が君よ、よき時代を有難うございました
> (https://youtu.be/T1cQBP0Vzx8)

見つからないようです。
>
 

Re: 謹賀新年おめでとうございます

 投稿者:言蛇  投稿日:2019年 4月30日(火)23時42分45秒 sp1-79-84-131.msb.spmode.ne.jp
返信・引用
  > No.652[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。
気がつけば鯉幟の季節がそこまで来ていますね。もう誰に後ろ指刺されることも追いかけることもないでしょう、いい休日になりますよ
 

我が君へ

 投稿者:言蛇  投稿日:2019年 4月30日(火)23時28分4秒 sp1-79-84-131.msb.spmode.ne.jp
返信・引用 編集済
  ( https://www.isejingu.or.jp/sp)

神奈備さまこんばんわ、我が君へ借りていたものの返却にこの場をお借りします

「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで」
「Le monde de mon Seigneur va vivre pendant des milliers d’années.
Beaucoup de rock rassemblement à la grande roche, puis
Jusqu’à ce que le grand rocher soit recouvert de mousse.」

やり遂げられましたね我が君よ、よき時代を有難うございました
(https://youtu.be/T1cQBP0Vzx8)

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kotohebi/

 

Re: 謹賀新年おめでとうございます

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 4月30日(火)09時21分12秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.651[元記事へ]

言蛇さんへのお返事です。

 毎日が連休の初日の身分、世間は混雑、近所の公園を散歩する日々です。
公園のバラが咲き始めました。バラの爆発です。
 

謹賀新年おめでとうございます

 投稿者:言蛇  投稿日:2019年 4月26日(金)23時14分31秒 sp1-79-84-131.msb.spmode.ne.jp
返信・引用
  「天地の別れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる富士の高嶺を 天の原振り放け見れば 渡る日の影も隠らひ 照る月の光も見えず 白雲もい行きはばかり 時じくぞ雪は降りける 語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は(万葉集0317 山部赤人)」

ご無沙汰しています言蛇です、神奈備さまはお元気そうでなにより
今年から入力端末をiPadに変えますので入力テストを兼ねて挨拶にきました
明けましておめでとうございます

(https://m.youtube.com/watch?v=Z60PGNQ3wVQ)
 

皇極天皇の譲位について 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 4月 3日(水)08時54分47秒 ah224026.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.648[元記事へ]

5.乙巳の変と孝徳への譲位
 見事な変の成功には、天皇の陰ながらの協力があったはずである。この変での皇極の退位は必要なかったが、他の豪族や世間の目もあり、軽皇子に譲位をすることにした。この譲位は全権を移譲したのではないのは、孝徳死後に、重祚していることからも推測できる。
 この譲位の目的は、皇極の目標の達成に集中するためであったと思われる。飛鳥の都市空間の建設には多くの人民を各地から徴発してくる必要があったが、部民制の下では思うようにいかなかった。部民の持ち主の了承が必要で会って、収穫期だ、災害の後で人手が足らないとか、さまざまな抵抗にあったのだろう。現代で言えば、軍事基地を造るのに、都道府県の許可が要るのと同じことだ。
大化の改新の詔の第一条がまさに部民制の廃止である。このお触れで廃止されたとは考えにくいが、人民の動員は少しはやり易くなったのだろう。これが孝徳天皇に皇位を譲位した最大の理由であった。この力仕事を男弟にやらせたのである。
改新の詔は後世に変えられている可能性があるが、今後の国の形を示したものである。

それでも難波の宮の造営に8年ものの物時間がかかっている。掘っ建て柱でこれである。大寺は瓦葺きだったようで、更に時間がかかったのである。
おそらく孝徳9年には飛鳥宮が完成したのである。板蓋宮である。これで皇極・中大兄・間人皇后と役人達も飛鳥に引き上げた。孝徳は置いてきぼり、実権を失った。中大兄に譲位を考えたのであろうが、有間皇子を後継にしたいとの想いがあり、踏みとどまったのであろう。
以上
参考 『天皇と日本の起源』遠山美都男(講談社現代新書) 『古代王権論』義江明子 岩波書店
 

皇極天皇の譲位について 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 4月 2日(火)09時52分31秒 ah224026.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.647[元記事へ]

4.皇極の治世
最大のテーマは、亡夫舒明がやり残した百済大寺・百済大宮を完成させることだった。
しかしあっさりと百済を捨て、飛鳥川東岸の整備を行い、都市空間を完成させることにした。内外への大王権力を可視的に示す都市空間の構想の完成である。蘇我入鹿はどのようなスタンスであったかは『紀』では明らかではない。
皇族の有望な皇位継承者の山背大兄王を滅ぼすことに加担するなど蘇我氏の横暴は酷くなって来ており、古人大兄王に次の皇位を持っていかれる懸念だけでは済まず、易姓革命によって皇統に替わり蘇我氏が大王家になる懸念すらあった。天皇と雖も簡単には心根をもらせない。相談したのは皇位継承路線から外れていた同母弟の軽皇子と息子の中大兄皇子であったと考えられる。蘇我蝦夷・入鹿親子を成敗しようと決意したのであろう。天皇家に匹敵する勢力を持った蘇我本家を滅ぼせば、天皇家は一強となれるとの思いがあったのだろう。
 

皇極天皇の譲位について 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 4月 1日(月)16時51分56秒 ah224026.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.646[元記事へ]

3.皇極の即位事情
 舒明崩御時には「大兄」と呼ばれる皇子は3人。古人大兄、山背大兄、中大兄である。中大兄は未成年、古人大兄、山背大兄は有力な皇位継承者。大兄とは皇位の業務の一部を分掌していた。古人は内政、山背は外交。大王に集中・体現された権力とは伴造・部民制を構成した大王に対する個々の貢納・奉仕の関係を総括したものであった。大兄はこの一部を任されていた皇子の称号と考えることができる。皇太子の意味ではない。
 大后は大王の身内の女性に限られ、大王と共に王権を共有していたので、その政治経験は大兄達とは比べ物にならないほど大きかった。大王の死後の大王候補の有力な候補となりえたのである。この時代は皇位も安定しており、武力に優れていることは王位に必要条件ではなかった。推古天皇のように女性も大王になりえたのである。皇極が有力な二人の大兄を差し置いて大王位をついだのである。
 やりたいことがあり、皇位を望んだのであろう。加えて息子の中大兄皇子に引き継ぎたいと思っていたはずである。
 

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