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Re: 天孫降臨の地

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 7月12日(日)16時21分7秒 p3231-ipad109fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.773[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
> ありがとうございます。
>
> 笠紗の御前とか高千穂の地名からは、南九州を思わせるところもありますが、おっしゃる通り耳納山地だと思います。
> なぜ、笠紗の御前とか高千穂の名が出てくるのかを解読したいものです。

*それは、『記・紀』編纂の主眼目、半島由来の抹消、天孫降臨を天上界へ隠蔽、天武即位の正当性(万世一系)を謳い挙げるためです。

・半島由来=神武天皇の父親の名=「鵜葺草(大伽耶(うがや))葺不合(不統合)命」。

 =「狗邪韓國」=「九倭韓國」=「大伽耶國」=九人の部族長が治める国の統合に失敗して列島へ。

∵金首露王の降臨伝説=九干(部族長)の上に降臨しています。

・「高天原」を天上界へ隠蔽しましたが、後世の賢者が地上へ引き戻す為の伏線を敷いている。

・「高天原」=うきは市の日向(他に、○○日向が十二か所)。

・降臨は「筑紫の日向」から「襲の(西の)」「高千穂の槵触る嶽」=水縄連山(耳納山地)です。
 
 

Re: 天孫降臨の地

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 7月11日(土)19時45分57秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.772[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

ありがとうございます。

笠紗の御前とか高千穂の地名からは、南九州を思わせるところもありますが、おっしゃる通り耳納山地だと思います。
なぜ、笠紗の御前とか高千穂の名が出てくるのかを解読したいものです。

 

天孫降臨の地

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 7月10日(金)21時40分6秒 p1243-ipad11fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  太安万侶は『記・紀』編纂に当たり、勅命であることに忖度したのか、
或は直接指示を受けたのか、その故地を天上界の事と取られる様に記述した。
天降りした地点は古事記では、「筑紫の日向の高千穂の霊じふる峰」と記述し、
日本書紀では、「日向の襲の高千穂の峰」、「筑紫の日向の高千穂の槵触峰」、
「日向の襲の高千穂の添の山峰」とある。
これらを公約数的に合成し、「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触嶽」と命名した。
これは水縄連山(耳納山地)の山容・山態の事を言い表わしている、と閃いた。

・後世の賢人が地上の故地を読み取れるように伏線を敷いている、と観ます。

*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触嶽」

・「筑紫の日向の」=うきは市妹川地区の日向。(妹川上学校前の元・日向バス停)
 うきは市には他にも「○○日向」が十二か所も現存する。

・「襲の」=“?”(seo)の=「西の」。

・「高千穂の」=「高」は「集(たか)る」の当て字。
 「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。

・「櫛触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。
 「触る」⇒“?”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。

又、降臨した火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、ともある。

・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、
 のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写であろう。

※其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、
 朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
 ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國が真正面になる。
これは、内陸部なのに韓國が見える?と強調している。
 

埴輪起源

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時36分55秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  扶餘王族の祖先は、遊牧民のスキタイと東アジアへ移動して来ましたから、スキタイの風習を倭国に持ち込みました。

倭 旨大君の埋葬迄に遺体を船に載せ国を一巡し、遺体を受け取る者は身体に傷を付ける。

馬と侍臣を絞め殺し、馬の四肢体を立たせ人の遺体の背骨に棒を通した騎馬の人を墓の周囲に配置した。

(記紀の応神天皇陵での駿
馬と交換の話し)先祖の墳墓を崇拝した件では、卑弥呼の橋(箸)墓が有名。

九州から、大倭に遷都する際に、移管した卑弥呼の墓が亀山(宇佐神宮地)に残される話が有名です。
(倭迹迹日百襲姫命)

旨の娘(美穂)と邇波 彦が結婚し、生まれた竹野(日葉酢媛)は、旨の息子仁大君と結婚して讃と珍の母と為ります。

竹野の異母兄弟の出雲王の邇波 矢田彦(野見*宿禰)は、殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、姓カバネの土師臣(朝臣)を戴きました。
 

(無題)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時28分10秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  倭 讃大君は、津守 乎己志の訃報を聞き嘆きますが、直ちに倭 旨大君の孫で、 倭 豊日の子、大伴 乎多弖(武持)に副将軍を任せます。

天香具山の管理者の浦嶼 金も参戦しました。

最終的には、代表が最後の協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うな事を条件に帰服します。

大漢国の後裔には、波多野、福岡、猪飼氏等が有ります。後年、扶桑国の王は讃州(讃岐)に移動します。

倭 讃大君自身は、和睦の後に八名郡 、鳥捕山(南麓に過去大伴神社存在)の西側に高千穂宮を建設し、3年に渡り不老不死の仙薬を研究、調合試飲し水銀中毒と為り死期を悟り、陸路を内津湊へ向かいます。

天香具山が見えて来ると、有名な歌を歌われ、水を所望(愛知県日進市 ケカチ)し、飲みますが亡くなります。

倭は、国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる、倭し、うるはし

大倭から、妻や子等が来て、倭 讃大君の遺体と共に内津湊から京への帰途に着きます。
 

天香具山祭祀

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時22分34秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  東谷山(御春→尾治→尾張山)の麓で育てられた鹿は、香具山へは、鹿乗の船着場から、犠牲の鹿(花鹿)を乗せて向かいます。

頂上を切り開いて、祖先の上陸した地を見て(360度のパノラマ。天の神(ヤハウェ)に感謝して鹿の犠牲(自分達のトーテム鹿、中国扶餘)を捧げる山だったのです。

祭壇は、切石が使えず、天香具山の土から煉瓦を作り【天香具山の土で平瓮ヒラカ(白瓷)】積み上げた物です。
 

最初の香具山

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時19分34秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  伊勢の海の大石(国見山)で在る天香具山は、現在の愛岐三山の弥勒山です。西側には、内津が有ります。

所謂、藤原京の敷地内に遷座してます。 片割れの御春山も春日山として、遷座し、遣唐使を遣わす際の、天神地祇を祀る場所に為ります。

紀記には、天香語山命が、高尾張(御春山)の対岸、高倉山*(天香具山)に降臨して往来したと言う。

その中間を神領と呼び当時を偲んでます。

天香具山は、字の通り天の神に香を具える山で、神が香を嗅ぐ山でも有ります

御春山(現東谷山)には、磐座多数。井戸の水位は、伊勢湾潮位に関係して居ると伝承存在。天香具山に対して此方は地神を祀ります。

尾張國風土記逸文には、建岡君(邇波彦。天香山坐櫛真智命神)が美濃國の花鹿山(天香具山)に登頂し、賢樹(榊)の枝で縵カズラを作り『吾の縵が落ちた所に神あり』(ト事占兆)と、言って投げ、縵の落ちた方向に、地神を祀る場所(御嶽ウタキ祭祀施設)として居ります。

其れが由来となって縵の里と言うと、有り蔓木(葛城)邑と蔓木山ですが、扶餘王族が来たのを邇波彦が見て迎えに出たのが4月故に御春山(奈良県遷座で春日山)と呼ばれます。春日部の発音は粕壁の意味合いで忌み嫌う所からです。
 

(無題)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時12分19秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  倭 讃大君は、副将軍に津守 吾田の子、乎己志を選び、乎己志の姉妹、志保(宮簀媛
)を娶り姻戚関係を結ぶと約束しました。

津守 乎己志は、喜んで受け
ますが、御春の水軍拠点から内陸の海を北に移動中に島田上縣から弓矢を射掛けられ、甲冑姿で水没(逆見の海#)して仕舞います。

#相模国は、当時自治区の遠淡海国でした。倭 建天皇(天武帝)時代の日本が中国の属国化した後に、行われた壬申革命戦の勝利に合わせ大倭王権に新規加入してます。

*近淡海国(淡海)は近江です。

直ちに岸に寄せて賊を山の上に追い詰め火を放ち焼き殺(天白区 焼山)します。

内陸の海を突き当たる四軒家(守山区)で舵を西に切り、曽根湾(東区大曽根)を抜け守山の鳥羽見を回ると天香具山*の麓の内津の湊に入り早馬で知らせます。
 

景行天皇は自在の人物から

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時07分8秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  倭 旨の孫で、 仁の子、讃(景行天皇)大君は、称号の通り(陰を行く)波瀾に満ちた一生でした。

朝鮮半島で、傀儡して居た同盟国の王達は、国内の実力者から同意を得に難い状況に有り、倭国が臣下にしなければ為らない局面に達し出兵します。

中国で、秦代の造船所の船台跡が発見され、そこから復元できる秦代の船は総量5,60 噸の立派な外洋船。 想像以上に、古代の建造技術は進んで居り東支那海を越えて日本へ到着可能です。 建造技術は維持され扶餘王族の渡来に利用されました。

大国の高句麗は、同盟国の任那、加羅、新羅、百済を配下に治める為に、倭国を撃ち破ります。 扶餘も410年に滅亡します。  讃大君は、宋に朝貢し中国の力を借りる事にします。

一方、中央集権に反対する徐福後裔の大漢国(後世 穗国)の東征を行なう事を決めます。

将軍の出雲王 邇波 彦佐須伎が、先導して、息子の彌母里も従軍します。

*所謂 中臣朝臣の祖
**古代中国史書の三本足の烏とは、鵜飼いです。徐福達が齎した鵜飼いの鵜匠は3人1組(スリーマンセル)で漁をしたのを表したものです。
 

古墳時代の海

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)09時25分9秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  九州は大陸の玄関口と呼ばれてましたが、東海三神山に憧れ1世紀に渡来した弥生人達は、雲南省経由で、九州に入ってます。 未だ出来て無い瀬戸内海に沿って本州を東に進み倭国の大乱と呼ばれる衝突が繰り返されます。

弥生人達が東海地方に入ったのは、邪馬台国が魏の調停で、土着の民が定住を認めた後の3世紀初頭で、トゥキ(都支、現在の土岐)国が最初です。
彌奴(三野美濃)国は、倭 得玉が邪馬台国の討伐に恭順してます。

扶餘王族も夷州 、詰り琉球経由で潮の流れで、東海地方から入国してます。

福岡湾から大野城、倭 隋が、邪馬台国の残党の子孫を鎮圧する為にも作った大宰府、筑紫平野も海で吉野ケ里遺跡は、南に垂れ下がった半島の先です。

倭 済・興が一時的に大陸出兵の為に都を置いた甘木や、朝倉も、邪馬台国の恭順した残党を住まわせた日田迄内陸の海が入ってました。
 

(無題)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)09時19分47秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  現在の岐阜県本巣市の下福島の一本松に潮の流れに乗り、現在の韓国から、沖縄の伊平屋島経由で、扶餘王族が渡来しました。

合議政治の実質上の王が、大国主(大人) 臣下の大君

大物主(天皇家)は、大国主だと言う主張を記紀の中でしましたから、主張通り蔓木氏を亜細亜の月氏の都、葛城へと変更し渡来系の主張を強化します。 大人を大臣に変え臣下扱いにします。 改竄は後々迄、続き各方面の公文書の書き換えを行います。

日本書紀や古事記も、倭 弥照天皇の時に改編され、記述に合わせ、源 神野天皇(嵯峨帝)の御世に本格的に改竄され始める備えが為されます。

公文書も蔵人所(機密事項取扱)が設置され其所で行われます。

書き換え不可能な物は処分が続き中身の空の伝承に置き換えて行きました。

万世一系の当初の政策も、あらゆる人種を天皇家に接続する事で、成功し、民族紛争は抑えられましたから公式には、消去されました。
 

(無題)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)08時55分8秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  実名倭 聖大君(聖徳太子)
が中国の皇帝に出した手紙「日没する処の天子(中国)」と書いた事で皇帝が激怒した」は創作です。

航路

長安―山東半島―百済国―竹島―対馬―壱岐―筑紫―
三川(海上から秦王国を眺め)―三野(海岸に達する)
倭王の使いが出迎え
倭国の王都到着

裴世清は、国書を大人の実名蔓木 摩理勢(大門・蘇我 馬子)に渡します。 実名大野 毛人(小野 妹子)は、国書を紛失したと報告し、形式上一度、流刑にされます。

裴世清が帰国すると流刑が解かれ、第三回目の遣隋使の一員として大陸に渡ってます。 帰国後は、大徳という官位十二階の最高位を賜り大出世します。

当時のアジア世界では、傀儡政権が流行り合議政治で、大人(大国主)で実質の王、大君は傀儡王(大物主)で、大人を吾兄(アセ)と呼んで敬意を表した。

天皇称号を使ったのは倭 建(天武帝)です。 次には倭 弥照天皇で、桓武帝です。
 

邇波=蔓木(改竄葛城→鞍作→蘇我の順)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)08時13分31秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用 編集済
  邪馬台ヤムトェ国の場所が特定出来ぬ訳

古代の日本は、中国の東の海上に存在し、当時中国大陸と向き合っていたとされた東海地方は、古代中国から東海三神山の地と認識され、海岸線も当時は現在とは異なっていました。

それは、秦始皇帝を騙した徐福が流布、工作させたと思われ、中国の歴史書に記録される様にさせたと思われます。扶餘王族を運搬した船も秦の時代の技術でした。

中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とさせ60から70度の方向誤導をさせ、会稽郡から実際の「東」を目差して進軍しますと、倭国がその方向に位置すると判断したためなのだが、日本列島の位置を誤導させてあるため実際の東には存在せずに辿り着けない、と言う事です。

呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡らせ夷州と檀州へ派兵します。

檀州*は大海中に存在。

檀州は船州で、参州三川と変化してます。 東海三神山の地は、愛知県豊橋市です。

秦の始皇帝が徐福を遣わし、童児と童女数千人を引き連れて海を渡り、蓬莱の神山と仙薬を捜索させましたが、徐福達はこの島に留まって帰参しませんでした。

今日、代々子孫が伝わって数万戸にもなり、その州に住む者が時々会稽にやってきて、布を商ったり、逆に会稽郡に住む者が大風にあって漂流し、檀州に着く場合も有るという。しかしこの州は遥かな遠方に有り、捜しあてる事ができず、ただ夷州数千の住民を連れ帰っただけになりました。

*夷州 は琉球。会稽東冶之東」(会稽=北緯30度。東冶=北緯26度)に至る地域の東には沖縄県が存在。

逆賊征伐は失敗しました。

徐福の嘘は

607年鞍作 福利(記紀名)は、遣隋使として、皇帝煬帝に謁見しますが、煬帝に倭国への航海の秘密*を暴露しそうに為り、皇帝に激怒され、厳しい拷問を受けます。

遣隋使の随行員は、福利に砒素ヒソを飲ませ亡く為り、償わせ(大辟・・極刑)国難を乗り切ります。

小野 妹子(記紀名)は隋や高句麗の国際事情に焦点を合わせます。

皇帝は、倭国の協力に歓迎し、訓令書(国書)を持たせ倭国への航路を問い質す事になります。

対高句麗政策は、使者である裴世清が、国書を持参して遣隋使に同行し、倭国を訪れます。
 

混一彊理歴代国都之図は…

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 6月 2日(火)16時22分35秒 p1234-ipad11fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  神奈備さん、地図の掲示を賜り多謝 謝々!

*矢張り、見るからに紙面に収めるための、方位と縮尺操作が疑われます。

・朝鮮半島と東シナ海の幅に対比して、列島の縮尺は著しく矮小化されていますし…。
 

Re: 単純明快ー4.

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 6月 2日(火)13時40分38秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.759[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

ありがとうございます。

福嶋さんのおっしゃるように、水行10日の下駄を履いているの見方ができる可能性はありますね。

 伊都国から水行10日でどこまでいけるかが問題です。九州内部では鹿児島までいってしまいませんか。有明海程度frはないでしょう。
 伊都国から北九州の海岸を日本海岸をとれば、出雲や但馬あたりまで来るのかも。
 瀬戸内海を東へ行きますと吉備の国あたりまで。

 伊都国から陸行く1月で九州内を南に行きますと、鹿児島を通り抜けてしまうのでは。
 東へ行きますと、近畿地方まで来ることになりそうです。

> *混一彊理歴代国都之図は、用紙に収めるためのものと観ます。

 地図を描くのに紙面のサイズの都合で、横の者を縦に書くことはあり得ないと思います。

 会稽の東に邪馬台国が位置しているとの認識は地図を正しいと思っている証拠です。



 

単純明快ー4.

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 5月28日(木)22時39分8秒 p2140-ipad03fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
   中国正史の「倭伝」、「倭人伝」、「倭國伝」で、使節の行程記述に所要日数が記載されているのは、『三国志(魏志倭人伝)』のみである。

*行程の順路
①從郡至倭循海岸水行=郡治の領域は海岸沿いに水行。
  ・方位は海岸沿いに南下するのは当たり前で、記述は省略。

②歴韓國乍南乍東=韓の領域(方四千里=『韓傳』)は「乍南乍東」の陸行。
  ・優れた文筆家は「上陸した」との直接文言は使わず文脈表現。

③到其北岸「狗邪韓國」七千餘里=韓の地は方四千里(『韓傳』)である。
・郡治の海岸水行(南下)と倭地(「狗邪韓國」領域)の合計が、差引三千餘里。
・便宜上、郡治の海岸水行と、「狗邪韓國」陸行を、夫々千五百里ずつと仮定。
∴ここまでの陸行≒五千五百里。

④始度一海千餘里至「對馬國」…又南渡一海千餘里至「一大國」又渡一海千餘
里至「末盧國」。
・海峡横断=三千餘里=日中目視水行三日。
・洛東江河口~巨済島=一日、
*海峡横断=水行四日。
∴郡治の海岸水行=六日。
※海上水行の合計=十日。

⑤末盧國から東南陸行五百里到「伊都國」。
 ・「畿内説」は方位が良い加減であるとして、「南」を「東」に読み替える免罪符にす
  る暴挙出たが、方位は良い加減ではナイ!
∵郡使(魏使)が来倭の真夏の日の出の方位を「東」と認識=真東より28°30“程北へ振れる。コンパスも地図も無い時代であり、整合している。

⑥東南至「奴國」百里…東行至「不彌國」百里。
 ・これまでの「方位+距離+国名」から「方位+国名+距離」に書き順が変わる。
 ∵郡使(魏使)は伊都國から先へは行っていない=伝聞記述である。
 ・此れは、「伊都國」までの陸行の続きで行ける、の意。次の「投馬國」への水行の記述の段落の為である。
 ∴「南至投馬國水行二十日」=「不彌國」から先ではなく、「伊都國」から、と解る。

⑦「伊都國の南の投馬國へは水行二十日で至れる」=郡使(魏使)は行ってない。
・「邪馬壹國」以北の「投馬國」が、北から順に書き連ねた最後とは、「邪馬壹國」と東西に並んでいて、等距離と解る。
∴水行十日陸行一月とは、「投馬國」から先の所要日数ではない、と解る。
 ・此れは、伝聞の「水行二十日」の所要日数を先に記述したので、郡使(魏使)が「伊都國」までに要した所要に数を後付けで記述したもの、と解る。
∵「伊都國」から「投馬國」と等距離(千五百里)の「邪馬壹國」を、「投馬國」の南へ水行十日陸行一月、を掛けて移動しようが無い、と解る。

※萬二千餘里の所要日数=水行十日陸行一月+水行二十日、と解る。

*全陸行=韓地四千里+「狗邪韓國」千五百里+末盧國~「伊都國」五百里≒六千里 / 三十日。

*海上水行=郡治の海岸千五百里+海峡横断三千餘里=四千五百餘里 =水行十日。

*郡使(魏使)が実地に踏査した「倭地」=「狗邪韓國」千五百里+海峡横断三千餘里+末盧國~「伊都國」五百里=「周旋可五千餘里」と解る。

 

Re: 単純明快ー3.

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 5月28日(木)10時51分26秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.757[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

ありがとうございます。

> ・漢文は主語省略、品詞・時制不問です。「至」=至った、至れる、かは文脈で解釈。
>
> *混一彊理歴代国都之図は、用紙に収めるためのものと観ます。
>
> ・又は、所要時間を長さに作図している、とか。
>

 列島が南に伸びているような地図があって、所要時間を聞いて、当てはめると邪馬台国は会稽の東にあたると推定しています。この方向感は正しいようです。

 

Re: 単純明快ー3.

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 5月26日(火)23時23分10秒 p5156-ipad110fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.756[元記事へ]

神奈備さん、レスを賜り多謝 謝々!

神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
> 倭人伝から
>
> 始度一海 千餘里 至對海國
>
> 又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國
>
> 又渡一海 千餘里 至末盧國
>
> 東南陸行 五百里 到伊都國
>
> ここから伝聞とみておかしくはありません。しかし、伊都国から奴国、不彌國、投馬國、邪馬壹國と順に述べていると読めますが、いかがでしょうか。
> また、混一彊理歴代国都之図に従えば、南は東と読めます。投馬國と邪馬壹國が西東に並んでいるのは理解できます。
>
> 東南至奴国 百里
>
> 東行至不彌國 百里

*これまでの、方位+距離+国名の書き順が、方位+国名+距離に変わります。

・「伊都國」までは郡使(魏使)が踏査した部分で、「奴國」と「不彌國」へは伝聞だからと観ます。

・「伊都國」から陸行の続きで行けるが、行っていない。

∵「伊都國」の南の「投馬國」への水行二十日の記述の段落のために記述している、と観ます。

・漢文は主語省略、品詞・時制不問です。「至」=至った、至れる、かは文脈で解釈。

*混一彊理歴代国都之図は、用紙に収めるためのものと観ます。

・又は、所要時間を長さに作図している、とか。


> 南至投馬國 水行二十日
>
> 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

*「投馬國」と「邪馬壹國」が東西に位置していて、「伊都國」から等距離なのに、水行十日陸行一月もどうやって移動するのでしょう?

・「伊都國」から「投馬國」への水行二十日の伝聞所要日数を記述したので、自分達の踏査した伊都國までの所要日数を付け加えないと、萬二千餘里の所要日数が完結しません。

∴後付けで挿入=「投馬國」からの所要日数ではなく、郡庁~伊都國までが水行十日陸行一月、です。
 

Re: 単純明快ー3.

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 5月25日(月)14時24分6秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.755[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

倭人伝から

始度一海 千餘里 至對海國

又南渡一海 千餘里 名日瀚海 至一大國

又渡一海 千餘里 至末盧國

東南陸行 五百里 到伊都國

ここから伝聞とみておかしくはありません。しかし、伊都国から奴国、不彌國、投馬國、邪馬壹國と順に述べていると読めますが、いかがでしょうか。
また、混一彊理歴代国都之図に従えば、南は東と読めます。投馬國と邪馬壹國が西東に並んでいるのは理解できます。

東南至奴国 百里

東行至不彌國 百里

南至投馬國 水行二十日

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
 

単純明快ー3.

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 5月24日(日)21時50分27秒 p3185-ipad102fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  つづき、です。

※郡使(魏使)が「伊都國」止まりである証拠=『三国志(魏志倭人伝)』の末盧國の役目の記事が物語っている。
*「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭國皆臨津捜露伝送文書賜遺之物詣女王不得差後錯」=「(倭)王使いを遣わし洛陽や帯方郡や諸韓国に詣たり、郡から倭國に使いある時、(末盧國の)皆海岸に出て捜露(難破・漂流しても探し出し)し文書・賜遣物を女王に伝送差錯を得ず」、と「伝送」としている。
・「伝送」=次々に伝え送る=搬送者が次々に代り乍ら届ける。
・「伝え送る」=物・事象を或るものをを介して届ける。
∴郡使(魏使)は女王に直接手渡ししていない。

※郡使(魏使)が「伊都國」止まりである (「邪馬壹國」へ至らない) 理由。
・「邪馬壹國」は「投馬國」と東西に並んでいて、「伊都國」の南千五百里にある。
・其の行程は「伊都國」の南で水行二十日=内陸河川水行、と解る。
・海上の水行十日と区別する為の分ち書きである。
・古代に在っては、佐賀・筑後平野には有明海が久留米の水天宮辺りまで湾入。低平地は山裾近くまで、葦が生い茂る低湿地の荒野である。現代の長崎本線と鹿児島本線が略海岸線である。かてて加えて、干満の差八メートルの潟である。
・徐福は有明海の潟の澪に盞を浮かべて水路を見つけ遡り、舟が座礁する地点まで来て、潟の泥土の上に布を千反も敷いて歩いて上陸した。「浮盃・千布」の地名として残っている。従って、衣冠束帯の郡使(魏使)が、背振山の山越えをしても「邪馬壹國」(水縄連山(耳納山地))への低平地歩行横断は不可能。
・古代に在っては、河川は高速道路の様なものである。川の上流へ向かうには両岸からの曳船が在った。
・恵蘇宿八幡宮=筑後川の中流に在るが「曳船宿八幡宮」である。
・会所八幡宮=筑後川の上流の日田市にあるが「曳船八幡宮」である。
*古代に在っては、有明海と博多湾との地峡は現在より狭かった。江戸時代にはこの間の運河開削計画が再三持ち上がったが、頓挫している。
*(伊都國の)南水行二十日=初動が南ではナイ! 伊都國の南は背振山である。
・その行程=三雲遺跡~瑞梅寺川~今津湾~博多湾~御笠川遡上~「只越=船越」~
宝満川~筑後川~有明海~矢部川遡上八女福島=「投馬國」水行二十日。
     ↓

      ↓→巨瀬川遡上うきは市=「邪馬壹國」(旧・星野村、矢部村)。

∵明治時代の廃藩置県前は、旧・星野村は浮羽郡側である。現在は八女市。
・平仮名の「つ」の入筆部=水縄連山(耳納山地)、終筆部=星野村、「つ」の懐部=「投馬國」。
∴「投馬國」と「邪馬壹國」は東西に位置し、伊都國から等距離である。
 

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