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神社のトコロテン遷座

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 9月17日(木)11時22分12秒 ah231068.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   伏見稲荷大社を稲荷山頂から麓に勧請したのは弘法大師空海によるとの俗説がありますが、実際は中世の出来事のようです。その麓には藤尾社(現在の藤森神社)が先に鎮座していましたが、現在地の伏見稲荷大社の1.5kmほど南へ遷座を余儀なくされました。所がその地には式内社の真幡寸神社が先に鎮座していました。真幡寸神社を城南偶境内に遷座させています。山城国紀伊郡のトコロテン遷座です。伏見稲荷の近所の住民は藤森神社の氏子だそうです。
 紀伊国の濱宮は崇神期に豊鍬入姫命が天照大神を奉じて祀った場所とされています。濱宮には同じ頃に琴の浦から天懸大神・国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられています。三年後、豊鍬入姫命は天照大神を奉じて吉備に行かれました。
 時代が下って持統天皇の紀伊行幸があり、紀伊国造は、濱宮から天懸大神、国懸大神を名草萬代宮と呼ばれる現日前国懸神宮の地に遷しました。そこには伊太祁曽神社が鎮座していましたが、これを山東の亥の森に遷座させました。これは紀の国の国譲りと呼ばれています。『続日本紀』大宝二年(702年)「是日。分遷伊太祁曾。大屋都比賣。都麻都比賣三神社。」とあります。伊太祁曽神社にまつられている五十猛命・大屋都姫命・都麻都姫命の三柱の神を三社の神社に分けて祀るようにとの勅命が出て、伊太祁曽神社は三分割されました。おかげで朝廷からの幣帛は三倍になりました。その際、五十猛命を祀る伊太祁曽神社は現在の地に祀られました。実は先にそこに鎮座していた須佐神社(素戔嗚尊を祀る)が遥か有田郡に遷座していったと思われます。伊太祁曽神社の現在の鎮座地は伊太祈曽ですが、その西側を口須佐といい、南側を奥須佐と言います。おそらく伊太祈曽の旧地名は須佐だったのでしょう。『和名抄』には、名草郡に須佐神戸の地名があります。『寛永記』に、和銅六年(713年) 五十猛命、大峰釈迦嶽から山東の地に降臨したとあり、同じ年に須佐神社が吉野の西川峰より勧請とあります。伊太祁曽神社が須佐神社を追い出した形になっていますが、両社の祭礼の時にはお互いが氏子さんを派遣することが続いていますし、須佐神社の中に伊太祁曽神社の遥拝所があります。今、これを主張しているのは神奈備しかいないのですが、小川琢治氏は須佐神社は名草郡にあったと推定されており、心強いことです。
濱宮・日前国懸神宮・伊太祁曽神社・須佐神社とトコロテン遷座をやっているのです。
 
 

Re: 貴サイトの「吉志部神社」のページの記述に異存があります

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 9月15日(火)12時24分58秒 ah231068.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.783[元記事へ]

憚りながらさんへのお返事です。

 ご指摘ありがとうございます。一つの考え方としてお伺いいたしました。
 

貴サイトの「吉志部神社」のページの記述に異存があります

 投稿者:憚りながら  投稿日:2020年 9月14日(月)00時33分26秒 no-rdns.m247.ro
返信・引用
  『 「吉志」小考 』

 先ず「新羅」というのが間違いです。
「キシ」は新羅の官位にあるし、外交特使をやってよく行ってた一族だしであると。
 その吉志達の先祖の大彦命の実の息子で吉志の先祖の波多武日子命は、
先祖は新羅の王子の娘を娶っているから新羅王室に縁があるから対新羅外交にあてられた事は自然な事であるし、
「キシ」なら高麗王も「(コニ)キシ」と言います。?

3 高麗郷と高麗神社
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage59.html

 そして『新撰姓氏録』にはっきりと「大彦命の子」と書いてあるというのに、
国語的解釈がすんなりと普通になされずに、「同祖」という言葉が書き加えられているばかりに混乱を来してしまったらしく、それを変にもじって、
系譜図を見ると違う血流の、大彦命に「拾われた捨て子」で大彦命の息子に一族に加えられた擬姓的氏族の徳彦宿禰命の血流の難波忌寸と「同祖」(同じ先祖。つまり大彦命が先祖という事)と、
『新撰姓氏録』に書き加えられているばかりに、混乱されて徳彦宿禰と血流が結び付けられ、
親子とか同一人物にされてしまい、それが「定説」的になっていたりします。
 今までの歴史途中で勝手におかしな解釈をされ続けたもので、大彦命直系吉志族の崇神天皇が「ミマキイリヒコ」で「(任那(伽羅)」から卑弥呼王家に入り婿したらしい卑弥呼の側近の倭人将軍なのに、
(日本歴代天皇二千六百年史・第10代崇神天皇
https://m.youtube.com/watch?v=6FvXkorxMHM )
「吉志」がますます倭人ではなく朝鮮渡来の朝鮮人で神武天皇と繋がっていないかのような「定説」になっています。

 「同祖」というのは、ごく単純に普通に国語的解釈して、「同じ血流」という事ではなくして、
「先祖が同じ大彦命である」とかいう意味でしょう普通は。片や実子、片や拾われた捨て子で愛育された子。

波多武日子命
http://koshimiyake.web.fc2.com/saijin_1.html

 大彦命の子に加えられている拾われ子の「得彦宿禰命」と「難波忌寸」とは直系血流で繋がっているが、
「吉志」は「波多武日子命」の直系であるのに「難波忌寸同祖」と『新撰姓氏録』に書き加えられているばかりに、
「新羅」外交で活躍した一族だとか「新羅」渡来朝鮮人だとかの、「新羅渡来朝鮮人が天皇家の大彦命に血が繋がってるのはおかしい」というバイアスが働いての、エビデンスの確たるものでもない先入観等からでしょう、
「難波忌寸同祖」=難波忌寸と同じく「大彦命」を祖先とする、を、
「難波忌寸ひいては大彦命と血が繋がっていない得彦宿禰と血流同じくする」とか、
「波多武日子は得彦宿禰と父子または同一人物」だとかと、勝手におっちょこちょい解釈・曲解されて「説」にまでされてしまっているようです。

 吉士の先祖の「五十狭茅宿禰」と忍熊皇子のエピソードについても、これは天皇家乗っ取りの為に自分の一族の血が流れ込んだ皇子を立てて戦いを挑みつつも吉士将軍家にその皇子ぐるみ殺されたそのかつての恨みを持つ藤原不比等の、この「元冠襲来女真族男」の藤原不比等の、
「吉士将軍家が騙し討ちにあって馬鹿死にする」というシナリオの脳内妄想創作であるらしいものの、
忍熊皇子が「我が君 五十狭茅宿禰よ」と、自分より目上の人に呼び掛けた言葉を「「我が君」というのはアイヌ語で弟という意味だ」と学会の権威的な人物が近年に決め付け、
「忍熊皇子の父親の天皇はアイヌが特に大嫌いで穢らわしいと思っていたのに、何度もアイヌに戦を仕掛けているのに、
そんな死に際の差し迫った時にまで、唐突に口をついてアイヌ語を使う程に自分の皇子に穢らわしいと考えているアイヌ語を教え込むだろうか?」と、
一般の人達が疑問反論を提示している有り様です。


四天王寺は官人的体質の氏族が創建した准官寺的寺院:加藤謙吉「四天王寺と難波吉士」(1)
https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/4322c6fe42d8dc57d677732ab27ddb63
「ただ、加藤氏はその後で、新羅と厩戸王子との関係を強調して四天王寺は新羅系の難波吉士氏の氏寺だとする田村説を訂正し、難波吉士氏は新羅でなく加耶系の渡来人であることを指摘します。」

 加耶=伽羅。「吉志舞」は新羅系のものではないし、加耶(伽羅)は新羅でもなく、
「難波吉士」は新羅渡来の朝鮮人ではなく、元々伽羅から来た倭人王族で、
「ミマキイリヒコ」というように、和合の為に邪馬台国卑弥呼王家に入り婿した、
邪馬台国の将軍・男王から奈良大和朝廷の天皇である崇神天皇となった、日本の正当王家・正当天皇家でしょう。

 そして「吉志」が伽耶の「亀旨降る(キシフル)峰」に天孫降臨した金首露王の伽羅から来た、邪馬台国卑弥呼王家への入り婿王族将軍家という事は、
一般に「吉志」を新羅渡来という先入観を捨ててせめて伽羅渡来人という一歩前進があったにせよ未だ「朝鮮人」という観念を捨てられない事かと思いますが、
伽耶人は「倭人」であって、
そしてその王の「金首露王」もコリアン系だと思うでしょうものの、その伽耶の倭人達の正体とは実は驚くべき事に大陸東端を目指したイスラエルの民達という人も居ます。
 金首露王は「ダビデ王家」のメネリケの姫を娶った血流の人だったとも言います。
 そして「吉志」が歴史家達の『新撰姓氏録』への妙な解釈と違い「大彦命」の直系血流である以上、その邪馬台国将軍・男王だった大和朝廷崇神天皇の先祖の金首露王の血をひくものなのです。

日本国家の誕生1~伽耶国こそ倭人のルーツ~
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=270135

伽耶とはどういう国だったのか
夢幻と湧源
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_59ad.html

 参考までに、以下のようなサイトもあります。

神の民の指標となった大陸最東端の伽耶と任那
日本とユダヤのハーモニー
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=84

 「吉志」クシフル天孫降臨の金首露王家は、「ダビデ王家」のメネリケの姫を娶って、それでソロモン王と仲の良かったフェニキア人のタルシュシュ船でジンバブエ(同和伝承)から伽羅に来たという人も居ますが、
そしてまた、ダビデ王家の血を引く秦一族の新羅王子の「天日桙命」の姫君からもまた「ダビデ王家」の血流を貰ったという人が居ます。

波多武日子命と秦との関係について
https://koshi-miyake.hatenablog.com/entry/2015/08/21/181237


 第一一四話 難波吉士氏の謎を解く:五十狭茅宿禰
http://tsurugine.blog.fc2.com/blog-entry-128.html
「最初の登場が、皇子の将軍あるいは側近というのは、
この氏族が、並大抵の氏族ではないと察せられる。

不思議なことは、登場以前の活躍や出自が、全くと
いうほど記述されていないこと。

「難波吉士氏の全容を書けば、邪馬台国や倭五王の
秘密がわかってしまう」と編者たちは知っていて、書か
ない道を選んだ、とブログ筆者は思う。」

 「古代シュメールの五十柱の神々(一神か多神かの混乱の起源であり八百万の神々の起源)を名に冠する「五十」の将軍の古代シュメール天孫降臨であり邪馬台国男王から大和朝廷の初代天皇になった難波吉士」の真実について書く事は、
大国主命忌部族が創作したこの日本国の起源成立や偽りの天皇家の秘密について暴露する事であり怖れられた。
 「新羅渡来の朝鮮人のままにして良かった」のだ...
 

日本武尊のことか

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 9月 8日(火)10時33分24秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  弱い皇子ゆえ命もすてた。おたが熊襲はよか男。。  

とみたさん

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 8月31日(月)21時55分29秒 p1238-ipad107fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  こちらこそ、宜しくお願いします。

私のは、直観と閃きと屁理屈でして、アカデミックな論考には程遠い説です。
 

Re: お久しぶりです

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 8月31日(月)21時13分28秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.778[元記事へ]

とみたさんへのお返事です。

> 長い間,この掲示板を離れておりました。
> 弥生時代を考古学一本で研究しておりまして、一応まとめ終えました。
> 次に4-6世紀の研究を始めておりますが、考古学と記紀伝承を擦り合わせられないかと
> 試しています。
> 福島さんこちらでもよろしくお願いします。
> 神奈備さんが一番ご存じと考え、またご教示願いたいと思います。
>
> 少し曖昧なことを語りますのでご批判ください。
> 先ずはご挨拶させていただきます。

お久しぶりです。いつでも大歓迎です。
こちらこそよろしくお願いいたします。

 

お久しぶりです

 投稿者:とみた  投稿日:2020年 8月31日(月)20時57分34秒 KD036014071140.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  長い間,この掲示板を離れておりました。
弥生時代を考古学一本で研究しておりまして、一応まとめ終えました。
次に4-6世紀の研究を始めておりますが、考古学と記紀伝承を擦り合わせられないかと
試しています。
福島さんこちらでもよろしくお願いします。
神奈備さんが一番ご存じと考え、またご教示願いたいと思います。

少し曖昧なことを語りますのでご批判ください。
先ずはご挨拶させていただきます。

 

Re: 文献解読

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 7月24日(金)17時59分20秒 p1206-ipad105fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.776[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>  ありがとうございます。
> > 『後漢書』には「奴國」単独記述はなく「倭奴國」を「倭ノ奴國」との読みは出来ない。
> > 現地踏査した裴世清は、「竹斯國」と「秦王國」としか述べていない。
> > 「奴國-1」「奴國-2」も国名では無かった、と証言していると観る。

> 時代が400年以上経っています。

*400年を経て全部消滅するでしょうか?

> >「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國」二万戸、であり「邪馬壹國」も国名では無かった、と裴世清は証言している。


> 末盧國 4000余戸
> 伊都國 1000余戸
> 奴國  20000余戸
> 不禰國  1000余戸
> 投馬國 50000余戸
> 邪馬台國 70000余戸
> このような順で書かれています。奴國と投馬國のみを加算する論理はなんでしょうか。

*裴世清は所謂「邪馬臺國=邪馬壹國」の現地を踏査しています。

・其処には「邪靡堆」(水縄連山(耳納山地))しか無く、そこは『三国志(魏志倭人伝)』に謂う「投馬國」と「奴國-2」ですから…。
 

Re: 文献解読

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 7月22日(水)16時03分59秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.775[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

 ありがとうございます。


> 『後漢書』には「奴國」単独記述はなく「倭奴國」を「倭ノ奴國」との読みは出来ない。
伊都国。


> 現地踏査した裴世清は、「竹斯國」と「秦王國」としか述べていない。
> 「奴國-1」「奴國-2」も国名では無かった、と証言していると観る。
時代が400年以上経っています。


>「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國」二万戸、であり「邪馬壹國」も国名では無かった、と裴世清は証言している。

末盧國 4000余戸
伊都國 1000余戸
奴國  20000余戸
不禰國  1000余戸
投馬國 50000余戸
邪馬台國 70000余戸
このような順で書かれています。奴國と投馬國のみを加算する論理はなんでしょうか。

 

文献解読

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 7月21日(火)18時19分44秒 p1214-ipad108fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  ※『後漢書』には「奴國」単独記述はなく「倭奴國」を「倭ノ奴國」との読みは出来ない。

・此れは(「倭ノ奴國」との読みは)『三国志(魏志倭人伝)』の「奴國-1」「奴國-2」に影響されている。

※現地踏査した裴世清は、「竹斯國」と「秦王國」としか述べていない。

∴「奴國-1」「奴國-2」も国名では無かった、と証言していると観る。

*「邪馬壹國」七万戸=「投馬國」五万戸+「奴國」二万戸、であり「邪馬壹國」も国名では無かった、と裴世清は証言している。

∵古の「邪馬臺」(國の文字を外し)は、来て観たら「邪靡堆」だつた。

・其の都の地勢=「東高西下」と水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を言い表している。

「邪靡堆」の文字撰びが゛絶妙に水縄連山(耳納山地)を表現している。

※この地は「伊都國」の南千五百里 (郡庁から萬二千餘里)に在る!!!!!!

※こんな単純明快な事が、何百年も謎だつたなんて信じがたいことである。
 

Re: 天孫降臨の地

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 7月12日(日)16時21分7秒 p3231-ipad109fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.773[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 福島雅彦さんへのお返事です。
>
> ありがとうございます。
>
> 笠紗の御前とか高千穂の地名からは、南九州を思わせるところもありますが、おっしゃる通り耳納山地だと思います。
> なぜ、笠紗の御前とか高千穂の名が出てくるのかを解読したいものです。

*それは、『記・紀』編纂の主眼目、半島由来の抹消、天孫降臨を天上界へ隠蔽、天武即位の正当性(万世一系)を謳い挙げるためです。

・半島由来=神武天皇の父親の名=「鵜葺草(大伽耶(うがや))葺不合(不統合)命」。

 =「狗邪韓國」=「九倭韓國」=「大伽耶國」=九人の部族長が治める国の統合に失敗して列島へ。

∵金首露王の降臨伝説=九干(部族長)の上に降臨しています。

・「高天原」を天上界へ隠蔽しましたが、後世の賢者が地上へ引き戻す為の伏線を敷いている。

・「高天原」=うきは市の日向(他に、○○日向が十二か所)。

・降臨は「筑紫の日向」から「襲の(西の)」「高千穂の槵触る嶽」=水縄連山(耳納山地)です。
 

Re: 天孫降臨の地

 投稿者:神奈備  投稿日:2020年 7月11日(土)19時45分57秒 af214155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.772[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

ありがとうございます。

笠紗の御前とか高千穂の地名からは、南九州を思わせるところもありますが、おっしゃる通り耳納山地だと思います。
なぜ、笠紗の御前とか高千穂の名が出てくるのかを解読したいものです。

 

天孫降臨の地

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2020年 7月10日(金)21時40分6秒 p1243-ipad11fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  太安万侶は『記・紀』編纂に当たり、勅命であることに忖度したのか、
或は直接指示を受けたのか、その故地を天上界の事と取られる様に記述した。
天降りした地点は古事記では、「筑紫の日向の高千穂の霊じふる峰」と記述し、
日本書紀では、「日向の襲の高千穂の峰」、「筑紫の日向の高千穂の槵触峰」、
「日向の襲の高千穂の添の山峰」とある。
これらを公約数的に合成し、「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触嶽」と命名した。
これは水縄連山(耳納山地)の山容・山態の事を言い表わしている、と閃いた。

・後世の賢人が地上の故地を読み取れるように伏線を敷いている、と観ます。

*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触嶽」

・「筑紫の日向の」=うきは市妹川地区の日向。(妹川上学校前の元・日向バス停)
 うきは市には他にも「○○日向」が十二か所も現存する。

・「襲の」=“?”(seo)の=「西の」。

・「高千穂の」=「高」は「集(たか)る」の当て字。
 「千穂」は、水縄連山(耳納山地)の山頂がノコギリの歯状を呈しているのを「千の穂」と描写。

・「櫛触嶽」=水縄連山(耳納山地)の山腹が、千本の櫛の歯で梳った様相をしている描写である。
 「触る」⇒“?”(ful)=扱(しご)く(民衆書林・韓日辞典)でもある。

又、降臨した火瓊瓊杵尊は「膂宍(そじし)の胸副(むなそう)國」を丘続きに歩いた、ともある。

・「膂宍の胸副國」=痩せた動物の背骨(山頂のノコギリの歯状)と肋骨が浮き出た(櫛触る)様、
 のことである。水縄連山(耳納山地)の稜線描写であろう。

※其処で、天津彦彦火瓊瓊杵尊は「此地は韓國に向ひ笠紗の御前にま来通りて、
 朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて…、と。
 ここからは、二日市地溝帯の御笠山(宝満山)の御前を引き通して韓國が真正面になる。
これは、内陸部なのに韓國が見える?と強調している。
 

埴輪起源

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時36分55秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  扶餘王族の祖先は、遊牧民のスキタイと東アジアへ移動して来ましたから、スキタイの風習を倭国に持ち込みました。

倭 旨大君の埋葬迄に遺体を船に載せ国を一巡し、遺体を受け取る者は身体に傷を付ける。

馬と侍臣を絞め殺し、馬の四肢体を立たせ人の遺体の背骨に棒を通した騎馬の人を墓の周囲に配置した。

(記紀の応神天皇陵での駿
馬と交換の話し)先祖の墳墓を崇拝した件では、卑弥呼の橋(箸)墓が有名。

九州から、大倭に遷都する際に、移管した卑弥呼の墓が亀山(宇佐神宮地)に残される話が有名です。
(倭迹迹日百襲姫命)

旨の娘(美穂)と邇波 彦が結婚し、生まれた竹野(日葉酢媛)は、旨の息子仁大君と結婚して讃と珍の母と為ります。

竹野の異母兄弟の出雲王の邇波 矢田彦(野見*宿禰)は、殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、姓カバネの土師臣(朝臣)を戴きました。
 

(無題)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時28分10秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  倭 讃大君は、津守 乎己志の訃報を聞き嘆きますが、直ちに倭 旨大君の孫で、 倭 豊日の子、大伴 乎多弖(武持)に副将軍を任せます。

天香具山の管理者の浦嶼 金も参戦しました。

最終的には、代表が最後の協議を行い、制裁処罰されず公平な人材登用を行うな事を条件に帰服します。

大漢国の後裔には、波多野、福岡、猪飼氏等が有ります。後年、扶桑国の王は讃州(讃岐)に移動します。

倭 讃大君自身は、和睦の後に八名郡 、鳥捕山(南麓に過去大伴神社存在)の西側に高千穂宮を建設し、3年に渡り不老不死の仙薬を研究、調合試飲し水銀中毒と為り死期を悟り、陸路を内津湊へ向かいます。

天香具山が見えて来ると、有名な歌を歌われ、水を所望(愛知県日進市 ケカチ)し、飲みますが亡くなります。

倭は、国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる、倭し、うるはし

大倭から、妻や子等が来て、倭 讃大君の遺体と共に内津湊から京への帰途に着きます。
 

天香具山祭祀

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時22分34秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  東谷山(御春→尾治→尾張山)の麓で育てられた鹿は、香具山へは、鹿乗の船着場から、犠牲の鹿(花鹿)を乗せて向かいます。

頂上を切り開いて、祖先の上陸した地を見て(360度のパノラマ。天の神(ヤハウェ)に感謝して鹿の犠牲(自分達のトーテム鹿、中国扶餘)を捧げる山だったのです。

祭壇は、切石が使えず、天香具山の土から煉瓦を作り【天香具山の土で平瓮ヒラカ(白瓷)】積み上げた物です。
 

最初の香具山

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時19分34秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  伊勢の海の大石(国見山)で在る天香具山は、現在の愛岐三山の弥勒山です。西側には、内津が有ります。

所謂、藤原京の敷地内に遷座してます。 片割れの御春山も春日山として、遷座し、遣唐使を遣わす際の、天神地祇を祀る場所に為ります。

紀記には、天香語山命が、高尾張(御春山)の対岸、高倉山*(天香具山)に降臨して往来したと言う。

その中間を神領と呼び当時を偲んでます。

天香具山は、字の通り天の神に香を具える山で、神が香を嗅ぐ山でも有ります

御春山(現東谷山)には、磐座多数。井戸の水位は、伊勢湾潮位に関係して居ると伝承存在。天香具山に対して此方は地神を祀ります。

尾張國風土記逸文には、建岡君(邇波彦。天香山坐櫛真智命神)が美濃國の花鹿山(天香具山)に登頂し、賢樹(榊)の枝で縵カズラを作り『吾の縵が落ちた所に神あり』(ト事占兆)と、言って投げ、縵の落ちた方向に、地神を祀る場所(御嶽ウタキ祭祀施設)として居ります。

其れが由来となって縵の里と言うと、有り蔓木(葛城)邑と蔓木山ですが、扶餘王族が来たのを邇波彦が見て迎えに出たのが4月故に御春山(奈良県遷座で春日山)と呼ばれます。春日部の発音は粕壁の意味合いで忌み嫌う所からです。
 

(無題)

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時12分19秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  倭 讃大君は、副将軍に津守 吾田の子、乎己志を選び、乎己志の姉妹、志保(宮簀媛
)を娶り姻戚関係を結ぶと約束しました。

津守 乎己志は、喜んで受け
ますが、御春の水軍拠点から内陸の海を北に移動中に島田上縣から弓矢を射掛けられ、甲冑姿で水没(逆見の海#)して仕舞います。

#相模国は、当時自治区の遠淡海国でした。倭 建天皇(天武帝)時代の日本が中国の属国化した後に、行われた壬申革命戦の勝利に合わせ大倭王権に新規加入してます。

*近淡海国(淡海)は近江です。

直ちに岸に寄せて賊を山の上に追い詰め火を放ち焼き殺(天白区 焼山)します。

内陸の海を突き当たる四軒家(守山区)で舵を西に切り、曽根湾(東区大曽根)を抜け守山の鳥羽見を回ると天香具山*の麓の内津の湊に入り早馬で知らせます。
 

景行天皇は自在の人物から

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)12時07分8秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  倭 旨の孫で、 仁の子、讃(景行天皇)大君は、称号の通り(陰を行く)波瀾に満ちた一生でした。

朝鮮半島で、傀儡して居た同盟国の王達は、国内の実力者から同意を得に難い状況に有り、倭国が臣下にしなければ為らない局面に達し出兵します。

中国で、秦代の造船所の船台跡が発見され、そこから復元できる秦代の船は総量5,60 噸の立派な外洋船。 想像以上に、古代の建造技術は進んで居り東支那海を越えて日本へ到着可能です。 建造技術は維持され扶餘王族の渡来に利用されました。

大国の高句麗は、同盟国の任那、加羅、新羅、百済を配下に治める為に、倭国を撃ち破ります。 扶餘も410年に滅亡します。  讃大君は、宋に朝貢し中国の力を借りる事にします。

一方、中央集権に反対する徐福後裔の大漢国(後世 穗国)の東征を行なう事を決めます。

将軍の出雲王 邇波 彦佐須伎が、先導して、息子の彌母里も従軍します。

*所謂 中臣朝臣の祖
**古代中国史書の三本足の烏とは、鵜飼いです。徐福達が齎した鵜飼いの鵜匠は3人1組(スリーマンセル)で漁をしたのを表したものです。
 

古墳時代の海

 投稿者:古代豪族後裔 邇波  投稿日:2020年 6月21日(日)09時25分9秒 180-199-93-105.nagoya1.commufa.jp
返信・引用
  九州は大陸の玄関口と呼ばれてましたが、東海三神山に憧れ1世紀に渡来した弥生人達は、雲南省経由で、九州に入ってます。 未だ出来て無い瀬戸内海に沿って本州を東に進み倭国の大乱と呼ばれる衝突が繰り返されます。

弥生人達が東海地方に入ったのは、邪馬台国が魏の調停で、土着の民が定住を認めた後の3世紀初頭で、トゥキ(都支、現在の土岐)国が最初です。
彌奴(三野美濃)国は、倭 得玉が邪馬台国の討伐に恭順してます。

扶餘王族も夷州 、詰り琉球経由で潮の流れで、東海地方から入国してます。

福岡湾から大野城、倭 隋が、邪馬台国の残党の子孫を鎮圧する為にも作った大宰府、筑紫平野も海で吉野ケ里遺跡は、南に垂れ下がった半島の先です。

倭 済・興が一時的に大陸出兵の為に都を置いた甘木や、朝倉も、邪馬台国の恭順した残党を住まわせた日田迄内陸の海が入ってました。
 

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