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Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年11月14日(水)11時52分17秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  ペギラさんへのお返事です。

>銅剣形土製品とか銅戈形土製品とか、たくさんあるのか?

こういう考え方はどうでしょうか。
「音を出す」ことが目的の場合は土器で作っても代替になった、です。

円筒型埴輪、太鼓だと考えています。
側面にあいた穴は固定用の穴かもしれないが、装飾的な穴も少なくない。
朝顔型などは音響効果を意識した可能性ありとみています。
ずらり並べてドンドコドン、現代の雨乞いイベント、面白いと思うです。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 
 

Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年11月11日(日)16時23分53秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.608[元記事へ]

ペギラさんへのお返事です。

 追加情報、ありがとうございます。

 どんたくさんも最近元気に活躍されています。

丸 について 追加
 満・万里・麻呂がついているのは賎民の称号だと折口信夫は言っている。挽歌の歌人に多い。そうして邪神の呪いを避けようとしたとされる。まろやまりには屎まるの意味があり、きたないと思わせる名で邪神をしりぞけようとする。
 

Re: 隠れ銅鐸祭祀

 投稿者:ペギラ  投稿日:2018年11月 9日(金)23時44分52秒 kc220-208-231-173.ccnw.ne.jp
返信・引用
  > No.504[元記事へ]

2年がかりの追加返信で申し訳ありません。

ふっと、思いついて、

その思いついてのもとは、

2017  青銅の鐸と武器 滋賀県立安土城考古博物館

このなかにある銅鐸形土製品、たくさん出てきます。

いままでも、充分気になっていた部類の品物ですが、
いくつかを見ていると、

「銅剣形土製品とか銅戈形土製品とか、たくさんあるのか?」

と思いました。

とりあえず、銅鐸側の人間としては、見当たらない。

ええっと思う、昨今です。



http://doutaku.saloon.jp/kodainonazo/index.html

 

耳について 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年11月 3日(土)16時24分29秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.606[元記事へ]

4.その他の耳
『肥前国風土記』の値嘉の郷に西の海に見える島についての記事がある。その島へ安曇連百足を
見にやらせると、第一の島の小近に大耳、第二の島の大近に垂耳という土蜘蛛がいた。白水郎(海
人)は、容貌が隼人に似て言葉も世人とは違うとある。
 五島列島は黒潮が流れて入り、気温は南九州と似ており、交流があったのだろう。
 『魏志倭人伝』の投馬国の長官は彌彌(弥弥、ミミ)、副官は彌彌那利(弥弥那利、ミミナリ)
というとある。吉備にも紀伊にも耳のつく人物はいる。

5.金属と耳
 素戔嗚尊が娶った櫛稲田媛は稲田宮主須賀之八耳神(足名椎)の娘であった。
 天日矛命は但馬の国の前津耳の娘の麻拕能烏(またのお)を娶った。
この二神は金属に関係している北方系の神である。奇しくも耳のつく人は南方系と思われるが、
その娘を娶っている。北方の金属と南方の耳、天皇家もそう言えるだろう。
                                     以上

参考書
『アマレラスの誕生』溝口睦子 岩波新書
『黒潮の民俗学』谷川健一 筑摩書房
『青銅の神の足跡』谷川健一 小学館ライブラリー
 

耳について 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年11月 1日(木)11時52分48秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2.外戚
高皇産霊     高木神ともいう。7世紀以前の皇祖神。北方系の神。『顕宗紀』天地を鎔造したとある。金属神の面影もある。
大山津見     大山津見とは大山に住む即ち大山を司る神、山神。 また和多志大神の和多は綿津見(海神)のわたであり、海の意味。 大山津見神を祀る大山祇(大三島)神社の杜伝では山・海兼備の神である。
綿津見      海人の安曇連等が祖神として奉齋する神。阿曇連等は、綿津見神の子・宇都志日金柝命の子孫。 穂高神社では、宇都志日金柝命を穂高見命といい、安曇族の祖という。
大物主      海を照らしてくる神(神光照海)で、大己貴の幸魂奇魂と名乗る。三輪山に坐す神。
三島溝咋耳    神武皇后の祖父。
磯城県主     大物主を崇拝する一族

3.『魏志倭人伝』によれば、倭国の武器は儋耳朱崖のものと同じであるとしている。海南島の
ことである。『漢書地理志』には、儋耳の者は大耳をもち、王者の耳はみな肩下三寸にまで下が
ると記されている。また、儋耳とは、耳が長くて肩に垂れ、肩に耳をのせていることを指すとい
う。
 このような海人種族が北上して、南九州に到達して生活をしていた。ここに北方から渡来した
高霊皇産神を奉じる支配階級が海人族の娘を娶って後裔を生ませたのがこの系譜からうかがえ
る。
 綏靖・安寧・懿徳の三天皇は磯城県主の娘を娶っている。磯城県主は大物主を奉ずる氏族であ
り、大物主は神光照海と依り来る神であり、やはり海神である。
 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年11月 1日(木)11時49分31秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.604[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

> 日本海であるなら鬱陵島の洞穴群に注目、現在は観光地になっています。
> この島に「神」が住む価値があるか?
> 黄金に勝る宝物の翡翠を運ぶルートの拠点となります(大穴持神の名との関連は?)。
>
> 姫川-隠岐(島根半島)-鬱陵島-半島東岸-箕子朝鮮-陸路で周へ。
> (後の山陰の四隅突出墓など高句麗文化流入ルートの源流)
> BC500頃には東シナ海を活動中心とする海人のネットワークができたと考えています。
> 中国で出土の翡翠の成分分析で、遠からず姫川の翡翠が発見されるだろうと思っています。

鬱陵島と五十猛について
 当HPにも触れています。
 17世紀後半に南宗庵が編んだ『残太平記』の記事。隠岐国の商人を呼んで五十猛島の事を問えば、隠州より七十里。東西九里で、大竹が芦しげく生えて、竹の中に道があり、人は不在、一つの岩屋があり、広さは一町四方もある。人が覗けば、色黒く一眼の人で高さ一丈二過、竹葉を衣として鉄棒を振って追い出す。この大人は素盞嗚尊の御子五十猛命がこの島に住すると伝えたとあれば この大人は神であろう。
 鬱陵島は後に磯竹島もしくは竹島と呼ばれていた。五十猛島とも表記されていた。
 鬱陵島とら東へ90kmで、日本領である竹島がある。江戸時代には松島と呼んでいた。


太田市五十猛町(旧 磯竹村)
宝暦九年(1759)の『八重葎』(やえむぐら)「沖に竹島あり、其の磯だから磯竹と言うと記す」とありこれは太田市五十猛町(いそたけ)の昔の名である。
 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年10月31日(水)19時42分41秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.593[元記事へ]

大己貴(大穴牟遅)の祖先たち東シナ海系海人は翡翠を発見した。
縄文人が身につけていたのは糸魚川(姫川)の翡翠。
中国では最高級の宝玉であり上質品は金よりも価値が高かった。

縄文人はゴホウラ貝を求めた、これも東シナ海系海人にとってお宝です。
春秋戦国の避難民にさして遅れることなく東シナ海系海人が動いた、翡翠を探しに。
南西諸島の海人の運ぶゴホウラ貝を九州で入手、これを土産にして日本海沿岸へ。

春秋戦国から逃れて山陰沿岸に漂着したのは農民(土笛と綾羅木土器を使う)。
多くが山東半島(畑作≒斉)からだと考えています。
玉突き現象で遼東半島や朝鮮半島の人々もやってくる。
これらの人々は耕作できる土地があればそこに定着する(水稲は持っていない)。
だが海人の行動は違う、川を遡上して山にも分け入った。

魏志韓伝高句麗に
「其國東有大穴名隧穴 十月國中大會 迎隧神還於國東 上祭之置木隧於神坐」
その国の東に隧穴という大穴がある・10月に隧神を迎え・木像をおいて神を祭る。
ここでいう高句麗の範囲が問題ですが、東を濊ワイとみるにせよ、日本海とみるにせよ「神」として祭るような文化は高句麗の東には存在しない。

日本海であるなら鬱陵島の洞穴群に注目、現在は観光地になっています。
この島に「神」が住む価値があるか?
黄金に勝る宝物の翡翠を運ぶルートの拠点となります(大穴持神の名との関連は?)。

姫川-隠岐(島根半島)-鬱陵島-半島東岸-箕子朝鮮-陸路で周へ。
(後の山陰の四隅突出墓など高句麗文化流入ルートの源流)
BC500頃には東シナ海を活動中心とする海人のネットワークができたと考えています。
中国で出土の翡翠の成分分析で、遠からず姫川の翡翠が発見されるだろうと思っています。

このネットワークの長江-五島列島-北九州が最新の水稲技術伝播のルート。
青森県砂沢遺跡などの水稲痕跡は海人が翡翠探索で東北に持ち込んだもの。
東北の水稲が近畿より早いとみえるのは正しい(弥生末期の寒冷化で東北では消滅)。

記紀、先代旧事本紀に書かれる素盞鳴の子とされる五十猛や大屋彦はこの時代の東シナ海系海人の仲間だと考えています。
海人にも材木と食料を得る陸の拠点が必要。それを受け持った人々を源にする伝承。
台湾杉、屋久杉、秋田杉、吉野杉、などDNA分析を知りたいところです。

五十猛も大屋彦も個人ではないでしょう。時代も位置も広範囲に及ぶと考えています。
古事記で大穴牟遅神が木国の大屋毘古神の元へ避難したという。
この神話は海人と各地の拠点の関係を示す(大国主ではありません、海人の伝承)。


箕子朝鮮は殷が滅びたとき殷の箕子一族が朝鮮北部に移封されて建国、春秋戦国時代にも存続していた。
三国志魏志韓伝に
「侯準既僭號稱王、為燕亡人衛満所攻撃、将其左右宮人走入海、居韓地、自號韓王。其後絶滅、今韓人猶有奉其祭祀者。漢時属楽浪郡、四時朝謁」

BC194、箕子朝鮮へ亡命していた燕の衛満の反乱で王朝の人々は海へ逃れあるいは韓の地で韓王を名乗ったが滅びた。
現在も韓人に祭祀者となっている者がいる。漢の時代には楽浪郡に属した。

魏略に
「箕子及親留在国者、因冒姓韓氏。準王海中、不興朝鮮相往来」
国に残った箕子一族は韓を名乗り、準王は海中にあって(朝鮮と)行き来したが朝鮮の再興はできなかった。
「海中にあって朝鮮と行き来した」、海中とは列島のことでしょう。
勢力を大きくするには九州の他にはない。
九州と半島の間を行き来しながら勢力回復を図った。

スサノオの登場。
渡来したのが箕準王本人かどうかはなんともいえませんが15歳あたりか。
書紀一書で「海をつかさどる」は不可解、海が得意のはずがない。
海の向こうからきたことの変形だろうと思います。
漂着場所は山口県の須佐湾としておきます。単純に須砂の男あるいは須砂の王。

土井ヶ浜の矢を打ち込まれた遺骨、これが何者かは別にしてスサノオ登場にからむ先住者(漂着者の子孫)とみています。
すなわちBC190頃の遺骨。スサノオ一行が九州をめざすその途中での出来事。


九州側ではアマテラス文化(縄文+畑作+初期水稲)が拡大しています。
スサノオが平和的に勢力拡大できる状況ではない、武力を以て土地を奪うほかはない。
考古学的に九州北部で戦死者遺骨が増大しているのはこれによる。
神話では天照大神と素盞鳴尊の対立がこれを示す。

まずは遠賀川でひと暴れ、被害者は大気都比賣。
遠賀川の状況は古事記の書く大年神系譜が示す。
参考図1
大年神は初期水稲を含む農耕全般の文化を示す。
2世代目?あたりの神名は地形などを示すとみえる神名です。
3世代目?の大気都比賣の段階では季節の概念と村落経営に関する神名が登場しています。
農耕の発達過程を示すと考えています。

大年神の最初の子等には半島系とみえる神名がありますが、初期の半島経由の人々の漂着を意味する。
書紀編纂時に百済の学者が提示した半島の神を参照して創作さtれた神名でしょう。

スサノオの妻とされる神大市比賣は遠賀川の出自とみるところ(大山祇神=縄文系の娘)。
遠賀川征服が一段落した時点での最初の結婚。
スサノオ漂着から数年でスサノオ20歳あたりか、BC180頃。
その後裔は宇迦之御魂神と大年神(大歳神)とされ、遠賀川の農耕≒アマテラス文化を代表する神名と思います。
穀物関連とみえますが、あいまいでその後はみえない。

遠賀川流域は弥生後期の異常気象に伴う洪水によって崩壊したと考えています、AD100頃。
海の祭祀をのぞき、陸の神大市比賣の系譜と伝承は消えてしまった。
そこに書紀は素盞鳴尊の誓約と五男神三女神誕生の創作を加えた。
現在にまで残るのは海の宗像三女神のみ。
参考図2 遠賀川の縄文海進推定図

縄文海進と「丘」の接点に縄文遺跡や貝塚が多数あります。
海退(縄文後期)が始まったとき、海だった場所は平坦な農耕適地になると考えられます。
「奈良湖」が消えてゆくときそこには水稲に伴う弥生遺跡が多数登場した。
同じ状況が遠賀川流域でも生じていたのではないか。

奈良湖と異なるのは海の「干拓地」であること、しばらくは塩分が多いでしょう。
耐塩性が低い水稲は育ちにくいですが、初期水稲では灌漑技術が未熟で緩傾斜の小河川沿いに水田が作られています。
お隣の下関市の綾羅木遺跡(土笛)からは糸紡ぎ用紡錘車や平織布(最古?)が出土。
この遺跡からは稲や麦を含む多数の植物や漁労遺物もでています。
遠賀川流域は綾羅木よりはるかに広大です。

アマテラスの機織り娘が平織布をぎっこんばったん織っていた。
スサノオはここを制圧して周囲へ進出、武力に劣るアマテラスはじりじりと後退。
逃げ隠れするアマテラス(^^; 岩戸隠れ神話の源です(のちに支援者が現れる)。

スサノオは半島から兵と武器を運んだが船が苦手で遭難が相次いだ。
良い船と船乗り求む・・娘の須勢理姫も年頃となってきた。
応じたのが東シナ海系海人の大己貴(大穴牟遅)、最新の文化も所持しています。
うむ、おまえなら合格じゃ、娘の婿にしてやるぞ。

その子孫の作るのが板付や吉野ヶ里を代表とする福岡平野や佐賀平野の遺跡群。
最新の水稲と灌漑技術を以て大発達、人口も急増してゆきます。
最大の特徴は甕棺葬を持つこと。
参考図3 甕棺葬の時代と分布 九州の甕棺/藤尾慎一郎

さらに南へ熊本県前田遺跡(中期型)、鹿児島県南さつま市下小路遺跡(後期型)、鹿児島大学構内遺跡 (破片)出土。
ただし、鹿児島の甕棺は東シナ海系海人の拠点であって、陸のスサノオ勢力がそこまで達したものではないと考えています。

にもかかわらず大己貴と須勢理姫の子孫の記事はみえない。
大己貴と多岐津姫(宗像、勘注系図では神屋楯比賣 ) の子に味耜高彦根がみえるのみ。
記紀が消したとみています。九州の風土記からも関連伝承は抹消でしょう。

北九州スサノオ系の大型集落群、天之忍穂耳到来で大激戦がはじまる。
戦死者遺骨が急増する時代、国譲りらしき気配はみじんもなし。
書紀はこの系譜と事象を伝承もろとも「天空に消滅」させるほかはなし。
あるいは大国主のお話であるごとくにみせかけるほかはなし。

「大国主の別名」をどう解釈するのか。
古事記の書く系譜を信じるのか、信じないのか。
私は古事記の系譜は正しいとみています、矛盾のない説明ができるからです。

八岐大蛇神話はスサノオの遠賀川から周辺へ進出過程での事象。
阿蘇山麓~高千穂あたり、櫛名田姫(大山祇神の孫相当、縄文系)を妃とする。
その子孫と系譜は古事記が明記、八島士奴美の誕生。
豊前の中津~宇佐とみています。
甕棺葬は持たないグループ、大国主に至る「出雲の本命系譜」の登場です。

続く

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

耳について

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月30日(火)20時00分21秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1.神武天皇の前後の神々

 高御産巣日      天照大神
     |       |
万幡豊秋津師比売―――天忍穂耳       大山津見
             |           |
     綿津見    邇邇芸――――――――木花之佐久夜毘売
      |      |
     豊玉毘売―――日子穂穂出見                 陶津耳
      妹      |                       |
     玉依毘売―――鵜萱葺不合      三島溝杭耳  大物主――活玉依毘売
             |           孫     |     |
     阿比良比売――神日本磐余彦火火出見――比売多多良伊須気余理比売 大田田根子
        |           |
     多芸志美美      神八井耳 神沼河耳(綏靖)―――――磯城県主の娘
岐須美美               |
                     師木津日子玉手見(安寧)―磯城県主の娘
         |              |
        師木津日子 息石耳    大日本彦耜友(懿徳)―――磯城県主の娘
 |
和知都美

 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月11日(木)13時47分46秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.600[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。


 大和三山の北の山を耳成山(ミミナシ)と言います。円錐形の山で、よくある形です。この山が敢えてミミナリと形容されるのは、大和の人々にとって、耳に高い関心があったからでしょう。
 谷川健一氏は、ミミのつく人名は神武帝を中心として四代前から四代御にあるとしています。母親が南方系であることが影響しているとのこと。
 『魏志倭人伝』では、投馬国の官名に弥弥(みみ),弥弥那利(みみなり)があります。
 例の五島列島の小近島には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいたそうで、海人族の名にもミミが使われていたのかもしれません。
 この国の成り立ちの一つのキイがミミといえるでしょう。
 

6. 渤海その後

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月11日(木)11時43分49秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   朝鮮半島の情勢にも変化がでてきた。百済の農民出身の甄萱が892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔が901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。新羅の孝恭王は、これに対抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。935年、長く朝鮮半島を支配していた新羅が滅びた。
 後高句麗の武将であった王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し918年に高麗を興した。
 高麗国は高句麗の後裔とされて、国力の衰えた渤海国から高麗へ行く者が絶えなかった。こういうことも渤海の滅亡に拍車卯をかけた。契丹は渤海を破壊し、文書などは焼き、栄えた文化が消えてしまっている。

 渤海国の滅亡後、その地に国をつくるものはいなかった。ただ、女真族の民人が住み続けたのである。

 渤海国を復興させたのは、日本軍であり、満州国を建国したが、僅か14年弱で滅びた。

 渤海貞孝公主墓壁画は前期渤海の絵画技術の高さをしめしている。石像の彫刻も優れていた。また、唐三彩もよい。

渤海の技術ではないが、「唐鴻臚井刻石」は、唐の憲宗が713年、大祚栄を「渤海国王」に冊封した時に送って遼寧省旅順に建てたものである。どうやら皇室にあるようで、中国が返還請求をしてきている。渤海を独立国と認めず、唐の属領の扱いである。
                                    以上
参考文献
『渤海』上田雄 講談社学術文庫  『渤海と日本』東北亜歴史財団 明石書店
 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年10月 9日(火)21時53分7秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.594[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

「おまる」を辞書で調べたら御虎子と書くんですね。
読めっこない、なぜ??
いつの時代かの学者先生のお遊びだと思うです。
おまるってどんな字を書くんでしょ、と聞かれた先生ちと考えた。
御麿や御丸じゃ失礼じゃな・・大切なもの・・そうだ虎の子だ。
本来は「放」マルなのでしょうけど、ご存じなかったのでしょう(^^;

佐賀県の唐津の語源は?
カラの音がまずありきでよいと思います(倭語といってもよいか)。
意は外国でしょう、カラツは外国と交る港といったところか。

天之忍穂耳到来当時の外国の認識は縄文時代からの延長で「対馬海峡の向こう側」半島南部を示し、それが外国カラだった。
(秦BC200頃の中国側からも蓬莱など徐福たちの知識がせいぜいでしょう)
後の半島南部の駕洛国(伽羅、伽耶諸国のひとつ)も本来は列島から見ての外国の意かもしれない。
漢字の一般化と唐の登場と伽耶の消滅にともなって新たに唐の文字をあてたのだと思います。
唐揚げは? 某国共産党を油で揚げること。日本唐揚協会なんてのがあるんですね。

ちなみに推古紀で随の裴世清を「大唐の使者」と書いていますが大唐ダイトウではなくオオカラと読ませるのだと思います。
「聖徳太子」以前の隋や唐を意図的にあいまい化するためです。
倭王五代-筑紫の磐井-欽明-用明の九州系大王による中国との交流を消去する、という編纂者の思惑によるもの。
神武から飛鳥奈良に至る正当な王朝は近畿のみとしてその権威を確立する(作り出す)必要があった。
結果、諸外国との交流を全く書けず、史書としては通用しなくなったけれど。
武家時代になっても権威を持続できたことで、思惑は成功したといえそうです。


>先日NHKでごぼうら貝を沖縄から列島へ運んだ筋骨隆々の縄文人の話

肥前国風土記の「美彌良久」、「五島の海士は隼人に似て騎射を好み」とありますね。
神武の5人?の子の名にはすべて「耳」がつく。
母が玉依姫(海系隼人?)であろう子ならいざ知らず、母が出雲娘であろう子にまで。
よほど神武にミミへのこだわりがあったのでしょう。
天之忍穂耳、だろうな。

魏志倭人伝に登場のミミは耳ではありませんから、ミミという倭語?に当て字したもの。
書紀での名の「耳」が編纂者の考えだとしても、ミミの音は耳の意であっておかしくない。
魏志倭人伝で「倭の風俗は儋耳タンジ・朱崖の俗に似る」とあります。
儋耳タンジ、朱崖は中国の海南島付近とされます。
タンは担ぐの意、耳をかつぐ人々、大耳ですね。
参考図 伎楽面の呉公 他にも耳のでかい面あり

屋久島の横峰遺跡、縄文後期に300年ほど継続らしい。
100戸もの住居跡があるけれど漁労具も農耕具も出土していない。
ヤクタネゴヨウ(松)の破片?がたくさん発見されています。
丸木舟を生産する工場だったと考えています。

ゴホウラ貝で大もうけする海人が発注した、北前船の祖先(^^;
南西諸島の海人か?九州南岸の隼人系海人か?
ま、島根半島あたりから東北方面は別の海人にバトンタッチだと思いますけど。

屋久島の一湊松山遺跡では曽畑式土器(縄文前期)~市来式土器(縄文晩期)出土。
曽畑式は鳥取県から沖縄本島にかけて出土する土器です。
鳥取~沖縄、この範囲に同一文化を持つ人々が暮らしていたわけです。

「大国主と因幡の白兎神話」とは「大己貴と少彦名たちによる医療技術の伝播伝承」のこと。
(記紀が大己貴と大国主を同一名であると改ざんしたために大国主神話に変化してしまった)
因幡の白ウサギのワニはイリエワニのこと。
(イリエワニは海も渡る最大級のワニ、フィリピンなど東南アジアに生息)
ただし因幡にイリエワニがいたわけではない。
同じ文化圏に伝わっていたワニの話が鳥取に残り、それが医療と重なって神話化したもの。
筋肉隆々の海人が白ウサギとつながっているのであります。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

渤海国 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 8日(月)21時36分1秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.596[元記事へ]

、中興の祖
 大欽茂の平和な時代が続き、短命な王が続き、生命力がなくなり王統は絶えた。初代の大祚栄の弟の4世孫の大仁秀(818~830)は久しぶりの英傑武勇の王で、黒水靺鞨への征討軍を派遣、渤海史上最大の領土を誇った。 渤海は8~9世紀に栄え、唐の文化を取り入れ、仏教文化が栄えており、唐では渤海を「海東の盛国」と呼んでいたという。
菅原道真公も渤海使と漢詩での交流を行っている。
 第30回渤海使、882年、陽成天皇は渤海使20人朝衣を与え、官人も混じって、飲んだり、食ったり、楽器の演奏があり、この日のために訓練された美女そろいの舞姫たちが群舞し、妖しくも悩ましいお色気むんむんの乱痴気騒ぎが妄想される。
 大仁秀以後、渤海には英王は出ない。内部の権力争い、保守化、唐の滅亡、契丹の興隆があり、926年、渤海国滅亡。
 

Re: 「○○丸」の付く地名

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 8日(月)21時33分45秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.597[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

 丸地名、平地が多いのですか。
 私が訪れたのは、前原の王丸の白木神社「現在の祭神は五十猛命」で、意識して行った唯一の丸地名の場所です。山の中腹に鎮座していました。平地hが主だとは意外でした。勉強になりました。
 実は、福嶋さんのコメントを期待しておりました。誠にありがとうございます。
 

「○○丸」の付く地名

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2018年10月 8日(月)18時19分29秒 p6130-ipad109fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  神奈備 様、かたばみ 様、横レスに亀レス失礼します。

標題については、一家言ありましたが、公開講座の講師(90分×2=休憩を挟む)がたて続けに二回も控えて居ましたので、遅くなりました。

 拙著『卑彌呼が都した所』1996年・葦書房 の記述を抜粋引用。

第一章 日本語(九州弁)と韓国語の関係

*「田主丸」(福岡県浮羽郡=現・久留米市)………48~49頁

“??-??”(タンシン-マヌル)=貴方の村。
“??-??”(タンシン-マヌル)の音(おと)が漢字を使う前から在った。その語源が忘れられた後、その音に「田主丸」と当て字を付けたので、字面に惑わされ、「タヌシマル」の訓みに変わってしまった。福岡県浮羽郡田主丸町の事である。ご多聞に漏れず、怪しげな中世以降の故事付けがある。曰く、領主の菊池丹後入道何某かが、領民が「楽しく生まれる」事を願って付けた、と。胡散臭い事この上もない。
 ≪貴方の…≫とは、名を言わなくても判る人「卑彌呼」である。元もと国王でない「卑彌呼」の為の直轄「神田」の事である。

*「~丸」
 “~??”(~マウル)=~村。福岡県内には、この「丸」が付く地名が、水田地帯に非常に多い。
 これは、「~原(ば?)」との相違点の水利がある地域を指している様である。
・「福岡市西区」=太郎丸、石丸、丸。・「早良区」=次郎丸。
・「宗像市」=王丸、石丸、武丸、三郎丸。・「新宮町」=太郎丸。
・「志摩町」=西小金丸。・「前原市」=王丸。
・「那珂川町」=五郎丸。・「甘木市」=金丸、千代丸。
・「夜須町」=鬼丸。・「朝倉町」=乙丸、猿丸。
・「杷木町」=星丸。・「宝珠山村」=千代丸。・「小郡市」=今朝丸。
・「北野町」=仁王丸、十郎丸、乙丸。・「久留米市」=五郎丸。
・「吉井町」=徳丸。・「浮羽町」=糸丸。・「大川市」=三丸。
・「大牟田市」=四大丸。・「鞍手町」=太郎丸。・「宮田町」=六郎丸。
・「若宮町」=黒丸、福丸、金丸。・「飯塚市」=乙丸。・「頴田町」=石丸。
・「穂波町」=太郎丸。・「筑穂町」=四郎丸、九郎丸。・「桂川町」=九郎丸。
・「金田町」=福丸。・「香春町」=松丸。・「赤村」=珠々丸、四郎丸。
・「川崎町」=筒丸。・「若松区」=乙丸。・「戸畑区」=丸町。
・「小倉北区」=三郎丸。・「八幡西区」=力丸町、永犬丸。
・「遠賀町」=千代丸。・「行橋市」=小犬丸。・「犀川町」=犬丸。
・「豊津町」=節丸。・「豊前市」=四郎丸、小犬丸、市丸。
・「築城町」=松丸、袈裟丸。・「椎田町」=外丸、岩丸、野々丸。
・「吉富町」=小犬丸。・「大平村」=薬丸。
計六十三ヶ所の「~丸」の地名がある。殆どが平地に在り、河岸段丘の一等地が飽和状態になった後、後発の入殖者が、仕方なく次善の場所として、争いを避けて住み着いた。河岸段丘の先住者も、新技術(製鉄、陶器=須恵器)の提供を条件に渡来人が住むのを認めた? <引用終わり>
*町村合併前の市町村名です。

※山付きの棚田、河岸段丘は勾配を利用して容易に水稲稲作用水が引ける。
低平地は洪水の氾濫で低湿地の荒野。未だ穀倉地ではない。
この洪水でも冠水はするが、流出とか氾濫域の砂利河原化しない次善の地に「~丸」の地は在る。近くに大小の河川は在るが、水耕稲作用水としては汲み上げないと使えない。
洪水で冠水した時の移動手段として、「船」は必需品である。蛋白源としての山の幸(狩猟=イノシシ、鹿)は先住者の物。自ずと、蛋白源は漁労に頼らざるを得ない。村落名を付けた船が、船舶名の「〇〇丸」の始まりであろう。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

以上、福島雅彦説でした。
 

Re: 渤海国 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 5日(金)09時11分2秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.595[元記事へ]

我が学生、高内弓、其妻高氏、及び男(むすこ)広成、嬰児一名、乳母一人並びに入唐学問僧、優婆塞一名渤海より転じて相随いて帰朝す。海中嵐にあい、舵師、水手、波のために没せられる。時に鎌束議して曰く、異方の婦人今船上にあり、またこの優婆塞、衆に異なり一食数粒にして日を経て飢えず、風漂の災は必ず是によるにあらずや、乃ち水手をして内弓が妻、並びに嬰児、乳母、優婆塞の四人を掴み上げて海に投げうつ。漂流十日にして隠岐の国に着く。
 それにしても、毎年に近いペースで入京してくる渤海使について、その滞在費や接待、朝貢への返礼と国家財政に関わる程になり、渤海使の受け入れの是非まで問題とされた。
 七六三年、第六回の渤海使、淳仁天皇は五位以上と渤海使、それに百官の主典(令制官職の四等官のうち最下等の官)を朝堂に集めて宴会を開いた。
822年淳和天皇の代になると、入朝は一紀(12年)に一度と通告し、来ていた使節を入京させなかった。蒙古犬ら4匹のみを受け入れた。
 

渤海国 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 5日(金)09時09分49秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4. 三代目大欽茂
大武芸王は軍事活動を主としていた。737死去し、第三子の大欽茂が即位、彼は56年間の在位の王で、文化面に活動した。平和な時代が来ている。
日本では藤原仲麻呂(恵美押勝)により新羅征討計画が759年に渤海が和平路線へと方針変更もあって挫折。
大欽茂は唐に朝貢使を50回も派遣した。そお間に大量の漢籍・仏典を入手し、多くの留学生を送った。渤海は一層繁栄し、名声は高まった。渤海と唐との関係は唐の立場も強化した。ここで党は渤海国として認めた。
日本への渤海使の役割は交易に集中、毛皮を持ち込み、繊維製品を持ち帰る交易が続いた。日本では毛皮ステータスシンボルとなっていた。高位者でないと毛皮の着用はみとめられなくなった。渤海は経済的利益を優先するべく、敢えて朝貢の形を取った。
航海術はそれほど高くはなく、未だに迷信が横行する時代だった。755年にこのような悲劇が記録されている。


 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 5日(金)09時07分3秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.593[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。


ありがとうございます。
  先日NHKでごぼうら貝を沖縄から列島へ運んだ筋骨隆々の縄文人の話がありました。この人々が海人族の一員だったのでしょう。黒潮に逆らって南下するのは大変な力仕事のようです。五島列島から出土したようです。

 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年10月 4日(木)17時44分8秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  日本海沿岸、遠賀川以東~若狭湾に至る沿岸部から土笛が出土しています。
これに重なって綾羅木式土器が出土。
東京国立博物館特別展
http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2014/02/21/綾羅木郷3

今のところ半島での状況は不明ですが、綾羅木式土器と土笛は同じ文化圏の人々でしょう。
考古学的には弥生前期後半~中期初頭とされ、春秋戦国のはじまるBC700頃以降の到来が推定できる。
山東半島は畑作がメイン、山陰のサヒメの畑作伝承はこの人々を源にする(のではないか)。
土井ヶ浜の遺骨は山東半島の人々に類似、ここも土笛と同じ集団(だと思う)。
半島系遺物もありますから半島南岸経由。

BC700頃、周の支配力が衰えて各国が覇権を争い始める時代。
ある地域が他国に併合されれば農民が農地を奪われる、これが脱出の理由だと考えています。
BC600頃では中国全土が同様の混乱状態。
山東半島の斉はBC600頃から勢力を失う、ここから追いだされた農民は新天地を求めた。
半島に住んでいた人々が玉突き現象で追いだされることもあるでしょう。
農民が故郷を離れる、生死にかかわる事情があったはずです。

山東半島から朝鮮半島南西岸へ、??なら簡易な船でもなんとか渡れる。
だが、対馬海峡ではそうはゆかない、漂流し山陰沿岸にばらばらに漂着した結果が若狭まで広がる土笛が示す、と考えています。
響灘以西に土笛がない理由でもあります。


最近の水稲のDNA研究から列島と半島では、列島側が先である可能性が大きい。
考古学的にも佐賀県菜畑遺跡の水稲が半島南西岸の松菊里遺跡より古い。
半島北部に水稲はない、すなわち陸伝いで伝播したのではありません。

長江下流ではBC1000以前に遡って周の太伯が越に下って呉を建国。
太伯は姫(キ)性で周の一族ですから遊牧系、水稲は持っていない。
単身赴任のはずもなく、越人が追いだされている可能性がありそうです。
「勝者の善行」と「敗者の悪行」は宣伝されても「勝者の非道」はめったに記事にならない。

もし、水稲伝播がBC1000に遡るのであればこのとき脱出した越人が運ぶ可能性大。
この後、呉越は宿敵同士となって戦が続く、その時代では「呉人」はまだ水稲を持たないと思います。
BC473に呉(夫差)が越(句践)に破れ、今度は呉側の農民が多数渡来する可能性大。
この時代では呉の農民も発達した水稲技術を持っていたと思います。

稲イネと米マイ(呉音)、不確実ですが古越語では稲「ine」のようです。
主食に複数の文字や発音があるのは、異なる言語圏の稲が列島で複合しているからだ、と考えています。
コメは不明、東南アジアなど広い範囲のチェックが必要そう。
(韓国語でイネ近似はあるようですが、マイに相当する音があるかどうか不明)

沿岸であっても農民が船を操って東シナ海を渡れるとは考えにくい。
長い戦乱なら海人の協力を得るゆとりはあったと思います。
所持する宝物はなにもない、生活用具と水稲技術。


これらの民間人を運んだ海人グループ、それが書紀神話での大己貴(大穴牟遅)や少彦名の先祖だと考えています。
(神話での神皇産霊尊に相応する、海の文化を示す)
どんな船を使っていたのか、中国史書は内陸国の書で海の記録がない。
東南アジアでも活動していた人々でしょう、フィリピンにはネグリトという小人族あり。
少彦名、天乃羅摩船、羅摩=ガガイモ=参考図 ガガイモの種と綿毛。
ずばり丸木舟+帆ですね、帆はタパ布だろうな。

農民の到着した地域の情報は海人を介して呉や斉にも伝わっているはずです。
これが後に天之忍穂耳や天穂日に伝わって、それぞれの目的地になったと考えています。


佐賀県唐津の水稲の菜畑遺跡は縄文貝塚もあってBC1000にも遡る。
支石墓は半島系とされますが菜畑の支石墓から発見された頭骨は西日本の縄文人に類似だそうです。
縄文時代から半島と交流があったのでしょう。
菜畑から農耕用具はたくさん出ていますが武器は石剣若干のみ。
スサノオ登場以前の平穏時代を示すと考えています。

他に宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡などが並び、縄文~後漢時代での住人の変化の特徴を示す。
出土の甕棺は小型で初期型とされ、吉野ヶ里のごとき大型甕棺はありません。


古事記に大年神の子等の系譜が書かれています。
そこに書かれる神活須毘神とその妻の伊怒比賣(イヌ、イナ、イド、稲に直結と推定)。
神活須毘神は音の類似から五男神三女神神話の活津彦根ではないかと考えています、
(神話での高皇産霊尊に相応する、陸の文化を示す)
五男神の天津彦根や熊野久須毘も三女神を含めて歴史のかなたにおぼろではあっても姿がみえているのかもしれない。

日本海沿岸の山東半島系の畑作と北九州沿岸の長江系の水稲が遠賀川流域でドッキング。
弥生文化(遠賀川式土器)となって全国に広まっていった。
遠賀川流域は農耕適地とみえますが、現時点ではさしたる遺跡はないに等しい。
にもかかわらず遠賀川式土器は全国に分布する。

昨今の災害が示すごとく、遠賀川流域の集落は弥生末期の異常気象に伴う大洪水に襲われてすべてが押し流され埋没してしまったためだと考えています。
(人口急増とAD100頃からの寒冷化が飢饉を生じさせ倭国騒乱のはじまりとなる)
陸の痕跡は消えてしまったが、海の痕跡は宗像の三女神として残った。

穀物関連神話は遠賀川流域の事象を源にし、縄文と農耕の結合した文化。
これをアマテラス(文化)と称しておきます、天照大神の源流。
(消えゆく九州縄文の象徴が月弓神(月読神))

書紀神話では天照大神やスサノオが五男神三女神より先に登場しますが、物語創作の都合によるご愛敬といったところ。
降臨神話での天照大神と高皇産霊尊の上下関係があいまいになるのもこのあたりに理由あり。

続く

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

渤海国 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月28日(金)20時40分44秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.591[元記事へ]

3. 建国
不満のたまっていた連中は挙兵、満州の奥地の山岳部にはいり抵抗。手に負えない唐は道路阻絶として討伐中止した。唐は則天武后の時代であった。
高句麗王族の大祚栄が698年、辰(震)国を建国した。民族自立に見える。後の渤海国である。高句麗の北半分に沿海州を領土とした。
唐から友好のよびかけに応じて次男を唐に送り藩屏下に入り、渤海郡王を贈られる。
718年、大祚栄卒す。長子・大武芸即位。総べての靺鞨族を配下にするべく動くが、北方の強力な黒水靺鞨は抵抗、唐と通交していた。
   大武芸は弟と折り合いが悪く、唐・渤海戦争になりそうだったが玄宗皇帝が兄弟の仲を説き、穏便に収めた。
大武芸は沿海州に版図を広げ、海を越えて日本との通商に便利な立地を得た。
   727年10月 第一回渤海使。出羽に漂着、24人の内、16人は蝦夷に殺され、残った8人が命からがら、国書と土産の貂皮300張を持って平城京にたどりついた。
   国書には、「高麗の旧居を復して、扶余の遺俗を有(たて)り云々」とあった。
   本音は新羅の頭越しでの軍事の提携だったようだが、高句麗国の後裔として友好関係を進めたいとのこととなっていた。この年に陰謀を企てたとして殺される長屋王も邸宅に招待し歓迎の宴を持った。渤海使8人を送り届けるために、舟を建造し、62人の送使団を編成、728年8月に送っていった。
 

渤海国 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月26日(水)15時41分40秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2. 高句麗と倭
4世紀末から5世紀初めにかけて、倭軍は半島で高句麗等と幾度か戦っていた。この頃から6世紀にかけて高句麗から倭国へ渡来してくる者があり、高句麗式積石塚が近畿関東に分布している。7世紀前半までは倭と高句麗は仏教など文化的な交流が中心であった。
高句麗は668年に唐と新羅の挟み撃ちで滅亡した。唐は高句麗遺民への懐柔策として、小高句麗を遼東に建国し、高句麗王族を王にすえた。さらに、渤海湾の北側の常州に高句麗の王族や靺鞨の族長などを集め、流刑地とした。
 

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