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葬送と挽歌4/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 3月 2日(土)11時11分32秒 ah225108.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  8.高市皇子の挽歌
巻二 一九九  高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、
0199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久かたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて
中略 御門の人も 白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に    あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
中略 神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を 常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ

口に言うのもはばかられる、言葉にするのもはばかられる、飛鳥の真上原に悠久の天の朝廷を尊くもお定めになり
中略 御殿の人々も、白布の麻の喪服を着け埴安の御殿の原に茜色きざす日はひねもす鹿のように腹ばいになって
中略 神々しくも葬り申し上げて、城上(きのへ)の宮を永遠の宮として、皇子は神のまま鎮まりなさって

太政大臣高市の皇子の居住地は香具山宮と呼ばれ、埴安の池の近くと言える。藤原京の南東部にあたる。子息の太政大臣長屋王の居住地は平城京の南東隅であり、都の南東隅が太政大臣の居住地とされていたようだ。

0202 哭澤(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ
 右ノ一首ハ、類聚歌林ニ曰ク、檜隈女王、泣澤ノ神社ヲ怨メル歌ナリ。日本紀ニ案ルニ曰ク、〔持統天皇〕十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後ノ皇子尊薨セリ。

参考 『古代日本の文芸空間』上野誠  『万葉集』中西進
 
 

葬送と挽歌3

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 3月 1日(金)15時21分33秒 ah225108.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  7.日並皇子の挽歌
日並皇子(草壁皇子)の尊の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌(みじかうた)
0167 天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に 八百万(やほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して 神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と 天雲(あまくも)の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし 高光る 日の皇子は 飛鳥(あすか)の 清御(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ

我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船(おほぶね)の 思ひ頼みて    天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ

そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも

反し歌二首
0168 久かたの天(あめ)見るごとく仰(あふ)ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
皇子の遺体は真弓丘だが、生前居所の島の宮を偲びの地
0169 あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも
 或ル本、件ノ歌ヲ以テ後ノ皇子ノ尊ノ殯宮ノ時ノ反歌ト為ス。

一段目 天照大神は天を支配され、天高く輝く日の皇子は飛鳥の浄御原に神として御統治なされ、天上に神としてお入りになった。天武天皇に至る皇統譜。
二段目 その後わが大君たる皇子が天かを御統治なされたら、春の花のように尊く、満月のように満ち足りる、大船のように期待心をもって待ち仰いでいましたが、真弓の庭に立派な宮をお建てになったが、朝の奉仕にもお言葉をいただかなくなった。即位への期待と突然の死。
三段目 宮に仕える人々は途方に暮れています。残された人々の悲しみ。

日並皇子への誄詞は残っていないが、天武天皇への「帝皇の日継の次第」を誄が残っており、その後継者たる日並皇子への誄と似ていたものと推定できる。この誄を受けての人麻呂の挽歌であろう。

人麻呂は 臣下に仮託して挽歌を詠んでいる。
舎人達の本音を言えば、皇子は天皇になった場合、我々は権力の中心にいるはずだった。ああ、皇子、なんで亡くなってしまったのか。人生が狂うじゃないか。何と弱い皇子に仕えてしまったのか、残念。
私は大津皇子の舎人だったが、殺されたので、日並皇子に仕えたのにまた失敗した。
など色んな思いにある。
され、この挽歌であるが、謀殺された大津皇子のために作っておいたものが日の目を見なかったので、日並皇子の時に流用したとの説があるが、確かめようはない。
 

葬送と挽歌2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 2月28日(木)09時56分51秒 ah225108.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  5.天武 草壁 持統
681 天武十年二月 飛鳥浄御原令編纂の詔 同じ日に草壁立太子
686 朱鳥元年七月 天武病気ゆえ、政務を皇后と皇太子にゆだねる。
        九月 九日 天武崩御
        九月十一日 南庭に殯宮が建てられる。
        九月二四日 大津事件
九月二七日~三〇日 律令諸機構の職掌の誄が集中的に奉される。
持統称制
687 元年 正月    草壁皇子が公卿・百寮人を率いて殯宮に詣でる。
688 二年 正月    草壁皇子が公卿・百寮人を率いて殯宮に詣でる。
      十一月    当麻真人智徳は、帝皇の日継の次第を誄にして奉った。
             天武天皇への誄奏上は全て男であった。
天武の殯宮が終了。檜前大内陵に埋葬。
689 三年 正月    飛鳥浄御原宮の前庭で、元日の朝排が行われた。
       四月    草壁皇太子没
690 四年 正月    鵜野皇后(持統天皇)即位。

6.天武の挽歌
天皇の崩(かむあがりま)せる時、大后のよみませる御歌一首
0159 やすみしし 我が大王の 夕されば 見(め)したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見(め)したまはまし その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しみ    明け来れば うらさび暮らし 荒布(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ひ)る時もなし
意味
中国の陰陽道の思想がもとになっているようで、実際には鵜野大后ではなく、陰陽師などの代作であるのかも知れない。
神山は雷丘か、もしくはミハ山。その神山に「たなびく雲」とは天皇の魂のこと。「青雲」はそれよりもさらに広い雲。その「青雲の中の星からも天皇の魂の雲は離れて行き、さらには月からも離れて行ってしまった…」との、天武天皇の魂との別れを悲しむ歌と解釈すれできる。
 

葬送と挽歌1

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 2月27日(水)20時27分10秒 ah225108.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  1.殯宮(アラキノミヤ)  埋葬までの期間、遺体を置いておく場所 即ち死者の宮。死者に対して芸能や哀悼の言葉(誄詞)を捧げる場。
 建物としては、春日若宮おん祭の御旅所のようなもの。

2.『魏志倭人伝』その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。始め、死して喪にとどまること十余日。その間は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。以って練沐の如し。
埋葬以前に歌舞(芸能)や飲酒が行われた。死者と生者が生活を共有する。

3.『古事記』天若日子の妻、下照比売の哭く声、風のむた響きて天に到りき。ここに天なる天若日子の父、天津国玉神またその妻子聞きて、降(クダ)り来て哭き悲しびて、すなはちそこに喪屋を作りて、河雁(カハガリ)をきさり持(モチ)とし、鷺(サギ)を掃持(ハハキモチ)とし、翠鳥(ソニドリ)を御食人(ミケビト)とし、雀を碓女(ウスメ)とし、雉(キギシ)を哭女(ナキメ)とし、かく行なひ定めて、日八日夜八夜を遊びき。
埋葬以前の八日間を「遊びき」としている。芸能などであろう。古代の葬儀の風習だったと言える、

4.天武天皇の葬送
朱鳥元年(686)九月九日、飛鳥浄御原宮で崩御。南の庭に殯宮が設けられた。
殯宮の中には讃良皇后がこもっていたようである。
殯庭では繰り返し、誄詞の奏上が行われた。二年三か月の殯の期間に、誄詞の奏上は23回に及んだ。誄詞の内容は残っていないが、和田萃は、「鎮魂」、「誄を奉ずる人々の政治姿勢の表明」、「氏族の系譜」、「皇室系譜」を奉ずる機能があったと推定している。
誄は、職掌、律令諸官角宮司、続いて僧尼、百済王、各国造が行った。誄と芸能を奏上した。いずれも服属の誓約とされている。これらの間に大津皇子の粛清が行われている。
翌正月、草壁皇子(日並皇子)は、公卿、百寮人を従えて殯宮に適でている。
殯宮の催事も終焉に近付いた持統二年十一月に、草壁皇太子が公卿や諸蕃の賓客を率いて殯宮に適でてから、縦伏舞が奏上され、さらに諸臣らが先祖等の仕えまつれる状を挙げて誄んだ。これは氏族がそれぞれの職掌をもって朝廷に奉仕している由来を語り、以後の服属を誓約する内容であった。
 

洗骨

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 2月 7日(木)20時18分2秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   古代にあった洗骨の儀式が今でも沖縄の島に残っているのを映画化した作品「洗骨」が大阪でも上映されるようです。  

Re: 『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 2月 2日(土)19時25分5秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.635[元記事へ]

八)邪馬台国の時代に漢字をこなす人々がいた。書記官である。王朝の宮・妃・墓・系図などが記録されていた。王朝交替や戦争・火災などで失われた際、分家衆が集まって記録を再生してきた。これが帝紀旧辞、天皇記国記として伝えられた。そこに王朝の交替(崇神、応神、継体、天武)の時代に統治の正当性を示すとめに手を加えてきたのをまとめたのが日本紀(日本書紀と系図一巻)である。

                            以上

参考文献 『三輪山』前田晴人 学生社  『三輪山の神々』上田正昭他 学生社
『鴨集団と四世紀末の争乱』塚口義信 豊中歴史同好会講演録
 

『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 2月 1日(金)10時02分51秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.634[元記事へ]

七)『日本書紀』巻二十敏達天皇十年
 蝦夷が数千、辺境で反逆しました。それで魁帥綾糟(ヒトゴノカミアヤカス)たちを呼び寄せて詔(ミコトノリ)して言いました。魁帥(ヒトゴノカミ)は大毛人(オオエミシ)です。
「推察するに、お前…蝦夷は大足彦天皇(景行天皇)の時代に、殺すべきものは殺し、許すべきものは許した。今、朕は、その前例に従って、「元々の性質から悪のものを誅殺しよう。」
綾糟たちは、畏まり、恐れ、泊瀬の中流に下りて、三諸岳(三輪山)に向かって、水をすすって誓って言いました。 「わたしめら蝦夷! 今より以後、子々孫々、清らかで明るい心を持ち、天闕(ミカド=天皇)に仕えましょう。わたしめらがもしも誓いを違えば、天地のもろもろの神と天皇の霊(ミタマ)が、わたしめの種を絶滅させるでしょう」。

コメント 三輪山に天皇霊があると言う。一体どの天皇の霊か。
『紀』にあるように景行天皇の霊は蝦夷が最も恐れる天皇霊かも知れない。加えて三輪山に最も近い天皇陵が景行陵(渋谷向山古墳)である。有力候補であるが、この天皇を三輪山に葬った記録はない。歴代天皇で三輪山に葬った記録はない。
 上田正昭氏は「欽明敏達の頃の三輪山の信仰が大王家の信仰と重なっていた。」と書いている。
田中卓氏は、天皇霊は個々の天皇別に理解されているが、全体としては三輪山に鎮座していると思われていたのではないかと言う。天皇霊とは八十島祭に見るように、天皇の衣に付着させて女官が運ぶようなものであり、実に手軽なものである。
塚口義信氏は、『記』では、神武天皇の皇后を大物主の娘としており、この場合は大物主は子孫の霊を動かし得るとの説明であるが、氏は神武皇后を事代主の皇子と考えている。
谷川健一氏は、三輪山中に、ムクロガ谷と称する風葬の地のあることから、古代には三輪山は清浄な神聖な山ではなく、葬送の地であり、当然、天皇の遺体も風葬されたものと推測している。
ムクロガ谷については、寛文六年(1666)の『奈良寺社奉行の裁許定書』には「和州三輪山本社山に定置覚」として「北ハ三光谷限麓より峠迄 南むくろが谷限麓より峠迄 西より東之峠迄 町積二十町五十六間。横之広サ、南より北迄四町余、右ハ三輪明神本社山と相定置候間、自今以後不寄誰、不可有山人者也」とあでている。

 

『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月31日(木)12時04分29秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.633[元記事へ]

六)日本書紀神代下第九段一書(二)
 この時に帰順する首渠は大物主と事代主である。すなわち八十萬の神を天高市に集めて率いて天に昇りて、天神にその誠款の至りを披瀝した。
『日本書紀』巻十四雄略天皇五年
天皇は少子部連蜾蠃(チイサコベノムラジスガル)に詔して言いました。「朕(ワレ)は三諸丘(ミモロノオカ)の神の形を見ようと思う。
お前は膂力(チカラ=筋肉の力)は人ではないほどだ。自ら行って捉えて来い」
蜾蠃(スガル)は答えて言いました。「試しに行って捉えてみましょう」
すぐに三諸岳に登って大蛇(オロチ)を捉えて天皇に見せました。天皇は齋戒(モノイミ=神を祀る前に、血・死・女性に触れないで穢れのない清らかな状態になること)をしませんでした。すると大蛇は雷のように光って目は輝きました。天皇は畏み(=神を恐れること)、目を覆い、大蛇を見ずに、殿中(オオトノ)に入って隠れました。その大蛇は丘に放たれ、改名して雷という名を与えました。


コメント 格上と思われる大物主が事代主の本拠である天高市(大和国高市郡の式内大社 高市御縣坐鴨事代主神社)に来て、共に天上界へ行くのは疑問、おそらくは事代主一柱の話に後世に大物主が書き込まれたのかも知れない。
 また、この話は応神天皇が王朝を開くにあたって、三輪氏や鴨氏が服属さされた事実を神話化したものと考えることができる。
 雄略天皇は画期の天皇であり、古い権威に挑戦する気概があったものと思われる。大物主を捕まえさせるような伝承が残ったのであろう。

 

『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月30日(水)17時51分33秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.632[元記事へ]

五)『日本書紀』巻六垂仁天皇三年
 天日槍が来日し播磨の宍粟邑にいた際、天皇は三輪君の祖の大友主と倭直の祖長尾市を派遣し尋問している。
『日本書紀』巻六垂仁天皇九十年
 天皇は田道間守(天日槍の四世孫)に命じて非時香菓を探し求めた。

コメント 結果として天日槍は但馬国の出石に落ち着くことになる。大和の兵主神社はまさに三輪君の祀る大神神社と倭直が祀る大和神社の間に置かれている。なおかつ、箸墓古墳や崇神陵古墳の方向が兵主神社を向いていることは、邪馬台国問題にからむ興味あるところである。
 天日槍が来朝したのを垂仁天皇の時としているが、四世孫の田道間守とも同時代としている。『紀』はこの辺は無到着のように見える。天日槍の来日は孝霊天皇の頃としたほうが世代感覚ではあう。
 

『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月29日(火)14時57分1秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.630[元記事へ]

四)『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年
諸国に命令して、船舶を集めて兵甲(ツワモノ=武器・兵士)を錬成した。そのときに軍卒が集まりにくかった。
皇后は言いました。 「間違いなく神の意志だ」
すぐに大三輪社を立てて、刀矛(タチホコ)を奉りました。軍衆は自然と集まりました。

コメント 筑前國夜湏郡(福岡県朝倉郡筑前町(旧三輪町))の式内社 於保奈牟智神社が大三輪の神の後裔社とされている。ヤマト王権が勧請した神社である。
他の三輪山から勧請された主な三輪系神社は以下の通り。
伊勢国飯高郡 大神神社   尾張国中島郡 大神神社  遠江国浜名郡 弥和山神社
遠江国浜名郡 大神神社   駿河国益頭郡 神 神社  美濃国多芸郡 大神神社
信濃国水内郡 美和神社   上野国山田郡 美和神社  下野国都賀郡 大神神社
下野郡那須郡 三和神社   若狭国遠敷郡 弥和神社  越前国鶴賀郡 大神下前神社
加賀国加賀郡 三輪神社   越後国頚城軍 大神社   因幡国巨濃郡 大神社
備前国邑久郡 美和神社   備前国上道郡 大神神社  備前国下道郡 神神社
播磨国宍粟郡 伊和坐大名持御魂神社
 多くの三輪神を各地に勧請した理由。
1 最大の権力者である蘇我氏が仏教を推進しようとしていることに対する方策として三輪氏が大神を勧請していった。
2 継体朝は過去の王室との繋がりが希薄であり、神祇政策として中央の三輪神を各地に勧請することによって地方支配の強化を図った。
3 開拓神・農業神・防疫神として三輪神(大己貴神)を勧請し、地域開発の促進を図った。
4 王権擁護の神・軍神としても各地に鎮祭していった。


 

メアド喪失

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月26日(土)20時37分40秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   メールが全部消えてしまいました。皆さんのアドレスがわからなくなりました。
空メールを送ってください。
setoh@post.email.ne.jp
 

『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月25日(金)08時57分22秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.628[元記事へ]

三)日本書紀』巻五崇神天皇六年
神が言いました。 「天皇よ。 どうして国が治まらないことを憂うのか? もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問いました。 「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」
神は答えました。「私は倭国の域内にいる神、大物主神という」国が治まらないのは、わたしの意思だ!! もし、我が子、大田々根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外(ワタノホカ)の国があり、自然と従うだろう」

コメント 崇神天皇は大物主の子孫ではない事がわかる。子孫であれば太田田根子を探す必要はない。これからも神武天皇の皇后は大物主の娘でないことがわかる。
 

メアド

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月24日(木)19時22分55秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   メールが全部消えてしまいました。皆さんのアドレスがわからなくなりました。
中身空白のメールを送ってください。
setoh@post.email.ne.jp
 

『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月21日(月)13時09分21秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.627[元記事へ]

二)日本書紀巻三神武天皇元年
1・庚申秋八月の16日に天皇は正妃を立てようと思いました。それで広く皇后に相応しい華胄(ヨキヤカラ=貴族の子孫=人材)を求めました。そのときある人物が言いました。
「事代主神(コトシロヌシノカミ)が三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミノカミ)の娘の玉櫛媛(タマクシヒメ)を娶って生んだ子が媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)といいます。この姫は国色(カオ)が優れています」
天皇は喜びました。
九月24日に媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后に迎え入れました。
古事記 和(ミワ)の大物主神が丹塗矢と化して摂津の三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売に生ませた比売多多良伊須を大后とした。

コメント 丹塗矢神話で有名なのは、『山城国風土記逸文』の「可茂の社」に記載の物語であり、鴨氏に伝わる伝承であると思われる。摂津国嶋上郡には式内社の溝咋神社や三嶋鴨神が鎮座しており、鴨氏と縁がある。一方、大物主は摂津から遠く離れた三輪の地の神で、摂津に縁が見出せません。『日本書紀』の伝承の方が自然な姿に見えます。
 

Uga 『日本書紀』が語る三輪山、大物主、大己貴

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月19日(土)12時53分15秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  一)日本書紀神代上第八段一書(六)
1.スクナヒコナが居なくなってしまいましたが、まだ国は未完成のところがあります。大己貴命は一人でよく国を回り、出雲の国に辿り着き、云いました。
「葦原中国=日本)は元々は荒れ果てていた。岩から草木まで何もかも、酷いものだった。しかし、わたしが砕いて、従わないものは無くなった。
さらに言葉をつづけました。「今、この国を治めるのは、ただ私だけ。わたしと共に国を天下を治めるものがどこにいるか??!」
すると、神々しい光が浮かび、海を照らして、たちまちやって来ました。その光が言いました。「もしも、わたしが居なければ、お前はこの国を平定出来なかっただろう。わたしが居てこそ、この大きな結果を出すことが出来たのだ」
このとき大己貴命は言いました。「では、お前は誰だ??」
光は答えました。「わたしはお前の幸魂(サキミタマ)奇魂(クシミタマ)だ」
大己貴命は言いました。「なるほど。そうか。お前は、わたしの幸魂奇魂だ。これから何処に住みたいと思うか??」
すると答えました。「わたしは日本国の三諸山(ミモロヤマ)に住もうと思う」

2.それで宮殿を作り、祀りました。それが大三輪(オオミワ)の神です。この神の子は甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、また姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。

3.別伝によると、事代主神は八尋熊鰐となって、三嶋の溝樴姫(ミゾクイヒメ)、別名を玉櫛姫(タマクシヒメ)という姫のところに通って出来た子供が姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。この姫は神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)の后となりました。

4.(今までのお話の前……)大己貴命が国を平定した頃の話です。出雲の五十狹々小汀(イササノオハマ)に辿り着き、食事をしようとしました。
その時、海の上から人の声が聞こえてきました。
大己貴命は驚いてその声の主を探したのですが、どこにも船も人も見えませんでした。
しばらくして、一人の小さな男が、ガガイモ(植物名)の実の皮で出来た船に乗り、ミソサザイ(鳥の名前)の羽で出来た服を着て、波のまにまに浮かんでやって来ました。
大己貴命はすぐにその神を掌に乗せて玩具にしました。
すると小さな男は怒って、大己貴命の頬にかみつきました。その形に驚いて、使者を天神に報告すると、これを聞いた高皇産霊尊が言いました。「わたしが生んだ子は1500座ある。
その中の一人の子は最悪で、教育しても従わなかった。そのうちに指の間からこぼれ落ちてしまった。それが彼だろう。大事にして、育ててなさい」これが少彦名命です。

5.崇神天皇即位8年 冬12月20日。天皇は大田々根子(オオタタネコ)に大神(オオミワノカミ)を祀らせました。この日、活日(イクヒ)が自ら神酒(ミワ)を捧げて、天皇に献上しました。それで歌を歌いました。 この神酒(ミキ)は我が神酒ならず 倭(ヤマト)成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
コメント
大物主の出現 出雲の「海を照らして」やって来た神は三輪山に住んでいる。則ち大物主である。大物主は出雲から来たことになっているが、A 大和から出雲へ行ったとの説を梅原猛氏が提出している。確かに三輪山の東側に古代祭祀跡ダンノダイラ、南側に出雲地名、がある。B 5に見るように大物主は倭成すとうたわれているように、地域開拓の神でもあり、大己貴とよく似た神格で、後世に習合したとも考えられる。

海を照らす神 大物主の祭祀は6世紀頃からは主に三輪氏がおこなったが、初期のヤマト王権の祀る神であり、倭国造が中心となっていたと推測される。国造の祖先は水先案内の椎根津彦であることが興味深い。

三輪山の周辺に初期ヤマト王権の宮が営まれたのはなぜか。三輪山の山頂から1/3くらいの高さの所までは、角閃班礪岩の層があり、大量に鉄分が含まれている。その石が磐座となって、磁力がある。鉄分が砂鉄となって狭川に流れており、現在でも磁石を垂らせば砂鉄が付いてくる。ただし、中国山中と比べると極めて少ないので、経済性は低く早くに衰退したようだが、金谷と言う地名や大物主の娘の名にタタラがついていたり、北側には兵主神社が鎮座している。
 

Re: 謹賀新年

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月 5日(土)17時35分24秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.625[元記事へ]

よりさんへのお返事です。

> 遅まきながら新春のご挨拶を。

あけましておめでとうございます。

薩摩塔の時空と背景

と言う短い文献を見ました。稚児碑との関連は述べられていません。

面白いものが入って来ているのですね。




 

謹賀新年

 投稿者:より  投稿日:2019年 1月 5日(土)16時02分36秒 58-3-185-43.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  遅まきながら新春のご挨拶を。
お健やかにお過ごしください。

昨春、永年、稚児碑かと思っていた石碑が
薩摩塔と呼ばれていることを知りました。

今年は何か。。
体調と相談しながらボチボチです。

http://yorihime3.net

 

Re: 謹賀新年!!!

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 1月 2日(水)08時55分15秒 f067006.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.623[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

 ありがとうございます。

 わくわくする日々でありますように。

 瀬藤禎祥 拝




> 屠蘇に酔ひ
>
>  パソコン開き
>
>   今年こそ!!!!!
>
> 皆さまにとって今年が良い年でありますように!!!!!!!
 

謹賀新年!!!

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2019年 1月 1日(火)11時41分38秒 p5118-ipad11fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用
  屠蘇に酔ひ

 パソコン開き

  今年こそ!!!!!

皆さまにとって今年が良い年でありますように!!!!!!!
 

Re: 丹生総神主家系図

 投稿者:通りすがり人  投稿日:2018年12月17日(月)11時11分5秒 210.254.80.134
返信・引用
  丹生の探し人さんへのお返事です。

>  丹生総神主家家系図を記している書籍を探しているのですが、中々見つかりません。
>
>  どなたか、記してある書籍の名をご存じであれば教えてください。

収載されている書籍名は知りませんが、ネット上で「寺社巡りドットコム」いうサイトがあります。
そこの運営者は多分、たぶん?ですが、寺院のことも神社のこともよくご存じの方なので、連絡を取ってお尋ねになったらいかがでしょうか?
もちろん日本史全般についてもよくご存じのはずです。

専門家のサイトでしたら「神社史研究会」というのもありますので、お尋ねされたら如何でしょう。
いずれも検索すれば簡単にヒットします。
 

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