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Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 9月23日(木)08時52分31秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  > No.907[元記事へ]

Indukmuさんへのお返事です。


> day なのでしょうか、 sun なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか。



英語語源辞典によれば、dayは「熱」が語源のようです.日本語の「や」「ひ」に

つきましては、日本語内部でのみの淵源捜索は無理ではないかと考えています.
 
 

Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月22日(水)23時00分35秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.906[元記事へ]

Indukmuさんへのお返事です。

> 凄く興味深いです!!
>
> 歩行「=かち」と関連づけることも可能ですね。
>
>
> それにしてもクラリンさん、すごいですね… 本気で感嘆しております。


――

冷静に考えたら、副詞「やがて」と副詞「かつ」との関係性が想起されてくるのでした。

古語では共に、コアイメージに《近接》があるのです。

現代語とは違いまして……


――



※day と sun とを共に 日 で表記するのは中国特有のものだと私は思っています。

クラリンさんの【ヤ】は、ヤマトコトバとして、意味のコアイメージは、
day なのでしょうか、 sun なのでしょうか、それとも両方なのでしょうか。

わからなくなってきました。

 

Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月22日(水)22時40分38秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.905[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。
> Indukmuさんへのお返事です。
>
> 「やがて春が来る」の「やがて」は、「や・がて」と形態素分析ができます.
>
> 「や」は「日」、「かて」は「進む」といった意味辺りでしょうか.

凄く興味深いです!!

歩行「=かち」と関連づけることも可能ですね。


それにしてもクラリンさん、すごいですね… 本気で感嘆しております。
 

Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 9月22日(水)19時25分20秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  > No.904[元記事へ]

Indukmuさんへのお返事です。

「やがて春が来る」の「やがて」は、「や・がて」と形態素分析ができます.

「や」は「日」、「かて」は「進む」といった意味辺りでしょうか.


日が進み春が来るというわけです.

石川県鳳至郡方言に「やがて行かんしのー(早く行きなさいよ)」(日本方言大辞典)が

あります.これは「日が進むから早く行きなさいよ」ということになります.


方言にはまた、「いつか。今に。将来」という意味があるとのこと.

「やがて来るだろう」は「日が進む(のちの)いつか」です.


沖縄県首里 「やがてぃしぬたん(もう少しで死ぬところだった)」は転義でありましょう.

以上から、「弥・がて」も考えましたがこれは上例に当てはまりませんので、「日・がて」で

ありましょう.


なお「夜前」という言葉があります.

これは「前日の夜」(『時代別国語大辞典室町時代編5』)という意味とされますが、

であれば「前夜」ではないのか、訝しい解釈です.

すなわち、「夜前」は当て字であって、実際は「日前」ではなかったか・・・.

「やがて」とは逆の意味で、「今日という日の前」であろうかと思います.


日本国語大辞典には「漢語の「昨夜(宵・晩・夕・暮)」の意味を表わす和製漢語」と

あります.









 

Re: Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月21日(火)16時40分25秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.903[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。


お返事が遅れましたことをお詫び申し上げます。

>
> 和語私臆鈔に「八代」を「陽代の義」と解く説があります(日本国語大辞典).
>
> これは誤説でしょうが、「や」を「陽」にあてています.
>


凄い例を見いだしたのですね。御努力に頭が下がります。

ただ、陽と書いてヤと読ませることは、上代では普通にあったことと思います。

それとは別に、現代でも、陽と書いてヤと読ませることは[名乗り]にはあるようです。大辞林だったかにでているはずです。話を元に戻します。

上代で陽の字をヤと訓むことは、所謂、【略音仮名】といわれる用字の一例となりましょう。

日本書紀で、地名カミツヤメに「上陽■」と字をあてています。(■は、口へんに羊のつくり)

後の時代に、例の好字令が出まして、上八妻と書くようになりましたが…

驚いたことに現代でも地元に参りますと「上陽■」表記がありますが、恐らくこれは日本書紀に倣って復活させた用字なのでしょう。

当方、勉強不足ですし当てにはならないことを申すかもしれませんけれども、
和語私臆鈔に「八代」とあるのがヤシロと訓むものであるならば、日本書紀の「陽■」に倣っての発想にて、これを「陽代」と考えたくなった気持ちもわからなくはないです。

しかしながら「陽代」の陽の字は、音仮名ですので、ここから日・太陽まで概念を引くのは和語私臆鈔のやり過ぎではないかと思います。

※ヤシロ地名は大概【社】が起源ですし、ヤツシロ地名は、ヤツ(谷地・湿地)+シロ等々などが起源ともされている、そうした事情もありまして、陽から日に発想を飛躍させることには一抹の不安もございます。

以上となります。
 

Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 9月13日(月)08時13分47秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  Indukmuさんへのお返事です。

ともあれ、日外で「あぐい」と訓むことに着目しました.

和語私臆鈔に「八代」を「陽代の義」と解く説があります(日本国語大辞典).

これは誤説でしょうが、「や」を「陽」にあてています.

「陽」は「日」の意味ですから、これも「や」を「陽」と言っていたことを窺わせます.


「や」は口蓋化で「あ」となりえます.淡路島に残る名ということで、

何らか「流された」貴人のように思われます.

この「や」は一種のダイグロシアであったのかとも思わせるところがあります.




また、「利囂(とかま)」がどのような意味であれ、やかましく鳴きわたると解されても、

文法上のクレームがなかったことが注目されます.
 

Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月12日(日)23時24分1秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.901[元記事へ]

その後も
「日外親王」の「日外」は、何故この字が選ばれたのかについて時々考えておりました。
あえてナイーブではありますが「日外親王」は本当に親王であったと仮定して考えています。

畿内中央の資料には「日外親王」の記述が見えないことの理由として最も考え易いものとしては、《「日外」は諱ではない》というものがあります。
すなわち避諱、実名敬避俗が働いていたと考えられます。

堯院法親王の堯院は天台宗において与えられた法諱であり、法親王という貴人ゆえに、やはり実名敬避俗の対象たりえると判断しました。

さて平安時代以降に貴人は目下の者からどのように呼称されていたかについてですが、その貴人が居住する邸宅の名、邸宅の所在地の名や官職の名が多用されるようになりました。
さて、室町時代、清涼殿母屋の南五間を日御座・昼御座(ルビ:ひのおまし)といったりしています。
天皇に準じる貴人が昼間いる部屋、または邸宅のことを日殿・昼殿(ルビ:ひのとの)と言ったようです。
淡路島に一時的に住まわれた親王(または法親王)の実名や諱を忌避する実名敬避俗が淡路島の人々に働いたとするならば、その親王がお住まいになられている建物の名で親王を呼ぶことも十分にありえることと思われます。

以上を踏まえて、あらためて「日外」について考えますと、「外」の字の訓に【との】という珍しいものもあることに行き当たります。すなわち、「日外」は「ひのとの」と読まれていた、「日殿」が本来の用字ではあったものの、「日外」でもって実名敬避俗を実現していた、このようにも考えてみたくなります。

淡路島の地元の郷土資料にある、日外親王が住まわれた土地の地名は、《御所山》なのですが、この地名は現在でも残っています。
《御所》は、室町時代には、だんだんと天皇のお住まいだけを指すのではなく、貴人の住まいを表すようにもなっていきましたし、【大御所】なぞという実名敬避俗の例も江戸時代には発生していたもののようで、親王が住んでいた場所を御所の山と言ったとしても不自然ではありません。一方においては、この御所を、当時の人々が【日殿:ひのとの:日外と書かれた】と呼んでいたこともあり得ます。

実名敬避の結果として「日外(ひのとの)」が生まれた、このように考えてみたいのです。

なお、先日も書きましたが、この時代には既に「日外」という和製漢語に「いつぞやの」あるいは「過日」といった意味があったわけで、「日殿」を書くために「日外」と書くのは変なのですが……

殿村という名字もあれば外村という名字もある、そうした当て字は昔から当たり前にあったと考えてみたいのです。

――

日外を「あぐゐ」と訓むのは熟字訓である、こうした可能性が少しばかり増えてきた気がいたします。
 

Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 5日(日)20時00分57秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.898[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。


> 例えばに古事記・歌謡にある「比佐迦多能(ひさかたのノ) 天(あめ)の香具山
> 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび)の」の「とかま」については古来より
>
> 「鋭利な鎌」と解釈されて,「利鎌(よく切れる鎌)のような(月の)光の形容」と
>
> されています.ですがこれは考え過ぎでありましょう.
>
> これを「利囂(とかま)」と解して,「鋭くやかましく鳴きわたる(鳥)」という解釈も
>
> あります.この説ですと「かまし」ではなく「かま」を容認しています.
>
> ただ、空高く渡っている鵠が五月蝿く聞こえるものかどうか,疑問があります.
>
>
> とはいえ、「かま」の存在を許容しているところは注目されます.
>
>
>

これは興味が引かれます。初めて知りました。ご教示を有り難うございます。
日本国語大辞典の項目「利鎌」にも以下のようにありました。

《[補注]「古事記伝‐二八」以来、挙例の「古事記」の「とかま」も「利鎌」と解されてきたが、「と」は「とし」(鋭・利・敏)の語幹として、「かま」は「かまし」「かまびすし」の語幹で、鋭くやかましく鳴きわたるものと見る説がある。これによれば、「古事記」の「とかま」は他の「利鎌」とは別語とすべきことになる。》

――

トカマの刃の冴えざえとした光を、月の光に喩える……?

三日月の形と鎌の形との同型性に着目されることも多いものとも思われます。

ただ、この歌謡では トカマ は トカマニ として現れていること、この助詞 ニ に注目すべきと存じます。

トカマに さ渡る鵠の

トカマのように 空を渡る白鳥の

と助詞 ニ の語義を限定します。

ここで、白鳥は一羽ではなく群れをなしていることとして思い描きたいと考えます。

さわたる白鳥をはじめ、渡り鳥の多くは、編隊飛行をします。 その姿は、逆Vの字型、ないしは、への字型とも言われていて、長距離飛行を省エネで行うための自然の智恵とされています。

このV字編隊を、 利鎌の形のようだとヤマトタケルは捉えた、そのように受け止めたいところではあります。

もしかしたら白鳥の色の白も、イメージ喚起される歌ではないかとも思います。

というのは、ミヤヅヒメの 細い腕 への修飾と見たいからです。

ヒメの白く細い腕が、ひじのところで角度をなしている(口元に手をもっていっているのか、胸に手を当てているのか) …

その腕の形と色とを、白鳥たちが空を渡るイメージと重ねたと、そのように感じます。

ぎゃあぎゃあ鳴きながら飛ぶ鳥たちと、ヒメのたわやかな腕とは、どうにもつながりません。


――

有坂法則についてのご教示を有り難うございます。
当方の勉強不足でした。

――

随分と脱線してしまいました。

個人的にはこういうのが大好きです。

―――

焼鎌神社 敏鎌神社まであれこれ読みまくりました。こういうのも楽しみです。

――

古墳時代には、鎌が使われはじめたようです。

―――

長々とすみませんでした。
 

Re: アラハバキについて

 投稿者:羽村の縄文人  投稿日:2021年 9月 5日(日)16時19分7秒 softbank060069235157.bbtec.net
返信・引用
  > No.899[元記事へ]

羽村の縄文人です。

美保神社の「となえごと」について調べてみました。美保神社の氏子組織は、客人対応の組織のように見えます。秘伝の「となえごと」は神職さえ知らない門外不出の言葉だそうですが、もしかして、客人を迎える「外国語」なのかなと、勝手に想像しています。
諸手船神事の直前、「客人社」で神事を行い、諸手船神事を行うことを報告し、神事を行うことを知らせる「とーめー」という掛け声が湾内に響くそうです。
この「とーめー」をアイヌ語で見てみると、「とーマゥ」を「海の風」というと書いてあります(地名アイヌ語小辞典P130)。これを解釈すると、船出に適した風が出てきたことを客人に告げ、客人がいとまを告げて、船出するという事象を行事化したように思えます。

蛇足ですが、「アイヌ地名散歩」の中で大友幸男氏は魏志倭人伝の中の投馬国は出雲だろうと言っています。美保神社の近くの松江をアイヌ語に(強引に)当てはめると、マ・たンネ が近く、「入江が長くある」という意味で、中海・宍道湖の大きな潟胡に当てはまります。


羽村の縄文人さんへのお返事です。

> パスカルさんへのお返事です。
>
> パスカルさん、いろいろ考察、参考になります。
>
> アラハバキの神事というか、昔のアラハバキ(来訪者、交易者)を迎えた様子が神事に昇華したのが、出雲の神迎え神事ではないかと想像しています。昨年はコロナで参列できませんでしたが、この10年くらい、毎年神迎え神事に参列しています。
>
> この神事は、
> ① 稲佐の浜で旧暦10月10日の夜、焚火を燃やし、出雲国造が神様を迎える
> ② 神様を客殿(神楽殿)に案内し(エスコートする)、その後宿舎(十九社)にお連れする(かなり速足なので、真っ暗な中、外来者はついていくのに一苦労ですが)
> ③ 会議室(上社)で、縁結びが行われる
> ④ 来訪者は、一週間後、近隣の佐太神社に移動する。佐太神社でも同様の神事が行われる。
> ⑤ 佐太神社の後、来訪者は万九千神社に移動する。
> ⑥ 万九千神社では「なおらえ」(宴会)が行われ、その後、出立(神去出)となる
>
> この一連の神事を見ますと、
> ・来訪者を、その地の長老が、海に目印(焚火)を置いて迎える。(稲佐の浜の稲佐は、アイヌ語の「イナウサン」からきていると思われます)
> ・来訪者は、縁結びのはかりごと、つまり物々交換のマッチングをする
> ・来訪者は、近隣を回る(実は、神在祭は朝日神社から始まります)
> ・来訪者を歓迎して、宴会が催される
> ・現地ではこれを「お忌み様」と呼び、期間中は音を出さないように静かにしている→これは、来訪者に娘などが見つかって差し出されないようにしたのでは?(これはヤマタノオロチと櫛稲田姫の関係)
> ・来訪者は近隣を回り、交易をする
>
> アラハバキと土偶の関係、アラハバキの神様としての性質に関してですが、縄文時代はアイヌと同じで、神様(精霊)があちこちに宿るという考え方で、特に人格化や偶像化はなかったのではと考えています。これは、現代にも伝わる磐座や、滝がご神体という考え方と同じではないかと思っています。
> この神が「子孫繁栄」につながったという考え方は、昔の地方では、来訪者に娘を差し出し、外部からの血を入れて、近親婚を防いだということがあったと聞いたことがあります。これに近いのかなと思います。
>
> 恵比寿に関して、恵比寿様の総本山、美保神社も出雲にあります。恵比寿は蝦夷(えみし)の転訛という方もいて、来訪者という位置づけなのかなとも考えられますね。美保神社には「となえごと」の秘儀も伝わっており、このあたりも研究すると面白いかもしれませんね。
>
>
> > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> >
> > いろいろと勉強になります。
> > ありがとうございます。
> > アラハバキが縄文=アイヌ語由来であること、縄文が漁労民であること等、私も共感できることです。
> >
> > 私が抱いている最大の疑問は「アラハバキとは一体どのような神であるのか」ということです。
> >
> > ①アラハバキの名称がアイヌ語由来であるとするなら、今のアイヌの習俗の中にアラハバキに該当する神(神事)の痕跡を見出すことはできないでしょうか?
> > ただアイヌの神は大半が男性とされているそうなのですが(日本民俗宗教辞典)、土偶の性質から考えて、女性神が多いと思われる縄文の神々とは、やや趣が異なるように感じるのですが。
> >
> > ②このサイトでも紹介されていますが、谷川健一さんが言うようにアラハバキとは「サエの神」であるということに落ち着くのではないかと私には思えます。
> > サエの神は異界との境にあって、外部からの侵入を防ぐ守護神であったと考えると、海辺に何らかの標(しるべ)が立てられていたことは想像できます。
> > また、文化人類学でいうところの「贈与・交換」は、結果としてそれが「交易」になったとしても、あくまでも神の監視の下で行う儀礼的行為(神事)であったと考えます。
> > あるいは、縄文人が海の民であり、アラハバキが海からの収穫を祀る神であったと考えても、矛盾は起こりません。
> > なぜなら、サエの神はのちに道祖神に変化していくように、子孫繁栄や豊穣を願う神でもあったからです。
> >
> > ③これはあくまでも“思い付き”でしかないのですが。
> > 海の神で思い出すのが、異境異端の神であるエビス神です。
> > 記紀に登場せず、神無月の集まりにも呼ばれず、一説によると不具の子ヒルコに同定されたりもします。
> > このような異質さを考えると、もしかするとアラハバキはエビス神に変化変形していったような気もするのです。
> > もちろんこれを証明(あるいはある程度の説明)するのは難しいのですが。
> >
> > 以上、あくまでも一笑に付すような私見にすぎませんが、何らかのヒントになれば幸いです。
> >
> >
> >
> >
> > > 大三元さんへのお返事です。
> > >
> > > 大三元様、わざわざのお返事ありがとうございます。また、例文を挙げてのご指摘、ありがとうございます。これから少しずつ、アイヌ語を勉強してみようかと思っております。
> > > 私も「客人」という解釈に賛成です。舟で(おそらく何艘かの船団で)交易で回っていて、アラハバキの目印で上陸、現地の人々と交流・交易がおこなわれたと想像すると、舟で訪問してきた人たちは見方を変えれば「客人」といえます。長野正孝氏の「古代史の謎は海路で解ける」を読みますと、長野氏がご自身の船乗りとしての経験から古代の航海を想像されていますが、そんな状況が想起されます(古墳が宴会場だったというのには賛同できないのですが)。アラハバキ神に航海の無事を祈り、客人社に饗応のお礼をするようなこともあったのではないかと、勝手に空想しております。長野氏の言われる「神社は交易の場だった」という考えには賛成しております。網野善彦氏も、中世においても神社が地域へ経済的役割を果たしていたと述べられています。
> > >
> > > 長々とお邪魔いたしました。
> > >
> > >
> > >
> > >
> > >
> > >
> > > > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> > > > 神奈備さん、リファありがとうございます。
> > > >
> > > > 「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
> > > > 私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。
> > > >
> > > > pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.
> > > >
> > > > 例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。
> > > >
 

Re: アラハバキについて

 投稿者:羽村の縄文人  投稿日:2021年 9月 5日(日)12時35分36秒 softbank060069235157.bbtec.net
返信・引用
  > No.881[元記事へ]

パスカルさんへのお返事です。

パスカルさん、いろいろ考察、参考になります。

アラハバキの神事というか、昔のアラハバキ(来訪者、交易者)を迎えた様子が神事に昇華したのが、出雲の神迎え神事ではないかと想像しています。昨年はコロナで参列できませんでしたが、この10年くらい、毎年神迎え神事に参列しています。

この神事は、
① 稲佐の浜で旧暦10月10日の夜、焚火を燃やし、出雲国造が神様を迎える
② 神様を客殿(神楽殿)に案内し(エスコートする)、その後宿舎(十九社)にお連れする(かなり速足なので、真っ暗な中、外来者はついていくのに一苦労ですが)
③ 会議室(上社)で、縁結びが行われる
④ 来訪者は、一週間後、近隣の佐太神社に移動する。佐太神社でも同様の神事が行われる。
⑤ 佐太神社の後、来訪者は万九千神社に移動する。
⑥ 万九千神社では「なおらえ」(宴会)が行われ、その後、出立(神去出)となる

この一連の神事を見ますと、
・来訪者を、その地の長老が、海に目印(焚火)を置いて迎える。(稲佐の浜の稲佐は、アイヌ語の「イナウサン」からきていると思われます)
・来訪者は、縁結びのはかりごと、つまり物々交換のマッチングをする
・来訪者は、近隣を回る(実は、神在祭は朝日神社から始まります)
・来訪者を歓迎して、宴会が催される
・現地ではこれを「お忌み様」と呼び、期間中は音を出さないように静かにしている→これは、来訪者に娘などが見つかって差し出されないようにしたのでは?(これはヤマタノオロチと櫛稲田姫の関係)
・来訪者は近隣を回り、交易をする

アラハバキと土偶の関係、アラハバキの神様としての性質に関してですが、縄文時代はアイヌと同じで、神様(精霊)があちこちに宿るという考え方で、特に人格化や偶像化はなかったのではと考えています。これは、現代にも伝わる磐座や、滝がご神体という考え方と同じではないかと思っています。
この神が「子孫繁栄」につながったという考え方は、昔の地方では、来訪者に娘を差し出し、外部からの血を入れて、近親婚を防いだということがあったと聞いたことがあります。これに近いのかなと思います。

恵比寿に関して、恵比寿様の総本山、美保神社も出雲にあります。恵比寿は蝦夷(えみし)の転訛という方もいて、来訪者という位置づけなのかなとも考えられますね。美保神社には「となえごと」の秘儀も伝わっており、このあたりも研究すると面白いかもしれませんね。


> 羽村の縄文人さんへのお返事です。
>
> いろいろと勉強になります。
> ありがとうございます。
> アラハバキが縄文=アイヌ語由来であること、縄文が漁労民であること等、私も共感できることです。
>
> 私が抱いている最大の疑問は「アラハバキとは一体どのような神であるのか」ということです。
>
> ①アラハバキの名称がアイヌ語由来であるとするなら、今のアイヌの習俗の中にアラハバキに該当する神(神事)の痕跡を見出すことはできないでしょうか?
> ただアイヌの神は大半が男性とされているそうなのですが(日本民俗宗教辞典)、土偶の性質から考えて、女性神が多いと思われる縄文の神々とは、やや趣が異なるように感じるのですが。
>
> ②このサイトでも紹介されていますが、谷川健一さんが言うようにアラハバキとは「サエの神」であるということに落ち着くのではないかと私には思えます。
> サエの神は異界との境にあって、外部からの侵入を防ぐ守護神であったと考えると、海辺に何らかの標(しるべ)が立てられていたことは想像できます。
> また、文化人類学でいうところの「贈与・交換」は、結果としてそれが「交易」になったとしても、あくまでも神の監視の下で行う儀礼的行為(神事)であったと考えます。
> あるいは、縄文人が海の民であり、アラハバキが海からの収穫を祀る神であったと考えても、矛盾は起こりません。
> なぜなら、サエの神はのちに道祖神に変化していくように、子孫繁栄や豊穣を願う神でもあったからです。
>
> ③これはあくまでも“思い付き”でしかないのですが。
> 海の神で思い出すのが、異境異端の神であるエビス神です。
> 記紀に登場せず、神無月の集まりにも呼ばれず、一説によると不具の子ヒルコに同定されたりもします。
> このような異質さを考えると、もしかするとアラハバキはエビス神に変化変形していったような気もするのです。
> もちろんこれを証明(あるいはある程度の説明)するのは難しいのですが。
>
> 以上、あくまでも一笑に付すような私見にすぎませんが、何らかのヒントになれば幸いです。
>
>
>
>
> > 大三元さんへのお返事です。
> >
> > 大三元様、わざわざのお返事ありがとうございます。また、例文を挙げてのご指摘、ありがとうございます。これから少しずつ、アイヌ語を勉強してみようかと思っております。
> > 私も「客人」という解釈に賛成です。舟で(おそらく何艘かの船団で)交易で回っていて、アラハバキの目印で上陸、現地の人々と交流・交易がおこなわれたと想像すると、舟で訪問してきた人たちは見方を変えれば「客人」といえます。長野正孝氏の「古代史の謎は海路で解ける」を読みますと、長野氏がご自身の船乗りとしての経験から古代の航海を想像されていますが、そんな状況が想起されます(古墳が宴会場だったというのには賛同できないのですが)。アラハバキ神に航海の無事を祈り、客人社に饗応のお礼をするようなこともあったのではないかと、勝手に空想しております。長野氏の言われる「神社は交易の場だった」という考えには賛成しております。網野善彦氏も、中世においても神社が地域へ経済的役割を果たしていたと述べられています。
> >
> > 長々とお邪魔いたしました。
> >
> >
> >
> >
> >
> >
> > > 羽村の縄文人さんへのお返事です。
> > > 神奈備さん、リファありがとうございます。
> > >
> > > 「大山氏はこれを「かしら=首領」と解釈したようですが」:
> > > 私の解釈ではありませんで、萱野茂さんの辞書(p371)に出ています。
> > >
> > > pake 首領,頭./コタン オッタ(オロ タ) ウタラパケ シコロ ア・イェ クル インネ コロカ タプイキクル ア・イェ ヒ ウタラパケ ネ ワ=村には仲間の首領と言われる人大勢いるが,今来て行った人,あの人のことを言うのが村の首領だよ.
> > >
> > > 例文を見るとこの文脈では「首領」(村長、集落の長)あたりに理解して好いようですね。
> > >
 

Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 9月 5日(日)09時43分5秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  Indukmuさんへのお返事です。


> ●その2
>  上代から平安時代にかけての資料上では、形容詞「喧し(かまし)」の存在の、具体的な確
> 例は存在せず、「あなかま」他から、【このような形容詞があったものと推定される】存在な> のでした。
>

具体的な例は「日香天之」として存在します・・・とはいえ、これでは循環論法となってしまいます

が、このような推定を必要とする語彙は上代文献には豊富に存在します.もし、これら推定形が

ずべて排除されたとすると、極言すれば万葉学などは成立しなくなると言えるかも知れません.

例えばに古事記・歌謡にある「比佐迦多能(ひさかたのノ) 天(あめ)の香具山

利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび)の」の「とかま」については古来より

「鋭利な鎌」と解釈されて,「利鎌(よく切れる鎌)のような(月の)光の形容」と

されています.ですがこれは考え過ぎでありましょう.

これを「利囂(とかま)」と解して,「鋭くやかましく鳴きわたる(鳥)」という解釈も

あります.この説ですと「かまし」ではなく「かま」を容認しています.

ただ、空高く渡っている鵠が五月蝿く聞こえるものかどうか,疑問があります.


とはいえ、「かま」の存在を許容しているところは注目されます.


 

Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 9月 5日(日)09時14分44秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  > No.895[元記事へ]

Indukmuさんへのお返事です。

> ●その4
> クラリンさんが有坂法則について言及なさっておいででしたけれども、《~アマよりも~アメのほうがよい》理由とは無関係のように思います。以下に有坂法則をあげておきます。
> 第一則:甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することがない
> 第二則:ウ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない
> 第三則:ア列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない


その4でご指摘の有坂法則はご存じの「有坂・池上法則」,即ち母音調和

という法則です.

私の申しましたのは、sak・e=ya→sak・a=yaという合成語の変音現象の方

です.もっとも、有坂「上代音韻論」(三省堂.s30)では露出形・被覆形の

名を与えておりますが、これも音韻法則の範疇ですので有坂法則と書

きました.わかりにくい記述で申し訳ありません.



 

Re: 「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 4日(土)18時33分44秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.895[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。
>
> 以上は後述の参考文献1を学んだところによります。

失礼いたしました、書きおとしました。


●形容詞「かしかまし」小考|森脇茂秀

h□□p://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/kg04506.pdf?file_id=3861

 

Re:「日香天之天之(やかましあめの」

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 4日(土)18時28分39秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.894[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。

今回は以下、見落としていたことがらの落穂拾いになります。

●その1
私は、手元にある(高校のときに買い求めた)学習用の古語辞典を参照して、次のような理解をしていました。

形容詞「喧し(かまし)」は、シク活用である。

しかしながら、例の「あなかま」の在り方が、所謂、形容詞の語幹用法であることが間違いないこと、そして語幹用法でのク活用とシク活用との文法的な差異を鑑みますと、
形容詞「喧し(かまし)」は、ク活用である、
との理解にいたりました。

ここに御詫び方々訂正させていただきます。

以上は後述の参考文献1を学んだところによります。
※ク活用ならば「あなかま」、シク活用ならば「あなかまし」となるからです。


●その2
上代から平安時代にかけての資料上では、形容詞「喧し(かまし)」の存在の、具体的な確例は存在せず、「あなかま」他から、【このような形容詞があったものと推定される】存在なのでした。

単独での使用例がないことから、形容詞「喧し(かまし)」の活用がク活用であるかシク活用であるのかについて、誰もしかと確認できていないのです。
単独ではなく複合的な語彙になると、シク活用も登場しています。
「みみかまし」「かしかまし」はシク活用です。また、江戸時代に確例のある「やかまし」もシク活用です。

※万葉集に「あられ降り」が地名「鹿島(かしま)」の枕詞として用いられているのですが、これは「かまし」の例ではありません。「かしまし」に近いのですが、仮に「かしまし」であったとしても、ク活用なのかシク活用なのかが確認できません。

●その3
「やかまし」の「や」の語義はなんだったのだろうかとあらためて不思議に思い始めました。
この「や」は語幹用法での「あな」とは違う種類のもののはずです。もしも同じ種類のものならば、「あなかま」同様に、「やかま」で止めることになるからです。

以前、「いや+かまし」の形を検討していましたが、「いやかま」と止めることになってしまうと思われるので、間違いでした。

――

●その4
クラリンさんが有坂法則について言及なさっておいででしたけれども、《~アマよりも~アメのほうがよい》理由とは無関係のように思います。以下に有坂法則をあげておきます。
第一則:甲類のオ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することがない
第二則:ウ列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない
第三則:ア列音と乙類のオ列音とは同一結合単位内において共存することが少ない
 

Re: (無題)

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 9月 4日(土)10時06分28秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  > No.890[元記事へ]

Indukmuさんへのお返事です。

> 『翰苑』にあるフレーズを、ふと思い出しました。
>
> 憑山負海鎮馬臺以建都

周知のごとく、翰苑を論拠にするのはいささか蛮勇が必要です.

おそらく「や」を脱落させたものと考えた方が安全だと思います.

もっとも、私が邪馬臺国の地と比定する福岡・甘木朝倉に

平塚川添遺跡があります.その近くに馬田という地名があります.

その周辺一帯が太刀洗ですが、これは私見では橘(たちばな)が口蓋化した

ものと思われます.タチバナは永遠・永久という意味ですので、

古代人がその地にかくあれかしと名付けたものだと想像します.

甘木には小石原川が流れますが、この古名は夜須川です.

八丈島方言で天の川を「天のやすごわ」と謂いますが、その「やす」です.

つまり、邪馬臺国の空には神話風景として天の川が流れているという

設定だと思われます.




 

Re: 邪馬臺の語義

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 4日(土)01時11分48秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.892[元記事へ]

クラリンさんへのお返事の続きです。

ここで、
日外(あぐい)さんの由来と分布 - 日本姓氏語源辞典( h□□ps://name-power.net/fn/%E6%97%A5%E5%A4%96.html )
を見てみます。

《大阪府、兵庫県淡路市。個人名。兵庫県淡路市では室町時代の天皇だった後花園天皇の子である日外親王の後裔が室町時代に「安居院」、「日外」と称したと伝える。日外は休日を「日の外」と表現した語。》

で、上の「安居院」ですが、恐らくは応仁の乱で消失したものでしょう。

《京都府京都市上京区の上立売通と大宮通の交点の北に平安時代に創建したと伝える天台宗の里坊の安居院》とあります。

注目して頂きたいのは、【天台宗】だという点です。【天台宗】座主ともなった堯胤法親王との繋がりが予想されます。

淡路島での、堯胤法親王の子孫・係累が安居院氏を名乗ったとすると動機がいくつか考えられます。

・消失した安居院にちなんで。(妄想に過ぎませんが若き堯胤法親王が天台宗の里坊の安居院となんらかの関わりがあったのかもしれません。)

・安居院を仮名書きすると、【あん・ごゐん】となります。
安居院氏の嫡流が天正年間に滅んだのちに、氏族のうちで生き残った者たちが
【吾等(あら)は堯院(げうゐん)】
という意味をこめて、
《安居院(あんごゐん)》
と名乗り始めたとするならば、大層面白いことです。

強引ですし、妄想に近いのですが…ある程度の筋書きが浮かんでは来ます。

――

なお、日外を あぐゐ と読むことの謎がまだ残ります。

堯院が出家する前の名のかとも思いましたが、皇室の中でも比較的に血が濃い人の名に「日外」という名をつけるとは思えません。

堯院の時代から遡ること1世紀、そして江戸時代まで、「日外」は、次のような意味で使われていました。すなわち。
・過去ではあるが具体的に日を特定する必要を感じない、そのような日について述べる。

江戸時代以後では、日外に《いつぞやは》など読むことが定着したようです。

平安時代では、おそらく、日外を《じつぐわい》但し《わ》は小さい《わ》……です。漢語扱いですね。

このような日外を皇室の有力者に名付けるとはとても思えません。

なお、さきほども引用した姓氏語源事典に、
《日外は休日を「日の外」と表現した語。》とありました。

いくら調べてもその根拠が出てきません。

ただ、
安居には、仏教での教えによる本来の意味の他に、(安穏、のんびりすごす)といった意味が派生していたようですから、この意味で休日とひっかけて
【日外】の熟字訓は《あんご:安居》
と主張するむきでもあるのかもしれません。
(「ゐん」はどこへいった?)

いったんなかじめです。
 

Re: 邪馬臺の語義

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 4日(土)00時21分56秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.891[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。

引き続き、日外親王について私の思うところを申し上げます。

親王宣下を受けた方々の一覧をまとめて下さっているページがあります。

■親王宣下一覧<花筐館>
h□□p://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/shin-no.html

「日外親王は後花園天皇の御子」という伝承があるようですので、
上記一覧データから〈後花園天皇の子〉を、データを補いながら抜き出します。

1:成仁親王(=後土御門天皇)
後花園天皇の皇子(ただ一人の男子実子)

2:貞常親王 、
伏見宮貞成親王王子、後花園天皇猶子(猶子:かたちの上で親子の縁組み)、親王宣下、文安2(1445)年

3:堯胤親王、
伏見宮貞常親王王子、後花園天皇猶子 親王宣下、文明3(1471)年。

――
貞常親王およびに、その王子である堯胤親王が共に、後花園天皇の猶子となることについての異常な感じは、現代人の感覚なのでしょうかね。
――

日外親王は、上のお三方のうち誰なのか……

まず、成仁親王は不可です。京の都を離れて淡路島に避難している形跡はありません。
仮にそうなら、日外氏は後土御門天皇の子孫を名乗りそうなものです。

次に、貞常親王ですが、こちらも政争の台風の目にはなっているものの、洛内で権力を保持し続けました。戦前の旧宮家である伏見宮の血脈の祖でもあります。

日外親王となりえるのは、堯胤親王だけとなります。
堯胤親王は、実は堯胤法親王です。政争の表舞台から身を引くていで、いったん出家した後に、親王宣下を受けています。
堯胤は、出家後の法名でして、出家前の名については今回はいくら調べてもわかりませんでした。
堯胤は、後に天台宗の座主になっています。天台宗の代々の座主の名には「堯」が含まれる場合がしばしばあります。さしずめ「胤」は皇統の一員であることを意味していたのでしょう。

堯胤法親王が、日外親王の有力候補ですが…辻褄があうのでしょうか。

・「文明元年(1469)日外親王は、京から淡路島の志筑に渡られ、中田の里に入られました。」と口碑にありました。一方、

・親王宣下、文明3(1471)年。
でした。


すなわち、名前不明の伏見宮貞常親王の王子が、
応仁2年(1468年)京都三千院で出家し、
文明元年(1469)に淡路島に渡り、
そこで子をなし(=内蔵助)

まもなく都に帰り、
文明3年(1471)に親王宣下を受けたことになります。

ちょっとおかしいのが、出家時に10才であったことから、淡路島にわたったのが11才であることです。
ことによると親王宣下のちにも淡路島と京とを往来し、子をなしたのかもしれません。
※伏見宮の男子は必ず親王となる、そのようなルールがあるとも聞いたことがあります。ならば、
伏見宮の堯胤法親王の子は親王になりえるので、それなりの名乗りがあっても良さそうですが…内蔵助という名になっているのは解せません。

――

ここまで、かなり強引に見えますでしょう?

この話はまだ続きます。
 

Re: 邪馬臺の語義

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 3日(金)23時15分16秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  > No.889[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。


日外親王について私の思うところを申し上げます。

まず第一に。
日外親王という名は、畿内中央の資料には出てこない模様です。
また、日外親王は現代に編まれた郷土資料に記されているものしかネット上にはありません。現代にいたるまでは日外氏一族の口碑によるものと考えられますが、それすら私には確認が取れていません。

日外親王についてネット上で一番詳しくデータが拾えるのは以下のサイトのページです。
■№412、妙安寺城|城郭探訪

h□□p://shiro728.web.fc2.com/shiro/hyougo/myouanji/myouanji.html

上のページより必要事項をまるごと引用させて頂きます。

――
文明元年(1469)日外親王は、京から淡路島の志筑に渡られ、中田の里に入られました。
堀に囲まれた小規模な御所山に住まわれた日外親王の皇子、内蔵助のときその南側にあったお城のお殿様が、世つなぎが無く困っておられました。お城のお殿様から、何度もお城をついで下さらないか。と、再三使いの人をよこしたり、お殿様じきじきにおこしになられ、内蔵助もお城をつぐことになりました。城山の山頂は、たて54m・よこ21mあり、現在の妙安寺の平地を土居といい、ここにお殿様が住んでおられました。そして何かある時は、城山にある館に出ていかれ、御所山の麓には高場があり、馬がけがよく行われていました。天正年間の蔵之助のとき敵に攻められ、とうとう滅ぼされてしまいました。京の都を逃れ、平和を願って生き抜かれた日外親王様を、そのまましてはもったいないと、その魂をお祭りしようと、村の人たちの願いで建てられたのが今の妙安寺です。
妙安寺城が落城して殿様の内蔵助は百姓になり、その子の又右衛門は、郡家城の田村氏に仕え奉行をつとめ、その子三郎左衛門も父のあとをつぎ、二男の甚三郎は分家をしました。今でも日外(あぐい)・安居(あぐい)・安居院(あぐいん)と
名のっている子孫が淡路各地に住んでおられます。30数年まえ、日外一族が30数人、日外親王の四百五十年祭を妙安寺で盛大にとりおこない、今にそのお心が生き続けられています。
郷土の城ものがたりより

築城者:日外内蔵助 文明年間
所在地:兵庫県淡路市中田

――

長々と引用させて頂きましたことを感謝いたします。

はたして日外親王とは何者なのか?
 

(無題)

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 2日(木)23時01分36秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
返信・引用
  『翰苑』にあるフレーズを、ふと思い出しました。

憑山負海鎮馬臺以建都

「山に憑り海を負ふて
馬臺に鎮し以て都を建つ」

「やまによりうみをおふて馬臺に鎮しもってみやこをたつ」

――

邪馬臺の語義を考える材料として『翰苑』は無視できそうにないかもしれません。

邪馬臺を「邪+馬臺」と分解してみせているのですから…「邪馬+臺」ではなく。

クラリンさんによる 日本⇔日+本⇔日(ヤ)+本(マト)仮説と、平仄が合っているような???


日外親王について心がざわめきまして、今日は一日中あれこれ調べたり考えたりしていました。

いったん落ち着いてから投稿いたします。

日外親王の正体はたぶんこの人です。
 

Re: 邪馬臺の語義

 投稿者:クラリン  投稿日:2021年 8月31日(火)11時31分46秒 ZP118057.ppp.dion.ne.jp
返信・引用
  > No.888[元記事へ]

Indukmuさんへのお返事です。


ご返信ありがとうございます.

かねてより、日を「や」と読むことにつき、調べてきましたが、

あまり説得力のある証拠は見つけ出せていません.

たとえば、日外親王という言う場合、これは「あぐい」と読みます.

日外姓の方は今日でもいますが、この場合、「日」を「あ」と言います.

これが飛鳥型と異なるのは、「外」を「ぐい」と読んでいることで、

これは「がい」の訛りで、日外は湯桶読みだと思います.

してみると、「日」を「あ」と訓むのも訛りで、本来は「や」では

なかったか、即ち、日外は本来「やがい」と読むべきものであったかと

想像しています.


大和が熟字訓であることは御説の通りですが、大和は、

ご承知のごとく夜摩苔とも書かれます.即ち大和=夜摩

苔であり、時代別国語大辞典上代編の「や」行に日本と

あるのも、これは表示上の選択の問題であり、熟字訓の問題ではないのではないか、と
思量する次第です.



「ひのもとやまと」とから始まる万葉歌がありますが、

「ひのもと」は「やまと」に掛かる枕詞だとしますと、

枕詞はそれが掛かる語の属性、あるいは意味の言い換えだという立場に立ちますと、

「ひのもと」は「や」に掛かるであろうという推測がなりたちます.

即ち、「日本」は「やまと」を中国向けに翻訳したものである、と.

通常、「やまと」の形態素は「やま・と」と解されていますが、

実際は「や・まと」だと私は思います.これを古代近畿大和政権は、「日・本」と翻訳して中国に示したと考えられます.
無論、「本」を「まと」とは言いませんが、近似表現としてこれを是としたものと考えられます.


「日香天之天之」は有坂法則を失念していました.「やかましあめの」でした.

ただ、逆行同化で、aeo→aaoとした可能性も捨てきれない「感じ」がします.


>本来は「やかましきあめの」となるべき


仰るとおりです.ですが、歌謡においては、語調を重んじ、57577に押し込めることが

あります.あるいは「き」の脱落はイ音便によるものとも考えられます.


源氏物語に「あなかま」(ああうるさい)という表現がありますが、

これは本来、「あなかまし」でなければならないでありましょう.


少し時代が新しいですが、新古今和歌集に「ふる霰あなかままだき鳥もこそ立て」と

いう和歌がありますが、ここでも「あなかまし まだき]と文法上はあるべきところ、

「あなかま まだき」となっています.


従いまして、「やかましあめの」でもあながち通用しなくもないと思われます.

 

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