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宇宙旅

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年12月12日(木)09時09分28秒 ah204155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  夢の中では、物質は平然と光速を越えて動く。
実際問題は物質は光速を越えて移動できないが、空間自体はその制限を受けない。宇宙誕生の時も空間が一瞬にして銀河系程度の大きさになったとされる。その空間は猛烈なエネルギーを持っていたので、物質も形成された。物質を空間ごとに光速を越えて移動させることができるかも知れない。これが出来なければ宇宙旅行は夢のまた夢だ。
 
 

古代史漫談

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年12月11日(水)11時03分10秒 ah204155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   マドカさんの古代史漫談
 大変優れた古代史の漫談です。ウソはありません。ご一読を。
http://www.kamnavi.jp/link/enmadokakodaisi.htm
古代史漫談_bot@kodaisimanndann
 

宇宙誕生

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年12月 9日(月)13時50分26秒 ah204155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  夢の中の宇宙旅行では、宇宙誕生の瞬間を幾度も再生して見えるのである。一点から光が漏れ出し、一瞬にして天の川銀河の大きさに広がり、猛烈な温度の火の玉が自分自身をも覆いつくすのである。初期宇宙の熱い空間の残映が昔のテレビのザーと鳴る横線の雑音である。  

多元宇宙

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年12月 6日(金)09時07分22秒 ah204155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  マルチバースすなわち多元宇宙という考え方があります。我々の宇宙の他に別の宇宙が存在しているという説です。ほかにもあると言うことは幾つでもあると言うことになります。 我々の宇宙に別の宇宙が衝突すれば、その衝撃をとらえることができるかも知れません。  

Re: リンク入れ替わっているようです。

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年11月 2日(土)15時47分16秒 ah204155.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.680[元記事へ]

じゃすさんへのお返事です。

 ご指摘ありがとうございます。早速修正いたしました。

 ご参拝された丹生神社、画像などご投稿頂ければ幸甚です。


> 神奈備様はじめまして。
> 丹生都比売命が好きでHPを拝見させていただいてる、じゃすと申します。
> 丹生都比売神を祀る神社一覧の滋賀県の上丹生と下丹生の丹生神社。リンクが入れ替わっておられるような気がします。
> ご確認いただければ幸いです。
>
> 追伸:HPを拝見させていただき、遠隔地の佐賀県や高知県でも丹生神社にお詣りさせていただくことができました。
> 本当に感謝致しております。
 

リンク入れ替わっているようです。

 投稿者:じゃす  投稿日:2019年11月 1日(金)02時39分6秒 softbank060140254092.bbtec.net
返信・引用
  神奈備様はじめまして。
丹生都比売命が好きでHPを拝見させていただいてる、じゃすと申します。
丹生都比売神を祀る神社一覧の滋賀県の上丹生と下丹生の丹生神社。リンクが入れ替わっておられるような気がします。
ご確認いただければ幸いです。

追伸:HPを拝見させていただき、遠隔地の佐賀県や高知県でも丹生神社にお詣りさせていただくことができました。
本当に感謝致しております。
 

Re: 南北朝正閏論 6/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 4日(金)19時50分27秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.678[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 現在の公式の皇統譜
> 持明院統 大覚寺統
> 95 花園     91 後宇多
>         96 後醍醐
> 北1 光厳 北2 光明
>         97 後村上
> 北3 崇光 北4 後光厳
>         98 長慶 99 後亀山
> 北5 後円融
>   南北合一
> 100 後小松
>
> 正しい皇統譜
> 持明院統 大覚寺統
> 95 花園     91 後宇多
>         96 後醍醐
> 97 光厳
>         98 後醍醐重祚
> 99 光明
> 100 崇光 101 後光厳     南1 後醍醐
> 102 後円融     南2 恒良皇太子
>                            南3 後村上
> 103 後小松 南4 長慶 南5 後亀山
>
>
>
> 『南北朝動乱』水野大樹 実業之日本社
> 『後醍醐天皇』兵藤祐己 岩波新書
> 『我が国の皇統継承の歴史と理念』中野好之 お茶の水書房
> 以上
>
 

南北朝正閏論 6/e

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 4日(金)19時46分20秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.677[元記事へ]

現在の公式の皇統譜
持明院統 大覚寺統
95 花園 91 後宇多
96 後醍醐
北1 光厳 北2 光明
97 後村上
北3 崇光 北4 後光厳
98 長慶 99 後亀山
北5 後円融
  南北合一
100 後小松

正しい皇統譜
持明院統 大覚寺統
95 花園 91 後宇多
96 後醍醐
97 光厳
98 後醍醐重祚
99 光明
100 崇光 101 後光厳 南1 後醍醐
102 後円融 南2 恒良皇太子
南3 後村上
103 後小松 南4 長慶 南5 後亀山



『南北朝動乱』水野大樹 実業之日本社
『後醍醐天皇』兵藤祐己 岩波新書
『我が国の皇統継承の歴史と理念』中野好之 お茶の水書房
以上
 

南北朝正閏論 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 4日(金)09時39分38秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.676[元記事へ]

コメント
北畠親房は『神皇正統記』を著して南朝の正統を訴えざるを得なかったのは、やはりいささか正統でないとの疑いを持っていたのだろう。正統の根拠は「神器」の保持と「人徳」である。後醍醐に人徳を感じるだろうか。
 明治二四年の「南朝正統の親裁」は、「神器」の保持を理由としている。これに対して、東京大学の前身機関の教授の田中義成は次のように書いている。系統の上より論ずれば、持明院統すなわち北朝の系統は、嫡流にしてしかも正統なること明らかなり。しかして持明院統の御方々はいずれも温和な性質なりしが、大覚寺統はいずれも剛毅英邁なりしかは、持明院統を圧迫して関東を討滅されしにもかかわらず、南朝の皇統は全く絶えて皇位は永く再び持明院統に還れり。これまた自然の教えというべし。
 昭和天皇は昭和10年に、「南北朝正閏論」の決定は一考を要する。自分は北朝の血をひく天皇である故に、大筋では支障なきものの、実際は変なものなり。」と述懐されている。
 南朝正統論を突き詰めると神器の保持のみ。今上天皇の即位の式典にも厳かに神器が運ばれてきたが、あの中身はなにか、空っぽであっても気が付かない。物としての存在が皇位の正統性を決めるなどということはありえない。自分の子息や臣下を平然ん見殺しにしてきた後醍醐が神器を持ち出して吉野に籠ったからと言って、天皇と認めるのは異常である。皇子や臣下を平然と見殺しにする人格欠如人間でも、盗んだものでも神器さえ持てば天皇なのか。まさか。

現在の天皇の存在根拠
 うわべは戦後憲法の国民の総意に基づいているが、その根本には神話が横たわっている。
天照大神ー穂穂出見‐瓊瓊杵-不合尊ー神武天皇まで繋がってきた皇統を意識している。
天照大神からはY遺伝子は伝わっていない。神話だから女神でいいのか、元来神話に基礎を置いている天皇制、女系のどこに問題があるか。無理してまで男系にこだわる必要はない。
これが国民の大多数の意見だと思う。サンケイの調査では60%以上支持。


 

南北朝正閏論 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 3日(木)20時37分21秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.675[元記事へ]

1336 建武三年 足利尊氏が入京。後醍醐は比叡山に逃亡。恒良皇太子に皇位と三種の神器を譲る。神器があれば天皇であるとするなら皇統譜に載せるべき天皇である。南朝2代目の天皇と言える。
新田と北畠軍が足利軍を撃破。尊氏は九州へ逃走、途中光厳の宣旨を受領。
足利尊氏は態勢を立て直し、西国の武将を率いて東征、播磨で新田軍を破る。
楠木正成は後醍醐を比叡山にやり、洛中に足利軍を引き込み兵糧攻めに持ち込むことを奏上、近臣は後醍醐の動座を受け入れず、後醍醐は正成に新田援護の出陣を命ずる。戦力差が大きく、数日の日にちを稼ぐだけの戦いで、結局のところ、正成を見捨てたことになる。後醍醐、再び比叡山に逃亡。
尊氏は光厳の弟の光明を践祚させる。北朝2代とされる。
比叡山の後醍醐は新田に無断で尊氏に降参し、帰洛に同意。見捨てられた新田は越前に落ちて行った。後醍醐は光明天皇に神器授受の正式な儀礼が行われた。99代である。
年末に、北畠親房の手引きで後醍醐は神器を持って吉野へ逃亡、南朝の初代となる。恒良に皇位を譲ったのを無視している。世にいう「南北両統分立」となった。

1337 建武四年 北陸で戦いがあり、尊良親王は自殺、恒良は毒殺された、新田は無事。後醍醐ご勅書を受けて北畠顕家と義良親王の軍隊が鎌倉を占拠。

1338 暦応元年 北畠顕家は、後醍醐の政治を、郷士・官女・僧侶の内奏によって、天皇の政が歪められていること、内裏の贅沢な宴飲をいさめた。直後に泉州で討ち死に。新田は越前で戦死。足利尊氏、征夷大将軍となる。

1339 暦応二年 義良親王が吉野で立太子。8月 後醍醐死去。義良後村上として即位。

隠岐の島に流されていた間は後醍醐は統治していない。光厳天皇の御世である。これは歴史的事実であり、後醍醐は自らの統治期間と主張し、光厳には偽三種の神器をつかましたと主張するが、その証拠はない。
また、現在の皇統譜では、光厳を北朝初代とするが、これは虚偽である。光厳即位の頃は北朝も南朝も存在していない。さらに、光厳の即位は足利尊氏の功績とする声があるが、それ以前の鎌倉幕府の時代のことである。
後醍醐は元弘三年から建武二年までの三年間の政治を行っているので、光厳の後に重祚したと考えるべき。98代。
次に足利尊氏の手によって光厳の弟を光明として即位させている。後醍醐から三種の神器が渡っている、押しも押されぬ100代の天皇である。
この段階に至って、廃帝後醍醐が吉野へ亡命する。南朝の始まりであり、後の死後、子息の後村上天皇が即位。南朝二代目となる。

南朝三代目は長慶天皇、四代目は後亀山天皇と続く。

1352 南朝が京都を一時的に占拠。八幡を拠点とし、上皇らを捕らえた。

1353 南朝が京都を一時的に占拠。足利義詮は後光厳天皇を奉じ美濃まで落ちた。

1392 北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。

 

南北朝正閏論 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 3日(木)10時09分32秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.674[元記事へ]

6月 建武の新政開始。宮は二条富小路内裏。綸旨の乱発。二条河原の落書き。

此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)
(中略)
京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌
在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ
譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也
(後略)

 土地安堵の綸旨が混乱した。
元号を元に戻し、正慶から元弘にする。光厳天皇の行った任官位すべて無効とした。
 護良親王は足利尊氏の追討を建策するも、後醍醐はこれを慰撫した。人を見る目がない。
天皇が万機の政まつりごとを親裁する方式とした。当地行(20年以上土地支配は理非に問わず認める)を無効とし、土地所有は一挙に流動化した。土地所有は混乱し 朝廷で処理しきれない状態になり、諸国の国司にまかせることとした。早速、親裁は一歩後退した。
足利高氏の功を称え、尊の字を与える。足利尊氏となる。

1334 建武元年 恒良親王の立太子の儀、母は後醍醐の寵姫阿野廉子。
足利尊氏が「護良親王は後醍醐天皇の位を奪うこと企てた」として天皇に奏上した。護良親王は令旨を発して兵を集めて尊氏討伐の軍を起こした。これを聞いた尊氏も兵を集めて備えた。その上、尊氏は親王の令旨を証拠として、後醍醐天皇に謁見した。これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王は捕えらえて尊氏に引き渡され、鎌倉へ送られた。
後醍醐復権の最大の功労者であり、長子である護良親王を軽々と見捨てる後醍醐である。

1335 建武二年 北条時行が信濃で挙兵、鎌倉を攻略、足利直義が西走、その時に護良親王を殺害。足利尊氏が鎌倉を奪回、そのまま旧幕府跡に居をかまえ、帰洛命令を無視。
新田義貞は後醍醐の尊氏追討の下命を受けて箱根で戦い、尊氏に敗れ、帰洛した。

 

南北朝正閏論 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 2日(水)08時18分0秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.673[元記事へ]

1326 嘉暦元年 持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はいっそう強まった。量仁は後に光厳天皇となる。

1327 嘉暦二年 天皇の実子の護良親王を衆徒3000人の比叡山の天台座主にした。以降の護良親王の活躍は眼を見張らせるものがある。

1330 元徳二年 天皇は南都と洛東の寺社を巡行。側近の中原章房に討幕の相談を持ち掛けたが諫められた。中原から漏れると思い、悪党の瀬尾兵衛太郎に命じて暗殺させる。中原の子息の章兼や章信らが手を下した仇敵を探し出し、首を取った。
護良親王にかわって五男の宗良親王を天台座主とした。

1331 元弘元年 5月 再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚 日野俊基は鎌倉に送られ、翌年に斬られた。日野資朝は佐渡で殺された。

8月 天皇は護良親王の指示に従い、神器を携行して笠置山に籠城。

9月 幕府の大軍が上洛。量仁が光厳天皇として即位。現皇統譜では正式な天皇としては認められておらず、北朝第一代とするが、未だ北朝も南朝もできていない。ただしくは第97代の天皇のはずである。笠置山が陥落、後醍醐は山中で拘束され、帰洛。

10月 光厳へ三種の神器の引渡しの儀式を行う。後に後醍醐は偽物を掴ましたと言うが証拠はない。楠木正成が河内赤坂で蜂起。一ヶ月後に落城。

1332 元弘二年 後醍醐、隠岐島へ身柄を移される。熊野路に潜行の護良親王が諸国へ討幕の令旨を伝達、自らも吉野で挙兵。楠木は赤坂を奪回。

1333 元弘三年 楠木正成、六波羅探題の軍勢を摂津国天王寺などで撃破。幕府は足利高氏を総師として大軍を派遣。護良親王の吉野城が陥落。
後醍醐、隠岐を脱出、名和長年が出迎える。

4月 足利高氏が宮方に寝返る。5月 六波羅探題が陥落。護良親王の発した令旨が各地の寺社勢力が蜂起する。幕府方の新田義貞が離反。
後醍醐は詔を発し、光厳の即位を無効とし、後醍醐が継続して皇位についていたと宣言。光厳の即位を取り消すのは無茶。97代光厳。98代後醍醐重祚が真。鎌倉幕府滅亡。
 

南北朝正閏論 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年10月 1日(火)10時43分59秒 ah205092.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   天武天皇の皇位簒奪はその後7代80余年続いた。
安徳天皇の次の第82代後鳥羽天皇は、三種の神器がそろわないままの即位であった。
後醍醐天皇の建武親政は2年で終わったが、その異常な事態がその後の皇統改竄とその認識において今日まで尾を引いている。

1272 後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草上皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立テツリツ)し、院政を行うよう裁定された。後の北朝、南朝の争いの導火線となった。

1274 1281 文永の役、弘安の役 元寇である。鎌倉幕府は健闘したが、弱体化した。

1288 正応元年 後醍醐尊治は大覚寺統後宇多天皇の第二皇子として生まれた。第一皇子の後二条天皇は24才で急逝。卑母の子の後醍醐は、母の運動で14歳で親王になれた。

1308 徳治三年 持明院統の花園天皇12歳の即位に伴って大覚寺統の後醍醐は21歳で皇太子となる。それも一代限りの条件付きであり、子孫は皇嗣にはなれない。

1318 文保二年 花園が退位、後醍醐が31歳で践祚。父の後宇多上皇が院政再開。

1321 元享元年 後宇多が引退。後醍醐の親政が始まる。天皇と統括する官僚機構に全ての権力を集中させる統治形態。これは直接「民」に君臨する態勢であった。
自分の子孫に皇位を継がせることを否定された後醍醐天皇は不満を募らせていた、皇位継承計画を承認し保証している鎌倉幕府への反感につながってゆく。

1323 日野俊基を蔵人クロウドに任じる。日野資朝らと共に「無礼講」を実行した。
出席者は殆ど裸で、女性を侍らせて酒を酌み交わしたという。宮中に出入りを許されない武士の本音を知ることができた。無礼講の中で楠正成と接触した可能性がある。

1324 正中元年 吉田定房の諫奏に接し、蟄居を申し渡す。
六波羅探題が天皇の討幕計画を察知、日野俊基と日野資朝を逮捕。正中の変。北野神社の祭礼で、喧嘩騒ぎを起こさせ、その鎮圧に六波羅探題の武士が出払うので、襲って占拠、鎌倉か制圧に来るのを延暦寺と興福寺の僧兵が宇治・瀬田を固めて防ぐというもの。多治見国長、土岐頼兼、足助重範らが討伐され、日野資朝らは鎌倉に送られた。流罪となる。天皇は部下が勝手にやったと弁明にこれ努めた。平然と部下を見捨てた。
幕府は後醍醐天皇には何の処分もしなかった。
 

古市百舌鳥古墳群について5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 8月 2日(金)09時43分41秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.668[元記事へ]

7.倭の五王
 この時代に南宋に遣いを出した五人の大王の名が記載されている。

421 倭王讃        朝貢   仁徳427
425 倭王讃        遣使   仁徳427
430 倭王  讃か     朝貢          ┏ 倭王讃  仁徳
438 倭王珍        朝貢   宇治     ┗  倭王珍  宇治
443 倭国王済       朝貢   允恭454            済王済
451 倭国王済      将軍位  允恭454
462 倭国王の世子興   将軍位   木梨軽皇子       ┏ 倭王興 木梨
477 倭国王 武か    朝貢   雄略 己巳 489  倭王済 ┫
478 倭王武       将軍位  雄略 己巳 489           ┗ 倭王武 雄略

 国の代表は卑弥呼がそうであったように、神聖王の系列に属する王の名で行われるのが普通である。『宋書』では、倭王珍と倭王済との繋がりが書かれていない。と言って、王朝の交代があったとは断言できない。倭国王の系譜にそれほど関心があったというよりは、倭と言う王家から出た王達との認識であった様に思われる。
 雄略天皇は市辺押磐皇子を殺害と『紀』にあるように、倭王家の中でも他者を排斥して来ている。恐らく、木梨軽皇子の神聖王の地位をも奪ったのであろう。神聖王倭王武として南宋と交渉したのだろう。

以上
 参考書
『史跡で読む日本の歴史』古墳時代 岸本直文
『講座日本の考古学』古墳時代下 広瀬和雄
『大王から天皇へ』熊谷公男
『豊中歴史同好会誌:つどい285』岸本直文
 

古市百舌鳥古墳群について4

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 8月 1日(木)08時48分16秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.667[元記事へ]

5 市辺押磐皇子は履中の皇子で『播磨国風土記』では市辺天皇とあり、即位していた可能性がある。
 木梨軽皇子は允恭天皇の第一の皇子である。允恭二十二年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されるとある。『古事記』では、「日継知らしめす」とあり、実際には即位していた可能性がある。
 また、『 播磨国風土記』にある「宇治天皇」は、菟道稚郎子のことで、腹違いの兄の仁徳天皇に皇位を譲り、自殺したと『紀』に記されている。美談になっているが、実際には即位していたから『風土記』に天皇とあるのだろう。古市の墓山古墳は全長225m、五世紀前半の前方後円墳である。

6 河内の大王の『古事記』の没年と日継の記述  古事記の天皇没年干支は比較的事実に近いように思う。
15 応神 甲午 394
16 仁徳 丁卯 427
  宇治       天津日継
17 履中 壬申 432
18 反正 丁丑 437
19 允恭 甲午 454   日継
  木梨       日継
20 安康
  市辺
21 雄略 己巳 489
22 清寧
23 (飯豊天皇) 市辺の皇女。「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ。」と言ったそうな。相手は清寧だったか。


 

古市百舌鳥古墳群について3

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月31日(水)10時45分18秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.666[元記事へ]

王権の変遷
 

古市百舌鳥古墳群について2

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月30日(火)10時41分24秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.665[元記事へ]

3. 応神元年は百済王の記事から三九〇年、没年は『古事記』崩年干支から三九四年とみてよい。活躍期は四世紀後半にあり、晩年に政権を奪取したと理解できる。文献によるホムダワケの性格と、津堂城山古墳の考古学からみた被葬者像は一致し、河内政権の始祖であるホムダワケ墓を、古市・百舌鳥最古の倭国王墓である津堂城山古墳とすることが妥当。
 日本における須恵器生産も、TG232型式には安羅の陶質土器の影響が大きく、伽耶各地への分散後、一定年限の経過後に陶工が倭に渡ったと考えられる。むろん、鍛冶技術・馬匹生産なども同様である。河内政権は好太王に敗北を喫したが、伽耶人の渡来により「文明開化」を果たす。

4. 同じ時期に複数の大王級古墳が造営されていることから、二重王権へ発想したもの。大仙陵古墳の造営は、一日最大千人の人々が働いても三十年以上かかる。
 副系列は佐紀石塚山古墳、古市・百舌鳥の津堂城山古墳(応神)、上石津ミサンザイ古墳(履中)、誉田御廟山古墳(反正)、市野山古墳(市辺押磐皇子)、岡ミサンザイ古墳(雄略)と続く。
  主系列は、佐紀の五社神古墳の次に古市・百舌鳥の仲津山古墳(仁徳)、大山陵古墳(允恭)、土師ニサンザイ古墳(木梨軽皇子)、前の山古墳(清寧)と続く。
 

古市百舌鳥古墳群について

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月29日(月)14時20分52秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1 岸本直文氏の一連の論文から。
先ず、箸墓古墳以降の倭国王墓を取り上げ、前代のものを元に仕様を更新し、変化を遂げるが、これらを整理すると、箸墓に始まる主系列(神聖王慕)と桜井茶臼山古墳に始まる副系列(執行王慕)に分れることを明らかにした。これによりオオヤマト古墳群から佐紀古墳群へ、また古市・百舌鳥古墳群、さらにこの末期群と継体との関係など、2系列の併存関係を示した。

2.古市・百舌鳥古墳群最初の大王慕は津堂城山古墳であり、被葬者像は、ホムダワケの人物像に合致する。ホムダワケは新たな王統の始祖とされるが、それをささえた集団は南山城を基盤とし、佐紀政権の権力基盤そのものであることから、ホムダワケは佐紀政権に連なる人物と考えられる。そして、神功凱旋時のカゴサカ王・オシクマ王の抵抗と敗北は、佐紀の王権を打倒した内乱とみる。津堂城山古墳の被葬者は、四世紀後半の半島と河内での活動により、日向など各地諸勢力と結びつきをもち、河内における権力基盤を形成しクーデタを敢行したのではないか。これにより河内政権が樹立される。


 

防人5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 7日(日)08時48分44秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
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4.鹿島と杵島
『常陸国風土記』崇神天皇の時代、建借間命を辺境の荒賊を平定の為に差し向けた。霞ヶ浦の東の浦に、国栖の夜尺斯・夜筑斯に率いられた凶賊がいた。命は一計を案じて、波打ち際をにぎやかに美しくかざり、杵島ぶりの歌曲を歌い七日七晩歌舞を行った。賊党は興味を持って全員浜にやって来た。この時に兵に命じて一網打尽とした。
『肥前国風土記逸文』三つの峰が相連なる。名づけて杵島と曰ふ。坤のかたなるは比古神と曰ひ、中なるは比売神と曰ひ、艮のかたなるは御子神(一の名は軍神。動けば則ち兵興る)と曰ふ。
あられふる 杵島が岳を 峻(さか)しみと 草採りかねて  妹が手を執る。
是は杵島曲なり。
景行天皇はここを「惇戟島 かしま」と名を付け、これがなまって きしま となったとある。鹿島と枕詞が同じ。杵島の神々は、素戔嗚尊・稲田姫・五十猛命と見なされている。
 鹿島の軍事的性格のルーツは五十猛にあるようだ。
                                   以上
参考書
半藤一利 『万葉集と日本の夜明け』  龜山 勝 『安曇族と住吉の神』
東城 敏毅 『万葉集防人歌群の構造』 中西進 『万葉集』
 

防人4

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 7月 6日(土)11時20分32秒 ah227156.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.661[元記事へ]

酒仙さんへのお返事です。

ありがとうございます。

3、鹿島立ち
 常陸の国に鎮座する鹿島神宮の正殿は、神社には珍しく北を向いており、これは国全体の北方を護るためだと古くから言われてきた。日本の国にとって、この地は永らく北の護りの要であり、国土鎮護の宮だったのである。万葉の時代には利根川は今日のような大河ではなく、時に洪水を起こす地方の川だった。常陸・下野や下総の人々が主に鹿島立ちを行ったのであろう。その際、祈った神は阿須波の神であった。
4350 庭中の阿須波(あすは)の神に小柴さし吾(あれ)は斎はむ還り来までに
庭の中の阿須波の神に小柴をさし供え、私は身を清めて行こう。無事に帰ってくるまで。
阿須波の神とは、居住地を守り給う住居守護の神、また行路の安全を守り給う旅行安全の神である。鹿島神宮の前の神である。冒頭の4370の歌が、「鹿島立ち」を歌ったものとされる。
また、鹿島立ち を 鹿島の神が大和へ旅立ったことを指すとする見解もある。
鹿島神宮の祭神、武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、 奈良の春日大社の祭神として勧請(神仏の霊を移し祀ること)された。その際 、命は、常陸(茨城県)の鹿島から 白鹿に乗って出立され、一年ほどかけて 奈良の御蓋山(ミカサヤマ/春日大社)に至り鎮座された、このことに因んで、旅に出ることを「鹿島立ち」といわれるようになった。
なお。『日本国語大辞典』には、【鹿島立】旅に出かけること。旅立ち。出立。『菟玖波集』(つくばしゅう)は、南北朝時代に撰集された連歌集に記載。巻数は20巻。句数は2190句。以上の構成は、勅撰和歌集の部立てに倣ったものである。1356年(正平11年/延文元年)とある。『菟玖波集』が「鹿島立ち」の初見と思われる。
『上記;ウエツフミ』1223年、豊後国守護の大友能直がサンカの伝承などを編纂したもの。天児屋根命は、天照大御神が天岩戸に籠った時、岩戸の前で神楽を奉じた神である。天孫降臨に際して降臨に従っている。天孫降臨が「鹿島立ち」から始まり、鹿島から鹿児島へ
と移動した。
『秀真伝:ホツマツタエ』は記紀より古いとされている古伝である。ここでは、鹿島立ちとは、オオナムチを成敗(国譲りをさせる)するための決起集会を鹿島立ちと称している。オオナムチの国(シマ)を断つとの意味で使っている。ホツマは、『菟玖波集』1356年(正平11年/延文元年)以降の作ではないかと思われる。

 

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