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Re: 蘇我氏5

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年 9月 3日(月)18時04分54秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  神奈備さんへのお返事です。

おひさしぶりです。
「超大河小説の粗筋(^^; 」ができたところで、バタンキューとなっておりました。
最近の人工知能の進歩はすごいですね。物量作戦ともいえる大量のデータから「定石」に捕らわれない「考え方」が登場する。そして人間側がそれを参考にするようになってきた。

蘇我氏論は無数にありますが・・
記紀などの記述は、それをどこまで信じるかにつきると思います。
「どこまで」というのがやっかい、真偽が混じりあって判別が困難。
記述が詳細だから正確だとはいえない、かえって作為をみて危ない(^^;
平安初期の編纂者の思惑がたっぷり含まれる。

NHKの歴史秘話ヒストリアのよみがえる大化の改新/発見蘇我入鹿の棺。
私の注目は館跡の「オンドル式暖房」です。
半島特有で日本では他に例がない。
これが蘇我氏の館であるなら、蘇我氏の出自の決定的?状況証拠になります。

さて、蘇我氏シミュレート(^^;
さかのぼれば箕子朝鮮へ(持論:スサノオの出自)。
箕子朝鮮が滅亡し南へ脱出した氏族が「韓」を自称する(魏志韓伝)。
それが後の伽耶諸国、伽耶山周辺に蘇我氏の出自があると考えています。
(ただし、その蘇我氏に重ねられた近畿の小規模な別氏族が存在する可能性をみておきます)

応神386-402以降で半島では百済、高句麗、新羅に加えて伽耶の抗争時代。
百済は七支刀369の記録が残るけれど、その他の国々でも記録にない通行があったはずです。
三国史記では伽耶を新羅の一部としているけれど当初は新羅が伽耶の一部。

書紀は蘇我氏など渡来氏族を武内宿禰の子としていますが、偽系譜と断じておきます(^^;
武内宿禰は百済の軍人とみています。
書紀が武内宿禰を祖と書く系譜は渡来人であることを示すことになるわけです。

(応神系譜の)安康454-456と雄略は近畿の(仁徳系譜の)允恭439-454を制圧して、半島と列島に最大版図を築く。
武烈498-507没して継承者争い勃発。
越の男大迹王と筑紫の磐井王の戦いで磐井が敗れた後に、九州に登場するのが幼き欽明539-571。
どのような血縁かは不明なれど、欽明は近畿の王ではない。

この時代に近畿王となるのが継体(男大迹王)の子の安閑宣化、書紀の書くような短命ではない。
九州の欽明539-571と並立していた時代で、書紀が欽明を近畿王として扱ったために安閑宣化を短命に圧縮せざるを得なかっただけ(実際の事象との時間的食い違いを生じる)。

物部氏は尾張の天火明系譜と重なって拡大、弥生時代に若狭方面へも進出と考えています。
(当初の「物部集団」は海運と資源探査がお役目)
筑紫の磐井王を破った越の男大迹王の戦力は物部麁鹿火、尾張始発の物部氏は日本海系氏族(大国主系+応神系)と結合していたことを示すものでしょう。

若狭の籠神社(元伊勢)の籠目紋は物部氏が手工業者であることの状況証拠。
天火明の時代(BC100頃)から尾張と若狭周辺はつながっていた。
(元伊勢に関与する伝承を持つ社の分布を知りたいところです)

継体507-530が尾張から妃を入れているのも天火明系譜の流れからは自然なところ。
その子が安閑ー宣化であり、敏達もその継体の後衛となります。
(継体は大国主の子の鳥鳴海神の末裔ともつながりを持つと考えています)
書紀が手白川皇女などを偽装しなくてもその系譜は弥生から有名どころとつながっているわけです。

敏達死去で九州王の用明が百済系譜や伽耶系譜を率いて近畿も支配して再び大王となる。
(用明も九州王時代を含めれば短命ではない)
敏達の武力的バックボーンはやはり物部氏。
しかし、敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できなかった。
(上京する)用明が率いていた蘇我氏に物部氏が敗れたためだと考えています。
新文化=随と唐、文化力(最新兵器=軍事力)で九州が上位にあったからだと思います。

飛鳥京は伽耶系の拠点かな。先の蘇我入鹿の館とオンドルはその痕跡。
百済系の拠点は斑鳩宮、「奈良沼」をはさんで蘇我氏と対峙。
書紀が偽装する推古(厩戸皇子はおそらく実在)は欽明と伽耶系妃の流れでしょう。
隋書に見える「多利思北狐」は用明と百済系妃の子じゃないかな。
新唐書に目多利思比狐が随と通ず、とあります、目多利思比狐=用明でしょう。

百済と伽耶、渡来系譜の抗争・・斑鳩宮の焼失、山背大兄王の殺害・・蘇我氏による攻勢。
物部氏はすでに勢力を失っており、騒乱時代になった。
1年後に中大兄皇子が中臣鎌足とともに蘇我入鹿を殺害。
敵討ちともいえますが、蘇我入鹿殺害は寶皇女も(政略的)共犯だろうなあ(^^;

寶皇女の祖に漢王妹 大俣女王とある、おそらく百済系譜。
この時代を書紀は皇極女帝とするが、この時代では女帝(九州王+近畿王=大王)といえる権力者はなく、斉明にいたって女帝となったと考えています。
皇極斉明の二度の即位があったのではない、大王不在の混乱を書紀の都合でそう書いているだけ。

斉明は近畿にあって、(その子の)中大兄皇子が九州を受け持っていたと推定。
継体系譜の敏達の子の押坂彦人大兄皇子の流れにあったのが舒明629-641。
書紀は舒明を大王とするが、これも豪族間の覇権争いのなかでの人物のひとりでしかない。

斉明紀に用命の孫として高向王が書かれますが、これが天智の父であり母が寶皇女。
血縁として重要人物と思いますが書紀は高向王についてなにも書いていない。
書きたくないのでござろう(^^;
高向王の寿命と死因は不明、豪族間の抗争での若年死であろうと考えています。

高向王死して、寶皇女は幼い中大兄皇子(天智)をつれて舒明と再婚。
寶皇女と舒明の間の子が大海人皇子(天武)。
大海人の呼称は祖が日本海系譜の流れにあることを示す。
天智と天武が兄弟、というのは寶皇女の連れ子と、母が同じの意味ならば正しい。
寶皇女-皇極-(孝徳645-654内紛?)-斉明、この系譜は書紀が苦心したところだと思います。

斉明死して天智が大王へ。
勢力基盤は九州だと思います、居宅?がころころ変わる理由です。
死去地もおそらく九州、死去の状況があいまいである理由です。
壬申の乱で大友皇子が九州へ支援を求めた理由です。

天智の意識には、神武(九州統一、出雲系譜との混合)-応神(百済と伽耶への進出)-雄略-(筑紫の磐井)-欽明-多利思比狐があり、我らが最新文化への革新をもたらす、あり。
天武の意識には天火明(最古の近畿天孫、書紀に書かれない系譜、出雲系譜との混合)-継体-敏達があり、我らが最古の伝統ある氏族である、があったと考えています。

その意識の対立が壬申の乱の源。
流入する優れた文化、これに対する「日本」の意識の登場と対立でもあります。
その葛藤が日本書紀を作り出していると考えています。


斑鳩イカル・ガ、飛鳥アスカ(おそらくアス・ガの変化)、「ガ」は里といった意じゃないかなあ。
加羅(伽耶諸国、安羅、多羅)、新羅シンラ(シラギ)、百済クダラ、耽羅タンラ(済州島)・・
(新羅の原型は伽耶諸国の一部で新羅城シラキでしょう、AD300に倭国と国使交換して国名変更)
奈良の語源は南羅ナムラだと考えています、「ラ」は里の集合体すなわち国の意じゃないか。

旧唐書に日本国は倭の別種、とあります。
隋の裴世清までは、諸外国の「倭国」の認識は北九州であり、それより東は倭の別種だった。
それを書き換えようとしたのが日本書紀の「設定」であり「日本国」の登場でもある。

半島の前方後円墳は応神~雄略時代の倭人の半島進出を示し、聖徳太子(多利思比狐)は欽明~天智時代の中国文化流入(半島経由)を代表する。
半島と列島の言語と文化が大きく変容してゆく時代じゃないかと思います。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 
 
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