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Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年10月 4日(木)17時44分8秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  日本海沿岸、遠賀川以東~若狭湾に至る沿岸部から土笛が出土しています。
これに重なって綾羅木式土器が出土。
東京国立博物館特別展
http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2014/02/21/綾羅木郷3

今のところ半島での状況は不明ですが、綾羅木式土器と土笛は同じ文化圏の人々でしょう。
考古学的には弥生前期後半~中期初頭とされ、春秋戦国のはじまるBC700頃以降の到来が推定できる。
山東半島は畑作がメイン、山陰のサヒメの畑作伝承はこの人々を源にする(のではないか)。
土井ヶ浜の遺骨は山東半島の人々に類似、ここも土笛と同じ集団(だと思う)。
半島系遺物もありますから半島南岸経由。

BC700頃、周の支配力が衰えて各国が覇権を争い始める時代。
ある地域が他国に併合されれば農民が農地を奪われる、これが脱出の理由だと考えています。
BC600頃では中国全土が同様の混乱状態。
山東半島の斉はBC600頃から勢力を失う、ここから追いだされた農民は新天地を求めた。
半島に住んでいた人々が玉突き現象で追いだされることもあるでしょう。
農民が故郷を離れる、生死にかかわる事情があったはずです。

山東半島から朝鮮半島南西岸へ、??なら簡易な船でもなんとか渡れる。
だが、対馬海峡ではそうはゆかない、漂流し山陰沿岸にばらばらに漂着した結果が若狭まで広がる土笛が示す、と考えています。
響灘以西に土笛がない理由でもあります。


最近の水稲のDNA研究から列島と半島では、列島側が先である可能性が大きい。
考古学的にも佐賀県菜畑遺跡の水稲が半島南西岸の松菊里遺跡より古い。
半島北部に水稲はない、すなわち陸伝いで伝播したのではありません。

長江下流ではBC1000以前に遡って周の太伯が越に下って呉を建国。
太伯は姫(キ)性で周の一族ですから遊牧系、水稲は持っていない。
単身赴任のはずもなく、越人が追いだされている可能性がありそうです。
「勝者の善行」と「敗者の悪行」は宣伝されても「勝者の非道」はめったに記事にならない。

もし、水稲伝播がBC1000に遡るのであればこのとき脱出した越人が運ぶ可能性大。
この後、呉越は宿敵同士となって戦が続く、その時代では「呉人」はまだ水稲を持たないと思います。
BC473に呉(夫差)が越(句践)に破れ、今度は呉側の農民が多数渡来する可能性大。
この時代では呉の農民も発達した水稲技術を持っていたと思います。

稲イネと米マイ(呉音)、不確実ですが古越語では稲「ine」のようです。
主食に複数の文字や発音があるのは、異なる言語圏の稲が列島で複合しているからだ、と考えています。
コメは不明、東南アジアなど広い範囲のチェックが必要そう。
(韓国語でイネ近似はあるようですが、マイに相当する音があるかどうか不明)

沿岸であっても農民が船を操って東シナ海を渡れるとは考えにくい。
長い戦乱なら海人の協力を得るゆとりはあったと思います。
所持する宝物はなにもない、生活用具と水稲技術。


これらの民間人を運んだ海人グループ、それが書紀神話での大己貴(大穴牟遅)や少彦名の先祖だと考えています。
(神話での神皇産霊尊に相応する、海の文化を示す)
どんな船を使っていたのか、中国史書は内陸国の書で海の記録がない。
東南アジアでも活動していた人々でしょう、フィリピンにはネグリトという小人族あり。
少彦名、天乃羅摩船、羅摩=ガガイモ=参考図 ガガイモの種と綿毛。
ずばり丸木舟+帆ですね、帆はタパ布だろうな。

農民の到着した地域の情報は海人を介して呉や斉にも伝わっているはずです。
これが後に天之忍穂耳や天穂日に伝わって、それぞれの目的地になったと考えています。


佐賀県唐津の水稲の菜畑遺跡は縄文貝塚もあってBC1000にも遡る。
支石墓は半島系とされますが菜畑の支石墓から発見された頭骨は西日本の縄文人に類似だそうです。
縄文時代から半島と交流があったのでしょう。
菜畑から農耕用具はたくさん出ていますが武器は石剣若干のみ。
スサノオ登場以前の平穏時代を示すと考えています。

他に宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡などが並び、縄文~後漢時代での住人の変化の特徴を示す。
出土の甕棺は小型で初期型とされ、吉野ヶ里のごとき大型甕棺はありません。


古事記に大年神の子等の系譜が書かれています。
そこに書かれる神活須毘神とその妻の伊怒比賣(イヌ、イナ、イド、稲に直結と推定)。
神活須毘神は音の類似から五男神三女神神話の活津彦根ではないかと考えています、
(神話での高皇産霊尊に相応する、陸の文化を示す)
五男神の天津彦根や熊野久須毘も三女神を含めて歴史のかなたにおぼろではあっても姿がみえているのかもしれない。

日本海沿岸の山東半島系の畑作と北九州沿岸の長江系の水稲が遠賀川流域でドッキング。
弥生文化(遠賀川式土器)となって全国に広まっていった。
遠賀川流域は農耕適地とみえますが、現時点ではさしたる遺跡はないに等しい。
にもかかわらず遠賀川式土器は全国に分布する。

昨今の災害が示すごとく、遠賀川流域の集落は弥生末期の異常気象に伴う大洪水に襲われてすべてが押し流され埋没してしまったためだと考えています。
(人口急増とAD100頃からの寒冷化が飢饉を生じさせ倭国騒乱のはじまりとなる)
陸の痕跡は消えてしまったが、海の痕跡は宗像の三女神として残った。

穀物関連神話は遠賀川流域の事象を源にし、縄文と農耕の結合した文化。
これをアマテラス(文化)と称しておきます、天照大神の源流。
(消えゆく九州縄文の象徴が月弓神(月読神))

書紀神話では天照大神やスサノオが五男神三女神より先に登場しますが、物語創作の都合によるご愛敬といったところ。
降臨神話での天照大神と高皇産霊尊の上下関係があいまいになるのもこのあたりに理由あり。

続く

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 
 
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