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皇極天皇の譲位について 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2019年 4月 3日(水)08時54分47秒 ah224026.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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5.乙巳の変と孝徳への譲位
 見事な変の成功には、天皇の陰ながらの協力があったはずである。この変での皇極の退位は必要なかったが、他の豪族や世間の目もあり、軽皇子に譲位をすることにした。この譲位は全権を移譲したのではないのは、孝徳死後に、重祚していることからも推測できる。
 この譲位の目的は、皇極の目標の達成に集中するためであったと思われる。飛鳥の都市空間の建設には多くの人民を各地から徴発してくる必要があったが、部民制の下では思うようにいかなかった。部民の持ち主の了承が必要で会って、収穫期だ、災害の後で人手が足らないとか、さまざまな抵抗にあったのだろう。現代で言えば、軍事基地を造るのに、都道府県の許可が要るのと同じことだ。
大化の改新の詔の第一条がまさに部民制の廃止である。このお触れで廃止されたとは考えにくいが、人民の動員は少しはやり易くなったのだろう。これが孝徳天皇に皇位を譲位した最大の理由であった。この力仕事を男弟にやらせたのである。
改新の詔は後世に変えられている可能性があるが、今後の国の形を示したものである。

それでも難波の宮の造営に8年ものの物時間がかかっている。掘っ建て柱でこれである。大寺は瓦葺きだったようで、更に時間がかかったのである。
おそらく孝徳9年には飛鳥宮が完成したのである。板蓋宮である。これで皇極・中大兄・間人皇后と役人達も飛鳥に引き上げた。孝徳は置いてきぼり、実権を失った。中大兄に譲位を考えたのであろうが、有間皇子を後継にしたいとの想いがあり、踏みとどまったのであろう。
以上
参考 『天皇と日本の起源』遠山美都男(講談社現代新書) 『古代王権論』義江明子 岩波書店
 
 
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