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Re: 邪馬臺の語義

 投稿者:Indukmu  投稿日:2021年 9月 3日(金)23時15分16秒 ap1-233-25-127-153.bbtec.tokyo
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  > No.889[元記事へ]

クラリンさんへのお返事です。


日外親王について私の思うところを申し上げます。

まず第一に。
日外親王という名は、畿内中央の資料には出てこない模様です。
また、日外親王は現代に編まれた郷土資料に記されているものしかネット上にはありません。現代にいたるまでは日外氏一族の口碑によるものと考えられますが、それすら私には確認が取れていません。

日外親王についてネット上で一番詳しくデータが拾えるのは以下のサイトのページです。
■№412、妙安寺城|城郭探訪

h□□p://shiro728.web.fc2.com/shiro/hyougo/myouanji/myouanji.html

上のページより必要事項をまるごと引用させて頂きます。

――
文明元年(1469)日外親王は、京から淡路島の志筑に渡られ、中田の里に入られました。
堀に囲まれた小規模な御所山に住まわれた日外親王の皇子、内蔵助のときその南側にあったお城のお殿様が、世つなぎが無く困っておられました。お城のお殿様から、何度もお城をついで下さらないか。と、再三使いの人をよこしたり、お殿様じきじきにおこしになられ、内蔵助もお城をつぐことになりました。城山の山頂は、たて54m・よこ21mあり、現在の妙安寺の平地を土居といい、ここにお殿様が住んでおられました。そして何かある時は、城山にある館に出ていかれ、御所山の麓には高場があり、馬がけがよく行われていました。天正年間の蔵之助のとき敵に攻められ、とうとう滅ぼされてしまいました。京の都を逃れ、平和を願って生き抜かれた日外親王様を、そのまましてはもったいないと、その魂をお祭りしようと、村の人たちの願いで建てられたのが今の妙安寺です。
妙安寺城が落城して殿様の内蔵助は百姓になり、その子の又右衛門は、郡家城の田村氏に仕え奉行をつとめ、その子三郎左衛門も父のあとをつぎ、二男の甚三郎は分家をしました。今でも日外(あぐい)・安居(あぐい)・安居院(あぐいん)と
名のっている子孫が淡路各地に住んでおられます。30数年まえ、日外一族が30数人、日外親王の四百五十年祭を妙安寺で盛大にとりおこない、今にそのお心が生き続けられています。
郷土の城ものがたりより

築城者:日外内蔵助 文明年間
所在地:兵庫県淡路市中田

――

長々と引用させて頂きましたことを感謝いたします。

はたして日外親王とは何者なのか?
 
 
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