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Re: 二王後制9

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 4月 2日(月)09時21分18秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.572[元記事へ]

 日前国懸神が現在地に鎮座する際、先に鎮座していた伊太祁曽神社が別の場所に遷っています。和歌山では、これを 国譲り と呼んでいます。

 『日本書紀』では、饒速日尊は神武東征の際、大和を支配していた長隋彦を殺して、神武天皇に帰順したことが語られています。神武東征の最大の功労者とも言えます。大和の人々から見ると裏切り者とみている方もおられます。

 なお、日前国懸神宮は現在は日前神と国懸神の二柱の神を祀っており、共に天照大神としています。朱鳥元年(686)、天武天皇が奉幣を、紀伊国国懸神と飛鳥四社=飛鳥坐神社の四神(大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神)、住吉大神に行っています。紀伊国は国懸神の一柱のみにでした。その頃の日前国懸神は日神である国懸神という意味だったのでしょうが、奈良時代以後に、日前神と国懸神に分離したと思われまます。


 『日本書紀』神武さんが東征の開始前に相談したとされる塩土老爺が「東に美き地あり。青山四周せり。その中に亦、天の磐船に乗りて飛び降る者あり。是れ、饒速日をいうか。」とあり、これが東のよき地の大和への移動を決断させたのです。奈良時代に編集された『日本書紀』に、神武天皇の前の大和の支配者は、饒速日はっきりと書いてあります。


 弥生時代を代表する祭祀道具に銅鐸があります。
 大阪では。四条畷市 八尾市、高槻市、茨木市などから出土しています。交野や枚方からも出てくると思います。この銅鐸の製造にかかわったのが物部氏と言われており、饒速日命の子孫といえます。

 
 

人形 土偶 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月24日(土)09時40分10秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.577[元記事へ]

 5. 土偶以後
 縄文晩期には土偶は終焉して、晩期から弥生時代にかけて、土偶型容器や木偶が登場してくる。晩期から弥生時代にかけて初生児骨や歯を収めた容器形土偶が関東西部から中部地方にかけて分布している。土偶の穴の使い方の参考になる。
 また、役に立たない者を木偶(でく)の坊と言うが、木偶は神像である。弥生時代に登場する人形である。この時代には石偶もある。土偶からの形と信仰の流れであると思われる。
 東北に分布するオシラサマもこれらの後裔と考えることができる。


 オシラ様は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。「オシンメ様」や「カノキジンジョウ(桑の木人形)」とも称される。
 神体は、多くは桑の木で作った1尺程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。

土偶型容器       木偶         オシラ様
 

人形 土偶 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月22日(木)16時37分22秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.576[元記事へ]

4.釣手土器と顔面把手付土器(以下釣手土器と言う)
 多くの釣手土器は腹部が油脂により焼けたようになっている。釣手土器の発見数は少ない。発見される住居跡は少ないが、発見された処からは土偶や石棒の出土が多い。ともに祭祀の対象だった。
 顔面付の把手土器はその腹の中に食物をため込んだ女神にも見えるが、腹に子を宿していると考えることができる。その腹の中が焼かれるということは、迦具土神を連想させる。土器は伊邪那美神である。




『古事記』次に火之夜芸速男神を生みき。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)と謂ふ。この子を生みしに因りて、みほと炙かえて病み臥せり。たぐりに成りし神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神、次に屎に成りし神の名は、波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘売神。次に尿に成りし神の名は、弥都波能売神、次に和久産巣日神。

 ミシシッピ河 ナチェズ族伝わる話。
 昔、一人の女が二人の少女と暮らしていました。食べ物がなくなると、女は籠を持って小屋に入り、じきに籠をいっぱいにして出てきました。
ある日、少女達が好奇心を起こして小屋の中をこっそり見ましたが、からっぽでした。 「どこから、食物を持ってくるのかしら。小屋の中で何をしているのか、こっそり見てみましょう。」
  しばらくして、食物がなくなりました。女がいつものように小屋に入って行きました。少女達はこっそり後をつけ、壁のすきまから、中の様子をのぞき見しました。 すると女は、籠の上に立ち、股を開いて、身体をふるわせていました。そうするとガサゴソと音がして、籠はたちまちトウモロコシでいっぱいになりました。
この様子を見ていた少女達は、「あんな汚いものを食べるのはよしましょう。女の大便を食べさせていたのね。」
 女は食事をととのえましたが、少女達は食べようとはしませんでした。覗かれた事を悟った女は言いました。「これが汚くて食べられないのなら、私を殺して、死体を燃やしなさい。そうすると夏になったら、その場所から、いろいろなものが生えてきます。それらを畑に植えなさい。実が熟すと美味しい食物になります。それを食べて生きていきなさい。
  少女達が言われた通りにすると、女の死体を焼いた地面から、夏になると、トウモロコシ、カボチャ、豆が生えてきました。

 この物語は、穀物起源説話の死体化生神話に加えて、焼き畑栽培の要素が入ってきている。灰の中からの発芽。更に言えば、糞尿を肥料としていた痕跡も感じられる。

顔面把手付土器       釣手土器
 

人形 土偶 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月21日(水)16時56分10秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.575[元記事へ]

3.土偶
  人体を極端にまで抽象化したフォルムであるが、土偶に崇高さを求めたと思われる。さらに、妊娠・出産をテーマとした女性像である。女神である。また、子供のオモチャとしても使われたのかも知れない。お人形遊びである。
 何故、妊娠・出産が重視されたのか。それは、集落の存続のためと考えられる。幼児死亡率だけではなく、一般に死亡率が高い時代であり、女性一人が生涯に数人の赤児を出産しなければ、集落の継続的存続はできなかったであろう。


  土偶の中には頭に蛇を巻いたもの、眉が月のようになっているもの、殆どの遮光式土偶もそうだが、頭に穴があいて胴体は中空のものがある。これらの要素から推測できることは、月と蛇は再生と水の運搬を示し、中空はそこに水が入るということで、月―蛇―水の関係を土偶が語っていると思われる。土偶の顔は若干上向きになっており、口は丸くなっている。雨を受けようとしているようにも思われる。
 中空はそこに赤児が宿るとも考えられる。
 四才の幼児が「僕が死んだら、また生んでくれる?」と質問してきたことがある。幼児が再生を信じていたことがわかり、大変驚いたことを思い出す。おそらくは縄文人も再生を信じており、生まれてきた赤児を祖先の誰かと思っていた。それで赤児が死ぬと、せっかく再生してきた祖先を短時間で返してしまったことを詫びて、夫婦の通り道に赤児を埋めて次の妊娠を願ったという。
 土偶は見ようによっては悲しそうな顔にも見える。丸い口はムンクの叫びを彷彿とさせる。

  頭部に蛇         眉月   頭に穴 中空土偶
 

人形 土偶 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月19日(月)15時34分28秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.574[元記事へ]

2.ウケモチ神話
『日本書紀』 天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

 この神話は、①自分の身体から食物や貴重な物が出る。②殺される。③死体の色々な部分から種類の違う農作物が発生する。にまとめられる。これとよく似た神話がインドネシアで採取されている。
 ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

 保食神の話で挙げられている作物は焼畑農業で作られる物に加えて、発達した農業を思わせる牛馬や稲がある。古栽培時代に伝承されてハイヌウェレ神話が奈良時代にかけて発展して来たものと思われる。
 和歌山に伝わる名草戸畔の伝承にも、頭・腹・足とバラバラに埋められたとされる。
 縄文時代中期の土偶が打ち壊されて、破片が別々な場所に処理された遺跡が多く発見されている。土偶は縄文初期の段階でも作られており、乳房の誇張的表現などが見られ、女性をかたどったものと考えられる。
 

人形 土偶 1-2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月18日(日)09時56分11秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  滋賀県大津市瀬田南大萱町 相谷熊谷遺跡

茨城県北相馬郡利根町 花輪台貝塚
 

人形 土偶 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月18日(日)09時53分1秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  1.地母神
 ヨーロッパでの三万五千年前のホモサピエンス・サピエンスの登場と共に出現した女神像は、乳房から出る乳で養われている赤児、腹に妊娠されている胎児、生まれつつある子などに慈愛の目を注いでいるように見える。

縄文時代早期の土偶は素朴な形ですが、乳房や腹は妊婦の様子をしめしている。

 地母神信仰は人類的信仰であり、本能的に人間に存在しているように思われる。

オーストリアのヴレンドルのヴィーナス

南フランスレスビューグのヴィーナス
 

二王後制8

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月13日(火)09時42分4秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.570[元記事へ]

 銅鐸祭祀はヒミホの登場の頃に終わっています。お祭りは鏡に移っていったのでしょう。

 銅鐸の分類に入らない銅鐸、小銅鐸があります。高さ15cm以下のものとされています。銅鐸の時代が終わり、古墳時代にはいっても、小銅鐸のお祭りがなされていました。それが、お墓かも出ています。個人的に崇拝していたのかもしれません。これを隠れ銅鐸信仰と呼ぶことができます。千葉県、東京都、大阪府など。


 さて、紀伊国造の話にもどります。

 饒速日の降臨にお供をした天道根命は、紀伊の国造を神武天皇から任じられています。天道根命は神皇産霊命の五世孫。天神。これは、物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀』のなかの『国造本紀』にでています。
【先代旧事本紀】国造本紀
紀伊国造 神武朝の御世に、神皇産霊命の五世孫の天道根命を国造に定められた。

 紀の国に伝わる伝承では、天下った際、紀の川の下流の木之本に立ち寄り、日前宮の日像鏡を祀り、それから琴浦におもむき、毛見に至ったとあります。
木本八幡宮 和歌山市西庄
濱宮(はまのみや) 和歌山市毛見

『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。

 紀国造家に伝わる『国造家譜』に次のように書いてあります。『紀伊続風土記』に採録。
 ① 紀伊の一の宮である日前国懸神が天降りました時に、天道根命は従臣としてつかえ始めた。
 ② 神武東征の時、両大神の神徳によって群慮を平定し、その賞として天道根命は紀伊国を賜り、国造に任じられてより、両大神に奉仕した。

 また『先代旧事本紀』の『天神本紀』には、饒速日尊の天降りに防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る三十二神の一人柱として天道根命の名がみえます。天道根命がお供をしたのは、日前国懸神であり、それは即ち饒速日尊でもあったのです。
 

豊中歴史同好会3月度例会

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月 7日(水)11時20分9秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  3月10日(土) 豊中歴史同好会3月度例会
14:00 講演  「2017年の考古学・古代史学会」
森岡秀人先生

森岡秀人先生、考古学会の重鎮で、毎年3月の講演は、今年度の古代史学会の主な論文と考古学的な発掘成果を語ってくれます。聴きごたえのある講演だと思います。聴取をお勧めします。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/reikai.html
 

二王後制7

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月23日(金)11時15分30秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.569[元記事へ]

 物部氏の分派である伊福部氏が銅鐸生産にかかわったと、谷川健一さんが、指摘しています。伊福部の フク は 風を吹かすの吹くで、金属を溶かしたり、精錬したりするための鞴(ふいご)を動かすことです。青銅を溶かして型に鋳流し込む、そうして銅鐸が造られました。伊吹山の麓の関ヶ原の東に垂井と言う地名があります。ここに伊富岐神社があります。伊福部氏の氏神です。近くから銅鐸が出土しています。
 伊福部神社は雷神として祀られています。銅鐸と雷、関係ありそうです。

 民俗学の谷川健一さん、故人ですが、『青銅の神の足跡』と言う名著があります。この中に 伊福 と言う土地の近くから銅鐸の出土が多いこと、また 伊福 という土地に鉱山がおおいことを述べております。

 枚方の川向こうの北側になりますか、茨木市の東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が出土しています。茨木市から銅鐸5個、高槻市 2個、豊中 2個、吹田市 1個 出土しています。

 銅鐸祭祀は-150年頃から始まり、当初は聞く銅鐸すなわち鳴らす銅鐸でした。紀元ゼロ年頃、聞く銅鐸が埋められました。銅鐸が地上から姿を消した時代があったようです。それから、銅鐸は大型化をして、所謂見る銅鐸の時代が来ました。銅鐸祭祀が各地方に及ぶ時代です。銅鐸時代が後期になると、南紀や駿河や遠州で大きい銅鐸がつかわれたようです。
 銅鐸の県別の出土数です。
兵庫県 56点 島根県 54点  徳島県 42点  滋賀県 41点  和歌山県 41点

 島根県に多いのは、大国主を奉じる人々も銅鐸祭祀に参加したということでしょう。
 

二王後制6

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月20日(火)20時24分35秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.568[元記事へ]

 ニギハヤヒ 物部氏の祖先 皇祖であるニニギの命の兄とされます。ニギハヤヒとニニギ、共に天照大神の孫にあたります。

 饒速日は北九州の遠賀川流域に居りましたが、伊都国や奴国などが力をつけて来て圧力を受けたので、良き地を求めて東遷していきました。弥生前期の遠賀川式土器を畿内に持ち込んだのでしょう。物部氏については、鳥越憲三郎さんの『大いなる邪馬台国』に詳しく書かれています。
 饒速日は堺の大浜海岸(大浜公園)に上陸し、八尾に移り、河内に拠点を置き、それから大和に入りました。

 八尾の恩智神社は物部氏が最初に斎祀った神様で、ミケツ神です。食べ物の神様です。この神社のお祭りで神輿が泉州堺の大浜まで行き、そこで禊を行います。お祀りとは原始の姿の再現ですから、大浜上陸、八尾へ移動と推定しています。
 八尾から生駒山を越えて、大和郡山に入ったようです。矢田坐ク志玉比古神社があります。ニギハヤヒは櫛玉饒速日尊との敬称を以て呼ばれます。
 つまるところ、物部氏も東遷の先として大和をが選び、武力に勝る物部氏集団の圧力を受けて、出雲氏は大和から落ち延びて島根県の東部に拠点を移したのです。
 

二王後制5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月18日(日)19時19分46秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.567[元記事へ]

 朝廷は出雲国造に対し、国造の交替の度に神賀詞を奏上させています。服属儀礼、朝廷への恭順を誓わせています。奈良時代の 716年 が初めてとされていますが、もっと古い時代からとの説もあります。
一部を紹介します。
 己命(おのれのみこと)の和魂を倭の大物主の命と名を称え、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫の命の近き守神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築の宮(やほにきづきの宮)に静まりましき
大神大物主神      大神神社
高鴨阿遅須伎高孫根神社 高鴨神社
高市御県坐鴨事代主神社 河俣神社
加夜奈留美命神社

 古代には、朝廷の行う公式の祭祀は、旧暦 1月~9月と11月、12月に行われます。出雲で重要な神様が集まる月、所謂神無月の10月にはありません。出雲に対して気を遣ってきています。
 9月 神宮   10月出雲
11月前  相甞祭 天皇が秋の農作物(稲など)の収穫を祝う神事で、神々と天皇とが供饌しあうことから「相嘗」と称される。
11月後ろ 収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。

 大国主を奉じた政権、神話では 国譲り で 大国主は政権を譲ります。天照大神に政権が移譲されるようにありますが、実際には、武甕槌と経津主と言う物部の神が国譲りを迫り、譲らせます。この神々は物部氏の神です。
 

二王後制4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月16日(金)19時04分49秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.566[元記事へ]

 奈良の桜井市に出雲と言う場所があり、天穂日はそこに居住したものと思われます。従って出雲氏を名乗ったのでしょう。
 その傍証としては、お相撲の野見宿禰をご存じだと思いますが、当麻のケハヤと相撲を取り、勝つのですが、垂仁天皇が出雲の野見宿禰を呼べと命令したら、その日の内に現れているように読めます。野見宿禰が島根県ではなく、大和にいなければ無理な話になります。
 天穂日が拠点としたかも知れないダンノダイラ。 http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm

 国譲りの神話、有名な「出雲の国譲り」です。経津主と武甕槌の神が大国主に国を天孫に譲るように談判をします。これらの神々も物部ゆかりです。

 

二王後制3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月14日(水)17時08分3秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.563[元記事へ]

 次の時代には、物部の祖である饒速日の勢力が登場し、天穂日は大和から出雲に逃れます。丹波を経由して出雲に行ったようです。

 出雲に根を下した天穂日は、出雲で大国主を祀りました。また、出雲臣の祖となります。後に出雲国造家となり、出雲大社の宮司家の祖神となったのです。宮司家は千家家と北島家として現在まで連綿と続いています。
 宮家の高円宮の次女の典子さんが出雲大社の宮司家の跡継ぎにあたる千家国麿さんと結婚したことは記憶に新しい所。2000年を超える時を経ての結びつきとなります。
 この夫婦、目下別居中のようで、さてどうなることやらです。

 天皇家は125代、千家家は84代、しかし千家家の方が古いとされています。天穂日は神武天皇より前の時代の人ですから。
 古代の天皇の在位年数は平均約10年、これは兄弟相続もありますから短いのです。出雲の千家家は親子相続のようですから、一代25年くらいのなります。
 

Re: 高橋神社(和歌山市)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月12日(月)13時32分10秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.564[元記事へ]

いずみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。機会があれば、再度詣したいものです。
 

高橋神社(和歌山市)

 投稿者:いずみ  投稿日:2018年 2月12日(月)11時17分44秒 119-229-136-81f1.wky1.eonet.ne.jp
返信・引用
  3年ぶりに和歌山市の高橋神社へお参りしてきました。

神奈備様のコメントにも
「色が奇妙に赤く、後ろの森の緑にくっきりとしている。 この神社はただならぬ神社である。」
とありますが、2年ほど前に改修されており、特徴的な赤い屋根が、落ち着いた濃緑に葺き替えられていました。
それでも、ただならぬ雰囲気が残っているのがよかったです。
http://kamnavi.jp/mn/kinki/takahasi.htm
 

二王後制2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月10日(土)10時43分39秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   天穂日は北九州から各地の大国主を訪ねながら大和に入り、大和の大物主と出会ったのでしょう。大物主の子孫の三輪氏や鴨氏と協力し、大国主・大物主を祀ったということです。これが神武以前の第一次政権と言えるでしょう。大和の東は三輪氏、西側は鴨氏が統治し、天穂日が調整役といえそうです。

 地方地方に大国主がいて、彼らの連合がこの国の形で、これは邪馬台国が多くの国に分れていたことを考えれば、妥当な推測と思われます。

 天穂日は今の国連事務総長のような調整役だったのでしょう。そういう意味では大国主連合の総理大臣のような存在でもあったと言えるでしょう。とりあえず、争いごとの起こらない平和な国にしたい。

 
 

二王後制1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月 8日(木)17時26分25秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   大国主 弥生時代の神、国土開拓、農業、医術の神様。さらに女好き、女も好きになるキャラ、艶福家、その魅力を利用して各地の女王と結婚しその数、実に180柱、それによって平和的に国の統一にも力をつくしました。

ここに、天穂日が登場します。

 高天原の最高神である天照大神の命令で、天照大神の次男とされる天穂日を天降らして大国主に支配地を譲らせようとさせましたが、大国主に魅力を感じて彼の側についたことになっています。大国主に「媚び諂う」とあります。できれば大国主から葦原中国を譲ってもらいたいとの気持ちはあったのでしょう。それよりも開拓にいそしむ大国主に惚れた、男が男に惚れたというように考えています。それで大国主を徹底的に祭り上げて、実際の権力を横取りしようと企んだのかもしれません。これが神話となっています。
 

戌の話4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月22日(月)20時36分23秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4 空海
空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれた。幼名は真魚(まお) といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の大学に学ぶ。
しかし大学で教えられる儒学では社会の矛盾を解決できないのではと悩む。その時一人の僧と出会ったて、大学をやめ、修験者の中に身を投じて自然の中で荒行を積むようになった。正式に出家したのは20歳の時。やがて空海と名乗る。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵 求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとされる。
 空海は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なこ とも学んだ。二十歳前半のころ、経蔵の中で「大日経」を発見、内容 に興奮。しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいなかった。彼は中国へ渡ることを決意したとされる。
25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていない。
和歌山市の田福寺の瀧智真住職さんの独特のものの見方。
 空海中国密航説である。大師の若き頃の空白の数年間、また中国へ遣唐使の時の文章、会話など語学等併せて考えると留学以前に一度密航していたと想像できるとの説である。
また渡航に必要 な巨額な費用は、高野山の水銀朱であったと思われる。

空海 は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でしたが、実質2年で目標を達成し、帰国します。

さて、若いころに高野山について熟知していた空海には案内人が必要だったのだろうか。このあたりは高野の地を浸食したい空海の弟子たちのでっち上げた物語と思われます。
しかし壇場伽藍に山王院と丹生明神・高野明神が祀られています。丹生都比売神社も同様の神が祀られています。この高野明神の正体は一体何でしょうか。そうです、山の神、弘法大師空海のことだと思われます。
 

戌の話3 

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月14日(日)09時52分27秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3 『今昔物語』から
 弘仁七年(816年)空海は大和国宇智郡に至り一人の猟師に会いぬ。形面赤くして長八尺許なり、青色の小袖を着せり、骨高く筋太し、弓箭を以て身に帯し、大小二つの黒き犬を具せり。此人大師を見て曰く、我は是南山の犬飼なり、三鈷の所を知れりとて、犬を放ち走らしむるの間、犬も人も忽失せぬ。
 この犬飼を狩場明神とも、また高野明神、高野御子明神とも言う。
南山の南とは
南宮の本山は南方刀美神を祭神とする諏訪大社で、その南宮(下社)を言う。美濃の南宮大社(仲山金山彦神社)は中の宮とされる。児の宮は伊賀の敢国神社、西の宮は摂津の広田神社の摂社の南宮神社をあてる。
 また南山(ナンザン)とは、比叡山を北嶺と呼ぶのに対する言葉で、高野山の別称である。
 さて、空海と狩場明神との出会いは、五條市の犬飼山転法輪寺の場所であったとされる。近くには阿陀比賣神社(阿多隼人の祀る)も鎮座、狩場明神は犬祖伝説を持つ隼人の民であったと思われる。

以下、江戸時代の反仏教の国学者の創作か。
その時、空海と高野明神との間に取り交わされた借用書があったというのです。高野山の神からこの土地を十年間の約束で借り受けた空海は、あとでこっそり「十」の文字の上に「ノ」の字を書き「千年」にしてしまい、高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応
じなかったといいます。
また別の説に千年の借用書で借り受けましたが、白いネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなってしまったということです。

 

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