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Re: 「○○丸」の付く地名

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 8日(月)21時33分45秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.597[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。

 丸地名、平地が多いのですか。
 私が訪れたのは、前原の王丸の白木神社「現在の祭神は五十猛命」で、意識して行った唯一の丸地名の場所です。山の中腹に鎮座していました。平地hが主だとは意外でした。勉強になりました。
 実は、福嶋さんのコメントを期待しておりました。誠にありがとうございます。
 
 

「○○丸」の付く地名

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2018年10月 8日(月)18時19分29秒 p6130-ipad109fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  神奈備 様、かたばみ 様、横レスに亀レス失礼します。

標題については、一家言ありましたが、公開講座の講師(90分×2=休憩を挟む)がたて続けに二回も控えて居ましたので、遅くなりました。

 拙著『卑彌呼が都した所』1996年・葦書房 の記述を抜粋引用。

第一章 日本語(九州弁)と韓国語の関係

*「田主丸」(福岡県浮羽郡=現・久留米市)………48~49頁

“??-??”(タンシン-マヌル)=貴方の村。
“??-??”(タンシン-マヌル)の音(おと)が漢字を使う前から在った。その語源が忘れられた後、その音に「田主丸」と当て字を付けたので、字面に惑わされ、「タヌシマル」の訓みに変わってしまった。福岡県浮羽郡田主丸町の事である。ご多聞に漏れず、怪しげな中世以降の故事付けがある。曰く、領主の菊池丹後入道何某かが、領民が「楽しく生まれる」事を願って付けた、と。胡散臭い事この上もない。
 ≪貴方の…≫とは、名を言わなくても判る人「卑彌呼」である。元もと国王でない「卑彌呼」の為の直轄「神田」の事である。

*「~丸」
 “~??”(~マウル)=~村。福岡県内には、この「丸」が付く地名が、水田地帯に非常に多い。
 これは、「~原(ば?)」との相違点の水利がある地域を指している様である。
・「福岡市西区」=太郎丸、石丸、丸。・「早良区」=次郎丸。
・「宗像市」=王丸、石丸、武丸、三郎丸。・「新宮町」=太郎丸。
・「志摩町」=西小金丸。・「前原市」=王丸。
・「那珂川町」=五郎丸。・「甘木市」=金丸、千代丸。
・「夜須町」=鬼丸。・「朝倉町」=乙丸、猿丸。
・「杷木町」=星丸。・「宝珠山村」=千代丸。・「小郡市」=今朝丸。
・「北野町」=仁王丸、十郎丸、乙丸。・「久留米市」=五郎丸。
・「吉井町」=徳丸。・「浮羽町」=糸丸。・「大川市」=三丸。
・「大牟田市」=四大丸。・「鞍手町」=太郎丸。・「宮田町」=六郎丸。
・「若宮町」=黒丸、福丸、金丸。・「飯塚市」=乙丸。・「頴田町」=石丸。
・「穂波町」=太郎丸。・「筑穂町」=四郎丸、九郎丸。・「桂川町」=九郎丸。
・「金田町」=福丸。・「香春町」=松丸。・「赤村」=珠々丸、四郎丸。
・「川崎町」=筒丸。・「若松区」=乙丸。・「戸畑区」=丸町。
・「小倉北区」=三郎丸。・「八幡西区」=力丸町、永犬丸。
・「遠賀町」=千代丸。・「行橋市」=小犬丸。・「犀川町」=犬丸。
・「豊津町」=節丸。・「豊前市」=四郎丸、小犬丸、市丸。
・「築城町」=松丸、袈裟丸。・「椎田町」=外丸、岩丸、野々丸。
・「吉富町」=小犬丸。・「大平村」=薬丸。
計六十三ヶ所の「~丸」の地名がある。殆どが平地に在り、河岸段丘の一等地が飽和状態になった後、後発の入殖者が、仕方なく次善の場所として、争いを避けて住み着いた。河岸段丘の先住者も、新技術(製鉄、陶器=須恵器)の提供を条件に渡来人が住むのを認めた? <引用終わり>
*町村合併前の市町村名です。

※山付きの棚田、河岸段丘は勾配を利用して容易に水稲稲作用水が引ける。
低平地は洪水の氾濫で低湿地の荒野。未だ穀倉地ではない。
この洪水でも冠水はするが、流出とか氾濫域の砂利河原化しない次善の地に「~丸」の地は在る。近くに大小の河川は在るが、水耕稲作用水としては汲み上げないと使えない。
洪水で冠水した時の移動手段として、「船」は必需品である。蛋白源としての山の幸(狩猟=イノシシ、鹿)は先住者の物。自ずと、蛋白源は漁労に頼らざるを得ない。村落名を付けた船が、船舶名の「〇〇丸」の始まりであろう。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

以上、福島雅彦説でした。
 

Re: 渤海国 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 5日(金)09時11分2秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.595[元記事へ]

我が学生、高内弓、其妻高氏、及び男(むすこ)広成、嬰児一名、乳母一人並びに入唐学問僧、優婆塞一名渤海より転じて相随いて帰朝す。海中嵐にあい、舵師、水手、波のために没せられる。時に鎌束議して曰く、異方の婦人今船上にあり、またこの優婆塞、衆に異なり一食数粒にして日を経て飢えず、風漂の災は必ず是によるにあらずや、乃ち水手をして内弓が妻、並びに嬰児、乳母、優婆塞の四人を掴み上げて海に投げうつ。漂流十日にして隠岐の国に着く。
 それにしても、毎年に近いペースで入京してくる渤海使について、その滞在費や接待、朝貢への返礼と国家財政に関わる程になり、渤海使の受け入れの是非まで問題とされた。
 七六三年、第六回の渤海使、淳仁天皇は五位以上と渤海使、それに百官の主典(令制官職の四等官のうち最下等の官)を朝堂に集めて宴会を開いた。
822年淳和天皇の代になると、入朝は一紀(12年)に一度と通告し、来ていた使節を入京させなかった。蒙古犬ら4匹のみを受け入れた。
 

渤海国 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 5日(金)09時09分49秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4. 三代目大欽茂
大武芸王は軍事活動を主としていた。737死去し、第三子の大欽茂が即位、彼は56年間の在位の王で、文化面に活動した。平和な時代が来ている。
日本では藤原仲麻呂(恵美押勝)により新羅征討計画が759年に渤海が和平路線へと方針変更もあって挫折。
大欽茂は唐に朝貢使を50回も派遣した。そお間に大量の漢籍・仏典を入手し、多くの留学生を送った。渤海は一層繁栄し、名声は高まった。渤海と唐との関係は唐の立場も強化した。ここで党は渤海国として認めた。
日本への渤海使の役割は交易に集中、毛皮を持ち込み、繊維製品を持ち帰る交易が続いた。日本では毛皮ステータスシンボルとなっていた。高位者でないと毛皮の着用はみとめられなくなった。渤海は経済的利益を優先するべく、敢えて朝貢の形を取った。
航海術はそれほど高くはなく、未だに迷信が横行する時代だった。755年にこのような悲劇が記録されている。


 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年10月 5日(金)09時07分3秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.593[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。


ありがとうございます。
  先日NHKでごぼうら貝を沖縄から列島へ運んだ筋骨隆々の縄文人の話がありました。この人々が海人族の一員だったのでしょう。黒潮に逆らって南下するのは大変な力仕事のようです。五島列島から出土したようです。

 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年10月 4日(木)17時44分8秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  日本海沿岸、遠賀川以東~若狭湾に至る沿岸部から土笛が出土しています。
これに重なって綾羅木式土器が出土。
東京国立博物館特別展
http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2014/02/21/綾羅木郷3

今のところ半島での状況は不明ですが、綾羅木式土器と土笛は同じ文化圏の人々でしょう。
考古学的には弥生前期後半~中期初頭とされ、春秋戦国のはじまるBC700頃以降の到来が推定できる。
山東半島は畑作がメイン、山陰のサヒメの畑作伝承はこの人々を源にする(のではないか)。
土井ヶ浜の遺骨は山東半島の人々に類似、ここも土笛と同じ集団(だと思う)。
半島系遺物もありますから半島南岸経由。

BC700頃、周の支配力が衰えて各国が覇権を争い始める時代。
ある地域が他国に併合されれば農民が農地を奪われる、これが脱出の理由だと考えています。
BC600頃では中国全土が同様の混乱状態。
山東半島の斉はBC600頃から勢力を失う、ここから追いだされた農民は新天地を求めた。
半島に住んでいた人々が玉突き現象で追いだされることもあるでしょう。
農民が故郷を離れる、生死にかかわる事情があったはずです。

山東半島から朝鮮半島南西岸へ、??なら簡易な船でもなんとか渡れる。
だが、対馬海峡ではそうはゆかない、漂流し山陰沿岸にばらばらに漂着した結果が若狭まで広がる土笛が示す、と考えています。
響灘以西に土笛がない理由でもあります。


最近の水稲のDNA研究から列島と半島では、列島側が先である可能性が大きい。
考古学的にも佐賀県菜畑遺跡の水稲が半島南西岸の松菊里遺跡より古い。
半島北部に水稲はない、すなわち陸伝いで伝播したのではありません。

長江下流ではBC1000以前に遡って周の太伯が越に下って呉を建国。
太伯は姫(キ)性で周の一族ですから遊牧系、水稲は持っていない。
単身赴任のはずもなく、越人が追いだされている可能性がありそうです。
「勝者の善行」と「敗者の悪行」は宣伝されても「勝者の非道」はめったに記事にならない。

もし、水稲伝播がBC1000に遡るのであればこのとき脱出した越人が運ぶ可能性大。
この後、呉越は宿敵同士となって戦が続く、その時代では「呉人」はまだ水稲を持たないと思います。
BC473に呉(夫差)が越(句践)に破れ、今度は呉側の農民が多数渡来する可能性大。
この時代では呉の農民も発達した水稲技術を持っていたと思います。

稲イネと米マイ(呉音)、不確実ですが古越語では稲「ine」のようです。
主食に複数の文字や発音があるのは、異なる言語圏の稲が列島で複合しているからだ、と考えています。
コメは不明、東南アジアなど広い範囲のチェックが必要そう。
(韓国語でイネ近似はあるようですが、マイに相当する音があるかどうか不明)

沿岸であっても農民が船を操って東シナ海を渡れるとは考えにくい。
長い戦乱なら海人の協力を得るゆとりはあったと思います。
所持する宝物はなにもない、生活用具と水稲技術。


これらの民間人を運んだ海人グループ、それが書紀神話での大己貴(大穴牟遅)や少彦名の先祖だと考えています。
(神話での神皇産霊尊に相応する、海の文化を示す)
どんな船を使っていたのか、中国史書は内陸国の書で海の記録がない。
東南アジアでも活動していた人々でしょう、フィリピンにはネグリトという小人族あり。
少彦名、天乃羅摩船、羅摩=ガガイモ=参考図 ガガイモの種と綿毛。
ずばり丸木舟+帆ですね、帆はタパ布だろうな。

農民の到着した地域の情報は海人を介して呉や斉にも伝わっているはずです。
これが後に天之忍穂耳や天穂日に伝わって、それぞれの目的地になったと考えています。


佐賀県唐津の水稲の菜畑遺跡は縄文貝塚もあってBC1000にも遡る。
支石墓は半島系とされますが菜畑の支石墓から発見された頭骨は西日本の縄文人に類似だそうです。
縄文時代から半島と交流があったのでしょう。
菜畑から農耕用具はたくさん出ていますが武器は石剣若干のみ。
スサノオ登場以前の平穏時代を示すと考えています。

他に宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡などが並び、縄文~後漢時代での住人の変化の特徴を示す。
出土の甕棺は小型で初期型とされ、吉野ヶ里のごとき大型甕棺はありません。


古事記に大年神の子等の系譜が書かれています。
そこに書かれる神活須毘神とその妻の伊怒比賣(イヌ、イナ、イド、稲に直結と推定)。
神活須毘神は音の類似から五男神三女神神話の活津彦根ではないかと考えています、
(神話での高皇産霊尊に相応する、陸の文化を示す)
五男神の天津彦根や熊野久須毘も三女神を含めて歴史のかなたにおぼろではあっても姿がみえているのかもしれない。

日本海沿岸の山東半島系の畑作と北九州沿岸の長江系の水稲が遠賀川流域でドッキング。
弥生文化(遠賀川式土器)となって全国に広まっていった。
遠賀川流域は農耕適地とみえますが、現時点ではさしたる遺跡はないに等しい。
にもかかわらず遠賀川式土器は全国に分布する。

昨今の災害が示すごとく、遠賀川流域の集落は弥生末期の異常気象に伴う大洪水に襲われてすべてが押し流され埋没してしまったためだと考えています。
(人口急増とAD100頃からの寒冷化が飢饉を生じさせ倭国騒乱のはじまりとなる)
陸の痕跡は消えてしまったが、海の痕跡は宗像の三女神として残った。

穀物関連神話は遠賀川流域の事象を源にし、縄文と農耕の結合した文化。
これをアマテラス(文化)と称しておきます、天照大神の源流。
(消えゆく九州縄文の象徴が月弓神(月読神))

書紀神話では天照大神やスサノオが五男神三女神より先に登場しますが、物語創作の都合によるご愛敬といったところ。
降臨神話での天照大神と高皇産霊尊の上下関係があいまいになるのもこのあたりに理由あり。

続く

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

渤海国 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月28日(金)20時40分44秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.591[元記事へ]

3. 建国
不満のたまっていた連中は挙兵、満州の奥地の山岳部にはいり抵抗。手に負えない唐は道路阻絶として討伐中止した。唐は則天武后の時代であった。
高句麗王族の大祚栄が698年、辰(震)国を建国した。民族自立に見える。後の渤海国である。高句麗の北半分に沿海州を領土とした。
唐から友好のよびかけに応じて次男を唐に送り藩屏下に入り、渤海郡王を贈られる。
718年、大祚栄卒す。長子・大武芸即位。総べての靺鞨族を配下にするべく動くが、北方の強力な黒水靺鞨は抵抗、唐と通交していた。
   大武芸は弟と折り合いが悪く、唐・渤海戦争になりそうだったが玄宗皇帝が兄弟の仲を説き、穏便に収めた。
大武芸は沿海州に版図を広げ、海を越えて日本との通商に便利な立地を得た。
   727年10月 第一回渤海使。出羽に漂着、24人の内、16人は蝦夷に殺され、残った8人が命からがら、国書と土産の貂皮300張を持って平城京にたどりついた。
   国書には、「高麗の旧居を復して、扶余の遺俗を有(たて)り云々」とあった。
   本音は新羅の頭越しでの軍事の提携だったようだが、高句麗国の後裔として友好関係を進めたいとのこととなっていた。この年に陰謀を企てたとして殺される長屋王も邸宅に招待し歓迎の宴を持った。渤海使8人を送り届けるために、舟を建造し、62人の送使団を編成、728年8月に送っていった。
 

渤海国 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月26日(水)15時41分40秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2. 高句麗と倭
4世紀末から5世紀初めにかけて、倭軍は半島で高句麗等と幾度か戦っていた。この頃から6世紀にかけて高句麗から倭国へ渡来してくる者があり、高句麗式積石塚が近畿関東に分布している。7世紀前半までは倭と高句麗は仏教など文化的な交流が中心であった。
高句麗は668年に唐と新羅の挟み撃ちで滅亡した。唐は高句麗遺民への懐柔策として、小高句麗を遼東に建国し、高句麗王族を王にすえた。さらに、渤海湾の北側の常州に高句麗の王族や靺鞨の族長などを集め、流刑地とした。
 

渤海国 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月24日(月)11時21分43秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  1. 前史
渤海国は、満州からシベリア・極東にかけての北東アジア地域に分布するツングース系民族が建国した国である。この民族は靺鞨・女真・扶余族とも呼ばれる。
この民族は、紀元前37年に朝鮮半島北部に高句麗を建国、686に滅びた。百済の王族も扶余系とされる。
沿海州に粛慎と呼ばれる人々がおり、天武5年(676年)に、新羅の使節が粛慎を伴って来訪した。国名を靺鞨と称したようで、6世紀末に随に遣史を送っている。
 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月24日(月)11時17分35秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.588[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

> NHKで「なになに丸」という船名があるけれど丸ってなに、というのをやってました。

残念ながら見逃しています。

 神社巡りで前原市の白木神社を訪問しましたが、そこの住所は「王丸」でした。
 ほかに福岡県で丸地名を挙げて見ます。
石丸 津丸 武丸 王丸 黒丸 丸 金丸 持丸 乙丸 楽丸 犬丸 恋ノ丸 徳丸 丸山 x郎丸 田主丸 など
 原をバルというのが マル に変化の説などがあるようです。 山間部に多いようだとされていますが、確認できていません。



 

弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年 9月21日(金)22時55分53秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  私の古代史観のスタート地点はスサノオと天之忍穂耳(天孫降臨)。
それ以前では歴史ではなく考古学とのあいまいな複合になります。
記紀神話における伊弉諾尊伊弉冉尊と天照大神。
縄文から弥生への過渡期、採集狩猟の暮らしから農耕への過渡期。

この時代に農耕を運んだ人々の詳細の特定はできない。
人々が故郷を捨てて未知の地へ移動(脱出)するには生死に関わる事象があったはずです。
ここでは寒冷化という環境変化、全盛を誇った縄文も衰退する時代。
この寒冷化が中国では春秋戦国の引き金となり、玉突き現象で半島から南下する人々も急増した。
考古学的には日本海沿岸に出土する「土笛」がそれを示す。

列島に広まる「出雲」の基礎になる文化、民レベルで縄文が農耕へ変化してゆく文化。
北九州に限るなら「アマテラス」の文化。
神話的には伊弉冉尊の体から生まれる穀物類がそれを示す。


なんらかの事象が源流にあってそれが神話化されている、とするならばスサノオ登場はなにが源流か。
箕子朝鮮滅亡BC194からの脱出王族、年代が確定できて歴史として扱えると考えています。
運んだ文化は特になし、運んできたのは王権の意識と武力。
農耕ではスサノオ側のほうが遅れていた可能性大(半島北部に水稲はまだない)。
神話では大気都比賣を殺害する状況ですね。
神話として降臨ではなく、天照大神の弟としたのは保有する文化に大差のないことが理由とみています。

そこに大己貴命(大穴牟遅命)や少彦名命などが運んできた中国文化が加わる。
東シナ海沿岸の船乗り、海賊にもなる商人、王権とは無関係の民間人。
その祭祀、医療、金属技術などが列島に広まっていった。
神話における地祇に相応する人々です。

余談
NHKで「なになに丸」という船名があるけれど丸ってなに、というのをやってました。
便器の「おまる」がどーのこーの・・うそこけっ(^^;
客人-まれびと、まろうど-めったにない貴いものといった意味を含むでしょう。
麻も呂も万葉仮名ですから平安初期か、一文字に合成されて「麿」の国字となる。
柿ノ本人麻呂、外来の学者だったのでしょう。
弥生あたりでの「まれびと」が神格化されると門客神かな、アラハバキがそうだと思います。

読みは同じで「丸」の文字も使われた、こちらは漢字。刃物であちこちから削る象形文字。
刃物を扱う意から武家の系譜で用いられたと考えています、平安中期か。
牛若丸とか、城の本丸とかですね。
大切なものといった意のみが残り、こちらでは客人の意は消えたのでしょう。

じゃあチコちゃん、便器の「おまる」はなんでおまるというのぉ?
ずばりでウンコをすることの「まる」=放、貴族御用達だったから御放でおまる。
おまるを御虎子と書く、なんで? うんこが虎の子供に似てるだと・・うそこけっ

続く

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 蘇我氏5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月 4日(火)19時11分0秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.586[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 ごぶさたです。ありがとうございます。

 中国が人工知能の研究をしていて、一番悪い「もの」は何かと問えば、中国共産党と答えたそうです。まともな研究のようですね。

 倭の五王を畿内王権と見なす立場での年代論、Uganet 倭の五王、
http://www.kamnavi.jp/uga/ugagoou.htm
によれば、応神は、390 394と考えています。好太王と戦ったのは仁徳と言うことになります。ここらは九州王朝とは別の史観ですので、置いといてください。

 大海人皇子の出自は面白い見方ですね。
 乙巳の変の首謀者として、孝徳天皇を挙げる議論が増えているような気がしますが・・・・

 

Re: 蘇我氏5

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年 9月 3日(月)18時04分54秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

おひさしぶりです。
「超大河小説の粗筋(^^; 」ができたところで、バタンキューとなっておりました。
最近の人工知能の進歩はすごいですね。物量作戦ともいえる大量のデータから「定石」に捕らわれない「考え方」が登場する。そして人間側がそれを参考にするようになってきた。

蘇我氏論は無数にありますが・・
記紀などの記述は、それをどこまで信じるかにつきると思います。
「どこまで」というのがやっかい、真偽が混じりあって判別が困難。
記述が詳細だから正確だとはいえない、かえって作為をみて危ない(^^;
平安初期の編纂者の思惑がたっぷり含まれる。

NHKの歴史秘話ヒストリアのよみがえる大化の改新/発見蘇我入鹿の棺。
私の注目は館跡の「オンドル式暖房」です。
半島特有で日本では他に例がない。
これが蘇我氏の館であるなら、蘇我氏の出自の決定的?状況証拠になります。

さて、蘇我氏シミュレート(^^;
さかのぼれば箕子朝鮮へ(持論:スサノオの出自)。
箕子朝鮮が滅亡し南へ脱出した氏族が「韓」を自称する(魏志韓伝)。
それが後の伽耶諸国、伽耶山周辺に蘇我氏の出自があると考えています。
(ただし、その蘇我氏に重ねられた近畿の小規模な別氏族が存在する可能性をみておきます)

応神386-402以降で半島では百済、高句麗、新羅に加えて伽耶の抗争時代。
百済は七支刀369の記録が残るけれど、その他の国々でも記録にない通行があったはずです。
三国史記では伽耶を新羅の一部としているけれど当初は新羅が伽耶の一部。

書紀は蘇我氏など渡来氏族を武内宿禰の子としていますが、偽系譜と断じておきます(^^;
武内宿禰は百済の軍人とみています。
書紀が武内宿禰を祖と書く系譜は渡来人であることを示すことになるわけです。

(応神系譜の)安康454-456と雄略は近畿の(仁徳系譜の)允恭439-454を制圧して、半島と列島に最大版図を築く。
武烈498-507没して継承者争い勃発。
越の男大迹王と筑紫の磐井王の戦いで磐井が敗れた後に、九州に登場するのが幼き欽明539-571。
どのような血縁かは不明なれど、欽明は近畿の王ではない。

この時代に近畿王となるのが継体(男大迹王)の子の安閑宣化、書紀の書くような短命ではない。
九州の欽明539-571と並立していた時代で、書紀が欽明を近畿王として扱ったために安閑宣化を短命に圧縮せざるを得なかっただけ(実際の事象との時間的食い違いを生じる)。

物部氏は尾張の天火明系譜と重なって拡大、弥生時代に若狭方面へも進出と考えています。
(当初の「物部集団」は海運と資源探査がお役目)
筑紫の磐井王を破った越の男大迹王の戦力は物部麁鹿火、尾張始発の物部氏は日本海系氏族(大国主系+応神系)と結合していたことを示すものでしょう。

若狭の籠神社(元伊勢)の籠目紋は物部氏が手工業者であることの状況証拠。
天火明の時代(BC100頃)から尾張と若狭周辺はつながっていた。
(元伊勢に関与する伝承を持つ社の分布を知りたいところです)

継体507-530が尾張から妃を入れているのも天火明系譜の流れからは自然なところ。
その子が安閑ー宣化であり、敏達もその継体の後衛となります。
(継体は大国主の子の鳥鳴海神の末裔ともつながりを持つと考えています)
書紀が手白川皇女などを偽装しなくてもその系譜は弥生から有名どころとつながっているわけです。

敏達死去で九州王の用明が百済系譜や伽耶系譜を率いて近畿も支配して再び大王となる。
(用明も九州王時代を含めれば短命ではない)
敏達の武力的バックボーンはやはり物部氏。
しかし、敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できなかった。
(上京する)用明が率いていた蘇我氏に物部氏が敗れたためだと考えています。
新文化=随と唐、文化力(最新兵器=軍事力)で九州が上位にあったからだと思います。

飛鳥京は伽耶系の拠点かな。先の蘇我入鹿の館とオンドルはその痕跡。
百済系の拠点は斑鳩宮、「奈良沼」をはさんで蘇我氏と対峙。
書紀が偽装する推古(厩戸皇子はおそらく実在)は欽明と伽耶系妃の流れでしょう。
隋書に見える「多利思北狐」は用明と百済系妃の子じゃないかな。
新唐書に目多利思比狐が随と通ず、とあります、目多利思比狐=用明でしょう。

百済と伽耶、渡来系譜の抗争・・斑鳩宮の焼失、山背大兄王の殺害・・蘇我氏による攻勢。
物部氏はすでに勢力を失っており、騒乱時代になった。
1年後に中大兄皇子が中臣鎌足とともに蘇我入鹿を殺害。
敵討ちともいえますが、蘇我入鹿殺害は寶皇女も(政略的)共犯だろうなあ(^^;

寶皇女の祖に漢王妹 大俣女王とある、おそらく百済系譜。
この時代を書紀は皇極女帝とするが、この時代では女帝(九州王+近畿王=大王)といえる権力者はなく、斉明にいたって女帝となったと考えています。
皇極斉明の二度の即位があったのではない、大王不在の混乱を書紀の都合でそう書いているだけ。

斉明は近畿にあって、(その子の)中大兄皇子が九州を受け持っていたと推定。
継体系譜の敏達の子の押坂彦人大兄皇子の流れにあったのが舒明629-641。
書紀は舒明を大王とするが、これも豪族間の覇権争いのなかでの人物のひとりでしかない。

斉明紀に用命の孫として高向王が書かれますが、これが天智の父であり母が寶皇女。
血縁として重要人物と思いますが書紀は高向王についてなにも書いていない。
書きたくないのでござろう(^^;
高向王の寿命と死因は不明、豪族間の抗争での若年死であろうと考えています。

高向王死して、寶皇女は幼い中大兄皇子(天智)をつれて舒明と再婚。
寶皇女と舒明の間の子が大海人皇子(天武)。
大海人の呼称は祖が日本海系譜の流れにあることを示す。
天智と天武が兄弟、というのは寶皇女の連れ子と、母が同じの意味ならば正しい。
寶皇女-皇極-(孝徳645-654内紛?)-斉明、この系譜は書紀が苦心したところだと思います。

斉明死して天智が大王へ。
勢力基盤は九州だと思います、居宅?がころころ変わる理由です。
死去地もおそらく九州、死去の状況があいまいである理由です。
壬申の乱で大友皇子が九州へ支援を求めた理由です。

天智の意識には、神武(九州統一、出雲系譜との混合)-応神(百済と伽耶への進出)-雄略-(筑紫の磐井)-欽明-多利思比狐があり、我らが最新文化への革新をもたらす、あり。
天武の意識には天火明(最古の近畿天孫、書紀に書かれない系譜、出雲系譜との混合)-継体-敏達があり、我らが最古の伝統ある氏族である、があったと考えています。

その意識の対立が壬申の乱の源。
流入する優れた文化、これに対する「日本」の意識の登場と対立でもあります。
その葛藤が日本書紀を作り出していると考えています。


斑鳩イカル・ガ、飛鳥アスカ(おそらくアス・ガの変化)、「ガ」は里といった意じゃないかなあ。
加羅(伽耶諸国、安羅、多羅)、新羅シンラ(シラギ)、百済クダラ、耽羅タンラ(済州島)・・
(新羅の原型は伽耶諸国の一部で新羅城シラキでしょう、AD300に倭国と国使交換して国名変更)
奈良の語源は南羅ナムラだと考えています、「ラ」は里の集合体すなわち国の意じゃないか。

旧唐書に日本国は倭の別種、とあります。
隋の裴世清までは、諸外国の「倭国」の認識は北九州であり、それより東は倭の別種だった。
それを書き換えようとしたのが日本書紀の「設定」であり「日本国」の登場でもある。

半島の前方後円墳は応神~雄略時代の倭人の半島進出を示し、聖徳太子(多利思比狐)は欽明~天智時代の中国文化流入(半島経由)を代表する。
半島と列島の言語と文化が大きく変容してゆく時代じゃないかと思います。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

大倭

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 6月17日(日)14時11分59秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   『倭人伝』租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。

 初期天皇の名に「大倭」が付いているのが、四名いる。鉄素材の商いを握っていた可能性がある。『古事記』の表記を示す。
 第四代 懿徳天皇 大倭日子友命
 第六代 孝安天皇 大倭帯日子国押人命
 第七代 孝霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命
  第八代 孝元天皇 大倭根子日子国玖琉命

 天孫族が力をつけてきていた様子がうかがえる。
 

オホヤマトクニアレヒメ

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 6月 4日(月)19時37分38秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  『古事記』
孝霊(カウレイ)天皇
また意富夜麻登玖邇阿礼比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子、夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)、次に日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)、次に比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)、亦(マタ)の名は大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)、次に倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)。四柱。

『日本書紀』
大日本根子?太瓊天皇 孝靈天皇
妃倭國香媛亦名絚某姉、生倭迹々日百襲?命・?五十狹芹?命亦名吉備津?命・倭迹々稚屋?命。亦妃絚某弟、生?狹嶋命・稚武?命。弟稚武?命、是吉備臣之始?也。

 『記』の「意富夜麻登玖邇阿礼比売」と名前をどう思います?
 ヤマトの国を出現させた姫、これは卑弥呼のことと考えても良いと思いますが、『倭人伝』には、「乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿」とあり、夫もはいないと書かれているのがいささか難点です。
 

二王後制 10

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 4月 7日(土)21時16分8秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.580[元記事へ]

 物部氏には 十種神宝と言われる 十種類の呪物が伝わっていました。これを ゆらゆら と振りますと、「死人も生き反らむ。」と言われる呪文が働くとされまう。石上神宮では、毎年、この呪文と唱えるお祭りが11月22日にあり、鎮魂祭といいます。暗闇の中で行われる神秘的なお祭りです。

 畿内には饒速日尊を神として奉ずる政権が成立した思われます。初期の構成メンバーに、天道根、後期にはや長髄彦等がいました。
 長髄彦は神武天皇に「昔、天神の御子が、天磐舟に乗って天降られました。櫛玉饒速日命といいます。私は饒速日命を君として仕えています。あなたも天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。あなたは偽物でしょう。」と。天皇は、「天神の子は沢山にる。饒速日命が天神の子ならば、必ず表(しるしの物)があるだろう。」長髄彦は饒速日命の天羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)などを見せました。天皇はご覧になって、いつわりではない。次に天皇の天羽羽矢を長髄彦に見せました。その立派さに長髄彦はおそれいりました。

生駒市の長弓寺境内の真弓塚が天羽羽矢を埋めたとされています。  奈良県生駒市上町
 饒速日命は天皇に帰順しました。
 

Re: 二王後制9

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 4月 2日(月)09時21分18秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.572[元記事へ]

 日前国懸神が現在地に鎮座する際、先に鎮座していた伊太祁曽神社が別の場所に遷っています。和歌山では、これを 国譲り と呼んでいます。

 『日本書紀』では、饒速日尊は神武東征の際、大和を支配していた長隋彦を殺して、神武天皇に帰順したことが語られています。神武東征の最大の功労者とも言えます。大和の人々から見ると裏切り者とみている方もおられます。

 なお、日前国懸神宮は現在は日前神と国懸神の二柱の神を祀っており、共に天照大神としています。朱鳥元年(686)、天武天皇が奉幣を、紀伊国国懸神と飛鳥四社=飛鳥坐神社の四神(大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神)、住吉大神に行っています。紀伊国は国懸神の一柱のみにでした。その頃の日前国懸神は日神である国懸神という意味だったのでしょうが、奈良時代以後に、日前神と国懸神に分離したと思われまます。


 『日本書紀』神武さんが東征の開始前に相談したとされる塩土老爺が「東に美き地あり。青山四周せり。その中に亦、天の磐船に乗りて飛び降る者あり。是れ、饒速日をいうか。」とあり、これが東のよき地の大和への移動を決断させたのです。奈良時代に編集された『日本書紀』に、神武天皇の前の大和の支配者は、饒速日はっきりと書いてあります。


 弥生時代を代表する祭祀道具に銅鐸があります。
 大阪では。四条畷市 八尾市、高槻市、茨木市などから出土しています。交野や枚方からも出てくると思います。この銅鐸の製造にかかわったのが物部氏と言われており、饒速日命の子孫といえます。

 

人形 土偶 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月24日(土)09時40分10秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.577[元記事へ]

 5. 土偶以後
 縄文晩期には土偶は終焉して、晩期から弥生時代にかけて、土偶型容器や木偶が登場してくる。晩期から弥生時代にかけて初生児骨や歯を収めた容器形土偶が関東西部から中部地方にかけて分布している。土偶の穴の使い方の参考になる。
 また、役に立たない者を木偶(でく)の坊と言うが、木偶は神像である。弥生時代に登場する人形である。この時代には石偶もある。土偶からの形と信仰の流れであると思われる。
 東北に分布するオシラサマもこれらの後裔と考えることができる。


 オシラ様は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。「オシンメ様」や「カノキジンジョウ(桑の木人形)」とも称される。
 神体は、多くは桑の木で作った1尺程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。

土偶型容器       木偶         オシラ様
 

人形 土偶 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月22日(木)16時37分22秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.576[元記事へ]

4.釣手土器と顔面把手付土器(以下釣手土器と言う)
 多くの釣手土器は腹部が油脂により焼けたようになっている。釣手土器の発見数は少ない。発見される住居跡は少ないが、発見された処からは土偶や石棒の出土が多い。ともに祭祀の対象だった。
 顔面付の把手土器はその腹の中に食物をため込んだ女神にも見えるが、腹に子を宿していると考えることができる。その腹の中が焼かれるということは、迦具土神を連想させる。土器は伊邪那美神である。




『古事記』次に火之夜芸速男神を生みき。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)と謂ふ。この子を生みしに因りて、みほと炙かえて病み臥せり。たぐりに成りし神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神、次に屎に成りし神の名は、波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘売神。次に尿に成りし神の名は、弥都波能売神、次に和久産巣日神。

 ミシシッピ河 ナチェズ族伝わる話。
 昔、一人の女が二人の少女と暮らしていました。食べ物がなくなると、女は籠を持って小屋に入り、じきに籠をいっぱいにして出てきました。
ある日、少女達が好奇心を起こして小屋の中をこっそり見ましたが、からっぽでした。 「どこから、食物を持ってくるのかしら。小屋の中で何をしているのか、こっそり見てみましょう。」
  しばらくして、食物がなくなりました。女がいつものように小屋に入って行きました。少女達はこっそり後をつけ、壁のすきまから、中の様子をのぞき見しました。 すると女は、籠の上に立ち、股を開いて、身体をふるわせていました。そうするとガサゴソと音がして、籠はたちまちトウモロコシでいっぱいになりました。
この様子を見ていた少女達は、「あんな汚いものを食べるのはよしましょう。女の大便を食べさせていたのね。」
 女は食事をととのえましたが、少女達は食べようとはしませんでした。覗かれた事を悟った女は言いました。「これが汚くて食べられないのなら、私を殺して、死体を燃やしなさい。そうすると夏になったら、その場所から、いろいろなものが生えてきます。それらを畑に植えなさい。実が熟すと美味しい食物になります。それを食べて生きていきなさい。
  少女達が言われた通りにすると、女の死体を焼いた地面から、夏になると、トウモロコシ、カボチャ、豆が生えてきました。

 この物語は、穀物起源説話の死体化生神話に加えて、焼き畑栽培の要素が入ってきている。灰の中からの発芽。更に言えば、糞尿を肥料としていた痕跡も感じられる。

顔面把手付土器       釣手土器
 

人形 土偶 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月21日(水)16時56分10秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.575[元記事へ]

3.土偶
  人体を極端にまで抽象化したフォルムであるが、土偶に崇高さを求めたと思われる。さらに、妊娠・出産をテーマとした女性像である。女神である。また、子供のオモチャとしても使われたのかも知れない。お人形遊びである。
 何故、妊娠・出産が重視されたのか。それは、集落の存続のためと考えられる。幼児死亡率だけではなく、一般に死亡率が高い時代であり、女性一人が生涯に数人の赤児を出産しなければ、集落の継続的存続はできなかったであろう。


  土偶の中には頭に蛇を巻いたもの、眉が月のようになっているもの、殆どの遮光式土偶もそうだが、頭に穴があいて胴体は中空のものがある。これらの要素から推測できることは、月と蛇は再生と水の運搬を示し、中空はそこに水が入るということで、月―蛇―水の関係を土偶が語っていると思われる。土偶の顔は若干上向きになっており、口は丸くなっている。雨を受けようとしているようにも思われる。
 中空はそこに赤児が宿るとも考えられる。
 四才の幼児が「僕が死んだら、また生んでくれる?」と質問してきたことがある。幼児が再生を信じていたことがわかり、大変驚いたことを思い出す。おそらくは縄文人も再生を信じており、生まれてきた赤児を祖先の誰かと思っていた。それで赤児が死ぬと、せっかく再生してきた祖先を短時間で返してしまったことを詫びて、夫婦の通り道に赤児を埋めて次の妊娠を願ったという。
 土偶は見ようによっては悲しそうな顔にも見える。丸い口はムンクの叫びを彷彿とさせる。

  頭部に蛇         眉月   頭に穴 中空土偶
 

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