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渤海国 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月28日(金)20時40分44秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.591[元記事へ]

3. 建国
不満のたまっていた連中は挙兵、満州の奥地の山岳部にはいり抵抗。手に負えない唐は道路阻絶として討伐中止した。唐は則天武后の時代であった。
高句麗王族の大祚栄が698年、辰(震)国を建国した。民族自立に見える。後の渤海国である。高句麗の北半分に沿海州を領土とした。
唐から友好のよびかけに応じて次男を唐に送り藩屏下に入り、渤海郡王を贈られる。
718年、大祚栄卒す。長子・大武芸即位。総べての靺鞨族を配下にするべく動くが、北方の強力な黒水靺鞨は抵抗、唐と通交していた。
   大武芸は弟と折り合いが悪く、唐・渤海戦争になりそうだったが玄宗皇帝が兄弟の仲を説き、穏便に収めた。
大武芸は沿海州に版図を広げ、海を越えて日本との通商に便利な立地を得た。
   727年10月 第一回渤海使。出羽に漂着、24人の内、16人は蝦夷に殺され、残った8人が命からがら、国書と土産の貂皮300張を持って平城京にたどりついた。
   国書には、「高麗の旧居を復して、扶余の遺俗を有(たて)り云々」とあった。
   本音は新羅の頭越しでの軍事の提携だったようだが、高句麗国の後裔として友好関係を進めたいとのこととなっていた。この年に陰謀を企てたとして殺される長屋王も邸宅に招待し歓迎の宴を持った。渤海使8人を送り届けるために、舟を建造し、62人の送使団を編成、728年8月に送っていった。
 
 

渤海国 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月26日(水)15時41分40秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  2. 高句麗と倭
4世紀末から5世紀初めにかけて、倭軍は半島で高句麗等と幾度か戦っていた。この頃から6世紀にかけて高句麗から倭国へ渡来してくる者があり、高句麗式積石塚が近畿関東に分布している。7世紀前半までは倭と高句麗は仏教など文化的な交流が中心であった。
高句麗は668年に唐と新羅の挟み撃ちで滅亡した。唐は高句麗遺民への懐柔策として、小高句麗を遼東に建国し、高句麗王族を王にすえた。さらに、渤海湾の北側の常州に高句麗の王族や靺鞨の族長などを集め、流刑地とした。
 

渤海国 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月24日(月)11時21分43秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  1. 前史
渤海国は、満州からシベリア・極東にかけての北東アジア地域に分布するツングース系民族が建国した国である。この民族は靺鞨・女真・扶余族とも呼ばれる。
この民族は、紀元前37年に朝鮮半島北部に高句麗を建国、686に滅びた。百済の王族も扶余系とされる。
沿海州に粛慎と呼ばれる人々がおり、天武5年(676年)に、新羅の使節が粛慎を伴って来訪した。国名を靺鞨と称したようで、6世紀末に随に遣史を送っている。
 

Re: 弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月24日(月)11時17分35秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.588[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

> NHKで「なになに丸」という船名があるけれど丸ってなに、というのをやってました。

残念ながら見逃しています。

 神社巡りで前原市の白木神社を訪問しましたが、そこの住所は「王丸」でした。
 ほかに福岡県で丸地名を挙げて見ます。
石丸 津丸 武丸 王丸 黒丸 丸 金丸 持丸 乙丸 楽丸 犬丸 恋ノ丸 徳丸 丸山 x郎丸 田主丸 など
 原をバルというのが マル に変化の説などがあるようです。 山間部に多いようだとされていますが、確認できていません。



 

弥生の歴史観(かたばみ式)

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年 9月21日(金)22時55分53秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  私の古代史観のスタート地点はスサノオと天之忍穂耳(天孫降臨)。
それ以前では歴史ではなく考古学とのあいまいな複合になります。
記紀神話における伊弉諾尊伊弉冉尊と天照大神。
縄文から弥生への過渡期、採集狩猟の暮らしから農耕への過渡期。

この時代に農耕を運んだ人々の詳細の特定はできない。
人々が故郷を捨てて未知の地へ移動(脱出)するには生死に関わる事象があったはずです。
ここでは寒冷化という環境変化、全盛を誇った縄文も衰退する時代。
この寒冷化が中国では春秋戦国の引き金となり、玉突き現象で半島から南下する人々も急増した。
考古学的には日本海沿岸に出土する「土笛」がそれを示す。

列島に広まる「出雲」の基礎になる文化、民レベルで縄文が農耕へ変化してゆく文化。
北九州に限るなら「アマテラス」の文化。
神話的には伊弉冉尊の体から生まれる穀物類がそれを示す。


なんらかの事象が源流にあってそれが神話化されている、とするならばスサノオ登場はなにが源流か。
箕子朝鮮滅亡BC194からの脱出王族、年代が確定できて歴史として扱えると考えています。
運んだ文化は特になし、運んできたのは王権の意識と武力。
農耕ではスサノオ側のほうが遅れていた可能性大(半島北部に水稲はまだない)。
神話では大気都比賣を殺害する状況ですね。
神話として降臨ではなく、天照大神の弟としたのは保有する文化に大差のないことが理由とみています。

そこに大己貴命(大穴牟遅命)や少彦名命などが運んできた中国文化が加わる。
東シナ海沿岸の船乗り、海賊にもなる商人、王権とは無関係の民間人。
その祭祀、医療、金属技術などが列島に広まっていった。
神話における地祇に相応する人々です。

余談
NHKで「なになに丸」という船名があるけれど丸ってなに、というのをやってました。
便器の「おまる」がどーのこーの・・うそこけっ(^^;
客人-まれびと、まろうど-めったにない貴いものといった意味を含むでしょう。
麻も呂も万葉仮名ですから平安初期か、一文字に合成されて「麿」の国字となる。
柿ノ本人麻呂、外来の学者だったのでしょう。
弥生あたりでの「まれびと」が神格化されると門客神かな、アラハバキがそうだと思います。

読みは同じで「丸」の文字も使われた、こちらは漢字。刃物であちこちから削る象形文字。
刃物を扱う意から武家の系譜で用いられたと考えています、平安中期か。
牛若丸とか、城の本丸とかですね。
大切なものといった意のみが残り、こちらでは客人の意は消えたのでしょう。

じゃあチコちゃん、便器の「おまる」はなんでおまるというのぉ?
ずばりでウンコをすることの「まる」=放、貴族御用達だったから御放でおまる。
おまるを御虎子と書く、なんで? うんこが虎の子供に似てるだと・・うそこけっ

続く

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

Re: 蘇我氏5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 9月 4日(火)19時11分0秒 ah201220.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.586[元記事へ]

かたばみさんへのお返事です。

 ごぶさたです。ありがとうございます。

 中国が人工知能の研究をしていて、一番悪い「もの」は何かと問えば、中国共産党と答えたそうです。まともな研究のようですね。

 倭の五王を畿内王権と見なす立場での年代論、Uganet 倭の五王、
http://www.kamnavi.jp/uga/ugagoou.htm
によれば、応神は、390 394と考えています。好太王と戦ったのは仁徳と言うことになります。ここらは九州王朝とは別の史観ですので、置いといてください。

 大海人皇子の出自は面白い見方ですね。
 乙巳の変の首謀者として、孝徳天皇を挙げる議論が増えているような気がしますが・・・・

 

Re: 蘇我氏5

 投稿者:かたばみ  投稿日:2018年 9月 3日(月)18時04分54秒 ad058001.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

おひさしぶりです。
「超大河小説の粗筋(^^; 」ができたところで、バタンキューとなっておりました。
最近の人工知能の進歩はすごいですね。物量作戦ともいえる大量のデータから「定石」に捕らわれない「考え方」が登場する。そして人間側がそれを参考にするようになってきた。

蘇我氏論は無数にありますが・・
記紀などの記述は、それをどこまで信じるかにつきると思います。
「どこまで」というのがやっかい、真偽が混じりあって判別が困難。
記述が詳細だから正確だとはいえない、かえって作為をみて危ない(^^;
平安初期の編纂者の思惑がたっぷり含まれる。

NHKの歴史秘話ヒストリアのよみがえる大化の改新/発見蘇我入鹿の棺。
私の注目は館跡の「オンドル式暖房」です。
半島特有で日本では他に例がない。
これが蘇我氏の館であるなら、蘇我氏の出自の決定的?状況証拠になります。

さて、蘇我氏シミュレート(^^;
さかのぼれば箕子朝鮮へ(持論:スサノオの出自)。
箕子朝鮮が滅亡し南へ脱出した氏族が「韓」を自称する(魏志韓伝)。
それが後の伽耶諸国、伽耶山周辺に蘇我氏の出自があると考えています。
(ただし、その蘇我氏に重ねられた近畿の小規模な別氏族が存在する可能性をみておきます)

応神386-402以降で半島では百済、高句麗、新羅に加えて伽耶の抗争時代。
百済は七支刀369の記録が残るけれど、その他の国々でも記録にない通行があったはずです。
三国史記では伽耶を新羅の一部としているけれど当初は新羅が伽耶の一部。

書紀は蘇我氏など渡来氏族を武内宿禰の子としていますが、偽系譜と断じておきます(^^;
武内宿禰は百済の軍人とみています。
書紀が武内宿禰を祖と書く系譜は渡来人であることを示すことになるわけです。

(応神系譜の)安康454-456と雄略は近畿の(仁徳系譜の)允恭439-454を制圧して、半島と列島に最大版図を築く。
武烈498-507没して継承者争い勃発。
越の男大迹王と筑紫の磐井王の戦いで磐井が敗れた後に、九州に登場するのが幼き欽明539-571。
どのような血縁かは不明なれど、欽明は近畿の王ではない。

この時代に近畿王となるのが継体(男大迹王)の子の安閑宣化、書紀の書くような短命ではない。
九州の欽明539-571と並立していた時代で、書紀が欽明を近畿王として扱ったために安閑宣化を短命に圧縮せざるを得なかっただけ(実際の事象との時間的食い違いを生じる)。

物部氏は尾張の天火明系譜と重なって拡大、弥生時代に若狭方面へも進出と考えています。
(当初の「物部集団」は海運と資源探査がお役目)
筑紫の磐井王を破った越の男大迹王の戦力は物部麁鹿火、尾張始発の物部氏は日本海系氏族(大国主系+応神系)と結合していたことを示すものでしょう。

若狭の籠神社(元伊勢)の籠目紋は物部氏が手工業者であることの状況証拠。
天火明の時代(BC100頃)から尾張と若狭周辺はつながっていた。
(元伊勢に関与する伝承を持つ社の分布を知りたいところです)

継体507-530が尾張から妃を入れているのも天火明系譜の流れからは自然なところ。
その子が安閑ー宣化であり、敏達もその継体の後衛となります。
(継体は大国主の子の鳥鳴海神の末裔ともつながりを持つと考えています)
書紀が手白川皇女などを偽装しなくてもその系譜は弥生から有名どころとつながっているわけです。

敏達死去で九州王の用明が百済系譜や伽耶系譜を率いて近畿も支配して再び大王となる。
(用明も九州王時代を含めれば短命ではない)
敏達の武力的バックボーンはやはり物部氏。
しかし、敏達の子の押坂彦人大兄皇子は近畿王を継承できなかった。
(上京する)用明が率いていた蘇我氏に物部氏が敗れたためだと考えています。
新文化=随と唐、文化力(最新兵器=軍事力)で九州が上位にあったからだと思います。

飛鳥京は伽耶系の拠点かな。先の蘇我入鹿の館とオンドルはその痕跡。
百済系の拠点は斑鳩宮、「奈良沼」をはさんで蘇我氏と対峙。
書紀が偽装する推古(厩戸皇子はおそらく実在)は欽明と伽耶系妃の流れでしょう。
隋書に見える「多利思北狐」は用明と百済系妃の子じゃないかな。
新唐書に目多利思比狐が随と通ず、とあります、目多利思比狐=用明でしょう。

百済と伽耶、渡来系譜の抗争・・斑鳩宮の焼失、山背大兄王の殺害・・蘇我氏による攻勢。
物部氏はすでに勢力を失っており、騒乱時代になった。
1年後に中大兄皇子が中臣鎌足とともに蘇我入鹿を殺害。
敵討ちともいえますが、蘇我入鹿殺害は寶皇女も(政略的)共犯だろうなあ(^^;

寶皇女の祖に漢王妹 大俣女王とある、おそらく百済系譜。
この時代を書紀は皇極女帝とするが、この時代では女帝(九州王+近畿王=大王)といえる権力者はなく、斉明にいたって女帝となったと考えています。
皇極斉明の二度の即位があったのではない、大王不在の混乱を書紀の都合でそう書いているだけ。

斉明は近畿にあって、(その子の)中大兄皇子が九州を受け持っていたと推定。
継体系譜の敏達の子の押坂彦人大兄皇子の流れにあったのが舒明629-641。
書紀は舒明を大王とするが、これも豪族間の覇権争いのなかでの人物のひとりでしかない。

斉明紀に用命の孫として高向王が書かれますが、これが天智の父であり母が寶皇女。
血縁として重要人物と思いますが書紀は高向王についてなにも書いていない。
書きたくないのでござろう(^^;
高向王の寿命と死因は不明、豪族間の抗争での若年死であろうと考えています。

高向王死して、寶皇女は幼い中大兄皇子(天智)をつれて舒明と再婚。
寶皇女と舒明の間の子が大海人皇子(天武)。
大海人の呼称は祖が日本海系譜の流れにあることを示す。
天智と天武が兄弟、というのは寶皇女の連れ子と、母が同じの意味ならば正しい。
寶皇女-皇極-(孝徳645-654内紛?)-斉明、この系譜は書紀が苦心したところだと思います。

斉明死して天智が大王へ。
勢力基盤は九州だと思います、居宅?がころころ変わる理由です。
死去地もおそらく九州、死去の状況があいまいである理由です。
壬申の乱で大友皇子が九州へ支援を求めた理由です。

天智の意識には、神武(九州統一、出雲系譜との混合)-応神(百済と伽耶への進出)-雄略-(筑紫の磐井)-欽明-多利思比狐があり、我らが最新文化への革新をもたらす、あり。
天武の意識には天火明(最古の近畿天孫、書紀に書かれない系譜、出雲系譜との混合)-継体-敏達があり、我らが最古の伝統ある氏族である、があったと考えています。

その意識の対立が壬申の乱の源。
流入する優れた文化、これに対する「日本」の意識の登場と対立でもあります。
その葛藤が日本書紀を作り出していると考えています。


斑鳩イカル・ガ、飛鳥アスカ(おそらくアス・ガの変化)、「ガ」は里といった意じゃないかなあ。
加羅(伽耶諸国、安羅、多羅)、新羅シンラ(シラギ)、百済クダラ、耽羅タンラ(済州島)・・
(新羅の原型は伽耶諸国の一部で新羅城シラキでしょう、AD300に倭国と国使交換して国名変更)
奈良の語源は南羅ナムラだと考えています、「ラ」は里の集合体すなわち国の意じゃないか。

旧唐書に日本国は倭の別種、とあります。
隋の裴世清までは、諸外国の「倭国」の認識は北九州であり、それより東は倭の別種だった。
それを書き換えようとしたのが日本書紀の「設定」であり「日本国」の登場でもある。

半島の前方後円墳は応神~雄略時代の倭人の半島進出を示し、聖徳太子(多利思比狐)は欽明~天智時代の中国文化流入(半島経由)を代表する。
半島と列島の言語と文化が大きく変容してゆく時代じゃないかと思います。

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/

 

大倭

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 6月17日(日)14時11分59秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   『倭人伝』租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。

 初期天皇の名に「大倭」が付いているのが、四名いる。鉄素材の商いを握っていた可能性がある。『古事記』の表記を示す。
 第四代 懿徳天皇 大倭日子友命
 第六代 孝安天皇 大倭帯日子国押人命
 第七代 孝霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命
  第八代 孝元天皇 大倭根子日子国玖琉命

 天孫族が力をつけてきていた様子がうかがえる。
 

オホヤマトクニアレヒメ

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 6月 4日(月)19時37分38秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  『古事記』
孝霊(カウレイ)天皇
また意富夜麻登玖邇阿礼比売(オホヤマトクニアレヒメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子、夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)、次に日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)、次に比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)、亦(マタ)の名は大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)、次に倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)。四柱。

『日本書紀』
大日本根子?太瓊天皇 孝靈天皇
妃倭國香媛亦名絚某姉、生倭迹々日百襲?命・?五十狹芹?命亦名吉備津?命・倭迹々稚屋?命。亦妃絚某弟、生?狹嶋命・稚武?命。弟稚武?命、是吉備臣之始?也。

 『記』の「意富夜麻登玖邇阿礼比売」と名前をどう思います?
 ヤマトの国を出現させた姫、これは卑弥呼のことと考えても良いと思いますが、『倭人伝』には、「乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿」とあり、夫もはいないと書かれているのがいささか難点です。
 

二王後制 10

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 4月 7日(土)21時16分8秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.580[元記事へ]

 物部氏には 十種神宝と言われる 十種類の呪物が伝わっていました。これを ゆらゆら と振りますと、「死人も生き反らむ。」と言われる呪文が働くとされまう。石上神宮では、毎年、この呪文と唱えるお祭りが11月22日にあり、鎮魂祭といいます。暗闇の中で行われる神秘的なお祭りです。

 畿内には饒速日尊を神として奉ずる政権が成立した思われます。初期の構成メンバーに、天道根、後期にはや長髄彦等がいました。
 長髄彦は神武天皇に「昔、天神の御子が、天磐舟に乗って天降られました。櫛玉饒速日命といいます。私は饒速日命を君として仕えています。あなたも天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。あなたは偽物でしょう。」と。天皇は、「天神の子は沢山にる。饒速日命が天神の子ならば、必ず表(しるしの物)があるだろう。」長髄彦は饒速日命の天羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)などを見せました。天皇はご覧になって、いつわりではない。次に天皇の天羽羽矢を長髄彦に見せました。その立派さに長髄彦はおそれいりました。

生駒市の長弓寺境内の真弓塚が天羽羽矢を埋めたとされています。  奈良県生駒市上町
 饒速日命は天皇に帰順しました。
 

Re: 二王後制9

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 4月 2日(月)09時21分18秒 ah206061.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.572[元記事へ]

 日前国懸神が現在地に鎮座する際、先に鎮座していた伊太祁曽神社が別の場所に遷っています。和歌山では、これを 国譲り と呼んでいます。

 『日本書紀』では、饒速日尊は神武東征の際、大和を支配していた長隋彦を殺して、神武天皇に帰順したことが語られています。神武東征の最大の功労者とも言えます。大和の人々から見ると裏切り者とみている方もおられます。

 なお、日前国懸神宮は現在は日前神と国懸神の二柱の神を祀っており、共に天照大神としています。朱鳥元年(686)、天武天皇が奉幣を、紀伊国国懸神と飛鳥四社=飛鳥坐神社の四神(大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神)、住吉大神に行っています。紀伊国は国懸神の一柱のみにでした。その頃の日前国懸神は日神である国懸神という意味だったのでしょうが、奈良時代以後に、日前神と国懸神に分離したと思われまます。


 『日本書紀』神武さんが東征の開始前に相談したとされる塩土老爺が「東に美き地あり。青山四周せり。その中に亦、天の磐船に乗りて飛び降る者あり。是れ、饒速日をいうか。」とあり、これが東のよき地の大和への移動を決断させたのです。奈良時代に編集された『日本書紀』に、神武天皇の前の大和の支配者は、饒速日はっきりと書いてあります。


 弥生時代を代表する祭祀道具に銅鐸があります。
 大阪では。四条畷市 八尾市、高槻市、茨木市などから出土しています。交野や枚方からも出てくると思います。この銅鐸の製造にかかわったのが物部氏と言われており、饒速日命の子孫といえます。

 

人形 土偶 5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月24日(土)09時40分10秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.577[元記事へ]

 5. 土偶以後
 縄文晩期には土偶は終焉して、晩期から弥生時代にかけて、土偶型容器や木偶が登場してくる。晩期から弥生時代にかけて初生児骨や歯を収めた容器形土偶が関東西部から中部地方にかけて分布している。土偶の穴の使い方の参考になる。
 また、役に立たない者を木偶(でく)の坊と言うが、木偶は神像である。弥生時代に登場する人形である。この時代には石偶もある。土偶からの形と信仰の流れであると思われる。
 東北に分布するオシラサマもこれらの後裔と考えることができる。


 オシラ様は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる。青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。「オシンメ様」や「カノキジンジョウ(桑の木人形)」とも称される。
 神体は、多くは桑の木で作った1尺程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。

土偶型容器       木偶         オシラ様
 

人形 土偶 4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月22日(木)16時37分22秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.576[元記事へ]

4.釣手土器と顔面把手付土器(以下釣手土器と言う)
 多くの釣手土器は腹部が油脂により焼けたようになっている。釣手土器の発見数は少ない。発見される住居跡は少ないが、発見された処からは土偶や石棒の出土が多い。ともに祭祀の対象だった。
 顔面付の把手土器はその腹の中に食物をため込んだ女神にも見えるが、腹に子を宿していると考えることができる。その腹の中が焼かれるということは、迦具土神を連想させる。土器は伊邪那美神である。




『古事記』次に火之夜芸速男神を生みき。亦の名は火之炫毘古神と謂ひ、亦の名は火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)と謂ふ。この子を生みしに因りて、みほと炙かえて病み臥せり。たぐりに成りし神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神、次に屎に成りし神の名は、波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘売神。次に尿に成りし神の名は、弥都波能売神、次に和久産巣日神。

 ミシシッピ河 ナチェズ族伝わる話。
 昔、一人の女が二人の少女と暮らしていました。食べ物がなくなると、女は籠を持って小屋に入り、じきに籠をいっぱいにして出てきました。
ある日、少女達が好奇心を起こして小屋の中をこっそり見ましたが、からっぽでした。 「どこから、食物を持ってくるのかしら。小屋の中で何をしているのか、こっそり見てみましょう。」
  しばらくして、食物がなくなりました。女がいつものように小屋に入って行きました。少女達はこっそり後をつけ、壁のすきまから、中の様子をのぞき見しました。 すると女は、籠の上に立ち、股を開いて、身体をふるわせていました。そうするとガサゴソと音がして、籠はたちまちトウモロコシでいっぱいになりました。
この様子を見ていた少女達は、「あんな汚いものを食べるのはよしましょう。女の大便を食べさせていたのね。」
 女は食事をととのえましたが、少女達は食べようとはしませんでした。覗かれた事を悟った女は言いました。「これが汚くて食べられないのなら、私を殺して、死体を燃やしなさい。そうすると夏になったら、その場所から、いろいろなものが生えてきます。それらを畑に植えなさい。実が熟すと美味しい食物になります。それを食べて生きていきなさい。
  少女達が言われた通りにすると、女の死体を焼いた地面から、夏になると、トウモロコシ、カボチャ、豆が生えてきました。

 この物語は、穀物起源説話の死体化生神話に加えて、焼き畑栽培の要素が入ってきている。灰の中からの発芽。更に言えば、糞尿を肥料としていた痕跡も感じられる。

顔面把手付土器       釣手土器
 

人形 土偶 3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月21日(水)16時56分10秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.575[元記事へ]

3.土偶
  人体を極端にまで抽象化したフォルムであるが、土偶に崇高さを求めたと思われる。さらに、妊娠・出産をテーマとした女性像である。女神である。また、子供のオモチャとしても使われたのかも知れない。お人形遊びである。
 何故、妊娠・出産が重視されたのか。それは、集落の存続のためと考えられる。幼児死亡率だけではなく、一般に死亡率が高い時代であり、女性一人が生涯に数人の赤児を出産しなければ、集落の継続的存続はできなかったであろう。


  土偶の中には頭に蛇を巻いたもの、眉が月のようになっているもの、殆どの遮光式土偶もそうだが、頭に穴があいて胴体は中空のものがある。これらの要素から推測できることは、月と蛇は再生と水の運搬を示し、中空はそこに水が入るということで、月―蛇―水の関係を土偶が語っていると思われる。土偶の顔は若干上向きになっており、口は丸くなっている。雨を受けようとしているようにも思われる。
 中空はそこに赤児が宿るとも考えられる。
 四才の幼児が「僕が死んだら、また生んでくれる?」と質問してきたことがある。幼児が再生を信じていたことがわかり、大変驚いたことを思い出す。おそらくは縄文人も再生を信じており、生まれてきた赤児を祖先の誰かと思っていた。それで赤児が死ぬと、せっかく再生してきた祖先を短時間で返してしまったことを詫びて、夫婦の通り道に赤児を埋めて次の妊娠を願ったという。
 土偶は見ようによっては悲しそうな顔にも見える。丸い口はムンクの叫びを彷彿とさせる。

  頭部に蛇         眉月   頭に穴 中空土偶
 

人形 土偶 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月19日(月)15時34分28秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.574[元記事へ]

2.ウケモチ神話
『日本書紀』 天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

 この神話は、①自分の身体から食物や貴重な物が出る。②殺される。③死体の色々な部分から種類の違う農作物が発生する。にまとめられる。これとよく似た神話がインドネシアで採取されている。
 ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

 保食神の話で挙げられている作物は焼畑農業で作られる物に加えて、発達した農業を思わせる牛馬や稲がある。古栽培時代に伝承されてハイヌウェレ神話が奈良時代にかけて発展して来たものと思われる。
 和歌山に伝わる名草戸畔の伝承にも、頭・腹・足とバラバラに埋められたとされる。
 縄文時代中期の土偶が打ち壊されて、破片が別々な場所に処理された遺跡が多く発見されている。土偶は縄文初期の段階でも作られており、乳房の誇張的表現などが見られ、女性をかたどったものと考えられる。
 

人形 土偶 1-2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月18日(日)09時56分11秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  滋賀県大津市瀬田南大萱町 相谷熊谷遺跡

茨城県北相馬郡利根町 花輪台貝塚
 

人形 土偶 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月18日(日)09時53分1秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  1.地母神
 ヨーロッパでの三万五千年前のホモサピエンス・サピエンスの登場と共に出現した女神像は、乳房から出る乳で養われている赤児、腹に妊娠されている胎児、生まれつつある子などに慈愛の目を注いでいるように見える。

縄文時代早期の土偶は素朴な形ですが、乳房や腹は妊婦の様子をしめしている。

 地母神信仰は人類的信仰であり、本能的に人間に存在しているように思われる。

オーストリアのヴレンドルのヴィーナス

南フランスレスビューグのヴィーナス
 

二王後制8

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月13日(火)09時42分4秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.570[元記事へ]

 銅鐸祭祀はヒミホの登場の頃に終わっています。お祭りは鏡に移っていったのでしょう。

 銅鐸の分類に入らない銅鐸、小銅鐸があります。高さ15cm以下のものとされています。銅鐸の時代が終わり、古墳時代にはいっても、小銅鐸のお祭りがなされていました。それが、お墓かも出ています。個人的に崇拝していたのかもしれません。これを隠れ銅鐸信仰と呼ぶことができます。千葉県、東京都、大阪府など。


 さて、紀伊国造の話にもどります。

 饒速日の降臨にお供をした天道根命は、紀伊の国造を神武天皇から任じられています。天道根命は神皇産霊命の五世孫。天神。これは、物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀』のなかの『国造本紀』にでています。
【先代旧事本紀】国造本紀
紀伊国造 神武朝の御世に、神皇産霊命の五世孫の天道根命を国造に定められた。

 紀の国に伝わる伝承では、天下った際、紀の川の下流の木之本に立ち寄り、日前宮の日像鏡を祀り、それから琴浦におもむき、毛見に至ったとあります。
木本八幡宮 和歌山市西庄
濱宮(はまのみや) 和歌山市毛見

『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。

 紀国造家に伝わる『国造家譜』に次のように書いてあります。『紀伊続風土記』に採録。
 ① 紀伊の一の宮である日前国懸神が天降りました時に、天道根命は従臣としてつかえ始めた。
 ② 神武東征の時、両大神の神徳によって群慮を平定し、その賞として天道根命は紀伊国を賜り、国造に任じられてより、両大神に奉仕した。

 また『先代旧事本紀』の『天神本紀』には、饒速日尊の天降りに防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る三十二神の一人柱として天道根命の名がみえます。天道根命がお供をしたのは、日前国懸神であり、それは即ち饒速日尊でもあったのです。
 

豊中歴史同好会3月度例会

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月 7日(水)11時20分9秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  3月10日(土) 豊中歴史同好会3月度例会
14:00 講演  「2017年の考古学・古代史学会」
森岡秀人先生

森岡秀人先生、考古学会の重鎮で、毎年3月の講演は、今年度の古代史学会の主な論文と考古学的な発掘成果を語ってくれます。聴きごたえのある講演だと思います。聴取をお勧めします。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/reikai.html
 

二王後制7

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月23日(金)11時15分30秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.569[元記事へ]

 物部氏の分派である伊福部氏が銅鐸生産にかかわったと、谷川健一さんが、指摘しています。伊福部の フク は 風を吹かすの吹くで、金属を溶かしたり、精錬したりするための鞴(ふいご)を動かすことです。青銅を溶かして型に鋳流し込む、そうして銅鐸が造られました。伊吹山の麓の関ヶ原の東に垂井と言う地名があります。ここに伊富岐神社があります。伊福部氏の氏神です。近くから銅鐸が出土しています。
 伊福部神社は雷神として祀られています。銅鐸と雷、関係ありそうです。

 民俗学の谷川健一さん、故人ですが、『青銅の神の足跡』と言う名著があります。この中に 伊福 と言う土地の近くから銅鐸の出土が多いこと、また 伊福 という土地に鉱山がおおいことを述べております。

 枚方の川向こうの北側になりますか、茨木市の東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が出土しています。茨木市から銅鐸5個、高槻市 2個、豊中 2個、吹田市 1個 出土しています。

 銅鐸祭祀は-150年頃から始まり、当初は聞く銅鐸すなわち鳴らす銅鐸でした。紀元ゼロ年頃、聞く銅鐸が埋められました。銅鐸が地上から姿を消した時代があったようです。それから、銅鐸は大型化をして、所謂見る銅鐸の時代が来ました。銅鐸祭祀が各地方に及ぶ時代です。銅鐸時代が後期になると、南紀や駿河や遠州で大きい銅鐸がつかわれたようです。
 銅鐸の県別の出土数です。
兵庫県 56点 島根県 54点  徳島県 42点  滋賀県 41点  和歌山県 41点

 島根県に多いのは、大国主を奉じる人々も銅鐸祭祀に参加したということでしょう。
 

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