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  1. 足あと帳(0)
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『日本人にとって聖なるものとは何か』

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月12日(金)15時35分27秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   奈良大学の万葉学者の上野誠先生の著書『日本人にとって聖なるものとは何か』の中に、鉄野昌弘氏の、持統天皇の有名な歌の解読が紹介されていました。

春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山

春が過ぎて夏がやって来たらしい。天の香具山が真っ白な衣を干しているのか。

としています。昔は山は恋もするし、白い衣を纏うということ。このような考え方を上野先生は古代的思考とよんでいます。
どうも折口信夫もこのような思考法の方だったようですね。
 
 

戌の話2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 7日(日)13時56分36秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2.丹生都比売神社と空海
『丹生祝氏本系帳』から。
応神天皇のときに、丹生明神と高野明神に、紀伊国の黒犬一伴、阿波遅国三原郡の白犬一伴が献上された。美濃国より蔵吉人と別牟毛津と云う人の児犬黒比と云う人を犬飼として差遣わした。その子孫は代々天野に住み狩猟を職としていた。
 応神天皇のときに、二柱の神に寄進された山地四至は、東は丹生川上を限り、南は阿帝川の南横峯を限り、西は応神山(紀の川市穴伏)及び星川神勾を限り、北は吉野川を限る地域であった。

応神天皇の時、天野祝が出てくるが、おそらく丹生神一柱が祭神だったと思う。

 丹生都比売神社があまねく知られるようになったのは、高野山金剛峯寺との関係が出来た以降のこと。高野山と丹生神との関係を物語る最古の文献は平安前期の『金剛峯寺建立修行縁起』である。
弘仁7(816)年春、弘法大師空海が霊場を求めて大和国宇智郡まで来たとき、一人の猟師に出会った。それは弓箭を持った大男で、南山の犬飼と称し、霊場の建設に協力することを述べ、大小二匹の黒犬に案内させた。そして紀伊と大和の国境のあたりの川辺で宿泊すると、一人の山民があらわれ、大師は山へ導かれた。その山民こそ山の王、丹生明神で、天野の宮の神であった。大師はこの宮で一宿し、巫祝に託宣をしてもらったところ、丹生明神は自らの神領喜んで献ずると約束したので、大師は6月中旬に朝廷に願い出て許され、さっそく草庵を建てた。以来、丹生明神は高野山の地主神として篤く信仰されるようになったという。縁起は以上。

 弘仁7(816)年、空海は嵯峨天皇に、高野山の地を賜りたい、と上表文を提出した。そこでは「紀伊の国の平原の幽地、高野山こそ、もっとも修禅の道場にかなった地である。」ということを述べ、そして「若かりし時、山林修行の折りに、この高野の地に足を踏み入れたことがある」と述懐している。

高野・熊野の紀伊山地、「異界」であり、里の農耕民とは、異質な人々つまり、修験者や鉱山師、狩人。木地師、鍛冶師など「山の民」と呼ばれる人々の領域であった。
 彼らの中では、大和朝廷に追われて山に入った、まつろわぬ民の血を引く人々もいたようである。空海自身佐伯氏出であり、かつての佐伯はまつろわぬ氏であった。空海はそういった人々と自然に仲間に入って行けた。山の民との緊密なつながりを裏付ける、根拠のひとつに、彼の豊富で正確な地質学的知識が挙げられる。金属資源の豊富な高野山に目をつけていた。

 

戌の話1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 1日(月)15時32分47秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  あけましておめでとうございます。

1.金属と犬と
『播磨国風土記』の讃容郡の条に、金属文化と「犬」についての注目すべき記述がある。
山の四面に十二の谷がある。どの谷も鉄を産出する。孝徳天皇のとき、はじめて鉄を献上した。鉄の鉱脈を発見した人は別部(わけべの)犬(いぬ)である。

民話 花咲か爺(はなさかじじい) 犬が小判を見つける。
うらのはたけで ポチがなく
しょうじきじいさん ほったれば
おおばん こばんが ザクザク ザクザク
いじわるじいさん ポチかりて
うらのはたけを ほったれば
かわらや かいがら ガラガラ ガラガラ

『鉄山必要記事』
江戸時代に書かれた「たたら製鉄」にかかわる技術書『鉄山必要記事』から。
  金屋子神は高天が原から播磨国に天降り、はじめて金属の道具をつくったが、やがて白鷺に乗り、西に向かい、出雲国に至り、山林の桂の木のうえで休んでいた。数多くの犬をつれた狩人がそこを通ろうとしたとき、犬が桂の木で輝く光をみつけて吠えたてた。狩人が問うたところ、「私は金屋子神である。この地で鉄をつくる仕事をはじめたい」と答えた。
 出雲でのタタラ製鉄の始まりの物語である。
http://kamnavi.jp/it/izumo/kanayako.htm 神奈備の金屋子神社

真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で、「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。としている。
 

Re: 王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月18日(月)14時45分4秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.555[元記事へ]

 大国主に絡む色んな伝承が各地に残っています。いくつかを紹介いたします。

 古事記から
 因幡の白兎を助けた話。
  八十神は大国主の兄達で、大国主を従えて八上姫に求婚にいく途中で、川を剥がれた白兎を助け、また八上姫は八十神の求婚を断り、大国主との結婚を宣言しました。

 大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』
兄神たち(八十神)は、白兎の予言通り八上比売と結婚した大穴牟遅を憎み、殺してしまおうと企んで大穴牟遅を伯耆の手間山本(手前の山麓)へ連れて行きます。

 兄神達は「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。そうしなければ殺す!」と言いつけて、山の麓で待たせている大穴牟遅目掛けて、火で真っ赤に焼いた岩を山の上から投げ落とします。
 転がり落ちてくる真っ赤な岩を猪として受け止めようとしたため、大穴牟遅の身体がたちまちその赤く焼けた岩膚にこびりついて、焼き潰されて絶命してしまうのです(ここ!重要な記載部分です。つまり一度絶命してしますのです)。
 これを知った大穴牟遅の母「刺国若比売命」は嘆き悲しみ、高天原に上り「神産巣日之命(カミムスビ)」に救いを求めたところ、赤貝の神「貝比売」と蛤の神「蛤貝比売」の2柱の女神が地上に遣わされることとなります。大国主を生き返りました。

 その後も八十神は大国主を滅ぼそうとしたので、母神は大国主を須佐之男尊のいる根の国に逃がしました。
 ここで須佐之男の娘の須勢理姫と出会い、たちまち結婚しました。この手の速さは凄いものです。
 それから須佐之男から多くの試練を受けますが、須勢理姫の助けもあってそれを乗り越えて、須佐之男から大国主と名乗り、今の出雲大社の場所に宮殿を建てるようにいいました。

 ヒスイと言う宝石があります。玉(ぎょく)と呼ばれます。新潟県姫川上流小滝川当たりで見つけられています。糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫に大国主命が出雲から求婚。その際に翡翠を贈ったという神話が残されています。実際に大国主命を奉った出雲大社の真名井遺跡からは、糸魚川産と見られる大きな勾玉が出土しています。

 少名毘古那神がやってきて、二柱の神がこの国を作り固めていきました。

 少名毘古那が去った後、国づくりに協力したのは、海を照らして来た神でした。大和の御諸山に祀られている神です。大物主神です。『日本書紀』には、大国主の幸魂・奇魂(人を愛し育てる力 観察力、分析力、理解力などから構成される知性)とされています。自分が他人に扮して自分に協力したという、神様ならではの話になっています。




 

Re: 王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月17日(日)15時05分12秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.551[元記事へ]

 日本にもよく似た制度があり、天武天皇が唐の制度を見習って導入したとされます。古代には、各国の豪族を国造として地域の支配者としています。その国造の制度が廃止された後も、出雲と紀伊の両国だけは、出雲国造と紀伊国造と名乗ることが認められています。これは服属儀礼をおこなわせるためなどとされています。
 出雲国造は現在でも、国造交替の時に皇室に神賀詞を提出しています。出雲は コクソウ
 紀伊国造も現在でも国造を名乗っています。紀伊は コクゾウ

 出雲と紀伊、この二家が特別扱いされています。この理由をお話します。


 皇室の前の支配者とその前の支配者は一体誰でしょうか。

 大国主と饒速日
前前王朝と前王朝を統合したヤマト朝廷と言うストーリーが浮かびます。

 大国主がこの国の支配者であったことは、国譲りのお話でも伺えることです。大国主とは、この国を農業に適した土地に改良してきた国造りの神として称えられています。各地で多くの人々を纏めてこの辛い作業を成し遂げてきた多くの地方の指導者達一人一人が国主であり、それらを代表する者が大国主と呼ばれたのでしょう。
 『魏志倭人伝』では、日本は 百余国に分れていたとあります。大国主の頃はもっと多かったのでしょう。

 

Re: 卑弥呼はヒミホ

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月17日(日)15時03分28秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.553[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。
大三元さんへのお返事です。

 古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)の福島さん、
 アイヌ語の大三元さん、
 言語音痴の神奈備が、両巨頭を煩わしてしまいました。

 卑弥呼は ヒミコ ではない。
 邪馬台国は ヤマタイコク ではない。

 このあたりで・・・・.


 

Re: 卑弥呼はヒミホ

 投稿者:大三元  投稿日:2017年12月17日(日)14時29分39秒 170.103.232.153.ap.dti.ne.jp
返信・引用
  > No.549[元記事へ]

神奈備さん、ご無沙汰してます。

「卑弥呼」の読みに関する私の最近の立場は「ひみを」です。
(万葉集でも「呼」は「を」)
http://www.dai3gen.net/himiwo.htm


> 邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。
「邪馬台」は「やまで」=「やましろ」として考えています。
http://www.dai3gen.net/yamatai.htm
http://www.dai3gen.net/nokagami.htm#yamade

 

Re: 卑弥呼はヒミホ

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年12月17日(日)13時10分44秒 p3042-ipad03fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.549[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 卑弥呼と邪馬台国のことが書いてある魏志倭人伝はいうまでもなく中国の文献です。古代の中国語でかいてあります。
> 西暦500年ごろまでの中国語の発音は 上古音 といわれます。
> 3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
> われわれが、卑弥呼と呼んでいる女王ですが、このヒミコと言う読み方は
> 江戸時代に定着したようです。しかし「呼」は現在の中国でも「こ」と発音しません。古代から「ホ」という発音です。「こ」平安時代以降の日本の発音で、古代の中国語に適用してはいけません。
>
> 卑 pieg pie pi p?i ヒ甲
> 彌 mier mie mi mi ミ甲
> 呼 hag ho hu hu ホ、でしょう
>
> 邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。

ご無沙汰しております。が、何時も訪問して興味深く拝読しています。
私は、中国の漢字音の正確な復元は必ずしも有効ではない、と存じます。
中国正史の書記官の耳に聞こえた「倭語」の音写(当て字)に限っては、或る程度の揺らぎを考慮すべきか、と。
即ち、彼らの未知の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」を書き留めていますから、近似音的か、と。
例えば「倫敦」、「紐育」の漢字音を正確に復元しても、ネイティブの"London"、"New York"には至らない、と。
「倭人」が何の意味を何と発音したら、彼らが此の文字撰びをするかを考察すべきです。
※「卑彌呼」="?"尊(みこと)の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」音写と観ます。
*"?"="him"=最高位の意。現代九州弁に残存。
・「ひンの叫(おら)び」=この上もなく大音声で叫(おら)ぶ、こと。
・「ひン投げる」=圧倒的力量の差で相手を投げ飛ばす(相撲などで)こと。
・「ひンだれる」=この上もなく疲労困憊すること。
*「尊」=「水事・米事」で、水稲稲作の統帥者の意。"mikot"の様な発音ではないかと。
私のE-mailのアドレス=himmikot@mocha.ocn.ne.jp は「卑彌呼」に由来しています。
因に、「邪馬臺國」「邪馬壹國」問題もどちらが正しいとか間違いとがではなく、両方とも「倭語」の音写であ、両方とも正しいと観ます。謎が解けないのは、二者択一に陥っているからだと思います。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

 

王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月15日(金)16時30分17秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   中国は王朝交代の国です。徳を失った王に対し革命を起こして新王朝が発足。これを易姓革命と言います。

 唐という王朝には二王後制という制度がありました 前王朝と前前王朝関係の子孫を優遇するという制度です。
 王朝の初代は賢者であるが、末代は愚か者不肖の者、したがって徳のある人があたらしい王朝を開く、これで王朝が交替する。
 それでも前王朝と前前王著の初代の賢者を尊ぶ意味で後裔を丁重に遇するという制度です。
 唐の高祖の武徳元年(618)に定められました。日本ではこの年は推古二十六年でしす。

 周の武王は、夏の子孫を杞に、殷の子孫を宋に封じました。「二王之後」の故事は直接的には武王に由来します。

 これを行うことで、自らの王朝がいかに「正統」な後継かを主張するようです。
 

「日本の建国史 三替統合の精華」元皇學館大學学長 田中 卓著

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月13日(水)14時08分14秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   田中卓先生の講義をベースにした話。
 田中先生は皇學館大學の名誉教授で、皇国史観・右翼の中でも最右翼の方と言われています。この先生は、右翼にもかかわらず、女性天皇を認める立場を表明されています。
 その理由は、男系天皇にこだわると皇統が途絶えてしまい、天皇制が維持できないからとの立場からです。

 それに対して、最近テレビによく出てくる竹田 恒泰(たけだ つねやす)さんは、それは天皇制ではない、と言われます。遠くに遡っても男系を探してくるとの立場でしょう。
 竹田恒泰さんは明治天皇の女系の玄孫にあたりますが、男系では崇光天皇の19世子孫であります。崇光天皇(すこうてんのうは、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))の頃の天皇です。14世紀末の南北朝時代の天皇です。

 一般の人々の中で、皇室に最も近い男系の方は、江戸時代前期の、東山天皇の子孫の方です。
1687年5月6日 - 1709年7月27日東山天皇の皇子の閑院宮直仁親王宝永7年(1710年)に世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。
華園真準[4]、華園真暢[4] 梶野行淳(歴代当主は男爵)実子の梶野行良さん。
 河内長野の長野神社の宮司をされています。

 現在は、幸いにして秋篠宮家に悠仁親王(ひさひとしんのう)が居られますので、子だくさんんの天皇になってほしいものです。
 

卑弥呼はヒミホ

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月12日(火)21時06分37秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  卑弥呼と邪馬台国のことが書いてある魏志倭人伝はいうまでもなく中国の文献です。古代の中国語でかいてあります。
西暦500年ごろまでの中国語の発音は 上古音 といわれます。
3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
われわれが、卑弥呼と呼んでいる女王ですが、このヒミコと言う読み方は
江戸時代に定着したようです。しかし「呼」は現在の中国でも「こ」と発音しません。古代から「ホ」という発音です。「こ」平安時代以降の日本の発音で、古代の中国語に適用してはいけません。

卑 pieg pie pi p?i ヒ甲
彌 mier mie mi mi ミ甲
呼 hag ho hu hu ホ、でしょう

邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。
 

Re: ページ下のリンクについて

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月11日(月)20時03分21秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.546[元記事へ]

ふぁんトントさんへのお返事です。

ありがとうございます。早速訂正いたしました。感謝です。
 

枚方

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月11日(月)19時57分35秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  『播磨国風土記』
 朝廷が各国に土地が肥えて居るのか痩せているのか、古老が伝える伝承など、地域のことをまとめて提出するように命令を出し、ほぼ全部が残っているとされる風土記の一つが播磨国です、兵庫県中南部をさします。
 この中に 枚方 と言う地名が出てきます。
 枚方と名づけるわけは、河内の国の茨田の群の枚方の里の漢人(あやひと)がやってきて始めてこの村に住んだ。だから枚方という。
 枚方市倉治に機物神社が鎮座そています。七夕はにぎやかです。だいぶ前のことになりますが、ここの宮司さん、そうとう高齢の方だった、に中国は西安を訪問されたときのことをお伺いしたことがあります。その頃は市会議員さんだった。中国側の人は、「大昔にここから枚方へ行った中国人がいます。織物の技術を伝えたのです、」とのこと。
 中国の人というのは、枚方の人がくると聞くと、いろいろ調べてこのような話をするというのは客をもてなすのでしょう。たいしたものだと感心いたしました。
 

ページ下のリンクについて

 投稿者:ふぁんトント  投稿日:2017年12月11日(月)17時10分1秒 softbank220034090131.bbtec.net
返信・引用
  いつもお世話になります。
http://kamnavi.jp/en/kawati/kuninaka.htm
↑上のページでは、ページ下のリンク(トップページと一覧ページ)のURLが".net"になっているため、海外のサイトへ飛んでしまいます。修正の程、よろしくお願いいたします。尚、上のページは、当サイトの記事内にて紹介させていただきます。現在作成中ですので、公開しましたらご連絡申し上げます。
失礼いたします。
 

古代を偲ぶ会案内

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年11月16日(木)13時43分30秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  古代を偲ぶ会案内
2017 11 18
大阪大学大学院教授    福永 伸哉
大阪市立大学大学院教授  岸本 直文
40周年記念シンポジウム 「倭国形成過程を考える」
時間;13:30~17:00
エル大阪 本館 6F 大会議室
http://kamnavi.jp/link/sinobu.htm
 

Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:より  投稿日:2017年10月20日(金)07時17分42秒 124-159-56-92.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.543[元記事へ]

よりさんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。
>

大分の寺社関連は、ここが詳しいです。
鹿児島にも何回かお見えです。

http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-387.html

 

Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:より  投稿日:2017年10月19日(木)22時00分2秒 124-159-24-9.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  神奈備さんへのお返事です。

> yoriさんへのお返事です。
>
>
> 黒男神なる神様が八幡神に絡んで鎮座しています。

>
>  八幡古表神社の相撲神事では「おんくろう神」と呼ばれる住吉大神が全勝して勝ち残ります。
>  この「くろう神」のことかとも思っています。
>

こんばんわ。
先週の木曜日、3年に一度の「くぐつの舞いと神(紙)相撲」の奉納がありました、
1回は見物したいもので。

南大分の城跡に鎮座する「永興(りょうご)正八幡社」があります。
なんとま、宇佐八幡の御膝元に、鹿児島神宮の勧請社があるとは。。

また、霧島六所権現信仰の開祖「性空聖人」の修行地には霧島神社が鎮座しています。
湯布院、大分、別府 ら
大分県社寺名勝図録では、由緒が不明とありますが。


http://www.komainu.org/ooita/ooitasi/ryogosyoutachiman/ryogosyoutachiman.html

 

Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年10月18日(水)20時32分40秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.541[元記事へ]

yoriさんへのお返事です。


黒男神なる神様が八幡神に絡んで鎮座しています。

佐賀県武雄市 黒尾神社(神母影媛) 摂社黒尾神社
福岡市中央区 今川鳥飼八幡宮摂社黒殿社
福岡県大野城市 黒男神社
福岡県田主丸町 黒島神社
大分県日田市 玉垂神社<通称>黒男社
福岡県築城町 八幡神社摂社黒男殿神社
大分県東国東町 黒雄社
大分県宇佐市 宇佐八幡宮摂社黒男社

八幡古表神社の相撲神事では「おんくろう神」と呼ばれる住吉大神が全勝して勝ち残ります。
 この「くろう神」のことかとも思っています。
 
 

Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:yori  投稿日:2017年10月17日(火)12時24分9秒 114-142-45-102.ppp.bbiq.jp
返信・引用
  > No.540[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> yoriさんへのお返事です。
>
> 八幡神を勧請したかも知れない鹿児島神宮の祭神が彦穂穂出見尊であることは極めて重要なことだと思っています。この神宮の祭神がいつ頃に定まったのか、途中で変遷があったのか、興味深いところです。


こんにちわ。
新燃岳が噴火して警戒区域が拡大され
登山が難しくなって残念です。

さて、この大隅國正八幡宮に参詣された方の
記録としては、

●平家物語
●時宗・一遍聖人
●橘 三喜「諸国一宮巡詣記」
●橘 南谿 参拝「西遊記」
●高山彦九郎「筑紫日記」

ですが、この頃、既にご祭神はご指摘の通りだったようです。

興味をそそる記録としては、
橘 三喜「諸国一宮巡詣記」の絵図には
旧地の現在の石體神社には仁徳天皇を祭祀していたようですが。。
現在のご祭神は、本社と同じです。

神宮の史資料が明治の廃仏毀釈で焼却されて
いるので、なかなかです。

http://yorihime3.net/mado/hachiman_sankei.html#junkeiki

 

Re: 八幡大菩薩の成立と応神天皇霊5

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年10月17日(火)11時46分28秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.539[元記事へ]

yoriさんへのお返事です。

八幡神を勧請したかも知れない鹿児島神宮の祭神が彦穂穂出見尊であることは極めて重要なことだと思っています。この神宮の祭神がいつ頃に定まったのか、途中で変遷があったのか、興味深いところです。
 

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