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  1. 足あと帳(0)
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人形 土偶 2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月19日(月)15時34分28秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.574[元記事へ]

2.ウケモチ神話
『日本書紀』 天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

 この神話は、①自分の身体から食物や貴重な物が出る。②殺される。③死体の色々な部分から種類の違う農作物が発生する。にまとめられる。これとよく似た神話がインドネシアで採取されている。
 ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

 保食神の話で挙げられている作物は焼畑農業で作られる物に加えて、発達した農業を思わせる牛馬や稲がある。古栽培時代に伝承されてハイヌウェレ神話が奈良時代にかけて発展して来たものと思われる。
 和歌山に伝わる名草戸畔の伝承にも、頭・腹・足とバラバラに埋められたとされる。
 縄文時代中期の土偶が打ち壊されて、破片が別々な場所に処理された遺跡が多く発見されている。土偶は縄文初期の段階でも作られており、乳房の誇張的表現などが見られ、女性をかたどったものと考えられる。
 
 

人形 土偶 1-2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月18日(日)09時56分11秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  滋賀県大津市瀬田南大萱町 相谷熊谷遺跡

茨城県北相馬郡利根町 花輪台貝塚
 

人形 土偶 1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月18日(日)09時53分1秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  1.地母神
 ヨーロッパでの三万五千年前のホモサピエンス・サピエンスの登場と共に出現した女神像は、乳房から出る乳で養われている赤児、腹に妊娠されている胎児、生まれつつある子などに慈愛の目を注いでいるように見える。

縄文時代早期の土偶は素朴な形ですが、乳房や腹は妊婦の様子をしめしている。

 地母神信仰は人類的信仰であり、本能的に人間に存在しているように思われる。

オーストリアのヴレンドルのヴィーナス

南フランスレスビューグのヴィーナス
 

二王後制8

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月13日(火)09時42分4秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.570[元記事へ]

 銅鐸祭祀はヒミホの登場の頃に終わっています。お祭りは鏡に移っていったのでしょう。

 銅鐸の分類に入らない銅鐸、小銅鐸があります。高さ15cm以下のものとされています。銅鐸の時代が終わり、古墳時代にはいっても、小銅鐸のお祭りがなされていました。それが、お墓かも出ています。個人的に崇拝していたのかもしれません。これを隠れ銅鐸信仰と呼ぶことができます。千葉県、東京都、大阪府など。


 さて、紀伊国造の話にもどります。

 饒速日の降臨にお供をした天道根命は、紀伊の国造を神武天皇から任じられています。天道根命は神皇産霊命の五世孫。天神。これは、物部氏の伝承をまとめた『先代旧事本紀』のなかの『国造本紀』にでています。
【先代旧事本紀】国造本紀
紀伊国造 神武朝の御世に、神皇産霊命の五世孫の天道根命を国造に定められた。

 紀の国に伝わる伝承では、天下った際、紀の川の下流の木之本に立ち寄り、日前宮の日像鏡を祀り、それから琴浦におもむき、毛見に至ったとあります。
木本八幡宮 和歌山市西庄
濱宮(はまのみや) 和歌山市毛見

『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。

 紀国造家に伝わる『国造家譜』に次のように書いてあります。『紀伊続風土記』に採録。
 ① 紀伊の一の宮である日前国懸神が天降りました時に、天道根命は従臣としてつかえ始めた。
 ② 神武東征の時、両大神の神徳によって群慮を平定し、その賞として天道根命は紀伊国を賜り、国造に任じられてより、両大神に奉仕した。

 また『先代旧事本紀』の『天神本紀』には、饒速日尊の天降りに防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る三十二神の一人柱として天道根命の名がみえます。天道根命がお供をしたのは、日前国懸神であり、それは即ち饒速日尊でもあったのです。
 

豊中歴史同好会3月度例会

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 3月 7日(水)11時20分9秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  3月10日(土) 豊中歴史同好会3月度例会
14:00 講演  「2017年の考古学・古代史学会」
森岡秀人先生

森岡秀人先生、考古学会の重鎮で、毎年3月の講演は、今年度の古代史学会の主な論文と考古学的な発掘成果を語ってくれます。聴きごたえのある講演だと思います。聴取をお勧めします。
http://toyoreki.way-nifty.com/blog/reikai.html
 

二王後制7

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月23日(金)11時15分30秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.569[元記事へ]

 物部氏の分派である伊福部氏が銅鐸生産にかかわったと、谷川健一さんが、指摘しています。伊福部の フク は 風を吹かすの吹くで、金属を溶かしたり、精錬したりするための鞴(ふいご)を動かすことです。青銅を溶かして型に鋳流し込む、そうして銅鐸が造られました。伊吹山の麓の関ヶ原の東に垂井と言う地名があります。ここに伊富岐神社があります。伊福部氏の氏神です。近くから銅鐸が出土しています。
 伊福部神社は雷神として祀られています。銅鐸と雷、関係ありそうです。

 民俗学の谷川健一さん、故人ですが、『青銅の神の足跡』と言う名著があります。この中に 伊福 と言う土地の近くから銅鐸の出土が多いこと、また 伊福 という土地に鉱山がおおいことを述べております。

 枚方の川向こうの北側になりますか、茨木市の東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が出土しています。茨木市から銅鐸5個、高槻市 2個、豊中 2個、吹田市 1個 出土しています。

 銅鐸祭祀は-150年頃から始まり、当初は聞く銅鐸すなわち鳴らす銅鐸でした。紀元ゼロ年頃、聞く銅鐸が埋められました。銅鐸が地上から姿を消した時代があったようです。それから、銅鐸は大型化をして、所謂見る銅鐸の時代が来ました。銅鐸祭祀が各地方に及ぶ時代です。銅鐸時代が後期になると、南紀や駿河や遠州で大きい銅鐸がつかわれたようです。
 銅鐸の県別の出土数です。
兵庫県 56点 島根県 54点  徳島県 42点  滋賀県 41点  和歌山県 41点

 島根県に多いのは、大国主を奉じる人々も銅鐸祭祀に参加したということでしょう。
 

二王後制6

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月20日(火)20時24分35秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.568[元記事へ]

 ニギハヤヒ 物部氏の祖先 皇祖であるニニギの命の兄とされます。ニギハヤヒとニニギ、共に天照大神の孫にあたります。

 饒速日は北九州の遠賀川流域に居りましたが、伊都国や奴国などが力をつけて来て圧力を受けたので、良き地を求めて東遷していきました。弥生前期の遠賀川式土器を畿内に持ち込んだのでしょう。物部氏については、鳥越憲三郎さんの『大いなる邪馬台国』に詳しく書かれています。
 饒速日は堺の大浜海岸(大浜公園)に上陸し、八尾に移り、河内に拠点を置き、それから大和に入りました。

 八尾の恩智神社は物部氏が最初に斎祀った神様で、ミケツ神です。食べ物の神様です。この神社のお祭りで神輿が泉州堺の大浜まで行き、そこで禊を行います。お祀りとは原始の姿の再現ですから、大浜上陸、八尾へ移動と推定しています。
 八尾から生駒山を越えて、大和郡山に入ったようです。矢田坐ク志玉比古神社があります。ニギハヤヒは櫛玉饒速日尊との敬称を以て呼ばれます。
 つまるところ、物部氏も東遷の先として大和をが選び、武力に勝る物部氏集団の圧力を受けて、出雲氏は大和から落ち延びて島根県の東部に拠点を移したのです。
 

二王後制5

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月18日(日)19時19分46秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.567[元記事へ]

 朝廷は出雲国造に対し、国造の交替の度に神賀詞を奏上させています。服属儀礼、朝廷への恭順を誓わせています。奈良時代の 716年 が初めてとされていますが、もっと古い時代からとの説もあります。
一部を紹介します。
 己命(おのれのみこと)の和魂を倭の大物主の命と名を称え、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫の命の近き守神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築の宮(やほにきづきの宮)に静まりましき
大神大物主神      大神神社
高鴨阿遅須伎高孫根神社 高鴨神社
高市御県坐鴨事代主神社 河俣神社
加夜奈留美命神社

 古代には、朝廷の行う公式の祭祀は、旧暦 1月~9月と11月、12月に行われます。出雲で重要な神様が集まる月、所謂神無月の10月にはありません。出雲に対して気を遣ってきています。
 9月 神宮   10月出雲
11月前  相甞祭 天皇が秋の農作物(稲など)の収穫を祝う神事で、神々と天皇とが供饌しあうことから「相嘗」と称される。
11月後ろ 収穫祭にあたるもので、11月23日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。

 大国主を奉じた政権、神話では 国譲り で 大国主は政権を譲ります。天照大神に政権が移譲されるようにありますが、実際には、武甕槌と経津主と言う物部の神が国譲りを迫り、譲らせます。この神々は物部氏の神です。
 

二王後制4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月16日(金)19時04分49秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.566[元記事へ]

 奈良の桜井市に出雲と言う場所があり、天穂日はそこに居住したものと思われます。従って出雲氏を名乗ったのでしょう。
 その傍証としては、お相撲の野見宿禰をご存じだと思いますが、当麻のケハヤと相撲を取り、勝つのですが、垂仁天皇が出雲の野見宿禰を呼べと命令したら、その日の内に現れているように読めます。野見宿禰が島根県ではなく、大和にいなければ無理な話になります。
 天穂日が拠点としたかも知れないダンノダイラ。 http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm

 国譲りの神話、有名な「出雲の国譲り」です。経津主と武甕槌の神が大国主に国を天孫に譲るように談判をします。これらの神々も物部ゆかりです。

 

二王後制3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月14日(水)17時08分3秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.563[元記事へ]

 次の時代には、物部の祖である饒速日の勢力が登場し、天穂日は大和から出雲に逃れます。丹波を経由して出雲に行ったようです。

 出雲に根を下した天穂日は、出雲で大国主を祀りました。また、出雲臣の祖となります。後に出雲国造家となり、出雲大社の宮司家の祖神となったのです。宮司家は千家家と北島家として現在まで連綿と続いています。
 宮家の高円宮の次女の典子さんが出雲大社の宮司家の跡継ぎにあたる千家国麿さんと結婚したことは記憶に新しい所。2000年を超える時を経ての結びつきとなります。
 この夫婦、目下別居中のようで、さてどうなることやらです。

 天皇家は125代、千家家は84代、しかし千家家の方が古いとされています。天穂日は神武天皇より前の時代の人ですから。
 古代の天皇の在位年数は平均約10年、これは兄弟相続もありますから短いのです。出雲の千家家は親子相続のようですから、一代25年くらいのなります。
 

Re: 高橋神社(和歌山市)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月12日(月)13時32分10秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.564[元記事へ]

いずみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。機会があれば、再度詣したいものです。
 

高橋神社(和歌山市)

 投稿者:いずみ  投稿日:2018年 2月12日(月)11時17分44秒 119-229-136-81f1.wky1.eonet.ne.jp
返信・引用
  3年ぶりに和歌山市の高橋神社へお参りしてきました。

神奈備様のコメントにも
「色が奇妙に赤く、後ろの森の緑にくっきりとしている。 この神社はただならぬ神社である。」
とありますが、2年ほど前に改修されており、特徴的な赤い屋根が、落ち着いた濃緑に葺き替えられていました。
それでも、ただならぬ雰囲気が残っているのがよかったです。
http://kamnavi.jp/mn/kinki/takahasi.htm
 

二王後制2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月10日(土)10時43分39秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   天穂日は北九州から各地の大国主を訪ねながら大和に入り、大和の大物主と出会ったのでしょう。大物主の子孫の三輪氏や鴨氏と協力し、大国主・大物主を祀ったということです。これが神武以前の第一次政権と言えるでしょう。大和の東は三輪氏、西側は鴨氏が統治し、天穂日が調整役といえそうです。

 地方地方に大国主がいて、彼らの連合がこの国の形で、これは邪馬台国が多くの国に分れていたことを考えれば、妥当な推測と思われます。

 天穂日は今の国連事務総長のような調整役だったのでしょう。そういう意味では大国主連合の総理大臣のような存在でもあったと言えるでしょう。とりあえず、争いごとの起こらない平和な国にしたい。

 
 

二王後制1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月 8日(木)17時26分25秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   大国主 弥生時代の神、国土開拓、農業、医術の神様。さらに女好き、女も好きになるキャラ、艶福家、その魅力を利用して各地の女王と結婚しその数、実に180柱、それによって平和的に国の統一にも力をつくしました。

ここに、天穂日が登場します。

 高天原の最高神である天照大神の命令で、天照大神の次男とされる天穂日を天降らして大国主に支配地を譲らせようとさせましたが、大国主に魅力を感じて彼の側についたことになっています。大国主に「媚び諂う」とあります。できれば大国主から葦原中国を譲ってもらいたいとの気持ちはあったのでしょう。それよりも開拓にいそしむ大国主に惚れた、男が男に惚れたというように考えています。それで大国主を徹底的に祭り上げて、実際の権力を横取りしようと企んだのかもしれません。これが神話となっています。
 

戌の話4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月22日(月)20時36分23秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  4 空海
空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれた。幼名は真魚(まお) といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の大学に学ぶ。
しかし大学で教えられる儒学では社会の矛盾を解決できないのではと悩む。その時一人の僧と出会ったて、大学をやめ、修験者の中に身を投じて自然の中で荒行を積むようになった。正式に出家したのは20歳の時。やがて空海と名乗る。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵 求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとされる。
 空海は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なこ とも学んだ。二十歳前半のころ、経蔵の中で「大日経」を発見、内容 に興奮。しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいなかった。彼は中国へ渡ることを決意したとされる。
25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていない。
和歌山市の田福寺の瀧智真住職さんの独特のものの見方。
 空海中国密航説である。大師の若き頃の空白の数年間、また中国へ遣唐使の時の文章、会話など語学等併せて考えると留学以前に一度密航していたと想像できるとの説である。
また渡航に必要 な巨額な費用は、高野山の水銀朱であったと思われる。

空海 は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でしたが、実質2年で目標を達成し、帰国します。

さて、若いころに高野山について熟知していた空海には案内人が必要だったのだろうか。このあたりは高野の地を浸食したい空海の弟子たちのでっち上げた物語と思われます。
しかし壇場伽藍に山王院と丹生明神・高野明神が祀られています。丹生都比売神社も同様の神が祀られています。この高野明神の正体は一体何でしょうか。そうです、山の神、弘法大師空海のことだと思われます。
 

戌の話3 

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月14日(日)09時52分27秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  3 『今昔物語』から
 弘仁七年(816年)空海は大和国宇智郡に至り一人の猟師に会いぬ。形面赤くして長八尺許なり、青色の小袖を着せり、骨高く筋太し、弓箭を以て身に帯し、大小二つの黒き犬を具せり。此人大師を見て曰く、我は是南山の犬飼なり、三鈷の所を知れりとて、犬を放ち走らしむるの間、犬も人も忽失せぬ。
 この犬飼を狩場明神とも、また高野明神、高野御子明神とも言う。
南山の南とは
南宮の本山は南方刀美神を祭神とする諏訪大社で、その南宮(下社)を言う。美濃の南宮大社(仲山金山彦神社)は中の宮とされる。児の宮は伊賀の敢国神社、西の宮は摂津の広田神社の摂社の南宮神社をあてる。
 また南山(ナンザン)とは、比叡山を北嶺と呼ぶのに対する言葉で、高野山の別称である。
 さて、空海と狩場明神との出会いは、五條市の犬飼山転法輪寺の場所であったとされる。近くには阿陀比賣神社(阿多隼人の祀る)も鎮座、狩場明神は犬祖伝説を持つ隼人の民であったと思われる。

以下、江戸時代の反仏教の国学者の創作か。
その時、空海と高野明神との間に取り交わされた借用書があったというのです。高野山の神からこの土地を十年間の約束で借り受けた空海は、あとでこっそり「十」の文字の上に「ノ」の字を書き「千年」にしてしまい、高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応
じなかったといいます。
また別の説に千年の借用書で借り受けましたが、白いネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなってしまったということです。

 

『日本人にとって聖なるものとは何か』

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月12日(金)15時35分27秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   奈良大学の万葉学者の上野誠先生の著書『日本人にとって聖なるものとは何か』の中に、鉄野昌弘氏の、持統天皇の有名な歌の解読が紹介されていました。

春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山

春が過ぎて夏がやって来たらしい。天の香具山が真っ白な衣を干しているのか。

としています。昔は山は恋もするし、白い衣を纏うということ。このような考え方を上野先生は古代的思考とよんでいます。
どうも折口信夫もこのような思考法の方だったようですね。
 

戌の話2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 7日(日)13時56分36秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  2.丹生都比売神社と空海
『丹生祝氏本系帳』から。
応神天皇のときに、丹生明神と高野明神に、紀伊国の黒犬一伴、阿波遅国三原郡の白犬一伴が献上された。美濃国より蔵吉人と別牟毛津と云う人の児犬黒比と云う人を犬飼として差遣わした。その子孫は代々天野に住み狩猟を職としていた。
 応神天皇のときに、二柱の神に寄進された山地四至は、東は丹生川上を限り、南は阿帝川の南横峯を限り、西は応神山(紀の川市穴伏)及び星川神勾を限り、北は吉野川を限る地域であった。

応神天皇の時、天野祝が出てくるが、おそらく丹生神一柱が祭神だったと思う。

 丹生都比売神社があまねく知られるようになったのは、高野山金剛峯寺との関係が出来た以降のこと。高野山と丹生神との関係を物語る最古の文献は平安前期の『金剛峯寺建立修行縁起』である。
弘仁7(816)年春、弘法大師空海が霊場を求めて大和国宇智郡まで来たとき、一人の猟師に出会った。それは弓箭を持った大男で、南山の犬飼と称し、霊場の建設に協力することを述べ、大小二匹の黒犬に案内させた。そして紀伊と大和の国境のあたりの川辺で宿泊すると、一人の山民があらわれ、大師は山へ導かれた。その山民こそ山の王、丹生明神で、天野の宮の神であった。大師はこの宮で一宿し、巫祝に託宣をしてもらったところ、丹生明神は自らの神領喜んで献ずると約束したので、大師は6月中旬に朝廷に願い出て許され、さっそく草庵を建てた。以来、丹生明神は高野山の地主神として篤く信仰されるようになったという。縁起は以上。

 弘仁7(816)年、空海は嵯峨天皇に、高野山の地を賜りたい、と上表文を提出した。そこでは「紀伊の国の平原の幽地、高野山こそ、もっとも修禅の道場にかなった地である。」ということを述べ、そして「若かりし時、山林修行の折りに、この高野の地に足を踏み入れたことがある」と述懐している。

高野・熊野の紀伊山地、「異界」であり、里の農耕民とは、異質な人々つまり、修験者や鉱山師、狩人。木地師、鍛冶師など「山の民」と呼ばれる人々の領域であった。
 彼らの中では、大和朝廷に追われて山に入った、まつろわぬ民の血を引く人々もいたようである。空海自身佐伯氏出であり、かつての佐伯はまつろわぬ氏であった。空海はそういった人々と自然に仲間に入って行けた。山の民との緊密なつながりを裏付ける、根拠のひとつに、彼の豊富で正確な地質学的知識が挙げられる。金属資源の豊富な高野山に目をつけていた。

 

戌の話1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 1日(月)15時32分47秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  あけましておめでとうございます。

1.金属と犬と
『播磨国風土記』の讃容郡の条に、金属文化と「犬」についての注目すべき記述がある。
山の四面に十二の谷がある。どの谷も鉄を産出する。孝徳天皇のとき、はじめて鉄を献上した。鉄の鉱脈を発見した人は別部(わけべの)犬(いぬ)である。

民話 花咲か爺(はなさかじじい) 犬が小判を見つける。
うらのはたけで ポチがなく
しょうじきじいさん ほったれば
おおばん こばんが ザクザク ザクザク
いじわるじいさん ポチかりて
うらのはたけを ほったれば
かわらや かいがら ガラガラ ガラガラ

『鉄山必要記事』
江戸時代に書かれた「たたら製鉄」にかかわる技術書『鉄山必要記事』から。
  金屋子神は高天が原から播磨国に天降り、はじめて金属の道具をつくったが、やがて白鷺に乗り、西に向かい、出雲国に至り、山林の桂の木のうえで休んでいた。数多くの犬をつれた狩人がそこを通ろうとしたとき、犬が桂の木で輝く光をみつけて吠えたてた。狩人が問うたところ、「私は金屋子神である。この地で鉄をつくる仕事をはじめたい」と答えた。
 出雲でのタタラ製鉄の始まりの物語である。
http://kamnavi.jp/it/izumo/kanayako.htm 神奈備の金屋子神社

真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で、「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。としている。
 

Re: 王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月18日(月)14時45分4秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.555[元記事へ]

 大国主に絡む色んな伝承が各地に残っています。いくつかを紹介いたします。

 古事記から
 因幡の白兎を助けた話。
  八十神は大国主の兄達で、大国主を従えて八上姫に求婚にいく途中で、川を剥がれた白兎を助け、また八上姫は八十神の求婚を断り、大国主との結婚を宣言しました。

 大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』
兄神たち(八十神)は、白兎の予言通り八上比売と結婚した大穴牟遅を憎み、殺してしまおうと企んで大穴牟遅を伯耆の手間山本(手前の山麓)へ連れて行きます。

 兄神達は「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。そうしなければ殺す!」と言いつけて、山の麓で待たせている大穴牟遅目掛けて、火で真っ赤に焼いた岩を山の上から投げ落とします。
 転がり落ちてくる真っ赤な岩を猪として受け止めようとしたため、大穴牟遅の身体がたちまちその赤く焼けた岩膚にこびりついて、焼き潰されて絶命してしまうのです(ここ!重要な記載部分です。つまり一度絶命してしますのです)。
 これを知った大穴牟遅の母「刺国若比売命」は嘆き悲しみ、高天原に上り「神産巣日之命(カミムスビ)」に救いを求めたところ、赤貝の神「貝比売」と蛤の神「蛤貝比売」の2柱の女神が地上に遣わされることとなります。大国主を生き返りました。

 その後も八十神は大国主を滅ぼそうとしたので、母神は大国主を須佐之男尊のいる根の国に逃がしました。
 ここで須佐之男の娘の須勢理姫と出会い、たちまち結婚しました。この手の速さは凄いものです。
 それから須佐之男から多くの試練を受けますが、須勢理姫の助けもあってそれを乗り越えて、須佐之男から大国主と名乗り、今の出雲大社の場所に宮殿を建てるようにいいました。

 ヒスイと言う宝石があります。玉(ぎょく)と呼ばれます。新潟県姫川上流小滝川当たりで見つけられています。糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫に大国主命が出雲から求婚。その際に翡翠を贈ったという神話が残されています。実際に大国主命を奉った出雲大社の真名井遺跡からは、糸魚川産と見られる大きな勾玉が出土しています。

 少名毘古那神がやってきて、二柱の神がこの国を作り固めていきました。

 少名毘古那が去った後、国づくりに協力したのは、海を照らして来た神でした。大和の御諸山に祀られている神です。大物主神です。『日本書紀』には、大国主の幸魂・奇魂(人を愛し育てる力 観察力、分析力、理解力などから構成される知性)とされています。自分が他人に扮して自分に協力したという、神様ならではの話になっています。




 

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