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二王後制4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月16日(金)19時04分49秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.566[元記事へ]

 奈良の桜井市に出雲と言う場所があり、天穂日はそこに居住したものと思われます。従って出雲氏を名乗ったのでしょう。
 その傍証としては、お相撲の野見宿禰をご存じだと思いますが、当麻のケハヤと相撲を取り、勝つのですが、垂仁天皇が出雲の野見宿禰を呼べと命令したら、その日の内に現れているように読めます。野見宿禰が島根県ではなく、大和にいなければ無理な話になります。
 天穂日が拠点としたかも知れないダンノダイラ。 http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm

 国譲りの神話、有名な「出雲の国譲り」です。経津主と武甕槌の神が大国主に国を天孫に譲るように談判をします。これらの神々も物部ゆかりです。

 
 

二王後制3

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月14日(水)17時08分3秒 ac105065.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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  > No.563[元記事へ]

 次の時代には、物部の祖である饒速日の勢力が登場し、天穂日は大和から出雲に逃れます。丹波を経由して出雲に行ったようです。

 出雲に根を下した天穂日は、出雲で大国主を祀りました。また、出雲臣の祖となります。後に出雲国造家となり、出雲大社の宮司家の祖神となったのです。宮司家は千家家と北島家として現在まで連綿と続いています。
 宮家の高円宮の次女の典子さんが出雲大社の宮司家の跡継ぎにあたる千家国麿さんと結婚したことは記憶に新しい所。2000年を超える時を経ての結びつきとなります。
 この夫婦、目下別居中のようで、さてどうなることやらです。

 天皇家は125代、千家家は84代、しかし千家家の方が古いとされています。天穂日は神武天皇より前の時代の人ですから。
 古代の天皇の在位年数は平均約10年、これは兄弟相続もありますから短いのです。出雲の千家家は親子相続のようですから、一代25年くらいのなります。
 

Re: 高橋神社(和歌山市)

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月12日(月)13時32分10秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.564[元記事へ]

いずみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。機会があれば、再度詣したいものです。
 

高橋神社(和歌山市)

 投稿者:いずみ  投稿日:2018年 2月12日(月)11時17分44秒 119-229-136-81f1.wky1.eonet.ne.jp
返信・引用
  3年ぶりに和歌山市の高橋神社へお参りしてきました。

神奈備様のコメントにも
「色が奇妙に赤く、後ろの森の緑にくっきりとしている。 この神社はただならぬ神社である。」
とありますが、2年ほど前に改修されており、特徴的な赤い屋根が、落ち着いた濃緑に葺き替えられていました。
それでも、ただならぬ雰囲気が残っているのがよかったです。
http://kamnavi.jp/mn/kinki/takahasi.htm
 

二王後制2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月10日(土)10時43分39秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
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   天穂日は北九州から各地の大国主を訪ねながら大和に入り、大和の大物主と出会ったのでしょう。大物主の子孫の三輪氏や鴨氏と協力し、大国主・大物主を祀ったということです。これが神武以前の第一次政権と言えるでしょう。大和の東は三輪氏、西側は鴨氏が統治し、天穂日が調整役といえそうです。

 地方地方に大国主がいて、彼らの連合がこの国の形で、これは邪馬台国が多くの国に分れていたことを考えれば、妥当な推測と思われます。

 天穂日は今の国連事務総長のような調整役だったのでしょう。そういう意味では大国主連合の総理大臣のような存在でもあったと言えるでしょう。とりあえず、争いごとの起こらない平和な国にしたい。

 
 

二王後制1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 2月 8日(木)17時26分25秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   大国主 弥生時代の神、国土開拓、農業、医術の神様。さらに女好き、女も好きになるキャラ、艶福家、その魅力を利用して各地の女王と結婚しその数、実に180柱、それによって平和的に国の統一にも力をつくしました。

ここに、天穂日が登場します。

 高天原の最高神である天照大神の命令で、天照大神の次男とされる天穂日を天降らして大国主に支配地を譲らせようとさせましたが、大国主に魅力を感じて彼の側についたことになっています。大国主に「媚び諂う」とあります。できれば大国主から葦原中国を譲ってもらいたいとの気持ちはあったのでしょう。それよりも開拓にいそしむ大国主に惚れた、男が男に惚れたというように考えています。それで大国主を徹底的に祭り上げて、実際の権力を横取りしようと企んだのかもしれません。これが神話となっています。
 

戌の話4

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月22日(月)20時36分23秒 ac108236.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  4 空海
空海は宝亀5年(774)四国の善通寺の近くで生まれた。幼名は真魚(まお) といい、大変賢い子供であったので叔父に勧められ奈良の大学に学ぶ。
しかし大学で教えられる儒学では社会の矛盾を解決できないのではと悩む。その時一人の僧と出会ったて、大学をやめ、修験者の中に身を投じて自然の中で荒行を積むようになった。正式に出家したのは20歳の時。やがて空海と名乗る。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵 求聞持法の修行をしていた時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるとされる。
 空海は自然の中で修行をするとともに、奈良の寺院にも出入りして理論的なこ とも学んだ。二十歳前半のころ、経蔵の中で「大日経」を発見、内容 に興奮。しかし、その経を解説できる者は当時日本にはいなかった。彼は中国へ渡ることを決意したとされる。
25歳から31歳頃までの空海の足跡は全く分かっていない。
和歌山市の田福寺の瀧智真住職さんの独特のものの見方。
 空海中国密航説である。大師の若き頃の空白の数年間、また中国へ遣唐使の時の文章、会話など語学等併せて考えると留学以前に一度密航していたと想像できるとの説である。
また渡航に必要 な巨額な費用は、高野山の水銀朱であったと思われる。

空海 は31歳の時、私費留学生として中国へ渡ります。留学の予定は20年間でしたが、実質2年で目標を達成し、帰国します。

さて、若いころに高野山について熟知していた空海には案内人が必要だったのだろうか。このあたりは高野の地を浸食したい空海の弟子たちのでっち上げた物語と思われます。
しかし壇場伽藍に山王院と丹生明神・高野明神が祀られています。丹生都比売神社も同様の神が祀られています。この高野明神の正体は一体何でしょうか。そうです、山の神、弘法大師空海のことだと思われます。
 

戌の話3 

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月14日(日)09時52分27秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  3 『今昔物語』から
 弘仁七年(816年)空海は大和国宇智郡に至り一人の猟師に会いぬ。形面赤くして長八尺許なり、青色の小袖を着せり、骨高く筋太し、弓箭を以て身に帯し、大小二つの黒き犬を具せり。此人大師を見て曰く、我は是南山の犬飼なり、三鈷の所を知れりとて、犬を放ち走らしむるの間、犬も人も忽失せぬ。
 この犬飼を狩場明神とも、また高野明神、高野御子明神とも言う。
南山の南とは
南宮の本山は南方刀美神を祭神とする諏訪大社で、その南宮(下社)を言う。美濃の南宮大社(仲山金山彦神社)は中の宮とされる。児の宮は伊賀の敢国神社、西の宮は摂津の広田神社の摂社の南宮神社をあてる。
 また南山(ナンザン)とは、比叡山を北嶺と呼ぶのに対する言葉で、高野山の別称である。
 さて、空海と狩場明神との出会いは、五條市の犬飼山転法輪寺の場所であったとされる。近くには阿陀比賣神社(阿多隼人の祀る)も鎮座、狩場明神は犬祖伝説を持つ隼人の民であったと思われる。

以下、江戸時代の反仏教の国学者の創作か。
その時、空海と高野明神との間に取り交わされた借用書があったというのです。高野山の神からこの土地を十年間の約束で借り受けた空海は、あとでこっそり「十」の文字の上に「ノ」の字を書き「千年」にしてしまい、高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応
じなかったといいます。
また別の説に千年の借用書で借り受けましたが、白いネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなってしまったということです。

 

『日本人にとって聖なるものとは何か』

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月12日(金)15時35分27秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   奈良大学の万葉学者の上野誠先生の著書『日本人にとって聖なるものとは何か』の中に、鉄野昌弘氏の、持統天皇の有名な歌の解読が紹介されていました。

春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山

春が過ぎて夏がやって来たらしい。天の香具山が真っ白な衣を干しているのか。

としています。昔は山は恋もするし、白い衣を纏うということ。このような考え方を上野先生は古代的思考とよんでいます。
どうも折口信夫もこのような思考法の方だったようですね。
 

戌の話2

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 7日(日)13時56分36秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2.丹生都比売神社と空海
『丹生祝氏本系帳』から。
応神天皇のときに、丹生明神と高野明神に、紀伊国の黒犬一伴、阿波遅国三原郡の白犬一伴が献上された。美濃国より蔵吉人と別牟毛津と云う人の児犬黒比と云う人を犬飼として差遣わした。その子孫は代々天野に住み狩猟を職としていた。
 応神天皇のときに、二柱の神に寄進された山地四至は、東は丹生川上を限り、南は阿帝川の南横峯を限り、西は応神山(紀の川市穴伏)及び星川神勾を限り、北は吉野川を限る地域であった。

応神天皇の時、天野祝が出てくるが、おそらく丹生神一柱が祭神だったと思う。

 丹生都比売神社があまねく知られるようになったのは、高野山金剛峯寺との関係が出来た以降のこと。高野山と丹生神との関係を物語る最古の文献は平安前期の『金剛峯寺建立修行縁起』である。
弘仁7(816)年春、弘法大師空海が霊場を求めて大和国宇智郡まで来たとき、一人の猟師に出会った。それは弓箭を持った大男で、南山の犬飼と称し、霊場の建設に協力することを述べ、大小二匹の黒犬に案内させた。そして紀伊と大和の国境のあたりの川辺で宿泊すると、一人の山民があらわれ、大師は山へ導かれた。その山民こそ山の王、丹生明神で、天野の宮の神であった。大師はこの宮で一宿し、巫祝に託宣をしてもらったところ、丹生明神は自らの神領喜んで献ずると約束したので、大師は6月中旬に朝廷に願い出て許され、さっそく草庵を建てた。以来、丹生明神は高野山の地主神として篤く信仰されるようになったという。縁起は以上。

 弘仁7(816)年、空海は嵯峨天皇に、高野山の地を賜りたい、と上表文を提出した。そこでは「紀伊の国の平原の幽地、高野山こそ、もっとも修禅の道場にかなった地である。」ということを述べ、そして「若かりし時、山林修行の折りに、この高野の地に足を踏み入れたことがある」と述懐している。

高野・熊野の紀伊山地、「異界」であり、里の農耕民とは、異質な人々つまり、修験者や鉱山師、狩人。木地師、鍛冶師など「山の民」と呼ばれる人々の領域であった。
 彼らの中では、大和朝廷に追われて山に入った、まつろわぬ民の血を引く人々もいたようである。空海自身佐伯氏出であり、かつての佐伯はまつろわぬ氏であった。空海はそういった人々と自然に仲間に入って行けた。山の民との緊密なつながりを裏付ける、根拠のひとつに、彼の豊富で正確な地質学的知識が挙げられる。金属資源の豊富な高野山に目をつけていた。

 

戌の話1

 投稿者:神奈備  投稿日:2018年 1月 1日(月)15時32分47秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  あけましておめでとうございます。

1.金属と犬と
『播磨国風土記』の讃容郡の条に、金属文化と「犬」についての注目すべき記述がある。
山の四面に十二の谷がある。どの谷も鉄を産出する。孝徳天皇のとき、はじめて鉄を献上した。鉄の鉱脈を発見した人は別部(わけべの)犬(いぬ)である。

民話 花咲か爺(はなさかじじい) 犬が小判を見つける。
うらのはたけで ポチがなく
しょうじきじいさん ほったれば
おおばん こばんが ザクザク ザクザク
いじわるじいさん ポチかりて
うらのはたけを ほったれば
かわらや かいがら ガラガラ ガラガラ

『鉄山必要記事』
江戸時代に書かれた「たたら製鉄」にかかわる技術書『鉄山必要記事』から。
  金屋子神は高天が原から播磨国に天降り、はじめて金属の道具をつくったが、やがて白鷺に乗り、西に向かい、出雲国に至り、山林の桂の木のうえで休んでいた。数多くの犬をつれた狩人がそこを通ろうとしたとき、犬が桂の木で輝く光をみつけて吠えたてた。狩人が問うたところ、「私は金屋子神である。この地で鉄をつくる仕事をはじめたい」と答えた。
 出雲でのタタラ製鉄の始まりの物語である。
http://kamnavi.jp/it/izumo/kanayako.htm 神奈備の金屋子神社

真弓常忠氏は『古代の鉄と神々』の中で、「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。としている。
 

Re: 王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月18日(月)14時45分4秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.555[元記事へ]

 大国主に絡む色んな伝承が各地に残っています。いくつかを紹介いたします。

 古事記から
 因幡の白兎を助けた話。
  八十神は大国主の兄達で、大国主を従えて八上姫に求婚にいく途中で、川を剥がれた白兎を助け、また八上姫は八十神の求婚を断り、大国主との結婚を宣言しました。

 大国主は何度でも生き返る!「甦り」の神社『赤猪岩神社』
兄神たち(八十神)は、白兎の予言通り八上比売と結婚した大穴牟遅を憎み、殺してしまおうと企んで大穴牟遅を伯耆の手間山本(手前の山麓)へ連れて行きます。

 兄神達は「珍しい赤い猪を山の上から追い立てるので下で捕まえろ。そうしなければ殺す!」と言いつけて、山の麓で待たせている大穴牟遅目掛けて、火で真っ赤に焼いた岩を山の上から投げ落とします。
 転がり落ちてくる真っ赤な岩を猪として受け止めようとしたため、大穴牟遅の身体がたちまちその赤く焼けた岩膚にこびりついて、焼き潰されて絶命してしまうのです(ここ!重要な記載部分です。つまり一度絶命してしますのです)。
 これを知った大穴牟遅の母「刺国若比売命」は嘆き悲しみ、高天原に上り「神産巣日之命(カミムスビ)」に救いを求めたところ、赤貝の神「貝比売」と蛤の神「蛤貝比売」の2柱の女神が地上に遣わされることとなります。大国主を生き返りました。

 その後も八十神は大国主を滅ぼそうとしたので、母神は大国主を須佐之男尊のいる根の国に逃がしました。
 ここで須佐之男の娘の須勢理姫と出会い、たちまち結婚しました。この手の速さは凄いものです。
 それから須佐之男から多くの試練を受けますが、須勢理姫の助けもあってそれを乗り越えて、須佐之男から大国主と名乗り、今の出雲大社の場所に宮殿を建てるようにいいました。

 ヒスイと言う宝石があります。玉(ぎょく)と呼ばれます。新潟県姫川上流小滝川当たりで見つけられています。糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、奴奈川姫に大国主命が出雲から求婚。その際に翡翠を贈ったという神話が残されています。実際に大国主命を奉った出雲大社の真名井遺跡からは、糸魚川産と見られる大きな勾玉が出土しています。

 少名毘古那神がやってきて、二柱の神がこの国を作り固めていきました。

 少名毘古那が去った後、国づくりに協力したのは、海を照らして来た神でした。大和の御諸山に祀られている神です。大物主神です。『日本書紀』には、大国主の幸魂・奇魂(人を愛し育てる力 観察力、分析力、理解力などから構成される知性)とされています。自分が他人に扮して自分に協力したという、神様ならではの話になっています。




 

Re: 王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月17日(日)15時05分12秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.551[元記事へ]

 日本にもよく似た制度があり、天武天皇が唐の制度を見習って導入したとされます。古代には、各国の豪族を国造として地域の支配者としています。その国造の制度が廃止された後も、出雲と紀伊の両国だけは、出雲国造と紀伊国造と名乗ることが認められています。これは服属儀礼をおこなわせるためなどとされています。
 出雲国造は現在でも、国造交替の時に皇室に神賀詞を提出しています。出雲は コクソウ
 紀伊国造も現在でも国造を名乗っています。紀伊は コクゾウ

 出雲と紀伊、この二家が特別扱いされています。この理由をお話します。


 皇室の前の支配者とその前の支配者は一体誰でしょうか。

 大国主と饒速日
前前王朝と前王朝を統合したヤマト朝廷と言うストーリーが浮かびます。

 大国主がこの国の支配者であったことは、国譲りのお話でも伺えることです。大国主とは、この国を農業に適した土地に改良してきた国造りの神として称えられています。各地で多くの人々を纏めてこの辛い作業を成し遂げてきた多くの地方の指導者達一人一人が国主であり、それらを代表する者が大国主と呼ばれたのでしょう。
 『魏志倭人伝』では、日本は 百余国に分れていたとあります。大国主の頃はもっと多かったのでしょう。

 

Re: 卑弥呼はヒミホ

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月17日(日)15時03分28秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.553[元記事へ]

福島雅彦さんへのお返事です。
大三元さんへのお返事です。

 古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)の福島さん、
 アイヌ語の大三元さん、
 言語音痴の神奈備が、両巨頭を煩わしてしまいました。

 卑弥呼は ヒミコ ではない。
 邪馬台国は ヤマタイコク ではない。

 このあたりで・・・・.


 

Re: 卑弥呼はヒミホ

 投稿者:大三元  投稿日:2017年12月17日(日)14時29分39秒 170.103.232.153.ap.dti.ne.jp
返信・引用
  > No.549[元記事へ]

神奈備さん、ご無沙汰してます。

「卑弥呼」の読みに関する私の最近の立場は「ひみを」です。
(万葉集でも「呼」は「を」)
http://www.dai3gen.net/himiwo.htm


> 邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。
「邪馬台」は「やまで」=「やましろ」として考えています。
http://www.dai3gen.net/yamatai.htm
http://www.dai3gen.net/nokagami.htm#yamade

 

Re: 卑弥呼はヒミホ

 投稿者:福島雅彦  投稿日:2017年12月17日(日)13時10分44秒 p3042-ipad03fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.549[元記事へ]

神奈備さんへのお返事です。

> 卑弥呼と邪馬台国のことが書いてある魏志倭人伝はいうまでもなく中国の文献です。古代の中国語でかいてあります。
> 西暦500年ごろまでの中国語の発音は 上古音 といわれます。
> 3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
> われわれが、卑弥呼と呼んでいる女王ですが、このヒミコと言う読み方は
> 江戸時代に定着したようです。しかし「呼」は現在の中国でも「こ」と発音しません。古代から「ホ」という発音です。「こ」平安時代以降の日本の発音で、古代の中国語に適用してはいけません。
>
> 卑 pieg pie pi p?i ヒ甲
> 彌 mier mie mi mi ミ甲
> 呼 hag ho hu hu ホ、でしょう
>
> 邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。

ご無沙汰しております。が、何時も訪問して興味深く拝読しています。
私は、中国の漢字音の正確な復元は必ずしも有効ではない、と存じます。
中国正史の書記官の耳に聞こえた「倭語」の音写(当て字)に限っては、或る程度の揺らぎを考慮すべきか、と。
即ち、彼らの未知の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」を書き留めていますから、近似音的か、と。
例えば「倫敦」、「紐育」の漢字音を正確に復元しても、ネイティブの"London"、"New York"には至らない、と。
「倭人」が何の意味を何と発音したら、彼らが此の文字撰びをするかを考察すべきです。
※「卑彌呼」="?"尊(みこと)の「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」音写と観ます。
*"?"="him"=最高位の意。現代九州弁に残存。
・「ひンの叫(おら)び」=この上もなく大音声で叫(おら)ぶ、こと。
・「ひン投げる」=圧倒的力量の差で相手を投げ飛ばす(相撲などで)こと。
・「ひンだれる」=この上もなく疲労困憊すること。
*「尊」=「水事・米事」で、水稲稲作の統帥者の意。"mikot"の様な発音ではないかと。
私のE-mailのアドレス=himmikot@mocha.ocn.ne.jp は「卑彌呼」に由来しています。
因に、「邪馬臺國」「邪馬壹國」問題もどちらが正しいとか間違いとがではなく、両方とも「倭語」の音写であ、両方とも正しいと観ます。謎が解けないのは、二者択一に陥っているからだと思います。

*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

 

王朝交代

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月15日(金)16時30分17秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   中国は王朝交代の国です。徳を失った王に対し革命を起こして新王朝が発足。これを易姓革命と言います。

 唐という王朝には二王後制という制度がありました 前王朝と前前王朝関係の子孫を優遇するという制度です。
 王朝の初代は賢者であるが、末代は愚か者不肖の者、したがって徳のある人があたらしい王朝を開く、これで王朝が交替する。
 それでも前王朝と前前王著の初代の賢者を尊ぶ意味で後裔を丁重に遇するという制度です。
 唐の高祖の武徳元年(618)に定められました。日本ではこの年は推古二十六年でしす。

 周の武王は、夏の子孫を杞に、殷の子孫を宋に封じました。「二王之後」の故事は直接的には武王に由来します。

 これを行うことで、自らの王朝がいかに「正統」な後継かを主張するようです。
 

「日本の建国史 三替統合の精華」元皇學館大學学長 田中 卓著

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月13日(水)14時08分14秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
   田中卓先生の講義をベースにした話。
 田中先生は皇學館大學の名誉教授で、皇国史観・右翼の中でも最右翼の方と言われています。この先生は、右翼にもかかわらず、女性天皇を認める立場を表明されています。
 その理由は、男系天皇にこだわると皇統が途絶えてしまい、天皇制が維持できないからとの立場からです。

 それに対して、最近テレビによく出てくる竹田 恒泰(たけだ つねやす)さんは、それは天皇制ではない、と言われます。遠くに遡っても男系を探してくるとの立場でしょう。
 竹田恒泰さんは明治天皇の女系の玄孫にあたりますが、男系では崇光天皇の19世子孫であります。崇光天皇(すこうてんのうは、建武元年4月22日(1334年5月25日) - 応永5年1月13日(1398年1月31日))の頃の天皇です。14世紀末の南北朝時代の天皇です。

 一般の人々の中で、皇室に最も近い男系の方は、江戸時代前期の、東山天皇の子孫の方です。
1687年5月6日 - 1709年7月27日東山天皇の皇子の閑院宮直仁親王宝永7年(1710年)に世襲親王家の一つ、閑院宮家を創設する。
華園真準[4]、華園真暢[4] 梶野行淳(歴代当主は男爵)実子の梶野行良さん。
 河内長野の長野神社の宮司をされています。

 現在は、幸いにして秋篠宮家に悠仁親王(ひさひとしんのう)が居られますので、子だくさんんの天皇になってほしいものです。
 

卑弥呼はヒミホ

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月12日(火)21時06分37秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  卑弥呼と邪馬台国のことが書いてある魏志倭人伝はいうまでもなく中国の文献です。古代の中国語でかいてあります。
西暦500年ごろまでの中国語の発音は 上古音 といわれます。
3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)
われわれが、卑弥呼と呼んでいる女王ですが、このヒミコと言う読み方は
江戸時代に定着したようです。しかし「呼」は現在の中国でも「こ」と発音しません。古代から「ホ」という発音です。「こ」平安時代以降の日本の発音で、古代の中国語に適用してはいけません。

卑 pieg pie pi p?i ヒ甲
彌 mier mie mi mi ミ甲
呼 hag ho hu hu ホ、でしょう

邪馬台国はヤマトと発音します。位置論はこれで片付くと思います。
 

Re: ページ下のリンクについて

 投稿者:神奈備  投稿日:2017年12月11日(月)20時03分21秒 ah230151.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  > No.546[元記事へ]

ふぁんトントさんへのお返事です。

ありがとうございます。早速訂正いたしました。感謝です。
 

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