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「浮浪児」、助けなき路上の日々 戦争孤児が見た社会の姿

 投稿者:  投稿日:2018年 8月10日(金)04時54分33秒 KD106128000179.au-net.ne.jp
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  「浮浪児」、助けなき路上の日々 戦争孤児が見た社会の姿
2018年8月9日05時00分
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13628261.html?_requesturl=articles%2FDA3S13628261.html&rm=150
誰も助けてくれなかった――。73年前の終戦後。東京・上野駅など各地の大きな駅には「浮浪児」と呼ばれた子どもたちがいた。親を失った戦争孤児。多くの命が路上に消えた。駅の子たちの目にうつった社会、大人の姿とは。

 ■駅で物乞い・靴磨き…何でもやった

 終戦後初めての冬。当時6歳だった奥出廣司さん(7ログイン前の続き9)=京都府宇治市=は、はだしでふるえながら、京都駅の改札の外に立っていた。

 乗客の顔を見つめて食べ物をめぐんでくれるのをじっと待った。「どうすれば同情してもらえるか、そればかり考えていた」。もらったサツマイモは土を落として生でかじった。2日間、何も口にできないこともあった。

 父と姉(当時8歳)と3人で駅に行き着いたのは1945年11月だ。奥出さんが2歳のときに母は病死。病弱な父は戦後の混乱で職と住まいを失った。2人の子を預かってもらおうと父は親戚を訪ね歩いたが、みな断られた。

 記憶では11月14日。衰弱した父が駅の待合室で倒れた。「こりゃ、もうだめや」。駅員は、かすかに息がある父を担架に乗せ、駅の奥にあった大部屋に運んだ。そして、奥出さんと姉の目の前で「父はゴミのようにほかされた(捨てられた)」。その部屋には何十もの遺体が並んでいた。

 駅員は「ちゃんと火葬するから」と言い残し、立ち去った。涙は出なかった。「大人や社会が助けてくれるなんて考えはなかった。誰も人のことは構ってられない。子ども心にわかっていた」。人を踏みつけても生きていかなあかんと思った。それからは物乞いだけでなく、靴磨きなどできることはなんでもやった。「浮浪児」たちは弱い子から次々と死んだ。

 約3カ月が過ぎた46年、姉と一緒に保護され孤児施設へ。ここから学校にも通った。中学卒業後は住みこみの仕事についたが、孤児であるため足元をみられ、低賃金でこきつかわれた。

 過酷な少年時代に、忘れられない思い出がある。小学生のころ、何度か施設を脱走し、夜道をあてもなくさまよった。亡き母にどこかで会える気がした。はだしで暗い道を行く少年を見かけ、「ぼん、ちょっとおいで」と声をかけてくれた人がいた。閉店間際のおすし屋さんの大将だった。店に招き入れ、おなかいっぱいおすしを食べさせてくれた。そんな一瞬のあたたかな記憶を胸にしまい、生きてきた。

 10種類以上の職を経て、鉄板焼き店「でんでん」を始めたのは25年前。2人の子を妻(78)と育て上げ、いまも夫婦で厨房(ちゅうぼう)にたつ。

 ■多くの死、おにぎり一つくれぬ国

 「本当にたくさん死んでいったんですよ、子どもが」

 金子トミさん(88)=横浜市=は、目に涙を浮かべて、上野駅の地下道や上野公園で暮らした日々を振り返った。

 東京都江東区で育ち、母の実家がある山形県に一家で疎開した。そこで父が死去。終戦の年の空襲で母を失った。

 残されたのは当時15歳の金子さんと小学4年の弟、小学2年の妹の3人。親類の家に居続けることができず、東京に戻って働こうと自宅を目指したが、東京は一面の焼け野原。きょうだい3人は上野駅の地下道で寝起きする「浮浪児」となった。

 夜は地下道の壁にもたれ、両脇に弟と妹を抱えるようにして寝た。「浮浪者」「浮浪児」であふれ、足の踏み場もないほどだった。昼は上野公園の「西郷さん」の銅像のまわりで過ごした。雨風が強い日はトイレの個室に隠れ、和式便器の上に板を渡して3人で身を寄せ合った。

 食事は1日サツマイモ1本。行商の女性から買った。親類からもらったお金が命綱だった。地下道では、朝になっても起きず、そのまま死んでいる子もいた。みな栄養失調だった。「かわいそうで涙がでたけれど、食べ物をあげることはできません。弟と妹を連れて自分も生きていかないといけなかった」

 胸に刻まれているのは国への不信感だ。「政府はおにぎり一つくれなかった、ウソは申しません」。金子さんは幾度も繰り返した。「死んでいく子を見るたび、国の偉い人がなぜおにぎり一つだしてくれないんだろう、どういうことなんだろうって、数え切れないほど思いました。孤児が死んでいくのを知っていたはずなのに……」

 「狩り込み」(行政による強制収容)で捕まったら、牢屋に入れられると信じていた。路上の孤児に食べ物もくれない政府が保護してくれるはずがないと思った。

 地下道の暮らしは数カ月続いた。その後、弟と妹は両親の郷里に別々に引き取られた。金子さんは住みこみの女中に出された。

 いまも当時の記憶で涙があふれる夜がある。行き着くのは「戦争さえなければ」の思いだ。「ひどい言葉ですけどね、もし戦争するって言う人がいたら、ぶっ殺してやりたい。そんな気持ちです」(編集委員・清川卓史)

 ◆キーワード

 <戦後の孤児> 厚生省(現厚生労働省)が1948年に実施した調査によると、全国の孤児総数(沖縄県を除く)は12万人を超えた。内訳は空襲などによる戦災孤児が2万8248人、国外からの引き揚げ中などに親を失った引き揚げ孤児が1万1351人、病死などによる一般孤児が8万1266人など。この12万人余のうち約6%にあたる約7100人は「浮浪の経験がある」とされている。ただ、駅や公園など路上で暮らした「浮浪児」の正確な実態は明らかではない。
 
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